アドバイス [ No.280 - 289 ]
恋人に苦しめられ、傷つけられてしまう人は、いつも同じパターンの恋愛を繰り返してしまうものです。
父親の酒ぐせが悪く、母親が苦労させられているのを見て育った女性は、「私はあんな男とは絶対に結婚したくない」と思っているのに、なぜか同じように酒ぐせの悪い男性を恋人に選んでしまいます。
自分を無価値な人間だと卑下してばかりいる人は、自分を受け入れてくれるような温かい人と付き合うべきなのに、わざわざ冷たい人を恋人に選び、責められ、拒絶され、よけいに傷つけられるのです。
他人から見れば「よせばいいのに、なぜあんな人と」と不可解に思うのですが、それは本人にとっては、「失われた自己」を回復するための涙ぐましい戦いなのです。
他人に傷つけられてばかりいる人は、人間関係を「支配するかされるかの力くらべ」という図式でとらえ、「自分の力が足りなかったから、負けたのだ」と思い込んでいます。「よし、次こそは勝とう」と。
心に問題を抱えた男性に献身的に尽くし、もし彼が立ち直って、私に感謝を示してくれたら。
乱暴で冷たい人が、私の優しさに心を打たれ、真の愛情に目覚めてくれたら。
「自分の力で他人をコントロールすることができるようになれば、これまでの苦労が報われる」と考え、無謀な戦いに挑んでいるのです。
見かけは愛情という形をとりながら、その目的を「相手が自分の望むとおりに変わってくれること」だと思っているから、恋愛そのものを楽しむことができず、最後には心身ともに疲れ切ってしまうのです。
「力くらべ」は、勝っても負けても虚しいものです。
ふたりの子供が、人形を取り合ってケンカをしています。
ふたりで一緒に遊べばいいのに、互いに譲らず、引っ張り合ったために、人形はちぎれてしまいました。
人間関係の「力くらべ」は、これに似ています。
力ずくで相手に勝つことができたとしても、えられるものは、もはや価値のない「ちぎれた人形」にすぎないのです。
幸せな人とは、人形を相手に譲り、相手が楽しんでいるのを見て、自分もよろこべる人のことです。
それを「ふがいない負け犬」とバカにする人もいるかもしれません。
しかし、人形を独り占めした人は、それを奪われないように、つねに他人を警戒していなければなりません。
また、自分よりも立派な人形をもっている人が現れれば、すぐに自分が負け犬に転落してしまいます。
そんな心もとない幸せが、本当の幸せだと言えるでしょうか。
逆に、「他人に譲り、他人のよろこびを自分のよろこびだと感じられる人」は、絶対にその幸せを他人から奪われることはありません。
また、他人と自分を較べて劣等感をもつこともありません。
それこそが、本当に強い人だけが感じられる絶対的な幸せです。
「私は、心ない人に傷つけられてばかりいる」と嘆いている人は、無意識のうちに自ら「勝つか負けるかの戦い」に身を投じ、他人に挑戦状をたたきつけているのです。
誤った土俵の中でどれだけ必死に戦っても、本当の自信はえられません。
自分に自信のもてない人が付き合うべき相手は、「力くらべ」という尺度とは無関係に生きている人です。
誰のまわりにも、そういう温かい心をもった人は必ずいるはずなのです。
心の温かい人に人形を譲れば、きっと「あなたもどうぞ」と譲り返してくれます。よろこびや楽しみはけっして失われることはなく、相手と共有することができるのです。
他人の人間性を見極めるためにすべきことは、「人形を取り合って勝負すること」ではなく、「まず、相手に譲ってみる」ことです。
他人を変えようとするのではなく、そのままに相手を受け入れるのです。
「私はいつも好きな人に尽くし、身がすり減るほど気を遣っているのに、報われない」という被害者意識をもっている人は、要注意です。
相手に尽くし、気を遣うことの結果として「自分を愛してもらうこと」を求めているならば、それは本当に相手に譲っていることにはならないのです。
「最終的に自分の思いどおりにならなければ報われない」としか思えないような恋愛は、どのみち報われないのです。
「相手に譲る」というのは、言いたいことを我慢して自分を抑圧したり、盲目的に相手に服従したりすることではありません。
言いたいことは言い合ってもよいのですが、いたずらに相手を傷つけたり、強引に相手を従わせようとしたりしてはいけないのです。
心の通い合った関係というのは、「自分の思っていることを正直に言っても、嫌われることはないだろう」という信頼にもとづいた関係のことです。
最後に補足しておきますが、心の温かい人を選んだからといって、必ずその恋愛が成就するという保証はありません。
しかし、たとえ振られても、けっして後悔することはないでしょう。
10人の優しい人に振られても、1人の冷たい人と不毛な恋愛を続けるよりは、自分の人生にはるかに多くの実りがあります。
どのような結果になっても、「この人を好きになってよかった」と思えるような恋愛が、本当の恋愛なのです。

-
ある10代後半の男性は、次のように悩んでいます。
いつも行動をともにしている友人がいる。
一緒に遊んでいるときは楽しいのだが、別れた後にふと漠然とした虚しさに襲われることがある。
その友人は、自分といやいや付き合ってくれているのではないか、陰で自分の悪口を言っているのではないか、と勘ぐってしまう。
友人を信頼したいのに、こんなことを考えてしまう自分が嫌になる。
他人との強い結びつきを求めれば求めるほど、「もし裏切られたらどうしよう」という不安も大きくなります。
「信じたい、でも信じられない」という葛藤に悩まされたときは、どうすればよいのでしょうか。
友人を完全には信用できない。でも、友人との関係はつなぎとめておきたい。
ならば、とりあえず「信用できないままに、付き合っていくしかない」のです。
他人を信じたいと思うのは、相手とよい関係を結びたいと願っているからこそです。
「相手とよい関係を結びたい」という思いさえあれば充分です。
「信じ合えなければ、付き合う価値はない」と考えていては、誰とも付き合い始めることはできません。
人は皆、ある程度は本音と建て前を使い分けているものです。どんなに親しい間柄でも、互いに知らない部分があるのは当然です。
「他人が本当はどう思っているか」を完全に知ることはできません。相手の言動から推測して判断するしかないのです。
そして、どれだけ他人を理解したつもりになっても、それは相手の一面にすぎない、ということも心得ておかなければなりません。
10人の人が見れば、10通りの見方があるでしょう。
自分との関係だけを通して、「この人はこういう人だ」と決めつけようとしてはいけないのです。
「他人を信じられない」と悩んでしまう人は、「他人の心の裏の裏まで読み取ってやろう」「他人を自分の味方に取り込んでやろう」という支配欲が強すぎるのではないでしょうか。
本当に他人を信じるということは、「他人が自分の思い通りに動いてくれることを信じる」という意味ではなく、「他人が自らの意志で、自らの責任で、正しいと思う行動をとることを信じる」ということなのです。
自分が得をするか、損をするかということは関係ありません。
信頼関係を結ぶには、長い時間が必要です。また、長い時間をかければ、自然に信頼は生まれるものです。
「たとえ今、裏切られても、これまで相手と共有した多くのよろこびを考えれば、損をしたとは思わない」と思えるほど関係を深めたときが、相手を信用できるときです。
相手に心を開けないのは、まだそういう時期がきていないということです。
だからといって、現在の関係が無駄だということではありません。
今は完全に信用できないなら、無理に気取らずに、「現在の私たちの関係は、まだ発展途上である」と素直に認めればよいのです。
「70パーセントぐらいは信用している」と、数値で表してみるのもよいでしょう。
「相手とよい関係を結びたい」という思いがあるなら、「この信頼度を80パーセント、90パーセントと高められるよう、相手としっかり向き合い、対話をし、理解を深めていきたい」と前向きに考えられるはずです。
その過程を省略して、一足飛びに信頼関係を結ぶことはできません。
重要なことは、自分が相手とよい関係を結びたいという気持ちがあるかどうかです。
相手を信用できなくても、「よい関係を結びたい」という気持ちは伝えられるはずです。
信頼関係を築いていく、現在の過程こそが重要なのです。

-
ある男子大学生は、毎日が孤独で耐えられないと悩んでいます。
大学に行っても話す友達はおらず、ただ黙々と授業を受けるだけ。昼休みも食堂の隅で独りぼっちで食事をとります。
まわりの学生たちを見ていると、なぜあんなに明るく生き生きとしていられるのか、不思議でなりません。
自分も輪の中に入りたい。誰か声をかけてくれないだろうか。
そう密かに願いつつも、もし本当に声をかけられても、うまく話すことができず、変なやつだと思われるだろう、という不安も拭えません。
もっと自信をもちたいと思うが、これといった才能も特技もなく、容姿も人並み以下の自分が、いったい何を心のよりどころにすればいいと言うのか。
考えはいつも堂々巡りで、「自分は、ほかの人たちのように楽しい人生を送ることはできないのだ。決定的に何かが欠けているのだ」という違和感だけが頭をもたげるのです。
どうすれば、自分に自信がもてるのでしょうか。
自信とは、いわば、「自分はここにいてもいいのだ」という、どっしりとした安心感です。
「他人とうまく会話ができるか」が問題なのではなく、「他人と一緒にいても、居心地の悪さを感じない」ということが重要です。
自分に自信のない人は、心理的な「自分の居場所」がなく、つねに不安定な台の上に立っているような不安と緊張にさいなまれているのです。
友人や恋人をつくりたい。生きがいとなるような仕事や趣味を見つけたい。そして、自分に自信がもてるようになりたい。
しかし、失敗してよけいに傷つくのも怖い。
はじめの一歩を踏み出すきっかけがつかめず、ためらってばかりいる人も多いのではないでしょうか。
そういう人は、「何か新しいことをはじめなければならない」と焦るよりも、手始めにまず、「何をやめるべきか」を考えてみてください。
第一にやめるべきことは、「どうせ自分なんか」と「できない言い訳」を探して自分を責めてしまうということです。
どうせ私は何の取り柄もないから。どうせ私は臆病で引っ込み思案だから。親がちゃんと育ててくれなかったから、私はこんな情けない人間になってしまったのだ。
自分を憐れむような言い方をすれば、自分が傷つきます。しかしそれでもなお、自分を卑下してしまうのは、「自分は特別な事情を抱えているのだから、仕方ないじゃないか」と開き直ることで楽になれる、と考えているからです。
自分の心にナイフを突き立てる痛みと引きかえに、「まだ行動を起こさなくてもよい」というつかの間の猶予をえて、安心しているのです。
しかし、そうして自分を卑下することが、ますます行動を起こす勇気をくじいているのだということに気づかなければなりません。
自分を責める癖がついている人は、生真面目な性格である場合が多いので、「楽な道を選ぶな」と言われれば、よけいに自分を追いつめ、自分を傷つけてしまうかもしれません。「こんなに苦しんでいるのに、もっと苦しめというのか」と反感をもつ人もいるかもしれません。
「楽をしてはいけない」というのは、正確に言えば、「一見楽に見えるが、後でよけいに苦しくなるような、安直な方法を選んではいけない」という意味です。目的はあくまで、苦労することではなく、幸せになることです。
本当に楽な方法があるなら、ぞんぶんに楽をしてもよいのです。
その方法が、一時しのぎにすぎないのか、本当に心が楽になれるのかをよく見極めなければならないということです。
「どうせ自分は」という言い訳を封じれば、「なかなか行動を起こせない、情けない自分の姿」と向き合わざるをえません。しかし、それを乗り越えて、自分を認められるようになることのよろこびに較べれば、そんな痛みなど蚊に刺されたくらいにしか感じないでしょう。
自分を責めたくて責める人はいません。本当は皆、自分が好きなのです。
自分が好きだからこそ、思い通りに自己実現できないもどかしさから、やけになって自分を傷つけてしまうのです。
「本当は自分が好きなのだ」という正直な気持ちに目覚めるまで、静かに自分を信じて待ってみてください。
自分を責めることをやめれば、自信や安心感は、自然にふつふつとわいてくるものです。
「そうしなければならない」ではなく、「そうせずにはいられない」という衝動に突き上げられたとき、本当に楽に行動できるようになるでしょう。
できるできないは別として、行動を起こそうという意欲がわいたことが自信となるのです。
「私は自分が好きだ」という気持ちに気づいたら、「この自分の正直な気持ちだけは絶対に裏切らないぞ」と心に決めてください。
そして、焦らず、親鳥が卵を温めるように、その気持ちをじっくりと大切に育てていってください。
自分で自分を好きになれば、それだけで「自分は存在する価値がある」と思えるようになるのです。

-
他人に話しかけて、迷惑そうな顔をされたらどうしよう。
何の取り柄もない自分は、どんな仕事に就いてもうまくいかないだろう。
この先ずっと、友人も恋人もできず、つまらない人生を送るのだろう。
何でも悪いほうに考えて落ち込んでしまう人は、「まだ起こってもいないことを大げさに怖れる」という癖があります。
これは、高所恐怖症の人の考え方に似ています。
高所恐怖症の人は、現在の危険に怯えているというよりも、「これからどんどん増していくであろう恐怖」を勝手に想像して、動けなくなってしまうのです。
高いところに上がれば、誰でもはじめは足がすくむのは当然です。しかし、ふつうは時間がたてば、「落ちる可能性はない」ということが判って、慣れてきます。
高所に慣れた経験のない人は、「はじめのうちでさえこんなに怖いのだから、時間がたてば、さらに耐えられないほどの恐怖が襲ってくるに違いない」という未知の恐怖に怯え、「取り返しがつかなくなる前に、降参しておこう」と考えてしまうのです。
高所恐怖症を治すには、「はじめは誰でも怖いのだ。しかし、やがて誰でも慣れるのだ」と理解すればよいのです。
高所恐怖症の人とそうでない人との違いは、「恐怖はどんどん増していくだろう」と考えるか、「恐怖はやがておさまるだろう」と考えるか、ということです。
最近の都市ガスでは、大きな地震が発生したときには、マイコンメーターによって自動的にガスが遮断されるようになっています。
地震が起きたからといって必ずガスが漏れるわけではありませんが、念のために最悪の事態を想定し、万全の策を講じているのです。
ガスが漏れていないことを確認し、メーターの復帰ボタンを押せば、再びガスが使えるようになります。
恐怖というものも、危険を避けるために人間に与えられた本能です。それは、「克服すべきもの」というよりも、「うまく活用すべきもの」なのです。
なぜ恐怖を感じるかといえば、「安全が確認されていないものは、とりあえず危険だとみなして回避しておく」ためです。それほど危険でないことが判れば、もう怖れることはないのです。
恐怖や不安にとらわれて行動ができない人は、復帰ボタンを押すことを知らない人です。安全装置がはたらいてガスが遮断されただけなのに、二度とガスは使えないと思い込んでいるのです。
たしかに人生にはつらいことや悲しいことは起こりえますが、最悪の事態などというものは、ほとんど起こりません(めったにないことだからこそ、最悪なのです)。
恐怖や不安は、たいていの場合、取り越し苦労にすぎないのです。
他人に話しかける勇気がない人は、「これまで、他人から認めてもらえずに苦しんできた。だから、これからも、もっともっと苦しむことになるだろう」と考えています。
「この先の人生、何もいいことがないだろう」と悲観している人は、「これまでこんなにつらいことがあったのだから、年を重ねるごとに、つらいことばかりが増えていくだろう」と想像しています。
死にたいほど絶望してしまう人は、「現在の不幸に耐えられない」というよりも、「これからずっと続くであろう不幸に耐えられない」のです。
これまでは、たしかにそうだったかもしれません。しかし、先のことは判らないのです。
人間の考え方は、変わるものです。
現実は何も変わらなくても、その意味をどう受け止めるかで、人生は大きく変わることもあります。
その不幸は、本当に心を打ち砕くほどの不幸だったでしょうか。
ものの見方が変われば、ふたたび同じ目にあっても、今度はそれほど気にならなくなるかもしれないのです。
幼い子供のころ、親に「そんな聞き分けのない子は、おいていきますよ」と叱られて、「本当に親に見捨てられたら、どうしよう」という恐怖におののいた経験のある人もいるかもしれません。
子供のころは、それは生きるか死ぬかの大問題でした。しかし、大人になって振り返ってみると、「親は、言うことを聞かせるために、方便でああいう言い方をしただけなのだ」ということが判るようになります。
親にそう言われたという事実は変わらないのに、自分が成長したおかげで、その事実のもつ意味は大きく変わったのです。
雨は、ハイキングを楽しみにしていた人には残念なことですが、日照りを心配していた農家の人にとっては恵みとなります。
雨そのものによいも悪いもなく、それをどう受け止めるかという意識の問題です。
横断歩道を渡っていて、自転車に引っかけられて転倒したことは、「とんでもない不運だった」と考えることもできますが、「トラックにひかれる危険を教えてくれた」と見ることもできます。
これまで不幸だと思っていたものが、実は自分の人生に必要なものだったということに気づくときがくるかもしれないのです。
悲しい、苦しい、もうダメだ。そこで人生を降りてしまったら、本当に悲しくて苦しいままで終わりです。
人生には好調と不調の波があり、そのサイクルの期間は人によって違います。これまで不幸だったのは、たまたま不調の期間が長く続いていただけで、これから好調に転じるかもしれないのです。
よいことが起こるという保証はありませんが、悪いことばかりが起こるというのも、何の根拠もない憶測にすぎません。
「将来に何の希望ももてない。何を頼りに生きていけばよいのか」と迷っている人は、とりあえず、「自分がどういう人生を歩むのかを見届ける」ことを目的に生きていけばよいのではないでしょうか。
ともかく、生きてみなければ判らないのです。

-
20代半ばのA子さんは、恋愛において、いつも同じパターンの失敗を繰り返しています。
彼氏は、はじめは優しくしてくれるのですが、だんだん怪しい行動をとるようになり、A子さんが問いつめると浮気をしていた、という結果に終わるのです。
A子さんは、「どうせ、男はみんな浮気をするんだ」と思い込み、新しい恋人ができても、こっそりメールをチェックしたり、かまをかけて反応を試したりしてしまいます。そんな自分に嫌気がさしているのですが、やはり男性に裏切られ続けてきた不信感から、まず相手を疑ってかかってしまうのです。
恋人に浮気をされないために、どうすればよいか。
それは、相手が浮気をしないように厳しく監視することではありません。
「相手の人間性としっかり向き合い、どういう人と付き合うべきかを自分で選ぶ」ということです。
恋人の浮気を疑ってしまうということは、自分が相手を「隠れて浮気をするような人間」だと見なしているということです。
「真面目で、誠実で、思いやりがあるが、唯一の欠点は浮気をすること」などという人はいません。浮気をしかねないと思われるような不誠実な人を恋人に選んだことが問題なのです。
現在、恋人が実際に浮気をしているかどうかということは、たいして重要ではありません。
平気で浮気をするような人なら、今はたまたま浮気をしていなくても、それは単に機会に恵まれなかっただけで、いずれあわよくばと狙っていることでしょう。
自分が「そのような性格の人と付き合い続けるべきなのか」ということを考え直さなければならないのです。
浮気性の人は、たいてい口がうまいものです。異性を褒め、もち上げ、どうすれば相手がよろこぶかを知っています。
それは人間の長所には違いありませんが、心ない人がこれを利用すれば、他人を思い通りに操る武器にもなりえます。
A子さんはきっと、自分をいい気分にさせてくれる人が好きなのです。相手の人間性や価値観などを考慮せず、「自分に甘い言葉をかけてくれた」という点だけで恋人を選んでいるから、「飽きられたら終わり」となってしまうのです。
「男はみんな浮気をする」のではありません。A子さんが恋人に選ぶようなタイプの男が、浮気をするのです。
他人に不信感をもっている人ほど、相手の人格としっかり向き合おうとせず、表面的な言葉だけに惑わされるので、かえってだまされやすいのです。
「他人がどう言ったか」ではなく、「どういう性格の人が、そう言ったのか」を考えて判断しなければなりません。
ある女性が、既婚の男性から「君のことが好きだ。妻とはいずれ別れるつもりだから、付き合ってほしい」と言われました。
彼女も彼のことが好きだったので、その言葉はとてもうれしいものでした。
しかし、すぐに付き合いはじめるべきではありません。
彼女が彼の愛情を信じているなら、「では、まず奥さんと離婚してください。その後で正式にお付き合いしましょう」と言うべきなのです。
「今すぐに身も心も捧げて、彼の気持ちをつなぎとめておかなければ、彼は離れていってしまうかもしれない」と考えるのであれば、本当に彼を信用していることにはならないのです。
「他人を信用する」とは、「すべての責任を相手にゆだねる」ことではありません。自分の人生は、最後には自分で責任をとらなければならないのです。
「自分で責任をとる」という自覚に目覚めれば、「自分に選ぶ権利がある」という意識が芽生えてくるでしょう。
また、「自分に選ぶ権利がある」という意識が、「言い訳はできない」という覚悟と責任感を生むのです。
細かな損得勘定においては、他人に利得を奪われることもあるかもしれません。しかし、自分が幸せになることの責任は、自分自身にあるのです。
他人を信じるために必要な心構えは、「原則として、自分の幸せは自分でつくり上げるのだ」ということです。
幸せに生きるために、まわりの他人の存在は欠かせませんが、他人はあくまでその幸せに「協力してくれる人」、あるいは幸せを「確認してくれる人」にすぎません。他人はけっして自分の人生の「管理責任者」ではないのです。
自分の本当の幸せが判るようになれば、むやみに他人を疑うこともなくなるでしょう。
他人を疑ってしまうのは、「人をだまして、自分だけ幸せになろうとする人が許せない」と考えているからです。
しかし、人を裏切ってえられる幸せなど、本当の幸せではありません。
他人に裏切られたときは、「その人が、自ら損な選択をしただけ」と軽く受け流しておけばよいのです。
平気で嘘をつく人、浮気をする人は、「誰からも真剣に愛されない」という重い罰をすでに受けています。それはあくまで相手の不幸であって、自分の不幸ではありません。
自分は自分で、いちずに本当の幸せを目指していけばよいのです。

-
独りぼっちでいることが耐えられない、という人がいます。
買い物に行くのも、食事をするのも、必ず誰かを誘って行きます。
休みの日に家で独りで過ごすなどということは考えられず、手当たり次第に友人たちに連絡をし、誰もつかまらないと、まるで自分だけが世の中から取り残されてしまったような不安と焦りにさいなまれます。
他人との一体感をもつことでしか、自分の存在意義を確認できないのです。
人当たりはよく、社交的に見えるのですが、他人と対立することを避け、心には鬱憤がたまっています。
他人に文句が言いたくても言えず、笑顔をつくってしまう。頼まれれば、嫌なことでも断れない。他人の感情を素早く読み取り、自分を押し殺して相手に合わせてしまう。
心がすり切れるほど他人に気を遣ってでも、独りぼっちになることを避けようとしているのです。
それだけに、自分を尊重してくれない人がいれば、はげしい怒りを感じます。
恋人は、どんな大事な用よりも自分と会うことを優先すべきだ。友人にメールを送って、すぐに返信がないと腹が立つ。自分以外の人が楽しそうにしているのを見ると、邪魔をしたくなる……。
「他人が自分を見捨てようとしていないか」をつねに警戒して怯えているのです。
他人との関わりを大切にし、多くの人とふれ合うということ自体は、悪いことではありません。
しかし、付き合いを楽しんでいるわけではなく、「独りぼっちになるのが怖い」という強迫的な考えに突き動かされているのだとすれば、やはり問題です。
「すべての人から好かれなければならない」「つねに他人から好かれていなければならない」と考えている人は、誰とも深く付き合うことはできないのです。
「他人と一緒にいなければ不安で仕方がない」という人は、独りで自分と向き合うことを避けています。
自分は、他人の役に立っているだろうか。有意義な人生を送っているだろうか。目標や信念をもって生きているだろうか。そう自分に問いかければ、うまい答えが見つからず、落ち込んでしまう。
その無力感、劣等感を埋め合わせるために、必死で他人から認められようとするのです。
逆に、他人との関わりをいっさい絶って、自分の殻に閉じこもってしまう人もいます。
そういう人もやはり、他人を敵と見なし、「傷つけられるのが怖い」という強迫的な考えにしばられています。
つねに他人と一緒にいなければ不安で仕方がないという人は、「他人とも自分自身とも真剣に向き合うことを避けている」という点において、他人を拒絶している人と根本的に同じなのです。
他人に依存してばかりいるのも、他人をまったく拒絶してしまうのも、正常な人間関係とはいえません。
他人とふれ合う時間も大切ですし、静かに内に向かう時間も同じくらいに大切です。
他人とふれ合うことで、そのありがたみが判りますし、孤独と向き合うことで、自分の考えを整理できます。
人間の心は、言わば「ぬか床」のようなもので、「ときどきかき混ぜること」と、「じっくり熟成させること」の両方が必要なのです。
どこまで他人を頼り、どこまで自分の力で生きるべきか。
どこまで他人に譲り、どこまで自己を主張すべきか。
それはその人の性格によっても違うでしょうし、時と場合にもよるでしょう。
問題は、それが積極的な意欲にもとづくものなのか、強迫的な不安によるものなのか、ということです。
独りぼっちは淋しい。しかし、他人と関わって傷つくのも怖い。
強迫観念にしばられている人は、「できるだけダメージを避けよう」ということにしか考えが及んでいません。
ダメージを受けずにすんだとしても、それはプラスではなく、ゼロにすぎないのです。マイナスを避けることに終始するだけの人生によろこびはありません。
他人と衝突することがあっても、本音をぶつけ合ってこそ、理解し合えるのだ。
孤独と向き合ってこそ、しっかりとした自分をもてるのだ。
大きなプラスを手に入れるために、あえて小さなマイナスを受け入れることが必要です。
他人の意見は、参考にするのはかまいませんが、振り回されてはいけません。つねに愛され続けることは不可能です。すべての人から愛されている人はいません。
他人から認められることは、たしかにすばらしいことですが、それは人生の「励み」にはなっても、「目的」であってはならないのです。
独りでいるとき、孤独の不安に襲われたなら、こう自分に言い聞かせてください。
「私は独りではない。目を閉じれば、親しい友人や家族の顔が思い浮かぶじゃないか」
何か行動するとき、つい他人の顔色をうかがってしまう人は、こう自分に問いかけてください。
「もし、誰にも見られていなくても、同じ行動をとるだろうか」
独りでいるときは他人と一緒にいるように、他人といるときは独りでいるように行動すれば、精神のバランスがうまくとれるようになるでしょう。

-
ある会社員の男性は、毎朝、同僚たちよりも30分早く出社しています。
会社の近くの安いコーヒーショップで一服し、ゆっくり新聞や本などを読んでから、余裕をもって仕事に取りかかるのです。
以前は、始業ぎりぎりの時間に会社に駆け込んでいました。
郊外の自宅から都心の会社まで、すし詰めの満員電車に揺られて1時間半。乗り換え駅では全力疾走。会社に着くころには、へとへとに疲れていました。
ただでさえ時間が惜しいのに、さらに早起きをすることなど、とうていできないと思い込んでいたのです。
しかし、男性は、こう考え直してみることにしました。
もし、会社の始業時間が30分早かったら。もし、自宅と会社がもっと離れていて、通勤に30分よけいにかかるとしたら。
「起きられないので勘弁してください」と言って、毎日遅刻していくわけにはいきません。そうせざるをえない状況に追い込まれれば、やるしかないのです。
そう考えれば、早起きした30分は、「自分が自由に使える時間」です。
30分早く起きてもいいし、起きなくてもいいが、自分は早く起きる。選ぶ権利があるだけ幸せです。
通勤ラッシュのピークを避ければ、電車は比較的すいているので、あまり疲れずにすみます。時間に余裕をもって行動すれば、発車寸前の電車に焦って飛び乗る必要もありません。
この男性は、以前よりも30分早く起きているのに、精神的にも体力的にも、かえってゆとりが生まれたのです。やる気が出て、仕事の能率も上がりました。
「時間に余裕がないから、これ以上早く起きられない」ではなく、「余裕がないからこそ、自分で時間をつくり出す」と、考え方を転換させたのです。
「あくせくと時間に追い立てられている生活」の中で、30分早く起きることは、たしかにつらいかもしれません。
しかし、「自分でつくり出した30分」は、それよりもはるかに大きな価値をもつのです。
ある女性は、つい甘いお菓子を食べ過ぎてしまうことに悩んでいました。
毎日、大量にお菓子を買い込んで、気分が悪くなるまで食べ続けてしまうのです。
身体に悪いし、出費もばかにならないので、何度もやめようと努力したのですが、どうしても「甘いものが食べたい」という誘惑にうち勝つことはできません。
「甘いものが好きなのに、我慢しなければならない」と考えていては、我慢はただの苦痛でしかありません。
そうではなく、「好きだからこそ、どうすればおいしく食べられるか」と、問題をさかのぼって考えてみればよいのです。
いくら好きなものでも、毎日大量に食べ続ければ、ありがたみも感じられず、おいしく味わうこともできません。
「どれだけ食べても満足できない」のではなく、「食べ過ぎるから、満足できない」のです。
週に一度か二度、少しだけ食べたほうが、どれだけおいしく感じられるか判りません。
たまに食べるお菓子のありがたみをしっかり噛みしめれば、食べるのを控えることは「我慢」ではなく、「楽しみのための準備」となるのです。
「他人に好かれているか、嫌われているか」が気になって仕方がない。
その悩みを解決する方法は、「愛を要求し続ける」ことではなく、「人に愛されなくても、自分で自分を愛する努力をする」ということです。
「まず他人から愛されなければ、とても自分を愛する余裕などもてない」と言う人もいるかもしれません。
たしかに、「他人にどう思われるかによって自分の価値が決まる」と考えているかぎりにおいては、そんな余裕などないでしょう。
そこから問題をさかのぼって考えなければなりません。
「他人から愛されたい」という欲求は、人間なら誰でももっています。それを無理に抑えることはありません。
他人に愛されたいと思うからこそ、自分を磨こうという向上心が生まれるのです。それをうまく生かせばよいのです。
大切なことは、実際に他人から愛されることではなく、「自分は、他人から愛される人間であるか」と省みて、自分を客観的に評価することです。
「他人にどう思われているかを気にして、ビクビクしている自分」を好きになれる人はいないでしょう。
自分で自分を愛していないのに、そんな自分を愛してほしいと他人に要求するのは、どだい無理な話です。
自分を愛することは、他人に愛されるための必要条件です。
他人から愛されなくても、愛される人間になるよう努力し、そんな自分に誇りをもって生きていれば、それで充分です。
やがて「十人中、一人でも理解してくれる人がいれば幸運だ」と、余裕をもって考えられるようになるでしょう。また、一人でも理解してくれる人がいれば、よけいに他人のありがたみをしみじみと感じられるようになるでしょう。
苦痛は、受け身であるかぎり、いつまでも苦痛です。
目の前の問題を処理することばかりにとらわれず、「この問題に振り回されないようにするには、どうすればよいか」と、さかのぼって考え直すことが重要です。
自分から能動的にかかわることによって、苦痛を「やりがい」に変えることもできるのです。
それは、はじめは大変なことのように思われるかもしれませんが、慣れてくれば、逆に、そうせずにはいられなくなるでしょう。
悩みこそが生きがいです。大変なことほど、大切なことなのです。

-
愛される人間になるためには、まず自分自身を愛することが必要です。
しかし、自分を愛するといっても、自分に自信のない人は、何をどうすればいいのか判らないと思われるかもしれません。
「自分は、何の取り柄も魅力もない、ちっぽけな人間だ。いったいこんな自分のどこを愛すればいいというのか」と悩んでいる人もいることでしょう。
しかし、「自分はちっぽけな人間だ」と嘆いている人は、心の底から自分をちっぽけだと思っているわけではなく、むしろ、自分をちっぽけな人間だと認めることができないからこそ、悩んでいるのです。
自分がちっぽけだと思うのなら、謙虚に他人から学び、自分を高める努力を続ければよい。
ただ、それだけのことです。
「自分はちっぽけな人間だ」と悩む必要はありません。自分だけでなく、すべての人間は、しょせんちっぽけで、はかない存在なのですから。
人は皆、地球上の何十億人のひとりにすぎません。その一生は、悠久の宇宙の歴史に較べれば、ほんの一瞬のできごとです。
心の底から「自分はちっぽけな存在だ」と認めることができれば、「だからこそ、些細なことに悩んだり怒ったりしても仕方がない。かぎられた一生の時間を精一杯に駆け抜けて、悔いのないように生きよう」と前向きに考えられるのです。
「特別な人」はひとりもいません。
ただし、個性は人それぞれに違います。この世の中で、自分とまったく同じ性格、同じ体つき、同じ経験をしてきた人はいません。
この広い世界で、自分という存在は、後にも先にも自分ひとりだけです。それだけで充分に特別なのですから、それ以上に特別であろうとする必要はありません。
人は誰でも特別であるという意味において、すべての人は平等であり、一部の恵まれた人だけが特別なのではないのです。
ここで、次のように反論される方がいるかもしれません。
「大金持ちやスーパースター、有名なスポーツ選手、歴史に名を残す人物などは、明らかに特別ではないか。自分と較べて、あまりにも不公平ではないか」
しかし、それはあくまで個人の主観にすぎません。自分が「運や才能に恵まれ、多くの人々から注目を受ける人」をうらやんでいるから、そういう人たちが特別に思えるのです。
それを特別だと思わない人もたくさんいます。何に価値をおくかは人それぞれなのですから、「誰にとっても特別な人」などというのはいないのです。
世の中には、他人から注目を受けなくても、立派に、誠実に、気高く生きている人もいます。そういう人たちが、大金持ちやスターよりも価値が劣るなどということは、絶対にありません。
自分を愛するとは、「自分は特別扱いされるべきだ」と思い上がることではなく、他人と較べて優越感を抱くことでもなく、ありのままに自分を受け入れるということです。
「自分をありのままに認める」とは、けっして「努力を怠ってもよい」という意味ではなく、「自分を実際の自分以上に見せようとしない」ということです。
「自分にできるかぎりのことをやって、その結果を受け入れる」といういさぎよい態度のことをいうのです。
具体的にどういう行動を起こせばよいのか判らないという人は、まず、特別なことではなく、「ふつうのこと」を徹底的に行ってください。
礼儀正しくふるまう。はっきりとあいさつや返事をする。「ありがとう」「すみません」を素直に言う。自分のことは自分でする。決められたルールを守る。困っている人がいたら、見て見ぬふりをしない。
これら「人間として当たり前のこと」を完璧に実行しようと思えば、並大抵のことではありません。
私たちは、「ふつうの人間」にさえ、なかなかなれないのです。
「平凡な人生を送りたくない」と言って高望みばかりしている人は、結局、平凡な人間にもなれないまま人生を終えることになるのです。
「ふつうのこと」を心がけてさえいれば、充分に自分に自信がもてるようになるでしょう。
ふつうの生活。ふつうの人間関係。ふつうの仕事。それに満足できない人は、どんな幸福にも満足できません。
「ふつうであること」以上の幸福はないのです。
「自分の人生には何もいいことがない」という人は、毎朝、目が覚めたら、「きょうは、10年間の入院生活を終えて退院する日だ」と仮定してみてください。
それだけで心は幸せに満たされ、すべてが輝いて見えるはずです。「ふつうに生きられること」のありがたみを心から実感できるようになるでしょう。

-
「起きて半畳、寝て一畳」という言葉があります。
どれだけ家が広くても、実際に自分の身体が占有している広さは変わりません。
「もっと豊かな暮らしがしたい」という不満をもっている人でも、家の中を見回してみれば、人間が生きていく上で不可欠というわけではない「無駄なもの」がたくさんあることに気づくでしょう。ただでさえ私たちは、身に余る暮らしをしているのです。
せまく質素な家の中でも、目を閉じて「ここは宮殿のような豪邸だ」と想像してみてください。
ひとりの人間が生きていくために、何百坪もの土地は必要ありません。
むしろ、家が広ければ広いほど、管理に手間と費用がかかるし、防犯対策などのわずらわしさも増えることになります。
実際に広い家を所有することと、広い家に住んでいると想像することの間に、どれほどの違いがあるというのでしょうか。
広い家に住むことの利点が、「贅沢な気分に浸れる」ということだけならば、自分で勝手に広い家を想像するのも同じことです。ただの「気分の問題」なのですから。
300円の原価でつくった家庭料理と、高級レストランで出される3万円の料理とを比較してみましょう。
高価な食材とは、たいてい、稀少なものです。しかし、稀少だからおいしいとはかぎりません。
値段が100倍になったからといって、栄養価も100倍になるわけではなく、高い料理を食べたからといって長生きするわけでもありません(むしろ健康を損なう場合のほうが多いでしょう)。
どんな高級な食材を使い、一流のシェフが腕をふるった料理でも、ひとりの人間が一度に食べられる量には限界があります。量が同じなら、腹のふくれ具合も同じです。
そう考えれば、食べものは、「値段が高ければ高いほど、割に合わない」ということが判ります。
たった一個のおにぎりでも、たとえば、富士山の頂上で食べていると思えば、おいしく食べられるのです。
「目に見えるもの」「形あるもの」を手に入れて満足するという俗な楽しみは、想像力のない人にまかせておきましょう。
目に見えるものを見えるままにしか感じられない人は、どれだけ贅沢をしても心は豊かになりません。
幸せとは、心が満たされることです。現実を変えなくても、想像力を駆使して心の中を変えるだけで、充分に幸せになれるのです。
幸せは目に見えませんが、「自分を幸せだと思うこと」は、たしかな現実です。
他人の心の中も、目には見えません。
「自分が好かれているか、嫌われているか」をどれだけ気にかけても、本当のところは判らないのです。
どうせ見えないのですから、自分に都合のよいように想像してしまえばよいのです。
他人が怖いという人は、みんなが怖い鬼の仮面をかぶっているように見えているのではないでしょうか。
その他人の顔に、にっこりと笑ったお面をかぶせてみましょう。そして、「みんな、自分に好意をもっているはずだ」と、他人の心の中を勝手に想像してみましょう。
それだけで、心はずいぶん安らぐはずです。
愛情を計測器ではかることはできません。他人に愛されることによって、何かが物理的に変化するわけでもありません。
愛情で結ばれた関係とは、いい意味での勘違いだと言えます。
「愛されること」とは、すなわち「自分が愛されていると思うこと」です。
自分がどう思うかという問題なのですから、勝手に「自分は愛されている」と思えばよいのです。
「それでは、ただのうぬぼれにすぎず、ストーカーになるような人間と同じではないか」という疑問をもたれる人もいるかもしれませんが、けっしてそんなことはありません。
鼻持ちならないうぬぼれ屋や、特定の人に執拗に付きまとうストーカーなどは、本当に「自分は愛されている」と思っているわけではなく、むしろまったく逆で、「自分は愛される価値のない人間だ」という劣等感にまみれており、だからこそ、他人に愛情を要求しなければ気がすまないのです。
心から「自分は愛されている」と思うことができる人は、それ以上に愛を求めることはしません。お腹がいっぱいになればそれ以上食べられないのと同じように、本当に心が満たされれば、もう充分だと思えるようになるのです。
現実と妄想の区別がつかないのは困りますが、自分を幸せだと思える人は、自分の心をしっかり管理できているのです。
心が大きくなれば、他人に優しくなれます。
自分の想像力で、心はいくらでも大きくすることができるのです。
「自分は他人に愛されている」と思うことができれば、「できるだけ恩返しをしよう」と思えるようになるでしょう。
そういう積極的な態度が、ますます他人の愛情を呼び込むのです。

-
他人との付き合いの中では、うれしいこと、楽しいこともたくさんありますが、それと同じくらいに、つらいことや悲しいこともあります。
他人を拒絶している人は、つらい思い出を受け入れられず、「もう二度とこんなつらい目に遭いたくない」と、心を閉ざしてしまっているのではないでしょうか。
大好きな人に振られた。
信じていた友人に裏切られた。
親からひどい仕打ちを受けた。
私たちは、それらの心の傷とどう向き合っていけばよいのでしょうか。
結論から言ってしまえば、「静かにゆっくりと傷が癒えるのを待つ」しかありません。
あせって手っとり早く痛みを取りのぞこうとしては、かえって傷を悪化させてしまいます。
痛みを癒すためのもっとも有効な薬は、「時間」です。
ただし、何も考えずに忘れてしまえばよいというのではありません。
麻酔をかけて身体の痛みを和らげるように、考えることをやめて心の痛みをごまかしても、何の解決にもならないどころか、「よろこびさえも感じられない」という大きな副作用をもたらすことになります。
心の痛みは、どれだけ時間がたっても、蒸発するように消えてなくなるものではありません。
身体ぜんぶで受け止め、自分の中に吸収するのです。
悲しみが身体じゅうに、血管の一本一本や細胞のひとつひとつにまで、じんわりと染みわたり、薄まっていく様子をイメージしてください。
悲しみを自分の一部として取り込んでこそ、それを乗り越えたと言えるのです。
心の痛みは、人間にとってまったく不要なものではありません。むしろ、成熟した大人になるためには不可欠といってもいいほどに大切なものです。
自分の心が痛んだ経験があるから、他人の痛みも想像できるのです。
もし、この世の中が、痛みを知らない人ばかりだとしたら、どんなに恐ろしいことでしょうか。平気で傷つけ合い、奪い合い、いたわり合うことも助け合うこともなく、勝つか負けるかだけの殺伐とした世界。
痛みや悲しみを知らない社会こそが、まさに地獄なのです。
けっして自分だけがつらい思いをしているのではありません。
人は皆、どんなに幸せそうに見える人でも、それぞれに悲しみを抱えて生きているものです。
幸せに生きている人は、何の苦労もなくのほほんと生きてきたわけではなく、悲しみを抱えながらも、いえ悲しみを抱えているからこそ、それを受け止め、一歩乗り越えて、悲しい人生の中によろこびを見いだして生きているのです。
「自分だけがつらい思いをしている」とひがんでいる人は、厳密に言えば、「つらい」「悲しい」という感情から逃げているだけで、本当につらい思いをしているわけではないのです。
心から悲しみを感じることができる人は、そんな自分を受け入れられるはずなのです。
「誰も自分のつらい気持ちを判ってくれない」などと嘆く必要はありません。判ってもらえないのが当然なのですから。
他人の心の痛みは、「たぶんこうだろう」と推測することはできても、完全に理解することは不可能です。
身体の痛みであれば、だいたい想像することはできます。同じ力で殴られれば、ケガの程度も同じくらいでしょうし、切り傷の深さが同じであれば、感じる痛みもほぼ同じです。
しかし、心の痛みは、その人の性格や考え方、経験などによって異なり、人それぞれとしか言いようのないものなのです。
ひどいののしり方をされても、まったく意に介さない人もいますし、他人から目をそらされただけでも、深く傷ついてしまう人もいます。
自分の心の痛みは、言わば「自分の勝手」であり、「自分にしか判らないものなのだ」という前提で受け入れなければならないのです。
他人の心の痛みを想像することは大切です。しかし、「私は他人の気持ちが判る人間である」という思い上がりは禁物です。
どれだけ他人の気持ちを想像する努力をしても、きっとその100分の1も理解できていないのです。
人間はどうしても、自分の痛みは過大に重く受け止め、他人の痛みは軽く考えてしまいがちです。
「他人の気持ちを最大限に想像する努力をしなければならない。自分の気持ちは、他人に判ってもらえなくても当然である」と考えるくらいでちょうどよいのです。それでもまだ、自分の気持ちのほうがはるかに重大だとみなしてしまっているでしょう。
悲しみは、無理に忘れようとしてはいけません。悲しみを抱えたまま、りりしく生きていけばよいのです。
何もつらいことがなければ幸せなのではありません。
悲しみの中によろこびを見いだすことにこそ、人生の輝きがあるのです。

-