朱雀正道 homepage sujaku ぼくは、きょう、こんなことをおもうんだ。
裏の木戸の方から誰かの声がして。障子を開けてみると、それはご近所さんで。飛び石を踏みながら、その人はあらわれる。お天気や季節の挨拶を口にしながら、応接し。縁側で、話がはじまる。ことの次第によっては、お茶をだし。ここで長話もなんですから、と、なかへとおされる。むろん場合によっては、縁側だけで、話は終わる。(いや、それはもはや落語か昔の日本映画のなかにしか残っていない光景だけれど)。
<縁側>という不思議な場所。そこは、<内側>でも <外側 >でもなく、同時に、その両方でもあるような。
・・・というような、そんな高級なような文化的な見解はべつにぼくがおもいついたことじゃなく。どこかで読むか聞くかして、一瞬、へえ、と感心したことだった。だって、うまいこというもんだな、というだけじゃなくて、言われてみれば実際縁側じたいがそういうふうにできているからね。
縁側のついた宇宙。
縁側のある家に住んでいた記憶はぼくにはほんのかすかにしかないけれど、それでもどこか懐かしい。
で、話はここで飛ぶ。
(ぼくも好きな)日本の数人の建築家の人たちの、それぞれ意匠を凝らした、眼の醒めるようなクールでかっこいい空間のなかにいて、その空間を愉しんでいるときにも、気がつくと、ぼくは、「あ、この空間、縁側がついてるっぽいな」、なんてことを、ときどきおもう。
いや、もしかしたら、日本語そのものに、いわば<縁側> がついていて。
だから、人が日本語で考え、なにかをつくりだすとき、そこにはおのずと知らず、<enngawa> がついいちゃうのかもしれないな。たとえばカラオケだって
縁側、いたるところに出没!
と、一瞬、興奮してみたけれど、むしろこれは平凡な意見かもね。(なんだか「赤瀬川源平さん」をカラオケで歌ってるような原稿になちゃったな)。(2002/4/3)
●(カリブ育ちの両親を持ち、たしかブルックリンだかに家がある)ぼくの友だちジーリアンは、数年前吉祥寺で暮らしていて、ぼくは彼女といっしょによくカラオケに行った。宇多田ヒカルやシュープリームスやサム・クックやボブ・マーレーを、ぼくらはよく歌ったものだ。『ストップ・イン・ザ・ネーム・オブ・ラヴ』を歌いたがったのはむしろぼくで、ぼくらはそれをフリつきで歌いさえしたけれど、(フリをリードしたのはジーリアンだ)、考えてみればあの歌は、男が歌うとすごく変な感じがする歌詞かもね。と、そんなことは、いま、はじめて気がついたよ。ジーリアンは、あのときなにをおもって、ニコニコしてたんだろうな。
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