主の鍛錬

2014年11月2日) 岩河敏宏 牧師


また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
主から懲らしめられても、
  力を落としてはいけない。
なぜなら、主は愛する者を鍛え、
子として受け入れる者を皆、
  鞭打たれるからである。」

                (ヘブライ人への手紙12章5節~6節)


①励ましを受けて
私たちは自らの人生を振り返る時、乳児期・幼児期・児童期・青年期そして現在に至るまで、いずれの時期においても厳しく教育を受けてきた、という体験や記憶を持っている、という方が多いと思う。また、教える立場に立ってみても、親として・教師として・先輩として・友人として人の前に立つ時に敢えて厳しく指導してきたという方もおられると思います。その場合に、指導する相手が他人ではなく我が子であったり、愛情を注ぐ子弟である場合はなおさら厳しくなってしまう。それは、他者になくより大きな期待や可能性を見ているからとも言える。ヘブライ人への手紙12章もそれと同様で、11章に挙げられた多くの先達が最期まで忍耐を持って信仰の証を成したのは、イスラエルに対する神の深い慈愛があればこそである。塚本虎二は12章5節を『また、(親がその)子に話すようにして話される(神の)励ましを忘れてしまっている。─“わが子よ、主の訓練を軽んずるな、処罰されるときに、ひるむな。』と訳し、困難な道程も励ましを受けて完走できるのだと勇気付ける。

②主の鍛錬
 「主の鍛錬を軽んじてはいけない」(5節)「これを鍛錬として忍耐しなさい」(7節)「もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば」(8節)と記されている“鍛錬”という言葉は、本来は“教育”という意で用いられる。つまり、今歩んでいる厳しい道程は、自らにとって無意味なものではなく、神の教育的配慮のもとにあるというのが著者の主張。この考えはヘブライ人への手紙だけでなく、新約聖書全般に渡って幾度となく記されている(ローマ5章3節~5節、Ⅱコリント1章3節~7節、ほか)。
 私たちは、できれば困難な道程を回避して主の道を歩みたいと願う。しかし、それぞれの人生を省みて頂くと、自身が強く神の救いを意識し、祈り求め、神の救いを覚えるのは、むしろそのような局面においてではないだろうか。主の鍛錬は、私たちの個人的な弱さに対して成される教育的な愛情を含む訓練なのだ。