愛する人に愛される方法 > アドバイス [ No.190 - 199 ]

アドバイス [ No.190 - 199 ]

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No.190 『人のため、自分のため』

恋人にいろいろ尽くしてきたのに、急に別れを告げられて、腹が立つことがあります。
誕生日に高価なプレゼントをあげたのに。わがままな頼みもきいてあげたのに。不満があっても文句を言わず、我慢してきたのに。
いったい私のどこが気に入らないというのだ。

また、親は、子供を精一杯育ててきたのに、思春期になって突然反抗され、訳が判らず戸惑います。
我が子のためを思って、高い月謝を払って塾に行かせ、習いごともさせ、必要なものは充分に買い与えてきたのに。

私たちが「人のため」と思ってやっていることは、実は、自分の欲求を満たすためにやっていることが多いものです。
結局は、相手の気を引きたいからであり、自分が必要とされたいからなのです。
だから、その要請に相手が応えてくれなければ、怒りや不満を感じるのです。

好きな恋人と少しでも長く一緒にいたいと思うのは当然ですし、親が我が子をかわいがり、心配するのも当然です。
しかし私たちは、愛情という美しい言葉を盾にとって、知らず知らずのうちに、他人を自分の自由になるものとして扱ってしまうことがあります。
他人を自分のものにしたいという我執が、私たちを苦しめるのです。

とは言うものの、見返りをいっさい求めず、純粋に「人のため」に何かを行うということは、ほとんど不可能なことです。
「人のため、人のため」と考えすぎれば、それもまた、一方的な押しつけとなってしまいます。
できないからといって、何もしないのもよくありません。
本当は自分のためでも、その行いが実際に他人の役に立っているなら、やらないよりはやったほうがよいでしょう。

では、どうすればよいのかというと、「人のため」などとごまかさず、はっきり「自分のため」と自覚しながら行動するしかないのではないでしょうか。
「自分のためにやっていることなのだから、思い通りにならないからといって他人を責めるのはお門違いだ」ということさえ認識していれば、それでよいのです。

他人のために何かをしてあげたなら、その報いは相手に求めるのではなく、天にまかせるのがよいでしょう。
せっかく他人のために何かをしてあげたのに、まったく感謝されないこともありますが、逆に、自分の気づかぬうちに他人の善意を無にしたり、他人を傷つけたりしていることもあるものです。
よい行いをすることによって、悪い行いが相殺されたと考えるくらいがちょうどよいのです。

他人から認められたい、他人から愛されたいという欲望を完全に捨て去ることはできないかもしれません。
欲望を捨て去ることはできなくても、その欲望にとらわれている自分の弱さをはっきりと認め、他人に対して申し訳ないという謙虚な気持ちをもって接することはできます。

他人に申し訳ないという気持ちで接するというのは、けっして卑屈に自分を責めるということではありません。
「他人のためにしてやっている」というごう慢な態度ではなく、「させてもらっている」という感謝の気持ちをもつということです。
何かをしてもらったことに感謝し、何かをさせてもらったことに感謝する。すべては自分の喜びのためなのだと思えば、他人への押しつけや不満は消えていきます。

「欲望にとらわれている人」と、「欲望にとらわれていることを自覚している人」は、同じではありません。
自分が自分の心の主となり、欲望に振り回されないよう、しっかり制御することが肝心です。

No.191 『自己評価を高める』

他人に強くものが言えない。すぐに嫉妬してしまう。他人を疑ってしまう……。
自分の性格の欠点に悩んでいる人は多くいますが、性格は、変えようと思ってもなかなか変えられるものではありません。
無理をして正反対の行動をとろうとすれば、またそれも問題のある行動となってしまいます。

はっきりものが言えない性格を直そうとして、ずけずけと自分の主張ばかりを押し通そうとすれば、今度は利己的な人だと思われてしまいます。
嫉妬深い性格を直そうとして、我が道を行くという性向を強めすぎれば、他人に無関心で独りよがりな人間となってしまいます。
他人を疑ってばかりいるのもよくありませんが、他人の言うことを何でもほいほいと鵜呑みにするのもよくありません。
どんな性格にもよい面と悪い面がありますので、無理に変える必要はないのです。

性格よりも重要なことは、自己評価です。
自己評価が高ければ、性格のよい面が活かされ、自己評価が低ければ、性格の悪い面が強く出てしまうものです。
生まれもった自分の性格は、自分特有の個性なのだと、ありのままの自分を受け入れることから始めなくてはなりません。

自己評価の低い人というのは、努力が足りないわけではなく、むしろ必死でがんばりすぎて、疲れ切ってしまっているのでしょう。
ただ、その労力を注ぐ対象を間違っていたために、空回りしていただけなのです。

「このままの自分でいい」と受け入れるということは、現状に甘んじて努力を怠ることだと誤解されやすいのですが、けっしてそんなことはありません。
自己評価の高い人は、向上心を捨て去った怠慢な人ではありません。
むしろ、ありのままの自分を受け入れなければ、本当の向上心は生まれないのです。
自分を受け入れられれば、少しでも自分を向上させるための努力をせずにはいられなくなるものです。

自己評価の高い人は、自分の力で改善できる問題は積極的に改善しようとし、変えられないものは変えられないものとして、そのままに受け入れることができます。
自己評価の低い人は、逆に、変えられるものを変えようとせず、変えられないものにこだわり、嘆いてばかりいるのです。

「私はダメな人間だ」という劣等感にさいなまれてきた人が、その殻を打ち破って、自分に自信をもって生きようとするとき、ひとつの大きな壁が立ちはだかります。
「どうせ私は自分に自信がないから」と言い訳をしてきた、これまでの自分を否定することになるのが怖いのです。

私は容姿がみにくいから。私は家が貧乏だから。私は誰からも愛されなかったから……。
長い間、不都合なことは何でも「私は特殊な事情を抱えているのだから仕方がない」とごまかすことに慣れてきた人にとっては、その言い訳をはぎ取られることは、はじめはとてつもなく怖ろしいことに感じられるかもしれません。
しかし、自分を愛し、自分に責任をもち、意識的に生きることは、それを大きく上回る喜びをもたらします。

自分に自信をもつために、特別な根拠などいりません。
富をえても、お金に群がろうとする人に認められるだけです。
外面を飾っても、人を見かけで判断する人に好かれるだけです。
地位や権力をえれば、それを利用しようとする人が寄ってくるだけです。

自分を好きになる理由は、「そのほうが楽しいから」ということだけでよいのです。
自分を嫌っている人は、「自信のない自分」さえも受け入れることができずに苦しんでいるのでしょう。
自分を変えるということは、これまでの自分を否定することではありません。
まず、「自信のない自分」をはっきり認めることから、自分を変えるための旅がスタートします。

自分が認めようが認めまいが、それが今の自分なのだ。さあ、それを土台として、ここから積み上げていこう。
そう度胸をきめることができれば、半分は成功したと思ってよいでしょう。
性格を変えられなくても、自分の置かれた境遇を変えられなくても、自己評価を高めることはできるのです。

No.192 『批判する人、される人』

自分に自信がもてない人が、他人との付き合いに苦痛を感じる理由は、「もし批判されたとき、どう言い訳をすればよいか」と考えることに疲れ切ってしまっているからです。
そして、実際に批判されてしまったときの対処は、大きくふた通りに分かれます。
積極的に「攻撃は最大の防御とばかりにやり返す」か、消極的に「傷ついている自分を見せつけ、相手に罪悪感を抱かせようとする」かのどちらかです。
どちらにしても、他人を変えることに全精力を注ぎ込んでしまうのです。

しかし、他人が変わるのを待ち続けるには、人間に与えられた一生の時間は、あまりにも短すぎます。
世の中に、批判されない人はいません。
何かを言ったといって批判され、言わなかったといって批判されます。失敗してはバカにされ、成功しては妬まれます。
自分のまわりの人間すべての批判を抑えることなど、とても不可能なことです。

他人を傷つけて喜んでいる人は、きっと自身もひどい罪悪感や劣等感にさいなまれています。どんなに偉そうにしている人も、悩み、迷い、自分の弱さに苦しんでいるのです。
他人を傷つけていることすら自覚せず、平然としている人もいますが、そういう鈍感な人間に育ったということが、すでに大きな不幸です。ろくな教育もしつけも受けず、誰からも愛されず、いい加減な育てられ方をしたのでしょう。

貧しい家に生まれたことや身体に障害をもって生まれたことがその人自身の罪ではないのと同じように、いい加減な育てられ方をしたということも、単なる不運であって、その人自身の罪によるものではありません。
どんなに立派で人徳のある人も、自分で境遇を選んで生まれてきたわけではないのです。

世の中に不幸な人がいることは、仕方のないことです。不幸な人たちが仕掛けてくるゲームに参加してはいけません。
バカにされる側よりも、バカにする側のほうがはるかに不幸なのです。
敵意に敵意をもって対抗すれば、さらに大きな敵意が返ってきます。
他人から敵意を向けられたとき、もっとも有効な対抗手段は、憐れみです。相手がそのような不幸な人間に生まれついた不運を憐れみ、少しでも救われるように祈ってあげてください。

「憐れみ」といっても、高いところから見くだすような同情ではなく、「自分もまかり間違えば、そのような人間になっていたかもしれない」という、人間の弱さへの共感です。
恥じるべきは、「自分がバカにされたこと」ではなく、「他人をバカにするような不幸な人に憐れみの心がもてないこと」です。

他人にバカにされて腹が立つのは、「自分は偉く、立派な人間なのだ」と見せようとしているからです。
他人をバカにすることも愚かですが、自分を偉く見せようとすることも同じくらいに愚かなことです。
他人をバカにすることの虚しさが判っていれば、そんなことにいちいち腹を立てることの無意味さも判るはずです。

ただし、他人の批判にまったく耳を貸さなければよいというのではありません。
他人から批判されたときは、まず冷静に、謙虚に、その批判が正しいものであるかどうかということを判断する必要があります。
正当な批判であれば、むしろ相手に感謝しなければならないのです。

自分が間違っていたと思うなら、誠意をもって反省した態度を見せれば、かえって自分の評価は上がるかもしれません。
「何の欠点もない完璧な人」よりも、「ときに間違いはおかすが、過ちは素直に反省する人」のほうが、人間味があって親しみがもたれるものです。

批判に怯えている人は、正当な批判さえもはねつけようとするか、不当な攻撃さえも受け入れて自分を責めてしまうか、のどちらかにかたよってしまいがちです。
他人から批判されることへの怖れをなくす方法は、自分にとって何が正しく、何が間違っているかという考えをはっきりさせ、なおかつ他人の意見も聞き入れる柔軟さをもちあわせることでしょう。

No.193 『幸せのための自立』

他人に見捨てられる恐怖に過剰に怯えてしまう人がいます。
「拒絶されるくらいなら、自分から先に拒絶してやる」と身構え、他人が自分を拒絶しようとする兆候を見逃すまいとアンテナを張りめぐらし、他人の何気ない言動を悪意に受け取って傷ついては、怒りをため込んでしまいます。
他人に依存する一方、他人を完全に信用することもできず、「見捨てられたくないという不安」と、「自分を拒絶する人への怒り」とが入り交じった複雑な感情に苦しめられているのです。

そういう人は、他人の意にそうよう合わせることでしか安心をえられず、自分なりの主張や感情をもつことは許されないと感じています。
自分の素直な欲求や意志に従って行動すれば、他人に見捨てられると思い込んでいるのです。
しかし、はっきりと自分の意志に目覚めることによって、他人から見捨てられるのであれば、そういう人たちとは早いうちに見切りをつけてしまったほうがよいのです。

過保護な親に育てられた子供は、なかなか自立することができません。
子供を溺愛する親は、子供が自立して離れていってしまうことを怖れ、親に頼らなければ生きていけないようにし向けようとします。子供を本当に愛しているのではなく、「自分の思い通りになる子供」が可愛いだけなのです。
子供は、意欲、手段、達成感や喜びまでもすべて先回りして押しつけられ、「自分は、いちいち指図を受けなければ何もできない無能な人間なのだ」という劣等感を植え付けられていきます。

そういう親から自立することは、親を悲しませることになるかもしれませんが、それは良心に反することではありません。
親の言いなりになり、長く不幸な人生を送った末、結局、「私がこんな風になったのは、親のせいだ」と恨むのであれば、これもまた親不孝なことなのです。

「他人に嫌われたり、他人を悲しませたりしたくないから、自分の自然な欲求を抑えてしまう」というのは、遠回しに不幸の責任を他人に押しつけているにすぎません。
他人の要求が不当なものであると思うのなら、きっぱりと断り、相手の目を覚まさせたほうが、相手のためでもあるのです。

他人の要求が、自分と相手にとってよいことなのかどうかをよく見極めなければなりません。
他人から気に入られることばかりを考えている人は、いつまでたっても心からの幸せを感じられないし、他人を幸せにすることもできないのです。

自分のことばかりでなく、他人の幸せも考えることは、たしかに大切です。
しかし、自分の欲求を抑え、自分が幸せを感じられないまま、いくら他人に気を遣い、自分を犠牲にしても、他人に幸せを与えることはできないのです。
「自分が幸せであること」以上に、他人を幸せにできる手段はありません。
他人の幸せを考えるならば、まず自分が存分に幸せを感じることが不可欠です。

他人に適応するよりも、社会に適応するよりも、何よりも大切なことは、自分に適応することです。
自分の自然な欲求を尊重することによって、他人が犠牲になることは絶対にありません。
自分を大切にすることは、必ず他人も大切にすることになるのです。

No.194 『よい悩みと悪い悩み』

他人の気持ちを先回りして読み取ってしまい、他人に気を遣ってばかりで、自分はいつも損をしている、という人がいます。
しかし、そういう人は本当は、他人の気持ちを思いやっているのではなく、「自分が嫌われていないか」「自分が変に思われていないか」と、自分のことばかり気にかけているのではないでしょうか。

本来、他人の気持ちを読み取ることができる能力というのは、悩むべき欠点どころか、長所であるはずです。
本当に他人の気持ちがよく判るのであれば、それはすばらしいことであり、自信をもってよいことなのです。

他人が傷ついたり落ち込んだりしているとき、冷静に的確なアドバイスをしたり、はっぱをかけて励したりするよりも、何よりも重要なことは、その気持ちに共感してあげることです。
人間の優しさとは、どれだけ他人に共感できるかということであると言えるでしょう。

傷つくとはどういうことか、悲しみとはどういうことかを知っているということは、まさにすばらしい長所です。
傷ついた経験のある人でなければ、他人に優しくすることはできません。
その能力をおおいに活かすべきなのです。

すぐに自分と他人を較べては、自分は他人よりも劣っていると卑下し、自己憐憫に浸ってしまう人がいます。
しかし、自分を劣っていると思うこと自体は、別に悪いことではありません。

自分にはまだまだ知らないこと、学ばなければならないことがたくさんある。他人のいいところを学び、もっともっと自分を成長させよう。
つねにへりくだり、他人を立て、他人を敬う姿は、美しいものです。
逆に、自分は優れた人間だと慢心し、他人を劣った存在だと見くだすことのほうが、人間としてみにくいことです。

劣等感に悩んでいる人は、本当に自分を劣っているとは思っておらず、「自分は他人よりも優れた人間であるべきなのに、誰もそれを認めてくれない」というごう慢さに苦しめられているのではないでしょうか。
それは単に、努力を怠っていることの言い訳にすぎないのです。

人は、自分の中の卑しい感情を認めたくないとき、それを打ち消そうとして、まったく正反対の感情を抱いているかのように思い込もうとすることがあります。
自己中心的なところを認めたくないために、「他人に気を回しすぎてしまう」と思い込んだり、ごう慢さを認めたくないために、「劣等感に苦しんでいる」と思い込んだりしてしまうのです。

人それぞれに長所、短所があります。重要なことは他人との比較ではなく、自分をどれだけ活かしているかということです。
誰にでも、自分なりの最高の生き方というものがあるはずです。それを見出すのが人生の目的だといってもよいでしょう。

サッカーは手を使わないからおもしろいのだし、俳句や短歌は字数に制限があるから工夫のしがいがあります。
まったく自由に、何でも思い通りになる人生に、何の楽しみがあるでしょうか。
障害や制約があるからこそ、与えられた条件のもとで最善をつくすことに充実感があるのです。
それを「苦労」だと受け取るか、「味わい」だとみなすかの違いです。

悩みをなかなか解決できず、苦しみから逃れられないときは、はたして自分が目指している方向は正しいのだろうか、と見直してみる必要があります。
どんな悩みも、悪いことばかりではありません。少なくとも、「同じ悩みに苦しんでいる人に共感してあげられる」という長所に変えることはできるのです。
悩みは、うち勝とうと必死で努力するよりも、「それを活かす方法はないものだろうか」と考えてみたほうが、うまく解決できることが多いものです。

No.195 『何ものにもとらわれるな』

禅の教えでは、「善悪にこだわってはいけない」と説いています。
私たちはふつう、よい行いは褒められるべきことだと思っています。
しかし、「何ものにもとらわれるな」という禅の考え方では、たとえよいことであっても、とらわれることは不幸のもとになるというのです。

だからと言って、善悪をわきまえず、好き勝手な行動をとればよいというのではありません。悪い行いは慎み、よいことは積極的に行うべきです。
よい行いはすべきですが、「私はよいことをした」と思ってはいけないのです。

自分をよい人間だと思ってしまうと、「よい人、悪い人」で他人を差別するようになります。思わぬ不運に見舞われたり、他人がうらやましく思えたりするとき、「私はこんなによいことをしているのに、なぜ報われないのか」という不満が生まれてしまいます。
人は、「よいこと」のために他人を恨んだり、絶望したりすることもあります。
禅は、自分を省みない尊大な人間になってはいけない、と戒めているのです。

よい悪いにこだわらないのが、よい生き方ということです。
好きなもの、打ち込めるものがあるというのは、すばらしいことですが、どんなに「よいこと」であっても、自分が「よい」と思っているにすぎません。「たかがそれだけのこと」と、客観的に自分を見つめることも大切です。

好きな人に自分の愛情を伝えるのはよいのです。しかし、「これだけ愛情を示しているのだから、相手はそれに応えるべきだ」と思ってはいけません。
好きな仕事に打ち込むのはよいのです。しかし、「これだけ働いているのだから、評価されるべきだ」と思ってはいけません。
どれだけ献身的に他人につくそうが、大企業の社長になろうが、「たかがそれだけのこと」なのです。

私たちは、富めるときは富に執着し、貧しいときは貧しさを嘆き、愛されては愛にしがみつき、孤独なときは孤独をかこつものです。
何かをえようと執着し、失うまいと執着し、失ったものに執着し、結局、何をえても失っても、執着に苦しめられるのです。

他人に嫌われることや職を失うことを怖れてしまうのは、「そういうことは絶対に起こってはならない」と思い込んでいるからです。
執着を強めれば強めるほど、「いま手放してしまえば、これまで執着してきたことが無駄になってしまう」と、ますます手放しがたくなります。
しかし、絶対に失ってはならない幸せなど、本当の幸せではなく、幻にすぎません。

何を失っても、「たかがそれだけのこと」です。それに合わせて自分が変わればよいのです。
たとえ好きな人に振られても、「最悪でも、ひとりの愛を失うだけ」です。
たとえ会社をクビになっても、「最悪でも、ひとつの職を失うだけ」です。
世界を敵に回すわけでも、命を奪われるわけでもありません。

この世界で何が起ころうが、朝になれば太陽が顔を出し、夜には月が浮かび、春には花が咲きます。
太陽が昇るのも、花が咲くのも、「よいこと」だからではありません。ただ、「そういうものとしてある」だけです。

うれしいときも、つらいときも、私たちの心臓は一瞬も休むことなく動き、血液が全身を巡り、肺は呼吸をしています。腹がへり、のどが渇き、食べたものは消化されて排泄されます。
よいも悪いもなく、ただ人間の身体はそのようにできているから、粛々と営みが繰り返されているのです。

自分の生命を支えているひとつひとつの細胞、気の遠くなるほど複雑な器官の働きに思いを馳せれば、生命の神秘に驚かずにはいられません。けっして人工的につくることはできない、奇跡のたまものです。
生命の偉大さに較べたら、善悪だの優劣だの損得だのということは、まったくとるに足りないことです。

「何のために生きているのか」と深く考えすぎて頭がこんがらがったときは、自分の身体にきいてみるとよいでしょう。
身体は、あらゆる器官を結集し、見事な連携プレーで、こんなにも懸命に生きようとしています。
何のために生きているわけでもなく、生きること自体が意味なのです。

「何ものにもとらわれるな」というのは、何も考えずだらだらと生きればよいということではありません。
植物が光に向かって伸びるように、鳥が空へ羽ばたくように、人間として生まれた以上、「よく生きたい」という欲求に従うのは当然のことです。
しかし、「よい人生」にとらわれすぎると、逆に嫌なことばかりが気にかかり、そこから不安や苦しみが生じてしまいます。

よい人生だろうが悪い人生だろうが、私たちは、自分以外の生を生きることはできません。
花は花としての命を、虫は虫としての命を、精一杯に生きています。
精一杯に生きたからといって、いったい何になるのかというと、何にもなりません。「たかがそれだけのこと」です。
ただ、花は花として、虫は虫として、よいも悪いもなく、あるがままに生をまっとうしています。
自分という、たまたまこの世に授かった縁を、命のかぎり生き抜くこと。
それ以外にできることはないし、それ以上に価値のあることもないのです。

No.196 『不公平という不満』

「自分は学歴がないために惨めな思いをしてきたから、子供はいい大学に行かせて、楽をさせてやりたい」と思う親が、せっせと教育資金を出し、子供を塾に通わせ、家庭教師を雇います。
もちろん、いい学校に行かないよりは行ったほうがよいでしょう。自分のやりたいことがあって学問をするのは、おおいに結構なことです。
しかし、単に他人との競争に勝ち、自分だけが得をするために勉強をさせるのは、教育とは言えません。

「社会的成功をえられなかった人間は、見くだされても仕方がない」という恐怖に支配されて育った子供が、たとえ競争に勝ち抜いて頂点に立ったとしても、どれだけ立派な人間になるというのでしょうか。
「いい学校を出ていなければ、ろくな仕事に就けず、つまらない人生を送ることになる」と教え込まれていることから、すでに子供の不幸が始まっているのです。

親の社会的地位が低くても、恥じることなく、明るく前向きに生きる姿を見せるのが、本当の教育です。
「うちは貧しいから惨めだ。お前はこんな風になってはいけないよ」と脅すよりも、「うちは貧しくても、あんな幸せもある、こんな幸せもある」と教えるほうが、子供にとってはよほど幸せなことです。

いったい私たちは、「損をしないこと」という目先の利益のために、どれだけ多くの「目に見えない大切なもの」を犠牲にしていることでしょう。
努力や勤勉といえば聞こえはよいですが、自分が得をするために一生のほとんどの時間を費やして、いったい何が残るでしょうか。

人間は皆平等といいますが、現実には不平等が存在します。
仮にすべての人が平等に恵まれているなら、私たちは、たがいの気持ちを思いやる必要も、助け合う必要もなくなってしまいます。
人それぞれ、恵まれている条件、そうでない条件は異なります。不平等があるからこそ、互いに支え合って生きていくことに意味があるのです。

人が「不公平だ」と不満を訴えるのは、たいていの場合、自分が損をしているときだけです。
「自分の給料が安すぎる」と文句を言う人も、病気や身体の障害のために、やりたい仕事もできず不自由な生活をしている人の悲しみに心を砕くことはありません。
「私は容姿が美しくないから損をしている」とこぼす人も、幼いころに親を亡くして育った人の苦労には関心を払いません。
自分が損をしていることは不公平だと訴えても、逆に自分が他人よりも恵まれている「既得権」は、なかなか手放そうとはしないものです。

1本の木の枝だけを見て、「長いか、短いか」と言うことはできません。長いも短いも、ほかの枝と較べてはじめて言えることです。
短い枝と較べれば「長い」となりますが、長い枝をもってくれば「短い」となってしまうのです。

人が「つらい」と言うときも、ただ自分ひとりの状況を考えて「つらい」と言っているのではありません。
あくまで、他人と較べて「つらい」だけなのです。
自分よりもつらい状況に置かれている人を見れば、自分はまだ恵まれているほうだと思えるでしょう。
「つらい」「苦しい」「不幸だ」などというのは、その程度のあやふやなものなのです。

豊かな暮らしに憧れて、高級住宅街に移り住めば、またその中での見栄の張り合いがあります。
他人と較べていてはキリがありません。
どうせ較べるのであれば、「自分が恵まれていること」を数えて感謝し、恵まれない人を思いやるほうが、心豊かに生きられることでしょう。

「不公平だ」という不満を感じたときは、どうか思い出してください。
それと同じだけの熱意をもって、逆に自分が他人よりも恵まれている点についても、不公平を正すべきだと思うだろうか、と。

「自分だけが損をし、苦労している」などという考えは、ごう慢以外の何ものでもありません。
人は皆、つらくても苦しくても、あるいは虚勢をはり、あるいはそれを克服し、懸命に生きているのです。
たしかに、世の中に「不公平」は存在します。しかし「不公平」は、その形は違えども、誰にも平等に与えられているのです。
自分だけが損をしているのではありません。

No.197 『足るを知る者は富む』

お金のことでいえば、倹約家とケチとはまったく異なります。
倹約家とは、お金のありがたみが判っており、お金を大切に、上手に使うことのできる人のことです。
対してケチな人は、際限なくお金を求め、どれだけ儲けても満足できず、もっと儲けるにはどうすればよいかということばかり考えています。
ケチは、他人に与えるときも、恩着せがましく見返りを要求します。まわりの他人と助け合い、支え合って生きるという意識はなく、自分が得をすることしか頭にないのです。

「足るを知る者は富む」とは、老子の言葉です。
豊かさとは、「どれだけ多くのものをもっているか」ではなく、「どれだけ多くのものを必要とせずにいられるか」によって測られます。
欲に苦しめられている人は、その欲を満たすためにどれだけ努力しても、苦しみから逃れることはできません。

わがままな人は、なぜいつまでもわがままを言い続けるのかというと、「わがままを言うことで満足している」からではなく、「どれだけわがままを言っても満足できない」からです。
つねに誰かの愛情を求め続ける人は、なぜ愛情を求めずにはいられないかというと、「どれだけ愛情を求めても、心が満たされない」からです。

昭和のはじめごろまでは、年ごろの男女がデートをしたり、手をつないだりするということは一大事でした。軽はずみな恋愛などできない時代でした。
自由な時代の現在は、恋愛に障害が少ないために、皮肉にも、かえって満足がえにくくなってしまいました。

現代では、たくさんの人と出会う機会が増え、メールアドレスを交換すれば、それだけで友人を確保したつもりになってしまいます。
しかし、そんな手軽な手段でえた友人は、心もとないものです。
逆にまわりの人は皆交遊を楽しんでいるように見え、自分だけが取り残されているような気がして、つねに欲求不満にさいなまれてしまうのです。

日本は、世界でも類を見ないほどの急激な経済成長を果たしましたが、世論調査では、日本人の半数以上が「現在の所得に不満」だと答えています。
人間の欲望とは、そういうものなのです。
自由であるがゆえに、ほしいものが手に入っても喜びが長続きせず、新たな欲望だけがふくらんでいくのです。

愛情がえられず苦しんでいる人は、ひとつ大切な知識を身をもって学んでいます。
「愛情もお金と同じように、どれだけ求めても満足できることはない」ということです。
その知識を活かして、愛情の「倹約家」を目指しましょう。
愛情を際限なく求めるのではなく、ご飯の最後のひと粒までを味わって食べるように、他人から受けたどんな小さな愛情も無駄にせず、ありがたく受け取り、大切にするのです。

欲を捨てることを阻んでいるものは、見栄です。
友達が高級ブランドの服をもっているから、自分はもっと上等な服がほしい。友達に美人の彼女ができたから、自分はもっと美人の彼女がほしい。
それ自体が目的というよりも、他人に見せびらかして優越感に浸ることが目的なのです。
実体のない幸せをいくら追い求めても、しっかりと手につかむことはできません。

不満も怒りも恨みも、元をただせば自分の欲望です。
無駄な欲望を捨てれば、ストレスの半分以上は消え去ります。
欲を捨てるということは、生きる気力や希望さえも放棄してしまうということではありません。
意義のある人生を送りたいと思うのも、ひとつの欲です。
満たせば満たすほど大きくなり、自分を苦しめる欲は捨てなければなりませんが、自分に喜びをもたらす意欲は、むしろ積極的に求めるべきなのです。

何が自分にとって必要な欲かということは、人それぞれの考え方によって違いますが、共通していえることは、「他人の基準ではなく、自分の基準に従って選んだものであり、何ら恥じることなく胸を張って語れるもの」ということです。
活き活きとした人生を送っている人とは、自分に必要なものとそうでないものをはっきり区別できる人のことでしょう。

No.198 『自分が何をしたいのか』

「友達とうまく話ができない」「すぐ他人に腹を立ててイライラしてしまう」
自分の行動や考え方の悪いくせを改めたいのに、「判ってはいるが、なかなかできない」ということがあります。
頭の中だけで考え、必死で自分に言い聞かせようとしても、思うようにはいきません。

スポーツの上手な人は、そのスポーツの動きに体が慣れている人だといえます。
テニスのうまい人はテニスの動きに慣れており、サッカーのうまい人はサッカーの動きに慣れています。
体を慣らす方法は、反復して練習する以外にありません。
つらい練習に耐えられるのは、そのスポーツが好きだからです。好きでもないことをいくら練習しても、なかなか上達は望めないでしょう。

人間の行動を習慣づけるものは、「やってみたら楽しかった」という成功体験です。
テニスが好きな人は、好きだから練習し、練習するから上達し、上達するからますます好きになる、というサイクルが自然にでき上がっています。

テニスをしない人は、楽しみの選択肢がひとつ減ることになりますが、人生の楽しみはテニスだけではありません。自分が楽しいと思うことを選べばよいのです。
「なぜテニスを楽しめないのだろう」と自分を責める人はいません。他人がテニスを楽しんでいるからといって、自分も楽しまなければならないという義務はないのです。

友人との会話を楽しんでいる人は、話すことに慣れている人です。そのほうが楽しいから、自然にそうしているのです。
テニスと同じように、うまく話すことだけが人間の価値ではありません。逆に、よくしゃべる人のことをうっとうしく感じる人もいます。
何に価値をおくかは、個人の自由な判断によります。

「こうしなければいけないよ」と他人に命令されることもあるかもしれませんが、自分の行動の動機は、「他人に言われたから」ではなく、「自分がそうしたほうがよいと思うから」でなければなりません。
自分がそうしたくてするのなら、他人に言われたかどうかは関係のないことです。

世の中にはいろいろな考え方の人がいますが、個人の主観に絶対正しいものはありません。
テニスそのものに「楽しい」という要素が含まれているのではなく、テニスを楽しんでいる人にとっては「テニスは楽しい」ということが真実であり、そうでない人には「テニスは楽しくない」ということが真実です。
人は、自分にとっての真実を生きるしかありません。

「他人とうまく話せない」という人は、他人と話すことを心から楽しいと感じておらず、「他人がそうしているから、自分もやらねば」という焦りに追い立てられているだけなのです。
「楽しい」という感情は、他人から押しつけられて生まれるものではありませんし、他人に否定されても失われるものではありません。
他人の言動で簡単に左右されてしまうようなものは、本当の自分の心ではないのです。

自分の気持ちや考えは、自分にとってこそ意味があります。
自分がどうしたいのかが判らないという人も、「自分はどうしたいのかが判っていない」ということが判っています。それが紛れもなく自分の心です。
「何かに挑戦し、失敗して落ち込むよりは、何もしないほうがましだ」と、自分の判断で楽なほうを選んでいるのです。
まずそれを認め、「本当にそれが自分にとって楽なことなのか」と真剣に問い直すことから始めなくてはなりません。

すぐに他人に腹を立ててしまう人は、自己の内面と向き合うよりも、何でも他人のせいにして腹を立てているほうが楽だと考えているのです。
そういう性格を直すには、「腹を立てないことのほうが、自分にとって楽なのだ」と心から実感する以外にありません。

自分の考え方を変えるために、もっとも確実な方法は、実際にその考え方にもとづいて行動してみて、「そのほうが楽しい」と感じる経験をもつことです。
そうしてみて、ストレスや不満が減ったという実感がもてれば、無理に自分に言い聞かせなくても、自然にできるようになるでしょう。
もし「楽しい」と感じられなければ、それでもよいのです。やってみてはじめて判ったことなのですから。

ただし心得ておくべきことは、「自分でそう選択したのだ」ということです。
「訳も判らず欲求不満に苦しめられている」のと、「自らの判断でそういう道を選んでいる」のとでは、大きな違いがあります。
重要なことは、他人に振り回されない、自分の本音をあざむかない、ということです。
話題の豊富な人も魅力的ですが、口べたでも、魅力のある人はたくさんいます。
多くを語らず、自分のやるべきことに黙々と打ち込んでいる姿も、また格好いいものです。

しっかりした自己価値感は、「感情を無理やりつくり出す」ことではなく、「自然にこみ上げてくる感情を大切に育てる」ことによって生まれます。
自分にとって本当に「楽しい」と感じられることを探せばよいのです。
思い通りにならなくても、自分の目指す方向がはっきりしているならば、不満は前向きのエネルギーに変わるでしょう。

No.199 『皆、助け合って生きている』

失業した親が、子供には惨めな思いをさせたくないからと、無理をして、子供がほしがるものを何でも買い与えて甘やかします。
しかしそれは、子供を思う親心ではなく、「子供に嫌われたくない」という親の自己愛にすぎません。

子供が成長して大人になり、同じように生活に困ったとき、自分の力で切り抜けられるだけの力を育ててやることが、本当の親心です。
失業した父親は、子供に堂々と、「お父さんもがんばって新しい仕事を探すが、お前たちもしばらくの間は、ほしいものを我慢し、アルバイトなどをして家計を助けなさい」と言えばよいのです。
困っているときに助け合わずして、家族と言えるでしょうか。

学校でいじめられている子供が、「親に心配をかけたくないから」と、いじめられていることを親には内緒にし、ひとりで悩み苦しみ、精神的に追いつめられていきます。
しかし、「親に心配をかけたくない」というのはきれいごとの言い訳にすぎず、本当は、「格好悪い自分をさらしたくない」か、あるいは「親を見くびっている」かのどちらかなのです。

親が我が子を心配するのは当たり前です。
子供がいじめにあっているなどという大変なときに、助けてくれない、心の支えにもなってくれない親が、親だと言えるでしょうか。
そのように思わせた親にも問題はありますが、子供は親を信頼し、困っているときは困っていると打ち明けるべきなのです。
困っているときにこそ、家族の愛情が試され、結束は強まります。

「人に迷惑をかけたくない」「人に心配をかけたくない」などと言って、悩みをひとりで抱え込み、苦しんでしまう人がいます。
もちろん、自分でできることは自分で何とかするべきですが、それでもどうしようもないときは、他人の助けを借りてもよいのです(強要してはいけませんが)。

困っていることを他人に打ち明けられないのは、他人を気遣っているからではなく、他人を信頼していないからです。他人の価値を認めておらず、自分の人生に関わってほしくないと思っているからなのです。
相手にとってみれば、そのようによそよそしい態度をとられることのほうが、よほど悲しいことかもしれません。
困っているときは困っていると打ち明け、助けを求めるのも、他人への信頼のうちなのです。

いえ、あえて助けを求めなくても、私たちは皆、多くの人の世話になって生きています。
「私はひとりぼっちだ」などというのは、とんだ思い上がりなのです。
どんなに孤独な人でも、誰かが造った住居で暮らし、誰かが縫製した衣服を着て、誰かがつくった食べ物を食べ、誰かに安全を守られ、誰かにごみや汚水を処理してもらい、誰かが供給してくれた水を飲んで生きています。
多くの人が働いてくれているおかげで、私たちは、きょう一日を生きられるわけです。

「皆それぞれに、お金を稼ぐために勝手に働いているだけだ。別に頼んだわけではない」と反論する人がいるかもしれません。
しかし、そういう人たちがいなければ生きていけないのも事実です。
人が働くのは、もちろんお金を稼ぐためでもありますが、ただそれだけではなく、世の中の役に立ちたいという思いもあるはずです。
そういう人たちの思いをくみ取り、もっと感謝してもよいのではないでしょうか。

自分がいま生きているということは、何かを消費しているということです。お金を払ってものを買えば、売った人からは感謝されるでしょう。
人は皆、生きているかぎり、誰かの世話になっていると同時に、誰かから感謝されているのです。
世の中のすべての人は、動物や植物も含めて、大きな命のつながりの一役を担っています。
けっして誰もひとりぼっちではありません。

互いにもちつもたれつ、自分が困ったときは他人から助けてもらい、他人が困っているときは助けてあげる。それが健全な人間関係であり、社会の成り立ちです。
「私はひとりぼっちだ」と心を閉ざしている人は、他人への感謝を忘れている人です。
自分がどれだけ多くの人の世話になっているかを考えれば、自分も他人のために何かをせずにはいられないと思うはずでしょう。

何をすればよいのかが判らなければ、つねにまわりの人に感謝の気持ちをもち続けるだけでもよいのです。心からの思いというものは、きっと相手に伝わります。
他人に感謝するということは、その人の存在価値を認めるということです。人にとって何よりもうれしいことは、感謝されるということです。

「私はひとりぼっちだ」と悩んでいる人は、毎晩寝る前に、「きょうもたくさんの人のおかげで無事に生きられた」と手を合わせることを習慣づけてみましょう。
きっと考えは変わり、行動にも表れるはずです。