主は我らの救い

2014年12月7日) 岩河敏宏 牧師


その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。

                    (エレミヤ書33章16節)


①逆境の中で
 預言者エレミヤは、エルサレムの復興という希望の預言をどこで語り、どのような状況であったのか。それは33章の1節に書かれている。「主の言葉が再びエレミヤに臨んだ。このとき彼は、まだ獄舎に拘留されていた。」エレミヤは、獄中にあってこの預言をしたのだ。バビロニア帝国によって南王国ユダが滅びるであろうと、エレミヤが預言をしたときに、ユダの王ヒゼキヤが「なぜ、お前はこんなことを預言するのか」と、彼を逮捕拘留したのである。つまり、「お前は非国民だ」と逮捕されたのであった。強国の圧迫を感じたヒゼキヤは、このときにこそ神に信頼を置くことを説くエレミヤを遠ざける。私たちも同様のことを繰り返している。
 エレミヤは、ユダの王に捕らえられ獄中にあるという逆境の中で、神によって示される希望(幻)を臆することなく語る。それは、主なる神が、私たちを等しく救い出したいと考えている証といえる。

②主は我らの救い
 その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。」ここには救い主到来の預言がはっきりと書かれている。「正義の若枝を生え出でさせる」、これはイザヤ書にも「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、…弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」(11章1節~4節)と記されており、イザヤも共通する希望を見ていた。
 彼らの生きている時代は、木々が切り倒され、人々が打ち倒され、荒廃した町にはもはや切り株しか残っていない状態であった。ところが、そのような荒廃した町の、切り株から若枝が生え出でるとエレミヤは預言する。硬い樹皮(現状への諦め)を打ち破り、若枝が芽生える。切り倒された木にの希望があるのなら、私たちにも神は希望を…。「その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう」(16節)という預言から約500年を経て、ベツレヘムの町に幼子イエスが生まれたことを私たち知っている。主が預言者を通して語られた約束は、成就するのである。