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アドバイス [ No.010 - 019 ]

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No.010 『怖れを捨てよう』

幸運にも、心の温かい両親のもとに生まれ、無条件に愛情をいっぱい受けて育った人は、「自分は価値のある人間だ」という自信をもち、何ごとも肯定的にとらえることができます。
自分と同様に他人の価値も認め、人を信じ、尊重し、愛することができるから、自分もまた人から愛されるという、いい循環が自然に生まれます。

では、親に愛されなかった人は、どうすればいいのでしょうか。
人間は弱いもので、まず自分が誰かに心から愛されるという経験をもち、その喜びを実感できなければ、なかなか他人を愛することはできません。

幼い子供は、親に頼らなくては、生きていけません。親の存在というものは、自分の世界のすべてであり、生死にもかかわる重要な問題です。
その感覚を引きずったまま、大人になって社会にでると、世の中というものを、家族を拡大したものだと考えてしまいます。

運悪く、冷たい家族の中で育った人は、世間もどうせ冷たいものだと思ってしまうのです。
他人に嫌われるということに、死ぬほどの恐怖を感じてしまい、ビクビクと他人のご機嫌ばかりうかがってしまいます。
子供の頃にうえつけられた、間違った感覚を捨てなければなりません。

親に愛されなかったことは不運でしたが、それはまさに、単なる不運にすぎなかった、というだけのことです。
世の中には、何も悪いことをしていないのに、交通事故で大けがをしたり、家が火事になったり、「なぜ自分がこんな目に」と思うような不運に見舞われる人は、たくさんいます。
それと同じで、不運は誰にでも起こりうることであり、仕方のないことです。
逆に、「自分には、絶対にいいことしか起こらない」と判っていたとしたら、そんな人生が楽しいでしょうか。

運が悪かったのは、自分の責任ではありません。
しかし、不運を嘆いて、心を閉ざしてしまったり、攻撃的になったりして、他人から嫌われる人間になってしまえば、それは自分の責任です。
どんなに辛くても、愛される資格を放棄してはいけません。

まず、自分が愛されたかったように、無条件に、誰かを心から愛してみましょう。
その愛が必ず報われるという保証はありませんが、怖れてはいけません。
怖れを感じたなら、それは、「相手も当然、自分を愛してくれるべき」と、見返りを要求している証拠です。
あなたが理想に描いていた本当の愛とは、そんな恩着せがましいものではなかったはずです。
本当に人を愛したとき、怖れというものは、完全に消え去ります。

物やお金を他人と分け合えば、自分の取り分は減ってしまいますが、愛は、いくら分け与えても、決して減ることはありません。

No.011 『怒りを乗り越えよう』

「ひとつ屋根の下」という、大ヒットしたテレビドラマがありました。
過去のあやまちの許しを乞う人に向かって、登場人物のひとりが言ったセリフが、とても印象的でした。
「許すも許さないも、人間はそんなにえらくない」

自分を傷つけた人を許すことは、非常に難しいことです。頭では判っていても、なかなかできることではありません。
しかし、許すという行為でさえ、実は、意識の奥に多少の横柄さを含んでいるのです。
「許すか許さないかは、完全に自分の選択にかかっている。今回は、許してやるから、ありがたく思え」と、人を裁く神にでもなったような気になり、相手を見くだしていると言えなくはありません。

もちろん、憎んでいる人を許すということは、大変な勇気のいる、すばらしい行為です。
その「許す」ということさえ、見方を変えれば、ふてぶてしいことなのです。
「絶対に許せない」などというのは、ごう慢以外の何ものでもありません。

人格に問題のある人は、必ず、心の中に、誰かに対する激しい怒りを抱えています。
それは、あまりにも耐えがたい苦しみなので、抑圧し、意識の奥に閉じ込めようとして、ついには本当に忘れてしまうことさえあります。
しかし、いくらごまかしても、無意識の中の怒りの感情が消えたわけではなく、いつまでもくすぶり続け、表の意識をむしばんでいきます。

人を許すことができず、心に怒りを抱えている人は、どうかあのセリフを思い出してください。
「許すも許さないも、人間はそんなにえらくない」
他人を許すことができないなどと言う権利のある人は、この世にひとりもいないのです。

「他人のあやまちを許せない」という人にかぎって、自分のあやまちには目をつぶり、簡単に許してしまうものです。
人間は、一生かかっても、完璧にはなりえません。死ぬまでが修行といえます。
つねに自分をかえりみて、反省し、向上しようとつとめていれば、他人を批判する暇などないはずです。

人を許せないのであれば、仕方ありません。もう充分です。こだわるのはやめましょう。
人を裁くという行為は、神や仏にしかできないことです。
許すも許さないも、ありません。そういうものを超越した、新たな境地を切り開きましょう。あなた自身のために。

自分を傷つけたのも人間ならば、喜びを与えてくれるのも人間です。
これまで、怒りで目がくらんで見えていなかった、人の優しさ、温かさに触れることができるでしょう。
「愛」は、「怒り」よりもはるかに強力な、自分を守る武器となるのです。

No.012 『優しさを見極めよう』

「恋人が、以前は優しかったのに、この頃、冷たくなった」
よく聞かれる嘆きですが、たいてい、そういう人たちのいう「優しさ」とは、自分を褒めてくれる、自分を気遣ってくれる、自分にプレゼントをくれる、という程度のものです。

もちろん、そういう優しさも不可欠ですが、それは本来、人間としての優しさではありません。
誰だって、恋の始まりの頃は、相手の気を引こうと努力します。
肉体関係だけが目的のプレイボーイでも、女性を口説き落とそうと思えば、どんなに優しい言葉だって吐くし、女王様に仕えるように気を遣うでしょう。
セールスマンが、商品を買ってほしいばかりに、客をもち上げるのと同じです。

褒められたり、気を遣ってもらったりすれば、気分がいいものですが、「自分を気分よくしてくれる」ということだけで、「この人は優しい人だ」と思い込んではいけません。
「自分に優しくしてくれるから好き」といった程度の恋愛は、意地悪な言い方ですが、相手に飽きられてしまえば、それで終わりです。

もちろん、相手の気持ちを推し量るということは、重要です。自分の感情や都合だけを押し付けてはいけません。
しかし、「相手にどう思われるか」ということだけが、恋愛のすべてではありません。

相手の心ひとつにゆだねてしまうという、主体性のない恋愛は、つまらないものです。
いずれ、相手の心変わりに怯え、嫉妬に苦しまなくてはならなくなります。

相手が簡単に心変わりをするようなら、しょせん、その程度の人間だったということですし、そんな相手しか選べなかった自分も同レベルの人間ということです。
そういう恋愛と失敗を繰り返している人は、一度、恋人の選び方について、考え直してみたほうがいいでしょう。

どちらが主導権を握るか、などという問題ではありません。
ともに、「自分の責任において、自分の意思で、この恋愛に参加している」という意識が重要なのです。
恋愛ドラマの観客になってはいけません。自分が脚本家となり、シナリオを書くのです。

「愛するとは、互いに見つめあうことではなく、ともに同じ方向を見つめることである」とは、サン・テグジュペリの言葉です。
「私だけを見て」というのではなく、「ともに歩いていこう」という関係こそ、人生のよきパートナーとなりえるでしょう。

一度、相手を自分と切り離して考え、ひとりの人間として、判断してみてください。
「自分をどう扱ってくれるか」とは関係なく、相手の人格を総合的に見て、それでも好きだと思うなら、その恋はおそらく、長続きします。

No.013 『自分の値打ちは自分で決めよう』

人間は、文字通り、人と人の間にあってこそ意味のある存在ですから、他人からの評価というものは、重要です。
他人の目があるから恥ずかしくない生き方をしようと、プラスに考えられればよいのですが、自分に自信のない人は、いつも他人にどう見られているかばかりを気にして、他人からの評価が自分の価値のすべてであるかのように思い込んでしまいがちです。

他人の評価に一喜一憂して、神経をすり減らしていては、きりがありません。
人にバカにされたからといって、あなたの人間としての価値が下がるわけではないのです。
逆に、あなたが誰かのことをバカにしたからといって、その人の価値を下げることができるでしょうか。そんなことは、不可能です。それと同じことです。

自分の値打ちは、自分で決めればよいのです。
人を愛し、愛されるためには、心が健全でなくてはなりません。自分に自信がなければ、他人を尊重することはできません。

「自信をもてることの何ひとつない人間は、どうすればいいのか」という反論があるかもしれません。
しかし、自信をもつということに、特別な根拠などいらないのです。

「自分は、この世の中でたったひとりの、かけがえのない存在である。だから、自分は、生きているというだけで値打ちがある」という理由でいいのです。
むしろ、「学歴が高い」「容姿が美しい」「金持ちである」などの、条件つきの自信などというものは、はかなく、虚しいものです。逆にいえば、「それを失えば、自分は価値がない」ということになってしまいます。
無条件に、自分は価値のある人間だと思うこと、それは、誰にでも可能なことです。

「どうせ自分なんて、何の値打ちもない」と、自分を卑下する人は、本当は、愛されたい、認められたいと願望が人一倍強い人です。
自分が他人から否定されることを怖れすぎるあまり、先に自己否定することにより、けん制してしまっているのです。

厳しい言い方ですが、自信のない人というのは、控えめに見えて、実は、自分のことしか頭にない、ごう慢な人です。
「他人が変わらなければ、自分も変われない」と思っているから、そこで成長がとまってしまうのです。
まず、心のとらわれをはっきりと自覚し、そこから解放されなくてはいけません。

自信をもてばもつほど、他人を思いやる気持ちが生まれ、謙虚になれます。
「自分が大切」だからこそ、他人も同様に「自分が大切」だと考えていることを認めてあげられる、それが健全な人間関係というものです。

No.014 『孤独の楽しみを知ろう』

孤独を感じたときには、誰かにそばにいてほしい、と強く願うものです。
しかし、淋しいからという理由で恋愛を始めても、長続きする見込みはあまりありません。

淋しいときに恋人を求めても、自分と同じように淋しい人しか寄ってこないものです。
淋しい人同士が一緒にいても、孤独感を癒すことはできません。逆に、ますます淋しさを増すことになってしまうでしょう。
両方が、「もっと自分を認めてほしい」と要求しあうので、いつまでたっても心は満たされず、ついには互いを責め合う結果となってしまいます。

孤独感は、逃れようとすればするほど、大きくなります。
私たちは、孤独と正面から向き合うしかないのです。うまく付き合えれば、孤独は楽しいものです。
自分だけが孤独なのではありません。
人間として生まれた以上、孤独は、誰にとっても避けられない宿命です。

孤独な人間だと思われたくないばかりに、必死で友人や恋人とのつながりを求め、嫌われないように気を遣い、携帯電話やメールでひんぱんに連絡を取り合い、「楽しそうな人生を送っている私」を演じながら、心の中はへとへとに疲れている、という人の何と多いことでしょう。

焦って始めた恋愛は、ほとんど失敗に終わります。
恋愛経験の多さを自慢する人がいますが、それは、同じ数だけ恋愛に失敗しているということなのです。そんなことは、たいした自慢にはなりません。
一生のうち、真剣に愛する相手は、ひとりかふたりいれば十分です。

孤独を感じたときこそ、自分を見つめ直すチャンスです。
孤独の楽しみを知っている人は、人間として深みがあり、他人とも、表面的でない、親密な関係を築くことができます。
いつも誰かと一緒にいたり、携帯電話やメールで連絡を取り合ったりしていなければ安心できないのであれば、それは本当の友情や愛情ではありません。

「ひとりでも楽しいけれど、ふたりならもっと楽しい」という関係が、もっとも長続きするでしょう。
孤独を楽しめるようになれば、心に余裕が生まれ、自然に、必ず、よい恋愛に巡り合うことができます。

No.015 『内向的な性格を活かそう』

世の中は、外向的な性格の人が、とかくもてはやされます。
自己主張の強い者の勝ち、という考えが広まっており、内向的な性格の人は、何となく隅に追いやられ、肩身の狭い思いをさせられてしまっているようです。

もちろん、外向型の人は、それはそれで、大いに結構なことです。
しかし、それと同じように、内向的な性格にも、よい面はたくさんあるのです。
外向型の人は、パフォーマンスが派手で、目立つので、注目される機会が多いというだけのことなのです。

世の中のおよそ半分の人は、内向型でしょう。
内向型の人は、外向型の人に対して、つい引け目を感じてしまいがちです。
恋愛や人付き合いにおいても、消極的になってしまい、取り残されたような気になってしまうでしょう。

しかし、内向型が外向型に劣るなどということは、絶対にありません。
そもそも、そのように、いつも自分を反省する態度こそが、内向的な性格の特徴といえます。
外向型の人は、よくいえば楽天的、悪くいえば思慮が足りないのです。

内向型の人が、無理をして、外向型の人のように陽気に振舞う必要はありません。
性格というものは、自分の価値観の必然の結果なのです。
他人の目を気にしすぎて、自分を見失ってしまうところが、内向型人間の悪い癖です。

外向的な性格の人は、交友も広く、多くの人の人気を得ているように思われますが、実際は、軽く見られ、「深く付き合う相手ではない」と思われてしまっていることも多いのです。
どんなに友人が多くても、そのうち、真の親友というものは、せいぜい数人しか作れないのですから、同じことです。

あるテレビショッピングの会社では、CMに出演する役者に、わざと、口下手な人を起用するそうです。
口の達者な人が流ちょうに説明するより、口下手な人が、下手なりに懸命に説明する方が、視聴者の信頼を得られると考えているからだそうです。

「信頼を得る」という点では、内向型の人の方が、外向型よりも断然、有利です。
また、芸術の分野で成功する人は、何でも深く突きつめて考える内向型の人が、圧倒的に多いのです。

外向型と内向型の双方の長所と短所があいまって、人間の社会はバランスが取れています。
内向型の長所を最大限に活かす努力をしましょう。
きっと、理解してくれる人はいます。自分を偽ってまで、他人に合わせることはありません。

No.016 『自分のしたいことをしよう』

「自分のしたいことをする」ということに、罪悪感を感じる方もいるかもしれません。
子供の頃、「わがままをいってはいけません」「がまんしなさい」と厳しくしつけられたために、欲求を抑えてしまう癖がついているのでしょう。

もちろん、他人の迷惑も顧みずに傍若無人に振舞ったり、他人から何かを奪ったりすることは、悪いことに決まっています。
しかし、正常な感覚をもっていれば、他人を困らせたり、他人を悲しませたりしてまで自分だけが得をすることは、本当に喜べることではありませんので、おのずから、「したいこと」からは除外されるはずです。

自分の心に恥ずることなく、胸を張って語れること、見栄や私欲ではなく、心からの充実を感じられることであれば、「したいこと」は、躊躇することなく行っていいのです。行うべきです。

人は、自分の喜びのために生きていいのです。
そのエネルギーが、まわりの人にも幸せを分け与えます。

「幸福論」を著したアランは、「人は、幸福になる義務がある」といっています。権利などという甘いものではなく、幸福は義務だといっているのです。
幸福も不幸も、少なからず周囲の他人に影響を及ぼすからです。

毎日の生活に充実を感じていない人は、他人の幸せを妬み、他人の不幸を願うようになります。
自分の喜びのために生きていなければ、人を愛することはできず、人から愛されることもありません。

樹木は、少しでも深く根を張り、高く成長し、多くの実をつけようとします。
犬は、広場につれていけば喜んで走り回りますし、鳥は、鳥かごから出してやれば、大空へ向かって飛び立ちます。
自分に与えられた能力を最大限に発揮しようと努めることが、生物に与えられた本能であり、生きる喜びそのものなのでしょう。

縁起でもない話ですが、もしあなたの命が、あと数年で終わると判ったなら、残された期間、何をしますか。
あなたが今、思い浮かべたことが、きっと、あなたにとっての理想の幸せの形です。
では、なぜ、それを今すぐに実行しないのですか。

自分が本当にしたいことは何なのか、自分はどういう人間になりたいのか、心からわき上がる声に耳を傾けてください。
自分が求める幸せが、他人の不幸の上に成り立つものでなければ、誰に遠慮することもなく、堂々と求めていいのです。

No.017 『自分なりの価値観を定めよう』

読者の方からいただくメールでもっとも多いのは、「どうすれば自分に自信がもてるのか」という内容のものです。

ある男性は、「私のような貧乏人は、女性に相手にされるわけがない」と言います。
私は、そういうお悩みに対して、「あなたが、貧乏であることを恥ずかしいことだと思っているのですから、仕方がありません」と答えるほかありません。

いくら私が「経済力と人間の価値とは関係ありません」と言っても、それはあくまで私の価値観であるにすぎないのです。
私は自分の価値観が正しいと信じていますが、それが万人に共通する絶対的真理であるとは思っていません。
世の中には、お金がすべてだと考えている人もいるでしょう。
その人がそれで幸せなら、他人の幸せを否定する権利は私にはありません。ただ、私はそうなりたいとは思わない、というだけのことです。

人それぞれが、自分なりの価値観に従って生きています。
暴力で他人を服従させることはできても、意思までも変えることはできません。
価値観は、その人の自由な意思によって導き出されたものなのです。
「お金のある者の勝ちだ」と考えるのが自由なら、「お金がないから自信がもてない」というのもまた、その人が自由に考えたことなのです。

自分が、自分の価値観に従って自分を無価値だと決めつけ、悩んでいる。――その姿は、自分で自分の首をしめながら、誰かに助けを求めているのと同じです。
その手をゆるめさえすれば、楽になるのです。

「劣等」から「劣等感」が生まれるのではありません。「劣等感」から「劣等」が生まれるのです。
人間に客観的な劣等など存在しません。劣等感をもってはじめて、本当に劣等となってしまうのです。

自分に自信がもてないという人は、以下のことに注意してください。
「私は貧乏だから価値がない」と言うことは、世の中のすべての貧乏な人を侮辱することになります。
貧乏でも、明るく前向きに生きている人はたくさんいます。
自分の弱さを一般論にすりかえてごまかしてはいけません。
貧乏であることが恥ずかしいのではありません。貧乏を恥ずかしいと思うことが恥ずかしいのです。

「私は太っているからモテないのだ」と言うことは、世の中のすべての太っている人を侮辱することになります。
「私は体が不自由だから不幸だ」と言う人は、世の中のすべての身体に障害のある人を侮辱することになります。
あなたはもう、何かと理由をつけて「自分は価値がない」などと言うことはできません。それは、同じ境遇の人に対して、とても失礼な発言なのです。

人間にとって、幸せとは何か。何が正しく、何が間違っているのか。何が美しく、何がみにくいのか。
絶対に正しい答えはありません。自分の頭で考え、自分なりの価値観を確立してください。

世の中には、あなたをバカにする人もいるでしょう。しかし、その人は自分の独善的な価値観でものを言っているにすぎないのです。
あなたが腹を立てたり、落ち込んだりしてしまえば、それは相手の価値観を認めることになってしまいます。
そんな人のことは、気にしなければいいだけのことです。
どんなに立派な人格者だって、妬みから悪口を言われることもあるでしょう。
すべての人に認められるなどということは、不可能だし、必要のないことです。

自分の価値観を他人に押し付けず、他人の価値観に惑わされない。
自分の信念を貫きながらも、間違いに気づけば改める謙虚さをもつ。
それが自信をもつ方法です。
人の道に外れることなく、まっとうに生きてさえいれば、何も恥ずかしいことなどありません。

No.018 『毎日の目標を決めよう』

現代は、夢をもてない時代だと言われます。
学業にも仕事にも恋愛にも無気力、「どうせ〜」が口癖の若者が増えてきました。

人類は、長い歴史の中で、多くの血を流して「自由」を求めて戦ってきました。
その自由を手に入れることができた現代、法律上は、身分階級もなく、誰でも平等です。何をして生きようが、まったく個人の自由なのです。
しかし、「自由」という名の広大な海に放り出された人々が、どちらの方向に、何を求めて進んでいけばよいのか判らず、ふぬけのような状態になっているのは、まったく皮肉なことです。

自由というものは、権利であると同時に責任も伴うものです。
その結果に対する責任は、自分で負わなくてはなりません。
他人から強制された方が、責任を転嫁できるだけ楽だと言えるでしょう。

自分なりの目標を決め、努力しても、それが叶えられなかった時、それは誰の責任でもなく、自分に能力がなかったから。それを認めるのが怖くて、最初からあきらめてしまっている人が多いのでしょう。
そういう人は、イエスかノーか、0か1かという、デジタル式な考え方しかできず、その中間もあるということに考えが及んでいないのです。
人生は、成功か失敗か、ふたつにひとつではありません。その間に無数の点が存在するのです。

目標をもつということには、二通りのやり方があります。
ひとつは、高い最終目標をかかげ、そこに向かって一直線に努力するというやり方です。
もうひとつは、特にゴールを定めなくとも、毎日、簡単に実現できる小さな目標を決めて、少しずつ達成していくというやり方です。

あまりに高い山を見上げて、立ちすくみ、登るのをあきらめてしまうなんて、つまらないことです。
最初からあきらめて、何もしない人は、結局、「無為な人生を送ったことに対する責任」が自分にふりかかってきます。
自由に伴う責任からは、逃れられないのです。

頂上が見えなくても、毎日少しずつ、一歩ずつでも歩んでいきましょう。
ふと気づいて、振り返ってみれば、いつの間にかずいぶん登っていたな、と気づくことでしょう。

「現在、どれくらいの高さの地点にいるか」は、生まれもった才能や運などにより、個人差があります。
それよりもっと重要なことは、「少しでも上を目指して努力しているか」ということです。
高い地点にいても、あぐらをかいて怠けている人よりは、低い地点から這い上がろうと努力している人の方が、人間として魅力があります。

毎晩、寝る前に、「24時間前の自分と、今の自分とでは何が変わったか」を考えてみましょう。一日一日が、新鮮で、とても貴重なものに思えてくるはずです。
ほんのわずかなことでいいのです。簡単なことから、始めてみませんか。

No.019 『自己愛をもとう』

人を愛するためには、まず自分を愛することが絶対条件です。
「自分を愛する」とは、他人を顧みず、わがまま勝手、利己的になるということではありません。
不安や虚栄心から生まれるのは、まったく逆の、ゆがんだ形の自己愛です。
真の自己愛とは、「はっきりと目覚め、自分の足でしっかりと地面を踏みしめながら歩いているという実感をもつこと」です。

仕事がつまらない、恋人が冷たい……。自分の人生への不満を、他人のせいにしてはいませんか。
悪いことを他人のせいにすれば、一時的に楽なように思えますが、結局は自分自身を苦しめることになります。
目覚めなくてはなりません。

現代では、人生を自由に選択できます。
どんなに消極的な選択であっても、それは自分の意思で選んだ結果なのです。
「いやいやながら、人の言いなりになった」のだとしても、「自分の主張を通して面倒なことになるより、人の言いなりになる方が楽だ」と、最終的に決断を下したのは、自分自身です。

人間の尊厳にかけて、どうしてもやりたくないことは、凶器を突きつけられて脅迫でもされない限り、拒否することができるのです。
それによって何らかの不利益を受けても、自分で選択したことであれば、後悔はないはずです。

自分の人生が他人の意思によって決められてしまうのだとしたら、生きることに何の喜びがあるでしょう。
私たちは、奴隷でもロボットでもありません。
「選択をしない者は、選択しないという選択をしているのだ」と、外国のことわざにあります。
紛れもなく、自分の選択の積み重ねの結果が、現在の自分なのです。

すべてが自分の思い通りになるわけではありませんが、自分で道を切り拓こうと最大限の努力している人は、人間として魅力があります。
もっともつまらないのは、自分の意思をもたずに、何でも他人任せにしておきながら、不満ばかり言っている人です。

もちろん、何でも悪いことを自分のせいだと考えて、落ち込んだりする必要はありません。
自分が、自分の人生の主人公になると考えればよいのです。

石につまずいて転んだら、石に腹を立てるのではなく、立ち上がって、今度はつまずかないように注意して歩けばいい。
道を間違えたら、標識の間違いを責めるのではなく、もとの位置へ引き返して、やり直せばいい。
そう考えるだけで、ストレスも、心の傷も、大きく減少するはずです。

正しい自己愛をもっている人は、いきいきとして、目が輝いています。
自分自身を心から愛せる人が、他人も愛することができるのです。