資本主義といういまだかつてない怪物が西ヨーロッパに誕生したその時、激しく動きはじめる社会のなかで、<建築>はいったいどう変化したのでしょうか? ゴシック建築やルネサンス建築と比べて、どんな違ったものが、建築に託されるようになるのでしょうか? そのことを考えてみる。それは、きっと、やがてモダニズムと呼ばれもするようになる複数の建築観がいったいどのような要請のなかから生まれてきたのか、を考える契機にもなるでしょう。まずは英国の、19世紀なかばの様子をのぞいてみましょう。そしてパリ、ウィーン、ベルリン、シカゴ、ニューヨークの近代のはじまる頃を。








愛と哀しみのル・コルビュジエ
第8回番外編



資本主義の歴史を公分母にした、
異説・近代建築史














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うっすらと黄ばんだ霧がまだ暗い街にかかりはじめる頃、少年は目を覚ます。
そこは家族5人がひしめいて 暮らすあばら家、少年は眠い目をこすりながら、パジャマを脱ぐ。髪はくしゃくしゃ、白い皮膚には擦り傷がいっぱい。朝食もそこそこに、川沿いの道を歩き、少年は仕事場へ向かう。サイズの合わない重い革のブーツを穿いて。そのブーツは、飲んだくれの父親が得意になって手に入れてきたもの。息子が屑鉄や 車輪、あるいは砕けた酒瓶で足を切らないようになけなしのカネと交換したそのブーツは、 しかし、少年の踵に靴ずれをこしらえもするのでした。

時は19世紀の中ごろ、ヴィクトリア女王治世下のイギリスはイングランドの、 北部にある炭鉱都市。この街が栄えるのは歴史上2度目のこと。1度目は1500年前、ローマ人が帝国の最北端としてタイン川沿いにハドリアンズ・ウォールを 築いた時。少年のはるか祖先は、ローマ人が持ってくる珍しい金貨 やナツメヤシを手に入れるため、かれらの森の木や野生の犬を商品にしたものでした。 もちろん、少年はそんな歴史などなにも知りません。少年が知っているのは、今、こ の街の大地に眠る漆黒の石、石炭が、少年と家族の生活を支えるというこ とだけ。少年は毎日トロッコを押す、毎日わずか数シリングを稼ぐために。





そんなある日、少年は、ドックから現れたま新しい巨大な帆船を見た。3本のマストを立てたその船は少年の目の前を河口に向かって、ゆったりと進んでいく。 見たこともないこの巨大な建造物は、なぜか少年の心をときめかせる。ゆるくカー ヴした優美な船体。マストを支えるべく張り巡らされた複雑なロープ。少年はこの帆 船が一体どんな仕組みでこの霧の中を進んでいるのか、まるでわからなかったけれど、 しかしいままで考えてみたこともなかった未知の世界が、少年の心のなかに沸き上がる。 いったいこの川を下っていくとどうなっているんだろう? なにがあるんだろう?





この快速帆船は、この国の首都ロンドンに向かっています。そこで、何千 ポンドという人びとの夢をのせて、帆をいっぱいに広げ、大平洋を舞台にゲームを 闘うことになるのです。この快速帆船を成り立たせる鉄の骨組みは、少年 や何十万もの名もない労働者の掘り出す石炭によって、赤々と熱せられ、精製された わけだけれどしかし、そんなことは少年にとってはおもいもよらぬこと、少年はただその船を見送りながら、仕事場へ急いだ。





第1章 そのゲームは、ロンドンではじまった

ロイズ・コーヒー店は、ロンドンの王立取引所の向かいに店を構え、香ばしいコーヒーの匂いをたてています。コーヒー屋のロイズはいつもそれなりに繁盛しているけれど、9月に入った途端の騒々しさは半端ではなく。シティーに出入りする株式仲買人はもちろん、普段はシティーなどうろつかない連中までもが、持てる金貨と、運を抱いてこの店へやっ てくるから、たいへんな喧噪だ。

一人の男が窓際の席で、ロイズ・ニュースとその他の新聞の海事欄に目を通す。ふむふむ、ま だ(紅茶を乗せた快速帆船)ティー・クリッパーは一艘も、イギリス海峡に姿を現し ていないようだな。ふぅ・・・男は深いため息をついた、安堵とも不安ともつかないような、ため息を。 ティー・クリッパー、それは、毎年中国から初摘みの紅茶葉をロンドンに運んでくる快 速帆船のことである。

男は仕立てのいいジャケットの袖口から、一枚の証書を取り出した。そ れは、ある、一艘のクリッパーの4分の1の所有権を証明する書類である。これが、 「かれら、持てる者の」事業のやり方である。男は父から受け継ぐデヴォンジャーの家を担 保に、ニューカッスルで製造された快速帆船の共同出資者の一人になったのだ。

1枚の証書、さぁ、幸運の天使が微笑むか、それとも・・・。それはこんなゲームである。ここ1週間のうちに、かれのティー・クリッパーが一番にテムズ川に姿を表 わし積み荷を下ろせば、かれは紅茶葉の4分の1の所有権と、そう、ロイズが主催 する賞金(紅茶葉1トンにつき1ポンド)と、そう、この船にかけた莫大な掛け金が、 かれの財産をゆるぎないものにする。つまり、勝負に勝てる。

しかし、前評判通り、カティー・サーク号が一番に・・・、いや、そんなことは考えたくも ない。男は自分の判断力と、かれが見込んだ船長の技術と、あとは神のみぞ知る風に 、身をまかせるしかないのだった。1860年頃のロンドンでのことである。





ロンドンの歴史をひもとくと、ロンドンは一貫して、富を求めて集まる人びとのマーケットだったことがわかります。そもそも鱒の漁場であったこの場所は、太古のケルト人、そしてアングロ・サクソン人だけでなく、大陸から征 服に来たローマ人やフランク人にとっても、あるいは北方から来たデーン人、さらに、 プロテスタントやユダヤ人や、そう、なにしろ国王にとっても、ロンドンは欲しいも のを手に入れるためのマーケットとして、存在してきたのです。 だからロンドンになにより必要だったものは、商品と、そして利害関係を調整する証書(つまり法律)でした。

この街で求められたのは、すべての人が参加できる生産の仕組みと、すべての人を魅了する商品です。紅茶 はただの商品でしかありませんが、イギリスが生み出した快速帆船は(この後、覇権 をとっていく蒸気船も含め、世界の商船の7割もがイギリス製でした。)ロンドン、 そしてイギリスの増え続ける人口を賄うシステムとなり、保険の仕組みや株式会社の 仕組みが持てる者だけではなく、持たざる者にもまたチャンスを与える場になったのでし た。ついでにいえば、このロンドンに集まる巨大な富は、ヴィクトリア女王はもちろ ん、ナポレオンやフランスやドイツの資本家を惹きつけるものであり、イングランド 銀行(私企業です)が発行する証書、つまり紙幣は、ロンドンが生み出 した魅力的な商品だったわけです。





さて、ここで<建築>について考えてみましょう。

いったいこのような状況で、<建築>は、
どのような位置取りをしていたのでしょうか? 
建築はたしかに魅力的な商品でもありえますが、この時期にあってはむしろ、
記念碑、あるいは墓(モニュメント)としての役割に
あまんじていたのでは? 
そんな予感とともにこの時代の<建築>を考えてみると、
むしろ船こそが、
この時代のもっとも重要な<建築>だった、
とおもえてくるではありませんか。

では、狭義の建築・・・という言い方もへんですが・・・の方は、どんな変革の契機を迎えていたでしょうか?





第2章 ファサードはもはや建築の前提ではない、むしろ・・・。

1903年、29歳のオーギュスト・ペレは堅物の銀行家の前で悪戦苦闘していま す。エッフェル塔からさらに西、セーヌの風も吹き抜けるフランクリン通りで、ペレ は、いま、決定的なあたらしい試みをするため、銀行の融資を申請しています。 かれは、フランクリン通り25番地にレンガではなく、鉄筋コンクリートな どという得体の知れないものでアパルトマンを建てるというのです。不動産銀行の銀行家は、怪訝そうな顔をしています。

なになに、図面を 検討してほしい? 地階から、1階、2階、3階・・・7階。各階の5つの部屋それ ぞれに明るい日射しが差し込む? はぁ、日差し・・・ですか・・・。わたしのようにゆったりとしたサロンを楽しむも者の趣味ではありませんな、なになに、その上に、屋根裏部屋でなくペントハウス(頂上階) が8、9と・・・。この、コンクリートのベランダからエッフェル塔が見えるです と? あんなもの、いったいどこの誰が鑑賞したいですかね? そんな吹きっさらしへ登って、例の巨大な鉄骨細工を眺めるだなんて、そんな趣味はわたしなどにはおよびもつきませんな。わたしのようなものには好きな絵画を飾っ たサロンがあればそれで十分。

それより、ペレ君、まずファサードの図面を見せていただきましょう。なに、アクソメ図しかない? ファ サードの図面を持ってこないなんて。そんなことじゃファサード・コンクールに入賞 することもできないではありませんか。エクトル・ギマール君にも水を開けられるばかりで しょう。いや、失礼。・・・ふむふむ、たしかにこの立体的なアクソメ図というのは、たしかに構造はよくわか りますがね。それにしてもこの設計では、開口部が大きすぎて、装飾の壁がないではないですか。・ ・・柱と梁があればよい? われわれは天下のリヨン< 不動産>銀行なんですよ、ペレ君。(すぐ取り壊すことが前提である)エッフェル塔じゃあるま いし。あなたは、エコール・デ・ボザール(美術学校)で、立派なガデ氏のもとで勉 強なさった。そんなあなたが、いま、エコール・ド・ポリテクニク (理工学校)の連中がつくった鉄骨細工(エッフェル塔)のような過ちを、侵そうとしておられる。 不可解ですな。いや、残念ながら、当銀行としては、あなたへの融資をお断りせざるをえないということです。 (上の会話はあくまでもわたし市川の想像ですが・・・。)

のちに初の鉄筋コンクリートアパートとして有名になるオーギュスト・ ペレのフランクリン通りのアパルトマンは、銀行家の融資を断られつづけ、結局、土地の 所有がかれの父であるために、かろうじて実現にこぎつけたとか。



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ペレは闘っています。では、どんな考えがかれを支えていたのでしょうか? ペレには、「建築家は構法を通して考える詩人である」との言葉があります。そう、ペレは、construction(コンストラクション)こそが重要なのだ、という認識をもっています。(文末の註を参照のこと)。ただし、その認識はまだ共有されておらず、時代はまだ建築デザインの修辞法を重んじ、ファサードの装飾を競う、そんな建築観のなかに依然としてあり、そこでペレはそんな認識と闘わなければなりませんでした。 construction(コンストラクション)・・・それは1908年スイスからやってきた建築家志望のシャルル=エドゥワール・ジャンヌレ青年をもまた魅了してやまない、新しい建築の可能性であり、その発想の転換が、近代建築を拓いてゆくのですが、そのためにはまだしばらくの闘いの時間が必要でした。





第3章 装飾だらけのウィーンで、たった一人、装飾を呪った男

1900年、新しい世紀の幕開け、いや、前世紀の幕引きの時、モラヴィア生まれの30才の男が、ウィーンのリング・シュトラーゼを凝視しながら歩いています、ぶつぶつと文句を言いながら。いやならば、嫌いならば、目をそらせばよさそうなものを、かれは不幸にも、いかにも神経に障るらしいこれらの建築の装飾だらけのファサードから、目をそらすことができません。

一周4キロの馬蹄型円環道路リング・シュトラーゼ。マロニエの並木がつづくこの立 派な通りをアドルフ・ロースは今日もつい、ぐるぐると歩いてしまう。その 閉じた狭い円環、ウィーンのなかがあたかも世界そのものであるかのように。

バロック様式のシェーンブルン宮殿、ウエディングケーキのようなブルグ劇場。通り の向いにはゴシック様式のラートハウス(市庁舎)、その隣にはギリシア様式の国会 議事堂。そう、この街は、皇帝フランツ・ヨーゼフの襟元を黄金の刺繍糸でかがり、 宝石をちりばめているにすぎない。パリやベルリンの最新モードに遅れをとらないよ うにと。しかし、ウィーンは決して知ることがありません、パリが放射状にひろがる街であることも、ベルリンが碁盤目状に西へ拡大していく街 であることも。

シカゴ帰りのアドルフ・ロースはすれ違う厚化粧の貴婦人や、フェルトの長靴を履い て音楽会に出かける男爵たちにもいちいちいらいらさせられます。1871年の、ベ ルリンを首都とするドイツ帝国建国によって、ドイツからはずされた神聖ローマ皇帝 のお膝元、ウィーン。あらたにオーストリアの首都として出発したその街は、しかし、 栄光の時代に依存する王侯貴族、そしてそれに憧れ、依存するブルジョアジーのため の街なのでした。



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アドルフ・ロースはいったいなにをそんなにいらついているのでしょうか? 持たざる者アドルフ・ロースは告発するのです、ウィーンの街そのものを。

「ポチョムキンの都市を知らないのは誰だ? エカテリーナのお気に入りのずるがし こい側近が、ウクライナに建てた村。それは画布と厚紙の村で、彼女の帝国の威光の 見た目のために、何もない荒野を花咲く風景に変えるものだった。そんなことはもち ろん、ロシアにおいてのみ可能なことだ!」





挑発的な文章でウィーンの街に闘いを挑みはじめたアドルフ・ロース、し かし、かれの胃痛の原因はもっと深刻です。なぜなら、かれをもっともいらいら させるのは、同時代の、そう、オルブリッヒやヨーゼフ・ホフマンやクリムトがもっ ともらしく建てる、あの、総合芸術作品とやら(!)なのです。

ここで、1889年にリング・シュトラーゼに建てられたウィーン分離派館を紹介し ましょう。それは、前時代からの分離を宣言するゼセッション(分離派)の若い芸術 家たちが、あたらしい芸術の発表の場として建てた記念すべき作品なのです。

このかたちをなんと形容しましょうか? 純白の四角いヴォリュームから、4本のパ イロン(四角柱)が突き出し、その上に月桂樹を透かし彫りした黄金のドームがかか げられています。そう、それは円柱による厳格な修辞法からかれらを解放し、萌えい づる春を謳歌するかのようにです。そして、ファサードにはかれらの生を刻むかのよ うに、黄金のスローガンが彫刻されています。

DER ZEIT IHRE KVNST その時代には芸術を
DER KVNST IHRE FREIHEIT その芸術には自由を





しかし、アドルフ・ロースはこの建築を前にし、首を横に振りました。

なぜなら、それもまた仮面にすぎない。このリング・シュトラーゼの外の現実を見れ ば明らかです。そう、総合芸術家がこの狭い円環のなかで芸術を謳いあげる一方 で、その飾り立てられた円環の外には、ウィーン200万人を構成する大部分の市民 がひしめいているのです。各地から集まった無産者階級の労働者、ドイツ人だけでは なく、ユダヤ人、スラブ人、ハンガリー人がどんどん流入してきているのです。

(ちなみに神聖ローマ帝国はバルカン半島も支配下におさめていたため、ウィーンは オーストリア=ハンガリー二重帝国の首都となり、ドイツ人ではない、よそものもど んどん、流入してきたんです。)





リング・シュトラーゼの外では灰色の労働着を着た労働者たちが集団ストをおこしま す。地方からやってくるドイツ人に対して、高い教育で、医師や芸術家や自由な知的 階級を独占しつつある裕福なユダヤ人への憎悪も、日増しに高まっていきます。そう、 ウィーンには内に溜め込んだエネルギーを、外に吐き出すポンプの機能がないのです。 1873年のウィーン万博の赤字と株式の暴落での152人の自殺者がでたことも、 蔓延するコレラで2983人の死者がでたことも、黄金色に飾り立てたリング・シュ トラーゼの優雅な時の中に埋没させてしまっているのです。





アドルフ・ロースは決心します。そう、かれの意志を表明するため、1910年、ウ ィーンの王宮の目の前に、なにひとつ装飾のない、そう、なにひとつ装飾のないミヒャエラーハウスを建て るのでした。



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第4章 ベルリン。とある石工の息子が叫ぶ、レス・イズ・モア!

少年は時間のとまった、その八角形の空間を見上げていた。かれの名前はルードヴィッヒ・ミース(のちのミース・ファン・デル・ローエ)。か れは、母親に連れられて、カトリックのミサに出席しています。アーヘンの宮廷礼拝 堂。そこは1000年も昔から神聖ローマ皇帝の戴冠式が行なわれてきた場所。しか し、そんなことはよくわからない。かれはこの厳格な八角形の室内になぜだか心を奪 われるのだ。

そう、目より先に体がその空間を捉えるのだ。足裏からのぼる大理石の冷たさと吸い つくような感触。牧師の声の共鳴の大きさがこの狭い空間を過剰に官能的なものにし ている。かれの顔はしぜんと上向く。かれは、いってみれば、8本の巨大な角柱で囲 まれた井戸の底にいるようなものだ。継ぎ目もなく干渉しあう乳白と緑のマーブルの 柱を追って見上げると、はるか上方でドーム天井を支えていることがわかる。しかし、 天井に並んだ小窓から射す強い光とそのドーム天井にちりばめられたガラスと金箔の モザイクに幻惑され、いつしか角柱とガラスと空気の継ぎ目も溶け合い、少年は飽き ずにそれを眺めていました。

しかし、ミサが終われば、ミースは20世紀という時代と、雑多な喧噪の世界に足を 踏み出さなければならないのだった。





1905年、19才のルードヴィッヒ・ミースは故郷アーヘンからドイツ帝国の首都 ベルリン行きのはじめての長距離列車に乗った。蒸気機関から巻き上がる熱と煤煙、 車輪の音と振動は走っているかぎりやまない。そして、ミースは走り出してしまった のだ。かれは耐えきれなくなり、ケルンを過ぎたところで、窓を開けて吐いてしまっ た。

アーヘンの石工の息子に生まれ、大学にいかず、製図工として出発したミースにとっ てドイツの首都ベルリンとの出会いは芸術としての建築をがむしゃらに押し進めてい たドイツの運動の激しさとの出会いだったといえるでしょう。

イオニア式柱頭の曲線をフリーハンドで描けるほどの、その腕を買われたミースは、 あの、有名な総合芸術家、ペーター・ベーレンスの事務所で働くことになります。1908年のこと。そう、ちょうどエドゥアール(のちのコルビュジエ)がパリのオー ギュスト・ペレのもとで働いていた時期です。しかし、エドゥアールが自由な空気の 中で<構造construction>としての、シンプルな思考の種を育てていたのに対して、 ミースのほうはそんなわけにはいかなかったでしょう。ちょっと、ここで、ペーター・ ベーレンスの作品を並べてみましょう。



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これは、1901年から1911年までの間にひとりの芸術家が建てたものなのです が、みなさんはどう思いますか? 住居、記念碑、工場、公共建築と、たしかに機能 は違います。それにしても、それらをどんな形態で建てればよいのか? もう少し明 解なこたえがありそうですね。ミースは考えます。そして、この混乱は、それぞれの 建物にいちいち<芸術家ペーター・ベーレンス>という名前を示そうとするために起 こる混乱ではないのかと。

建てるということは芸術なのだろうか?

そう、ミースは思い出します。幼いころに見た、建築家の名前など残っていない、し かし、中世から、生き残ってきた八角形の礼拝堂の明解さを。 

しかし、時代は嫌がうえにも産業を基盤とした時代へと動いているんです。





持たざるものミースは、時代を映し出すガラスと、明解でないものは建ててはならな い、つまり less is more(レス イズ モア)につながる信仰ともいえる激しい、 一筋の光とを見い出していくのでした。 





第5章 フランク・ロイド・ライト、過去のない世界に拓かれる未来



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ヨーロッパが過剰な人口、過剰な装飾であふれているころ、シカゴは常に人手不足で した。あたらしい世界を夢見てやってきたひとびとにとって、まず闘うべき相手は、 アメリカ大陸という大地、水平に広がる自然でした。

ひとびとは大地に眠る鉱脈を発掘するため、その広大な広さを、最初はほろ付馬車で 駆け巡りました。そのうち、ひとびとは大地に眠る鉄鉱石とコークスが馬車のかわり に鉄のレールと機関車を与えてくれることを知りました。プレーリー(草原)とはげ 山と湖をぬって、ひとびとは西へ西へと、さらに、その広さを猟歩するのでした。

ヨーロッパにおいて、とくにイギリスにおいて、万国博覧会で示された産業革命が牽 引する機械への嫌悪感とその反動はアーツ&クラフト運動として現れました。それは、 ブルジョアの生活に憧れる市民が石の円柱の代わりに、安価なグッタベルカゴムや鋳 鉄を使って模造するという<不自然さ>に端を発したわけですが、シカゴにおいて、 そしてフランク・ロイド・ライトにとっては、機械はむしろ肯定できるものとして受 け取られていました。そして、建築には建築の、アメリカという土地にはアメリカと いう土地の、その中に内在するnature(本質)を発見することがあたらしい時代の< 自然さ>なんだという、若き冒険心に満ちあふれていたのでした。





教師である母と、音楽を愛し、教えたこともある牧師の父との間に生まれたフランク・ ロイド・ライトは、ボストンの幼稚園で、自然のでたらめな絵を描くかわりに、赤と白 の三角形の厚紙と楓の木でつくったブロックを与えられました。3才のライトは、目 の前に広がる大地の絵をでたらめに描くかわりに、その大地の水平性を直方体のブロッ クの連なりで、大地に立つ木々を三角形で、昇りはじめた太陽を球であらわしました。 そして、(おそらくそこまで意識的でなかったにせよ)、ものごとのnature(本質) を内部にむかって、また、内部から外部に向かって見ることを覚えたのでした。





すなわち、四角は完全を表わし、円は無限を、三角は抱負を。





ボストンの伯父の農園で自然を相手に働いたり、ウィスコンシン大学で工学の勉強を したライトは1887年、大学を出奔し、建築家を目指すべくシカゴにやってきます。 ライト20歳のこと。

ここで、ちょっとシカゴについて説明しましょう。シカゴは5大湖のほとり、西部開 拓の要所として18世紀に発展した街です。西に広がる小麦畑から鉄道により小麦が 集められ、運河によって東のニューヨークやフィラデルフィアに運ばれます。ひとび とは自然とテクノロジーによって生み出されるあたらしい富と夢のかたちを模索しま す。

そして、建築もまた、最初から富と夢を生み出すあたらしいかたちを必要としたので す。シカゴに必要だったのは、まずもって倉庫とオフィスビルディングと住宅でした。

シカゴでどこよりも先駆けて、鉄骨のビルディングが建てられるのは、自然なことだっ たのです。鉄道のレールと同様に圧延鋼の部材を工場で作り、蒸気機関の昇降機によっ て、組み上げていきます。それは、あの、ローマ時代からつづいた10階建ての石積 み建築とは全く異なり、わずか1年というスピードで、しかも少ない労働力で建てる ことができるのです。そして、それは20階や30階、いや、もしかしたら100階 建ても可能かもしれないのだ。マシーン・システムが大きな社会変化をもたらす。そ う、ヨーロッパではなく、この、あたらしい世界で。ギボンのローマ史とプルターク の英雄伝を片手に持ちながら、しかし、草原と湖に屹立する建築を想像して、ライト は武者震いをするのでした。



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第6章 ニューヨーク・・・投資がつくった虚栄の都市、建築家は脇役!

蒸気船グレート・ウエスタン号は1838年4月8日リヴァプールを出航しました。 68人の1等船客、5500通の郵便物、2000部弱の新聞が大西洋を越えて新世 界に出掛けます。速度8.8ノット(時速16.3キロ)。技術は驚くほどのスピード で取って替わられる。帆船で5週間かかる新世界への航路を、蒸気の回転の力が切り 開くのだ。

4月23日、すなわち15日目、アメリカの玄関口、マンハッタン島が姿をあらわし ます。もちろん、そこはまだ摩天楼ではありません。レンガづくりの造船所、繊維産 業と食料加工の工場、証券取引所、そして入植者が思い思いに建てるレンガの住居が 立ち並ぶだけの場所です。しかしひとびとはやってきます。オランダから、アイルラ ンドから、そしてイギリスから、ドイツから、イタリアからも。ユダヤ人もやってき ます。





だれもが主人公になれるこの島。それは同時に
だれひとり主人公になることができない島、でもあるのだけれど。





1898年、マンハッタン島の人口は150万人を越え、フィラデルフィア、シカゴ を抜いてひとびとの集まる場所となりました。

ニューヨーク州委員会は増加の一途をたどる入植者によって無作為に開発されるのを 恐れ、3キロ×20キロの、この細長い島にT定規をあて、南北に走る12本のアヴェ ニューと東西に走る155本のストリートに分割します。

シナリオ上では13×156=2028個のブロックです。

そして、このグリットのうえには凱旋門もホワイト・ハウスもいりません。(そう、 マンハッタン島はアメリカ合衆国の首都ではないんです。)あるのは80メートル× 30メートルの長方形からなる2028個のブロックだけです。

しかし、その、ひとつひとつの四角いブロックが、あの、広大な西部の開拓地と同様 に、富を生み出す金鉱であることは、まだ、発見されていません。





1903年、財務家のダンディーと建築家のトンプソンがある試みを企てます。マン ハッタン島から鉄橋でつながったコニー・アイランドに遊園地ルナ・パークが建設さ れます。ボザールを中退し、アメリカにやってきた建築家のトンプソンは考えます。 まず、ここはひとを集め利益を生みだすための装置なのだ。見なれた退屈な石の建築 はいらない。楽しませ、富を生み出す装置としての建築。そう、それはあの、パリ 万博の、玉葱型のモスクとかミナレットとか、中国の塔だとか、自然の庭園のなかに 出現したごちゃ混ぜの空間。トンプソンは38エーカー(約15ヘクタール)の土地 になんと1221本もの円錐だとか尖塔だとかの見たこともない塔の森を作り上げま す。

どこにもない、あたらしい建築の塔の森がひとびとを惹き付けます。

そう、シカゴやその西部まで鉄のレールを伸ばすことなく、はじめて出現した、この、 夢の世界にジェットコースターを走らせれば、ひとびとはどんどん集まり、利益が産 まれる。130万個の電飾が、ひとびとを別世界につれていくのです。

ルナ・パークで富を稼いだトンプソンは1904年、マンハッタンの6番街の40丁 目から44丁目のブロックを手に入れます。





さて、ニューヨークの主人公はトンプソンというわけではありません。トンプソンは、 ブロックを買い、そこにビルディングを、部屋数を増やすためになるべく高層にし、 表面は、ひとを喜ばすために装飾を施した無数の主人公のひとりにすぎないのです。

ここで、1908年にニューヨークを紹介するために出版された雑誌 KING'S VIEW OF NEW YORK に描かれた当時のマンハッタンの様子を紹介しましょう。





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なんと1000フィート(80階建て)におよぶかの高層ビルディング群と、それを 縫うように走る高架鉄道と、飛び回る飛行機・・・。 いや、もちろん実際はまだ、こんなことにはなっていないのですが。





可能性への投資interest!!





摩天楼、スカイスクレイパー、それははからずも帆船の一番高いマストの意味でもありました。スカイスクレイパー、それは世界中の欲望を巻き込みながら加速する資本主義という船が、いま、20世紀という港へたどりついたことの比喩のようです。けれども、わたしたちはまだ、その<船>の、<港>の意味を、ほんとうには知りません。

(文とイラスト: 市川智子)









●オーギュスト・ペレの先見性。いったいペレには、どんな考えがあったのでしょうか? どんな可能性が、逆境にあったかれを、支えたのでしょう。まず、かれの言葉をおもいだしてみましょう。

「建築家は構法を通して考える詩人である。」

構法を通して考えるとは、そもそも、どういうことなんでしょうか? 今度は、みなさんに建築家になってもらいましょう。たとえば、6階建ての都市住宅 (アパルトマン)を建てるとしましょう。それぞれの階に5部屋(キッチン、居間、 主寝室、客間、子供部屋)からなる一世帯の賃貸住宅をつくるとして、みなさんは、 どのように考えますか?

もっとも、単純な例は、

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ただし、これでは、創造の余地はありませんね。
それではこんなのはどうでしょう?

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今度は、集中する核のようなものができました。ここが吹き抜けだったらどうでしょ う? そして、みなさんは、これが6階建てで建った様子を想像できますか?

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これは、アクソノメトリックといいます。かなり近代的ですね。
実は、建築の近代とは、「ファサードからの解放」と言うこともできそうです。

ファサードとは外側から見た時の、特にその前面のことです。

ここで先ほどの2つをあえて、立面図にしてみましょう。



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ペレの建築は立面図では表せない豊かさを持っていることがわかるんです。

そして、実は、ルネサンス以降、建築とは右図のような立面図のファサードをどうデ ザインするかが対象になってきたのです。あの、円柱を張り付けたルーヴル宮から、 うねる植物装飾を施したエクトル・ギマールのアール・ヌーボーまで。

そう、それは、ステイタスをあらわす銀時計の、蓋に刻まれた精巧な模様のように、 街を形づくる景観にはなりました。しかし、20世紀、時が進んでいることを、短針 と長針の回転によって確認し、そして判断する、ペレのような市民にとっては、その、 機能自身が肝心なのだと。

だから、ペレは、まず、構造を成り立たせる鉄筋コンクリートという構法を採用する ことに踏み切りました。つまり、最初に骨組みをつくることで、あとは、その間を、 壁にするか窓にするか、あるいは内部空間を仕切るか仕切らないかは自由なのです。 ペレはフランクリン通りを歩きながら、頭の中で創造します。たとえば、さっきの床 と柱でできた骨組みの間を、色とりどりのガラスブロックで充填したら・・・それは、 レンゾ・ピアノのメゾンエルメスのように・・・ほら、なにかあたらしい建築が、ペ レのまえに、あなたのまえに、立ち現れませんか?



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●『愛と哀しみのル・コルビュジエ』次回は、いよいよ本編へ。鉄筋コンクリートの可能性とともに建築の未来を創造せんとするオーギュスト・ペレのもとで、あたらし い思考の種を育みつつある若者シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(後のル・コルビュジエ)は、ベルリン、ウィーン、そしてバル カン半島を下り、イスタンブール、アテネ、そしてイタリアへとまわるグランド・ツアーを 敢行します。そして出した答えは、

ラ・ショー=ド=フォンへ帰ること。
さまざまな学習や受けた影響を真にじぶんのものにすること。

いいえ、もっと言えば、かれには、じぶんに科した条件がありました。 

ゼロからはじめること。
問題を提起すること。

ではいったい、ラ・ショー=ド=フォンに戻ったかれは、どのように じぶんのヴィジョンをかたちにしていったのでしょう?

次回『愛と哀しみのル・コルビュジエ』は、ラ・ショー=ド=フォンでの実作、両親の家(ジャンヌレ=ペレ 邸)を読み解きつつ、いよいよドミノ・システムの構想に結実するまでを追う予定です。どうぞ、お楽しみに。






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