行きなさい

2015年3月1日) 岩河敏宏 牧師


女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

                    (ヨハネによる福音書8章11節)


①石で打つ
 この聖書箇所は、ヨハネ福音書の中でも独特の表現が用いられていることから、おそらく編集期に加えられた挿入句と言われている。その意図とは何だろうか。姦通の罪を問われた女が現行犯で連れてこられた。律法の規定によると姦淫の罪を犯したものは、「男も女も共に必ず死刑に処せられる」とある(レビ20章10節)。しかし、この場に相手の男は連れてこられなかった。律法学者たちは、イエスが「神の意思に背くかどうか(律法を予言通りに守るのか)」を試すためにに作為的に状況を作り出したといえる。「律法によるならば、この女は石打ちで殺されるのは当然だ。お前はこの女を助けるのか」と考える律法学者たちに対してイエスは、「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と語るのである。
 この言葉は、律法を盾にして自らの本心を隠す律法学者たちに、自らの責任を問う言葉である。ここで投げつける“石”とは、イスラエルの民が偶像崇拝を行った際、モーセが怒って砕いたとされる“律法の書かれた石板”を象徴している(出エジプト32章19節)。律法とは本来、神のみを神とするための物であり、その象徴である石で罪人を打つ殺す行為は、神に責任を転嫁し、神をないがしろする行為であると言えるだろう。
 イエスの言葉を聴いた者は、自らが抱える思いの矛盾に気づかされた。彼らが石を投げずに立ち去ったのは、神から逃れるためではなく、律法のせいにせず、神のせいにしない、神の前で正々堂々と歩んでいく姿勢なのである。

②行きなさい
 私たちは、正々堂々と神に向き合っているのだろうか。辛い出来事に遭遇する時、神のせいにして、心から神を賛美して礼拝を捧げているのだろうか、と自らに問い掛ける。その時に「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」というイエスの言葉が響いてくる。「道を逸れる(罪)ことなく神に通じる道を歩みなさい」と促される。「行きなさい」という言葉は、既に私たちの前に道が備えられていることを意味している。信仰の先達たちが歩み踏み固めた神の真理に通じる道を、私たちも正々堂々と歩いて行くために、神に誠実な思いで臨んでいきたい。