泥堂山 宗恩寺 の沿革
明応5年(1496年) 8月 越前国一乗谷の池田彌三郎が大坂坊舎(のちの石山本願寺)に詣で、蓮如上人より六字の尊号を受け圓信という法名をたまわり僧侶となる。
永正3年(1506年) 2月 圓信法師、大坂坊舎の南(上町筋の南端)、四天王寺寺域の北隣地に道場を建立する。
元禄16年(1703年) 寺号「宗恩寺」を公称。
安永4年(1775年) 4月 門徒相寄り本堂および庫裡を建立する。
安政3年(1856年) 宗祖親鸞聖人600回御遠忌法要を厳修。
明治44年(1911年) 市電敷設による道路拡張のために寺域修正。本堂と庫裡を改築。
大正2年(1913年) 5月16日〜18日 宗祖親鸞聖人650回御遠忌法要を厳修。
大正10年(1921年) 3月 聖徳太子1300年忌法要を修行。
昭和24年(1949年) 都市計画による寺域減少に備え、南側隣接地を購入。
昭和26年(1951年) 5月12日〜13日 蓮如上人450回御遠忌法要を厳修。
昭和37年(1962年) 5月12日〜13日 宗祖親鸞聖人700回御遠忌法要を厳修。
平成28年(2016年) 
5月29日  宗祖親鸞聖人750回  御遠忌法要を厳修。
 中興蓮如上人500回
   
【明治維新後、地名順次改称することおおよそ次の如し】
大阪府東成郡南平野町 → 第5大区1小区一番組(明治8年4月) → 東成郡南平野町字泥堂町(明治12年2月) → 東成郡東平野町(明治22年4月) → 大阪市東区上綿屋町(明治30年4月大阪市に編入) → 大阪市天王寺区上綿屋町1番地(大正14年4月市区改正) → 大阪市天王寺区四天王寺1丁目5番49号(昭和56年3月地名変更)

 宗恩寺の住所は、昭和56年の地名変更で「四天王寺1丁目」になりましたが、それまでは「上綿屋町一番地」で、(旧)上綿屋町の東端に位置しています。境内地の東を幅30pほどの水路(太閤下水)が南北に流れており、ここが(旧)上本町九丁目との境界となっています。

 上綿屋町は、さらに昔は「泥堂(でどう)町」という名前で、宗恩寺の山号の由来ともなっています。それを示すものとして、宗恩寺境内に「念仏橋泥堂町」と刻まれた石があります。おそらくは先に述べた水路に架かっていた石橋の一部で、後述する市電の工事で撤去され捨てられんとしていたのを移設したものだと聞かされています。この石を見ると、往時の町の風景やお寺と町の関係が偲ばれます。

 明治以後、大阪は急発展を遂げました。上本町二丁目〜天王寺西門前に大阪市電を通すために市道拡幅が行われ、その沿道に位置する宗恩寺も立ち退きの対象となりましたが、ご門徒さんから土地などの寄進を受けて明治44年に建立されたのが現在の本堂です。

 木造で趣のある宗恩寺の本堂ですが、またもや都市計画道路の拡張予定地にかかってしまいました。次に建て直す時は鉄骨やコンクリート構造にしなければなりませんが、それまではご門徒さんの願いで建立された現在の御堂でお念仏の法灯を守って行きたいと思います。

2008.5.1記

「念仏橋」

本堂に掛かる「泥堂山」の扁額

内陣の荘厳
宗恩寺 今昔写真館
★宗恩寺の外観★
(上)年代不詳。昭和20年〜30年代と推定される。道路には市電の軌道が敷かれている。

(下)2012年4月。市電は廃止され、市バスが通る。

★境内(本堂の前庭)★
(上)年代不詳。「外観」と同じ昭和20年〜30年代と推定される。

(右)2012年4月。ビワの木は無くなっているが、サザンカが成長して繁っている。
※石灯籠は、地震で倒壊する危険があるので、2014年に撤去しました。
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