一つにされて

2014年10月5日) 岩河敏宏 牧師


十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました

                (エフェソの信徒への手紙2章16節)


①平和と敵意
 世界聖餐日は、世界中の教会が共に聖餐を守り、教会が主にあって一つであることを覚えるために定められた。教会は世界中に広がり、風土や文化がそれぞれに違う中で、言葉や礼拝形式も異なった背景を持つようになった。それぞれに歴史も、伝統も、組織のあり方も、神学的な強調点も違う。しかし、イエス・キリストを告白する教会は、総てキリストにあって一つというのが基本理念である。
 しかし、パウロがエフェソ書を記した時代(紀元62年頃)においても、さまざまな対立や課題が教会内に存在した。割礼を受けているユダヤ系キリスト者たちは、未割礼の異邦系キリスト者に対して『割礼のない者』と蔑んで呼んでいた(11節)。一方で異邦系キリスト者は、伝統的な律法主義的傾向の強いユダヤ系キリスト者に対して、表面的な文字に囚われ律法が霊的なものであることを(ローマ書7章6節)軽視していると反論する。このように、同じキリスト者でありながら敵意を持って自己主張し、結果として教会を分裂の危機にさらしている両者の平和(和解)のためにパウロは大いに腐心する。

②一つにされて
 私たちは目に見える表面的な部分で他者を評価し、目に見えない物事の本質(真理=神の義)に心を留めることをしない。イエスご自身も、表面的に辻褄を合わせるだけで本質のない行いを偽善として『真実で隠れたことをみておられる神が報いられる』と言い厳しく批判する(マタイ6章1節~18節)。また、『律法を廃止するためではなく、一点一画も消え去ることなく、完成するために私は来た』(マタイ5章17節~18節)とも発言され、神の御心を行う際に自分の都合で加減することを警告する。この両者にあるのは、神をも欺こうとする人間の自己中心性と傲慢である。
 パウロもイエスの発言を念頭に、『イエスの十字架を通して、敵意の壁を取り壊し、文字に縛られた律法を廃棄し、双方が神を中心に一人の新しい人として和解する』(14節~16節)と説き、イエスの十字架に繋がる必要性を強く主張する。
 果たして、私たちはどうだろうか。教会内の各グループや個人は、各々に違った役割を担っている。互いが競合するのではなく、イエスの十字架を中心に組み合わさって一つにされて聖なる神殿を築きたい。