「アウトドア・スキルについて」


1.ヒグマ対策の基本と実践−知床での事例解説−

1)「はじめに」

 ヒグマは人間を一撃で殺す能力を持っています。人間を襲って食う場合もあります。山中を縦横無尽に駆け回り、まさかこんな所には居ないだろうと思えるとんでもない所にも出没する可能性があります。
 北海道内では1962〜2001年までの40年間に、ヒグマによって39名が殺され、63名が怪我を負っています。
 私のホームグランドである知床では冗談でも脅しでもなく、そこら辺からいつヒグマが出てきても不思議ではありません。ヒグマに絶対に出会いたくないと思う人は、知床での野外活動は中止すべきです。しかし、ヒグマと遭遇する可能性、ヒグマに襲われるリスクを減らす方法が全く無いわけではありません。最悪の場合も考慮したヒグマ対策について解説します。

2)「ヒグマとの接触を防ぐための方法」

@突発的なヒグマとの遭遇を避けることが何よりも重要です。ヒグマよりも先に相手の存在を見つけるつもりで周囲に注意を払って下さい。
A見通しの悪い場所ではホイッスルを吹くか、大声をあげるなどして、積極的に人間の存在をアピールして下さい。すれ違う人が思わず失笑するか、変質者と思って身構えるほどに、バカみたいに雄叫びを上げ、笛を吹き鳴らし、耳障りなほどに鈴がリンリン鳴り響くぐらいに音を立てて初めて合格です。
B何らかの原因で死んだエゾシカのうち、骨と皮になっていないものには絶対に近づかないことです。もし発見した場合は、引き返すか、十分に周りを警戒して速やかに立ち去るべきです。少しでも肉があれば、近くにいる可能性があります。同様の意味で、海岸に漂着した鯨や海獣類の死体も危険信号です。春の山菜採りシーズンも要注意です。実りの秋も、山葡萄の多いブッシュや、どんぐりが実るミズナラの林の中を歩く時は要注意です。彼らは独占欲と執着心が強いので、彼らが必死で食事している最中に不用意に近づくと、必ず排除行動、つまり襲撃を受けることとなります。
C仮にヒグマと遭遇しても、十分に距離が離れていれば問題になることは”まず”ありません。あわてず落ち着いて行動して下さい。ちなみに安全な距離の目安は100m以上と私は考えています。
Dグループ行動を取っている場合は、離れてむやみに一人で歩き回らないで下さい。すぐ傍の笹薮の中にヒグマが隠れているかもしれません。
E人馴れした危険なヒグマを作り出さないためにも、食べ残しやゴミを絶対に捨ててはいけません。人間=餌が獲得できると学習したヒグマは非常に危険な存在です。

3)「指導者的立場の者が注意すべき事項」

@ヒグマが頻繁に出没することが知られている場所は、原則としてツアーコースから外す。最多出没地域がイメージできないガイドは、資質を疑われてもしょうがない。
Aコース中に、エゾシカの死骸、ヒグマの餌となる植物の群落、蟻の巣、木の実や果実が多数見られるような場所がありそうかどうか、過去に足跡などのヒグマの形跡がどの程度見られたか、ヒグマとの遭遇の可能性を経験に基づいて相対的に評価し、要注意箇所を事前にチェックしておく。
Bヒグマと遭遇した時に、同行者が適切に行動できるように、基本的な対処方法を学習させておく。
C可能な限り同行者には鈴を着用させ、ホイッスルとベアスプレーも持たせる。ベアスプレーは確実に使用できるように訓練させる。
D行動中は常に視覚及び聴覚による警戒に努め、いち早くヒグマの存在を発見し、同行者に適切な行動を取らせる。
E行動中はベアサイン(糞・足跡・食痕・音・立ち木の爪あと・毛・臭い・第六感)を常時チェックし、必要に応じて行動中止の判断を行う。
F見通しの悪い場所では頻繁に大声をあげ、必要に応じてエアーホーン、爆竹を鳴らす。また、同行者にも大声をあげさせるか、ホイッスルを吹かせる癖をつけさせる。
G落としたゴミは必ず回収しましょう。

4)「ヒグマに出会った場合の基本の対応」

@いつでもベアスプレーが吹きかけられるように、常に練習するべし!
 
ヒグマとの距離があれば、相手が立ち去るまで静かに待つか、ゆっくりとその場から離れることで問題になるようなことはほとんどないと考えられます。手頃な立ち木があれば木に登るのもとりあえずは有効な対策ですが、地面から目の高さまで最低でも4、5mは登らないとクマに引きずり下ろされる可能性が高いこと、細すぎる木に登ると揺すられて落とされる危険性も考慮しなければなりません。
 至近距離で出会った場合にとるべき態度は、相手次第で多少変わるようです。相手が好奇心で近寄って来る場合や、どう行動したらいいのか躊躇しているように見える場合は、ゆっくり後ずさりする、気合いを込めて大声を張り上げる、相手を興奮させないよう静かに語りかける、目をそらさずにじっと立ち止まるなど、いくつかの選択肢のうちで自分がベストだと思える行動を考え、実行する時間的な余裕は十分にあるはずです。
 しかし、いきなり駆け寄られた場合は、瞬時に判断しなければまず手遅れになるでしょう。最初から本気で襲うつもりがなく、直前でストップしたり、方向転換するいわゆる”こけおどし”で済んだ場合はラッキーです。
 不幸にして組み伏せられたらどうしましょうか?選択肢はかなり限定的になります。まず、単に相手が驚いただけで攻撃してきたのであれば、顔面、首筋、腹部を守る体制でうずくまり、相手の攻撃が終わるまで絶対に動かなければ軽症ですむ場合が多いようです。ただし、へたに抵抗した場合や、途中からヒグマの気が変わった場合は、繰り返し攻撃されたり、食害に結びつく事例もあるようです。
 最悪なのは、子連れでバッタリあるいは、獲物の食事中にバッタリのケースで、死亡事故につながる事例が相対的に多く、運が良くても相当の重症を覚悟しなければなりません。ただし、クマの顔面をナタで叩きつける、口に手を突っ込むなど、なんらかの方法で抵抗した結果、結果的に殺されずに済んだと思える事例も多いようです。
 攻撃を受けてもじっとガマンすべきか、徹底的に抵抗すべきか、統計的手法から結論めいたことを述べる人もいますが、ケースバイケースで対応せざるを得ないことは明らかで、机上で結論が出るはずがありません。そもそもクマに至近距離で接触すること自体、クマ対策の基本ができていないと認識すべきです。
 結論として、ベアスプレーの持参をオススメします。最悪を想定するなら、腰にベアスプレーをぶら下げるのは×。目をつぶっていても引き抜けるように右利きの私は、どんなに焦っていても3秒以内に引き抜けるように専用カバーの蓋を切り取ったベアスプレーを左胸にセットし、鈴を取り付けた2m近い木の棒を杖代わりにして歩いています。ちなみに、今のところはヒグマに向かってベアスプレー吹きかけた経験はありません。
A忍び足で近づいて人を襲う確信犯的な凶悪ヒグマ対策は???
 
不幸にしてこのタイプのヒグマに出会って攻撃を受けたとしたら、潔くあきらめるか、あるいは、あきらめきれずにジタバタオロオロしながら力尽きていくか、相手を殺す気で徹底抗戦するか、3つの選択しかないように思います。より効果的な凶悪ヒグマ対策を知っている方は教えて下さい。

5)「ヒグマと遭遇した時の対処マニュアル」

遭遇パターン

最初の対処方法

タイプ別の対処方法

リスクレベル1
@100m以上離れた所にいるヒグマを、相手よりも先に見つけた場合
@あわてずにその場で立ち止まる。
Aそして相手の動きを良く見る。
B襲われる確率が相対的に上がるため、大声をあげて追い払おうとしたり、走って逃げたりしてはならない。
@普通のヒグマは、こちらの存在に気が付けば走って逃げ出すか、ゆっくり遠ざかっていくので問題になることはまず無い。
Aヒグマがリラックスして餌を食っている場合は、その場からゆっくりと静かに引き返すのが無難。
Bヒグマがゆっくり遠ざかっていく場合は、完全に相手の姿が見えなくなるまで、音を立てずにじっとして動かなければ問題になることはまず無い。
Cこちらに気付かずに近づいてくる場合は、注意を要する。可能であれば、樹木や岩などの適当な障害物の陰に隠れて、ヒグマの進行方向を静観する。
Dそれでもヒグマの接近が止まらない場合は、ギリギリの安全距離と考えられる50mを切る前に「お〜い」などと掛け声をかける。通常はヒグマが遅かれ早かれ、立ち去るので問題になることはない。
Eただし、立ち去らない場合は人馴れしたヒグマの可能性が高く、リスクレベル2のB以降の対処が必要である。
リスクレベル2
A100m以上離れている所にヒグマがおり、すでにこちらの存在に気付いている場
@あわてずにその場で立ち止まる。
Aそして相手の動きを良く見る。
B襲われる確率が相対的に上がるため、大声をあげて追い払おうとしたり、走って逃げたりしてはならない。
Cベアスプレーを準備する
@その場で立ち止まって警戒しているヒグマの場合、視線を外さずにヒグマが立ち去るまで待つ。通常はヒグマが遅かれ早かれ、立ち去るので問題になることはまず無い。
Aこちらを無視する感じでゆっくり接近してくるヒグマの場合は、人馴れしたヒグマの可能性が高く、慎重な対応が求められる。
Bベアスプレーを持っている場合は、念のために安全ピンを抜いていつでも噴射できるように準備しておく。
Cギリギリの安全距離と考えられる50mを切る前に「お〜い」などと掛け声をかけても接近してくるヒグマの場合は、たいていの場合は、餌を探しているなど、進行方向を変えたくない彼らなりの理由があるので、大声を上げて追い払おうとしても全くの無駄である。
Dその場で立ち止まってヒグマが通過するのを待つか、ヒグマの進路との交差を避けるため、ゆっくりと移動しながら相手に進路を譲るのが無難である。たいていの場合は人間を無視して立ち去るので問題となることはほとんど無い(このタイプのヒグマはイダシュベツ川からタキノ川にかけての海岸線で頻繁に見られる)。
Eごくまれに、こちらを見ながら慎重な感じで接近してくるヒグマがいるが、興味本位でしつこく付きまとう好奇心旺盛な危険なヒグマか、何らかの理由で排除行動に出ようとしている危険なヒグマの可能性が高い。
Fこれらのタイプは高度に慎重な対応が求められるケースで、重大な事故に発展する可能性があることを覚悟した上で、リスクレベル3のA以降の対処が必要である。
リスクレベル3
B50mから100m程度の距離にヒグマがおり、こちらの存在に気付いているにも関わらずどんどん接近してくる場合
@身が隠せる樹木や岩などの適当な障害物を探し出し、すぐにでも逃げ込めるように準備をしておく。
Aベアスプレーの安全ピンを抜いていつでも噴射できるように準備しておく。
リスクレベル4
C25m未満の距離で突発的にヒグマに遭遇した場合
@ヒグマが逃げ出すか、ヒグマが突進してくるかで対処方法は全く異なる。
Aヒグマが逃げ出した場合は幸運である。
B不幸にしてヒグマが突進してきたとしても、途中で反転する場合も多いらしい?(ブラフチャージ)この場合は不幸中の幸いである。
Cもしかしたら耳の動きで本気で襲うつもりかどうかが判別できるかもしれないが、不幸にしてそのヒグマが、本気で襲うつもりで突進してきているのであれば、選択できるカードの数は極端に少ない。考えられる対処方法は以下の通りであるが、ヒグマの存在を認識し、取るべき行動を判断し、行動に取り掛かるまでに残された時間があまりにも短すぎるため、実行に移せる方法は限られてくるだろう。
※私の経験では3秒程度の時間内に対応策に取り掛かかり始めていないと手遅れになると思われました。
D瞬時に大声で威嚇する。
E襲撃を受けた時のダメージをできるだけ軽減するために、樹木や岩などの適当な障害物を瞬時に探し出し、その陰に瞬時に逃げ込む。
Fベアスプレーをホルダーから瞬時に引き抜き、安全ピンを抜いて、ヒグマの鼻面に向けて構えて噴射する。ちなみに攻撃を停止させる効果は9割程度らしい。
Gヒグマの動きを見極めながら、相手の攻撃(張り手、噛み付き、引っかき、体当たり)をかわしながら、隙を見て目や鼻、口の中などに狙いを定めて、ナイフ、木の棒・素手などを突き刺す、突っ込むなどして抵抗を試みる。
H襲ってこないように祈る。
リスクレベル5
Dヒグマに組み伏せられた時の対処方法
@攻撃パターンとしては、即死の事例の多い一時的に立ち上がってからの張り手、骨を簡単に砕くことのできる力があり、特に頸部は致命傷になる噛み付き、刃物並の鋭さを持つ爪での引っかき・引き裂き、そして腹部(内臓)を中心とした食害がある。
A致命的なダメージを可能な限り避けるために、首の後ろで手を組んで頸部を守り、頭とヒザを曲げて腹部を守る防御体制を取りながらうずくまる。
B一時的な攻撃だけで済めば良いが、執拗に攻撃を受けるようであれば、殺される可能性が相対的に高い。このような場合は素手でもいいからとにかく目や鼻、口の中などに狙いを定めて徹底抗戦すべきである(ちなみに私は組み伏せられた経験はありません)。
C最後のカードは自分の運命を甘んじて受け入れるしかないだろう。

6)「私のヒグマ遭遇体験記」

 基本的にクマは人間を恐れているので、人間の存在をあらかじめアピールすることによって事故は回避できる!これが日本国内での熊対策に関する通説です。私も以前はこれを信じきっていたので、比較的安心して山歩きを楽しんでいましたが、知床のクマとの付き合いの中で、これは全くの嘘!と考えて、今ではビクビクしながら山を歩いています。
 20年以上前の秋の日、知床岬に近い番屋の軒下でキャンプした夜の出来事です。番屋の沖合を漁船が眩いライトを付け、エンジン音と演歌を響かせながら、ひっきりなしに航行する騒がしい夜でした。しかし、そんな人間臭さには全く意を解さないかのように、ヒグマがテントのすぐ近くに座りこんで2時間も見物?していったのです。ヒグマの爪が時々石を引っ掻く音を聞きながら、大型ナイフを握り締めて過ごした時間の長いこと長いこと。襲ってきたら先制攻撃あるのみと考えていましたが、アドレナリンが体中を駆け巡り、体が完全に硬直してしまっては、襲われても十分な反撃はできなかったと思います。
 それから数年たった夏、カヤックに乗ってカラフトマスを釣りに知床岬の先端部の川に行きました。河口に群がる魚を前に、夢中になってルアーを投げ込んでいた時のことです。ふと振り向くと、ヒグマがノソノソ歩いているではありませんか。その距離、最短で10m程度。幸いにも私を完全に無視して通過したので、命拾いしたとホッとした反面、なぜ私が完全に無視されなければならないかと考えさせられました。
 知床岬先端部に番屋を構えている漁師さんによると、ヒグマが番屋の中を覗きこみに来るのは、日常茶飯事のことだと平然として話してくれました。孵化場関係の人からは、釣り上げた魚をかすめ取りにくるクマがいたために、恐怖のあまり海に飛び込んで逃げたのはいいけれど、あまりの寒さに死ぬ思いをした釣人がいたとの話を聞いたこともあります。

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全く人を恐れない知床のヒグマとその尻を追っかけるカメラマン

 過去の人類との関わりの中で、ヒグマは人間を恐れるという遺伝的形質を受け継いできたと考える説もありますが、私が紹介したように、人間を全く恐れていないかのような行動を取るヒグマが知床には少なからずいること、そして、もし、彼らがその気になれば、何時でも人間を簡単に殺せる力を持っているということを、肝に銘じておく必要があります。
 北米のクマ対策のマニュアルには、テントを張る場所の選定や、炊事をする際の注意事項、食料の保管方法など、非常に詳細に管理手法が書かれています。しかし、クマ対策に絶対確実がないのも事実です。クマが出没する可能性が完全に0%だと断言できるような場所なら話は別ですが、人間を積極的に好んで襲うようなクレイジーなクマと遭遇するかもしれません。とてもヒグマは出ないだろうと思えるような所でも決して油断をしてはいけません。知床ではどこからヒグマが出てきても不思議ではないと考えるべきです。
 知床先端部には予想以上に多くの釣り人や観光客が訪れますが、中にはゴミの投棄や餌付け、撮影目的の過度の接近など、不適切な対応を平気でとる人間が相当数いるのではと思われます。これらの行為は、完全に人馴れし、人間の存在イコール食料の獲得を意味することを学習した、非常に危険なクマを作り出す可能性をより高くします。私が知床に行く時に最も恐れているのは、このタイプのクマに襲われることで、殺されてしまったとしたらまさしく人災だとしか言いようがありません。それでは、結局どうすればいいのでしょうか?どうやらその答えは、ヒグマに殺されることもありうるというリスクを受け入れ、心の中で覚悟を決めてから奥地を目指すしかないようです。

@2002年10月20日
 
午前11時頃、金山川と遠音別川に挟まれたやや見通しの悪い尾根上を、ザックに大型ナイフと鈴をぶら下げ、数分おきに笛を吹きながら単独で歩行していた時のことです。パキッと笹が割れる音がした方向に目を向けると、約20mほど離れた笹薮の中に、頻繁に出会うエゾシカとは違う黒くて大きな塊、つまりヒグマがいるのです。至近距離で出会うという決定的なミスを後悔する時間すらなく、「クマだ!デカイ!」と思ったまさに一瞬、そのヒグマに一直線に駆け寄られました。圧倒的な攻撃力を弱めなければならないと即座に判断し、近くの立ち木の影に体を瞬時に滑り込ませ、木を盾にしながら、相手の次の出方に備えることにしました。その時、相手に対する威嚇の感情が爆発し、無意識のうちに大声で咆えてしまいました。ほんの一瞬の間を置き、ドスドスと重量感のある振動と荒い息を吐きながら、馬鹿でかいヒグマの黒い尻が笹薮の中を駆け抜けていくのを見て、とりあえずは助かったと思いました。念のため大声を張り上げ続け、駄目押しで爆竹に火をつけて投げ込み、しばらくヒグマがUターンしてこないか耳を済ませて警戒しましたが、幸いなことにヒグマが戻ってくることはありませんでした。
 ヒグマの突進は、今から思うと単なる威嚇だったような気もしますが、重症では済まない悲惨な結果になっていた可能性のことも考えると、ただただ幸運だったと胸を撫で下ろしています。今回のニアミスでは数多くの反省材料を得ることができました。そして、ヒグマに襲われるリスクを取りたくないのであれば、やはり家の中でじっとしているしかないと再認識しました。

A2003年9月23日
 
午前8時30頃、岩尾別川の支流を歩いていた時のことです。約100m前方の沢の中を黒い塊が跳ね回っているのです。そのヒグマは比較的若い個体で、カラフトマスを狙って走り回っているわけでもなく、ただ単に飛び跳ねるのを楽しんでいるだけのように私には見えました。歩き初めて10分ほどでいきなりヒグマに出くわすのは明らかに幸運とは言いがたいのですが、気を取り直してすぐ近くのカツラの大木の根元に隠れて音を出すことにしました。もちろん、人間がいることを理解させ、立ち去ってもらうためです。
 そのヒグマはエアホーン、笛、叫び声、爆竹のいずれの音にも素早く反応し、いずれの音にも興味を示して、音の正体を見極めようとするかのように慎重に近づいてくるのです。カツラの木から離れると、興味を示してにじり寄られそうに感じたので、木の根元から相手の様子を伺いながら、ベアスプレーを握り締め、こっちにくるな!こっちにくるな!とひたすら願うことにしました。正確に言うと、この方法以外にリスクの低いヒグマ対策が思い浮かばなかったのです。
 これ以上接近されると、本当にヤバイ状況になるぞと覚悟しなければならないと思う距離で、やっと相手は向きを変えて、ゆっくりと斜面を登り始めました。相変わらず興味津々でこちらを見ては何度も立ち止まり、視界から消えるまで相当の時間がかかりました。さすがの私もそのまま突き進むことをやめ、その場でUターンしたのは言うまでもありません。

B2004年4月4日
 
早朝、知床五湖近くの林道を歩いていた時のことです。子連れのヒグマの新しい足跡が林道を横切っていました。知床では別に珍しいことではないので、さして気にも留めずに先に進むことにしました。しばらく歩くと、同じヒグマ達と思える少し古い足跡が林道を横切っていました。さらに進むと、同じヒグマ達と思える新しい足跡が林道に沿って、私の進行方向と同じ方向に向かってベタベタと続いていました。つまり、彼女達の足跡を私が追う形になったのです。真新しいヒグマの足跡を追いかけるようにして歩くことはよくある事ですが、ヒグマに追いつくような経験はありませんでした。しかし、今回だけは追いついてしまいました。約100m先に親グマがノソノソと歩いているのです。小グマの姿は見えませんが、どうも近くにいるような気配が感じられます。冬眠明けで腹が減りすぎて、フラフラしていて力が出ないといっても、子連れの親グマはあまりに危険で、いつ襲われても不思議ではありません。すぐにベアスプレーを引き抜き、安全ピンを外してしばらく様子を見ることにしました。しばらくたって、やっと相手が私に気付いてすぐに走り出しました。視界からは消えたものの、待ち伏せされていないだろうか、こっちに向かっているのではないかと思いながらも、笛を吹き鳴らし、雄叫びを上げて、突き進むことにしました。やはり、彼女達の姿を見ることはありませんでした。

C2005年8月21日
 
この時期になるとシーカヤックに荷物を積んで、知床半島先端部の自然の中で静かなキャンプを楽しむために、ある場所にテントを張って何日か過ごすことが恒例となっています。詳しい場所は伏せておきますが、朝の散歩をかねて、いつものように釣竿を持ってカラフトマスを釣りに行った時の出来事です。数千尾のカラフトマスの群れを横目に川の流れ込みを目指して歩いていると、若いヒグマが向こう側からこちらに向かってブラブラと歩いてくるのです。100mほどの距離を置いて彼または彼女は立ち止まり、明らかに困った表情をしながら私を見ていました。その時点で私はすでに、安全ピンを抜いたベアスプレーの噴射レバーに指をかけて相手の出方を待つ体制でいました。もちろん彼または彼女と同じように困った表情を浮かべていたに違いありません。しばらく間をおいて私との視線を外し、川の流れ込み付近まで移動し、下を向いてゴソゴソし始めると、ヒョイとカラフトマスの死骸を口に咥えてイタドリが密生する斜面に消えていきました。カラフトマス釣りに少し未練があったので、しばらくイタドリの斜面を眺めていましたが、少し時間を置いて藪の中から彼または彼女が出てきたと思ったら、またカラフトマスを咥えて同じ斜面に消えていきました。これ以上、食事の邪魔をするのは明らかに仁義に反すると思いなおし、早々にキャンプ地に戻ることにしました。

D2006年4月9日
 
その大グマの存在を知ったのは4年前の春のことでした。金山川中流でたまたま見つけたそのヒグマの足跡は、知床でもめったに見ることのない巨大なものでした。背中が痒かったのか、腹這いになって滑るのが気持ち良かったのかは分かりませんが、彼は雪の斜面にわざわざニ回もズルズルと滑った跡を残していました。あまりにもユーモラスな仕草を想像し、とても楽しい気分になったものです。
 それから4年経って、彼に再び出会ったのです。といっても実物は見ることはできませんでしたが、あまりにも巨大な足跡は彼に間違いありません。彼の歩幅はスキーを履いた私の歩幅とほぼ同じ。普段出会うヒグマであれば、左右の前足を結ぶ線の中心点と左右の後足を結ぶ線の中心点との距離は1.5mを越えることはまずありません。しかし、彼は少なくとも1.7mを越えているのです。
 彼は、4年前とほぼ同じコースを歩いていたと考えられます。つまり、金山川中流付近の越冬穴を早々に抜け出し、山越えしてまず遠音別川に出ます。そして、川沿いに下って下二股付近の森でエゾシカを襲って空腹を満たし、しばらくその場に留まっていたものと想像できます。そして、林道を雄叫びをあげながら歩いている人間が通過するのを待ってから、新たな獲物を求めて歩き出し、エゾシカの臭いがする急斜面に消えて行ったのです。
 至近距離では遠慮しますが、絶対に彼に会ってみたいと強く願っています。

E2007年6月3日
 
私はどちらかというと忘れっぽい性分で、ぬかるんだ林道を無理して車で突っ込んで何度も痛い目に会っています。今回は初めての林道でもあったので、無理せずに大きな水溜りの手前に車を止めて、歩いて偵察に行くことにしました。
 切り株も多いのですが、鬱蒼とした清々しい印象を受ける森の中に続く林道を10分ほど歩いたでしょうか?キリがないと思ったので引き返すことにしました。
 方向転換してすぐに枯れ枝が割れる音がしました。100mは離れていたでしょうか?林道から見下ろす位置にある沢型地形に視線を向けると真っ黒なヒグマがスタスタ歩いているのです。
 さっき来た時にも何度か「?」を感じましたが、その原因がヒグマによるものだったことを理解すると同時に、声を出して相手を刺激するのはどうやら得策ではないと思ったこと、ベアスプレーは車の中にあり、いざという時に反撃する手段がないこと、私とヒグマの進行方向が同じで、進路をふさがれたり、しつこく車に興味を持たれれば車に戻れなくなる可能性があるため、相手が立ち去るまでじっとしてやり過ごすのもあまり良い選択肢ではないと思ったこと、そして、恐らく私のほうが先に相手を見つけており、ヒグマより高い位置にある林道上は死角になって見えないはずで、走って車に戻るほうがベターであると一瞬で判断しました。
 ヒグマを確認してから2秒後には私はその場所から走り出し、息を切らすこともなく無事に安全圏まで走り切ることができました。今回は、幸運にもヒグマが追いかけてくることはありませんでした。しかし、常識としてヒグマは逃げるものを反射的に追いかけるという習性があり、最悪の場合、追いつかれて殺されるかもしれないという重大なリスクを引き受けることに同意した上で、あえて私は走ることを選択したことと、その判断が正しいものであったのかどうか今でも自信が無いことを最後に付け加えておきます。

F2007年8月24日
 見落としてしまいそうな小さな川の流れ込みに、相当数のカラフトマスが集まっていたので、カヤックから降りて釣りをすることにしました。何度もルアーを投げるのですが、あまりにも成熟が進みすぎて全く釣れる気配がありません。
 あきらめムードが漂い始めた頃に、部分的に金髪が混じる若いヒグマがどこからともなく出てきたことに気が付きました。距離は50m以内。慌てずにすばやく河口から離れ、カヤックに乗り込むことにしました。しかし、そのヒグマはいつも出会うタイプとは違うように感じられました。たいていの場合は、人間を無視して餌を探し始めるのですが、明らかにそのヒグマは私を意識しており、ジリジリとプレッシャーをかけるように近づいてくるように感じられるのです。
 本気で突進されると間違いなく逃げ遅れる至近距離にヒグマがいるので、一刻も早く沖に出たいのですが、そんな時に限ってスプレースカートが外れてしまいます。やっとの思いでスプレースカートを付けても、今度は岩に挟まって沖に出られません。必死で押し出してやっとカヤックが波間に滑り出したとホッとする間もなく、砕けた波が次から次へとやってきて、今度はヒグマのいる方向にカヤックごと私を押し戻そうとするのです。
 そのヒグマは河口に戻ってしばらくマスを探していましたが、すぐにあきらめて川の上流に向かって消えていきました。そのヒグマの表情から、「ここはおれのなわばりだぞ!おまえ出て行けよ!」と言われていたように私は感じました。

G2007年8月21日及び23日
 
キャンプ1日目の夜10時半頃、テントがガサガサ揺れる音で目が覚める。残念ながら夢ではなく、何者かがテントに寄りかかってきている。テントを踏み潰すほどの巨漢ではないが、重みでテントが変形していることから、犯人はおそらくヒグマなのであろう。テントを引き裂いて私を襲うつもりはないように感じられたが、明らかにヤバイ状況にあることだけは間違いない。
 すぐにヘッドランプを点灯し、あらかじめ用意していたパドルで押し返すと幸いなことに立ち去ってくれた。そして、少し時間を置いて外に出て確認したが、しつこくつきまとってくる様子はないように感じられた。
 断片的に残っていた足跡から想像すると、波打ち際を歩いてきた四つ足の動物は、私が食事をしていた場所から、近くに置いていたカヤックやタープ、少し離れた食料の保管場所には立ち寄らずに、真っ直ぐにテントに向かってきたように推測された。
 この場所でテントを張るのは6シーズン目になるが、今まではヒグマの気配を感じたことはなかった。だが、今回は、もしかすると夜中にヒグマの訪問を受けるかもしれないと予測していたのだ。
 理由はニつある、無人の壊れかけた番屋のそばにテントを張ろうと上陸してすぐに、番屋の背後に広がるイタドリが密生する斜面で何者かが動く音を聞いたのだ。エゾシカだったのかもしれないが、ガサガサと1回きりだったが音がしたのだ。
 ちなみに、周囲を歩いて見た限り、ヒグマの足跡や糞、獣道、それにカヤッカーによる不適切なキャンプの形跡、海獣やカラフトマスの死骸など、特に注意すべきサインは見られなかった。
 もう一つは、番屋の石垣から湧き水が出ているのだが、おそらく昨年9月の大シケによって、土砂が洗い流されて、今まで地中に染み込んでいたものが水溜りができており、もしかすると様々な動物が水飲み場として利用するようになっているかもしれないと感じていたのだ。
 いつものように、テントの中には食料や匂いの出る物品は持ち込まず、食事はテントから離れた波打ち際で作って食べ、食事の際に着ていた服や食料はテントから離れた位置にまとめて放置するか吊るして保管し、ゴミは全て焼却処分してからテントに潜り込んだ。
 もし仮にヒグマに襲われた時のことを考えて、壊れかけた番屋の中にテントを張り、初めに攻撃を受けることになると思われる面に足を向けて寝転び、そして、目をつぶっていても絶対に迷うことなく確実に使用できる位置にヘッドランプ、ベアスプレー、ナイフを準備しておき、さらにいざと言う時に反撃するために2つに分割したパドルを1本手元に置いて寝ることにした。
 幸か不幸か、私の予測はズバリ的中し、全く迷うことも焦ることもなく、ハッと目が覚めてから数秒以内に行動することができたのだ。
 この場所で3泊する予定だったが、さすがに連泊して悠長に寝ていられそうもないので、早々に撤収して帰ろうかとも考えた。だが、再びやってくることはないだろうと思ったので、キャンプを続行することにした。しかし、結果的には私の読みと願望は外れて、3日目の夜も何者かの訪問を受けることになった。
 夜通し起きて警戒するのも現実的ではないので、2日目以降の追加の対策として、ロープや棒切れでテントを囲うことによって、動物が無理に近づこうとすると派手な音がするようにしていたことと、釣り糸を周囲に張りめぐらし、これに接触すると鈴が鳴るように工夫することにした。
 そして、3日目の夜、前回よりも少し早い午後10時前に釣り糸を使った警報装置が作動した。直ちに怒号を上げると、侵入者は素直に退散してくれたのである。
 反省点すべき点として、サンダルの底面を介した臭いの拡散を全く考慮していなかったこと、食事場所とテントの距離が近すぎたのかもしれないことのニ点が考えられた。
 今回私が体験した出来事は、単独行者だったからこそ起こったことなのかもしれない。しかし、知床の海岸線でキャンプする際に、好奇心旺盛な若いヒグマの行動範囲と重なってしまった場合、人数に関係なく多人数のグループであっても、いつでも起こりうる出来事であることとして注意していただきたい。

H2008年9月14日
 
原生林トレッキングでの出来事です。いかにもマイタケが出そうな雰囲気を醸し出しているミズナラを探しながら森を歩いていました。一瞬の残像しか脳みそに刻まれていないのではっきりしないのですが、斜面上部の立ち木の横から、こちらを覗き込むようにして顔だけ出しているように見える「真っ黒い小柄な物体」が視界に飛び込んできました。おそらく200m程度は離れていたと思われます。
 反射的に近くに親熊がいるかもしれないと思いつつ、後からのんびり歩いてくるツアー参加者のTちゃんに「ヒグマや!」と鋭く叫んで回れ左!。急いでその場から立ち去ってもらうことにしました。幸いにも追いかけてくる様子はなかったので良かったといえば良かったのですが、もしものことがあるかもしれません。
 パニックになったり息切れして歩けなくなったら困りますのでTちゃんには言いませんでしたが、もう少しペースを上げろ!もっともっと急いで歩け!と言いたい気持ちを抑えて、ハラハラドキドキしながら安全圏内まで逃げ込みました。
 もしかしたら切り株を見間違えただけだったのかもしれませんが、一瞬の判断の遅れを後悔するよりも、切り株にビビリながら逃げ帰ったほうがマシです。それに正直なところ、子グマであることを確かめる余裕もありませんでした。
 十分に距離を離して、見晴らしの良い場所で周囲を警戒しながら昼食。予定を打ち切って急な尾根を直上して帰路につくことにしました。
 尾根を登り切り、小ピーク上に達したので休憩でも…と思っていたら、足元の別の尾根筋から小ピークを目指してガサガサと藪を掻き分けて何物か登ってくるのです。もちろん頻繁に大声を上げたり、エアホーンを鳴らしながら歩いていたので、その未確認動物はそれらの音を確実に聞いていたはずです。それでも近づいてくるような動物といえばヒグマしか考えられません。
 直ちに怒号を上げて威嚇すると、その未確認動物はゆっくりと遠ざかって行きました。
 ツアー参加者のTちゃんに感想を聞いてみました。自分ではかなりドスを効かせたつもりで発した力一杯の怒号も、「どちらかというと弱っちい犬が精一杯吼えているような感じだった」との談。う〜ん、適切かつ「かっちょいい」対応だったと思ったのですが…。

2.食う技術(準備中)


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