愛する人に愛される方法 > アドバイス [ No.300 - ]

アドバイス [ No.300 - ]

ここより本文

No.300 『進んで責任をとろう』

何事にもやる気をもてない人は、すぐに「どうせ自分が悪いのだ」と思ってしまう癖がついています。
恋人に浮気をされたことも、友人とケンカをしたことも、仕事がうまくいかないことも、何もかも「自分が悪いのだから仕方がない」と自分を責め、ストレスをため込んで、やる気を失ってしまうのです。

しかし、本当に「自分が悪い」と思うことができる人は、落ち込むどころか、前向きに、行動的になれるものなのです。
自分の人生に起こった問題について、「自分の責任である」と認めるためには、強い精神力が要求されます。それほどの高い自尊心をもった人であれば、謙虚に自分を見つめ直し、自分はどうすべきかを考え、問題を解決すべく新しい行動に移れるはずです。

「どうせ自分のせいだ」と自分を責めて落ち込んでばかりいる人は、心の底から自分が悪いとは思っていないのです。
本当は他人が悪いと思っているのに、それを口に出せば、みにくい人間だと思われてしまう。自分を責めるのはつらいが、他人から嫌われるのはもっと怖い。
そうして自分の心をごまかし、自分に嘘をついていることが、ストレスの原因なのです。

だからといって、自分を責めればよいというのではありません。他人のせいにすればよいというのでもありません。
「誰が悪いのか」ではなく、「どうすればものごとがうまく運ぶか」を考えるべきなのです。
「自分は悪くないのに、不本意ながら自分を責めてしまう」というところから、さらに高い次元へと進み、「自分は悪くないのだが、問題を解決することを優先して、他人を立てておく」というのも、ひとつの方法です。

大岡裁きの有名な逸話として、落語にもなっている「三方一両損」という話があります。
ある左官が、3両の入った財布を拾い、落とし主の大工に届けました。
しかし、やせ我慢が江戸っ子の気質。大工は、いったん俺の懐から出た金は俺のものではないからお前にやる、と言って受け取りません。
左官のほうも、褒美がほしくて届けたのではない、と引き下がりません。
受けとれ、いや受けとらぬ、ともんちゃくの末、南町奉行・大岡越前守に裁決がゆだねられます。

越前が取りなしても、双方とも金を受け取ろうとしません。
「ならば、越前がこの3両を預かり、褒美として、金2両ずつを両名につかわす」
大工も左官も、3両懐に入るはずが2両になったのだから1両ずつの損、越前も自分の1両を差し出して1両の損、ということで、「三方一両損」と呼んで一件落着しました。

これは、理屈で考えるとおかしな話です。「三方一両損」ではなく、越前が1両の損をしたというだけの話です。
しかし、この越前を「みすみす損をした愚か者」だと笑う人がいるでしょうか。
この話の教えてくれるところは、「人間同士のもめごとは、実際に誰が得をした、損をした、ということではなく、互いが納得して面目が立てば、丸く収まるのだ」ということです。
越前は、町奉行の努めを果たすために、身銭を切ってでも争いごとを解決しようとし、ふたりの町民は、奉行の粋な取りはからいをありがたく承ったのです。

争いごとを解決するためには、「誰が悪いのか」と犯人探しをするのではなく、もっとも高い立場にある人が、おおらかな心で譲ればよいのです。
「お前が悪い」と他人のせいにしようとしていた人も、相手に譲歩されてしまうと、逆に自分の卑しさが恥ずかしくなるでしょう。
他人に責任をなすりつけた者が強いのではありません。相手に譲歩する余裕をもっているほうが、精神年齢の高い大人なのです。

会社で、部下の失敗をかばって責任をとる上司は、部下から尊敬され、信頼されます。
そういう上司のもとで働く部下は、「そうだ、何もかも上司が悪いんだ」「今度もまた上司に責任を押しつけよう」などとは思わないでしょう。逆に、「上司に迷惑をかけないように、しっかり仕事をしよう」と思うはずです。
この上司にとって、自分が手柄を立てることよりも、部下たちにやりがいをもたせることのほうが重要なのです。

進んで責任をとろうとする人を責める人はいません。
上司は、部下がおかしたミスであっても、自分がその部下を監督する立場にあった、という点で責任があります。「高い立場にある」ということそのものが責任なのです。
「自分が責任をとる」ということは、敗北でも屈辱でもなく、ひとかどの人間として誇るべきことなのです。

いつも他人のせいにしている人は、責任をとらずにすむ代わりに、誰からも信頼されないという大きな代償を払うことになります。
他人のせいにするということは、自分の人生の主導権を他人に譲り渡してしまうということなのです。
誰が悪いのかということは、たいして重要ではありません。自分は悪くなくても、自分に関わりのあることは、自分の責任だと考えるほうがよいのです。

「他人に嫌われるのが怖いから、自分が悪いことにしてしまう」という消極的な態度はよくありませんが、「自分のほうが大人だから、自分が責任をとる」と主体的に考えることができれば、落ち込んだり自分が嫌になったりすることはないでしょう。
どうしても我慢がならないときは、そんな相手とつきあい続けるべきなのかどうかということもふくめて、すべては自分が決めることです。

No.301 『自分の素直な気持ちを言葉にしよう』

孤独感とは、「誰も私のことを判ってくれない」という淋しさ、虚しさです。
実際にどれだけ多くの人と接しているかということは、あまり関係ありません。
100人の友人がいる人でも、「誰からも理解されていない」と感じていれば、孤独なのです。「孤独感」というよりも、「孤立感」「疎外感」と言い換えたほうがよいでしょう。

「誰も私を理解してくれない」という不満をもっている人でも、もし誰かに「私はあなたのことを何もかも知っていますよ」と言われれば、「私は、そんなに簡単に理解できるほど単純な人間ではない」と反感を抱いてしまうのではないでしょうか。
また、「他人に批判されるのが怖い」と言っている人でも、はれ物に触るように扱われれば、今度は「本音で向き合ってくれない」という不満が生まれます。
他人との一体感を求めていながら、自分の心に踏み込まれることを怖れる、という相反する感情が心に渦巻いているのです。
これでは、他人はどう対処すればよいのか判りません。挙げ句には、手を焼いて離れていってしまうことになるのです。

「なぜ他人は私を理解してくれないのか」という怒りは、「自分が言いたいことをはっきり言えない」という劣等感のすり替えです。
「他人に理解されること」を求めるのではなく、「自分の気持ちを伝える努力をすること」を目標としなければなりません。
理解してくれるかどうかは、他人によります。他人によって決められることを目標としても、達成感や充実感はえられません。
どんな小さなことでも、まず「自分にできること」からはじめてみましょう。

自分の気持ちを言葉に表すときに、注意すべきことがあります。
他人にどう思われているかを気にしすぎる人は、つい相手の反応を試すような言い方をしてしまうのです。
「どうせあなたも、私のことが嫌いなんでしょう?」
「私はバカだから、努力しても報われるはずがないですよね」
「私なんか、生きていてもしょうがない。いないほうがましだ」

そう言って自分を卑下する人でも、まさか他人に「はい、本当にあなたは、まったく価値のない人間ですね」と同意してほしくて言っているわけではないはずです。
「私のことが嫌いなんでしょう?」と尋ねることによって、「いえ、そんなことはありませんよ」と相手に言わせようとしているのです。
しかし、そんなおざなりの慰めを言われても、本当の自信や安心はえられないことも判っているはずです。
「他人は、表面的に優しい言葉をかけてくれるだけだ」と嘆いている人は、他人にその「口先だけの言葉」を言わせているのです。

わざと自分をおとしめるような言い方をして、他人の反応を試しても、ほとんどの場合、「気休めを言われる」か、「愛想を尽かされる」かのどちらかです。
自分は嫌われている、自分はバカだ、自分は価値がない、そんなことを他人から言われれば、誰でも腹が立つはずです。
他人に言われたら嫌なことは、自分自身に対しても言ってはいけません。それは自分を傷つけることであり、自分に嘘をつくことだからです。

「自分は皆から嫌われている」という劣等感をもっているなら、「あなたも私が嫌いなんでしょう?」という言い方ではなく、こう言うべきです。
「私は、他人から愛される自信がない。でも、本当は愛されたいと願っている。今は自分に自信がもてず苦しんでいるが、いつかはそれを克服したいと思っている」
そう言えば、他人は素直に共感してくれるでしょう。適切なアドバイスを与えてくれるかもしれません。

自分の気持ちを伝えるときに大切なことは、「他人にどうしてほしいか」ではなく、「自分がどう思っており、どうしたいと思っているのか」ということです。
「他人に理解されていない」という悩みは、実際に理解してもらえなくても、自分の気持ちをうまく伝えることができれば、ほとんど解消されるものなのです。
他人に向かって話す勇気がなければ、自分自身に話しかけるだけでもよいのです。
自分で自分の素直な気持ちを認められるようになれば、心はずいぶん軽くなるでしょう。

No.302 『他人に裏切られるという不安』

恋人や友人にメールを送ったのに、なかなか返事がこない。自分がないがしろにされているようで、腹が立つ。
そういうとき、いくら相手に「早く返事をよこしなさい」と求めても、互いの関係がよくなるわけではありません。
どれだけ返事が早く返ってきたとしても、「メールの返事がこなければ、すぐに不安になるような関係」であることに変わりはないのです。
そのような「相手に対する不信」こそを見直すべきなのです。

頻繁にメールのやり取りをするのがいけないというのではありません。互いにそれを楽しんでいるのであれば、まったく問題はないのです。
しかし、メールをたくさん送るのが好きな人は、えてして「他人が自分を見捨てようとしていないかをつねに警戒している」という傾向があるものです。
相手を信用しておらず、いつか裏切られるかもしれないと疑っているから、「メールにすぐ返信してくれるか」「こんなメールを送れば、どう反応するか」と、相手の気持ちを試し、確認を繰り返さなければ気がすまないのです。

人間関係に不安を感じている人の多くは、「自分をありのままに受け入れてほしい」と願っていることでしょう。
しかし、「自分をありのままに受け入れてくれる人を求める」という言い方には、大きな矛盾があります。
他人に対して、自分を無条件に受け入れてくれることを求めているのに、自分のほうは、「自分を受け入れてくれる人だけを受け入れる」と、他人を選別しているのです。
自分を無条件で受け入れてほしいと思うなら、自分も他人に条件を課してはいけません。

では、他人をありのままに受け入れるためには、どうすればよいのでしょうか。
「不用意に他人を信用して、裏切られたら損だ」と思っている人もいるかもしれません。
ここで、「裏切られる」とは、いったいどういうことなのかを考え直す必要があります。

「他人に裏切られた」というのは、多くの場合、「自分が期待していた利益を与えてくれなかった」ということにすぎないのです。
恋人が以前は優しかったのに、最近、態度が冷たくなった。
それは悲しいことには違いありませんが、恋人はあなたを「裏切った」わけではありません。
相手は、あなたの機嫌をとるために生きているわけではないのです。

もともと冷たい人であれば、「そういう人なんだな」と思うだけで、裏切られたとは思わないはずです。
自分が優しく扱われることを当然だと思っていたから、「裏切られた」と感じてしまうのです。
自分が他人を勝手に「敵か、味方か」に選別していたことが、「裏切られた」という意識を生み出すのです。
「以前は優しかった」ということさえ批判の対象となってしまうとは、まさに「他人の欠点をあげつらおうと思えば、いくらでもできる」ということの典型的な例です。

他人を敵、味方に分けるという考え方は、大きな危険をはらんでいます。
相手を味方だと思うと、ささいな欠点が目についてしまいます。
相手を敵だと思うと、長所さえも欠点のように思えてしまいます。
他人の存在を「自分にとって得か、損か」で見分けようとすると、往々にして判断を誤ってしまうのです。

他人に裏切られないようにするための方法は、他人を損得勘定で評価しないことです。
他人を評価するときは、「自分に何をしてくれるか」ではなく、「相手を尊敬できるか」「相手から学ぶ点があるか」「その人と付き合うことで、自分が成長できるか」などを考慮すべきです。

もちろん、自分に優しくしてくれる人を好きになるというのは、しごく自然な感情です。
しかし、人間は横着なもので、優しくされることに慣れてしまうと、それを当然だと思うようになってしまうのです。
他人から受けた親切をいつまでも覚えておくことは大切ですが、それを当然だと思わないよう、つねに自分に言い聞かせておかなければなりません。

「自分は他人に嫌われていないだろうか」「他人は自分を裏切らないだろうか」などということをいくら考えても仕方がありません。
そう思えばいくらでも思えるでしょうし、思わなければ思わないですむのです。
うまくいく人とは、どんなに遠回りをしても、いずれうまくいくでしょうし、うまくいかない人とは、どれだけ焦っても、うまくいかないのです。

他人との付き合いおいて、考えるべきことはただひとつ、「相手のよい点を認めてあげよう」ということだけです。
相手が何もしてくれなくても、自分が相手から学び、成長することができたなら、それは大きな収穫なのです。
そういう見方をしていれば、けっして他人に「裏切られる」ということはありません。

No.303 『人目を気にせず、堂々と生きたい』

人は誰でも、他人の目を気にするものです。
「他人に見られている」という意識が、心に張りをもたせ、やる気を起こさせます。
他人の目があるから、「恥ずかしいことはやめよう」「嫌われるようなことはやめよう」と自分を律することができるのです。
人目を気にすることは、悪いことではありません。
しかし、「他人とまったく目を合わせられない」「人前に出ると、何もしゃべれなくなる」というほどまでに他人を怖れすぎては、社会生活にいろいろ支障をきたしてしまいます。

「他人の目を気にせず、自然に振る舞いたい」と思えば思うほど、肩に力が入り、ますます他人の目が気になって、態度がぎこちなくなってしまいます。
人目を気にしすぎることに悩んでいる人は、「他人の目を無視しよう」などとは思わなくてよいのです。
世の中には、「もっと人目を気にすればよいのに」と思うほど、厚顔無恥、傍若無人な人たちがいます。
そのような恥知らずな人間に成り下がってはいけません。
他人の目は、充分に意識すべきなのです。

人前で極度に上がってしまう人は、自分に自信がなさそうに見えて、実はあまりにも自意識が強すぎるのです。
「立派な人間だと思われたい」「格好いいところを見せよう」と思うから、かえって失敗してしまうのです。
会社の仕事で、何人かの顧客を前にして自社の商品の説明をしなければならないとき。
話を聞いている側の人たちは、商品に関する情報を知りたいだけで、「話している人がどういう人間か」ということには、たいして興味をもっていません。
それなのに、こちらがあまりにも緊張して、何度も言葉につまってしまっては、かえって「自分という人間」に他人の目が集中してしまいます。

相手の立場になってみれば、「なぜそんなに緊張するのですか。あなたが気にするほど、私はあなたのことを気にかけてもいませんよ」と思うことでしょう。
「注目されるのが恥ずかしい」と思えば思うほど、注目を集めてしまいます。
「変に思われたくない」と緊張すればするほど、他人の目には変に映るのです。
(念のために申し添えますが、「口べたであること」や「気が弱いこと」がいけないというのではありません。そんな自分に劣等感をもち、虚勢を張ってごまかそうとすることがいけないのです)

人目を気にしすぎるあまり萎縮してしまう人は、正確に言えば、「他人の目を気にしている」のではなく、「他人に見られている自分を意識しすぎている」のです。
どうしても人目を気にしてしまうならば、いっそのこと、完全に他人に成りきって、他人の目から自分を客観的に眺めてみればよいのです。

人前で緊張して何も話せなくなってしまったときは、いったん「自分」から離れて(幽体離脱でもした気分になって)、「他人の目」で自分を見つめてみてください。
「自分がどう思われるか」ではなく、「他人がどう思うか」だけを考えるのです。
「この人、変わった人だな。そんなに怯えることないのに」
そう考えて笑い飛ばすだけでよいのです。その後、「自分が変に思われた」ということまで考えてはいけません。

「人目を気にするまい」と思えば思うほど、ますます「本当は変に思われているのではないか」と勘ぐってしまい、他人の心が判らなくなってしまいます。
逆に、もっと積極的に「他人がどう思うか」を考えるべきなのです。
本気で他人の立場になって考えれば、自分を冷静に見つめ直すことができるのです。

人はどうしても、他人事ならば何とも思わないのに、自分のことだと何十倍にも重大に考えてしまいがちです。
他人を怖れている人は、そんな自分の臆病さを他人に悟られないように、必死に隠そうとしているのかもしれませんが、他人にとっては、そんなことはどうでもいいことなのです。
ふつうの人は、他人が「何を楽しんでいるか」「何に生きがいをもっているか」ということに興味はあっても、「何を怖れているか」などということはほとんど気にしていません。
完全に他人の目になって自分を見れば、自分ひとりで勝手に他人を怖れていることが、バカバカしく思えるようになるでしょう。

自分を捨て去ってこそ、自分を自在に生かすことができます。
「自分を捨て去る」とは、けっして自分の価値を否定するという意味ではありません。
「他人の立場になって考える」ということは、自分に自信をもつためにとても重要なことなのです。
おでこについた汚れは、鏡を使わなければ見ることができません。
他人の立場になって自分を見ることは、とりもなおさず自分自身としっかり向き合うことになるのです。

他人のために何かをしてあげるときも、「どうすれば他人がよろこんでくれるか」ということだけを考え、他人のよろこびをそのまま自分のよろこびとして感じることができれば、よろこびは何倍にも増えるでしょう。
「他人の目で自分を見る」ということを心がけていれば、堂々と他人と接することができるようになり、他人から認められ、やがて自信も生まれてくるのです。

No.304 『毎日が人生の決算日』

あいつのほうが給料が高い。あいつのほうがモテる。あいつのほうが才能がある。
それにひきかえ自分は……。
他人と自分を較べれば、必ず劣等感にさいなまれることになります。
なぜなら、どんなに恵まれている人にも、「上には上がいる」からです。
経済的な豊かさという点において、世界一のお金持ちと較べれば、それ以外の人はみな「敗者」です。
劣等感を取り払う方法は、「他人と自分を較べることをやめる」という以外にありません。

それでも、「他人に勝ちたいという欲求は、人間の本能のようなもので、そう簡単に払しょくすることはできない」と思う人もいることでしょう。
欲求は、たしかに人間にとって必要なものです。
欲求があるから、人間は成長できるのだし、「他人の役に立ちたい」「他人を愛したい」というのも欲求のうちです。
しかし、その欲求によって人間は苦しむのだということも忘れてはいけません。

「欲求を捨て去るということは、何も求めず、努力もせず、無気力で自堕落な生活を送るということなのか」という疑問をもっている人もいるのではないでしょうか。
欲求を捨て去ることと、充実した幸せな人生を送ることとは、けっして矛盾しません。
お金がほしい、恋人がほしい、他人から認められたい。あらゆる欲求は、元をただせば、「幸せになりたい」という願望です。その本来の目的さえ忘れなければよいのです。
不思議なことに、欲求を捨て去ることによって、人はますます幸せを感じられるようになるのです。

あれもほしい、これもほしい、もっとほしい……。人間の欲求のやっかいな点は、必ずエスカレートしていくというところです。
なぜ欲求がエスカレートしてしまうのかといえば、現状に満足していないからです。
すなわち、「求め続けること」は、「いつまでたっても幸せになれない」ということを意味するのです。
充分に満たされていると感じ、「もうこれ以上は何もいらない」と思えることが、本当の幸せだと言えるでしょう。
欲求を抑えることができる人は、けっして無気力でも自堕落でもないのです。

「足りないから埋め合わせる」と考えていては、永久に満足できることはありません。
「何が何でも、自分の思い通りにならなければ気がすまない」という欲求は、たとえ満たされたとしても、けっして人を幸せにしないのです。
「今のままでも充分に幸せだ」と思うことができてはじめて、「さらに自分を高めたい」という向上心が生まれます。
「できることなら、さらに上を目指したい。しかし、それがかなわなくても不幸というわけではない」という心の状態が、もっとも最適だといえます。

どんなに恵まれた人にも、不運な人にも、おしなべて平等に与えられた条件があります。
それは、「人は必ず死ぬ」ということです。
どれだけ莫大な財産を築いても、墓に入るときはこの身ひとつです。
100年もたてば、自分のことを覚えている人はこの世にひとりもいないでしょう。
過ぎ去ってしまえば、すべては一瞬のはかない夢にすぎません。
その厳粛な事実に較べれば、それ以外の損得や勝ち負けがいったい何だというのでしょう。

「このまま私は一生、つまらない人生を送るのか」と絶望している人は、「自分の命がずっと続くことを当然だと思っている楽天的な人」だとも言えます。
もし明日死ぬと判ったら、そんな悠長なことを言っている暇はありません。
私たちは、「今、ここでできること」をやるしかないのです。
朝起きたときに命が誕生し、夜には死ぬものだと考えて、毎日が決算日のつもりで生きてみましょう。

得たものは、必ずいつかは失います。
自分の命も、肉体も、財産も、人間関係も、ほんのつかの間、拝借しているものにすぎません。
人から借りた本が汚れていたからといって、怒って破いてしまう人がいるでしょうか。
借りたものは、大切に扱わなくてはなりません。そして、返してくれと言われたら、すぐにでも返さなければなりません。
毎日、その覚悟は決めておかなければならないのです。

今日会った友人には、もう二度と会えないつもりで接しましょう。
今日やり残したことは、明日に回すことはできないと考えて、何が大切かを見極めましょう。
10年後のことを案じても、3年前の失敗をくよくよ悔やんでも仕方がありません。
「今日できることを精一杯やった。それ以上は望むべくもない」
毎日、そう思いながら過ごすことができたならば、それが本当に幸せな人生なのです。

No.305 『幸せの理由、不幸の理由』

人にはそれぞれ、恵まれている点とそうでない点があります。
あらゆる点において恵まれている人はいませんし、すべてが不幸な人もいません。一見恵まれているように見える人でも、その人なりの苦労や悩みがあるのです。
しかし、自分を好きになれない人、自分を卑下してしまう人は、「私は何もかもが最悪」で、「この世で私だけが不幸」だと思い込んでいます。

そういう人は、幸せが目の前に転がっていても、見えていません。いえ、見ようとしないのです。
「健康な身体があり、住む家があり、家族がいる。与えられたものに感謝すべきではないですか」と言われると、「そんな当たり前のことに感謝などできない」と反論します。
「世の中には、もっと恵まれない立場の人もいるのですよ」と言われれば、「自分より恵まれている人もたくさんいるではないか。不公平だ」と言い返します。
「他人の役に立つことをすればどうですか」と言われれば、「自分のことで精一杯で、他人のことを考える余裕はない」。
まるで、自ら幸せになることをかたくなに拒否しているかのようなのです。

自分を不幸だと嘆いている人は、なぜわざと幸せから目を背けようとするのでしょうか。
その理由は、「自分にも恵まれている点がある」ということを認めてしまえば、自分の人生がつまらない(と思っている)ことに対して言い訳ができなくなってしまうからです。

「私は容姿がみにくいから、愛されないのだ」
そう言っておけば、自分が愛されないことについて、「自分の努力ではどうしようもないのだ。自分が悪いのではない」と言い訳ができます。
「容姿が美しくなくても、皆から愛されている人はたくさんいますよ」と言われれば、今度は、「そういう人は、優しい親に愛されて育ったからだ。私は親に愛してもらえなかったから、自分に自信がもてないのだ」と、新しい「不幸の理由」を主張します。
「親に見捨てられても、立派に生きている人はたくさんいますよ」と言われれば、「そういう人は、たまたま才能に恵まれていたからだ。私には何の取り柄もないのだから、仕方がない」と、さらに言い訳をつくろいます。

私は不細工で、しかも貧しくて何の取り柄もなく、そのうえ誰からも愛されずに育ち、なおかつ幸運の女神にも見放され……。
いきおい、自分だけが世界中の不幸を背負い込んでいるかのように、言い訳に言い訳を重ねてしまうのです。
「自分は何も悪くない」ということを証明するために、徹底的に自分を卑下するという、矛盾したことをやっているのです。
しかし、そのような理屈は、どうしても筋が通りません。

自分が一番不幸であるなら、もうとっくにこの世にはいないはずです。
いろいろつらい目にあいながらも、何とか生きてこられたということは、充分に幸福であったということなのです。自分の努力が実ったか、誰かの助けがあったか、たまたま幸運が重なったおかげなのです。
「不幸である理由」を数え上げればきりがないのと同じように、「幸福である理由」も探せばいくらでも見つかるのです。

自分を改めようと思えば、いやでも「これまでの自分の考え方が間違っていた」ということを認めざるをえません。
言い訳ばかりして先に進もうとしない人は、「自分が間違っていた」ということを認めてしまえば、自分の価値が完全に否定されると思い込んでいるのです。
「自分が間違っている」ということを認めたくないから、他人のせいにする。他人のせいにしている自分の卑しさを認めたくないから、自分を責める。その堂々巡りで、いつまでたってもうっぷんは晴れず、心は疲れ果ててしまうのです。

「自分が不幸であること」のどんな言い訳も、突きつめれば「自分の考え方が間違っている」という結論にたどり着いてしまいます。
自分を好きになれないという人は、「間違いを認めようとせず、言い訳をしている自分」が好きになれないのではないでしょうか。

自分の間違いを認めようとしない人は、正確に言えば、「間違いをあまりにも深刻にとらえすぎている」のです。
「間違っていた」といっても、道徳的な罪を犯したわけではなく、単に「やり方が間違っていた」というだけのことです。別にそれは怖れるほどのことではないのです。

自分の考え方が間違っていたために、自分が損をした。ただそれだけのことで、悪意をもって他人を傷つけたりしたのではないかぎり、誰からも非難されるいわれはないのですから、罪悪感や自己嫌悪を感じることはありません。
数学の公式を間違って覚えていた人が「悪い人」ではないのと同じことです。間違いに気づいたなら、それを改めればよいだけのことなのです。

うまくいけば、よし。うまくいかなくても、それもまたよし。
思い通りにならなくても、人間はそこそこ幸せに生きていけるのです。
勇気を出して、「自分が幸せである理由」を見つけてみましょう。
間違いを改めないことを非難されることはあっても、改めて責められることはないでしょう。

No.306 『小欲を捨て、大欲に立つ』

その昔、ひとりの老人が、一休和尚を訪ねて、祈とうを頼みました。
「私は80歳になりますが、あと20年長生きしたいのです」
一休は答えて言いました。
「たった20年でよいのですか。何と欲の少ない人だ」
老人は驚いて、言い直しました。
「いえ、できればあと40年ほど長く生きたいと思います」
「これは、ますます欲の少ない人だ」
「では、あと100年」

ここで一休は諭しました。
「50年や100年長生きしても、同じことだ。そんな小さな欲ではなく、なぜ永遠に生きようという大きな欲をもたないのだ。御仏は、永遠に生きる道を説いているのだ」
花は散っても、また次の年には咲きます。川の水は流れ去っても、流れは永遠に続きます。
人の肉体は滅びても、また自然に返り、新しい生命の源となります。魂は仏となって、永遠に生き続けるのです。
老人は、一休の言葉によって目覚め、余生をやすらかに生きたそうです。

人間は、欲望によって苦しみます。
欲望は、大きいほど浅ましく、卑しいものとされています。
しかし、仏法では、「小欲を捨て、大欲に立つ」ことを説いているのです。
ちっぽけな欲望を捨て、それらすべてを超越するような大きな欲をもてば、煩悩にわずらわされることもなく、かえって謙虚になれるというのです。

他人をうらやんだり、憎んだりするのは、「自分のもの」と「他人のもの」を分けて考えているからです。
「自分の幸せ」よりも「他人の幸せ」のほうが大きく見える。
「自分の心」が「他人の心」によって傷つけられた。
どれだけ必死に「自分のもの」だけを大切に守り、増やそうとしても、それはしょせん「小欲」にすぎません。

人は誰でも幸せになりたいと願うものであり、それは悪いことではないのですが、他人と自分を比較して落ち込んでしまう人は、「自分だけが幸せになりたい」と思うから苦しいのです。
「他人のもの」も「自分のもの」だと思って大切に扱えば、他人の幸せまでも自分の幸せと感じることができるようになるのです。

「他人のもの」を「自分のもの」にすると言っても、何かを奪い取るわけではありません。我が物顔で振る舞うというのでもありません。
「奪う」という発想は、「他人のもの」と「自分のもの」を分けているからこそ起こるのです。
他人と自分の垣根を取り払い、すべてを共有すると考えればよいのです。

ある大学の教授が、次のようなエピソードを本に載せていました。
教授がキャンパスを歩いていると、ベンチに学生が座っており、その前にゴミが落ちていました。
教授は学生に言いました。
「目の前にゴミが落ちているんだから、拾ったらどうだ」
学生は、まったく心外だという顔で、こう答えました。
「僕が捨てたんじゃありません」
「そんなことは分かっている。だが、ここは君の大学だろう」

せっかく大学に在籍しているのに、自分を「よそ者」であるかのように考えるのは、まったくもったいないことです。
大学の校舎も、庭も、「自分のもの」だと思えば、愛着がわき、きれいに使おうと思えるのではないでしょうか。
「私は○○大学の学生である」という誇りがあれば、自然にそう思えるようになれるはずなのです。

車の窓から平気でタバコの吸い殻を投げ捨てる人でも、まさか自分の部屋の中で同じことはしないでしょう。
「自分の車の中、自分の部屋の中さえきれいになればいい」という考え方は、とても貧しく、ちっぽけな欲です。
「この町、この国、地球すべてが自分のもの」と大きな欲を抱けば、どれだけ心は豊かになるでしょう。
「自分さえよければいい」というのは、かえって自分を窮屈にするのです。

誰でも、自分の親や子供には、幸せになってほしいと願うはずです。
他人も自分の家族だと思えば、その幸せを自分の幸せとして感じることができます。
赤の他人に対してなら腹の立つことでも、自分の家族だと思えば許すことができます。
自分ひとりの幸せは、どれだけ大きくしても「ひとり分の幸せ」でしかありませんが、10人の幸せを自分の幸せのように感じることができる人は、10倍幸せになれるのです。

No.307 『もらったものは、すぐに他人に渡す』

人から愛されたいのに、なかなか愛してもらえない。
受験が近づいているのに、勉強に身が入らない。テストの点数が上がらない。
職場の人間関係がうまくいかない。仕事がつまらない。
精一杯努力しているのに、報われない。自分は無能で、無価値な人間なのか。
人生がうまくいかずに、自己嫌悪に陥りそうになったときは、「何のための努力か」ということを考え直してください。

自分で自分が嫌になってしまう人は、きっと「自分が得をするための努力」を行っているのです。
いい恋人を見つけて、友人に自慢したい。
いい大学に入って、優越感に浸りたい。
いい仕事を見つけて、楽な暮らしをしたい。

しかしながら、「自分が得をするため」という動機は、なかなか長続きしないものです。
恋愛も、仕事も、人間関係も、結婚も、簡単に思い通りにはいきません。うまくいかないことのほうが多いでしょう。
自分がどれだけ得をするか。他人が自分に何をしてくれるか。
そのような「自分が得をするため」の努力は、その目標が達成されなければ、すべてが無になったような気がして、何もかもが嫌になってしまうのです。

「人生がうまくいかない」と嘆いている人は、両手いっぱいにものを抱え込もうとして、「たくさん抱え込むこと」が「人生がうまくいくこと」だと思っているのではないでしょうか。
しかし、両手いっぱいに荷物を抱え込んだ状態では、新しいものをつかむことはできません。ただその「過去の重荷」だけを背負って歩くことになってしまいます。
「もらったものは、すぐにほかの人に渡す」というつもりでいれば、心はつねに身軽でいられるのです。

テレビ番組などで、よく「風船爆弾ゲーム」というのがあります。
だんだんふくらんでいく風船を手にもち、クイズに答えたら、次の人に風船を渡します。風船が破裂したときにもっていた人が負けです。
「自分が得をすること」も、この風船のようなものです。ほかの人から渡されたら、なるべく早く誰かに渡さなければなりません。
自分のところで止めた人が負けなのです。

「いや、風船をほかの人に渡したくても、誰も自分に回してくれないのだ。もっていないものを与えようがない」という人もいるかもしれません。
しかし、そういう人はおそらく、風船をひとり占めしようとしているから、誰も渡してくれないのです。
風船を手にしたとき、ほかの人に渡そうとせず、どこかにもって行ってしまうのは、ルール違反です。それでは、ゲームがおもしろくありません。
「風船を奪おうとする人」には、誰も風船を渡してくれないのです。

「私がこんなにつらい思いをしているのに、誰も私の気持ちを判ってくれない」という不満をもっている人は、こう自分に問いかけてみてください。
「私は、自分よりも恵まれない立場の人の気持ちをどれだけ理解しているだろうか。また、少なくとも理解しようと努力しているだろうか」
誰も自分の話を聞いてくれないのは、これまで自分が他人の話を真剣に聞こうとしなかったからです。
負けてくやしいのは、自分が勝つことしか頭にないからです。

プロ棋士の内藤国雄九段が、子供のころ、将棋に負けて落ち込んでいると、母親がこう言って慰めてくれたそうです。
「負けたってかめへんやないか。かわりに相手の人がよろこんでくれてはる」
自分のためだけに将棋を指しているのではない。勝つ人がいれば、負ける人もいる。相手がいるからこそ勝負が成立するのだ。自分が勝ったときには、負けた人の気持ちも考えなさい、ということなのでしょう。

他人から親切を受けたら、すぐにほかの人に親切を返す。
自分が愛してもらったら、その倍の愛情を返す。
偉い人間にならなくても、他人をよろこばせる人間になりたい。
「もらったら、すぐにほかの人に渡しますよ」という態度を示している人には、きっと誰かが風船を渡してくれるでしょう。
自分が風船を受け取って、クイズに答えたら、ほかの人に渡す。その間、自分はゲームを楽しんだのですから、それで充分なのです。
幸せや楽しみとは、自分の中にため込むものではありません。「受け取ったら、すぐに渡す」という、人と人との流れの中に存在するのです。

このサイトの更新は、2008年8月で終了しました