ひとりではない

2014年8月31日) 塩見 和樹 伝道師


わたしの魂は主を待ち望みます。
見張りが朝を待つにもまして
見張りが朝を待つにもまして。
イスラエルよ、主を待ち望め。
慈しみは主のもとに
豊かな贖いも主のもとに。


       (詩編130編6節~7節)


①登場人物の心情
 ここに登場する人物は、名前も年齢も性別も明らかではないが、この人物の心情ならば読み取ることが出来る。1節「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。」この“深い淵”というのは、物理的な暗闇のことではなく、心の底、つまりこの人物は、絶望に苛まれ苦しんでいるのである。5節では「御言葉を待ち望む」とあるように、この人物は、主の救いを深い絶望の底から待ち望んでいるのである。ただ絶望に打ちひしがれて祈るしかない。この人物は、待つことの出来る人物ではなく、待つことしかできない人物なのである。

②本当の辛さ
 私たち人間は、この登場人物のように、辛い時、苦しい時に祈りを捧げる。しかしなぜ祈りを捧げるのだろうか。なぜそうまでして今、辛い思いをして待たなければならないのか。何が私たちをそこまで辛くさせているのか。それは私たちの悩みに、苦しみに、孤独に寄り添ってくれる神の存在を、私たちが求めているからなのではないだろうか。イエスもまた人の孤独に寄り添う存在であった。イエスは辛い人と、苦しむ人と、“共にいる”ということを徹底した人物なのである。


③共に待つ
 この聖書の人物は、主による救いを一人で待つしかなかったのか。7節には「イエスエル(の民)よ、主を待ち望め」と記載されている。この人物は一人苦しみに耐えながら救いを待つのではなく、同じように苦しみを感じている仲間と共に待つ道を選んだのである。孤独の苦しみ寄り添うことが出来るのは神様だけでも、イエスだけでもなく、私たち一人ひとりもまた他者の孤独に寄り添うことの出来る存在であることを今日の聖書は語っているのである。きっとそこには苦しみは苦しみとしてあるけれども、その苦しみを共に分かち合って生きていけるという喜びがあったのではないだろうか。
 6節にある、見張りにとって朝が来ることは、恐怖、責任、不安からの解放であり、何よりも心待ちにしている喜びである。朝日が必ず来るように、主の救いも必ず来る。私たちも苦しみの内にある時、この教会の中で、共に苦しむ仲間と共に、主の救いを待ち望みたいものである。きっとそこには悲しみも苦しみをあるけれども、そんな悲しみや苦しみを大きく超えた喜びがあるのではないだろうか。