朱雀正道 homepage sujaku ぼくは、きょう、こんなことをおもうんだ。





taiyo





ヨーロッパの精神は、いつも太陽の力(理性)と、月の力(想像力)のふたつの極を運動している。太陽の光は事物を分離しその輪郭を照らし出し、他方、月はほのかな明かりのほかは闇のなかであらゆるものを通じ合わせてしまう。いつの時代にあっても、月は、夢見る者の、創造する者の守護神だ。とりわけ理性が暴走する時代には、必ず月の光が深い闇のなかで、きらめきを増す。

と、そんなことをおもったのは、先日完訳出版されたアンドレ・ブルトンの『魔術的芸術』を読んだからだ。そう、月の力に守られた一著だ。シュールレアリズムの王が書き残したその本は、民俗学と西洋美術史の結婚の書であり、人の精神に動揺を与える痙攣的な美を、その充実したアーカイヴのなかから取り出す試みだ。

おもえばシュールレアリズム運動も、第一次世界大戦という「雨」のその後、ヨーロッパに生まれた文学と美術を横断する運動でした。あらゆるイメージの結びつきを試み、主体を、理性を超えようとするその試みは、しかしやがて陳腐化し、その四半世紀後におとずれるテレビの時代にはすっかりコマーシャルのテクニックとして、おもいがけない場所ですっかり一般化してしまいます。

対極にあるのは、たとえばモンドリアンに代表される「太陽の」つまり「理性の」系譜です。モンドリアンは恣意性を削ぎ落とし、黄金分割に身を寄せ、抽象絵画の可能性を拓き、いわゆるモダン・アート・ヒストリーをリードしていくことになります。

このように、ヨーロッパの精神は、いつも太陽の力(理性)と、月の力(想像力)のふたつの極を運動しています。その運動そのものにこそ、むしろ意味があるとでもいうように。そのことを、ぼくは、とてもおもしろいとおもう。

あぁ、雨のあとのヨーロッパ・・・そんなタイトルの絵を描いたのは、マックス・エルンストでした。歴史とは、たくさんの雨の記録といってもいいでしょう。9・11の後のこの世界は、新しい中世のように見えます。いいえ、雨にめぐまれたのは、「光の」そして同時に「血塗られた」ルネッサンスだっておなじだし、早い話、どんな時代も、大差ないのかもしれません。

太陽の光で見えるもの。そして月の光で見えるもの。そのダイナミックな対位法、あるいはフーガ。そんなことを、雨の降る9月の朝に、ぼんやりぼくはおもうのだった。(2002/9/6)





●アンドレ・ブルトン著『魔術的芸術』巌谷國士ほか訳(河出書房新社刊)

●20世紀初頭に、合理主義への反逆を試みたのは、シュールレアリズム運動だけではなく。たとえば、西洋絵画からその隠されたメッセージを取り出すイコノロジー研究を生み出したことで名高いワールブルグ研究所にも、その明快な意志を読みとることができます。

●そして、どうやらバウハウスにも、同様の動機がふくまれています。(たとえば、ヨハネス・イッテンのなかに。あるいは、ややひかえめにつけくわえるならば、カンディンスキーはどうかな?)。ただしバウハウス全体については、そうはっきり要約していいかどうかはよくわかりません。(そのあたりが、バウハウスのおもしろいところなんだけれど)。










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