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アドバイス [ No.160 - 169 ]

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No.160 『弱いからこそ満たされる』

せっかく他人に親切にしてあげたのに、相手に一言の礼もいわれず、腹が立つことがあります。
他人から親切を受けたときに礼を言うのは、もちろん、人間として最低限のマナーです。しかし、マナーとは、自発的に行うものだからこそ意味があるのです。
相手に「礼を言え」と強要し、無理やり言わせて満足している人は、感謝というものの本当の意味が判っていないのです。

「礼を言わない人」への怒りを抑えるもっともよい方法は、自分が他人に礼を言うときには、心を込めて言うことです。
「感謝とは、自発的に、心を込めて行うもの」だということが判っていれば、他人に礼を言われるかどうかなどということは気にもならないはずです。

他人に対する不満は、実は、自分自身に向けられていることが多いものです。
自分の劣等感や罪悪感を認めることが苦しいから、問題を他人事にすり替えてごまかしているのです。

ある女性は、恋人がギャンブルでつくった借金を何度も肩代わりさせられ、つらい思いばかりさせられているのに、なかなか別れることができません。
彼女の言い分は、「彼は、私がいてあげないとダメだから」ということです。

しかし、もはやそれは愛情ではなく、優者が劣者を憐れむ同情にすぎません。
彼女は、彼に必要とされているのではなく、必要とされることを必要としているにすぎないのです。内心では、彼がいつまでもダメ人間であり続け、自分に頼ってくれることを願っているのです。
借金の肩代わりをすることが、よけいに彼をダメにし、自分自身もダメにしていることに気づかなければなりません。

いずれも、相手に依存しておきながら、相手よりも優位に立ちたいという欲求がもたらした苦悩です。
「人の役に立つ人間になりたい」という願望は、悪いことではありませんが、ともすれば、他人に感謝されることによって自分の優位を確保し、相手を心理的に支配したいという利己的な欲求とはき違えられがちです。

本当の幸福は、他人に譲ることで感じられるものです。
他人に優位を譲りながら、自分の心も満たされることができれば、これに勝るものはありません。
無気力に他人に屈するのではなく、意志と誇りをもって優位を譲るのです。たとえそれが自己満足であっても、不満を並べるだけの人生よりはよっぽどましです。
他人を立てることは、けっして自分の価値をおとしめることにはなりません。
他人に何かをしてもらわなければ満足できない人こそ、自分の価値をおとしめているのです。

「思い通りにならない人生」を受け入れるということは、自分を無価値な人間だと卑下することとはまったく異なります。
他人から認めてもらえず、自信を失っている人にとって必要なことは、くじけないように自分を奮い立たせることではなく、他人に負けない強さを身につけることでもなく、「多くの縁のおかげで、自分は生かされている」という感謝の心をもつことです。

他人が自分よりも優れていたり、恵まれていたりするときは、ただそれを素直に認めるのはよいのですが、卑屈にいじけるのはよくありません。
勝つか負けるかの競争の中では、けっして幸せは見つけられません。
「もっと欲しい」という不満に悩まされ続けるよりも、「もらいすぎては申し訳ない」という心構えをもっていたほうが、はるかに心豊かに生きられます。

人は誰でも、自分が一番大切です。それはまっとうな自己愛であり、無理に抑える必要はないのですが、他人にもその自己愛を押しつけてはいけません。
他人にとっては、やはりその人自身が一番大切なのです。
自己愛をもつ人間同士、互いを認め合うということが重要です。

No.161 『愛することと許すこと』

結婚した女性からよく聞かれる夫への不満に、次のようなものがあります。
「彼は結婚するまでは優しかったのに、結婚した途端、釣った魚に餌はやらないとばかりに、すげない態度をとるようになった」

もちろん、結婚する前と後で態度を180度変えるような男性は責められるべきですが、厳密に言えば、彼は変わったのではなく、本来の姿に戻っただけなのです。
もともと彼は愛情深い人間だったわけではなく、彼女の心を射止めたいために無理をして優しいふりをしていたにすぎないのです。

そして、そういう夫を非難している妻のほうも、自分も変わってしまったのだということに気づかなくてはなりません。
彼が自分を美しいと褒めてくれたり、洒落たレストランに連れて行ってくれたりしていたころは、自分も彼を愛していると言っていたのに、彼がそれら諸々のことをしてくれなくなった途端、手のひらを返して彼を非難するようになってしまったのです。

つまり彼女のほうも、彼という人間を愛していたのではなく、彼が自分を欲してくれることに気をよくしていただけなのです。
「〜してくれるから好き」というのは、愛情ではなく、相手を所有し、利用したいという願望にすぎません。
「自分に気を遣ってくれるか」ということだけで男性を品定めしようとするから、表面的な優しさで女性に取り入ろうとするような男性しか寄ってこないのです。

男女間の愛情は、情熱によって始まりますが、情熱は、必ずいつか冷めるときがきます。
情熱が冷めることと愛情が冷めることは異なります。情熱は激しく、盲目的なものですが、愛情は穏やかに、冷静に育むものです。
情熱が冷めたときこそ、真の愛情が試されるのです。

自分が相手に利用されていただけなのだということに気づいて腹が立つのは、自分も相手を利用しようとしていたにすぎないからです。
相手が自分を愛していなかったという事実を認めることによって、本当は自分も相手を愛していたわけではないという心の内面をえぐり出されることが怖いのです。
他人に裏切られた、だまされたと嘆いている人は、その前に、自分で自分の心をあざむいていなかったかを見直さなければなりません。

人は、自分の心の中に抑圧した「みにくいもの」を他人の中に見るとき、強い恐怖と憎悪を感じます。
臆病な人間は、他人の臆病さを許すことができません。思いやりのない人ほど、他人の冷たさを非難します。
他人を通して自分のみにくい部分を自覚させられることが怖いので、ますます他人を攻撃することによってごまかそうとするのです。

他人が自分の機嫌をとってくれなければ気がすまない人は、おそらく、子供のころ、親の気に入る行動をとらなければ自分は見捨てられるという恐怖に怯えていたのではないでしょうか。
そして大人になってからも、他人に愛されるためには相手の機嫌をとらなければならないと思い込んでしまっているのでしょう。

だから、他人にも同じように「私に愛されたければ、私の機嫌をとりなさい」と要求し、相手が従おうとしなければ、ひどい屈辱を感じ、「機嫌をとらないのであれば、あなたを見捨てるぞ」という、まさに自分が子供のころにもっとも怖れていた言葉を突きつけて脅そうとするのです。

他人を喜ばせることはよいことに違いありませんが、その動機が「見捨てられるのが怖いから」というのでは、互いのためになりません。
必死で他人の機嫌をとる人は、機嫌をとっているかぎりにおいては不安から逃れられますが、心の深い部分では、相手に愛されているという実感をえられず、自分も相手を愛せないという罪悪感に苦しむことになってしまいます。
深い部分で自分を許していないから、他人も許すことができないのです。

他人を許せないと思うとき、まず、そういう自分自身を許さなくてはなりません。
欠点をもった人間同士、互いに許し、許され合いながら生きているのだということを認めれば、他人にも寛容になれるはずです。

欠点は、改められればそれに超したことはありませんが、あまりに神経質に「一点の汚れもあってはならない」などと思い込んでは、いつまでも自分を受け入れることができず、また他人の欠点も許せなくなってしまいます。
自分の欠点をはっきりと認識し、それが悪い形で言動に表れないように注意しさえすればよいのです。
「欠点とともに生きていく」というくらいの余裕をもてば、欠点はそれほど大きな問題とはならないでしょう。

No.162 『欲求を解放する』

ある劇団では、新しく入った役者に度胸をつけさせるため、人の多い通りで大声で歌を歌わせます。
新人役者たちは、はじめのうちは恥ずかしそうにしていても、やがて慣れてきて、平気で人前で歌うことができるようになります。

それは、他人の厳しい視線に耐えられるほど神経が図太くなったからではありません。「他人は、それほど自分のことなど気にかけてもいないのだ」ということに気づくからです。
道行く人たちは皆、ちらりと目をやるのですが、たいして気にもかけず去っていくのです。
役者たちはやがて、「もっと注目されるにはどうすればいいか」と考えるようになります。

恥ずかしがり屋の人は、たいてい、自己顕示欲が強いものです。本当は、他人から注目されたくて仕方がないのです。
「人と話すのが恥ずかしい」という感情の裏には、「他人は、いつも自分のことを細かく気にかけているに違いない」という思い上がりがあります。
それを抑圧し、ごまかそうとして、まったく反対の行動をとってしまうのです。

他人から注目されたいという欲求は、通常の人付き合いではいろいろ困ることもあるでしょうが、悪いことばかりではありません。
たとえば役者という職業は、自己を表現したいという強い欲求がなければ、観客の心に響くようなよい演技はできないでしょう。
劇団が新人役者に人前で歌わせるのは、自分の素直な欲求を自覚させるためでもあります。

気が強く負けず嫌いの人は、スポーツ選手になるには有利でしょうし、神経質で凝り性の人は、芸術家や職人に向いています。
どんな欲求も、無理に抑圧せず、よい形で解放する方法を見つけてやれば、かえって自分の大きな強みとなるものです。

「自分は容姿がみにくいからモテないのだ」という人がいます。
「なぜ他人は皆、容姿で人を判断しようとするのだ」と嘆いているのですが、実はそういう本人が一番容姿にこだわっているのです。
本当に自分が「容姿は人間の価値とは関係がない」と思っているのであれば、容姿のこと自体が気にならないはずです。

世の中のほとんどの人は、他人の美しさというものを、目鼻立ちのみによってではなく、内面からにじみ出る表情なども合わせて判断しているのに、「容姿で人を判断するな」と訴えている当の本人だけが、「生まれつきの美人やハンサムでなければ愛されない」という偏見に凝り固まっているのです。
そういう人は、以前に誰かから容姿のことを悪く言われ、その人をずっと許せずにいるのでしょう。
人を許せない自分が許せないから、いつまでもこだわってしまうのです。

自分に自信がもてない人は、自分は他人に何かを許してもらわなければならない立場なのだと思い込んでいます。他人が許してくれないから、自分は他人を怖れてばかりいるのだ、というわけです。
しかし、実は逆なのです。自分は「他人に許しを請う側」ではなく、「他人を許す側」なのだということに気づいてください。
自分の心の裏側に渦巻いている「他人への怒り」を解放してやらなくてはなりません。

他人がどういう言動をしようとも、「その人がそうした、そう言った」という事実があるだけです。何かが減るわけでも、飢え死にするわけでもありません。
殿様の機嫌を損ねれば切り捨てられることもあった江戸時代ならまだしも、自由と平等の時代である現在、「この人に認めてもらわなければ、自分は絶対に生きていけない」などという相手は存在しません。

腹が立ったり、ショックを受けたりしたときは、「それによって、どのような実害を被ったか」を冷静に考えてみてください。
たいていのことは、取るに足らないことなのです。人生の目的は、「他人にバカにされないこと」ではないはずです。

他人は、自分以上には自分を理解してくれません。
自分のことをもっともよく判っているのは、自分自身なのです。
「他人に理解してもらうこと」を求めすぎてはいけません。自分が自分の素直な感情や欲求を認めてやれば、それで充分なのです。

自分の良心にやましいところがなければ、誰かの許しを請う必要などありません。自分の欲求に従い、思うままに生きればよいのです。
そのためにはまず、自分を傷つけた人を許し、自分自身を許してください。
人は皆、「許してもらわなければならないこと」よりも、「許さなければならないこと」のほうがはるかに多いのです。

No.163 『結果ばかりを求めてはいけない』

好きな異性に話しかけたいが、会話が途切れて気まずい雰囲気になるのが怖い。
友達の輪に入りたいが、口べたなので、浮いた存在となってしまいそうで不安だ。
人付き合いの不得手な人の問題点は、たいていの場合、失敗することを怖れてしまう「結果主義」にあります。

「急いては事をし損じる」とは、人付き合いにぴったり当てはまる言葉です。
他人となかなかうち解けられない人は、付き合いそのものを楽しむことを忘れて、「私には友人がいる、恋人がいる」という結果だけを求めようとしてしまうのです。
デートの後も、「うまく話せただろうか」「相手は楽しんでくれただろうか」と、結果ばかりを気にかけてしまいます。

結果主義の人は、少しでも自分と親しくしてくれる人がいると、その人に執着して、ずっと親しくし続けてくれることを要求し、それが叶わないと、裏切られたといって嘆いてしまいます。
よく言えば一途で一本気ですが、他人をも巻き込み、自分の都合を押しつけてしまうことが問題なのです。
そして、一度相手を嫌いになると、今度は徹底して嫌うようになります。敵か味方かをはっきり分けておかなければ安心できないのです。

明るく社交的で、誰とでもすぐに仲良くなれる人がいますが、そういう人は、他人にそれほど深い付き合いを求めてはいないものです。
いくら短い時間でうち解けあっても、しょせん、それだけの浅い関係でしかありません。
友人の多い人も、少ない人も、腹を割って話し合える親友をつくるには、長い時間を必要とするという点では同じなのです。
焦って結果を求めれば、たいてい失敗に終わります。

自分に優しくしてくれる人がいたら、心からの感謝を表すのはよいのですが、してくれる以上のことを要求したり、つねに優しくし続けてくれることを要求したりしてはいけません。
それはけっして、相手を信じていないから冷淡な付き合い方をするということではありません。
優しくしてくれた人に感謝もせず、それを当然のように要求することのほうが、相手をないがしろにした冷たい態度なのです。

大げさな言い方をすれば、自分がよい友人に恵まれたかどうかは、遠い将来、死ぬ間際にしみじみと振り返ればよいことです。
現在の過程そのものを楽しまなければ、人と付き合う意味はありません。

何かに挑戦するとき、「もし失敗したなら、かえって損だ」としか思えないなら、目指している方向を見直す必要があります。
挑戦すること自体に意義があると思えなければ、やる価値はないのです。
目指す方向が間違っていなければ、たとえすぐにうまくいかなくても、自分を責めたり自己嫌悪に陥ったりすることはなく、「次はああしてみよう、こうしてみよう」という意欲がわくことでしょう。

不満が多いということは、まだまだ学ぶべきことが残っているということです。
学ぶべきことが多いからこそ、人生は生きる価値があるのです。
「よい結果をえること」ではなく、「今、学んでいること」が重要なのです。

たとえ他人との関係がうまくいかなくても、互いの違いを認め、人格を尊重し合っているならば、それは失敗ではありません。
人間関係での失敗とは、嫌われまいとして相手に合わせてばかりいたり、強引に相手を従わせようとしたりすることをいいます。
人付き合いにおいて、成功か失敗かは、結果によって決まるのではなく、はじめの心構えですでに決まっているのです。

No.164 『他人を理解する』

集合住宅での騒音は、人間関係の希薄な都会に住む人にとっては、悩ましい問題です。
幼い子供のいる家庭では、まわりに迷惑をかけているのではないかと気を遣いながら、肩身のせまい思いをしている人もいるでしょう。
子供が泣いたり歩き回ったりすることを完全にやめさせることはできません。かといって、仕方がないのだからほかの住民は我慢すべきだと一方的に押しつけるのも勝手すぎます。

こういう場合、もっともよい解決方法は、日ごろから子供を連れて近所にあいさつに行っておくことです。
近所の人にとってみれば、赤の他人の騒音はうるさく感じられますが、「ああ、あの子が音を立てているのか」と、顔の見える付き合いをしている相手ならば、それほど気にはならないものです。

人付き合いにおいて、まず大切なことは、相手を知り、自分を知ってもらうということです。
誰にでも愛嬌を振りまいたり、付き合いにくい人とまで無理に仲良くなろうと努力したりする必要はありません。
親しくなれなくても、ともかくよく「知り合う」ことで、ほとんどの問題は解決できるのです。

人付き合いが苦手で、殻に閉じこもってしまう人は、自分以外の皆が幸せに見えるか、皆が冷たく感じられるか、どちらかに偏ってしまいがちです。
どちらにしても、世の中は不公平で、自分だけが特殊な問題を抱えていると思い込んでいるのです。
世の中のすべての人が幸せであったり、すべての人が冷たかったりということはありえません。それは、他人のことをよく「知らない」ことからくる錯覚です。

幸せそうに見える人が、実は大きな悲しみを抱えていることがあります。
一見明るく社交的な人が、心の底では他人から見捨てられる恐怖に怯えていることがあります。
大嫌いだった人が、自分にはない長所をもっていることを知り、はっとさせられることがあります。
他人を知るとは、その人に共感することから始まります。すべてに共感できなくても、同じ人間同士、どこかひとつは通じるところがあるはずです。

好き嫌いという感情はさておき、その人をありのままに認めるということが人付き合いの基本です。
他人を認めるということは、節操もなく相手の考え方に同調したり、どんなひどい扱いを受けても我慢したりするということではありません。

好きな人は好きなままに、嫌いな人は嫌いなままに、価値観の異なる人は異なるままに、ただ「あなたはあなたの考えに従って生きる権利がある」と認めるだけでよいのです。「私はあなたのことをこう思っているんだぞ」ということを相手に押しつけてはいけません。
自分が相手を愛しているからといって、相手にも自分を愛するよう要求する権利はありませんし、自分が相手を嫌っているのであれば、相手が自分を嫌う権利も認めなければなりません。

他人をありのままに認めることに慣れてくれば、次の段階として、できれば他人の長所を引き出すよう働きかけてあげればよいでしょう。
「他人のためになることをする」ということは、他人を助けてあげたり、自分のもっているものを分け与えたりすることばかりではありません。
もっとも「他人のためになる」ことは、他人のよいところを引き出してあげることです。

神経質な人は、よくいえば几帳面ともいえますし、くよくよ悩んでばかりいる人は、思慮深いともいえます。
口べたな人は、他人をたぶらかすことのできない善良な人ですし、不器用で動きののろい人は、ずる賢く立ち回ることはできません。

他人の個性を長所として認め、よい方向に活かしてあげるのです。
自分を犠牲にしたり、何か損をしたりするわけではありませんので、裏切られる心配もありません。
どうしても他人に文句を言いたいことがあるときは、みっつ褒めてから、ひとつ苦言を呈すれば、素直に聞き入れてもらえるでしょう。

いろいろな人を理解していくうちに、自分も他人も、似たようなことで喜んだり悲しんだりしている同じ人間なのだということが判ってきます。
他人が自分を愛してくれないと嘆いている人は、自分も他人を愛することができないという劣等感を抱いているのでしょう。
同じように世の中の多くの人も皆、不安や罪悪感や後悔にまみれながらも、精一杯生きているのです。
自分だけが特殊なのではありません。

他人を理解することによって、自分自身が判るようになり、自分自身が判れば、ますます他人も理解できるようになります。
いいことばかりは続きませんし、悪いことばかりも続かないものです。
人間は、誰にとっても自分が特別な存在ですが、客観的に特別な人などというのはいません。
自分に自信をもつためには、現実を変えるのではなく、現実の受け止め方を変えればよいのだということに気づくことでしょう。

No.165 『自分の価値を認めるには』

自分に自信がもてない人は、他人からの賞賛をえようとやっきになってしまいます。心の空洞を他人に埋めてもらおうとするのです。
他人から認められることは、喜ばしいことには違いありませんが、それだけを目的として努力しても、自信にはつながりません。

体の栄養にたとえるならば、他人からの賞賛は、サプリメントのようなものです。食事をとらずに、サプリメントだけで栄養を補給しようとするのは、健康的ではありません。
心にとって本当に大切な栄養、すなわち自信をえるためには、自分の心で自分を認めなくてはならないのです。

自信をもつために、何かをえようと必死で努力する必要はありません。
「何もしなくても、何もえなくても、自分はこの世に存在するだけで価値がある」と考える癖をつけるしかないのです。
頭がよい、金持ちである、こういう業績を残した、などという条件付きの自信というものは、本当の自信ではなく、他人と較べての優越感や虚栄心にすぎません。
自分に自信をもつ唯一の方法は、無条件で自分を認めることです。

自分に自信がもてず悩み苦しんでいる人も、はじめから自己無価値感をもって生まれてきたわけではないでしょう。
まだ正しい判断力をもち合わせていなかった子供のころに、まわりの卑怯で臆病な人間によって、「お前は価値のない人間だ」という間違った考えを植え付けられてしまったのです。

生まれたての赤ん坊は、言葉も生活様式も判りません。人から学んで覚えていくものです。
日本人に生まれた子供は、日本語を習い、日本の生活の仕方を覚えます。アメリカ人に生まれれば、アメリカのそれらを身につけます。
考え方も同じように、人から教えられて身についたものです。生まれつきもっていたわけではありません。
思い込みによって身についたものですから、心のもち方次第で変えることができるのです。

自己無価値感に苦しむということは、子供のころから染みついていた自分の考え方の間違いに気づくということです。
もっとも怖ろしいことは、間違いにさえ気づかず、自分の意志をもてぬまま、無為に一生を終えることです。
間違いに気づくことは、幸いです。成長したことの証拠なのです。自分が正しい意志に目覚めたことをはっきりと認めてください。

なかなか自分の価値を認められない人が陥っている勘違いは、「自分の価値を自分だけで認めても、それは結局、独りよがりな自惚れであり、現実から目をそらしているだけの自己欺瞞であり、ごう慢で無責任な態度なのではないか」ということではないでしょうか。

そんな心配はいりません。人は、自分を認められれば、ますます謙虚になり、他人を尊重し、自分の人生に責任をもてるようになるものです。
自分で自分を認められないから他人に認めてほしい、と要求ばかりしている人のほうが、よっぽどごう慢で無責任なのです。

他人を完全にコントロールすることはできません。
自分がコントロールできるのは自分の心だけであり、自分の心をコントロールできるのは、自分だけなのです。

といっても、何でも自分ひとりで抱え込んで苦しむことはありません。困ったときには友人の助言を求めてもよいし、淋しいときには恋人に慰めてもらってもよいのです。
しかし、他人に認めてもらうということは、足りない栄養を補うサプリメントにすぎないということを忘れてはいけません。
しっかりとした食事で栄養を摂るのが本筋です。
自分で自分を認めた上で、確認のために他人の意見を参考にするのはよいでしょう。

No.166 『嫌なことを認める』

何も楽しいことがない、自分がどうしたいのかが判らない、という人は、「嫌なこと」で頭がいっぱいになっています。
嫌なことを処理するだけで疲れ切ってしまい、楽しいことにまで目が向かないのです。
楽しみを見つけるための第一歩は、嫌なことを嫌だとはっきり認めることです。

心ない人間に傷つけられてばかりいる人は、嫌だと思いながらも、自らそういう人たちに執着してしまっているのです。
他人からの要求を断ったとき、それを非難されれば、やはり自分は無責任で冷たい人間なのかと思ってしまうこともあります。
さらに悪い場合には、他人に逆らえない自分の情けなさをごまかすために、自らすすんで相手に従っているのだと自分に言い聞かせてしまうこともあります。

嫌なことをなぜ自分が嫌だと思うのか、頭で考えても判らないことがあります。
しかし、理屈ではっきり説明できなくても、心の奥から「嫌だ」という声が聞こえてくるなら、やはりそれはきっと、自分にとって好ましくないことなのです。
相手に対して法的な責任を負っていないかぎり、嫌なことは断ってもよいのです。

他人にノーを言えない人は、逆に自分が他人からノーと言われることを怖れ、もし言われたときには激しい怒りを感じてしまいます。
たったひとりの人間からノーと言われることを、天地がひっくり返るほどの一大事だと思い込んでいるのです。

他人からの不当な要求や、好きでもない人との付き合いは、自分が嫌だと思うなら、はっきりと断りましょう。
もちろん、露骨に「あなたとは付き合いたくない」というのは失礼ですし、無用なあつれきを生みますから、適当に言い訳をするのはかまいません。しかし、自分の心にまで言い訳をすることはないのです。
他人からの要求を断る理由は、「嫌だから」ということだけでよいのです。

これまで他人にノーを言えなかった人が、はっきり自分の意志を表すようになれば、何人かの友人は離れていくかもしれません。
しかし、それでよいのです。そういう人たちは、これまで自分をうまく操り、利用していた人たちなのです。
そういう身勝手な友人を失うことによる一時的な淋しさよりも、自分の意志に目覚めることの喜びのほうが、はるかに大きいことでしょう。

「私を愛しているなら〜してほしい」と言ってくる恋人は、けっして自分を愛してくれてはいません。
「もっと優しくしてくれてもいいではないか」と強要してくる友人は、優しさの何たるかを知らないのです。
「してほしいから」という理由だけで要求してくる人に対しては、「したくないから」という理由だけで断ってもよいのです。

これは、他人の意見や忠告にいっさい耳をかさなくてもよいということではありません。
自分が他人から拒絶されるのが悔しいから、自分も他人を拒絶し返す、という否定的な考え方でもありません。
自分の行動の基準は、「他人に言われたから」ではなく、「自分が正しいと判断したから」でなければならないということです。

自分は気が弱いから他人の要求を断れない、という人もいるかもしれませんが、他人にノーと言うために、度胸や強さは必要ありません。
傷ついた心を抱えている人は、すでに多くのエネルギーを使い果たしています。
そういう人にとって必要なのは、他人に言い負かされない強さではなく、むしろ心を軽くして、よけいなことへの執着を捨てることです。

過剰に責任を背負い込みすぎてもいけませんし、まったく責任を放棄してしまうのもいけません。
自分の意志で選択したことに対してのみ、責任を負えばよいのです。

嫌なことをはっきり認めることによって、しだいに、自分は自分の意志や欲求に従って生きてもいいのだ、と認められるようになります。
意志や欲求に目覚めれば、好きなこと、やりたいことは、自然に心の奥から沸き上がってくるものなのです。

No.167 『ゼロでもともと』

恋人に振られることは、誰にとっても悲しいことです。
あんなに仲がよかったのに。なぜ急に別れたいなどと言い出すのか。ひどい裏切りだ。こんな苦しみを味わうくらいなら、はじめから付き合うんじゃなかった。
つい、愛情が転じて恨みとなってしまうこともあります。

職を失えば、これからどうやって生きていけばいいのだろうと不安になります。
仕事一筋で打ち込んできた人ほど、失職してしまったときは、人生にぽっかりと穴があいてしまったような虚しさに襲われます。

大切なものを失ったとき、それに対する依存度が高ければ高いほど、悲しみや不安も大きくなります。
しかしここで、バランスを欠いていたいびつな人生設計こそを見直さなければなりません。
たったひとつのことに過度に依存し、人生を一面的にしかとらえていなかったことが問題なのです。

誤解のないように付け加えますが、けっして何かに真剣に取り組むことを否定しているのではありません。
恋人と付き合うからには、自分の人生をかけるつもりで真剣に付き合うべきですし、真剣であればあるほど、振られれば悲しいのも当然のことです。
しかし、振られたからといって、これまで与えてもらった喜びへの感謝も忘れ、逆に憎しみに変わってしまうのであれば、自分の恋愛に対する姿勢が間違っていたと言わざるをえません。

たとえ何か大切なものを失ったとしても、それは不幸ではありません。そもそも、それほど大切なものを与えられていたこと自体が大きな幸運なのです。
たとえ恋人に振られたとしても、それまで自分が真剣に恋愛をしてきたのであれば、その思い出の分だけ得をしたのです。
たとえ職を失ったとしても、職のある間に報酬や生きがいをえられたことは、得をしたのであって、損をしたのではありません。

現在、幸福な状態ではなくなったとしても、過去の幸福までが消え去るわけではありません。
これまでに積み上げてきた幸福は、まるまる得をしている分なのです。

恋人に振られたとき、絶望したり、腹を立てたりするのであれば、恵まれた状態をゼロの基準として考えていたということです。それを当然と考え、感謝の気持ちを忘れていたということなのです。
「もし嫌われたとき、どう対応するか」をつねに考えておくことも、恋人に対する責任のひとつです。

恋人がいなくなったとしても、それでもともと、ゼロなのです。ゼロを基準として考え、この一瞬一瞬、プラスの喜びを与えてくれている相手に感謝の気持ちを持ち続けなければなりません。
会社での地位を自分の力で手に入れたのだとしても、健康な体で仕事に打ち込める状態にあったということ、自分を評価してくれる人がいたということは、やはりたまたま与えられた幸運にすぎず、感謝しなければならないのです。

「ゼロでもともと」という考え方は、けっして「失ったときに傷つかないように、はじめから期待しない」という消極的なものではありません。
失えば悲しいのは当然ですが、だからこそ、幸運が与えられている現在、そのありがたみをかみしめなければなりません。
自分の本当の姿、生きる姿勢は、恵まれているときではなく、いっさいをはぎ取られて丸裸になったときにこそ問われるものです。いつでもその準備はしておくべきなのです。

No.168 『苦しみが何かを教えてくれている』

大学生の女性Aさんは、人見知りがはげしく、なかなか他人とうち解けることができない性格でした。
同じ学部に、Aさんと同じようにいつもひとりぼっちでいる女子学生がいました。
Aさんは、彼女に何となく親近感をもち、勇気をふりしぼって、「友達になってほしい」と声をかけました。彼女は快く応じてくれ、昼休みに一緒に食事をしたり、休日に遊びに出かけたりする間柄になりました。

Aさんにとって彼女はただひとりの親友であり、彼女のほうもAさんを親友だとみなしてくれていると思っていました。
しかし、Aさんは、ある事実を知って大変なショックを受けました。Aさんの知らないうちに、彼女がほかの友人たちと旅行に行っていたというのです。
Aさんは、自分をのけ者にした彼女を許すことができず、しだいに彼女を避けるようになってしまいました。Aさんは、またひとりぼっちになってしまったのです。

Aさんは、なぜ彼女を許せないのでしょうか。
彼女がほかの友人たちと旅行に行ったとしても、Aさんが何か損をするわけではありません。親友が人生を楽しんでいるということは、本来喜ぶべきことでしょう。
Aさんは、自分には彼女のように一緒に旅行に行ってくれる友人がいないことが悔しいのです。彼女を恨むことで、自分の劣等感から目をそらしているのです。

社会の中で人と付き合っていく上では、腹が立ったり、いらいらしてストレスをため込んだりしてしまうことはよくあります。
しかし、他人を許せないと思うことは、自ら他人に傷つけられ続ける人生を選択するということです。

たとえ相手が嫌な性格であったとしても、それは相手の生い立ちや環境によるものであって、自分とは関係のないことです。相手のためを思って助言をするならともかく、ただ非難しても何の意味もありません。
自分には自分のできることをすればよいのです。

他人を許せないと思うとき。それは、自分の無意識が何かを訴えかけているのです。
他人から不愉快な思いをさせられれば、一時的に腹が立つのは当然です。しかし、その怒りをいつまでも引きずり、いら立ちがおさまらない場合は、おそらく、自分が認めたくない何かをごまかそうとしているのです。
そういうときこそ、自分の心に潜む劣等感と向き合い、新しい人生を切りひらくチャンスです。

何も悪いことをしていなくても、嫌なことは誰にでも起こりえます。しかし、それをどう受け止めるかは、自分で決めることなのです。
「嫌なことがあった」と嘆いて落ち込むだけの人生を選ぶか。そこから何かを学びとろうとするか。
他人がどうであろうとも、何が起ころうとも、自分の生き方を決めるのは自分自身なのです。

Aさんの場合、他人とうまく付き合えないこと自体が悪いのではありません。その劣等感にこだわりながらも、ごまかそうとし、他人の態度を非難してばかりいることが間違っているのです。

他人とうまく付き合うことができれば、それに越したことはありませんが、人間の価値はそれだけではありません。
Aさんが自分に自信をもてないのは、他人と自分を較べ、自分のできないことばかりにこだわってしまっていることが原因です。
人見知りという性格は変えられなくても、そういう自分をどう受け止めるかということは変えることができるのです。

人生に起こるできごとはすべて、「自分に何かを気づかせてくれるもの」だととらえることができます。
不運に見舞われたとき、その悲しみと闘い、乗り越えようとするのもよいのですが、その前に、「この苦しみは、自分に何を気づかせようとしているのか」と考えてみることも、おおいに意味があります。

他人の裏切り、病気、事故、災難。そういう不運は誰でも経験したくないものですが、起こってしまったものは仕方がありません。
どうせ過去は変えられないのですから、「そういう経験をしなければえられなかったことに気づく」ということに視点を移してみましょう。
大きな悲しみを経験することによって、これまで見えていなかった幸せに気づくということもありうるのです。

自分の責任で人生を選択するということは、職業や付き合う相手を選ぶということだけにかぎりません。
幸か不幸かを決定づけるもっとも重要な選択は、起こったできごとに意味を見出すということなのです。

No.169 『他人を正しく判断するために』

人間関係が苦手である人の悩みの原因のおもなものは、「他人を信用できない」ということです。
なぜ他人を信用できないかといえば、他人の気持ちが判らないからです。

ある若い女性が友人に相談した悩みの例です。
彼女は、同じ職場の男性から交際を申し込まれています。しかし、彼の態度は真剣ではなく、皆がいる前で冗談のように「ねえねえ、俺と付き合おうよ」と言ってくるだけなのです。しかも、彼は気が多く、ほかの女性にも同じようなことを言っているらしいのです。
彼女は、彼の気持ちが本気がどうかはかりかね、信用できないといって悩んでいます。

彼女が不安に思っているのは、彼は、自分のことが真剣に好きなのではなく、ただ冗談めかして気持ちを探り、あわよくば遊び程度に付き合いたいと思っているだけなのではないか、ということです。
彼女は、自分がそのように軽く扱われたことが不満なのです。好きなら好きと真剣に言ってほしい、ということなのです。

彼の優柔不断さは問題ですが、それは彼女自身にもあてはまることです。
彼女にもまた、「もし彼が本気で自分を愛してくれているなら、自分も彼を愛してあげてもいい。しかし、もし嘘だったら、付き合うのは損だ」という打算があり、彼の気持ちを探ろうとしているから、悩んでしまうのです。

重要なことは、「他人にどう思われているか」ではなく、「自分が相手をどう思うか」です。
彼女も彼を好きであるなら、遠慮なく彼女も好意を示せばいいのだし、好きではないのなら、適当に距離を置いて付き合えばよいのです。
自分の気持ちがはっきりしていないのに、他人のはっきりしない態度に文句を言ってはいけません。

彼は、彼女をたぶらかそうという気持ちはなく、本当に彼女に好意を抱いているのかもしれません。ただの照れ屋で、自分の本心をうまく伝えられないだけなのかもしれません。
ならば、彼女はとりあえずその好意に対してだけ、「ありがとう」と感謝しておけばよいのです。それによって、自分が傷つくわけでも、損をするわけでもありません。

「他人を信用できない」という不安の裏は、「自分が損をすることなく、他人を利用したい」というずるさがあります。
「他人を信用する」とは、本来、損得を超えて、相手の人間性を尊重することです。信じるということに、損得という概念を持ち込むことが間違っているのです。
他人がしてくれたことには心から感謝し、自分が他人にしてあげたいと思うことがあれば、喜んでする。そこにどんな損害があるでしょうか。

他人のために何かをしてあげるとき、「他人のために貢献したい」と考えるのと、「自分は他人の犠牲になっている」と考えるのとでは、大きく違います。
どちらかが犠牲にならなければ成り立たない人間関係は、健全とはいえないのです。

「他人を信用できない」という悩みを解消する方法は、裏切られたら損をするような付き合い方をしないことです。
そのためにはまず、自分の利欲や打算を捨てなければなりません。得をしようと思えば、損をすることへの不安が生まれます。
よく知りもしない他人を全面的に信用することはできません。はじめは自分で責任を負える範囲でのみ信用し、徐々に信用の範囲を広げていけばよいのです。

盲目的に他人のすべてを信用する人は、単に「私は心の純粋な人間である」と思いたいために、自分の頭で判断することを放棄して、結果に対する責任を相手になすりつけているだけなのです。
そうしておいて、あとで裏切られたといって恨むのは、無責任で思慮が足りないと言わざるをえません。
盲目的に他人を信用するならば、裏切られても恨まないという気構えが必要です。

友人に借金を申し込まれたとき、「たとえ返してもらえなくても、人助けになったのだからかまわない」と思えるくらいの覚悟がないのであれば、貸すべきではありません。
貸すのであれば、自分が困らない程度の金額にとどめておくべきでしょう。
本当に相手の人間性を信頼しているならば、借金を断ったからといって友情が壊れることはないということも信じられるはずです。

女性が遊び好きの男性にもてあそばれ、「結局、私の体だけが目的だったのか」と恨むのであれば、はじめから体を許すべきではなかったのです。
「体の関係を拒めば、嫌われるかもしれない」という不安があったのだとすれば、彼女は彼を本当に信頼していたことにはならないのです。「信じていたのに、裏切られた」などと恩着せがましいことを言うべきではありません。

「信用できるか、どうか」と悩んでしまうのは、他人を「利用価値があるか」という観点だけで見ており、「相手は自分の信頼にきちんと応えるべきだ」という押しつけがあるからです。
自分の責任において、自分の意志で判断して他人と付き合っているならば、おのずと自分のとるべき行動は判るはずなのです。
他人を信用するにしても、信用しないにしても、その結果に対する責任は自分に返ってくるものなのです。