朱雀正道 homepage sujaku ぼくは、きょう、こんなことをおもうんだ。









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西洋人というのは変わったふうに考える人たちで、なにしろ音楽という耳の愉しみを楽譜を使って目でも制御するのだから。というようなことを先日ここで書いた。おなじような意味で、食事にだって、そんなことはいえるだろう。そう、西洋人は、変わった人たちなんだ。食事もまた、ソナタのように、ときにはシンフォニーのように、時間の流れの上に構成するのだから。

鰹のカクテルソースがけ

キャベツのポタージュスープ

フィレ肉のステーキ

アボカドのサラダ

枇杷の白ワイン煮

コーヒー

・・・と、まぁ、そんな具合に、ひとつひとつの料理が順繰りに出てくる。

たとえば日本人は、そんなふうには構成しない。すべての料理は、(たとえばお盆の上の)空間にあらかじめアレンジされている。さまざまな皿や鉢、椀のなかの料理の数々。お箸を使ってそれらを、気ままについばむ。(これがたのしい)。盆の上は、まるで庭のようだ。

キウリとカブのお漬け物  浅利のお吸い物  筍の茶碗蒸し  ホッケの塩焼き  冷や奴  モズク  昆布だしで炊いたごはん(白ごまをふりかけて、トンブリを混ぜて)

・・・と、まぁ、せっかくなので、理想的な「庭」を構成してみたんだけれど。違えば違うもんだよねぇ。そんな「庭」のことをミニマリズムなんて呼びたくもなるけれど、ただし、なにか対象の要素を切りつめミニマライズしていく、そのことの動機も意味も、洋の東西では、まるで違うんだよなぁ。あらためて、ぼくはそんなことをおもうのだった。(2002/5/7)





あんまり関係ないけど、先日、納豆箸と納豆鉢なるものを見かけた。それらは納豆のねばりを最大限に引き出すためのもので、木作りの箸は太くやや重く、(陶器でできた)鉢には半球状のちいさな凸がしつらえられている。釣書によると、この箸と鉢で、納豆を300回(!)かき混ぜよ、というのだった。とある器屋の店先で、それをを見かけたときは、驚いた。冗談だか純粋芸術だか・・・っておもったよ。で、しばらく手に取り、ためらったあげく、結局ぼくはそれを買ったのだった。で、どうだったかって? それがまた、すごいんだ。なにしろ、それを使って300回だから、すごくすごく、粘りがつくんだよ。粘りこそ、納豆の命。ぼくはあらためて、そうおもったのだった。  










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