受け入れがたい要求
(2012年1月22日) 岩河 敏宏 牧師
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
マタイによる福音書 5章44節
T. 受け入れがたい要求
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。この言葉は、聞く者にとても大きな驚きと戸惑いを与えてきた。また、私たちはこの言葉を誤解してきた、とも言える。イエスのこの教えは、普通には受け入れがたい要求であり、文字通りに実行することは不可能なことを言っているからである。自分に敵対する者を、どうして愛さなければならないのか。また、愛することができるのか。
“自分の兄弟”や“隣人・友人”なら愛することができるのか?“兄弟や隣人を愛する”ことさえも、私たちにはあやしい、と言わざるを得ない。考えれば考えるほど、これは受け入れがたい要求である。
しかし、このように考えている私たちは、無意識に、自分が神の側にいる、と思っていないだろうか。旧約聖書の詩編をヒントに、「敵」という言葉を探ると、神を信頼して従う者に対して、「傷つける者」「罠を仕掛け穴に落とす者」という印象を受ける(7編、9編、35編など)。この「敵」というイメージは、果たして誰の姿なのだろうか。
U. 敵(私)を愛する方がいる
福音書に記されているイエスの受難物語を読む時、様々な人間の姿が描かれている。己の保身を最優先にするピラト。己の旧約律法解釈を絶対視し、イエスへの称賛に嫉妬する律法学者たち。自分の願いを叶える人物がメシア(救い主)だとする群衆。土壇場で己の弱さに屈し、師であるイエスを残して逃げ出してしまう弟子たち。これらの姿に自分自身が重なる。
私たちは、みな神に背いて生きてきた。最後まで神を信頼して従ったイエスに対して、「傷つける者」「罠を仕掛け穴に落とす者」の歩みをしてきた。私たち自身が神の敵だったのである。
それなのに、なぜ私たちが神を「父」と呼ぶことが赦されているのか?それは他でもない、神の御子イエスが、私たちの代わりに十字架につかれたから。
もし、神が、「敵」(命を軽視し傷つける者)をただちに滅ぼす方であったとしたら、私たちはとっくに滅びていた。しかし、神は、イエスは、そうはされずに「敵」である私たちを徹底的に愛された。
私たちは、敵を愛される主を、仰いでいる。だとしたら、“汝の敵を愛せよ”とは、主なる神を、イエスを愛することであり、神の創造された命を愛することに、他ならない。
(2012年1月29日) 木村 拓己 伝道師
しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが導かれてなされたということが、明らかになるために。
ヨハネによる福音書 3章21節
T. 神の愛の測り難さ
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3章16節)
独り子は神の胸にしっかりと抱かれ、離れるなど考えられない存在でありながら、それを神は成された。これは「親」として、愛のために受けた大きな痛みの経験。まして「世」という言葉を考える時、神の愛の測り難さとその深さを思わされる。それは、新約聖書で記されるほとんどが、神またはキリストに対立する立場(1章10節)を意味するからである。
大きな痛みを抱えながら神は、その独り子を犠牲として差し出した。これは突発的に目の前の誰かを守るというものではなく、すべてを理解した上で痛みと向き合い、歩み出される神である。そしてキリストもまた、その痛みへ歩み出される。それは、世を裁くのではなく救うためであったからである。にもかかわらず、結果として世への裁きとなってしまった(3章19節)。
私たちはこのことを問いに立て、キリストにおいて神の愛が示されたことを、今一度想い起さなければならない。そして裁き手の神と裁かれることに怯える私たちという構図ではなく、世を救いたいと願う神とそれを拒絶してしまっている私たちの構図を。
U. 導かれるままに
神は世を愛し、どのようにすればすべての存在を導くことができるかという問いを立て、できることをすべて成された。神の愛という真理は、初めから終わりまでイエス・キリストと深く関係する。「真理を行う者」(21節)とは、神の愛と結びついたそのキリストへと無条件に身を委ねることであり、それが「光の方に」(同上)歩みだしていくことである。ここには、導きという受動にとどまらず、委ね、行い、歩み出す能動性がある。
私たちは社会に生きる一人として、喜びや悲しみを語る一人であり、聞く一人であり、そして理解する一人である。神の愛を語るという大きな枠組みにとらわれず、もっと絞った所で、他者と共に歩んでいく群れでありたい。神の愛は、言(ことば)は、現実に生きる私たちに働きかけ、その生活とをリンクすることを要求する。
礼拝を終えて、神の言の実践の場の始まりは教会であり、集められた個人の信仰が積み重ねられ、広がって南大阪教会は形成された。創立記念を前に、今一度、示された一つひとつの神の愛を心に刻みつつ、どのように主を表す一人となれるかという問いを、みんなで立てていきたい。