あなたがたを遣わす 

(2015年4月5日)岩河敏宏牧師 


イエスは重ねて言われた。あなたがたに平和がある様に。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。

                                       (ヨハネによる福音書20章21節~22節)

 

①イースターの出来事

イースター(復活祭)、ペンテコステ(聖霊降誕日)、クリスマス(降誕日)の中でイースターを初期キリスト教会においては、最も重要としていた。イースターとは、イエス・キリストの復活を記念する時である。

私たちが自分にとって特別な出来事を想起する時には、起こった日時、場所、状況などを鮮明に記憶しているものではないだろうか。しかし、このイースターの出来事を各福音書で比較すると、復活したイエスに出会った場所も時間も、状況もそれぞれ違うことに気づかされる。中でもヨハネ福音書では、復活のイエスに出会ったのは、墓の前ではなく閉められた所の只中であったと記している。ヨハネ福音書が強調しているこのことは、具体的な状況ではなく、弟子たちの心情を示したものである。弟子たちは、自分がイエスの弟子であることを人々に知られたくなかった。だからこそ、自分たちの枠の中にじっと閉じ篭っていた。そのような不安の只中にいる弟子たちのところにイエスは来て下さって、「あなたがたに平和、平安があるように」と語り、出会って下さるのである


②あなたがたを遣わす。

 私たちはどのようにしてイエスと出会うのか。4つの福音書で、それぞれ復活のイエスと出会う状況が異なるのは、イエスと出会った場所や時間が大切なのではなく、イエスと出会ったというその事実が最も重要なのだということを表している。「イエスは手と脇腹をお見せになった。(そこで)弟子たちは、主をみて喜んだ(20)」とあるように、イエスが傷跡を見せるまでは弟子はイエスだと分からなかったことを示唆している。つまり、私たちが自発的に主に出会うのではなく、神の働きによって私たちの心の目が開かれた時、初めて復活のイエスに出会うことができるのである。それは私たちの理性を越えた、神の霊の恩寵に他ならない。22節では、主が息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい。」と勧めて下さる。それは命の霊を吹き入れられて初めて人間が生きる者となることを表している。弟子たちもここで霊を受けたからこそ、イエスのことを隠していくあり方から解放され、また主の福音を宣べ伝える者へと遣わされて新しく生きていくことができたのである。

 主は私たちにも、霊の息吹を与えて下さる。それはイエスが一人ひとりとそれぞれに時も場も異なる形で出会った下さるということである。私たちは、自分自身の言葉で、自分だけの主との出会いを力強く証していくものでありたい。