命の光

(2015年4月26日)岩河敏宏牧師

 

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

ヨハネによる福音書8章12節

 

①孤独の只中で

 私たちキリスト者は、礼拝において神を礼拝し、神の存在を伝える使命を担っている。私たちが語り伝える神とは何か。イエスはご自身を「私は世の光である」と言われた。光とは何か。ヨハネ福音書1章には「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(4節)とその本質が記されている。私たちを根源から生かし、自分を見失う時、神に通じる道を示すものである。私たちが見出すのは、自身の内にある弱さや醜さに気付き、孤独の中で自分自身と深く向き合う時だと聖書は語る。

 聖書に於いては、創世記のアブラハム、ヤコブもまた孤独の内にある時に「あなたと共にいる」と言って下さる神に出会うのである。イエスの歩みは、まさにそのようなものであった。イエスは虐げられ、孤独の内にある人と共にいて、声を掛け手を差し伸べて、共に食事をして下さるのである。しかし、イエス自身に焦点を当てて聖書を見ていくと、イエスもまた、十字架につけられるまでの歩みは孤独であったと言える。

 

②命の光

 私たちは孤独を拒む。いつも誰かと共にいることを望んでいる。それは概してその場限りのもので、私たちの命に触れる関係ではない。その様な関係性は、必ず終わりがあり、また寂しさに苛まれて限りがない。神は孤独の内にある人、「神の祝福はどこにあるのか」と自問自答する姿に寄り添って下さる。一人であっても天を仰いで歩んでいく。その信仰の歩みに神の示す道は輝いているのである。

「私は世の光である。」光とは、私たちが生きる道を見出していくために必要な物である。イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」(11章6節)とも言われている。利己的で自分本位な私たちが、真に神と出会うためには、イエスを通らずには到達できない。私たちの本質的な弱さ醜さに寄り添い、生かして下さる神に出会っていこうとすること、私たちの気付きの為にいつも手を差し出して下さる神の存在に触れることが真の礼拝なのである。私たちは、イエスが示された「命の光」を携えて共に信仰生活を歩んでいきたい。独りであるからこそ、他者の弱さに寄り添われたイエスの様に、私たちも他者に寄り添っていく