自分を見つめて

2014年8月10日) 岩河 敏宏 牧師


主よ、神々の中に/あなたのような方が誰かあるでしょうか。誰か、あなたのように聖において輝き/ほむべき御業によって畏れられ/くすしき御業を行う方があるでしょうか。

       (出エジプト記15章11節)


①相反する記述
 エジプト記の15章は、神に対して相反する記述が併記されている。前半部(1節~22節)は、エジプト軍の追撃により絶体絶命の窮地にあったイスラエルの民を、奇跡的な仕方で救出された神に対する賛歌が記されている。エジプト軍を葦の海で撃退して下さった神に、最大限の感謝と喜びの歌が連ねられている。その核となる賛美を冒頭に記した(11節)。後半部(22節~27節)は、葦の海を出発して三日の旅程で飲み水が尽きた時に、神が遣わしたモーセに「何を飲んだらよいのか」と不平(つぶやき)を言い、神への不信感をあらわにする(24節)。
 出エジプト記の記述に従えば、わずか三日の間で私たちの神に対する信頼は、全く違ったものになるという。私たちは、果たして、それは極端な主張だと退けることが出来るのだろうか。


②自分を見つめて
 出エジプト記の編集者は、神によって救い出された民であっても、人間の力では全面的に神への信頼を構築することの難しさをここで記しているように、私には思える。人間が本質的に持っている自己中心性に起因する“弱さ・醜さ”を、個の努力だけで克服することは可能だろうか。
 先週、二日間の日程で保育士の夏期研修会に、役員として参加した。研修会の講師は、止揚学園理事長・園長である福井達雨先生であった。止揚学園設立当初(1962年)から現在に至るまで、社会基盤は整備されてきているが、障がいをもつ子どもや家族に対する人的な支援や調和といった課題は一向に進展しない。物事の体裁(目に見える事象)に関心や意識はあるが、本質的なもの(目に見えない心の領域)に対する意識は希薄である。また、自分の立場や権利は主張するが、相手を思いやる感性(優しさ)が育つ環境は後退している、という趣旨が語られていた。
 私たちは今の自分を見つめて「確認する」、という作業が必要である。神を大いに賛美した民が、わずか数日で手のひらを返したように不平を言う。そこには自分の立場からでしか物事を見ない民の姿があった。その姿は今の私自身と重なる。救いの神に信頼し、そこから抜け出る歩みを今しなければならない。