アドバイス [ No.250 - 259 ]
何かに成功するためには、成功したときの自分の姿をイメージするとよいと言われます。
つねによいイメージを描いている人は、実際にうまくいくことが多く、悪いほうにしか考えられない人は、本当に悪いほうに向かってしまうものです。
しかし、そう言われても、何でも悪く考える癖のついてしまっている人は、簡単には考え方を変えられないかもしれません。
「なぜ明るく考えられないのか」とさらに暗い気分に落ち込んでしまっては、かえって逆効果です。
悪い結果を想像してしまうというのは、よく言えば慎重で堅実だということです。
悪いイメージも、考え方によってはとても大切なことです。悪いことはいっさい自分の頭から排除してしまえばよいというものではないのです。
「よいイメージを描く」というのは、たしかに成功の確率を高めるものかもしれませんが、それだけにとらわれるのは危険です。
「まさか遭難しないだろう」と楽天的に考えて、予備の食料ももたずに冬山登山に行くのは、賢明とはいえません。
「こうなりたい」という自分の姿をイメージし、目標に向かって一直線に努力することも大切ですが、それと同じくらいに、「最悪の事態を想定する」ことも大切です。
誰でも、ものごとはうまくいったほうがよいに決まっています。そして、うまくいくように最大の努力はすべきです。
しかし、「うまくやること」が人生の目的ではありません。
「自分がどういう人間でありたいか」ということが何よりも重要なのです。
成功しなければ人生の値打ちがないと考えるのは、本当に前向きな生き方とはいえません。
失敗を怖れてしまうのは、「失敗したら、取り返しのつかない最悪の事態になってしまう」という固定観念にしばられているからです。
しかし、「それは本当に最悪なことなのか」と、もう一度考え直してみてください。
「仕事を失ったらどうしよう」と怖れている人は、もし収入が減ってしまえば、まともに生活ができないと思い込んでいます。
しかし、そもそも現在の収入でぎりぎりいっぱいの生活をし、自分より恵まれない立場の人に思いをいたすこともなく、永久に現在の状態が続くことが当然だと思って人生設計をしていることが間違いなのです。
もっと貧しくても、工夫して節約し、誇りをもって生きている人もいます。
生活ができないわけではありません。現在の慣れきった生活のレベルを下げることに我慢がならないというだけなのです。
「収入が減ったらどうしよう」と怯えながら生きている人と、貧しくても人生を楽しむすべを知っている人と、どちらが幸せだといえるでしょうか。
「恋人に嫌われたらどうしよう」と必要以上に怖れてしまう人は、恋人がどれだけ自分の役に立ってくれるか、つまり自分の損得しか頭にないのです。
相手への尊敬も信頼もなく、「裏切られたらどうしよう」と怯えながら、表面的な付き合いをどれだけ長く続けても、意味はありません。
恋人に振られることは、誰でもつらく悲しいものですが、だからこそ、そうならないよう相手を大切にし、感謝することに意味があるのです。
恋人に振られることは、「最悪の事態」ではありません。
もともと、血のつながりもない赤の他人が、一時的にでも自分を愛してくれたことが、奇跡のような幸運だったのです。
恋人に会うたびに、「きょうかぎりの付き合いだ」という覚悟と緊張感をもって付き合ってみてください。
きょう一日、精一杯付き合って、それで終わり。明日もまた続くなら、神様からの贈りものだ。
毎日そう思いながら付き合えば、感謝と思いやりを忘れずに、濃密な付き合いができるのではないでしょうか。そして、いつか関係が壊れたとしても、それまでの付き合いが無駄になるということはけっしてないでしょう。
自分を取り巻く状況は、いつどう変化するか判りません。
努力の甲斐もなく、まったくの不可抗力によって、積み上げたものを一瞬にして失うこともあるでしょう。
しかし、「自分がえたもの」を失っても、自分という実態が変わるわけではありません。
物体に当たる光の色が変わっても、物体そのものには何の変化もないのと同じです。
何かをなしとげるためには、ねばり強く努力し続けることが必要ですが、同時に、結果に頓着しないということも重要です。この両者は矛盾するものではありません。
「失敗しても、人間としての価値が下がるわけではない」という自信に支えられているから、たとえうまくいかなくても、くさらず、怖れず、のびやかに前を向いて歩き続けることができるのです。
不運に見舞われたなら、「同じ境遇にある人たちを励ます」という、「つらい経験をした人にしかできないこと」をなしえることもできます。
それもまた、味わい深いひとつの人生です。
「人生を投げ出すな」というのは、「何がなんでも成功しろ」という意味ではありません。
「すべてを失っても、また一からやり直せばいい」と思えることが、本当に自分を大切にするということなのです。
「失敗したらどうしよう」という怖れは、ひょっとしたら、「形だけの幸せや見栄にこだわらないで、本当に大切なものに気づきなさい」という天からのメッセージなのかもしれません。

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ある大学生の男性は、学校に歩いていく途中、曲がり角で中年の女性と肩がぶつかってしまいました。
彼が謝ろうとすると、女性は、「ちょっと、あぶないじゃないのよ!」と吐き捨てるように言って、ぷいと去っていきました。
彼は一瞬あっけにとられたのですが、その後、怒りがふつふつとわき上がってきました。
こちらが謝ろうとしたのに、あの言い草は何だ! 不注意だったのはお互いさまじゃないか……。
彼は、授業中もその件が忘れられず、イライラして、勉強に集中できません。
あのとき、とっさに言い返してやればよかった。もし今度同じような目にあったら、何と言ってやろう。
そう思うとともに、そんなささいなことでいら立っている自分の心のせまさにも腹が立っているのです。
その女性の言い方が悪かったことは言うまでもありませんが、ここでは、彼の心のもち方について考えてみます。
彼は細身で、気が弱く、よくまわりの人から「いつも何かに怯えているようだ」と言われます。
彼は、その女性にもまた「弱そうな人間」だとみなされたことが悔しいのです。
あの女性も、もしぶつかった相手がプロレスラーのような大男だったら、文句を言わなかったのではないか。彼女は自分を見て、「こいつは弱そうだ。やり返してこないだろう」と見くびり、あんな言い方をしてきたのだろう。
そう思うと、人を見て判断した彼女の差別的な扱いに我慢がならないのです。
しかし、考えてみれば、それは彼にとっても同じことなのです。
彼が「言い返してやりたい」と腹が立つのは、言い返そうと思えばできる相手だからです。
もし文句を言われた相手が、やくざ風の怖そうな男だったら、どうでしょうか。
恐怖は感じるかもしれませんが、「なぜ言い返さなかったんだろう」と後々まで悔やみはしないはずです。
相手の間違いを正したいというなら、どんな相手に対しても同じように立ち向かえなければなりません。
自分より弱そうな相手に対してだけ言い返すというのでは、やはり彼も、彼女のずるさを責められないのです。
人は誰も、よいか悪いかは別として、相手を見て判断しているのです。
同じことを言われても、誰に言われたかによって、受け止めかたはずいぶん違ってきます。
尊敬する人、好きな人に言われたことなら、よっぽどひどいことや理不尽なことでないかぎり、素直に受け入れられるものです。
腹が立つのは、たいてい、「あんな奴に言われたくない」と思うときだけです。
「バカにされて悔しい」という思いは、まず自分が相手を見くだしていることに端を発しているのです。
「なぜあの人は、私をバカにするのか」と思ったときは、こう自分に問いかけるだけで充分です。
「私があの人を見くだしている気持ちと同じではないか」
悔しさはぬぐえなくても、少なくとも相手の気持ちを理解することはできます。
感情は、鏡のように反射し合うものです。「どちらが悪いか」と理屈で解決しようとしても、なかなかうまくいきません。
相手から見くだされることが許せないと思ったときは、自分も相手を見くだしています。嫌われることが許せないのは、自分が相手を嫌っているからです。
言われたこと、されたこと、事実そのものよりも、「その人」に言われた、されたことが許せないのです。
他人とのいがみ合い、感情のもつれ合いとは、その程度のあいまいでいい加減なものなのです。
悪い感情が反射し合うのと同じように、よい感情も反射し合います。
他人の態度に腹が立って仕方がないときは、こう考え直してみましょう。
「もし好きな人に同じことをされても、腹が立つだろうか」
身近にいる好きな人でも、好きな芸能人でもよいのです。頭に思い浮かべてみてください。
好きな人から言われたこと、されたことなら、「たまたま虫の居所が悪かったのかな」と思うくらいで、たいていのことは許せてしまうのではないでしょうか。
また、不満を訴えるにしても、なるべく相手を傷つけないような優しい言い方をするのではないでしょうか。
気に食わない人に嫌なことを言われたときは、心の中で、相手の顔に好きな人のお面を重ね合わせてみましょう。
「もし私が相手のことを好きだと仮定したら」
そう考えるだけで、たいていのささいな怒りは、すぐにおさまることでしょう。

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学校では、問題を早く、正確に解くことを教わります。
ゆえに私たちは、生きていく上での悩みや問題に対して、「できるだけ早く、正しい答えを導かなければならない」と考える癖がついてしまっています。
そして、それを解決できなければ前に進めない、他人から認めてもらえない、と悩んでしまいます。
何かができない、判らないという問題の上に、「悩みを解決できない私は、ダメな人間だ」という新たな悩みを積み上げてしまうのです。
どうすれば人に好かれる人間になるだろうか。
どうすれば自分に自信がもてるのだろうか。
私にはどういう職業が向いているだろうか。
私は何のために生きているのだろうか。
私たちは日々、さまざまな悩みを抱えて生きています。
その悩みが重大であればあるほど、答えは容易には見つかりません。
「今日の夕食は何にしようか」「休みの日はどこに出かけようか」という程度の悩みなら、答えはすぐに決められます。
「なぜ私は、今日の夕食を決められないのだろう」と落ち込む人はいないでしょう。
当たり前のことですが、人が悩むのは、悩むほど重大なことだからです。
「なぜ悩みを解決できないのだろう」と落ち込むことはないのです。簡単に解決できる問題であれば、そもそも悩むこともなかったのですから。
無理に正解を見つけようとすれば、どうしても「こじつけ」になってしまいます。
かつてのオウム真理教の信者たちは、若いうちからあまりに手っ取り早く悩みを解決しようとして、「解脱」などという即席の明快な答えに飛びつき、自分たちは正しいと思い上がって、かえって自分の頭で判断する能力を失ってしまいました。
正しい答えを出せなくてもよいのです。
悩みが重大であればあるほど、早急に答えを出そうとせず、一生をかけてじっくり考えるべきなのです。
「あ」という文字を長い間じっと見つめていると、何だか不思議な図形に見えてくることがあります。
なぜこんな曲がりくねった線の組み合わせが「あ」になるのだろう。なぜ自分は、今まで何の疑問も抱かずに、これを「あ」と読んできたのだろう。はたして日本語にこんな文字があっただろうか……。
ひとつの問題を深く考えれば考えるほど、頭は混乱して、迷宮から抜けられなくなってしまいます。
しかし、友人に手紙を書いているとき、「『あ』という文字の成り立ちが判らないから、手紙が書けない」というのは、おかしな話です。
なぜ「あ」が「あ」なのかが判らなくても、とにかく文字を書いて、それを他人に伝えることに意味があるのです。
他人から愛される人間になることは、なかなか難しいことでしょう。しかし、少しでも愛される人間になろうと努力し続けることに意味があります。
「どうすれば自信がもてるのか」は判らなくても、今の自分にできることを精一杯やることはできます。
「何のために生きるのか」と問う前に、すでに生かされている自分に意味があります。
何にでも疑問をもち、答えを求めることは間違ってはいません。また、何でも問題を先延ばしにすればよいというのでもありません。
しかし、「答えを出せなければ自分の人生に意味はない」と思うことは間違っています。
自分に最適な職業を見つけられることは、むしろまれな幸運でしょうし、「何のために生きるか」が判って生きている人もいないでしょう。
どのような答えも、「今の自分はこう思う」というかりそめの答えにすぎないのです。
ともかく、何でもやってみないことには判りません。
やってみて、たとえうまくいかなくても、「やってみたこと」が無駄になるわけではありません。
やってみてはじめて、うまくいかないことを身をもって知ることができたのですから、その分確実に成長したのです。
何でも経験しなければ、他人に共感することもできません。
その試行錯誤の繰り返しのために人生の時間が与えられているといってもよいでしょう。
「できないこと」について悩むよりも、「できなくても楽に生きるには、どうすればよいか」を考えることのほうが重要です。
「楽に生きる」とは、苦悩から逃げることではありません。
苦悩を苦悩としてありのままに受け入れるということは、もっとも強い精神力と勇気を必要とする、厳しい道なのです。
迷うことができるのは、少なくとも選ぶ権利が与えられているということです。
広い世界を見渡せば、きょう一日を食べていくことに精一杯で、自分の人生を選ぶことができない人がたくさんいます。
選択に迷うということは、「選ぶ自由すらない」という大きな問題をすでに解決しているということでもあるのです。
悩みに直面したとき、「正しい答えを見つけなければ、自分の人生ははじまらない」と考えていては、一歩も前に進むことはできません。
悩み苦しむほどの重大な問題だからこそ、長い時間をかけて解決すればよいのです。
答えを探す道のりこそが人生なのです。

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他人を怖れてしまう人は、心のどこかに「自分はダメな人間だ」「自分は皆から嫌われている」という劣等感、罪悪感を抱えています。
他人からひどく責められたり、拒絶されたりした経験があるために、「また責められるのではないか」という怖れを感じ、先に自分を責めてその不安をごまかしてしまうのです。
親の言いつけを守らず、「悪い子」だと叱られたこと。
友人との約束を破って、「見損なった」と絶交されたこと。
そのショックから立ち直れず、悲しみと悔しさがくすぶり続け、心の整理をつけることができずに、自分を責める癖がついてしまったのではないでしょうか。
しかし、他人から責められたことのすべてが、自分だけが一方的に悪かったわけではないはずです。
親の言いつけを守らなかったのは、自分にもやりたいことがあり、それを認めてほしかったから。まだ子供だったために、うまく言葉で伝えることができなかっただけ。
友人との約束を破ったのは、その約束自体が一方的に押しつけられたもので、自分はあまり気が進まなかったから。はっきり断ることができず、悩んでいるうちに、約束の時間がすぎてしまった。
「自分が悪い人間だったから」ではなく、「やり方がまずかった」というだけのことなのです。
「罪悪感を感じる必要はない」というと、反省のない無責任な態度だと思われるかもしれません。
しかし、反省するということは、自分を責め、自分を傷つけることではありません。
反省することの最大の目的は、二度と同じ過ちを繰り返さないようにすることです。
その行動、心構えが大切なのです。
「私は悪い人間だ」と自分を責めるということは、「本当は立派な優れた人間であるはずなのに」というごう慢な思い上がりだともいえます。
そこから先に進めないのは、心の奥では悪いとは思っておらず、何か言い訳はできないだろうかと考えあぐねているからです。
「私はこんなに自分を責めているのに、それでもまだ責めるのか」と間接的に他人を非難して、他人が変わることを期待し、自分の心と向き合うことを避けているだけなのです。
自分の心にはみにくい部分がある。そう自分を省みるところまではよいのです。
問題は、「だから、どうすべきか」ということです。
そういう自分を否定して責めるのではなく、自分の心に潜むエゴをはっきり認識し、それが自分の行動に悪い影響を及ぼさないように注意すればよいのです。
人間とは、基本的にエゴイスティックな存在です。
自分のエゴを自覚していない人も、他人のエゴを認めようとしない人も、またエゴイスティックです。そのさがから逃れることはできません。
皆、少しでも得をしたい、負けたくない、認められたい、愛されたいという利己心に従って行動しています。
つい気をゆるめれば、自分の利益を守るために、ずるいことをしたり、他人を傷つけたりしてしまいかねません。
自分はそういう弱い心をもっていると謙虚に認めることが、自分のエゴを制御するもっとも有効な方法です。
エゴとは、心にみなぎるエネルギーであり、生命力です。
爆薬は、発破などの工業用に利用されることもあれば、人を殺傷する武器にもなります。
欲求そのものを罪悪だとみなして封じ込めてはいけません。
よい性格、悪い性格とは、簡単に言ってしまえば、エゴを満たす方法が上手か下手かの違いにすぎないのです。
すぐに自分を責める癖がついてしまっている人は、罪悪感にさいなまれていることのうち、8割がたは自分の責任ではないと思ってよいでしょう。
「私は悪くなかった!」と心の中で叫んでみてください。
たとえ以前に悪いことをしてしまったのだとしても、一度、心の底から悪いと思ったなら、もうそれでよいのです。
そんな自分を許すことは、けっしてわがままではありません。
繰り返しになりますが、反省するということは、自分を責めることではありません。
「同じ過ちを繰り返さないこと」の責任の重大さに較べれば、自分を責めることなど、たかが知れています。
自分を責めればそれですむと考えることのほうが、横着で無責任な態度だといえるでしょう。
すぎ去った過去は変えられません。私たちが責任をもつことができるのは、これからの自分の行動についてだけです。
本当に反省するということは、自分のみにくい部分もふくめて、自分を受け入れ、肯定するということです。
自分の弱さ、愚かさが判っている人こそが、つねに自分の行動に注意を払うことができるのです。
自分を肯定できる人は、他人にも寛容になれます。
他人のためにもなるのですから、それはよいことなのです。

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愛されることを求めるよりも、愛するほうが幸せである。
他人に親切にするときには、見返りを求めないほうがよい。
他人から責められたくなければ、自分も他人を責めてはいけない。
頭では判っていても、なかなか実行できることではありません。
やはり、好きな人には、自分も好かれたいと願うものです。
せっかく他人に親切にしたのに、何も感謝をされなければ、がっかりしてしまいます。
自分が批判されたときは、「ほかの人だってやっているじゃないか」と、つい他人を責めたくなることもあります。
どうすれば、見返りを求めずに他人に優しくすることができるのでしょうか。
他人への愛情、善意、情けは、必ず自分に返ってきます。
相手から直接感謝されなくても、巡り巡って、ほかの誰かが返してくれるものです。
行為そのものが返ってくるというよりも、そういう態度や心がけが、幸せを呼び込むのです。
他人に優しくできるから、他人からも優しくしてもらえる。優しくされることがうれしいから、ますます他人に優しくなれる。
うまくその好循環にのれば、ことさら「他人に優しくしよう」などと義務的に考えなくても、「そうせずにはいられない」と思えるようになるものです。
問題は、どうやってそのきっかけをつかむかということです。
せっかく他人に親切にしても、感謝されなければ、やはり損だ。親切が無駄になるのはばかばかしい。
そう尻込みしてしまうのも無理はありません。
しかし、自分の親切が絶対に無駄にならない方法があります。
「見返りを求めて、親切にする」のではなく、「過去に受けた親切に恩返しをする」と考えればよいのです。
「自分が先に親切にしたのだ」と思うから、見返りを期待してしまうのです。
誰でも、過去に他人から親切にされたことがあるはずです。
人は皆、特に子供のころは、他人の手を借りなければ生きていくことはできません。
いま無事に生きているということは、数え切れないほど多くの人の世話になっていることの証拠なのです。
自分は相手に何も親切にしていないのに、まったくの無償で親切にしてくれた人も、必ずいるはずです。
自分でも気づかぬうちに他人に迷惑をかけてしまったこと、不用意に他人を傷つけてしまったこと、それらを黙って許してくれた人もいるはずです。
その恩に報いるために、他人に親切にするのです。相手に直接お返しをすることができなければ、ほかの誰かでもかまいません。
他人に優しくされたから、自分も他人に優しくする。
他人に許してもらったから、自分も他人を許す。
その善意が無駄になることはありません。見返りがえられるだろうかと不安を感じることもありません。
自分の善意そのものが、他人への見返りなのですから。それで目的を遂げたのです。
他人に親切にするといっても、滅私奉公のように重苦しく考えることはありません。せっかくの善意も、度が過ぎれば、いらぬお節介となってしまいます。
大それたことをしようと思わなくてもよいのです。
相手のために働いたり、物を与えたりすることよりも、もっとも他人のためになることは、「相手を尊重する」ということです。
心を込めてあいさつをし、話を聞き、共感すること。
相手の幸せをともによろこび、落ち込んでいるときには見守り、逆境にあるときにも見捨てないこと。
「相手の存在を認めてあげること」以上の優しさはありません。
小さな善意をこつこつと積み重ねていけばよいのです。
気づいたころには、「愛し、愛される」という大きな循環が自然にでき上がっていることでしょう。

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20代前半のある女性は、自分を裏切った恋人を許すことができず、苦しんでいます。
恋人だと思っていた男性は、ほかにも複数の女性と同時に交際しており、ある日突然、そのうちのひとりと結婚してしまったのです。
何も知らなかった彼女は、いきなり彼から「結婚する」と聞かされ、別れを告げられたというわけです。
彼女はショックを受け、ただ呆然とするばかりでした。
やがてそのショックは怒りへと変わり、復讐という言葉が頭に浮かぶようになりました。
彼が自分だけ幸せそうにしていることが許せない。彼の人生をぶち壊してやりたい。その衝動が抑えられないのです。
まわりの友人たちは、口をそろえて「復讐などやめたほうがよい」と言います。「そんな男と別れてよかった」「仕返しをしても、虚しさが残るだけだ」と慰めてくれます。
それは頭では判っています。しかし、このまますごすごと引き下がるだけでは、腹の虫がおさまらないのです。
彼女は、どう心の整理をつければよいのでしょうか。
選択に迷ったときは、「すがすがしい気分になる」ほうを選んでおけば、間違いはないと思ってよいでしょう。
仕返しをすれば、一時的に気は晴れるかもしれません。しかし、その心境は、「すがすがしい気分」とはほど遠いものです。
彼が本当にひねくれた人間だとしたら、仕返しの仕返しをしてくる可能性もあります。彼女は、その不安にも怯えなければなりません。
たしかに、どちらが悪いのかといえば、悪いのは彼のほうです。
「あんな悪い奴をのさばらせておいてよいのか」という不満もあるでしょう。
しかし、彼をいくら責めても、彼女が幸せになれるわけではありません。
世の中には、もっと悪い人間もたくさんいます。どうせそれらすべての人を懲らしめることなどできないのですから、いちいち気にしていてはきりがありません。
「悪い人間」というのも、比較の問題にすぎません。強盗や人殺しに較べれば、彼もかわいいものだといえます。
身勝手な人間は、世間からつまはじきにされるでしょうし、法律を犯せば、警察が捕まえてくれるでしょう。
悪い人間を取り締ることが彼女の務めではないのです。
彼女は、人生の大切な時間をもっと有効なことに使うべきです。
今、最優先に考えるべきことは、「この経験をどう次に生かすか」ということです。
彼女が再び新しい恋愛に踏み出すとき、「もしまた裏切られたら、同じように復讐をすればよい」とは思わないでしょう。そんな心づもりで、楽しい恋愛などできるはずもありません。
「仕返しをしなければ気がすまない」というのは、とりもなおさず、「自分は相手にとって何の価値もなかった」と認めるようなものです。
彼は、彼女を裏切り、一方的に別れを告げました。それは、彼女と付き合うことによってえられるよろこびや楽しみを放棄したということです。それ自体が彼にとって大きな損害であるはずです。
彼女が、彼に仕返しをしなければ釣り合いがとれないと考えるのは、「自分と別れても、彼は何も損をしない」、つまり、「自分と付き合っても、相手は何の楽しみもえられなかった」と自分で認めてしまっていることになるのです。
他人に裏切られたときは、こう思うだけで充分です。
「相手は、私に信頼され、私に尊敬され、私に愛されることのよろこびを放棄した」
自分に自信があるなら、それ自体が最大の仕返しだと思えるはずです。相手は自分からみすみす大きな損害を被ったのですから、それで充分なのです。
彼女が、彼に振られて悔しいのは、ほかに楽しいことがないからです。
自分には彼と付き合うことだけが楽しみだったのに、彼にはそれ以外に楽しみがあるということが許せないのです。
彼女が、自分で人生の楽しみをつくり出そうとせず、彼に楽しみを分け与えてもらうことばかりを考えていたことが、そもそもの間違いだったといえます。
彼女も、悪い言い方をすれば、彼を利用しようとしていたということになります。
他人を利用する人は、結局、さらに計算高い人間によって利用されて悔しい思いをするはめになるのです。
彼女が、この経験を次にどう生かすか。それは、自分から楽しみを見つけ、他人に楽しみを分け与えられるような人間になるということです。
それこそが、もっとも「すがすがしい気分になる」選択ではないでしょうか。
自分でつくり出した楽しみは、誰も奪うことができません。
そして、他人によろこびや楽しみを分け与えられる人は、たとえそれを他人に拒絶されたとしても、腹を立てることはありません。
自分の人生を心から楽しんでいる人は、他人からどう思われるかなどということは、たいして気にならないのです。

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多くの人は、幸せになるためには、ある条件をクリアしなければならないと考えています。
いい会社に入れば、給料が上がれば、もっと美しくなれば、結婚すれば、子供ができれば……。何かが変わるかもしれないと期待します。
しかし、幸せを求めて懸命に努力してきたつもりなのに、ふと振り返ってみれば、なぜか心は満たされず、「ほかの人は幸せそうに見えたのに、なぜ自分が同じことをしても、幸せを感じられないのだろう」と、だまされたような気分になってしまうのです。
心からの幸せを実感するには、どうすればよいのでしょうか。
金持ちである、友人が多い、美人の恋人がいる、などという形式的な条件を整えれば幸せになれるというわけではありません。
幸せとは、「外から内に入ってくるもの」ではなく、「内から外に広がっていくもの」なのです。
金持ちで、なおかつ幸せな人もいるでしょう。
しかし、金持ちであることが幸せの絶対条件ではありません。
金持ちで幸せな人は、「金持ちである」という外的な条件が幸せを生んだのではなく、内面の幸せが、たまたま「金持ちである」という形になって表れただけなのです。
多くの友人に囲まれ、幸せに生きている人もいます。
しかし、ただ友人が多ければ幸せだというわけではありません。
嫌われないように気を遣い、媚びへつらってまで「多くの友人を確保すること」に神経をすり減らしている人は、むしろ不幸だといえます。
「多くの友人がいる」ということは、内面の幸せが生んだひとつの現象にすぎないのです。
自分が求めている幸せが、本当の幸せであるかどうかを判断するためには、「ほかの人も同じように幸せになってほしいと思うか」と考えてみれば判ります。
高級車を乗り回して得意になっている人は、「ほかの人も高級車に乗ればよいのに」とは思わないでしょう。みんなが高級車に乗るようになってしまえば、相対的に自分の車が高級ではなくなり、優越感をもつことができなくなってしまいます。
「ほかの人も同じように幸せになれば、自分の幸せが薄まってしまう」というのであれば、それは本当の幸せではないのです。
また、幸せを求める理由が、「まわりの人がみんなやっているから」という安直な場合も、本当の幸せとはいえません。
みんなが海外旅行に行っているから、自分も行く。
みんながブランド物の服を着ているから、自分も着る。
みんなに恋人がいるから、自分も恋人をつくる。
このような願望は、「他人と較べて見劣りがするのは嫌だ」という不安の裏返しにすぎず、心からの幸せを実感できるものではありません。
生きがいがもてない、毎日がつまらない、と嘆いている人は、見かけ上の幸せを手に入れてごまかそうとします。
見かけ上の幸せとは、「自分だけが優越感を味わいたい」というものか、「みんながやっているから、自分もやる」という類のものです。
しかし、形ばかりの幸せの条件をいくら整えても、「何かが違う。こんなはずではなかった」という違和感は、トゲのようにチクチクと心を痛め続けます。
そこで落ち込むことはありません。
見かけ上の幸せで身を固めても満足できないのは、むしろ心が健全である証拠なのです。
「自分を幸せそうに見せかけ、他人に見せつけても、本当の幸せは感じられない」ということが、心の奥では判っているということです。
「自分の心から目をそらそうとせず、正面から向き合いなさい」と、心が訴えかけているのです。
あれもほしい、これもほしい、と人々が望んでいることのうち、本当に必要なものは、ごくわずかです。それ以外のものは、虚しさを紛らわせるためのごまかしにすぎません。
「幸せそうに見える」という外面に執着せず、内面の幸せをじっくりと熟成させれば、その幸せは自然に表面上にもしみ出してくるものです。
逆に、自慢をするための見かけ上の幸せが、内面の幸せを生むということはありません。
他人をうらやましがらせたほうの勝ちではありません。心から楽しんだ者の勝ちなのです。
「見かけ上の幸せを手に入れなくても、どうすれば幸せに生きられるか」を考えることが、幸せを実感する一番の近道なのです。

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現代の人は、昔に較べて、多くのことができるようになりました。
不可能なことを可能にするということは、人類の果てしない夢であり、基本的な欲求です。
できることをする。これは、原則として、よいことには違いありません。
しかし、単に「できるから、する」というだけではなく、「何のためにするのか」「本当にやらなければならないのか」ということも、ときには立ち止まって考え直す必要があります。
断水になれば、料理をするにも、トイレを使うにも、風呂に入るにも不便な生活をしいられます。
このときはじめて、私たちは、蛇口をひねれば水が出ることのありがたみを思い知るのです。
水が出なくてイライラする、水道局に苦情の電話を入れてやろうか、と思う人もいるかもしれませんが、こういうときこそ、「水道があるおかげで、私たちはどれだけ便利で楽な生活を送っているか」ということを考えるべきです。
1年のうち1日だけ水道が止まって不便をしたとしても、残りの364日は、水道のおかげでずいぶん楽をさせてもらっているのです。
朝起きて、洗面所で蛇口をひねり、顔を洗う。誰もが毎日やっている、こんな簡単で当たり前のことも、近代になってようやく実現したことです。
長い歴史で見れば、それは決して当たり前のことではないのです。
いったい何が言いたいのかというと、「できること」をただ漫然と「できるから、する」のではなく、「本当に必要なことなのか」をよく考え、どうしても必要なことであるのなら、「させてもらえることに感謝する」という気持ちをもたなければならない、ということです。
これほど便利で恵まれた時代にあっても、心に問題を抱えている人はたくさんいます。
心を病んでしまう原因は、さまざまな条件がからんでいるとは思いますが、共通して言えることは、「何かができることを当然だと思っている」ということです。
家に引きこもっている人は、「何もしなくても、毎日住む家があって、食事が与えられる」ことを当然だと思っています。
過食症の人は、食糧が好きなだけ手に入れられることを当然だと思っています。
消費者金融に借金をしてまでギャンブルにのめり込んでしまう人は、「見ず知らずの人からお金を借りられる」ことを当然だと思っています。
いくら引きこもりたくても、経済的余裕がなければ、とうてい不可能なことです。
吐くほど食べたくても、食べるものがなければ、できません。
昔は、借金をするには、恥をしのんで友人や親戚に頭を下げなければなりませんでした。
しかし、高度な社会システムが整った現代の日本では、それが簡単にできてしまうのです。
できるから、する。それでよいのでしょうか。
コンビニに行けば、鶏の唐揚げを買うことができます。黙ってレジにもって行き、代金を払えば、誰でも簡単に手に入れることができます。
「ありがとうございます」と言うのは店の側ですが、それを当然だと思ってはいけません。
もし誰も唐揚げを売ってくれなければ、それを食べるためには、自分で鶏の毛をむしり、皮をはいで、切り刻み、調理しなければならないのです。そんなことは、おそらくほとんどの人には不可能なことでしょう。
店で200円のものを買ったなら、「200円の現金」と「200円の価値のあるもの」を交換したということです。それらは等価なのです。
客もやはり、「私に必要なものを与えてくれて、ありがとう」と感謝しなければならないのです。
もともと、人々はほしいものがあるときには、自分のものを差し出して、ほしいものと取りかえる物々交換をして暮らしていました。
「お金を払えば、何でも手に入る」のではなく、「お金があるおかげで、いちいち物々交換をする手間が省ける」と考えるべきなのです。
200円のものを買うときは、「この商品を200円の現金と交換してくれませんか」と心の中でお願いするような気持ちで店員さんに接してみましょう。
漫然と行ってきたことをひとつひとつ見直してみれば、毎日の何気ない行動の中に、「生きている実感」をひしひしと味わえるようになります。
私たちがきょう1日を生きることができるのは、多くの人の知恵と労力のおかげです。それはまさに、奇跡のような幸せなのです。
お金を払えば何でも手に入ることを当然だと思わないこと。
働いて給料をもらえることを当然だと思わないこと。
病気やケガを医者が治してくれるのを当然だと思わないこと。
乗り物に乗ってどこにでも行けることを当然だと思わないこと。
親が自分を養ってくれることを当然だと思わないこと。
他人のおかげをもってはじめて実現できることに、「当然のこと」などないのです。
「できないのが当然」だと考えれば、何に対しても感謝の気持ちをもち、かえって心豊かに生きられるようになるでしょう。

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ある工場の経営者がいました。
彼は、少しでも利益を上げるために、つねに従業員たちの仕事ぶりを見張り、怠けている者がいれば厳しく罰しました。
しかし、数百人の従業員をひとりで完全に見張ることはできません。そこで彼は、従業員たちを見張る役目の従業員を新たに雇うことにしました。
はじめは、50人の従業員につき1人の見張り役をおいていたのですが、彼はそれでも安心できず、30人に1人、10人に1人と見張りを強化していき、ついに1人につき1人の見張り役をおくことになりました。
しかし今度は、見張り役がきちんと見張っているかが気になって仕方がありません。そこで、見張り役の見張り役を雇うことにしました。
結局、人件費は当初の何倍にもふくれ上がり、工場は倒産してしまいました。
これはひとつのたとえ話ですが、人間関係において不満や怒りを感じたとき、思い出すと役に立つ教訓です。
すべての従業員が、誰ひとり怠けることなく、きちんと働いてくれたなら、経営者は最大の利益がえられるでしょう。
しかし、わずかな損を見逃すまいとして、かえってその損害を超える対策費用をかけてしまったのでは、元も子もありません。
厳しく従業員を監視するよりも、ひとこと「いつもありがとう」とねぎらいの言葉をかけてやる気を出させるほうが、生産の能率はずっと上がるはずです。
恋人がつねに自分に気を遣ってくれているか。自分の言うことをきいてくれるか。ほかの異性に目を奪われていないか。
恋人の言動をいちいち監視し、愛情を確かめ続けなければ気がすまないという人がいます。
「恋人とはこうあるべきだ」という理想像を勝手につくり上げ、その鋳型に相手をはめこみ、何か自分の気に入らない点を発見したなら厳しく責め立て、改めさせようとするのです。
そのために、「いつも不安と猜疑心にさいなまれ、恋愛をまったく楽しめない」という大きなコストを負担していることに気づいていないのです。
恋人が何の欠点もない完璧な人間で、つねに溢れんばかりの愛情で自分を包んでくれたなら、それはたしかに最高の幸せです。
しかし、最高の条件がかなえられなかったからといって、別に損をしているわけではありません。
相手を厳しく監視するよりも、ひとこと感謝の言葉をかけ、自分から愛情を示すほうが、はるかに愛される確率は高くなるでしょう。
他人はけっして自分の思い通りには動いてくれませんし、世の中は自分に都合のいいようにお膳立てされているものでもありません。
まず、そういうものとして受け入れなくてはならないのです。
ときには気に入らないこともあるし、腹の立つこともあります。
他人を完全に自分の都合のいいように利用することは不可能なのです。
「他人に嫌われたくない」という不安にとらわれすぎて、つねに他人を監視し、他人のあら探しをし、そのためにいつもイライラさせられ、人付き合いをまったく楽しめない。その損失は、「ときには嫌われることもある」という損失よりもはるかに大きいのです。
つねに完璧を求められれば、相手も息が詰まってしまいます。
何のために他人と付き合うかといえば、人生を楽しむためです。その原点を忘れてはいけません。
最大の利益はえられなくても、恋人や友人と付き合うことによって、すでに自分は充分に得をしているのです。

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会社で重大な仕事を任されてしまった。失敗すれば私の人生は終わりである。不安で夜も眠れない。
好きな人に振られてしまった。どうせ私は、外見が美しくないから異性にもてないのだ。悔しくて仕方がない。
私は、不器用で口べたである。こんなダメ人間の私には、誰も寄りつかない。一生友達ができないのだと思うと、悲しい。
悩みとは、このように「事実」「考え方」「感情」という3段階の流れから成り立ってます。
「重大な仕事を任された」というのは、事実です。
「失敗すれば私の人生は終わりである」というのは、考え方です。
「不安である」というのは、感情です。
これらのうち、「変えられるもの」と「変えられないもの」を区別して考えてみます。
事実は、変えられません。
考え方は、変えられます。
感情は、半分だけ変えられます。
「重大な仕事を任された」というのは、実際に起こったことですので、客観的な事実です。これは否定のしようがありません。
しかし、「失敗すれば私の人生は終わりである」というのは、自分の主観にすぎず、事実ではないのです。考え方はいくらでも変えることができます。
「不安である」という感情は、実際に自分がそう感じているのなら、事実です。しかし、「失敗すれば私の人生は終わりである」と思っているかぎりは不安である、という条件つきの現象にすぎません。
感情を無理に「変える」ことはできませんが、考え方によって「変わる」ことはあります。そういう意味において、「感情は半分だけ変えられる」のです。
悩みを感じるというのは、不快な感情をもつということです。
「不安である」「悔しい」「悲しい」などという感情が不快だから、それをなんとか解消したいと思うのです。
「感情は、半分だけ変えられる」と言ったのは、無理に自分の感情を否定してはいけないからです。
感情を押し殺して自分の心をごまかすことでは、問題の解決にはなりません。
悔しいときは、枕を壁に投げつけてもいいし、悲しいときは、声を上げて泣いてもよいのです。
自分の感情をありのままに受け止めることが、自分と向き合う第一段階です。
そうしてはじめて、自分の力で問題を解決しようという意欲と主体性がわいてくるのです。
「だから、〜である」という考え方は、そのまま「だからといって、〜というわけではない」と、否定文に変えることもできます。
「この仕事を失敗すれば、私の人生は終わりである」は、「この仕事を失敗したからといって、私の人生が終わるというわけではない」と言い換えることができるのです。
何を根拠にそんなことを言うのか、と思われるかもしれませんが、「私の人生は終わりである」というのも、確たる根拠のない思い込みにすぎません。
客観的な事実ではないのですから、どう言い換えてもよいのです。
「外見が美しくないから、異性にもてない」は、「外見が美しくないからといって、異性にもてないわけではない」と言い換えることができます。
「口べただから、友達ができない」は、「口べただからといって、友達ができないわけではない」。
単なる言葉の上での言い換えにすぎませんが、それでよいのです。考え方は、言葉によって形づくられるのですから。
言葉を言い換えて、何度も何度もそう考えることを習慣づける以外に、考え方を変える方法はありません。
自分が心から信じたことが、自分にとって「本当のこと」になるのです。
「だからといって、〜というわけではない」という言い方に慣れてきたら、次は「だからこそ、〜である」と、さらに一歩進んで、よい点を見つけるようにしてみましょう。
「この仕事に失敗すれば、出世コースから外れるかもしれない。だからこそ、真剣勝負にやりがいを感じるのだ。精一杯やって、それでもダメだったら、あきらめもつくだろう。失敗のないふわふわした人生に、何の楽しみがあるだろうか」
「私は外見が美しくない。だからこそ、心と心で他人と触れ合おうという気になるのだ。外見だけで他人を惹きつけても、本当に好かれていることにはならないのだ」
「私は、不器用で口べたである。だからこそ、おべっかを使ったり、うまい言葉で他人をだましたりすることができない。私のそういうところを信頼してくれる人もいるはずだ」
悩んだり落ち込んだりしたときには、「だからといって」と「だからこそ」のふたつのキーワードを思い出してください。
冷静に事実を受け入れ、考え方を変えることによって、感情も変わるのです。
人生は、なかなか思い通りにはいきません。だからといって、それが不幸だというわけではありません。
不遇の中にあってこそ、自分の意志が試されます。
悔しいことがあるからこそ、人は努力し、そこに進歩があるのです。
悲哀の中で見つけたよろこびこそが、真のよろこびなのです。

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