孫氏三代(184/03)「広き庭園」
私の名は劉良媛。今年で十五だ。
細陽という邑(まち)に住んでいる。
邑で劉さんの大屋敷はどこだと訪ねたら、邑の誰でも喜んで答えてくれるだろう。
それどころか、この汝南郡で一番、大きな家だから、この郡の人、誰もが知っていると思う。
私はその屋敷に住んでいる。その家の長女だから。
人々はこの屋敷の大きさに驚くだろうけど、私としてはどうせなら庭園をみて驚いてほしいって思ってる。もっとも、外からだと高い塀が邪魔でその中の庭園なんて見えないんだけど。
お父さまはお客さまを我が家に招くとき、必ずこの庭園を見せているみたい。庭園に私がいると、お父さまとお客さまが二人そろって歩いているのをよく見かける。
この庭園の真ん中には、おっきな池がある。庭園には季節に合わせた綺麗な花やいろんな草木があるけど、私の好みは俄然、この池だ。ちょうど綺麗な色合いに澄んでいて、それに蓮の葉の濃い緑や水面に映る枝垂れ柳の淡い緑が全体の色彩をひきたてる。
朝、昼、夕、それに晴、曇、雨、さらに春、夏、秋、冬、それらの組み合わせでいろんな色を見せてくれる庭園、それからこの池が大好きだ。だから、私は池のほとりにある屋根のある台座に、いつも、いる。ここで、お客さまと談笑したり、一人で琴を弾いたりするけど、ただ池を見てるだけでも私は飽きることがないんだ。
そんなふうに、琴を弾く手を少し休め、池を眺めている春の終わりのある日のこと。
見知らぬ男の人が辺りを眺めながら池のほとりを歩いていた。私はその人がお父さまのお客さまだと思っていた。その男の人は私にまだ気付いていないようだ。
その人は池のへりに沿って歩いていた。こちらにゆっくり向かってくる。私の目の中で、その姿が次第に大きくなっていく。水面からの輝きがその姿を照らしている。すらりと静かに歩いてくるのが見える。服はゆったりとしてて真っ白だけど、領(えり)や袖口が黒く縁取りされて、お腹あたりから青紺色の刺繍が施された絹をたらしている。そうだ、同じような服装の人と何度か会っている。この人は県府(やくしょ)の人だ。
やがて、その人は私に気付く。そして、こっちを見て近づきながら、端正な顔をわずかにほころばせて、手をあげる。
「やあ、君はここの人か?」
その人の声は私の元へさわやかに響いてきた。県吏(やくにん)だから、もっとおじさんだと思っていたら、とても若い人だ。二十歳ぐらいかな。
「私はこの家の娘です。あなたのお名前は?」
あれ、おかしいな。私の口からは意外にも親しげで落ち着いた言葉がでていた。お客さまじゃなかったら、「誰ですか? 人を呼びますよ」みたいな言葉を出せるはずなのに。それというものの、一瞬、その人がこの庭園の人に見えたからだ。背景の輝く池とその人とはとても合っている感じ。
私のそんな混乱とは裏腹に、その人はあと五歩ぐらいのところまで近づいている。
「俺の名は呂子衡。見ての通り、ただの県吏……あ、ここへは仕事で、ある調査に来たんだ。聞いてるだろ?」
子衡と名乗った人はさらりと答えた。私はここでも違和感を覚えた。お父さまのお客さまは必ずと言っていいほど、私の機嫌をとろうとする。みんな、私を通じて、お父さまに取り入ろうとしているからだ。でもこの子衡って人は違う。なんていうか、普通だ。
「いえ、聞いてません。教えていただけませんか?」
だから、私も普通に応じていたようだ。子衡さんはちょっと目を見開いてから、軽くうなずく。
「北どなりの郡で大きな暴動が起きているそうなんだ。うちの郡でもその影響が出ているみたいで、強盗や窃盗が相次いでるそうなんだけど……」
熱心に子衡さんは私に伝えていた。だけど、私は聞くことより子衡さんの姿をながめることに気が向いていた。顔を長いこと、見つめるのは気付かれるのが恥ずかしいから、服ばかりをながめていた。
「……それでうちの細陽県でも犯罪に備えて、こうやってどこにどれくらい財があるか点検しているんだ。何かあってもすぐにかけつけられるようにね……」
子衡さんの声を後へと流して彼の姿を眺めていると、あることに気付いた。彼の服は素っ気のないただの白い県吏服だと思ってたら、そうじゃない。よく見ると、白地に白い糸で刺繍が施されている。それが光の加減で浮かび上がり、私の瞳に美しく写るんだ。彼は美というものを知っているようだ。
子衡さんは急に話すことを止め、話に反応のない私を不思議そうに見ていた。私はあわてて、面を上げ、口を開く。
「そうですね……でも、この庭園には、お金になるようなものなんてないですよ」
うまく話をあわせられたなと我ながら思った。子衡さんは池を背に両手を横に広げ、首をぐるりと左から右へとまわす。
「確かにお金なんかにはならない……いや、お金にはできないほど、価値がありそうだ、こんな素晴らしい庭園は」
子衡さんは心底、嬉しそうな顔だった。おべっかでも何でもなく、それは本当に私の庭園を見て喜んでいるんだ。
私はすぐに誇らしげな気分になり、嬉しくなっていた。なんせ、この庭の良さをわかってくれる人なんて、未だかつて会ったことないからだ。
「ええ、私もそう思います。たとえいくらお金を積まれても譲ろうなんて思いませんもの」
と素っ気なく話す私。多分、出る言葉と同じように私の顔も無表情だったんだろう。喜びにあふれた心に態度がついてこない。この性格を私は少し疎ましく思う。
「ああ、そうするといいよ。例え、賊が来てもここを荒らして欲しくないなあ」
子衡さんは池の方を眺めながらつぶやいていた。時折、こちらから見える彼の顔はとても幸せそうだった。
しばらくして、子衡さんは突然、私の方を振り返る。
「そうだ、俺、仕事中だったんだ。あ、すまない。つい話し込んでしまって……じゃ、俺、出ていくよ。どうも失礼した」
そう言い残し、子衡さんは慌ただしくその場から立ち去ろうとした。
その急な展開に私は柄にもなく焦る。
「あ、あのっ!」
私の声は裏返ってしまっていた。もう、歩を進めていた子衡さんは振り返る。私は生唾を飲み込み落ち着きを取りもどす。
「また来るのですか?」
ようやく私の口から出た言葉は当を得ないものだった。子衡さんはにこりとする。
「いや、もう来ないと思うよ。今日は一人でいるところで、俺、迷惑だった。悪かったな」
そんな、迷惑だなんてとんでもない。そう私は思ったけれど、言葉が喉から出てこない。そう心であたふたしている間に、子衡さんは来たときと同じように、池のへりを歩いて帰っていった。
何か取り返しのつかないことのように思えた。
庭園はこの十日間で見違えるようになっていた。
とは言っても、私の目から見てのこと。こんなことを言ってもお父さまは苦笑いするだけかしら。
ちょうどこの十日間は春から夏に向けての境目で、草や木が鳥や虫よりますます生き生きしていて緑を鮮やかにしている。そして、見ているこちらも何となくうきうきしていた。だから、私は毎年、この時期、理由なんてないけど、何か良いことが起こりそうな予感を持っている。今年は予感だけじゃなく本当に私を驚かせることがあった。
十日前、ある人に出会った。その人は自分の名前を一度しか言ってないけど、たしか、「呂子衡」と言った。この耳が覚えている。その人はまるでこの庭園の人みたいに美しい容姿と感性が備わっていた。この庭園を手入れするのはこの人しかいない、と今でも私は強く感じている。
あれ以来、子衡さんのお名前を忘れまいと何度もつぶやいていた。それから、お父さまに、ある話をした。それで今日が待ちに待った日だ。
私の胸が高鳴っている。それをおさえるため、一心に刺繍をしている。たしか、あの人の服に刺繍が施されていた。この目が覚えている。それもあって、私はこの十日間、刺繍の練習をしている。
「君だな、俺を呼びつけたのは」
その声はまるで私の胸の奥を鷲掴みにして揺さぶったようだった。すぐ後を振り向くと、すぐ側に子衡さんが立っていた。背中で下から頭のてっぺんまで一気に駆け抜けるものを感じがし、私は気を失いそうになる。私の慌てように気付かないのか、子衡さんは朗らかな顔を向ける。
「確かにこの庭園が賊徒の手にかかる心配はわかるけれど……気の回しすぎじゃないかなあ……」
子衡さんの話したことが何についてなのか、私はわからないでいた。そんなことより、彼の瞳に私の姿が映っているほど、近くにいたことに気付いていた。はずかしい。私の心はまた激しくうごいている。
「あれ? どうかした?」
と子衡さん。ようやく彼も私の動揺に気付いたらしい。私は音がするように、大きく深呼吸する。
私は視線を伏せた。自然と子衡さんの服に目がいく。相変わらず目立たない刺繍が施された県吏の服だったけど、この前、会ったときとは模様の違う刺繍だった。やはり、彼こそ、この庭園にふさわしい。そう思うと、私は自然と面を上げる。
「あなたも少しおっしゃってましたけれど、北の方では暴徒や賊徒が群をなしているのでしょ? だからとても心配なんです、この庭園のことが……」
私は、多分、眉の外側を下げ、潤んだ瞳を子衡さんに向けていただろう。彼の顔に同情の色がみえていたから。
「だから、日に三回、この庭園に見回りの県吏をよこして欲しい、ってことだね? だから俺はそれに関する話し合いで今日、来たんだ」
子衡さんは詰まり詰まりの私の言葉を受け継いでくれた。私はこくりと頷く。彼は一瞬、眉間にしわを寄せる。
「君の不安や心配はよくわかる……だけど、見回りは俺がする必要はないだろ? 県吏なら他の人でも良いわけだし……」
子衡さんは私に気を使っておそるおそる話しているようだった。この展開は私にとって予想されることだった。私は哀しそうな目をして子衡さんの顔を見る。
「私は小さいころからずっとこの屋敷に住んでいるんでいて、あまり外の人と会ったこと、ありません……だから、馴染みのない外の人と会うと緊張して体が震えるんです。でもあなただったらもう大丈夫なんです……だ、駄目ですか?」
私が話し終える前に子衡さんの顔は同情でいっぱいになっていた。私にやさしさを向けてくれているんだ。彼は腕を組みうつむく。
「そういう事情なのか……それなら仕方がない気がする。県府に帰って、君の願いを上司に相談してみるよ」
子衡さんは決心したように面をあげた。
私は顔でまだ泣きそうになってたけど、心で喜びをかみしめていた。そして私は意識的に徐々に表情を胸中に合わせていく。
「本当に、来て下さるのですね。これで安心できます」
控え目な口調と仕草で私は応じた。
子衡さんは満面の笑顔を見せる。私を安心させるためだ。
「あ、上司の承諾がないと、まだここに見回りにくるかどうかわからないけどね。でも、俺、できるだけ努力してみるよ。じゃ、早速、県府に帰って掛け合ってみる」
そう言い残し、彼は背中を見せ、慌ただしくる私の元を離れていった。
残された彼の声は、まるで私の心にやさしく触れてくるようだった。
彼は来られるかどうかわからないと言っていたけど、明日から彼が私の庭園に現れることは知っている。
なぜなら、私はお父さまを通じて内緒で彼の上司に話をつけているから。
ただ、子衡さんの意志で庭園にやって来て欲しい。だから、こういう回りくどいことを私はしたんだ。