対馬丸  1

  疎開船 対馬丸 のことを知っていますか?

私達が疎開に出発した昭和19年(1944)8月21日、同じ日の18時
35分那覇港から鹿児島に向けて疎開児童767名引率訓導・引率世
話人28名を含む一般の疎開者他1661名を乗せ対馬丸(6,754t)
が出航しました。
しかし 翌22日22時15分奄美大島沖合いで米潜水艦の魚雷攻撃を
受け約10分後に海底に沈んでしまったのです。
1484名の命が失われました。救助されたのはたった177名(学童は59名)でした。

昭和19年7月7日、サイパン玉砕の日の深夜、県知事あてに緊急指令の電報が届いた。
沖縄から老幼婦女子を計10万人本土と台湾に引き揚げさせよ という趣旨のものであった。昭和18年
5月以来既に嘉義丸・湖南丸・台中丸・富山丸などが那覇→鹿児島間の海上で米潜水艦の攻撃を受け
て沈没していることは公然の秘密であり、危険は予想されたが刻々と迫る戦況の悪化は一刻の猶予もな
く、米軍の沖縄上陸は時間の問題であった。
疎開の輸送は軍艦で という親達の願いも聞き入れられず、その夜の那覇港には貨物船3隻が子ども達
を待っていた。和浦丸・暁空丸・対馬丸の3隻で、対馬丸はその中でも最も大きい船であり駆逐艦と砲艦
に守られての出航であった。
因みに沖縄からの疎開船は昭和19年7月から翌20年3月まで178隻 人員にして約7万人が疎開したが、
犠牲になったのは 対馬丸のみで、戦時中は勿論 軍側の絶対秘密として公表されることはなく、この悲痛
なできごとを関係者以外の人々が知るようになったのは昭和37〜8年になってからである。

           TVドキュメンタリー『死者はいつまでも若い』より

            子を失った母の嘆きはいつまでも消えることがない。
            幼い死者たちよ、君は母の胸に永遠に若い。
            昭和19年8月22日、君は海に沈んだ。
            君は信じていた。日本の勝利を。
            勝利のために疎開するのだと信じていた。
            本土で勉強できると張り切っていた。
            本土へ行けば雪が見られるとはしゃいでいた。
            幼い死者たちよ。
            でも君は出発の時ちょっぴり泣いた。
            母と別れることが悲しくて
            しかし、それが永遠の別れになろうとは夢にも思っていなかった。
            君も、君の母も。
            幼い死者たちよ、767名の君たち
           、君よ、永遠に若くあれ。
            戦争の悲しみの記録を、永遠に母たちの胸に刻むために。
            君よ、永遠に若くあれ
            戦争の悲しみの記憶を、永遠に私たちの胸に刻むために。
            君よ永遠に若くあれ。、                              
                                                                                                                                                                            

疎開史上最大の悲劇,悲運の一隻となった対馬丸については、戦後 ○悪石島(オリジン書房)大城立裕
○血で綴られた戦時輸送船史(出版協同社)船舶砲兵 ○疎開船対馬丸(旺文社) ○あゝ学童疎開船対馬丸
(対馬丸遭難者遺族会発行)新里清篤編著 などの本が出版されている

疎開児童他を乗せた輸送船3隻のうち、無事到着の報せがないのは 対馬丸 だけであり、関係者の間に不
安と共に恐ろしい噂がささやかれるようになった。対馬丸は中央機関部と船体後部に魚雷が命中し、悪石島付
近に沈没したのであった。以後は1661名中わずか177名の生存者の証言(あゝ疎開船対馬丸ー新里清篤
編著ー対馬丸遭難者遺族会発行)より の一部である。

                           
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