■ 白いそば
ソバの実は中心にはもろくて白い部分,周辺に固くて茶色い部分があります。製粉能力の高い大きな電動臼で碾けば,白い部分も茶色い部分も一緒に粉になります。
しかし、軽い手碾き臼で、あるいは重い電動臼でも上臼下臼の隙間をあけるなどして製粉能力をわざと弱めて碾くと,中心のもろくて白い部分だけを粉にすることができます。これが一番粉、あるいは更科粉(さらしなこ)とよばれている白いそば粉です。
白いそばは、この白いそば粉で打ちます。だだこの白いそば粉には粘りがほとんどないので,生粉打ち(十割)は湯ごねや友つなぎなど特殊技法を使わないと打てません。
■ さらしなそばとは
さらしなそばは白いそばのことと一般に言われていますが,地方によっては普通の蕎麦や黒いそばをさらしなそばと言っているところもあります。
食材事典やそば事典によると,さらしな粉は,以下のように説明されています。
一番粉,御膳粉,御前粉ともいい,更科粉,更級粉とも書く。そばの実の中心部を粉にしたもので,デンプン質が多い。語源としては,
@信州更級地方発祥説
A晒したように白いから説
B「さら」の「しな」説
「さら」は今でも新しいとか初めて使うものに使います。初めに出てくる品(しな)ということで一番粉のことです。
いろいろな説があるのがややこしそうです。
■ そばが白いとはどういうことか
ソバ殻を取り除いた抜挽のそば粉で打ったそばは薄茶色です。まあこれは今ではごく普通のそばです。またソバ殻のついたままのソバの実を碾いた粉で打ったそばば真っ黒になります。
一言で「白いそば」といっても,何をもって白いと言っているのか実にあいまいです。たとえば真っ黒なそばしか食べたことのない人が、もしソバ殻を取り除いて碾いた粉で打ったそばを見たとしたらどうでしょう? 普通の薄茶色のそばであったとしても「白い!」と思うのではないでしょうか。
古い記録に白いそばと書いてあっても、本当に純白だったのか。白いそばの起源をたとってみるとこの問題にぶちあたります。
■ 18世紀の中頃の江戸では
18世紀の中頃に書かれた『蕎麦全書』(日新舎友蕎子著)の記述から考察してみます。
同書によれば,以下のことが分かります。
- 友蕎子さんの好み抜挽のそば粉は,きれいに殻をむいたそばの実を挽いた粉であること。普段真っ黒なそばを食べていない友蕎子にとっては,ふつうの薄茶色のそばを白いと表現することは,まず無いであろうと思われる。
- さらしなそば,更級蕎麦の記述がありますが,さらしなそばが白いそばだという記述は無く「信州そばのことならん」と説明しています。ということは,さらしなそばは信州そばの代名詞だったと思われます。 ちなみに同書でさらしなそばで有名としているそば屋の屋号は「甲州屋」です。
- 御膳そば,御膳そば粉の記述はあるが,白いそばあるいは白いそば粉という記述はなく,ていねいに謹製されたもの,高級なものという意味で使っています。
- 湯ごねや友つなぎに相当する技法を紹介している。つまり一番粉を使って18世紀中頃の技術でも白いそばを打つことは可能だったということです。また普通のそば屋では,5割以上小麦粉を混ぜるのが当り前であったことも書いてあるので,いわゆる白いさらしなそばを打つ事はそう難しいものではなかったと思われます。
- 18世紀中頃、 雪巻そばという白いそばを出す店があった。が,すぐに雪巻そばはやめて普通のそば屋になってしまった。
製造技法としては可能でも,白いそばでは営業的には難しかったのかもしれません。白いそばが商業ベースに乗るのは、18世紀末に 江戸の麻布永坂に店を構えた信州更科蕎麦処布屋太兵衛が,大名屋敷への出前というビジネスモデルを確立してからのことになります。
■ 道光庵の白いそばはさらしなそばだったのか
ネットでいろいろ調べていると道光庵で出していたそばが白かったというのを見つけました。しかもそれが蒸しそばだったいうのです。
道光庵はそば屋ではありません。お寺です。正式には浄土宗一心山極楽寺称往院寺中道光庵といいます。
享保年間から半世紀以上そばで有名な寺として知られ,安永6年1777年『富貴地座位』という江戸,京都,大坂の名物のランキング本に江戸そば部門1位になると行列まで出来るようになり,ついに1786年,称往院から寺の静穏を妨げるとして「不許蕎麦」の処分を受けました。
ちなみにそば屋が店の名前に庵を付けるようになったのも,道光庵にあやかったものといわれています。
菊岡沾涼(キクオカセンリョウ)という俳人が1735年頃書いた『続江戸砂子温故名跡誌』に「生得,この庵主,蕎麦切を常に好むが故に自然とその功を得たり。当庵僧家の事なれば,尤も魚類を忌む。絞り汁いたって辛し。これを矩模とす。粉潔白にして甚だ好味也。」とあるそうです。
原典に当たることが出来なかったので,これだけがたよりなのですが,潔白がはたして白い一番粉(更科粉)を指すのか,それともそば殻を碾きこまない上等な粉を指すのか分かりません。
道光庵については『蕎麦全書』もかなりの紙面をさいて説明していますが,「そばの盛替が少なく箸なしで食べる」と,まるで椀子そばのような描写もあるのですが,そばが白いとの描写はありません。
それらのことから道光庵で使っていたそば粉は,さらしな粉ではなくて、そば殻を碾きこまない上等な粉であったのではないかと思います。
出典は分からないのですが蒸しそばだったというのもどうかと思います。
蒸しそばについては詳しい製法が残っていないので,我流なのですが,試してみました。
小麦粉を少しでも混ぜると極端にまずくなりますが,そば粉100%ならけっこう美味です。普通のそば粉なら,香り,甘みが強くサクッという感じの歯ざわりは,好む通人もいるのではないかと思います。しかし更科粉では不味くは無いけど評判になるほどかなという感じでした。もし更科粉を使ったそばなら蒸しそばは無いと思います。
■ なぜ更科そばの更科が更級ではなく更科なのか
永坂更科総本家布屋太兵衛という更科そばの名店があります。戦後,店ものれんも人手に渡してしまいましたが,直系の御子孫が別に更科総本家ののれんをかけていらっしゃいます。御子孫が伝える布屋の由来をネットでいくつか見つけることが出来ましたが,ちょっと微妙なのですが私なりに検証してみました。
- 創業は1789年寛政元年で店名は信州更科蕎麦処布屋太兵衛
- 永坂に屋敷があった保科(ほしな)家という大名屋敷に信州布を売るために出入りしていた布屋太兵衛はそば打ち名人であった。
- 保科家の殿様に白いそばを献上。殿様に大そう気に入りられそば屋になることを勧められる。
- 保科家の殿様に,さらしなの「しな」の字に保科の科の字を使うこと許可された。
というのが多くのHPの共通点です。
ここで疑問なのが大名の保科家です。HPでは保科家が信州高遠(たかとう)藩主とするもの,信州更級地方の領主とするもの,会津藩主とするもの等いろいろありました。
保科家はたしかに信州高遠藩3万石の領主であったこともあります。しかし永坂更科布屋創業の百年まえに会津23万石の藩主となり名字も松平に改めています。
松平を名乗っている殿様が、はたして「保科家の科の字をやる」などと言うでしょうか? そこでちょっと横道にそれますが保科家について調べてみました。
■ 保科家
高遠の保科家といえば,保科正之(1611〜1673)が有名です。正之は2代将軍徳川秀忠が浮気してもうけた隠し子です。徳川秀忠の正妻は江ですから,そのあたりの事情はそのうちNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」でもくわしくやるかもしれません。
さてその正之ですが高遠藩保科家に養子にだされます。徳川家への遠慮からでしょうか,保科家は家督を徳川秀忠の子である正之にゆずります。もともと保科家には正貞という若様がいたのですが,養子の正之が藩主となったので、居場所のなくなった正貞は家出して浪人になります。
そして高遠藩保科家の藩主となった保科正之ですが,徳川秀忠の子、家康の孫である事が認められて,会津藩23万石へと大出世。正之の死後にはなりますが,1696年になると名字も保科から松平に改めます。
そうなると、保科家が途絶えてしまうことになるので、諸国を流浪していた正貞は,徳川家直参3000石旗本として召し抱えられます。そしてその後,上総国飯野藩1万7千石があたえられ,大名となり保科家再興をはたします。ちなみに上総国飯野藩は現在の千葉県富津市にあたります。
ちなみに、 飯野藩保科家の江戸屋敷は永坂にあったそうです。そんなこんなを考えると、「保科家の科の字をやる」と言った殿様は上総国(千葉県)飯野藩の殿様だったにちがいありません。
永坂更科が開業した1789年当時,飯野藩は7代目藩主保科正率(まさのり)です。出入りの商人と気軽に話を交わすとは,なんとも気さくなお殿様です。
上総国飯野藩保科家も遠く先祖を遡れば信州高遠に縁があるといえばいえないこともありません。とはいえ更級地方は信州の北部,高遠は信州の南部。信州のような山国では結構な距離です。
そう考えると保科の殿様と布屋太兵衛さんに地縁があるようには思えません。出身地については保科家や布屋を無理から信州に結び付けようとしているような気もします。
■ 蜀山人の食べた白いそば
変わりそばで有名な足利一茶庵の創業者で,昭和のそば打ち名人,片倉康雄さんは,蜀山人が多摩川川普請の役人だったとき,日野本郷の佐藤彦右衛門宅で真白いそばを馳走になり,いたく感銘したことを書き残している。これが最も古い真白いそばの記述であると著書の中で書いております。
蜀山人は歴史的有名人ですから説明には及ばないと思いますが,多摩川川普請役がいつ頃のことか調べました。1801年から大坂銅座勤務,江戸に戻ることなく1804年から長崎奉行所勤務で1808年江戸に戻り玉川巡視役をつとめています。
50歳すぎて地方に飛ばされ,数えで60歳になって田舎回りとは,いろいろあったんだろうなと思いますが,また横道にそれてしまうので興味のある方は御自身で調べてもらうとして,注目すべきは,蜀山人ほどの世俗にどっぷり浸かった文化人でも,60になるまで白いさらしなそばを食べたことが無かったということです。
「更科のそば好けれど高稲荷 森を眺めて二度とこんこん」蜀山人が永坂更科布屋さんでそばを食べたときに詠んだ狂歌です。たぶん日野の佐藤家で真白なそばをよばれたあとに,更科そばを食べにいったのでしょう。
■ まとめ
以上のことを踏まえ,想像力を働かせてまとめると,
- 1750年以前から一番粉を使った白いそばはあった。
しかし,営業的には難しく,趣味的なそばのような形で細々と作られていた。
- 1789年布屋太兵衛で一番粉を使った白い更科そばが大名家や有力寺院を顧客として営業的に成功する。その成功には上総国飯野藩保科家の存在が大きい。
- 1808年頃世間の白いそばの認知度も高くなり,日野あたりでも役人のもてなしに真っ白いそばが出されるようになる。
- 白いそば,更科そばが世間一般に広まったのは,1800年頃から1808年頃で,蜀山人が江戸を離れていた頃に一致する。
- 一番粉を使った白いそばが更科そばと呼ばれ,一番粉を更科粉と呼ぶようになった。
- それまで信州そばの代名詞だった「更級そば」が音も同じであること,布屋さんが
信州更科蕎麦処を名乗ったのも更科と更級が混同する原因になったものと思われる。
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