長屋王

 

 天平10(738)年7月10日。奈良・平城京の役所の一隅で、二人の男が

碁を打っていた。1人は従八位下・大伴(おおともの)宿禰(すくね)子虫(こむし)。もう1人は外従五位下・

中臣宮処(なかとみのみやこの)連東人(むらじあづまひと)である。東人は9年前に起きた事件について、自慢話を

始めた。

「長屋王はな、さる方に請われて我が誣告(ぶこく)したのよ。そのお陰で我は、無位の

身から外従五位下の官位と、10町の田を得たのよ。」

 誣告とは、無実の者を讒言によって罪に陥れる事を言う。これを聞いた子虫

は激怒した。

「我は長らく親王様に仕へし者。うぬの誣告、許すまじ。」

子虫は傍らの剣を抜き、東人に斬りかかった。子虫の激怒はすさまじく、東人

はその場で斬殺された。

 聖武天皇初期の宰相・正二位左大臣・長屋親王が、ひそかに「左道」を学び、

国家を呪詛していると、東人と従七位下・漆部造(あやべのみやつこ)君足(きみたり)の2人によって誣告

されたのは、神亀6(729)年2月10日の事だった。

 誣告を受けた式部卿・従三位藤原宇合(うまかい)は、ただちに三関を閉ざし、六衛府の

兵全軍を率いて長屋親王邸を包囲した。三関とは、伊勢国鈴鹿関、美濃国不破

関、越前国愛発(あらち)関の事で、国家内乱を想定した第一級戦闘体制というものもの

しさだった。名も知れぬ2人の言葉からの行動だとすれば、出来過ぎた危機管理

と言える。

 翌11日午前。宇合の兄、正三位中納言・藤原武智(むち)麻呂(まろ)や、舎人(とねり)親王、新田(にいた)

()親王らが窮問使として長屋親王邸に入った。長屋親王は武智麻呂らに、強く

無実を訴えたに違いない。左道とはこの場合、道教の呪術を指す。長屋親王が

中国の神仙思想を学んでいた事は事実だが、天皇を呪詛したり謀反を企てる

ような動機は無い。

 武智麻呂は、呪詛の証拠として呪いの人形を提示し、事の真相に迫ろうとし

たであろう。聡明なる長屋親王は、これが武智麻呂や宇合ら藤原4兄弟が仕組

んだ茶番であり、いくら否定しようとももはや逃れられぬ謀略である事を察した

に違いない。彼は妻の吉備内親王、膳夫(かしわで)王、葛木(かつらぎ)王、鉤取(かぎとり)王、桑田王という

4人の子に、窮問使が用意した毒を飲ませた後、自らも服毒して自尽した。

自尽とは、天皇から死を賜るという意味である。

 長屋親王と吉備内親王の遺体は、生駒山にうち捨てられた。内乱罪適用の

事件だったにもかかわらず、長屋親王に(くみ)したとされる上毛野宿(すく)奈麻呂(なまろ)ら7人

が流罪になった以外、ほとんどの者は許された。安宿(あすかべ)王、黄文(きぶみ)王、山背(やましろ)王な

ど、長屋親王と藤原不比等の娘との間に生まれた子もおかまいなしとされた。

右大臣藤原不比等は、武智麻呂や宇合の父である。

 この長屋王事件から半年後の8月5日。藤原不比等の三女・安宿姫は、聖武

天皇の皇后となり、元号が神亀から天平に改められた。ややこしいのは、聖武

天皇の母・宮子も、不比等の娘だからである。光明皇后からみると、夫の母は

実の姉という関係になる。

「表は天皇家だが裏は藤原家」という政治の始まりである。長屋親王は、この

光明皇后の立后に強く反対した。それゆえ謀殺されたのだと見るのが、普通の

解釈だろう。

 では誰が事件を計画したのか。窮問使の武智麻呂は、深く仏教を信仰してい

る温雅な文人。宇合は20歳で遣唐副使として唐に渡り、帰国後は長屋親王の

文学サロンに出入りしていた文人である。政治の権謀術数からはやや遠い。

計画者はおそらく、武智麻呂の弟・正三位参議・藤原房前(ふささき)だと思われる。

 房前は養老5(721)年10月24日、病床の元明天皇から、「汝卿房前、

まさに内臣(うちつおみ)となりて内外を計会し、勅に準じて施行して帝業を輔翼し、永く

国家をやすんずべし」との詔を賜った。内臣とは、祖父・藤原鎌足が天智天皇

から任じられた特別官職である。房前は表向き従三位参議という、比較的低い

官職にありながら、裏では天皇に準じ、右大臣長屋親王をも超える特権を与え

られていたのである。

 さて、天平の時代だが、諸国は旱魃や疫病に苦しめられた。聖武天皇はしば

しば大赦の詔を発し、善政を心がけていた。しかし疫病の流行は続いた。

 そして、長屋親王の自尽から8年後の、天平9(737)年4月17日。事件

の主謀者だった藤原房前が、疫瘡(天然痘)によってあっけなく世を去った。続

いて7月13日、参議兵部卿・藤原麻呂も疫瘡で急死。7月25日、右大臣・

藤原武智麻呂死去。8月5日、参議式部卿・藤原宇合死去と、藤原不比等の

4兄弟が短時間で次々に死んでしまったのである。

 聖武天皇は、疫病と4兄弟の死を「長屋王の怨霊」のせいだと思った。確か

にそうとしか思えないほどの連続死だった。聖武天皇は怨霊に恐怖し、苦悩し、

魂の救済を仏教に求めた。それはやがて、全国に国分寺・国分尼寺建立し、

東大寺に大仏を建立するという国家事業になってゆく。壮大な大仏建立の背景

には、聖武天皇の底深い恐怖があったのである。