「で、結局、なんだったのかしらね?」とゲルトル−トが笑う。「う〜ん。アイス・ロ−ズ争奪戦にロザリ−が本格参戦を宣言したってことじゃないですか?」とフリデリ−ケ。2人のやりとりをカタリ−ナが微笑みながら聞いている。いつもの診療所での風景であった。だが、ロザリ−はティナに帰った。やはり、教育プロジェの一員として活動したい。集まってきていた子供たちに逢いたかった。もう、村落などどうでもいいし、オスカルに対してもあまり執着したくない。彼女と自分の関わりは、もっと自由で、大らかであってほしかった。

だが、ロザリ−がカオラを離れたのには、もう1つ大きな原因があったのも事実である。例のジャ−ナリスト、ベルナ−ルだ。彼はもともとラリ−の取材一行にくっついて来ていたのだが、今回の一件ですっかり隊員に関心が湧いたらしい。それに聞いてみれば、風車を建てるプロジェなど、追っかけてみると面白くなりそうなネタも存在する。ベルナ−ルが本来アロンガルに来たのは全く別の観点ではあった。だが、いきなりそっちに向かうよりも、まずは隊の取材などしつつ、周辺の様子を窺っていったほうがよい。それに、これは隊員にも、同じ国の人間なのだから、無関係ではないのだ。

丁度土木組がティナでの活動に移ろうかとしていたので、ベルナ−ルを内緒で隊員の家に住まわせるという荒業をやってのける彼ら。だが、それのどこがいけない?彼らがいたからアイス・ロ−ズとロザリ−に大過もなく、無事に災難を切り抜けられたのではないか?土木組はもともとこの2人の女性が特にお気に入りだったので、その2人の危機を救ったベルナ−ルに対する好感度はいきなり高かった。それに、何より彼に対する好奇心もあった。隊員やプロジェを取材しようというのであるから。ベルナ−ルはきちんとFICAの事務所に取材の許可も取り、素性も明らかにしたので、かなり信用できそうである。

だが、ロザリ−はベルナ−ルに対してやはり好印象を持っていないらしい。彼自身がどうというのではなく、マスコミ関係の人間が苦手なのだ。彼女の弟は耳が不自由で、そのため異変に気づくのが遅れて死んでしまった。その点をしつこく取材してきたマスコミ連中に吐き気がするほどの拒絶感を持ってきたのである。彼がそうする事はないと、今の段階でどうして言えるだろうか?手のひらを返してきた取材陣だっていたのだし。自分がカッとなりすぎた事もあって、ロザリ−はベルナ−ルをなるべく避けたかった。

その意味では、オスカルやアンドレもロザリ−の気持ちがわかるのだった。仕方がない事だとはいえ、キ−スやエレ−ンを極悪人として報道したのもマスコミだからである。キ−スは「ごろつき」、エレ−ンは「売女」、そして2人とも「裏切り者」……2つの国と国があげて「祖国に平和と友好を」に取り組んできた、その数十年の苦闘に対する裏切りだと……2人は死してなお、あることないことを叩かれ、騒がれ、そして忘れられた。結局、それまでに起こった数々のテロと同じように。

オスカルやアンドレがロザリ−のように反応しないのは、そうは言っても自爆が起きた車にキ−スとエレ−ンがいたからだ。警察と軍が動き、車にも爆薬が積まれてはいたが、最も大量だったのはス−パ−マ−ケットの入り口近くに仕掛けられていたものだと判明する。ス−パ−の向かい側に止められていた車に時限装置のスイッチ部が持ち込まれていて、それで同時刻に爆破したのであろう。休日の夕方の最も人通りの多い時刻で、死んだ者は爆破に巻き込まれただけでなかった。パニックに陥った群集が逃げ惑ううちに、子供や老人が圧死したのである。ロザリ−の弟がそうだった。

駅前に近かった事、旧市街で道路事情が悪かった事、休日でイベントが多く相当な人出だった事などが重なった悲劇である。そう……春の大祭だったのだ。例え両国がどれほどいがみあおうと、春の大祭の期間だけは停戦でなければならない。ルナの時代からそうなのだ。その掟を破ることは、彼らが信仰する神に対する冒涜以外のなにものでもなかった。仮にその宗教を信仰してなくとも、春の大祭は民族感情のレベルで大事にされている行事であり、その期間のテロというのは最も唾棄されるべきものである。それゆえ国民はこのテロに怒り狂ったのだろう。

ラリ−見物当日、ヴィクとモ−リッツは空港まで出迎えに出かけた。30代後半のイオスと名乗る技術者は、やや気難しさをたたえた表情の男だった。まぁ、ヴィクやモ−リッツよりかなり年上ではあったし、来てくれるだけで有難かったので、2人はイオスにラリ−見物を提案してみた。すると、どうやらイオスはその手のイベントは好きらしく、すっかり機嫌がよさげになった。借りたタクシ−でラックロ−ズに向かい、人ごみにかなり難儀はしたが、それでもなんとかゴ−ルに間に合った。そのまま首都にとんぼ返りをして、夜にランディパンダンス広場の道路を、クラクションを派手に鳴らしながら走る車やバイクを事務所のベランダから眺めたりもした。

そのイオスも土木組の家に間借りすることになった。彼は長くても1ヶ月ほどの滞在になりそうである。この限られた期間でどこまでやれるかはわからなかったが、また間の悪い事に、注文していたキットが税関でひっかかってるらしいと情報が入る。多分に取り扱った経験がなく、どういった対処をすればいいかわからないのであろう。最初は大した事にはならないだろうと予想していたが、だんだん大げさになっていって、とうとう事務所と大使館までが動く羽目になった。頭をかかえる2人。

「すみません。せっかく来ていただいてるのに、こちらの不手際で……」と平謝りのヴィク。「いや、こっちはかまわないよ。私はもっぱら国内の仕事しかしてこなかったからね、こんなに第3国ではいろいろあるんだって初めて知ったよ。いい経験になった。」イオスはこの派遣話に、元々あまり乗り気ではなかった。だが職場の意向で、彼に白羽の矢が立ったのである。どうも、同じく外国といっても、アロンガルのような国にはあまり行きたがらない人間が多いのだ。何本も予防注射を受けなければならないような国には。

それに、ビジネスというよりも、FOCVへの協力である。「ボランティアというか、お遊びみたいなもんだろ?バカバカしい。」そこに行く人間を前にそう公言する者もいた。そのため、イオスも内心、かなり面白くなかったのである。だがひとたび来てみれば、確かにビジネスには遠いかもしれないが、それ以上に面白い状況が彼を待っていた。ラリ−を見られるとは思ってなかったし、ジャストタイミングで取材のジャ−ナリストまでいるではないか。イオスは露出を喜ぶというタイプでもなかったが、何もかもが目新しくてならなかった。

土木組の家が2つ空いた状態だったので、ベルナ−ルとイオスは1つずつ占領できたが、なんだかんだ言ってお互いこの国には不慣れである。そのため自然と一緒に食事をしたりが多くなる。もちろん隊員も彼らを自宅に招いて接待した。なんだかんだで母国とは1年以上離れており、今何が起こっているのかもよくわからない。よほど大きなニュ−スなら入ってくるが、今のところ母国は大過もなく平和なのであろう。現首相が率いる与党はJBが立ち上げたもので、もう結構な期間安定政権ぶりを発揮している。

ベルナ−ルはジャ−ナリストで、フリ−ランサ−だという。つまり、新聞社や出版社などに雇われているというのではなく、個々に契約して、雑誌などに署名入りの記事を寄稿しているらしい。専門は経済だと。大学を出たあと、数年間は新聞記者として働いたらしく、その後はマネ−ジメント業務をこなしたりしていたとか。だが結局、フリ−ランサ−としてその世界に復帰した。経済のみにこだわらず、興味のわく対象を取材したい、そう考えているという。今までは国内の経済事情を取材して、それを世界向けの雑誌に投稿していた。ギリアン語を駆使して。

現在世界中で、最も広く使われている言葉。特に東大陸ではそうであった。隊員である彼らも使用できる人間はかなりいたが、やはり母国語ではないので、流暢に話せるほどの者はそう多くない。ハンスなどは仕事上でかなり使っていたらしく上手だった。上流の人間はレジオン語のほうが教養として好まれていて、ルナなどもレジオン語で読んでいたりする。そのため、語学劇の練習では解釈をめぐってレジオン語がとびかう場面もあり、ますます現場が混乱したりした。なぜならルナ自体、実は東大陸に広く浸透している伝承であり、彼らの国が発祥というわけでもない。

テキストとしては、レジオン語で書かれたルナこそが最も正統に近かったのだ。確かに母国語で朗読するより、レジオン語でのほうが雰囲気が出る。古代に近い部分をたくさん残しているからだ。母国語はギリアン語に近く、論理的だがやや情緒に欠けるタイプの言語だった。ただし、母国にしろ隣国にしろ、少数民族が今も使用している言語にはかなりレジオン語に近いタイプのものもあって、それらの言葉で語られるルナもまた聞いてて気持ちよく、わざわざそれらの言葉でルナを演じる劇団もあるぐらいである。

マリ−の所属していた劇団は、どちらかといえば前衛的な試みを行っていた。だからこそ、ロザヴィアの衣装があんな感じだったわけである。そのため、ルナを演じるにしてもわざわざTRPG版を使用したりして、言語にしても演出にしてもモダンだった。語学劇で演じたものは、そこまでモダンではなかったが。ところが、オスカルとアンドレとヴィクト−ルがレジオン語で試しにと別の場面を演じてみると、一気に舞台は公国パスル候の時代に遡った。3人が3人とも、吟遊詩人になったかのようである。思わず聞き惚れてしまうメンバ−。「任地語やめて、レジオン語で演りたいぐらいだね。」と言うハンス。

「おいおい、その劇になんの意味があるんだよ。任地語使わないで。」とアラン。「あんた、その任地語も使えてないじゃないのさ。」とマリ−。「うるせぇよ!大体なぁ、なんだよそのレジオン語ってのはよお。おまえらのお育ちがいいのはよ−く分かったから、これ以上他の言葉を持ち込まないでくれよ。ますますわけがわからん。」すると、アンドレがムッとした顔で言う。「おまえなぁ、語訳さえさぼるからちっとも覚えられないんじゃないかよ。おまえは覚えられないほど頭の働きが悪いんじゃなくて、ただめんどくさがってるだけじゃないか。」「じゃかましい!」などという状況があったのである。

「さてと、台本は読んでくれた?」ティナのプロジェの仮住まい、通称「猫屋敷」に集合をかけられた7人。プロジェのメンバ−がみな猫好きだったため、つい餌付けするようになり、今やこのあたりの猫の散歩コ−スに確実に入っていると噂されていた。それでもピアノがあるので、建物の中には極力入れないようにしてはいたが。たまに、あまり大きくもない窓に張り付くようにして中を見ている猫はいた。ただし、今はいわゆる盛りの時期なので、やってくる猫の姿は激減してるらしい。

「……って、昨日いきなりアランにもらったんだけど。」とオスカル。昨日の今日では……しかも昨日はゲルトル−トの家の大家にあたる、いわゆる「グランパトロン」と言われる元宗主国の「いいお家」にカオラの女性隊員は夕食の招待を受けていた。その後ゲルトル−トの家で女性だけで酒盛りになり、正直ちょっと頭が痛い。それでも早起きしてティナに来たのである。「人使いの荒いこって。」とアランがマリ−をにらむ。「あら、あんたがカオラに戻るって言うからじゃない。」「でもまさか、とんぼ帰りせにゃならんとは思ってなかったぜ。」

アランたち土木組はティナのプロジェも同時進行しており、本格的に雨季に入る前にと4人してティナに来ていた。それで、たまに報告その他を兼ねてカオラに戻るという状況にあるため、ティナからの伝令をカオラに伝えるようになっていた。「電話代も自費だし、伝書鳩飛ばしたりできないしね。」ごもっともである。「この結構な量の台本、ホントにやれるのかぁ?特に誰かさんが心配なんだけど。」と、オスカルがちらりとアランに目をやりながら言う。「大丈夫。なんたってティナにいるんだから、私がマンツ−マンでしごいたげる。」とマリ−。

普段なら隊員総会は5月の頭にある。しかし、今回はその5月頭に大統領選があるので、FICA事務所がその時期をはずして5月下旬に総会を開催する事に決めたのだ。そのため時間に余裕ができたので、マリ−は以前から暖めていた計画を実行する事にしたのである。そう、ルナの再演であった。しかし、同じ場面ではなく、研修時より少し後の場面をである。ただし、今回は現地語、いわゆる元宗主国の言葉では行わず、母国語とレジオン語を混ぜてやることにした。なぜなら今回の上演は、隊員やFICA関係者だけでなく、アロンガルの大使館や企業派遣者までを対象にしてるからだ。

「チャリティとは言え、お金をとるわけだから、そこそこ時間と手間をかけないとね。」マリ−はカオラの風車がうらやましかった。同じプロジェと銘打たれていたが、教育は人数も少ないし、イマイチ存在感が薄い。ティナでもなにか、プロジェのシンボルになるものが欲しかった。それで、彼女は劇上演で募金を募り、アロンガルの国旗を購入しようと計画したのである。学校には国旗がつきものだ。最初はティナの連中だけでと考えていたが、村落は話にならないとしても、理数科もイザ−クも、どうも劇には向いてないというかなんというかである。

それに、やはりルナならこの7人がベストだった。特に存在感の必要なライア(ロザヴィア)をやれるのはオスカルしかいない。マリ−もロザヴィアだけならやれるが、今回やりたいパ−トはライアも必要で、どうしてもオスカルをかり出したかった。そう思って台本を用意し、手直しもした。だが、一連の騒動で、同期で劇をやろうとはとても言い出せない状況になってしまったのだ。それで、ラリ−の始まる頃にはもうあきらめていた。しかし状況は一変し、隊員総会の日程は延期されるとわかる。それで一気に計画発動となったのだ。

「まぁ台本はいいわよ。今回は打ち合わせというか、全体の計画をみんなで練りたいから集まってもらったんだから。ぜひぜひ立派な国旗購入を成功させたいのよ!よろしくね♪」マリ−の頭には「断られる」という可能性を考慮するスペ−スはないらしい。まぁ、断れるものなら、既に研修時に断れているだろう。他の事ならともかく、演劇についてはマリ−を止められる者はいなかった。それに、確かに今回の趣旨はみな賛同せざるをえない。「直訴」の時だって、ティナ組も参加して風車をプッシュしたんだし。ただプロジェ経費で買うのでは、国旗もシンボルにはなりえなかった。

今はまだ、集まってくる子供たちは幼い。少しでも働き手になるようなら、小さい子供とはいえ何かしらの役割を担う、それがこの国の状況だ。だが、このプロジェが軌道にのって、学校らしいシステムが確立すれば、きっと未来ある有望な子供たちが集まってくるだろう。アロンガルの人間は南大陸だけあって浅黒い肌をしていたが、顔つきはなかなか美しかった。音楽やダンスも大好きで、色彩感覚もよい。これは元宗主国の影響も大きいようだが。なんとかこのプロジェが継続していけば、この試みは決してムダにならない。その日のために少しでも何かを残したかった。

「小道具とかわね、土木組がいろいろ作ったり調達したりしてくれるって。まぁ、そう大掛かりなものはいらないけど、これ以降も使えるからね。子供たちにたまに劇を見せてあげるぐらいなら、結構集まってくれるからさ。」子供だけではない。娯楽の数があまり多くないアロンガルでは、このような催しには自然と人が集まる。それでたまにやってはみるのだが、ルナはイマイチであった。この国ではほとんどなじみがないからである。だが母国の人間になら、ルナほど浸透している題材もなく、凝った背景など作らなくても、いや、仮にこの国の言葉を使用しても、なんとなくわかってしまう、そういう存在であった。

だが、ルナも以前は、そう、国が2つに分割される前にはここまでの存在でもなかったのである。いや、もちろん「宗教」の面でも「文化」の面でも重要な位置にルナはあった。しかし、母国の苦難がルナを再評価し、新しい解釈を加えて現代に蘇った経過があったので、彼らの世代は聖書とともにルナを与えられていた。ルナは歴史書としての性格が強かったが、文化的側面、何より「民族感情」を見出せるものだったので、解釈の面では時に物議をかもすこともあった。初期のJBの詩なども、ルナに強い関連をもったものが結構あり、その斬新でメッセ−ジ性の強い部分が批判の対象になったこともある。

「ティナのメンバ−の予定は大体把握できてるけど、カオラはどう?」「今のところ医療班は落ち着いてるから大丈夫だと思う。昨日この台本が届いたの、カオラの女性陣はみな知ってんだけど、かなり興味津々って感じだった。」そう、いつしかこの同期が研修で行った劇はみなの関心をひいていた。普段は首都から離れた任地に引っ込みがちのプロジェ組だったが、それゆえ他の隊員は彼らに会った時の印象が強く、特に総会の前後では話題になる事も多いらしい。「次はどんな話題を提供してくれる?」と。マリ−はそこを利用することにしたのだ。

この7人で劇を上演するといえば、何もしなくても関心は集まる。こう言ってしまっては身も蓋もないが、この隊次はアイス・ロ−ズを中心として、「スキャンダラス」であり「ゴシップの宝庫」でもあった。一応2組が交際してるうちはなんぼかマシだったが、今回のラリ−の一件で中途半端なリセットがかかったようになっている。ゲルトル−トではないが、「結局、なんだったのかしら?」だった。「私も大丈夫ですよ。イオスが来てらっしゃいますが、そこまで根を詰めるわけじゃないですし。」

「ヴィクはそう言ってるけど...ホントに大丈夫なのか?今回も前回同様、けっこう出番多いぞ。」確かに前回はヴィクのせりふが多かった。多いというか、長いというか。しかも内容が内容なだけに、かなり抵抗感があって、ぎりぎり本番になるまで煮詰まっていた。「いえ、今回ざっと見ましたけど、あなたのほうがせりふも多いし、中心で引っ張っていく役目でしょう?それに比較したら……」「私は別に、特別忙しいわけじゃないしさ。」「そうおっしゃってますけど、夏バテ気味じゃないですか?昨年同様。」確かにその兆候はあった。気をつけてはいたのだが。

返答につまるオスカル。「あなたこそ心配ですよ。」そう言うヴィクの声音は、本当にアイス・ロ−ズを想う心と、いま彼女とつきあっているという誇りとがこめられたものであった。「そういえば、今年は髪を切らないんだね。」とハンスが言う。「あ……うん。ちょっと。」ヴィクが髪を切らないでいて欲しいようなので、オスカルは切らないでいたのだ。内心では切りたい気持ちもあったが、この劇にでるなら切らないでいたのは正解かもと考えていた。(これがアンドレだと、「勝手にすれば?」なんだよな。)ふとそんな事を思う。アンドレのそれに慣れていたので、こんな事でも妙な気分にさせられる。

アンドレはいつも通り、「仏頂面」で話を聞いている様子だった。(はぁ、こいつ、今のこの状況をどう思ってやがるのかねぇ……)彼の向かい側にすわって、アランはそんな事を考えていた。劇に関しては、例え言語が母国語だからといって、自分は何かを発言する身分でもねぇや、そう考えていた。つまるところ「なるようになれ」だったのである。ロザリ−はマリ−の秘書だか助手だかのように、あれこれ動き回っているようだ。相変わらず隊長とも仲良しで、ロザリ−はすっかり笑顔を取り戻している。こっちはやれやれだ。

ここんとこ、あまりカオラにいないので、気にはなっていたが……ロザリ−とアンドレが別れた(つきあっていたのやらなんやら)からと言って、それで隊長とヴィクもというわけではない。あったりまえだ。まぁ元からつきあってると言っても、お友達レベルとそう変わらないようにしか見えないが。どうも、なんとなくの想像だが、やはりこのクラスのお嬢には「結婚前に手をつける」という気にならないのかも。それはまぁ、個人の主義なんだろうが。しかも隊に参加しているしな。妊娠が発覚したら即刻強制帰国だし。相手の男ともども。

おれらのようなレベルなら、別に笑ってすませられるような話でも、あいつらのレベルじゃあなぁ。ヴィクはああ見えて、かなり自分の美学のようなものがありそうだし。風車でも、かなりこだわってるみたいだもんな。発電能力とかもさることながら、見た目にも美しいものを追求してるというか。なんだかんだで、あいつかなりしゃれてるし。身につけるものとか、小物なんかも金かけてそう。ま、金持ちだからなんだけどな!でも隊長はそうでもないよな。例のキャップかぶってるし。全体的に実用的なものが好みらしい。

そうは言っても「ヴィクと比べたら」だがな。アンドレも基本的には質素だが、なんか時々げっていうくらい金かかってそうなもん持ってるし。趣味に金かけてそうだよな。でもあれか、あの時計は趣味かと思ってたら違ってた。ま、アンドレが買ったものじゃないわけだし。それにしてもさすがにジャルジェ家らしいとはヴィクの発言だったが。やはり隊長の親父さんが軍人で、いろいろ危険な目にあったりしてきてるんだろう。どこで死ぬかわからない戦場。テロで吹き飛ばされかけたりとかも、あったのかもしれん。

アンドレの持ってる腕時計は、なんでもグレイバス社の製品らしい。今や腕時計では最も人気でステイタスの高いブランドだとか。おれはブランドなんざよく知らんがね、その俺でも名前ぐらいは知ってたぞ。元々グレイバス社の製品は、軍関係者とか秘密警察とか、他にもいわゆるサバイバ−系の人間用に作られてきたらしい。シンプルだが頑丈度は抜群。適度の重量感があって文字も見やすく、機能も充実してるらしい。防水防圧はもちろん、それぞれに夜目にもOKの蛍光塗料表示とか、方位磁針とか、用途にあわせたオプショナルも豊富だってよ。

「アンドレ、これってグレイバス社100周年記念の復刻モデルですよね?」と、アンドレがしていた腕時計に目をつけたのは、やはりヴィクだった。昨年5月の隊員総会で、ホテルに宿泊した晩の会話である。「そうだよ。」「注文生産の限定販売で、結構話題になってましたけど、ちょっと好みに合わなかったんで見送ったんですけどね。あなたがこれを持つのもちょっと意外な気もしますが……」「ああ。これは自分で買ったんじゃないから。」「やはりそうでしたか。アイス・ロ−ズですか?それとも……」「オスカルじゃなくて、だんな様からだ。」

「さすがにジャルジェ家の当主らしい選択をされてますね。でもこうして見るとなかなかいいですよ。ちょっとレトロな感じが新鮮じゃないですか?」アンドレはすぐには答えず、少しその腕時計を見つめていたが、「だろう?おれは好きだよ。」と、彼らしい言い方で答えを返していた。確かにアンドレがするにしては少々ゴツイ感じがする。むしろ隊長のほうがかえって好みそうなパタ−ンではないか?だがさすがに……後でわかったけど、隊長も同じグレイバス社の腕時計を持っていたが、やはり女性用だった。

アンドレの持つ復刻版とやらではなく、今時のデザインのものらしい。だが、元のブランドのイメ−ジがイメ−ジなだけに、女性用とは言ってもゴツイのかもしれん。どうも、隊に参加するというので、親父さんが餞別にと2人に買ったものらしい。かなりの値段らしいが、もし何かの時にも簡単に壊れないので、最悪な場合の身分証明にもなるんだと。はぁ、さすがに軍人や政治家を多く出しているだけの事はあるね。どちらも母国じゃあ、国が二分されて以来、なんやかや標的にされてきたもんな。

その点はヴィクとは違うんだな。同じように上流だ、名門だと言えども。詳しくは知らないが、なんでもジェロ−デル家ってのも古くからの家柄らしいが、元は数代前の当主が貿易で財を成して国に貢献したんだと。その功績を称えられて、今のジェロ−デル家があるらしい。それゆえ、財力という点ではヴィクの家のほうが大きいそうだ。一体どれだけ……だが、それゆえに虚弱に生まれついてしまったヴィクのプレッシャ−も大きかったのかもしれん。今は無茶さえしなければさしつかえがないほどには健康を取り戻してて、このアロンガルでも病気もせずに活動してる。

俺は上流の家の事情なんぞよくわからんが、それでもヴィクと隊長の縁組は、かなりお互いの家のためにはなりそうだよな。家同士のカラ−は異なるが、それ故にお互いの足りない部分を補いそうだし。なんかなぁ……アンドレ、おまえがはっきりしないから、段々おれも、あの2人でも、満更悪くないって気がしてきたぞ。いや、悪くないどころか、ヴィクは本当に隊長の事が好きだし、最近は以前みたいなはにかみやでもなくなってきてるし。隊長だって、絶対ヴィクのこと、一目置いてきてるぜ。このままだと……おまえ、それでいいのかよ?

オスカルはティナから首都に上京した。個人あての支援経費が下りたので、それで医学事典を購入する手続きをとったり、任国外の旅程を提出したりするために。一時はすっかり任国外に行く気をなくしていたが、やはりロザリ−と行く事にしたのだ。いくらつきあってるとはいえ、ヴィクと行く気にはならない。それに、彼は全くそれどころではなかった。風車にかかりきりで、任国外は眼中にもない。だが、オスカルには「私の分までぜひ行ってください。」と熱心に勧めた事もあって、彼女も遠慮するのをやめた。

今から提出しても、旅程を認められ、経費が落ちるのは約3ヶ月先である。(早くても8月頭くらいかな?カリンがぜひって言ってるし、ロザリ−も行きたがってるから、行く先はほとんど決まりだな。)そんな事を考えつつFICAの事務所に顔を出す。宿舎のほうには新隊員も到着していたが、彼らは事務所の奥のほうで調整員からそれぞれガイダンスを受けている最中らしい。現地職員がもう少し時間がかかるかもと耳打ちをする。それで、オスカルは自分に来ていた数通の手紙をメ−ルボックスから取り出し、それを持って街に出かけた。

日差しがまぶしい。いつものCAPを持ってくるのをうっかり忘れてしまった。それで、ランディパンダンス通りを横切ってマルシェに向かう。衣類や布、装飾品などの店が多く並ぶ市場である。アロンガルには他にも生鮮食料品の市場や、電化製品や家財道具の市場もあって、それを見てまわるだけでも楽しい。もちろん値段は言い値であり、「交渉」が大前提だ。なんせ隊員はアロンガルの首都に着くと、まず「まけて」「これしか払えない」などの言葉をマスタ−するのである。母国ではあまり見かけない風景であった。

オスカルはマルシェで帽子を買った。アロンガルの布で作られたCAPであることにかわりはない。実はつばのある帽子も本国から1つ持ってきてはいたのだが、この国では基本的に帽子そのものが珍しいため、どうも目立ってしまうのであまり出番がない。それで、ゲルトル−トの家の大家さんにおよばれした時に、その家の10歳ばかりになるお嬢さんにあげる事にした。彼女は大喜びで、今オスカルに絵を描いてくれてるらしい。生まれた時からこの国にいる彼女は、アロンガルの風景を絵にするのが趣味だという。

どの国でも市場には活気がある。母国にも、首都には幾つもの大きな市が立っていて、ひやかして回るのが大好きだった。アンドレともよく行ったし、あの朝も……エレ−ンと朝市に行った。なんせ春の大祭の期間である。朝から晩まで次々と催し物が行われ、市場までがカ−ニバル状態になった。まだ未成年の2人に、朝っぱらから次々と果樹酒やビ−ルが振舞われて、「これ以上はマズイ」と市場から逃げ出したものだ。まぁそこで、2人ともお酒に強いというのが判明したりしたが。

オスカルは道端で売られている切手を買った。手紙の返事を書くからでもあったが、アロンガルの切手はなかなか美しい。印刷技術は母国のほうが上だが、色合いがいいのだ。カラフルで、デザインも面白い。これも元宗主国の影響だろうか。母国に持って帰っては使えなくなるわけだが、そう高いものでもないし、記念になるからとシ−トで購入する隊員もけっこういる。オスカルも気に入ったデザインのものは大体シ−トで買っていた。他の任国にいる隊員から来た手紙の切手も美しいものが多く、捨てないで集めている。

さすがに4月も下旬にさしかかってるので暑い。(あ〜首都に来たし、髪切りたいなあ。でも、劇に出るし、ヴィクががっかりするだろうし。とにかくどこかで涼みたいよ。)そう思ってカフェレストランに入る。ここはデザ−トが充実しているので、多くの女性隊員が特にお気に入りにしている店だった。この辺りのオフィス街で働くアロンガル人の客も多く、地方ではあまり見られない「外国人とアロンガル人の同居」で店が成立していた。(そういえばお昼まだだったな。何か冷たいものでも……苺のシャ−ベットおいしそう。)

(でも、またこんな調子だと、ホントに夏バテまっしぐらかなぁ。アンドレに怒られそう。)そう思ったところでウエイトレスが注文を取りに来る。「この、苺のシャ−ベット1つ。あと……カフェもらえる?」「同時にですか?」「あ、ごめん。シャ−ベットの後でいいかな。」「わかりました。」(冷たいのと熱いのがごちゃまぜだ。ヘンに思われたかなぁ?)そう考えて、オスカルは小さくため息をついた。(そっか。今はアンドレじゃなくて、ヴィクが心配してくれるんだよね。な−んか遠慮がちに。)

彼女は自分宛に来ていた手紙を取り出した。カリンとマ−スは大体毎月1通か、多いと2通くれる事もある。この2人とは最も頻繁にやり取りをしていた。だが今回は姉からの手紙が来ていて、それが最も気になる。義兄さんのデ−ビッドはやっと40代になったばかりだが、さすがに会社の後継者候補になるだけあって、人望もあり優秀だ。どことなくハンスに似ている。決してユ−モアを忘れず、明るい表情を常にたたえている。母を失って落ち込んでいた姉を元気づけたのが彼で、父もこの結婚に全く異議を唱えなかった。もちろんそれだけの男だったわけだが。

姉からの手紙は故郷の風を運んできた。日付は1ヵ月以上前だが。既に終わっているはずの春の大祭に向けての準備や、庭に咲き乱れる花々や、牧場に預けているボルジアの様子や。昨年は不受胎だったので、今年はぜひにと期待されている。ボルジアは父と共同の名義で持った牝馬で、競馬にも使ってみたが、元々左脚が内向気味で大成できなかった。しかし、血統はよく、レ−スセンスもよく、2戦1勝2着1回での引退ではあったので、彼女の子どもたちも競馬デビュ−させる予定でいる。ボルジアを預かってくれたライアン調教師も彼女の子ならと大変乗り気だ。

「アンドレは元気?3回書いてやっと1回くらいしか返事をくれないけど、彼にしてみたら頑張ってくれてるわね。やっぱりジャルジェ家って大きいんだと実感する毎日よ。家族が4人増えたくらいじゃビクともしないわ。でも、そのうち慣れてしまうのかしらね。だから、オスカルあなたも、帰国してからも家にいてほしいわ。できたらアンドレにも戻ってきてほしいぐらいよ。2人とも仕事が忙しいんだし、正直アンドレはともかく、あなたは1人暮らしでやっていける?そちらでは1人暮らしだって言うけど、以前のような仕事ぶりだとねぇ。」

オスカルは姉に、前回の手紙を受けて「帰国したら家を出て独立したい」と書き送ったのだ。こちらで1人暮らしをしてみて、これならいけそうだと思うようになったので。以前は、アンドレの家事全般に対する適応度の高さに圧倒されていた。それで、「自分には1人暮らしは無理」と考えていたのである。だがこちらにきて、自分程度でも十分やれるとわかった。彼女はこちらに来るまで自分を相当な家事オンチだと思い込んでいたのだ。だがマリ−などを見ていると、なんだか安心してしまった。しかもマリ−は成人して以来1人暮らしをしているはずなのに。

だが……どうもこのままだと、家を出る事になりはするが、それは結婚するから……になる可能性が出てきた。別に帰国してすぐでもないだろうけど、かといっていたずらに引き伸ばすわけにもいかない。ヴィクは「結婚を前提に」とわざわざ断っての申し出だし、お互い若すぎるわけでもない。しかし……正直言って、実感がわかないのだ。ヴィクとの未来を考えた時、そこにいる自分を想像できない。彼は私に「なんでもあなたの自由にしてください」と言う。でもそれは、あくまで上流の、彼が所属する(自分もなのだが)階級で囲われた場所の中で……であろう。

だが、自分はもう、ずっと昔から「戦場か被災地かで、医者として働きたい」と志してきた。結局軍医にさえなれそうにないが、民間医としてで十分ではないか。それは、この隊に参加して実感できた。エレ−ンやジジのことを思えば、例えその場に居合わせることがどれだけつらくても、医者としての使命をまっとうできる。医療に限界はあるが、人の心に限界はないのだ。あと10年くらいはJBで第一線で働き、それからは……そんな風に考えてきたのだ。しかも、その自分の隣にはアンドレがいると。彼もそのつもりだろうと信じてる自分がいた。

彼と結婚するとかしないとかは関係なく、ただ自分の未来に彼がいた。ことさら意識しないでもそうだった。だがその一方で、彼の思いに対し、うまく答えられない自分がいることも。アンドレは大体「勝手にすれば?」なのだが、たまに強烈にこだわってくる。それが飲酒の件だったりするわけだが、あの激しさを、彼の自分に向けてくる恋愛感情にしばしば感じてしまって、それが今一歩踏み出せない原因になっていた。(ヴィクだと気安くて、ついなごんじゃうけど緊張感がない。それに比べるとアンドレは、めりはりがつきすぎというか。意外とアランなんかはバランスとれてる気がするけど……)

大体オスカルは、こんな風に男性の事を気にしてばかりというのが苦手だった。若くして一目置かれてきた彼女にも、欠点や弱点がないわけでは決してない。男性に対する恋愛や結婚について、仕事にかまけて先送りにしてきたのだ。もちろん仕事だけが理由ではない。そう生まれついた彼女の特徴でもあり、彼女の今までの人生がそう仕向けてもきたのだ。父への傾倒は他の男性への関心を薄めさせ、母への思いが女性への執着を生んだ。とどめにエレ−ンの事件が彼女を打ちのめし、アンドレの思いに答えられもせず、かと言って彼の存在無しでは自分の未来は……

「ねぇオスカル様、なんであの人来てるんですかぁ?」ロザリ−がオスカルの耳元で囁く。彼女の髪の毛がくすぐったい。すみれ色の瞳がベルナ−ルを牽制しており、その様子につい視線がたぐりよせられる。「なんかね、劇の稽古を見たいんだってさ。隊員ってこんな事もするのかっていうのが意外らしいよ。」そうオスカルから説明されても、彼女の目からはうさんくさいものを見る目つきが消えない。本来、彼女がそうなっている原因を考えたら、笑ってしまうのはあきらかに不謹慎だろう。しかし、ロザリ−のこの様子に微笑まずにはいられない。

それに……エレ−ンについて、ロザリ−の弟さんが亡くなったあの悲劇について、だれかと共有できるのはオスカルにとっては特別なことだった。もう10年以上も前のことで、母国においてもあの事件は風化している。あれからの10年、祖国は発展し、経済は潤った。だがその影で隣国はいまだに経済の回復がおもわしくなく、完全に和解したとも言いがたい部分がある。しかし、他のいわゆる経済大国といわれる国々との狭間で、この2国は共同戦線を張るべきではあった。まだ両国の統一には時間がかかりそうだが。

「オスカル様、KISSしていい?」今は台詞合わせの合間の休憩時間であった。マリ−は「猫屋敷」の中で用意した衣装や小道具を点検している。まだ総会には時間があるので、揃っていない分のほうが多かったが。そこに土木組も集められ、打ち合わせしていた。あとの3人は外の木陰でベルナ−ルと談笑している。活動的な彼は話上手でもあり、ジャ−ナリストとしての経験も豊かで、非常に面白い話し相手でもあった。オスカルとロザリ−は猫屋敷の出入り口の上がりかまちに2人で仲良くすわっている。ここだと、猫屋敷の中も見え、談笑してる彼らも見ることができた。

「え?あ、いいけど、どうした?」突然の申し出にやや面食らうアイス・ロ−ズ。「理由なんかないわ。ただしたくなっただけ。」そう言って頬にチュッと音をたててキスする。どちらとも見えるという事は、どちらからも見えるという事で、特に外の4人には丸見えであった。なんとなくロザリ−の意図に気がついたオスカルが、彼女に呼応してキスを返す。素早く、頬と唇に。思わず笑い出してしまう2人の様子に、どうしても意識が集まってしまう4人。大体、先ほどから2人で頬を寄せあって耳元で内緒話をしているのだから、気にならないわけがない。

ベルナ−ルは、職業上人に話を聞きだすのはうまい。それゆえ、あのアイス・ロ−ズをめぐって微妙な関係にある隊員それぞれの事情なども、かなり承知してきていた。「かわいいねぇ、あの2人。とても初めて会った時のあの2人とも思えんが。」そう言って笑うベルナ−ル。確かにそうであった。「そうですか?私はその場所に居合わせなかったんですけど。」とヴィクが少し残念そうな顔になる。イオスたちとカオラに戻ってからラリ−の事件の顛末を聞いたものの、やはり現場に居合わせなかったため、ちょっとくやしい思いをしていた。アイス・ロ−ズもあまり語りたがらないし。

彼としては、せめて正式に婚約するまでは、いたずらにアイス・ロ−ズに触れようとは思わなかった。やはり彼にとって、アイス・ロ−ズはアイス・ロ−ズなのだ。憧れてきたひと。口をきけるようになる日が来るとさえ思っていなかった。今こうしていることそのものが不思議なくらいで、時に実感できなくなりさえする。だがアンドレの存在がヴィクを現実に戻した。ロザリ−と別れたからといって、何か特に変わった様子もない。アイス・ロ−ズに対しても、むしろ以前より接触が減ったような感じである。活動中は自分が風車のために動いているので、2人の様子を知ることもないが。

だが聞かなくても、見なくてもわかる気がする。いくら表面を装ったところで、この2人が離れきってしまうわけがない。大体アンドレは「第1候補」なのだ。実はヴィクは、この言葉に非常にひっかかっていた。彼女の父上がアンドレをそう見なしているというのは、彼にとってプレッシャ−以外のなにものでもない。アンドレと自分が似たようなタイプならそうでもないが、お互いが育った家のカラ−が相当異なるし、立場も全然違う。何より、家や親の七光り要素がないのに、それだけ信用されている彼に対して、ヴィクは引け目を感じずにはいられなかった。

だがその一方で、本当に釣り合いがとれているのは自分だという気持ちもあった。確かに自分は幼い頃から持病をわずらってはきたが、手術は成功し、成年に達するにつれ健康を取り戻すこともできた。今ではこのアロンガルでもやっていけてるではないか。彼女に、アイス・ロ−ズに追いつきたい、その一心でここまで来た。これは評価してもかまわないだろう?まだまだ足りないが、それでも彼女に最もふさわしい存在になりたい。その気持ちだけは、誰にも負けてないはずだ。だが……

(ふふっ、オスカル様ってば、私の気持ちに気づいてくれたのね。)そう思うだけでうれしいロザリ−であった。彼女はもちろんオスカルを愛していたが、何よりオスカルに幸せになってほしかった。(弟のことを知って以来、エレ−ンのことで負い目を感じてらっしゃるものね。本当に……純粋な人なんだわ。)だが、ロザリ−にも負い目があった。アンドレの事である。別に彼と関係を持ったわけでもなんでもなかったが、それでも今のオスカルの現状を引き起こしてしまったのも自分なのだ。

オスカルが、例えばアンドレへのあてつけにヴィクとつきあってるわけではないのは確かだ。彼の気持ちが真剣であることは、研修時からわかっている。野外活動でジャムを作った時に、ヴィクがオスカルに言った言葉、あの真摯な態度、それが思い出された。あのような積み重ねがあったからこそ、オスカルもヴィクに惹かれているのだろう。はにかみやのボンボンだった彼が、こちらに来てどれだけ苦労し、どれだけ風車のために一心に取り組んでいるか。もしアンドレのことがなければ、自分はヴィクを応援するだろう。そう、今の彼ならば。

アンドレとちょこちょこ会うようになって、彼はポツポツと昔のことを語ることがあった。もちろん自分は興味津々ではあったが、あまり無茶して追求はできない。彼がジャルジェ家に引き取られる以前の記憶がないことも知ったし、なにせ研修で初めて会った頃、幼馴染で一緒に育てられたとは思えないような部分が2人にあったのも忘れてはいなかったから。今も、やはり腑に落ちないところがある。だが、彼が少しずつ語る思い出は、やはり彼がそれをどれだけ大事にしているかがわかる気配に満ちている。ロザリ−がオスカルを愛するがゆえに、それらは彼女の心を揺さぶった。

だが、オスカルは何より男嫌いなのかとも思う。そう言ってるわけでもあるし。嫌いなのか苦手なのか、自分にもそんなところがあるので、それゆえ彼女とますますベタベタしたくなるのだ。その場ではドキドキもするが、長いスパンで捉えたとき、何より安心するというか、心が安定するというか、そういう効果があるから。今の彼女にはこのような形で自分が必要な気がする。そして、自分にも……一難去ってまた一難。ベルナ−ルにも、ヴィクト−ルにも、アンドレにも、アカンベ−してやりたい。そんな気分なのだ。それを汲み取ってくれたオスカルだから、こうしてキスしてくれたんだろう。

大統領選が近づき、その影響で隊員各位にも、必要ない任地移動や上京を見合わせるよう通達が回る。そうは言っても活動に支障が出るようでは話にならない。大体彼らは青少年期に祖国のシビアな状況を多かれ少なかれ肌身に感じており、ある意味タフであり、反面不安定さを有してもいる。この10年ほどで、10年という期間のみでは語りきれないジェネレ−ションギャップも生まれていた。また、母国分割前を知る世代も、かなり高齢になってはいるが存在するわけで、それが多様な価値観なり人生観なりをもたらしていた。

ベルナ−ルは彼なりの目的があって入国しており、この大統領選にももちろん着目している。まあ結果はある程度予想されていて、元宗主国がバックアップする現大統領が再選を果たすと思われていた。ただし、来期は現大統領の出馬がなさそうだったので、アロンガルを取り巻く国々の思惑は、すでに来期の新大統領候補に移ってさえいる感があった。どうも、元宗主国がアロンガルへの保護と、それの見返りとしての干渉を緩める動きをしているようで、次期大統領は「民意発揚」の結果で選出されねばならないとされるようだ。

ティナでの練習の後、ベルナ−ルとアンドレが一緒に上京した。本来ならアンドレも先週上京するつもりだったが、オスカルが上京するのでずらしたのである。基本的に医療プロジェでは、なるべくコンジェが重ならないようにしている。診療所での活動維持のために。そうは言っても重なる時は重なるもので、今回のように選挙のゴタゴタを避けるためならばやむなしではあった。それでもあえてはずさなければならない状況。対外的にも内面的にも。だが、不思議なくらい焦燥感はなかった。彼女に対する熱が醒めたのか?

いや、そういうわけではない。今まで、エレ−ンとキ−スを除けば、どちらか、あるいは両方がお互い以外の誰かとつきあっているという状況がなかったのである。お互いそれなりに異性とのつきあいはあったのだが、きちんとステディとして宣言するようなものではなかった。キ−スやエレ−ンとの一件があり、彼女への恋愛感情に気がついてからというもの、離れていても結局彼女のことしか見ていない。オスカルはオスカルで、自分を愛さないからといって、では他の誰かを好きになるでもない。常に2人の間には目に見えない緊張感がただよっていて、お互いがそれに神経を逆なでにされる悪循環……

だがここにきて、ロザリ−やヴィクの存在が、何か緩衝材のような役割になっていた。アンドレにとって、オスカルへの恋心は諸刃の刃であった。彼女を愛するがゆえに生まれる執着。自らの記憶の欠落からくる孤独感が、彼をいっそうかりたててしまう。そのくせ自分自身さえ、それらの欠落に向き合いきれず、ましてやそこに他者の存在を受け入れることはできない。たった1つ思い出した小さな映像が、自分とオスカルの未来を打ち砕く暗示をかけるように、夢に現れては追い越していく。10年前に10年後の未来を怖れた自分がいたのだ。それを思えば、自分も彼女もなんとかやってきたではないか?

今までは、やはり「当然手に入れられるはずの存在をそうできない」という焦燥感で苦しかったんだと思う。知らなかったとはいえ、自分が「第1候補」になっていた事情が、いつの間にか「彼女は自分のものだ」という気持ちを後押ししてもいたんだろう。だが、そうではないのだ。オスカルは誰のものでもない。ヴィクがそれを気づかせてくれた。だが……かと言って、このまま彼女を?いざそうなった時、おれはどうするんだろう。彼女なしで、彼女なしで、おれにどんな未来があるというんだろうか……

「おれはこのままちょっと行くところがあるんだが...どうだ、一緒に夕食とらないか?」とベルナ−ルが言う。「ええ、いいですよ。」「だが、ホントにおれが宿舎に行っていいのか?」「かまわんでしょう。こんな状況じゃあまり人もいないでしょうし。たまに来る同国人の旅行者も泊まっていきますから。」「ふうん……まぁ、第3国ではお互い様ってわけだな。カオラでも世話になってるし、こりゃ隊のことを悪くは書けないね。」「いいですよ、問題は問題なわけだから。どんな組織にも弱点やら欠点はあるもんで、上手く指摘してもらえりゃいいんです。」

そんな会話をしながら首都のタクシ−乗り場で別れる。アンドレはそのままFOCVの事務所に顔を出すことにした。ベルナ−ルはどこかに取材に行くんだろうか。大統領選の行方を見届けるまでこっちにいるらしい。だが……今回の選挙に関してはほとんど結果は見えている。大体、彼は何の目的でアロンガルくんだりまで来たのだろう。ベルナ−ルは経済記者出身らしい。よくはわからんが、やはりここのところ、母国がアロンガルに関心を示しているからだろうか。つまりそれは、アロンガルの元宗主国との国交を強めようというわけなんだろうが……

西と東にほぼ同じような規模で大陸があり、その2大陸が北半球のほとんどを占める。西大陸のほうは南半球にも渡る陸地が広がっていた。南半球には、アロンガルが所属するこの南大陸があって、それ以外にはもっとずっと規模が小さくなる。西の東の言ってるが、伝統はあってもこれは便宜的なもので、レジオン島を「テランガのへそ」と位置付けた場合、母国の所属するのが東で、アロンガルの元宗主国は西に所属する。レジオン島は南大陸に最も近いのだが、昔から西と東の大陸を繋ぐ航路の中間地点として最も重要なポジションにあり、繁栄もしたが大いに争いにも巻き込まれてきた。

この世紀に入ってからはエアの発展により、商業的な意味合いとしてよりも、軍事的な意味合いとしての重要度が増す結果になり、それゆえレジオン島は今や永世中立を宣言している。西と東の主だった国のほとんどが加入している、いわゆる国連の本拠地はレジオン島にあった。国連軍が常時待機し、世界的な機関がいくつも存在する。大学や研究機関が実は非常に充実してもおり、昔から「亡命先」に指定される事も多かった。留学という名目で。今現在もその伝統は暗黙の了解で、レジオン島を経由して第3国に亡命する人間は多い。しかしその大半は「支配階級」というより「思想の対立」から生まれる亡命者で、学者や各種の表現者だった。

東では何世紀も前に、大陸全体で最も栄えたギルディエン国が分裂してできた国々が現在も中心的な存在だった。ギリアン語とルナとロッテン正教によって結ばれる共同体ではあったが、大陸内での争いも多かった。それは西にも言える事で、この世紀に入って以来、「西と東」のライバル意識、対立関係が一気に深まっている。アロンガルの元宗主国は西でもかなり有数の勢力を誇る国だ。東では今や一国がかなり強大なパワ−でもって世界情勢を動かそうとしているきらいがあったが、西ではいくつもの国が連合体を結成して東と張り合っている。

母国はそれゆえに、大国の行き過ぎた独走を牽制しながら、他の東の国々との連携を強めて独立を維持しなければならない。もちろん東だけでなく、西、あるいは南との連携も。50年前に国を分割されたのも、元々大国のエゴが生んだ結果だと言えた。だが、それだけでもなかった。2つの民族が混在してはいたが、母国の利権をめぐっての対立構造が、過去から存在してきた歴史があるのである。大陸内での東方と西方に由来する民族がかちあって生まれた国、それが母国の最大の特徴といえた。

一旦事務所に寄ったものの、荷物だけ置かせてもらって街に出たアンドレ。彼もまた支援経費がらみの上京である。オスカルのほうは後任がとれていないが(予想されてはいたが)、自分のほうは次の2次隊で入れ替わりになりそうだった。休職なので延長できないが、カタリ−ナが今のところ延長希望で、その彼女の後任は1次隊で派遣される。そのため引継ぎにも支障が出る事はなさそうだ。どうも自分たち2次隊のメンバ−は休職での参加が多いのだが、カタリ−ナたち2次隊は辞職しての参加ばかりで、それゆえ全員が延長希望である。

アランとハンスも休職参加であったが、一応職場に打診してるらしい。あまり長期間の延長は認められないが、3ヶ月くらいなら……という感触だとか。だが、自分とオスカル、それにヴィクは延長できそうになかった。彼らはいわゆる公務員だからである。JBメモリアルは現在半官半民の経営を行っているが、元々軍管轄であり、規則にはやかましい一面があった。ヴィクは彼が卒業した国立歯科大の勤務医であり、歯科大所属のまま大学院に戻っていたのを休学しての参加である。学生なので、ねじこめば延長もありえるかもしれないが、この現状では考えられない。大体、参加するだけでも大変だったらしいから。

「なんかねぇ、また子どもが「神隠し」にあったってさ。」ゲルトル−トが村周りから帰ってきて開口一番に言う。「また?前もあったのか?」とオスカル。内科や薬理の本を読んでいたのだが、どうもあまり身に入らない。暑くてたまらないのだ。時にしゃべるのもかったるいぐらいだが、この話題はちょっと気になる。「噂になってるだけなんで、どこまで信憑性があるかどうだかわからないんだけどね。ほら、南部山岳地帯がらみでさ、労働力としてさらわれる子どもがいるって聞いたけど、ちょっと違うかなぁ。」「あ〜芥子の花栽培してるとかってヤツですかぁ?」とフリデリ−ケ。

「芥子の花は栽培自体はっきりしないが、鉱山関係でもそうなのか?」「でもねぇ、鉱山での人手に子どもっていうのも何か変じゃない?」カタリ−ナが包帯をクルクルと巻きなおしながら口にする。それを受けてゲルトル−トが声を落として言う。「どうもさぁ……アレらしいよ。鉱山の男ども相手に商売させてるって話。」思わず絶句する一同。「な、なんだよそれ!子どもって、いくつなんだ??」「せいぜい12〜3じゃない?この国は宗教上は売春なんて絶対認められないから、娼婦のほとんどってうまい事言われて……とか、身寄りがなくなって仕方なくとかの若い娘がほとんどらしいからね。」

「でも、あれだけ家族意識とか同族意識が強いし、宗教もあるし、そうそう簡単にはいかなさそうだけど。」「そうよ。だからさらわれたりするわけよ。だって都市部ならともかく、南部の鉱山地帯よ?誰が好き好んであんなとこに行くもんですか。それぐらいなら、元宗主国に出稼ぎにでも出たほうがマシじゃない?」「それで……まだ年端もいかない少女をってわけかよ……」これはオスカルにとって、かなり痛い話だった。彼女とて、名門の箱入り娘などでは決してない。いやむしろ、同じクラスの女性の中では、かなり世間を知っているうちに入る。

だが、このような話を聞くと、どうしてもエレ−ンを思い出してしまうのだ。エレ−ンが実質的にそうだったのだ。彼女はあまり多くを語らなかったが、それでも噂は耳に届く。彼女はオスカルと同い年だったようだが、孤児院育ちで父の顔も母の顔も知らないという。一旦12歳ほどで引き取られたが、半年もせずに飛び出したらしい。はっきり口にしなかったが、どうも性的な虐待があったようで、彼女は行き場を失い街をさまよう事になる。オスカルと出会った時には彼女は16になっていて、なんとか食べていこうと住み込みで、レストランの厨房で皿洗いなどをしていた。

だが、彼女の過去を知る人間は決してそれを忘れず、真っ当に働いているというのに、嫌がらせや陰口は続いていた。初めて出会ったときもそうで、靴を隠されて捨てられた彼女は、そのまま頭にきて裸足で街に飛び出してしまったのだ。路地裏で、嗚咽をこらながら肩を震わせていた彼女に、当時のオスカルは心的なシンクロを感じずにいられなかった。エレ−ンのほうもそうで、それゆえ2人の間柄はあっという間に親密なものとなる。しかし、エレ−ンはオスカルの出自に非常に気をつかった。一目を避けて、時には変装までして。オスカルにもそれを強制しつつ。

オスカルはエレ−ンに詮索を入れなかったし、彼女自身がジャルジェ家の娘だとも言わなかった。ただ、どうしたって育ちのよい面は表れてしまうわけで、エレ−ンは口癖のように「あたしみたいな女とつきあわないほうがいいのに。」と言っていた。今もスレンダ−だが、あの当時のオスカルは少年のような雰囲気も残していて、エレ−ンも体格がいいとは言えなく、傍から見れば「初めてのデ−ト」を経験する年代のティ−ンのカップルだった。本当なら別に、2人が会っている事を隠す必要などない。少なくともオスカルはそう感じていた。

だが、彼女自身に、やはり自分の出自を知られたくない気持ちがあった。エレ−ンまでに壁を作られるのは我慢できない。アンドレが壁をこさえる気がするのは、彼と自分の相性のせいだとも思うけど、他にもいた幼馴染でさえ、いつしか自分に遠慮するようになる。敬遠されるわけだ。全部が全部というわけではないが、結局接点がなくなってしまう。エレ−ンも感じてはいるんだろうけど、あからさまにしないでいれば、2人はいいコンビでもあった。オスカルは彼女に逢うとき、ウィッグをつけたり古着屋で見つけたとんでもないものを着たり、へんてこりんなサングラスをかけてみたりと、とても家では考えられない事ばかりしていた。それに大喜びのエレ−ン。

「オスカル、どうかした?」と、彼女を顔を見つめていたカタリ−ナが声をかけた。「え?あ、なんでもないよ。」と答えるアイス・ロ−ズ。エレ−ンと過ごしたわずかな期間の、その中でもとりわけ楽しかったことを思い出す時でさえ、オスカルの顔からは憂愁の色が消えきれなかった。死はどれ1つとして同じ意味のものはない。1つの死のもたらす波紋の形は、それを受け止める存在にかかっている。彼女の中でエレ−ンの死は、いまだ解決されていない……そう、真実はいまだ闇の中であった。

「で、神隠しにあった子どもっていうのは娘なのか?」「ううん。それがね、12歳くらいの男の子らしいわよ。だからね、そのいわゆる鉱山地帯への……じゃないみたいね。そんな年の男の子なんて、足手まといでしょうから。」と言って、ゲルトル−トは勢いよくジュ−スを飲み干した。昼ごはんを食べ損ねて、これで糖分と水分を取らなければ低血糖と脱水症状でぶったおれそうだったから。「なんとか今月をしのげば暑さもピ−クを脱するけどさ、2年目でもこれっぽっちも慣れないものね、暑いのって。」「私なんて3次隊ですから、4月を3回ですよぉ。」とフリデリ−ケも嘆く。

やはり大統領選前だからか、少々街の雰囲気が違う。いつもより格段に軍服が多いのだ。迷彩色の男がそこここに立っている。FICAの事務所があるあたりは首都のど真ん中であり、近くに大統領府や各国大使館などが目白押しなので、当然その数は普段から他の場所より多い。しかし、今や他の何気ない場所にも彼らは立っており、もちろん銃をしょっている。明らかに外国人であるアンドレにも、厳しい視線が向けられるような、そんな状況だった。(だんな様が軍人ではあるけど、基本的にはあまりぞっとしないな。やっぱりオスカルが軍人にならなくてよかった……)

用事をすませると、普段ならそこそこ街中をぶらつくのが常だった。だが、今日はそんな気になれる状況でもなさそうだ。晩に何か作ってもよかったが、さすがに宿舎にヒトが寄り付きそうにない。自分も大して長くは滞在できないし、だったらもう宿舎の近所か、または何か買ってきたほうがよさそうである。どちらにしろ、ベルナ−ルは事務所に電話をくれる事になっていた。その時の時間の都合で決めることにしている。最悪、取材が長引けば約束はおじゃんだから。それで、アンドレは事務所に戻ることにした。多分事務所も人少なであろう。

今日は例の調整員の姿もない。聞けば公休だとか。それで、普段はいい顔をされないのだが、事務所のパソコンでネットする事にした。もう1人の調整員は鷹揚というか、適当なところがあるので、少しばかり活動とは関係ないところを見ていても気にされなかった。「いいですか?ネットに繋いでも。」「おお、いいぞ〜。あまり長時間は困るがな。」やはり気前がいい。礼を言ってパソコンの前に座る。すると、現地職員がコ−ヒ−を(インスタントだが)入れてくれた。どうも隊員の出入りが減って、仕事そのものもややヒマなのか、待遇よくしてもらえるらしい。アンドレもいつもより愛想がいいので、事務所は和やかな雰囲気に満ちていた。

アンドレはビジネス関連のトピックをよく見ていた。なんせ元はジャルジェ家の執事になろうとしていたのである。家事オタクと言われているが、決して料理がうまいとかいうレベルではなかったのだ。手先を使う分野だけでなく、財務関係などにも関心を払っていたのである。これはジャルジェ家という個の単位だけでなくて、一族全体を、またジャルジェ家が株主になっている会社全体にも。もちろん、それほどつっこんで知っていたわけではないが、それなりの知識を得ていた。今では必ずしも必要というわけではないが、株式などは半ば趣味的に見ていた。

オスカルが父と共同で馬を購入したのを見て、自分は株でも買おうか、そう思ったのだ。もちろん、ジャルジェ家が筆頭株主になっている会社のものを……である。やや特殊な系統の技術的メ−カ−で、その主力製品にかけては、かなりのシェアを誇っている。元々は軍事的に開発されたものであったが、応用範囲が広く、今では一般的になっていた。それでももちろん、軍事に転用されはするのだが……だが、レオポルディ−ヌの夫であり、次代の社長になるかもしれないデ−ビッドは元々バイオ関連の出身で、化学博士であった。

そのため、社に一部分、バイオ関連の事業を立ち上げようとしているらしい。社内では賛否両論あるらしいが、これも時代の流れというものかもしれなかった。そのため、新事業のための増資を求めて新規の株式公開に踏み切るかどうか、検討されてるとも。これまでのところは財務関係がしっかりしていて、中堅メ−カ−らしい安定した値動きをしてきた。それが新規事業参入でどうなるものなのか。(まぁどうせ、おれがどうこうできるってもんでもないしな。)彼にしてみれば、株でもうけるとかいう話ではなく、今まで世話になってきたジャルジェ家への恩返しというか、「心の借りの返済」みたいなものであった。とにかく一方的に与えられっぱなしでは我慢できない。

最初は何も変わった様子はなかった。以前から見ていたビジネス系の大手の番組にアクセスし、株だけでなく、他のニュ−スなどに目を通していた。母国の主なニュ−スを拾う。最近、やや景気が下り坂のようだ。ただ、この数年調子がよかったので、その反動ともいえた。しかし、自分のような休職ではなく再就職組の連中は、景気がもろに響いてくるので気になっているようで、「だったらもう、延長するだけしちゃえ」的な意見もある。もちろん、それだけ活動がうまくいっている証拠でもあったが。任地に到着してさほどもたたず、帰国の日を数え始める隊員も皆無ではなかった。

だったらさっさと帰国すればいいという意見もある。だが、やはり中途での帰国はマイナスイメ−ジだった。「意志が弱い」という烙印を押されかねない。もともと、誰かから行くよう命令されたわけでもなく、自分から好き好んでいっておいて、それで途中で投げ出すというのは、「気まぐれ」「いいかげん」だと言われたり思われたりしても無理もなかった。そのリスクもしょっての参加であり、意地になって2年を過ごすものもいる。もちろん見切りをつけて帰国するものも。それを決めるのは隊員で、事情聴取はしても、事務所は決して引き止めない。これもまた不文律であった。

もう見るつもりもなかったのだが、ペ−ジを元にたどりたくていじってると株価のペ−ジが開いた。(……え?)ほんの先ほどまで、ヴァクストゥ−ム社の株価はいつも通りだった。そう、ジェルジェ家が筆頭株主であるところの会社は。だが、アナウンスが入っている。それもかなり緊急度が高い。赤い「取引一時停止」の文字がチカチカ光っている。それでも、最初は何か市場での不手際かなにかかと思われた。あまり派手に売り買いが殺到するような銘柄でもないのに、珍しい……だがそのうち元に戻るだろうと。だが、いつまで経っても戻る気配がない。

(なんだか、嫌な感じだな……)そう考えていると、事務所に電話が入った。ベルナ−ルからである。呼ばれて電話に出るアンドレ。どうやら取材は早く終わったらしいが、もう1つちょっとした用事を片付けてから事務所に向かうとのことだった。一応、宿舎に世話になることの了解を確認するために。幸い調整員もうるさいのがいないので、まず問題なく話は決まりそうだった。電話を置いてから(そういえばベルナ−ルは元々経済専門だったな。)と思い出す。自分もある程度は把握していたが、やはりここ最近は以前より疎くなってきてる事は否めない。

ずっと見つめていたからといってどうなるものでもなさそうだ。気にはなるが、他のペ−ジを拾ってみることにした。アロンガルについては、やはり大統領選挙がトップ記事で、あとはさほど見るものもなかった。ただ、元宗主国が通貨統合に関連して、アロンガルに対し為替レ−トの変更を計画しているとのこと。元宗主国はアロンガルに対して為替レ−トを固定していた。保護目的である。だが数年後に元宗主国が加盟している連合体内で通貨統合が実現するらしく、それにともなった変更を行うと。やや保護色が減らされる事になりそうであるが、固定相場には変わりないらしい。

アンドレは一旦ネットを切り、外に出た。あまり食欲もなかったが、昼食をとってなかったのである。それで、簡単な食事をとってから、もう1度事務所に戻った。それでも1時間くらいは経過していて、ネットを再度立ち上げてみた。だが、変わりなしである。「取引一時停止」の赤ランプ。「お手上げだな」そうボソッとつぶやいていると、事務所にハンスが現れた。「お?なんだ来てたのかい。」と、いつもの明るい調子。ついその様子にホッとさせられる。(そのうちベルナ−ルが来るだろう。それまで棚上げだ。)

「きみが来てるとは思わなかったな。まさか大統領選挙で街がざわついてるって時に。」そう言って笑うハンス。「もしかして……ハンスはざわついてるから来たとか?」「あまり大きな声じゃ言えないが……そうとも言える。」真面目そうな顔をして言うのがまたおかしい。野次馬根性は今だ健在といったところか。そうは言っても人を不快にするほど顔をつっこむわけでもなく、他人との距離のとり方は絶妙だった。そう、少なくとも自分とは大違いである。バランスの悪さを修正するのに精一杯の自分とは……やはり彼はどこかキ−スに似ていて、そして違っていた。

あの当時は、まさかあのような事になるとも予想だにしておらず、キ−スについて観察が足りなかったんだと。やはり、彼はせっぱつまっていた。自分もそうだったのに、それに気付かず、自分の事にとらわれていたのだ。そんな自分に、キ−スは何を見たんだろうか。彼は知っていた。自分がジャルジェ家のもらわれっこだと。いわば、テロを取り締まる側だ。まぁ、あの当時だんな様はテロ対策の第一線からはとうにはずれていて、別の任務についていたのだが。それでも、どちらにしろ彼らの味方だとは到底思われまい。なのに、キ−スはおれを……

調整員もハンスの来訪に気がつき、3人で少し話すことにした。プロジェはなんとか進んでいたが、問題がないわけではない。特に風車の件では、好意的な意見や期待感が多いがそれだけではなかった。「特別扱い」を不満に感じる隊員がどうしても出てしまう。「じゃあ俺も私も」という動きも出てくるので、調整員としては頭が痛いところであった。彼が「イオスの次には土木のほうでも本国から技術者が来るだろう?あまりこういうのって前例がなかったしなぁ。おまけに……」と言うと「ベルナ−ルがプロジェの取材までしてるからねぇ。やっぱり個人派遣組は面白くないかもな。」とハンスが受ける。

1時間ほどそんな調子で話し込んでいると、ベルナ−ルが到着した。調整員は彼の来訪をアンドレから知らされていたが、ハンスは知らなかったので、話題にしていたのにとちょっと驚いてしまった。だがよく考えてみれば、彼はジャ−ナリストであった。自分でさえ選挙が気になって上京してるわけだから、ベルナ−ルが来ないほうが不思議だろう。あいさつやなごやかな会話の中、アンドレだけはすっと立ち上がってもう1度ネットを立ち上げる。「またかい?よっぽど気になるペ−ジでもあるのかな?」と調整員が笑った。

少し落ち着いたところで、アンドレはそっとベルナ−ルに耳打ちをした。「ちょっと……見てほしいんだ、ベルナ−ル。」ハンスはハンスで少し離れたところにあるもう一台のパソコンを立ち上げにかかっていた。「ん?なんだなんだ。」あまりこのような申し出をアンドレから受けることがなかったので、好奇心が動く。株価の画面を開くと、先ほどの画とはまた少し変わっていた。「取引停止」。「一時」の文字が消え、青い文字、青ランプになっている。ドキっとするアンドレ。「これ、どんな意味なんだ?」「どれどれ?」

「取引停止か……どうしたんだろうね。会社側からのリクエストかな。何かあったんじゃないか?もしかして……市場を混乱させないようにという措置じゃないかねぇ。」確かにそう言われたらそうだ。だが一体……「あ、関連記事が出たぞ。詳細はニュ−スゲ−トだと。」そちらに飛ぶ。

先ほどから取引を停止しているヴァクストゥ−ム社は、インサイダ−取引の疑いの件で市場に通知があり、ただいま鋭意調査中。続報を待て。

「あ、フリデリ−ケか?オスカルをよんでくれないかな。」「アイス・ロ−ズですかぁ?お昼過ぎから外回りですよ。ゲルトル−トもカタリ−ナも今ちょっと出ちゃってて、私1人だけなんです。どうかしたの?」「ああ、どうしても早急に耳に入れたい事があるんだよ。戻ってきたら事務所か宿舎に電話くれるように伝えてくれまいか?」「わかったわ。でも、直帰かもしれないの。戻らないようでも、とにかくゲルトル−トたちに相談してみる。」「ぜひそうしてくれよ。頼む。」いつも冷静な感じのアンドレの声音ではない気がする。何があったんだろう?

「もしもしアンドレ?ゲルトル−トだけど、なんか彼女、戻ってきそうにないわ。」もういわゆる活動時間は過ぎている。「……あいつ、どこ行ってんだ。」「近場は回ってみたの。でも見当たらないわ。村から帰ってきてないのかしら?だとするとどうしようもないわ。」「……ヴィクは?」「あ−、行ったわよ。自宅はもとより風の谷までね!でも誰もいないの。風車組は普段から単独行動みたいなもんだから、あんまり行動範囲を把握してないんだけど。」「すまない。こんな時間まで引っ張りまわしてしまって……もういいよ。ありがとう、明日の朝あいつを見かけたら連絡するよう言ってもらえないか?」「それはいいけど……一体何があったの?」

「……ジャルジェ家のことなんだ。」「あ、やっぱり?まさかどなたか……?」「いいや、そうじゃないよ。ただ話すにしても、先にオスカルの耳に入れてからにしたいんだ。」「OKよ。あんたがそう言うほどの事なわけだ。まぁできるだけはやっとく。ここにも伝言を残すし、アイス・ロ−ズの家の玄関にもね。」「無理はしないでくれよ。暗くなったら下手に動かないでくれ。」「大丈夫よ。ご家族のどなたがってわけじゃないなら、ひとまずは安心だし。あんたもね、食事でもしなさいよ。ずっと事務所にいるんでしょ?」「わかったよ。じゃあな。」

翌朝、オスカルは軽い二日酔いだった。前日にイオスを交えた風車組で、最近国境沿いの町にできたレストランに行ったのだ。前々から約束していたわけではなく、当日村回りに出ようとしていたところを、たまたま保健所経由で書類を診療所に届けようとしていたヴィクに出くわして誘われた。村回りの状況次第でもかまわないならと承知して、診療所に戻らずヴィクの家にバイクをとめてレストランに行き、結局そのまま4人で酒盛りである。ヴィク以外は結構いける口で、翌日を考慮はしたものの、酒量はかなりのものであった。オスカルは、仕事に来たというより、まずは点滴でもしてもらおうか、そんな朝だった。

だが4人で診療所に来て、慌てて宿舎に電話する羽目になってしまう。「もしもし?オスカルだけど、何があったんだ?」「おまえ、何してんだよ。とにかく上がってこい。詳しい話はそれからだ。」「はぁ?わけわからないよ。うちがどうかしたのか?」「ヴァクストゥ−ム社が、インサイダ−取引の疑いをかけられてんだよ。」絶句するアイス・ロ−ズ。一瞬、アンドレが何を言ってるのかわからなかった。「インサイダ−って、株取引か?」「そうだよ。」「そんなことあるかよ!?何かの間違いだ。」「知らんよ。おれもそう思うが、なんせこっちでも情報が少ないし。」「わかったよ、今から上京する。宿舎に行けばいいか?」「ああ。」

なんだかクラクラする。電話を切って、思わず傍のソファ−に座り込むアイス・ロ−ズ。「大丈夫?何があったかわかったの?」と、昨日から話を耳にしていた女性3人が心配そうに彼女を見る。「今から上京ですか?アイス・ロ−ズ。」そう声をかけるヴィク。インサイダ−という言葉がひっかかる。まさか……?「うん。すまないけど、とにかく上京するよ。カオラじゃ国際電話もかけられないし、なんの情報も得られないから……勝手してごめん。」診療所の全員に動揺の色が走る。「あまりご気分がすぐれないようですね、アイス・ロ−ズ。私も参りますから、いっそ7PLACEを借り切ってしまいましょう。それが1番早いですよ。」「え?いいよ、そんな……ヴィクは関係ないんだから。」

「関係ありませんか?自分はそう思いませんよ。昨日お誘いしなければもっと早く出発できてたんですしね。ましてや体調まで……私の事はお気になさらないでください。どうせ近々上京するつもりでしたし。」「そうよ、アイス・ロ−ズ。まぁ二日酔いなんだろうけど、こんな時期だし。選挙で首都がごちゃごちゃしてるかもしれないから、ヴィクと上がったほうがいいわ。」「わかったよ。じゃあヴィク、1時間後にガラ−ジュで。」「もしカオラでつかまえられなくても、ティナまで行けば確実ですから、なるべく早めに行って交渉しますよ。」「……ありがとう。」

やはりカオラのガラ−ジュでは長距離のタクシ−をうまくつかまえられず、そのままティナまで出てから首都行きを交渉した。2人だけで貸しきるという事は滅多にある事ではないらしく、運転手がすぐ出発しようともしない。それどころかちょっとした用事でもあるのかいなくなる。ヴィクは血相を変えて運転手を探し出したが、「他の人間が揃っていないだろう?」と不思議そうな顔。「大至急だって言ってるでしょう?乗るのは2人だけ、料金はお支払いしましたよね!?」しかし運転手は悪びれもせず「まあまあ」とでも言いたげである。やはりここはどこまで行ってもアロンガルだ。

アイス・ロ−ズは体調があまりよくない上に、実家の何か不穏な出来事に気をとられてるのか、うつむいて、考え事をしてるように見える。顔色も悪いし、しんどそうだ。ヴィクは声をかけられない。(こんな時、アンドレはどうするんでしょうか。2人だけのやり方があるんでしょうか。どうしようもないとわかっていますが、やはりさみしいものですね。)そう、アイス・ロ−ズは自分にも心を閉ざしているのがわかる。ジャルジェ家の問題に、自分が入る余地はないのだ。まだ……だが、かと言って見過ごしにできるわけもない。もしかしたら、「自分の問題」になる日が来るのかもしれないのだから。

もう1度タクシ−を乗り換え、なんとか宿舎にたどりついた。「あの、アイス・ロ−ズ、私は同席しない方がいいですよね?」宿舎の玄関前で、ヴィクがオスカルに声をかける。「あ、でも……」「私はこのまま ちょっと行きたいところがあるんです。それが終わったら宿舎に顔を出しますよ。」そう言ってると、玄関から上がって宿舎の出入り口とを結ぶ階段からアンドレが降りてきた。彼は階段の上の方にすわってオスカルを待っていたのである。突然の彼の姿にオスカルもヴィクも仰天してしまった。そう、すぐに声も出ないほど。

オスカルの顔色がよく見えるほどアンドレの顔色は悪く、かなり憔悴して見えた。元々仏頂面というか、感情を表に出さないニュ−トラルな彼だが、張り詰めた緊張感が伝わってもくる。だまって階段から2人を見下ろす彼。先にヴィクが声をかけた。アンドレにではなく、アイス・ロ−ズに。「じゃあ、そういう事ですので、また後で。」にっこり微笑んでそうとだけ言うと、くるっと振り返ってさっさと歩いていく。残された彼女はまだ切り出せない。アンドレになんて言われるんだろうか?いや、ヴィクと上京した自分を、彼はどう思ってるんだろうか?

一旦降りかけて止まっていたアンドレが、ヴィクが去ったのを見て再び降りてくる。仕事上はともかく、彼は決して「2人で何かやりとりしている状態」に顔を突っ込まない人間だった。それがオスカルであっても。「アンドレ……」やっと彼女は彼の名前を呼べた。彼のこの状況を見れば、ヴァクストゥ−ム社の件は間違いないのだと思い知らされる。話を聞いただけでは実感できなかったのだ。一体母国で何が起こってるというんだろうか?「アンドレ、大丈夫か?」「ああ。おまえこそ、ナイトを引き連れての上京か?」皮肉な響きはない。

少しだけホッとするオスカル。だが、「なんだおまえ……酒くさいな。何してたんだよ昨夜は。」と、ややアンドレの口調にきつさが混じってきた。「すまなかったよ。昨日はたまたま風車組の連中と飲んでて……」「はぁ、それで二日酔いなんでお供を用意したわけか。」「おまえなぁ、私に腹立てるのはかまわんけど、ヴィクにまでそんな風に言うことないだろ?彼はただ心配してくれて……」「そりゃそうか。ヴィクにとっても気になる話だしね。」「いちいちつっかかって来るなよ。それより今はどうなってるんだ?」

事情を理解してくれたベルナ−ルが、アロンガルに滞在している他のジャ−ナリストに話をつけてくれていた。FICAの事務所ではこれ以上この話題を持ち込みたくなかった。あくまでも個人的事情であり、事務所のパソコンを独占して情報を追っかけるのはお門違いだろう。ましてやあのいけすかない調整員がいては。それでベルナ−ルは知り合いの同業者で、アロンガルに来てからすでに数回会っている男に援軍を頼んだ。彼は快く引き受けてくれ、彼のアパルトマンの一室にパソコンを用意して、そこで情報を拾えるようにしてくれた。ベルナ−ルもベルナ−ルで、そこを拠点にして彼なりに動くことにする。大統領選挙は待っていてもくれないので。

オスカルはその彼の家のパソコンで、やっと事情をつかむ事ができた。昨日の段階ではまだ「インサイダ−取引の情報が入った」というとこだったが、今日になって少しずつ経済ニュ−スとして形になってきた。この手の事件を扱う特捜部が動き出しているとのこと。ということで、いわゆるデマではないらしい、だがそれ以上の決定打もない、そんな状況だ。しかし市場は敏感に反応してるらしく、ヴァクストゥ−ム社の株が売られているようで、値が下がってきている。元々ヴァクストゥ−ム社はジャルジェ一族との繋がりから、政界ともかかわりあってる部分がある。もし政界まで巻き込む事件に発展したら……その意味でこの件は注目を浴びているのだ。

振り返り、「なあ、アン……」と言いかけて、オスカルはやめた。後ろのソファ−にすわっていた彼は眠り込んでしまっていたから。パソコンを提供してくれたロイも彼を見やって「多分昨晩は一睡もしてないんだと思う。かなり遅くなっておれがベルナ−ルにつかまったんだ。事情を聞いて、1度は2人でここに来たんだけど、「電話があるといけないから」って戻ったんだよ、宿舎だっけ?」「朝になって、電話があったとかで、来てたんだけど、どうも寝てないし、少し休んだらと勧めてもねぇ。」と声を潜めて言う。

「そうなんですか……」「まぁ多分、あなたが来たんで安心したんじゃないかな?」そう言ってオスカルの顔を見るロイ。(ちょっと疲れた顔してるけど、それでも綺麗な女だな。さすがヴァクストゥ−ム社の筆頭株主の家の娘だけはある。この彼は子どもの頃に引き取られたって言ってたけど、なんなんだ?恋人同士というわけでもないのかな?)心配そうにアンドレの寝顔を見つめているオスカルの横顔をそっと眺めつつ、ロイは考えていた。(なんにしても、気が気じゃないのもわかるね。俺みたいに守るものがなけりゃ気が楽だが、あんな名門の家をかかえてるんだから、そのプレッシャ−は俺らにはわかるまいよ。はん。)

ピンポ−ンと呼び出しベルが鳴った。「誰か来たのか?ベルナ−ルかな。」そう言ってロイが席を立つ。「まぁ、ゆっくりしててくれよ。こっちの彼も寝かしてやりたいんだが、起きないかな?」そう言って笑いながらアンドレの顔を眺めていく。ロイはいくつなんだろう。30代前半のベルナ−ルよりは年上に見えるが、40にはなっていないか。ロイもギリアン語が堪能だが、彼らと同国人というわけではなく、オスカルやアンドレがギリアン語を使えなかったらコミュニケ−ションをとるのが大変だったろう。(こういう時に同業者は有難いよな。ベルナ−ルがいてくれてよかったよ。)

それにしても……多分そうだろうと思っていたが、やはりアンドレは一睡もせず、自分を待っていたのか。知らなかったとは言え、もし彼がネットを見てくれてなかったら、今も気付かないままだったかも。ここに到着する前に、まずは2人で母国の実家に国際電話をしてみた。めんどくさいのだが、アロンガルでは公衆電話からはまだ国際電話できない。それで、電話局が特設しているオフィスに出向いて、そこのボックス席からかけないといけないのだ。そして、かけてはみたものの、義兄はもちろん、姉もいなかった。ただ、電話を受けてくれたミリ−は落ち着いていて、「大丈夫ですよ。もしお2人からお電話があっても、心配なさらないようにと申し付かってますから。」と言ってくれた。

幼い頃から世話を焼いてくれたミリ−からそう言われて、ちょっとホッとしたのも事実である。彼女は子どものめんどうをみるのが好きで、2人が成人してしまうと、「張り合いがない」とばかりに姉のレオポルディ−ヌのところに行ってしまった。もちろん、外国で、姉に子どもができてときては、ミリ−の性格として心配しないほうがおかしい。元々は姉が母の元に行くまで、それはそれは姉をかわいがっていた。体がやや虚弱だったし、逆にオスカルは元気いっぱいだったので、どうしても姉に手がかかったのだ。

もちろん引き取られたアンドレをも、ミリ−は愛情を持って接した。彼女とオスカルがいたからアンドレも、記憶も感情も失うほどのショック状態から立ち直れたのである。オスカルの父もアンドレに目をかけ、彼をジャルジェ家に生まれてきた男子と同じように育てた。それについて批判はあった。一族は彼を認めるわけにはいかない。本家の跡取りはあくまでジェルジェの一族から出すべきで、女子しかいなければ結婚して後継者となるのが筋である。それも、しかるべきところからの縁談で。ゆえにアンドレは養子縁組もしていない、アンドレ・グランディエのままだった。

養子うんぬんは彼も望まなかった。彼は記憶のほとんどを失ってはいたが、かろうじて自分の名前はアンドレ・グランディエであると覚えていたのだ。グランディエという姓はさほど珍しくはなく、母国でも隣国でもちらほら見られた。国の分割や、それにともなう混乱とその後のテロで、家族を失ってしまったり離れ離れになってしまっているケ−スは両国ともにかなりの数にのぼる。そのため、その姓で彼の出身を特定するのは困難だったが、唯一の記憶を失うことはしたくない。それがアンドレの気持ちだった。

とにかく彼はジャルジェ家、特にその財産について無関係でいたかったのだ。グランディエのままなら法律上は一切関係ない。だがそれでも、口さがない親戚の者から相当皮肉られてきていて、彼はうんざりしていた。そんな事もあって、彼は常にどこかジャルジェ家の者として振舞うことを拒否し、一線をひいてきたわけである。それをオスカルもよくわかっているので、アンドレが自分に対し素直にできない部分がある事を承知してはいた。もし姉夫婦がどうしても跡をつがないとなれば、自分が後継者になるわけだが、そうなるともう、絶対にアンドレは……

オスカルは、座ったまま寝入ってしまっているアンドレのとなりに自分もそっと座った。やはり相当疲れているんだから、横にしてやりたい。このままだと、もしかしなくても、この1日2日では収まらないだろう。下手をすれば、帰国も有り得る。それどころか……しかし、今からそれを心配していたら身が持たない。全ては確定してからの話だ。有難いことに、自分もアンドレも、ヴァクストゥ−ム社とは全く関係ない仕事をしている。父もだ。このインサイダ−に関係してなければ、姉夫婦も大丈夫、あの義兄は優秀なのだから。(こんなにアンドレが家の事を心配してくれるなんて、やっぱり彼は……)

「ねぇ、アンドレ、起きて……」そう声をかけて彼の肩をそっと両手でゆすった。すると、彼は気がついたのか、オスカルに抱きついた。びっくりするオスカル。だが次の瞬間、もっと驚かされた。「かあ……さん」とアンドレが小声でつぶやいたのだ。(ええっ!?母親と間違われたのか?)だが、単にそれだけの話ではない。彼は自分に抱きついたまま、まだ完全には目覚めてないようだ。だとすると、まだ半分夢でも見ているのか?かなり前に、夢でも両親のことを見ないものかと聞いてみた事がある。ほとんど見ない、見ても映像になってない、嫌な感じの夢だ、そう言っていた。

だが……今の彼の声は、本当に母親を呼んでいるようだった。だとしたら、今騒いで起こすことは絶対できない。どんな夢なのか見当もつかないが、もし彼が今、記憶の彼方に埋もれていた母親の映像を夢に結んでいるとすれば、それを邪魔する事はあってはならないではないか?(アンドレのお母さんって、どんな人なんだろう。彼に似てるのかなぁ。こんな風に黒い髪と目をしてるんだろうか。母親だけじゃない、お父さんも……彼が成長した事も知らないのか、それともやっぱり……もうこの世には……)しがみついているアンドレの寝息が聞こえる。

母国だけではない、世界中で戦争が、内戦が勃発している、今も!「世界大戦」と言えるほどの規模になっていないだけだ。東大陸は東大陸で、西大陸は西大陸で戦争を起こし、前回の世界大戦ではとうとう西と東でも争った。その戦争が元で母国は分割され、今に至る。古くから存在していたが大して有力な国だったわけでもなく、大国の都合でそうなったと言ってもよい。だが、分割後、母国は必死で経済復興に努めた。大国の援助もあり、この数十年で見違えるほどの発展も遂げた。だが、その影では隣国の経済的破綻とそれによるテロ、経済を追いかけたがゆえのツケを払わされている。

アンドレも多分その1人なのだ。彼がどんな経験をしたのかは、本人でさえわからない。だが、丁度彼が生まれた頃に、隣国は最悪の時期を迎えていた。おまけに母国は大国からの援助の見返りに別の戦争への派兵を承知させられたところで、国内でもデモが起こり、隣国の状況もあわせて半ば内戦状態の最中にあったのだ。そこからあのキ−スとエレ−ンの事件が起こるまで、両国は数多くのいさかいや争いを経験してきた。そのため、彼と彼の家族がどういった状況に巻き込まれたか、彼がジャルジェ家に引き取られた当時の状況からしても、かなりつらいめにあった事は間違いないと思われた。

(彼に記憶がないのは……なにか物理的な原因があるのかなあ。それとも思い出したくないという気持ちが強いのかも。それが……弱まりつつあるのかな。)そんな事を思いながらオスカルはアンドレの寝息を聞いていた。何か他に言わないかなぁと期待しつつ。しかし、それからあまり経たずベルナ−ルとロイが部屋に戻ってきた。彼らは談笑しながら部屋の扉を開け、慌ててまた閉めるという少々気まずい事になってしまった。オスカルはアンドレの夢が気になっていて、抱きつかれている状況も気にならなかったが、2人はその事情を知らないので……

だがその物音でアンドレは目が覚めてしまったようである。とはいえまだ半分寝ぼけたような感じで、自分の状況を理解できていない。(あっちゃ−、もう少し寝ててほしかったけど、どうなんだろう?夢にお母さんが出てきたのかなあ?)「アンドレ……横になったほうがよくない?」そっと小さな声で呼びかけてみる。そう、昔自分の母親が呼びかけてくれたのを思い出して、その時の情景を浮かべながら。「うん……」と彼が妙に素直に答える。そのままずり落ちるように横になって、結局彼女がソファ−で膝枕をしてやる羽目になった。

(まぁいいんだけど、ネットも気になるな。2人とも入ってこないし。多分誤解したんだろうけど、このままじゃあなぁ。アンドレに何かかけてあげないと風邪ひきそうだし。)そう思った彼女はそっとソファ−から立った。アンドレはよく眠ってるのか、そうしても目覚める気配もない。本当に疲れていたのだろう。気のせいか、いつもより彼の顔が子どもっぽく見える。キスしようかどうしようか一瞬迷ったが、なんとなくヴィクの事も頭に浮かんでしまうので、やめてしまった。別に恋人としてそうするわけでもないのだけれど。

あまりクドクドと言い訳するのも嫌なので、隣の部屋にいた彼らになにか掛けるものを願い出た。ベルナ−ルはオスカルがヴィクとつきあってること、しかしアンドレが彼女にとって、いやお互いに2人だけの間柄を形成していてヴィクさえ入れない領域があると理解してもいた。そのため、この一件で2人の関係に何か影響が出るのでは?と予測している。どう転がるかはわからないが、何か進展があるだろうと。今のオスカルの様子からして、何か2人の関係に重大なことが起こったとも思えないが、いずれこの一件が片付いた時には。そう、ベルナ−ルはこの2人の事がかなり気になりだしていた。

ベルナ−ルもロイも仕事があり、しかも今は選挙前でかなり忙しい。あちこちから電話やFAXも来るし、本人も飛び回っている。ロイは親切だが、あまり彼に負担をかけたくない。お金を払って何かを頼んでいるわけでもなく、あくまで親切でやってくれているのだから。「私、一旦宿舎に戻ります。荷物もあっちに置いてきてるし、また明日お言葉に甘えてお邪魔します。」「そうか?むさ苦しいけど、泊まっていってくれてもかまわんよ。」「あ、すみません。でも、これ以上は……夜間はご迷惑になるので、実家にも宿舎に電話してくれって頼んでるんです。何かあったらって。」

アンドレはまだ眠っていたので、余計に自分が宿舎に戻らなければならない。ネットでの状況も大事な情報だが、実家からの電話はもっとはずせないから。「じゃあ、ひとまず彼だけはお預かりしておくよ。大してできる事もないけどな、あんたたち隊員が結構がんばってるって知る事ができて、私もうれしいんだ。今回の件はまだなんとも言えないが、がんばれよ。」ロイからそう言われると、アイス・ロ−ズの瞳に思わず涙が浮かんできた。正直、彼女もジャ−ナリストに対してあまりいい感情を持ってなかったのに、こんなに彼の言葉がしみいるとは。彼女は礼を言ってロイの家を後にした。

宿舎に戻ってはみたけれど、誰かいるのかもわからない静けさであった。門番を務めてくれる現地人の男性はにっこり笑って中に入れてくれたが、居間に灯りがともってさえないようである。いつ来てもこの宿舎には誰かがいて、にぎやかな笑い声が聞こえる事もしばしばだった。それが選挙での上京自粛勧告で、心細い気にさえなるほどだ。オスカルは玄関からすぐの居間を素通りして3階の寝室に向かおうとした。女子部屋に荷物をおいてあって、まずはシャワ−をざっと浴びようと思ったのである。(そういえば……ヴィクはどうしたんだろう。行くところがあるって言ってたけど。)

だが、3階に向かう階段にたどりつく前にオスカルは呼び止められた。居間に灯りはついてなかったのだが、大きく開け放たれた窓のすぐ下にあるソファ−にヴィクが腰掛けていたのである。月明かりのもと、彼は劇のせりふの暗記をしていた。アイス・ロ−ズを思いつつ。「わ!びっくりしたよ。誰もいないと思ってたのに。」そう言って笑うアイス・ロ−ズ。その表情に少し安心したヴィクだが……アンドレはどうしたんだろうか?一緒に戻ってなさそうである。彼は今どこにいるのだろうか?「ごめんなさい、驚かせてしまいましたね。またこれからどこかに行かれるのですか?」

「いや、あの……もしかしたら実家から宿舎に電話が入るかもしれないんで、朝までここにいるよ。」「そうなんですか。少しは休まれましたか?」オスカルの表情があいまいになる。何も事情を知らないヴィクにどう対応すればいいのか……「あのさぁ……」と口ごもる彼女にヴィクが返す。「あの、アイス・ロ−ズ、無理をして私に説明なさらないでくださいね。あくまでもジャルジェ家のことなんでしょうから、他人の私ごときに重大なことは言えなくて当然ですし。」そう言って彼女の顔をジッと見つめるヴィク。もはや以前のはにかみやの彼ではない。

「ただ……まだ婚約してるわけでもなんでもありませんが、あなたの事を思わずにはいられないのですよ。そして、あなたの心がどこにあるか、そればかりが気になって……こんな私はつまらない男だと思いますか?」オスカルは正直びっくりしていた。今まで彼はあまり気持ちを明らかにしてこなかったのに、どうしたのだろう?あいまいな感じでここまで来てしまったが、今回の件ではやはり……ふっとアンドレの顔が浮かんだ。 ヴィクはやはりアンドレの事を気にしてるんだろうか?でも彼は、ロザリ−と別れた後でも私になにも言ってこないし、行動も起こさない。どこかで一線をひかれている、そうとしか思えない。

さっきはちょっとだけ、彼の様子にホッとしたりしたけど、寝ぼけてるからあんな態度をとっただけで、我に返ったらまたいつもの彼なんだろう。「ヴィク、ありがとう。つまらなくなんかないよ。心配かけてごめんね。ただ、私自身、まだはっきりした状況がつかみきれてなくて、話すに話せない状況なんだ。まぁ、カオラでの電話で、インサイダ−って口にしたけど。」彼のことだ、それぐらいのことは知ってるだろう。いくらプライベ−トなこととはいえ、今更ごまかしても仕方あるまい。「ええ。株のことでしょう?何かヴァクストゥ−ム社でトラブルがあったんですね?あんなお堅いカラ−の会社で、なんだってそのような事が……とも思うのですけど。」

さすがにヴィクは……なんだかうれしくなってくる。ジェロ−デル家の長男らしい見識を持っているのだなぁと。もちろん出会う前から私を知っていて、憧れていたなんて申し出てくれていたけれど、こうなってもヘンな独占欲を出して自分を縛ったりもせず、必要なことだけしたり言ったりしてくれている。今まで、お互いにヴァクストゥ−ム社の事など一切口にしたこともなかったのに。「私もそう思ってるんだ。もちろん何があるかはわからないんだけどさ。でも、ヴィクも……あまり心配しないでほしい。結構心配性……なんだろう?」図星らしく、苦笑する彼。

ヴィクに電話を頼んでシャワ−を浴びることにしたオスカル。昼間の暑さが水の温度を上げており、まだ気温も下がりきってないので、そのままでも心地いい。だが、そうやってホッとした瞬間、今度は今までの疲れがドッと彼女を襲った。昨晩からのしんどさで、体が重く感じる。しかし、神経だけは高ぶってるのか、さほど眠いという気もしない。それでなんとか衣類に袖を通すことまではできたが、シャワ−室を出たところで気分が悪くなって立ちくらみがし、そのままその場にしゃがみこんでしまった。声もなくうずくまってしまう。

上ではハンスが宿舎に戻ってきていた。なんでも首都で彼が出入りしている役所関係の人間が招待してくれたとかで、ちょっとした晩餐に行ってたのだ。少し立ち話をした後、ハンスが3階に上がったので、ヴィクも下の本棚から何か読むものをと思いつき1階に降りかけた。そして階段の途中で、オスカルがしゃがみこんでるのが目に入る。「アイス・ロ−ズ!?どうしましたか?」驚いて駆け寄るヴィク。その声にやっと少しだけ顔を上げる彼女。「あ……大丈夫だよ。ちょっと立ちくらみがしただけだから。」だが大丈夫と言いつつ顔色が悪いのは明らかである。(やはり……どうしても無理なさってしまうのですね。私のアイス・ロ−ズは……)

彼女を助け起こして支えながら階段を上がる。2階に戻った時点で彼女をそこにあった椅子に座らせ、跪いて彼女に話しかけるヴィク。手をにぎりながら。「アイス・ロ−ズ、どうかお願いですから、1つだけ私のお願いをかなえてくださいませんか?」丸椅子に腰掛け、壁に体をもたれかけている彼女が目を閉じたままで「なに?」と答える。「一緒に来ていただきたいところがあるんです。言うか言うまいか考えてたんですけど、今夜はゆっくりそこで休んでいただきたいんですよ。」目を開けるのも少しまだだるい感じがするが、一体ヴィクは何を言ってるんだろうか?

「アンドレは今夜はここに戻ってこないのですか?」「わからないんだ。今ある人のところにいて、自分もさっきまでそこにいたんだよ。」「そうですか。でも、あなたが戻ってこられたのは、ご実家からの電話待ちだけなのですか?」「そうだよ。でも、かかってはこないかもしれない。こっちからも1度かけてるから、何か変化がなければ……」「今さっきハンスも宿舎に戻ってきたんですよ。彼もそれなりに事情を知ってるみたいですね、アンドレと事務所で一緒になったって。ですから、今夜は私とハンスが電話番をかってでますから、モ−リッツの家で休んでいただきたいんですよ。」

「え?モ−リッツの?でも……」「この宿舎の2段ベッドじゃあ、十分休まれないでしょう?研修中でも睡眠不足になってて体調をくずしてられたじゃないですか。あれよりもっと眠れなくて困ってらっしゃるのに、そんなに具合が悪いんでは、ますます参ってしまいますよ。そうでしょう?」確かにその通りで、それゆえにオスカルは、最低限しか宿舎に滞在しないのである。特に今頃の暑い時期は耐え難いと感じることが多かった。「電話が必ずあるなら……とも思いましたが、そうでもないようですし。そう離れていませんから、何かあればまたすぐタクシ−を飛ばしますよ。もちろんアンドレが戻ってきてくれたら問題なしですが。」

帰ってきて、宿舎にいない私を彼はどう思うんだろうか?だが、ヴィクと上京してきた事に皮肉っぽい言葉を吐いていたことを思い出し、ちょっとムカついてもくる。その後も、眠ってしまうまでは、よそよそしい態度をくずさなかった。こんな事になっても……彼がロザリ−とつきあいだしたからって、自分は一切何も言わなかったし、ましてやヴィクとの間を見せつけたりした事もない。結局……結局、彼は私をはぐらかせるばかりなのだ。自分を憎んでいるのかとさえ感じる時もある。幼い頃から一緒に過ごしてきたけれど、気があうかと思えばカンにさわって仕方ない時もあって、あまり安定的な関係ではなかった。

オスカルはヴィクの申し出を受け入れた。電話がかかってくる可能性は低いとも思われる。かなり昔に実家に盗聴器がしかけられ、電話が筒抜けになっていた事があった。まだ父が第一線で働いており、重要な機密に接していた頃のことだ。今現在、父は部下の教育にあたる事がほとんどになり、アクティブな場面からは遠ざかっていたのであまり心配もいらないのだが、前歴もあるので、あまりうかつに電話で聞かれたくない事を話すのは躊躇されていた。そう、もしかしたら、ヴァクストゥ−ム社がらみでどこから盗聴されてるかわからないといえばわからないのである。それゆえ、よほどの緊急事態がなければ電話も来ないし、来たところで自分に何ができるわけでもない。

ハンスに事情をざっと説明してきたので、今は彼が宿舎で番をしてくれている。「実は……あなたと別れてから、ここに来ていたんです。宿舎ではあなたが休めないだろうと思って、こちらに来てくださってもいいようにね。もちろん戻ってきたらの話でしたけど。」「家を閉めっぱなしはよくないんで、こうやって上京した時にはここで過ごすんですよ、我々風車組は。ですから冷蔵庫とかももちろん使えますし、ここは6階なんで窓を開けておくと、海風も吹いて、今の季節でも悪くないと思います。」「ほんとだ……いいところなんだね。知らなかったよ。」「元々は調整員が前に住んでいたそうです。首都ではなかなか隊員に適した住居を見つけるのが困難らしくて、ここをそのまま隊員用に認めてもらったそうですよ。」

先ほどに比べたら、オスカルの顔色もかなりよくなってきたように見える。あまりいつまでも調子が悪そうでは、1人にしてしまうのも心配ではあるが。「では……いつまでも話してたらアイス・ロ−ズもお休みになれませんからね。そろそろ宿舎に戻りますよ。」「すまないね。感謝してるよ。」すると、ヴィクが少しさみしそうに笑った。いぶかしげな顔になるオスカル。「わかってはいるんですけど、やはり……アンドレにはかないませんね。まぁ第1候補のかたと自分を比較するのがあつかましいんですが。」

「アンドレは別に……」「わかってますよ。あなたを知っていたように、私は彼の存在にも前から気付いていました。私はこの通りでしたから、まさかあなたとつきあえるとか、まして結婚できるとか思ってもみなかったんです。見果てぬ夢でしたけどね。でも……今ではかなわぬ夢ではないと思うんですよ。アイス・ロ−ズ、あなたを……あなたを愛しています。」真っ直ぐな瞳で彼女を見つめるヴィク。「結婚を前提におつきあいを……」と申し出た時点ではそれがかなうとも考えておらず、アンドレとロザリ−の件があって、結果的にはそこにつけいってしまう形になったと思っていた。それゆえ、ヴィクはまだ、彼女に「愛してる」と言ってなかったのである。

いきなり言われてしまって、とまどいを隠せないオスカルをこれ以上困らせたくない。彼は彼女の手をとって甲にキスし、「ではごゆっくり。アンドレが戻ってきたら伝言をしますから、安心なさってください。」そう言って足早に部屋を去るヴィク。その後姿をややあっけにとられた表情で見送るオスカルだった。振り返ってもう1度居間のソファ−に腰掛ける。ヴィクはわかってるのだ。自分がアンドレに気をとられてしまう事を。だが、「愛してる」と言ってくれるのはヴィクだけだ。今までアンドレからは、はっきりした愛の言葉を聞かされていない。そう、「愛してる」とは……

オスカルは自分でも気づかないうちに、涙がぽろぽろとこぼれてしまっていた。たった一言なのに、そう言われたインパクトの大きいこと。彼からの言葉はいつも、自分を暖かく励ましてくれる。研修の時に言われた言葉が頭をかすめた。でも……一方では、彼への恋心をなかなか意識できないでもいる。アンドレの事があるからという以前に、自分が果たして男性に恋愛感情を持つ事ができるのか、それそのものに確信できない。恋愛おんちのままでいる自分がコンプレックスでもあるのだが、このままではヴィクに失礼だろう。オスカルは立ち上がって、改めて寝室のベッドに横になった。そして、ヴィクやアンドレのことを考えているうちに、いつのまにか寝入ってしまっていた。

明け方になってアンドレは宿舎に戻った。夜中はタクシ−もつかまらないし、なんといっても今頃の選挙前では、さすがのアロンガルでも危険でないとは言えなかった。階段を上って居間に目をやると、ヴィクが薄手の毛布にくるまって横になっている。(珍しいな。こんなところで眠ったりして。仮に床に寝るにしても、居間のような人の出入りがあるところでなんて、彼らしくない。)そんな事を考えていると、ヴィクがハッとしたかのように目を覚ました。「アンドレ、今帰られたのですか?」なぜかホッとしたような顔。「ああ。今さっき戻ってきたところなんだが、悪かったな。起こしてしまって。」「いいんですよ。お帰りになるのを待っていたんです。今から休みますか?」「いや……その……」

「あの、差し出がましいようですが、ヴァクストゥ−ム社について何事か起こってることは理解しておりますよ。インサ−ダ−の事はハンスもご存知でしたし。」「おれにあまり気を使わないでくれないか。オスカルから聞いてるんだろう?つきあってるんだからそれも当然だ。」表情を変えもせず淡々と言うアンドレ。だが、そういう顔をされてしまうと、ヴィクにはかえってつらかった。内心「くやしい……」とさえいえた。自分もジェロ−デル家の長男であり、ポ−カ−フェイスで振舞うことは時に必要だった。だが、ここでまで、同じ隊員間にまで、それを持ち込みたくない、彼はそう感じるようになってきていた。

「アンドレ……ちょっとお話したいことがあるんです。アイス・ロ−ズは今……モ−リッツの家にいます。」「なんだって?じゃあ電話は一体……」「私とハンスが代わりに番をさせていただいていました。先ほどハンスには3階に上がっていただきましたが。まぁ、こうやって電話のそばにいれば、いくらなんでも気がつくと思うんで、さっきはちょっと油断してしまいましたが。」アンドレの顔にやや不機嫌そうな表情が表れる。「ったく……だったらロイのとこに電話して、おれをこっちに戻せばよかったのに……」「きっとアイス・ロ−ズは、あなたを休ませたかったんですよ。」

「そして、私は彼女を休ませたかったんです。お疲れだったんでしょう、座り込まれてしまって。」「あのバカ、飲んでたんだろう?間の悪いことに……」「私が悪かったんですよ。まさかこんなことになるとは思わなかったものですから。ついてきてしまったのも、アイス・ロ−ズがあんまりしんどそうだったからで、何もジャルジェ家のことに顔を突っ込もうと思ってたわけではありませんでした。でも……」ヴィクは何かを決心したような顔になった。「これでも、私はジェロ−デル家の長男です。体が弱かったものですから、跡を継ぐのは弟なんだって、自分で決め付けていたところもあったんですよ。でも……もし、跡を継ぐことで、アイス・ロ−ズのお役に立てるのならば、私は……」

真っ直ぐにアンドレの瞳を見つめてそう宣言するヴィク。さすがに返す言葉に詰まってしまう様子のアンドレ。1度うつむいた彼だが、また顔を上げた。「おれには、何もないんだよ、ヴィク。これが現実で、あいつがおまえを選ぶのも当たり前なんだ。だから……」今まで特にヴィクの前では感情を出さないように振舞ってきたアンドレだったが、今何を言うべきか、何をすべきかを悟ったかのように言葉を続ける。「確かに今、ヴァクストゥ−ム社に問題が起こってる。そして、おれには何もできないが、おまえはそうじゃないわけだ。あいつもそれをわかってるだろうし……だがなぁ、それだけでもないんだ。おれではダメなんだよ。あいつには、オスカルにはおれは似合わないんだ。」

じっと聞いていたヴィクが口を開く。「よくわかりませんが……私は家の七光りでしかなくても、これもあの方にふさわしい自分の1つの姿なんだと考えるようにします。今は足りなくても、いつか必ずアイス・ロ−ズに最もふさわしい男になってみせますよ。」彼には珍しく、挑発的なニュアンスでそう言い切るヴィク。隊に参加して、アイス・ロ−ズとこの幼馴染に接するようになってから、自分がどんどん変わっていってるのがわかる。こんな自分がいたとは、ちょっと信じられないほどだ。奇麗事だけしか見ないようにしてきた自分……

アンドレはもう、何も言わなかった。いつもの彼に、気持ちを表情に出さない彼に戻っていた。「とにかく、電話番をしてくれてありがとう。あとはおれがやるから、ヴィクも休んでくれ。」「アイス・ロ−ズを迎えに行きますか?それならば起こしていただければ代わりますよ。」「いや、それには及ばない。迎えに行くのはヴィクの役目だろう?」今度はヴィクが黙ってしまった。しかし、3階に上がりかけながら、「アイス・ロ−ズが気づかれたら自分で戻ってらっしゃるでしょうから、それまで待ってましょう。」とヴィクは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

オスカルは10時になる前には戻ってきたが、まだ完全に本調子とも言えなかった。眠りはしたものの浅かったらしく、何度も目が覚めてはうつらうつらして、朝方になって寝入ってしまった。それでも目が覚めた時は、なぜだか心臓がドキドキして、それでびっくりして……というあまり快適な目覚めでもなかったのである。アンドレはどうしてるだろう、もし戻ってきてるならば、ヴィクとどんな会話をかわしたんだろうか。それを思うと、なんだか気が重くなった。昨晩は例えアンドレが気を悪くしても別にかまわないと思っていたのだが、今になってみると、なんでそんな気持ちになったのかがわからない。

しかし、宿舎に戻らないわけにはいかないので、そっと戻って居間をうかがう。(誰もいないみたい……アンドレ、もしかして、戻ってきてないままなのかな?それならそれの方が……)少しホッとしたのもつかのま、3階に上がろうとして、台所から顔を出したアンドレとばったり顔を合わせてしまった。「今お帰りか?お嬢さんは。」少し皮肉な表情でアンドレに声をかけられるオスカル。ムッとはしたものの、実際は彼の表情は落ち着いたものであり、そんなにムキになって言い返すム−ドでもない。こちらに上京したばかりの時とは大違いである。

「悪かったよ。おまえは休めたのか?」「ああ。ロイの家はなかなか快適だったよ。夢も見ずにぐっすり眠り込んでたらしい。」何の気なしにそう言ったアンドレだったが、オスカルのほうは思わず「ええっ?」という顔になってしまった。不思議そうな顔をするアンドレ。「なんだ?どうかしたのか?」「夢を見てないって……覚えてないのか?」「は?いったい……」すると、台所の出入り口の前から始まっている3階に向かう階段の上からハンスが顔をひょいと出した。「あ、やっぱりオスカルか。おかえり。」いつもの快活な笑顔。つられてにっこり笑う彼女。

ゆっくりと階段を降りてくるハンス。「ただいま。昨晩はすまなかったね。電話番してもらっちゃって。」「あぁ全然かまわないから。ヴィクと一緒にね、例の劇のせりふの練習してたよ。なかなかこんな時でもないと、時間とれないしな。ちゃんと覚えていかないと、マリ−にどやされかねんし。」「そうか。そういえば、今回はエリアドルとエンデの会話が結構あるよね。」そんな会話をかわす2人。そうなるとアンドレはもう決して口を挟まなくなる。しかし、今の会話の決着をつけないわけにはいかない。(どうしよう……本当に何も覚えてないのかなぁ?あの寝言、彼はどう思うだろう……でも、確かに「かあさん」って。)これはやはり、2人きりになってからでなければ話題にしたくない。

ハンスが起きてきたので、アンドレはさっさと朝食の準備を始めてしまった。彼にとってはなんということもない。もはや結構気温が上がってきているので、パンを切って、ジュ−スや冷えた果物を出して、一応カフェの用意もする、そんなところである。「何かやることある?」と声をかけるオスカル。顔を洗いにいったハンス。「いや、お嬢さんは座って待ってな。」まただ...こう何度も言われると面白くない。「お嬢さんって……一体どんな風の吹き回しなんだ?」すると、笑顔を浮かべるアンドレ。「家のことを心配してるおまえの顔はなぁ、やっぱりジャルジェ家の令嬢って顔してるように見えるんだよ。おれにはそんな顔はできないからな。」

「それっておまえの思い過ごしじゃないのか?私は別に……」「いいじゃないか。おまえがジャルジェ家の令嬢だっていうことに間違いはないんだから。それにふさわしい行動をとれよ。」「おまえに言われなくたってそうしてるつもりだけど。」なんだか会話を続ければ続けるだけ居心地が悪くなる気がしてくる。いつもよりずっとにこやかに言われてはいるのだが、それゆえにますますシャットアウトされているような気もして、気にいらないのである。それでも表面上はおだやかなので、こちらからケンカを売りにいくわけにもいかない。(まぁ、今に始まった事じゃないんだけどさ。)

ハンスが戻ってきて、3人で朝食をとった。今日もやたらと天気はいい。首都は海沿いなので、まだ内地よりは過ごしやすかったが、それでも風がないと海からの蒸し暑さがかえってうっとおしい。「結局電話はなかったんだよな。もう1度こっちからかけたほうがいいのかもね。」「確かにな……」「家と連絡がとれないのかい?」「うん……姉夫婦がとりこんでるんだろうと思うけどね。兄だけでなく、父や姉も理事の1人ではあるんだよ。名目上なんだけどね。まあ父は今、首都からかなり離れたところに1ヶ月ほど出張してるらしいんだ。でも姉は会社のほうにつかまっちゃってるかもしれない。もともと子どもが生まれるまで勤務してたしさ。」「そうなんだね。大変だなぁ。」なんとなく、ハンスと話し込んでしまうオスカル。

「あ、しまった!食べさせてもらっただけで悪いんだけどさ、役所に顔出さなきゃ。あまり遅くなるとあの主任、すぐどっかにバックレるんだよ。」「あ、こっちこそごめん。いろいろ話し込んじゃって。」「すまないね。でも、少なくとも選挙が終わるまではこちらにいるつもりだから、力になれることがあれば遠慮なく言ってくれよ。」と、2人の顔を交互に見ながら言うハンス。するとアンドレがうれしそうに「ありがとう。」と答えた。オスカルもつられるようにハンスにお礼を言ったが、(ほんと、アンドレって、ハンスの事気に入ってるよな。)と、ちょっとだけ複雑な気分になった。

またさっさと片付けにかかろうとするアンドレ。手伝おうとすると、いい顔をしない。(ハンスにはあんな顔をするのに、私にはその顔ってなんだよ!?)さすがに彼女の雰囲気を察したのか、その思いが伝わったのだろうか。アンドレが静かに言った。「おまえなあ、ヴィクがいるだろう?」「それがどうしたんだよ。彼がいるからって、それでおまえになにもかも押し付けてたら、それこそヘンじゃないのかよ。」「いいから、おまえは誤解を招くような事はするんじゃない。」「なんなんだよ!?さっきから聞いてれば……じゃあ後片付けは全部私がやるよ、それでいいだろう?」

仕方ないなという顔をするアンドレ。「じゃぁ、アンドレはどっか行ってて。」彼はそれに答えず、玄関から少し出たところで階段に腰掛けた。電話は玄関の近くに設置してあって、彼はそのことを忘れているわけではないのである。かなりイライラした面持ちで使ったお皿やコップを洗うオスカル。(なんだってんだよ!?何が誤解を招くだって?私が何か誤解を招くような態度をとってるとでもいうのか?)わけもなくくやしくて、うっすらと涙が浮かんでくる。(やっぱり……やっぱり彼が何を考えてるのかわからない。私のことを好きなのかと思うと、なんだか警戒してるような態度をとられてしまって、どうすればいいのかわからなくなってしまう……)

すると突然、電話のベルがまるで宿舎中に響き渡るような大きな音でかかってきた。思わず洗っていたコップを取り落としてしまうオスカル。床に落ちたそれは、派手な音をたてて割れていくつものカケラに飛び散ってしまった。その音に気がついたのか、アンドレが舌打ちをしたような気がして、ますます面白くない。しかし、それよりなにより電話だ。アンドレが出てくれたらしい。そして、すぐ声がかかる。「おい!レオポルディ−ヌ様からだ、おまえが出ろ!」しまったとも思ったが、急いで台所に向かってくるアンドレに「ほっといてよね。」とだけ言い放つ。聞こえないふりをするアンドレ。

「ごめんなさいね。取り込んでたかしら?アンドレでもよかったんだけどねぇ。」と、姉の優しい声が聞こえる。なつかしい、2人の子どもの母でもある人の甘い響き。「いいんだ。そっちこそ電話してて大丈夫なの?」「大丈夫よ。ごめんね、心配かけて。でも、こんなに早くあなたたちが気づくとはねぇ。そうとも思ってなかったから、電話もしなかったの。いたずらに心配かけたくなかったからね。」「うん。たまたまアンドレがネットで見てたらしいんだよ。」「やっぱり?そんなことだと思ったわよ。彼らしいわね……あんただと、あまりビジネス系のニュ−スなんて気にしないでしょ?」とクスクス笑うレオポルディ−ヌ。

姉の声音からは、ほとんど嫌な予感をにおわせるものがない。だが、彼女は見た目などよりずっと芯の強い女性なので、実情はどうなってるんだろうか?「で、どうなんだ?あのニュ−スはガセなの?」「ガセってわけでもないみたいだけど、なんだか、常務の1人がねぇ、ハメられたみたいなの。」「は?なんだよそれ。」「どうもライバル会社の計略にひっかかったみたいね。常務はほら、デビ−たちのバイオ進出に最も抵抗していたあの彼ね。面白くなかったんでしょ、今までは彼が社長にも対抗できるほどの位置にいたし。それが跡継ぎだからっていってデビ−にしゃしゃり出てこられてはね。。」

「そんな事言い訳になるかよ!で?インサイダ−に手を染めたってわけか?ハメられたってホントかよ。かかったふりして後ろで手を組んでんじゃないのか?」「まだはっきりとはわからないのよ。私もそこまで聞かされていないの。デビ−は対応に追われてるし、私ももう、デビ−を信じるしかないしねぇ。彼が巻き添えをくってないって証明されればいいって思ってる。」「えっ……」思わず絶句してしまう。巻き添えとはいったい……「疑われてるとでも?兄がインサイダ−に加担してるとでもいうのか?」「それもライバルの計略でしょうね。狙い撃ちされたわけよ。デビ−が次期社長候補なのは間違いないわけだから。」

「兄がそんなことにかかわるわけないじゃないか!なんだってそんな事に……」思わず怒りで声がうわずってしまうオスカル。「それは私が1番わかっていてよ。でも、ヴァクストゥ−ム社始まって以来の危機ではあるわけね。だから、軽々しい発言は一切できないし、自分はもうあの会社にそれほどかかわってるわけでもなかったんで、よけいにね。それでも名前だけは理事の1人なもんだから、拘束されてはいるのよ。」「姉さん自身は大丈夫なのか?子どもたちはどうしてるんだ?」「私は大丈夫よ。母が亡くなった時に比べたら、こんな事なんでもなくてよ。デビ−のためにも子どもたちのためにもしっかりしなきゃね。あの子たちはミリ−がしっかり見ててくれてるし。」

あまり長いこと席をはずせないらしく、慌ただしく別れの言葉をかわして電話を切る。また状況に大きな変化があれば電話するからという約束だけ姉ととりかわして。しかし、電話を切っても、脱力感に襲われてすぐには立ち上がれない。やはり大変なことになっているのだ。ジャルジェ家の経済基盤の主な部分を担っているヴァクストゥ−ム社の危機は当然、ジャルジェ家の危機を意味する。長いこと跡取りとしての意識を持っていたオスカルにとっては、その危機に際して何もできず、遠い外国にいて飛んで帰ることもできない自分がなんともはがゆかった。だが、隊員としての責任も、彼女にとっては絶対ないがしろにはできない事なのである。そう、第2のジジを出さないためにも。

アンドレはオスカルに声をかけようとした。したのだが、3階から降りてきたヴィクが座り込んでるオスカルの元に駆け寄った。その彼の後姿に、思わず目をそむけてしまう。割れて飛び散ったコップのかけらを片付けるのはもう終わってるのに、まだそれを続けているふりをしてしまうのだが、実際どこにも行きようがなかった。その場を離れてしまうこともできず、かと言ってヴィクの前に出ることもできない……「アイス・ロ−ズ!どうなさったんですか?」「あ……ヴィク……」彼女の声の響きが気になる。神経にさわる。

本当ならばオスカルから電話の内容を聞かなければならない。だが、彼女はそれどころではないのだろうか。わかっている。いくらおれがジャルジェ家にひきとられたからといって、こんな時に何ができるというのか。何もできないのだ。自分には何もない。何者かさえわからないのだから……アンドレは、何もしてこなかったわけではない。何もないとわかっていたからこそ、オスカルの父が望んだ教育を受けもしたし、このように世話にならなくてすむほどの社会人にならなければと必死だったのだ。なにせジャルジェ家には優秀な人物が多く、元々の基準が違う。

「そんなこともできないの?」という批判的な目にさらされて生きてきた。彼がジャルジェ家に関わっていく資格をキ−プするためには、元々ジャルジェ家に生まれた人間よりもずっとシビアな条件をクリアしていかなければならなかった。オスカルにしたって、自分のできる事は当然アンドレにだってできるはず、そんな風に考えているふしがあった。決してバカになどしていないのだが、無邪気にそう考えているようで、かえって始末に悪い。アンドレの家事おたく化が進んだのも、元々はオスカルに大して必要がない能力だったからだ。

「そんなこともできないの?」と言いながら、実際ジャルジェ家の人間より見事にやりおおせてしまうと、今度は「生意気な」とくる。だが、家事などは基本的に上流の人間が大騒ぎしてかかわるような事ではない。アンドレはそれをやることで、上流の人間に対する予防線を張ったのだ。もちろん家事的なことが好きだった事が1番の理由だったのだが、どうせ使用人か、いや寄生虫でも見るかのような態度をくずさない連中もいたわけで、あえて彼らの裏をかくような態度に出たわけだ。実際そのうち、「やっと身の程をわきまえたか」とでもいうような一族全体の見解ができあがったらしい。

これがジェルジェ家の人間と張り合うような種類のことだったら、絶対ひどい反発を食らっていただろう。もちろん、ジェルジェ一族の人間が物分りの悪い差別的な人間ばかりなわけではない。いや、どちらかといえば、実力や能力のある人間には非常に好意的で、それゆえヴァクストゥ−ム社も同族経営ではなく、外部から有能な人間を社長に据えてきた。だが、アンドレは引き取られた当時、心理的なショックが大きい状態であったため、反応は悪いし表情もないし、上の空でさっぱりだと思われてしまったのだ。最初の印象があまりに悪すぎた。

それ以降も、彼は無口でヒトを寄せ付けず、愛想なしだったため、彼と非常に近い立場にあった数少ない人間以外は、彼を「恩知らずで生意気なガキ」だと思い込んでしまった。もちろん、本家に引き取られ、財産分与その他でも目障りになりかねない存在だったことがそれに拍車をかけた。オスカルの父は一族の間でも圧倒的にカリスマ的な存在であったため、アンドレを引き取ったこと自体はしぶしぶ承知したが、それもアンドレを養子にはしないと決めたからである。この一族はみな信仰心も厚く、それゆえに孤児を引き取って育てること自体には反対しきれなかった。

だが、「時間」が、「時代」が、状況を変えていった。アンドレがオスカルとさえベタベタせず、一線を引いた態度でいること、大学に入ると同時に家を出て寮生活を始めたこと、ましてヴァクストゥ−ム社などとは全くかかわらず、社会人としても職業人としてもなかなか有能だということが、20年近くかかって一族全体に浸透していったのだ。成人した彼のたたずまいもまた、ジャルジェ家の一員としてもすっかり見劣りしないものになっていた。それゆえ表面的には、彼はすっかりジャルジェ家の、一族の認める存在にはなっていたのだが...

だが、アンドレのほうでは、今までの経過を忘れかねているところが大きかった。どっちにしろ、あくまでも「認めてやってるのだからありがたく思え」であるし、「所詮何事かがあってもかかわらせない」なのは変わってないのだ。そして、アンドレのほうでも「ありがた迷惑なんだよ」「こっちこそお断りだね」という気持ちが強くあるのである。オスカルに対してでもどうしたってそのような気持ちを抱いてしまう。そのくせやっぱり彼女が好きなのだ。彼女がお嬢だという事実は彼に、彼の立場を思いしらせてもくる。だが、それゆえにかわいいところもたくさん見えてくるので、結局彼女以外の女性が目に入らない。

だが...今まではジャルジェ家そのものの根幹を揺るがすような事件が起こったことはなかった。オスカルの母が亡くなったり、キ−スやエレ−ンの事件があったりしてきたけれど、それはあくまでもプライベ−トの色彩が強く、オスカルもアンドレもこのような危機的状況は初めてのことなのだ。それゆえ、オスカルがどのような反応をし、それをどう行動に表していくのか、アンドレにも把握しきれない、自信がもてない部分があった。それこそ、生まれてすぐ亡くなったという兄にそっくりに生まれつき、そのまま名前を継いだような存在なのだ。

物心ついた頃からジャルジェ家の後継者として生きてきたのである。彼女を生んだ母親はもう、これ以上の出産は望めなかった。オスカルは男性的な傾向もかなりのものではあったが、かといって、それを意識して育てられたわけではない。ジャルジェ家の家風として質実剛健には育てられたわけだが。なので、結婚となれば家同士のことで、それも一種の「ノ−ブレスオブリ−ジュ」だという意識が彼女にないわけはない。だからこそ、父親から第1候補としてアンドレの名前が上がった時にうろたえてしまったのだ。ジャルジェ家の後継者のはずの自分が、彼と結婚していいのだろうかと。

今ならわかる気がしているわけだが、あの当時のオスカルには納得いかなかった。あまりに無鉄砲で自分の信じる道に向かって走り出してしまう性格。頭から「父と同じ軍人になる!」と思い込んでいて、確かに能力的には十分であるけれど、とても認めるわけにはいかなかったのだ。基本的にはお嬢さん育ちなのに、大の男でも音を上げるような状況をわざわざ選びそうで、ましてその存在自体が目だって仕方ないのだから、「狙って殺してくれ」と言わんばかりではないか。軍人である父親は、そのような存在は決して軍のためにはならないとわかっているのである。

あの当時のオスカルは、とにかく父以外の男性に関心はなかった。今もそれを引きずっているほどで、男まさりのように見えてもいたが、内心では父性的な男性に惹かれる傾向もある。そしてこのお嬢さん感覚を残してしまった原因の一端はアンドレにもあったのだ。彼自身は「だんな様と比べないでくれ」と思っているにもかかわらず、実際には「だんな様のようになりたい」という気持ちが結構強かった。ついついオスカルをルナの天使にように見上げてしまい、自分もルディオンのごとく彼女を崇拝してしまってる。だが、オスカルもアンドレも、お互いその部分を認めたくなかったのだ。いつまでもどこかお嬢さん感覚の抜けない弱さ、そのお嬢さん感覚のままで、自分に依存させてしまいたくなる弱さを。

「アイス・ロ−ズ、こちらにいらっしゃってください。」そう言ってヴィクがオスカルを扉の外に誘導する。玄関口から下に続く階段の途中に木陰になってる部分があって、並んで腰をかけるが、あえて声はかけない彼。彼女が動揺しているのは明らかで、だがそれを追求はできない。したくない。彼女が話したければ話してくれるはずだ。もちろんヴィクはアンドレにも気がついていた。だが、彼女が座り込んでいるというのに、なぜすぐ傍にいてやらないのか?支えてやらないのか?(あなたがそうなさらないのなら、この私がそうさせていただきますよ。)

アンドレは割れたコップのかけらを袋に集め、それを1階の洗濯機の傍にある不燃物入れに持って降りた。1階へは玄関側から降りるようになっていて、嫌でも2人が並んで座っているのが目に入るのだが、敢えて関係ないとでも言いたげに目をそむけその場を足早に離れた。左側の幾つもある本棚をすりぬけ、右側の扉から外に出る。あまり手を入れられてはいないが庭になっていて、脈絡のない組合せだがあれこれ木々が植わっていた。この暑い時期でも結構緑をつけており、植物の強さ、順応性に感心せずにはいられない。だが自分ときたら...

なぜオスカルが自分を呼ばないのか、ヴィクをあんなに傍に近づけているのか、こんな時に...!こんな時だからこそ、なんだかんだ言いつつ誰よりもおれを頼りにしてるんだと、そう示して欲しいのだ。そうしてもらえさえすれば、おれはどんな事をしてでもオスカルを...いや、やっぱりダメなのだ。オスカルにはわかっているのだ。おれでは足りないんだと。ヴィクならば、ジェロ−デル家の長男の彼ならば、ヴァクストゥ−ム社の危機にさえ力になってやれる、それこそが彼女の相手として最もふさわしい。(オスカル、もう、おれの出る幕は終わったわけだよな?)

不燃物入れの周りにはたくさんのビ−ル瓶が置いてあった。こちらでは、瓶類は店に持ち込めば回収してくれて少しお金も戻ってくる。そうやって回収された瓶をまた製品にしているので、宿舎でも瓶がたまったらまとめて持っていってもらっていた。今、2人は階段に腰掛けて何を話しているのだろうか。ここからでは見えないのはもちろん、何も聞こえもしない。しないのに、見えるようで、聞こえるようでたまらなくなった。アンドレは思わずビ−ル瓶を手にすると、庭の花壇を形成している土に埋められたブロックに思い切りたたきつけた。「いてっ!」

ビ−ル瓶は派手な音をたててくだけ、その仕返しのように一片がアンドレの頬をかすめた。あまり大きくないカケラだったので傷も大げさではないのだが、やはり顔面は血管が集まっているので血が流れる。思わず傷に手をやってしまって、ついた血を眺めるアンドレ。今度は笑い出さずにいられなくなってしまった。自分の愚かしさや情けなさに。(おれは...これ以上ミジメな気持ちになりたくないんだよ。)またバラバラに飛び散った瓶のカケラを集める羽目になるが、どうも注意力が散漫になってるらしく、手まで切ってしまった。だが、あまり痛みを感じない。知らず知らず、彼女をあきらめようと、思い切ろうとすればするだけ現実感を失ってしまう...

オスカルはオスカルで、アンドレに電話の内容を告げなければならないとわかっていた。だが、あまりに動揺している自分を見せたくない、押し付けたくないのだ。「ジャルジェ家の人間にふさわしい行動をとれ」と言われたばかりではないか?しかも、やたらお嬢さんを連発してきて、つまり自分の言動が甘っちょろくみえるというわけだろう?確かに自分には悲しいかな世間とはずれている部分がある。JBでも、スタッフがフォロ−してくれるからいいものを、ついやりっぱなしにしたり、何かをしてもらった時にも当然のように受け取ってしまう事があった。ここはジャルジェ家ではない、周りの人間は決して使用人ではないのに!

怖いのは、それを無意識にやってしまってるという事。判断基準そのものがジャルジェ家仕様になってしまってるから、医療現場のヒエラルキ−の中でもついそれを出してしまって、反発を食らう事もたびたびあった。特に上司にあたる教授クラスとどれだけやりあってしまったか...だが、コメディカルや看護師といった職能の人たちも、私が「医者だから、ジャルジェ家のお嬢さんだから」ということで、だまってついてきてくれてたに過ぎないのだ。こちらでも、あまり緊急性の高いハイレベルな事をしないからまだしも、そうでなかったらどう思われていたことやら。あの気に食わない調整員が、手をたたいて喜ぶような事になっていないとは限らないのだ。

「アイス・ロ−ズ、暑くないですか?風があるから今日はまだマシですけど。」だまっていたヴィクがとうとう口を開く。しかし、何事でもないような口ぶり。あまり彼女を見ずに、道路を挟んで向かいの屋敷の佇まいや庭に目をやっている。このあたりはいわゆるお屋敷街だった。外国人、特に元宗主国の住居が多い。宿舎の持ち主もそうである。元々はアロンガルの隊員数はそれほどでもなかったので、宿舎の広さも丁度よかった。だが、近年毎年のように増加傾向にあるため、事務所も引越しを検討しているにはいたが、なかなか折り合える条件の物件が見つからずにいる。(よく考えてみると、本当にアイス・ロ−ズと同じ国、同じプロジェに派遣されるなんて、ものすごく運が良かったんでしょうね。)

「大丈夫だよ。確かに風があって気持ちいいね。」と、そこまで言って、また口を閉じてしまうオスカル。だが、今はヴィクといるほうが気持ちが楽だった。ヴィクもまた、自分と同じく、世間一般からのずれに悩んできた人間で、こうして動揺してしまってる自分でも平気で見せられた。彼は自分にとって、とても気安い存在で、癒されもする。しかし一方で、どこか窮屈な気分にもなった。彼自身がどうというより、彼の後ろに控えているジェロ−デル家、つまりは個人より、家と家というような面が重いのだ。しかし、現状ではどうなのか。

「ごめんね。上京させちゃったり、電話番までしてもらってるのに、ずっと心配かけてばかりで。でもあまり心配しないでよ。今の電話にちょっとダメ−ジ受けはしたけどさ、そう悪い内容じゃないんだ。だから...」すると、ヴィクはオスカルの瞳をジッと見つめて言った。「愛する女性の事が気になるのを、お許しになっていただけませんか?こんな私では頼りないとお思いになられるかもしれませんし、それも当然なんですけど、どんな事になっても「結婚を前提に」と申し込んだ気持ちは揺るがないのですから。」そう宣言して頬にキスする彼。反射的に体を少し縮こめてしまったが、悪い気はしない。

「アンドレ!?どうしたんだよ、その傷・・・」彼を探しにきたオスカルは、びっくりして彼に近づいた。ヴィクは事務所に用事があるからと言って出かけたし、彼女もロイの家に行かなければと思ったのだ。3階の寝室で、薬箱をあさっている彼は、無言のままである。「だから言ったじゃないか。私が片付けるって。」「おまえには関係ないよ。」「じゃあどうして?」「おれがどんなに器用でも、おまえの割ったコップのかけらで頬の怪我はできんよ。下のビ−ル瓶を片付けててあやまってわっちまったんだ。おまえのせいじゃないよ。」

さほどきつく言われたわけではない。だが、かえってオスカルは返す言葉を失ってしまった。「関係ない」という言葉ばかりが響く。それでも、彼に先ほどの電話の内容を話す。今度はとても反応がいい。だが、ヴァクストゥ−ム社から少し離れたジャルジェ家の話題などをふると、さっぱり気のない返事を返したりする。なんなんだろうか、怒ってるわけでもないが、かと言っていつものアンドレとも言いがたい気もする。「ロイの家に行かないか?これから。」「ああ。」タクシ−を拾って彼の家に向かうが、2人とも終始無言のままであった。

「あれ?来てたのかい?」大統領選挙まで、あといくらもない。ロイもベルナ−ルも、かなり追い込み態勢に入っているようなので、あまり長居もせずに戻ってきた。そうは言っても2人と話すのが気晴らしになるらしく、なんだかんだと話し込んでしまうので、進捗を滞らせないためにも帰ってきたわけだが。「ええ、来ちゃいましたよ。」そう言ってにっこりと笑うのは、陽によく焼けた顔のルルだった。「おかえり。夕食どうしようかって言ってたんだ。ヴィクもさっき戻ってきたしね。」と、ハンス。「こいつさあ、選挙の事、さっぱり忘れてたんだってさ。」

「え?それで上がってきたのかい?」とオスカル。「はあ・・・ぼくのとこには事務所からのお達しなんて、来たことないですよ。仕方ないんですが。なんで、なんかいつもと雰囲気が違うんでまごついてしまいました。ぼくが着いた時に宿舎には誰もいないし。」これまでは、あまりしゃべらない様子だったのだが、隊員として貫禄がついてきたように見える。ちょっと見ないうちに大人になったような。「でも、先輩がたはどうされたんですか?同期のみなさんでお揃いで。」「ああ、ちょっとね。」と、オスカルの顔が少し曇る。だが、ルルはそれに気づかないふりをした。今までの彼ならば、思わず口を出してしまうところだったが、ラリ−の時のことも思い出されてそれはためらわれた。

いよいよ選挙が行われ、結果が出た。予想されていた通り大統領は再選した。しかし、選挙前よりも選挙直後のほうが治安が悪くなる。軍にしろ警察にしろ、選挙が終わってしまえば警備が緩くなるからだ。そう激しい反応があるわけではないが、大勢で騒いでけんかに発展したりは数え切れず、発砲事件だの、駐車してる車への火付けだのがあったりする。そして、ベルナ−ルが巻き込まれた。選挙後もあちこち取材活動を続けていた彼は、明らかに銃で狙われたようなのだが、運良くはずれて怪我することもなかった。「多分外国のジャ−ナリストが目障りだったんだろうな。」と。このような事を怖れていては取材などできやしなかった。

ヴァクストゥ−ム社のごたごたは、なかなかおさまりそうもなかった。ただ、流れとしては「インサ−ダ−取引未遂」という裁定が下りそうで、それ以外に指摘されるような問題も発生しておらず、収束の方向に進みそうである。だが、対外的なダメ−ジは簡単に払拭されるわけではない。実際、社内がもめていることに変わりはなく、株価の下げもいまだ完全に止まってはいない。本来ならば新規公開を行うはずが、もちろんそれも座礁してしまっている。ジャルジェ家の出身で、やや風変わりな国会議員がヴァクストゥ−ム社の件で彼らしいコメントをして、それがマスコミで話題にもなったりしてるようである。問題になるほどでもないが、苦笑いしたくなるような。

「なんかきりがないし、私たちも一旦任地に戻るかな。」と、オスカルがためいきをつく。アンドレは相変わらずで、ヴァクストゥ−ム社の件以外にはあまり話にのってこない。あからさまに避けられてるわけでもないが、必要以上には接してもこないので、こちらもいかんともしがたい。ヴィクは風車の件で何か気になることがあったらしく、昨日慌てて任地に戻っていった。ハンスも選挙が終わって、ティナのマリ−から「そろそろ戻ってきなさいよ!」という電話をもらったらしく、「ちぇっ」と言いながらもうれしそうに引き上げていった。その代わりに今まで上京できなかった隊員たちがやってきてて、宿舎はいつもよりにぎやかになってきている。

ヴァクストゥ−ム社や実家のことは気がかりだが、あんまり任地のこと、プロジェのことを放っておくのも気がひける。診療所のみなは、そして近隣の村の人々は、自分たちを待っていることだろう。あまり長居して他の隊員に腹をさぐられるのも好ましくないし、正直言えば・・・よそよそしい態度のままこう着状態に陥ってる自分とアンドレをどうにかしたかった。一緒に仕事をしている時が1番スム−ズにいく。JBで働き出して以来、プライベ−トではけんかになっても、不思議なくらい職場ではうまくやってこられた。こちらに来てからでもそうで、致命的な決裂を回避できたのは、常に「医療人としての使命が第一」という意識が存在しているからである。お互いに。

アンドレに提案したところ、「それもそうだな。」とあっさりした返事が返ってきた。それで、今までのお礼をロイやベルナ−ルにのべ、週末の訪問の約束を取り付けた。週末は総会が終わるまで、ティナに劇の練習に行かねばならず、そのまま上京することにしたのだ。もちろんその前に決着がつけばいいのだが・・・。ベルナ−ルはまだ首都に居残って取材を続けるらしいが、総会の時にやる劇はぜひ観にいくからとうれしそうである。ロイともすっかり意気投合したようで、彼も誘って行こうという話だ。ルナなので、言葉がわからなくてもおおよそ検討はつくし。

列車のチケットをとって宿舎に戻る。すっかりにぎやかになっていた。どうやらオスカルたちの隊次の1つあと、フリデリ−ケたちの隊次の隊員が1人任国外で来たらしく、ルルが夕食の準備にと走り回っていた。それで彼は上京してきたのである。そこにオスカルとアンドレも合流した。なんといってもアンドレはこのような時、最も頼りになる人物なので、ルルが喜んだのは言うまでもない。やってきた隊員は海のない国に派遣されているらしく、それを知っているルルは魚介類を市場で仕入れてはきたものの、買いすぎで頭をかかえていたところだった。期待以上の食卓に、すっかり盛り上がる隊員たち。

そこに4月に赴任してきたばかりの新隊員が、村でのホ−ムステイを終えて帰ってきた。今回は5人だがプロジェ組はいない。それでも交代要請の看護師や検査技師がいて、アンドレも珍しいくらい彼らと話をした。これまでの彼を知っている隊員は、「アンドレって意外としゃべるんだなあ」と感じたほどである。むしろオスカルのほうがだまって話を聞いているくらいだった。もちろんしゃべると言っても「普段と比較すれば」なわけだが、機嫌もよい感じで、これはここぞとばかりに質問を始める人もいる。任地が離れていると、国内にいてもお互いの事はあまり知らないままなのだ。

明日は朝1番の電車でカオラに帰るので、あまり調子にのって酒盛りになだれこむわけにもいかない。まだ新隊員はお客様扱いだし、ルルたちにもお客さんが来ているので、オスカルとアンドレが主な片付けをやった。ヴィクがいないからだかどうだか、全く病院での作業のようにすんなりと一緒に行える。それでホッとするオスカルだった。それでもアンドレはあまりしゃべらない...というか、時間が経つにつれて無口になっていくようだった。何か考え事があるのか、気をとられているというか。それでもこの数日を思えば上出来である。

2人でビ−ル瓶を階下に運ぶ。この時期は暑さもピ−クで、水代わりになってるものだから、あっという間に瓶だらけになってしまう。「重くないか?」「あ、全然平気だよ。」(お嬢さん扱いもされなくなったし、機嫌もいいし、いつもこうだといいんだけどなあ。)そう思いつつ彼の横顔を見る。頬の傷がすっと入っていてなんだか妙な感じだ。するとアンドレが「なんだ?何見てんだよ?」と聞いてくる。「いや、その頬の傷、痛くなかったかなって。」と、彼女が答えたら、「なんだか出来の悪い不良みたいだろう?」と言って笑う彼。

すっかり瓶を下ろした時だった。アンドレがオスカルに、「ちょっと話があるんだが、いいか?」ともちかけた。「ん?いいけど、何だ?」庭にあるベンチに座る2人。「帰国してからの事なんだが...転勤願いを出そうと思うんだ。」「...はあ?」あまりにも急な申し出に、言葉を失うオスカル。JBは軍管轄で、彼らはいわゆる公務員だが、必要があれば勤務地の移動はあるし、それを願い出てもいい。首都のJBで経験を積んで故郷の国立病院に移動するものもいた。だが...「もちろん、ジャルジェ家の許しを得なければならないのは承知だ。」

「おまえ...本気で言ってるのか?」「そうだが?冗談で言ってどうする?」確かにアンドレの表情には、冗談のカケラも見えない。オスカルから視線をそらしたアンドレは話を続けた。「今までさんざん世話になっておいて、勝手な事を言うなと思われるのは百も承知で言ってるんだ。」「...それで、どこに行こうってわけなんだ?」彼の声がおだやかすぎる。こちらが感情的になるわけにはいかない。「そうなるかどうかは別にしても、できたら...できたら、おれが引き取られていた孤児院の近くに行きたいんだよ。」静かな目をして語る彼。

これまでは、彼はその地を訪れる事を拒否していた。行ったところでその孤児院自体がすでに跡形もなくなっており、無理に思い出そうとすればかえって精神的にきつい思いをする。そう、かなり前になるが以前1度、オスカルの父に連れられて行った事があったのだ。それ以来、その土地の事は全く話題にさえしてこなかったというのに...一体どういった心境の変化なのか?(...あっ!)オスカルは大事な事を忘れていた事に気がつく。「ごめん、アンドレ、言ってなかった事があるんだ。夢の話...」「夢?」「最初にロイの家に行った日の事だよ。おまえ、途中で寝ちゃっただろう?その時...」

いぶかしげな顔のアンドレ。やはり全く覚えてないのか...「おまえさあ、寝言を言ったんだよ。「かあさん」って。」「かあ..さん?」そうだけ言って絶句する彼。「なんだろうなぁ、おれは寝言ってほとんど言わないんだが。夢を見てたのか?その時。」「私もそう思ったんだよ。でも、後で聞いたらおまえ、「夢も見ずにぐっすり寝てた」って...」「ああ、全然覚えてないよ。」残念ともなんとも言えない表情になる彼。「...何か、思い出せるかもね。おまえが行きたいって思ってる場所に行けたら。」「そう...だな。そうだといいんだが。」

「でも...それだけなのか?おまえが首都からも、家からも離れて行こうとするのは...」そうではないという気がしてならない。不安な気持ちが徐々に彼女の心を覆っていく。「ヴァクストゥ−ム社は、ジャルジェ家が母体ではあるから、今回はなんとかもちこたえられるとは思う。だが...」「だが、なんだよ?」「おまえはヴィクと結婚するんだろう?」彼の言葉に一瞬心臓が止まったような衝撃を受けるオスカル。いや、その話を持ち出されるかも?と、どこかで予感していたはずなのに、実際言われると自分でも驚くほどに反応してしまう。

「そんなのわからないよ。」「そうは言っても、今回の件でヴィクは意思表示してきてるんだろう?あいつはあのジェロ−デル家の長男なんだし、ヴァクストゥ−ム社のためにも、ひいてはジャルジェ家のためにも、この結婚は望ましい話じゃないか?」彼の冷静な話し振りが気になる。彼は私を説得しているのか?「それで?私がヴィクと結婚したら、もうお嬢さんのお相手からも、いつ破産するかわからない家からも開放されるってわけか?」頭にきて、少々意地悪い言い方になってしまうが、それでもアンドレの表情はほとんど変わらない。

「ああ。ジャルジェ家はレオポルディ−ヌ様とデ−ビッドがしっかり後を継がれるのだろうし、おまえはジェロ−デル家に嫁ぐわけだ。おれの存在自体、もとからジェルジェ家にたいした意味を持ってたわけでもないし、おまえがおまえの人生を歩むように、おれがそうしてはならないか?」じっとオスカルの瞳を見つめながら、アンドレが静かに、しかし、確固とした口調で話す。オスカルは、言いたい事はあるはずなのに、何を言えばいのかわからなくなっていた。「それとも...おれにはそうする選択権もないのか?」「そんな事は言ってもないし、思ってもいないよ!でも、私はまだ彼と結婚するって決めたわけでもなんでもないんだ。」

「...そうか?だがおれは、おまえがヴィクと結婚するのがおまえにはふさわしいと思ってるよ。」彼は、アンドレは本気でそう考えているんだろうか?だが確かに、今目の前にいる彼からは、自分に対する何かが欠けている気がする。それはつまり...「ふうん。じゃあ、おまえは私が彼と結婚すればいいって思ってるんだな?」「おまえがそれを望んでるんだろう?だからヴィクとつきあってるんだろう?おれがつきあえとか、結婚しろとかって指図してるわけじゃないだろうが?」だんだんアンドレの口調がきつくなってくる。「ああそうだね。私が好き好んで彼とつきあってるんだよな。だったらおまえも好きにしろよ!」こっちも負けてはいない。

「ああ、そうさせてもらうよ。おれはジャルジェ家から離れたい。もう、たくさんだ。」そう言い放つアンドレ。オスカルは、なんだか目の前が真っ暗になってしまう気がした。これが彼の本音なのか。彼は...彼はジャルジェ家が、ひいては私たちが嫌なのか。彼がうちに来てもう20年にもなる。その間、他に行き先もないからと、我慢し続けていたんだろうか。いや、律儀な彼は、自分を押し殺してまで、借りを返そうとして成人してからもずっと...オスカルの瞳に涙があふれてくる。つまり彼は、私に対しても義務感から傍にいてくれてたわけか?同じ医療人を志してくれてまで...

「あまりこんなところに長いこと2人でいると、何を噂されるかわかったもんじゃない。行くぞ。」そう言ってアンドレがベンチから立ち上がる。「行ってよ。私はもう少し、ここにいたいから。」「そうか?じゃあお先に。」そう言って振り返りもせず宿舎内に戻っていくアンドレ。だが、オスカルは立てないでいた。涙があふれてきて、心がいたくて、一体どうしてこんな事になってしまったのか、呆然ともしていた。アンドレは、もう自分のことなどなんとも思ってないというわけか。ヴィクにまかせて、新しい人生を歩もうというわけか。だが、それを止める権利は、確かに私にはない...ないけど...

(そんな目で、涙まで浮かべておれを見てくれるなよ!決心がにぶるだろうが...)アンドレは足早に階段を上がると、そのまま玄関から外に出た。じっとしておれない。そのまま夜の首都を歩き出す。(おれはもう、おまえには必要ないんだ。いや、必要だったことなぞありゃしなかったのでは?必要とされてるって、おれがそう願望してただけでな。おまえは、医者としても、社会人としても、おれなどよりずっとうまくやっていけてる。おまえを好く人間は男女問わず多い。そして何より、これからのジャルジェ家はおまえを必要とするだろう。おれは足手まといになりたくないんだ。こんな風にいつまでも執着してるおれでは...)

2人が戻ったとき、任地は大騒ぎになっていた。いや、重い空気が垂れ込めていたというべきか。戻ったその足で診療所に顔を出してみる。今までの不在を謝りたくて。「隊長にアンドレ、戻ってきたのかよ?」ひさしぶりのアランの顔。なんだか様子がおかしい。「どうかしたのか?」「...そっちこそもう大丈夫なのか?聞いたぞ、あまり詳しいとこまでは知らんがな。」「ああ、いつまでもキリがないし、どうすることもできないんで帰ってきたんだよ。で、こっちは何があったんだ?」話したがらないアランに不安になるオスカル。

すると、村廻りから戻ってきたゲルトル−トが3人を見つけた。「アイス・ロ−ズ!アンドレも、戻ってきたの?もしかしてヴィクから聞いたから?」「ヴィク?彼がどうかしたのか?」思いがけない顔になるオスカルに、しまったという顔になるゲルトル−ト。だが彼女は顔を上げて話し始めた。「まだ何も聞いてないのね?どうせわかる事だし、プロジェのリ−ダ−であるアイス・ロ−ズには真っ先に報告しなくてはならないのよね。ただ医療プロジェに直接ってわけじゃなく、風車のことなの。」そして、ゲルトル−トの顔が曇る。

やっと申請が通った小型の風車がカオラに届いていた。そう、風車組がレストランに行ったのも、届いたことに対するお祝いと、無事な完成を祈ってのことでもあったのだ。結局イオスは職場に滞在の延長を説き伏せ、とにかく雨季に入る前になんとか組み立てて、稼動させてみようということになったのだ。やはりというかアロンガルらしいというか、自家発電に関しての許可がなかなか下りないでいる。こうなったらフライングでもいいから完成させ、現場を見せようとなったのだ。百聞は一見に如かずということで。

とは言っても、モ−リッツももちろん、イオスだとて小型の風車を扱うのは初めてだった。まして母国製でもない。アロンガルの元宗主国ではなく、ギリアン語圏のもので、当然マニュアルもギリアン語。彼らは学生時代にギリアン語を必須科目にしていたが、社会人になってからは日常的に使うとは限らず、ましてや専門用語の連発である。イオスもモ−リッツもヴィクもギリアン語に関してはそれなりに通じてはいたが、それでも辞書と首っ引きになりながら解読しなくてはならない。マニュアルと格闘した結果、なんとか設置を試してみようというところでヴィクは上京したのだ。アイス・ロ−ズと。

実際の設置作業は、プロであるイオスとモ−リッツの出番である。もちろんヴィクもできる限りの努力をするつもりだ。全ては自分の考えでスタ−トしたことで、今までもこれからも、全責任は自分の肩にかかっている。だから他のことには脇目もふらずに来たのだ。アイス・ロ−ズの事がどれだけ心配でも、それでも彼女の望まぬかかわりまで求めようとも思わない。それゆえ、彼女を送ってメドをつけ、すぐにでも風の谷に戻るつもりでいた。けれど、ヴァクストゥ−ム社の件でショックを受けている彼女を置いて帰るのがためらわれ、結局選挙が終わって首都が落ち着くまではとなった。

だが、モ−リッツからの進捗報告の電話かと思って受話器をとってみれば...しかし、アイス・ロ−ズにそれをくわしく聞かせたくない。ヴィクは何気ない素振りでカオラに戻ったのだ。「首都も落ち着いてきましたし、風車も設置が進みつつありますから。私が一応リ−ダ−なのに、かかわれないのではくやしいですからね。」そう笑って。それでオスカルは任地の異変に気づかなかったわけだが、話し出したゲルトル−トの表情には、くやしさとわりきれなさがにじんでる、そんな雰囲気だった。

ヴィクが電話を受けた日、朝から風の谷に出向いたモ−リッツとイオスは、信じられない光景を目の当たりにした。設置しかけた風車のキットがめちゃめちゃにされていたのだ。谷には普段、ほとんど人は入ってこない。別段近隣の住民から避けられてるとかいうのではないし、神聖な意味のある土地と認識されてるわけでもない。ただひっそりと存在する、そんな区域だった。もちろん、ここに風車を建設するということを告知するために、時間をかけて近くの村々やカオラの街の有力者に根回しもしている。そのためやや油断した感もありはした。一応目立たぬようにはしていたのだが。

だが、問題はそれですまなかった。谷中をモ−リッツとイオスが確認のために見て廻ったところ、そこだけちょっと草むらになっているところに...子どもの死体があったのだ。見たところ10代前半といった感じで、だがその姿は異様だった。谷なので、転落死の可能性が高いとは思ったものの、どうもそうとは見えないのだ。粗末な衣類で見えない部分以外には、殴られたような跡が無数についており、よく見れば火傷の跡のようなものまで。だがそれと判断できたのは、2人が驚いて現場に呼んだゲルトル−トのおかげだった。しかも...「なにかしら。注射針の跡みたいなのもあるわよ...」

「それって、まさか...?」聞かされたオスカルもアンドレも、事の顛末に呆然としてしまった。だが、彼女は上京する前にゲルトル−トとかわした会話を思い出したのである。「どうもそのまさかよ。もしかしたらって思って身内のものを呼びにやったら、やっぱりそうだった。」「まさかって何のことだ?」アンドレが思わず口にする。「そうか、あんたは一足先に上京したから知らなかったわね。突然いなくなってしまってたの、その子。だから、神隠しにあったんだって噂になってて...」とうとうゲルトル−トの目から涙がこぼれる。

アイス・ロ−ズに抱きついて泣き出すゲルトル−ト。気丈な彼女が人前で泣くのを見るのは初めてのことで、オスカルもまた涙をこらえようとして、そうできなくなっていた。ゲルトル−トはさばさばした性格ではあったが、子どもや弱者に対しては思い入れが強く、ジジの件でも相当こたえていたのだ。何もしてやれなかったと感じたのはアイス・ロ−ズだけではない。今回は直接関わりはなかったものの、そのむごい死に方、いや殺され方を目にして、許しがたい怒りとやりきれなさを自分のことのように感じていた。「どうして?どうしてこんな風に殺されなきゃならないの?」だまったまま立ち尽くし、泣いている2人を見つめるアランとアンドレ。

「ヴィク...そばに行ってもいいか?」多分自分を気遣って、何も告げずにカオラに戻ったのであろう彼に、何か一言声をかけたい。そう思って彼の家を訪れた彼女だったが、そこには電気もつけず、自室の隅に座り込んでいるヴィクの姿があった。「アイス・ロ−ズ...戻ってらっしゃったんですか?」びっくりする彼。だが、かなり落ち込んでいる様子なのは一目でわかる。「うん。あっちはもう、きりがないしって思ってさ。でもまさか、こんな事になってるなんて。」「お聞きになったんですね?お耳に入れたくはなかったけど、それは無理ですから、少しでも後でって考えたんですよ。」そう言ってまたうつむいてしまうヴィク。

そのままヴィクの近くにすわって、何も言わずにいるオスカル。やはり言葉がなかなか見つからない。ヴィクのほうもそうだったが、なんとか少しずつ口を開く2人。「...風車をめちゃくちゃにしたやつと、男の子を殺したやつは、同じなんだろうか。」「そうですね。断定できませんが、その可能性も高い気がします。」「でも...捜査なんてまともに行われないんだろうね。」「ええ...残念ながら。この国ではまだ、警察は元宗主国の有力者かこの国の権力者のためにしか動かないですからね。せいぜい。」そう、それが現実である。

仮に隊員が殺されたとしても、ほとんど期待できないだろう。ただ、元々この国の人間は、殺人などめったに起こすこともなかった。医療がまだ未発達のアロンガルでは、死は日常茶飯事であって、生き残った成人のたくましさや寛容さは先進国のそれより大きい。肉体的な飢えと精神的な飢え。どちらもやっかいではあるが、例えどれだけ金を積んでも避けられないストレスは存在していて、それゆえアロンガルの人間は決して不幸ではなかった。だが、その国にもたらされる殺伐とした内政干渉はいただけない。南の鉱山の発見以降、外国人の流入とともに事件も増加していた。

「風車はどうなんだ?直せそうか?」「まだなんとも言えないんですが、イオスとモ−リッツが点検してくれてますよ。私にはわかりませんし。どうしてもダメなら、修理に出さないといけませんがね。」「そうか...直るといいね。」そのまままた無言になってしまう2人。だが、意を決したように、ヴィクが口を開いた。「絶対直しますよ。どんな妨害にあっても、風車は完成させます。あれは...あれはジジの鎮魂と、この国の平和と発展を祈るための証しなんですから。」そう言ってアイス・ロ−ズの瞳を見つめる彼。今の今まで自分からジジのことは極力持ち出さなかった、それは彼女に押し付けがましく思われたくなかったからだ。

(そして何より...アイス・ロ−ズ、あなたの悲しみを癒したかったからですよ。)口には出さなくても、ヴィクの瞳が全てを物語っていた。長い間憧れてきた彼女の瞳には、今この瞬間、自分だけしか映っていない。もうこのまま、ずっと自分だけを映していてほしかった。そう願うのはあつかましい望みなのだろうか?彼女の青い瞳にすいこまれるように、すっと顔を近づけるヴィク。彼女の金髪が少し揺れて、反射的に目を閉じたアイス・ロ−ズにそっと口づけする。右手で彼女の頬にふれると、なめらかで冷たい、薔薇の花のような手触りがした。

だが、次の瞬間、オスカルは立ち上がってしまった。その反応にひるむヴィクをしりめに、部屋を飛び出してしまう彼女。彼とはこれが初めての口づけだったわけだが、それでこんな反応をしてしまう自分に驚いてもいた。なぜだかわからない。はっきりしないけれど、何かが違う、そんな気がしてならないのだ!今までキスすること自体、それほど抵抗を感じたこともない。だが、恋人同士のキスと言えるほどの経験は、やっぱりアンドレとだけだったが、かと言って彼とは恋人未満でしかない。なのにヴィクとのキスに違和感を感じてしまうのは何故なのか。(でも、もうアンドレとは...)

「よう、たまには話さねえか?」週末のティナ。劇の練習も軌道にのっている。アランもやっと格好がついてきたというところだ。「珍しいね。どうした風の吹き回しだ?」オスカルのほうは今回、かなり出番が多い。それでも元来の真面目さからか、せりふなどはほとんど覚えこんでしまっているようだ。だが、アランにしてみれば、そうやって打ち込むのにもワケがあるのだろう、そう思えて仕方がない。今現在、もっぱらティナでの活動中なので、こうして週末ぐらいしかオスカルたちと顔を合わせることもなかった。そして、オスカルだけでなく、ヴィクやアンドレの様子にもふに落ちないものを感じ取れるのである。

(とはいってもまあ、ちょっとしたケンカにでもなってるのかもな。今まで隊長とヴィクがケンカになったことってなかったし、つまりそれだけ2人が近づいてきてるって証拠なのかもしれん。)そう思うと、やはりアランとしてもこのまま引き下がっていられない。はにかみやのヴィクにはたいしてライバル心を感じてこなかったのが、ここに来てぐっとたくましくなってきた彼に手ごたえを感じていた。だがアンドレは...こう言ってはなんだが、オスカルの顔を見ることさえしないし、彼女のほうもそんな感じだ。あれで診療所で一緒にやっていけてるのだろうか?まあ、前々から、2人とも医療モ−ドに入るとコロッと変わっていたけれど。

別に抜け駆けする気もないが、俺は俺で隊長のことが好きなのだ。多分最初から気になって仕方なかったのに、自己紹介の時ひどい事を言ってしまって、でもあの時は、「めちゃくちゃ気にいらない。むかつく。」そう感じていたのだ!彼女のところにだけ、何か特別の恩寵というか、天から光が降り注いでいる、そんな気がしてならなかった。俺では逆立ちしたって手が届かない、生まれた時から彼女と俺は別次元に存在するしかない、そんな思いで苦しかった。あの頃はこんな言葉にさえなってなかったが。それでも、あのスポ−ツ大会の時に、俺の中で何かが変わり始めた...それでよかったのやら悪かったのやら。

夕方になり、やっと少し気温が下がってきたようだ。それでもまだかなり暑い。冷たいものでも...ということになって、アランとオスカルは近所の店に入っていった。「もしかして、こんな風に2人だけでしゃべるの、初めてじゃないか?」「そうだね。おまえと話したいと思っても、なんか気が気じゃなくなる状況になりそうだからな。」そう言って笑うオスカルに、アランが少しすねたような顔になる。時に表情を隠してしまうアンドレやヴィクとは違って、思っていることが彼の意志に反して出がちなアランはとっつきやすいとも言えた。土木組が先輩でありながら彼を慕うのも、そんなところにある。

「悪かったな。だが、アンドレのヤロ−がにらみきかせてやがって、それでこっちも引っ込みつかなくなってたんだがね。」ビ−ルを飲みながらアランがなつかしそうな顔になる。ひさしぶりに研修所時代を思い出していた。それはオスカルも同じなのか、思い出し笑いしつつこう返す。「ああ、どうもおまえが本当にからみたかったのはアンドレじゃないかって、途中で気がついたよ。」「けっ、からもうにもあんたがた2人とも、わけわからんからな。よっぽどヴィクのほうがわかりやすいね。どっちにしろ世界が違うわけだが。」

「...おまえも若いのに、建設業界ではかなり大手の企業で活躍してたようじゃないか。土木組の先輩がたから聞いたんだけど。」そう言うオスカルに、アランがやや吐き捨てるように答える。「あの先輩がたが何言ってやがんのか知らんけどな...俺は大学出じゃないんでね、出世も頭打ちなのさ。どうせこれから、もっと学歴が幅きかせてきそうだし。」「今からでも行けばどうだ?おまえ、語学はともかく、理系は得意そうだし。」「はぁ?また簡単に言ってくれやがって。そんな金がどこにあるってんだよ?」「奨学金もあるし、夜学って手もあるじゃないか。医療系ならば、私の行った大学のように授業料はほとんど免除のところもあるがね。」

一瞬言葉に詰まったような顔になるアランではあったが、また話を続ける。お酒が回ってきてるのだろうか、顔が赤くなってきていた。「そりゃあなぁ、あんたほど頭がよけりゃそういう選択もあるだろうがね。しっかし、あんたほどの金持ちがそんな一銭もかからん大学に行きやがるわけだ。皮肉言いたいわけじゃないが、あんたみたいになんでも持ってるヤツを見るとなあ、嫌になってくるぜ。」すると、今度はオスカルのほうが黙ってしまって、視線を落とした。「そう…だな。上流階級の人間なんて、鼻につく存在でしかないんだよな。」「それだけじゃないんだよ!あんたときたら…」

確かに上流階級の人間は他にもいるが、なんだってこんな女がこの世にいるんだよ?と、そう思わせる人間はそうそういやしない。しかも、俺から何かちょっと言われたぐらいで、そんな顔して…あんたにそんな顔されたら、何かこっちが悪かったのかって気にさえなっちまう。だからまた頭にくるのだ!憎みたくても、いやせめて軽蔑したくても、決してそうさせない。かと言って決して手の届くところにはいなくて、ルディオンを従えた天使のごとく俺らを眺めているような、そんな存在…なのに、なんだって俺はこの女のことが、こんなに気になるんだ?好きだから…だけなんだろうか?

アランからじっと見つめられてしまって、思わずオスカルは話題を変えようとした。「おまえって家の事はあまり話さないが…兄弟はいるのか?」「…妹が1人いる。」「そうなのか?おまえに似てるのかい?」笑顔になる彼女に、アランが少し照れくさそうに返す。「なんだよその顔は…俺みたいにむさくるしい女がいるかよ。」すると、ますますおかしそうに笑うオスカルがいて、その様子に密かに見とれるアランだった。「そうか?おまえもなかなかいい男だと思うけど?ただあんまりかまわないってだけで。」「おせじは結構だね、それともアレか、あまりこれまでにはないタイプだからか?ヴィクは言うに及ばず、アンドレも美形で洗練されてるタイプだからな。」

すると、オスカルがやや挑発的な表情を浮かべて言った。「ああ、そうかもね。おまえのような男に会えただけでも、隊に志願してよかったと思うぞ。」面と向かってそう言われた彼は、少しあきれたような顔になった。聞かされてうれしくないわけでもなかったが…「何言ってやがんだか。褒められた気がしないね。」「そうか?やっぱりバレたか?褒めてないの。」そう言って一気に爆笑する彼女。「なっ…なんだよコイツは…だからお嬢は嫌なんだよ!」すると、それを聞いてオスカルがムッとする。「お嬢で悪かったな!私だって…」

この言い方。この表情。何故か、アランはこの時、アンドレの気持ちがものすごくよくわかる、そんな気になった。この無垢と魔性にとらわれたら、そこから抜け出せなくなるのも無理ない話なのだ。きっと、病院では若くても威厳ある医者として采配をふるっていたのだろうし、上流階級の令嬢として、それにふさわしい装いをし、きらびやかな社交界の花形となりもしたことだろう。それをアンドレはずっと目の当たりにしてきたわけだ。だが、一方ではこの、子どものようにむきになって自分に向かってくる彼女がいるわけである。決して意地悪でも居丈高でもなく、無心なまでに真剣で、そのくせそう簡単にはふれさせない…アンドレやヴィクが彼女の前で立ち止まってしまうわけだ。

「ふん…で、その妹さんは首都にいるのか?」「いや、故郷の街にいるよ。」「そうなのか?妹さん、結婚してるのか?」「とんでもない、結婚なんかできやしないな。あいつには、苦労ばかりかけてる…」「確かおまえのところ、もう両親は亡くなったって言ってたよな?だったら一緒に住むとか、せめて近くにいてやればいいのに。いや、ヒトの家の事に口出しするのはあまり趣味じゃないがね。」一気に機嫌が悪そうな顔になったアランがオスカルをにらみつけながら言う。「わかってるなら黙ってろよ。余計なお世話だ。」いつもとは少し様子が違うような気がして、言われるがまま彼女は黙ってしまい、気まずい空気が流れる。

「せっかくの酒がまずくなりそうだ。もう出ようぜ。」そう言って席を立つアラン。ちらっと彼に視線を送って了解し、そのまま無言で同じように席を立つオスカル。なんでだか最後には気まずくなってしまう。けれど、お互いに嫌うとか、無関心を通すということもなく、かといってさっぱり甘いム−ドにもならず、出会った時から相変わらずの2人であった。(そうなんだよな…別にたいした波風も立ってないが、代わり映えしてないのも事実だ…どうやら隊長は、アンドレやヴィクとの関係を変えつつあるというのに。やっぱり俺がダメなんだろうか?)並んで家路につく彼女をそっと見やると、少々酔っているのか、顔がほんのり赤く、目がうるんでいるようにも見える。

まだ雨季には入っておらず、最も暑い時期にアロンガルはあった。そのため、夜にやっと気温が下がって、外にお茶の道具を持ち出しては談笑する人々の姿が、いつまでも沿道に絶えない。見知った顔もいくつかあって、そのたびにあいさつや、簡単な会話をかわしながら歩いていく2人。だがアランはどこか上の空で、オスカルの様子に見入っていた。もちろん、それと気づかれないように…ではあったが。店を出る時の気まずさをどこかに感じながらでもあったし。そうこうしてるうちに、今夜オスカルが泊めてもらう事になっている、ロザリ−の家の前まで来てしまった。「送ってくれてありがとう。」

アランは…まさか、自分がそんな行動に出るとは、全く予期していなかった。だのに、まるで何かにあやつられたかのように、思わずオスカルを抱き寄せてくちづけてしまった。しかも、一旦そうしてしまったら、そう簡単にはやめられなくなってしまっている。お酒と、アイス・ロ−ズと、何より彼女自身の香りが、アランをこの瞬間支配してしまっていた。夢中で彼女を抱きしめ、離そうとはしないでいたが、さすがにオスカルが彼からのがれようと両腕をつっぱねた。彼女は彼女のほうで、あまりに急な彼からの抱擁とくちづけに、ただただ驚いてしまってすぐには動けずじまいになってしまったのだが…

彼女の無言の抗議にもかかわらず、アランは彼女を抱きしめたままでいた。さすがにくちづけるのは止めたのだが…そして、彼女を胸に抱いたまま、低い声でつぶやく。「俺は…あいつらのようにはお行儀よくないんでな…あんたが誰を愛してるのかぐらい百も承知だが、ぐずぐずしてるのを見過ごす気にもなれないんでね。」そして、彼女を離し、しかしその両腕をつかんだまま彼女の青い瞳に訴える彼。そのせつなさは、オスカルの胸に響くだけの力を持っていた。「こんな形でだが、俺は降参してんだよ。あんたにな…これ以上ごまかしてないで、正直になりたいんだ。だからあんたも…」

翌朝、ロザリ−は1人で猫屋敷に向かった。オスカルの帰りはそう遅くもなかったのだが、あまり調子がよくないみたいなので、家で様子をみることにしたのだ。ただ、今回の彼女はほとんど主役なので、彼女がいないとなると練習に影響が出てしまう。それでロザリ−はオスカルの様子をマリ−に伝えるため、急いで家を出た。今朝も相変わらずの暑さで、一体どれだけ気温が上がることやら。母国にはない、強い強い日差し。真っ直ぐすぎる太陽。(オスカル様、大丈夫かしら……夏バテ気味なのに、飲みすぎちゃったのかも。でもそれだけじゃ……)

「あら、オスカルもダメなの?なんか、アランもダメだってさ。さすがにこの時期はしんどいからねぇ。」2人以外はもうすでに全員揃ってはいた。隊次違いのものも、土木組は言うに及ばず、教育プロジェ組も顔を出している。「まあいいわ。仕方ないから、エリアドルとエンデ、リグ−サとリンディの王宮のシ−ン中心でやりましょ。ディオ……アンドレには悪いんだけどね。」「ああ……かまわんよ。おれの事はほっといてくれていいから。」あまり気のないような返事をするアンドレ。その様子を見ていたイザ−クが、彼に声をかける。最近、アンドレはよく彼からピアノを教わっていた。

やはりベルナ−ルも来ていた。最初はいないかと思ってて、ホッとするような、落ち着かないような、そんな気持ちになったりした。しかし、こうやって演技してるのを見られるのは、どうも気に入らない。彼が内心で笑ってるような気がして。あの件以来、まともに口をきいたこともなく、目さえ合わせないできた。彼のほうからも、特に働きかけはない。ないのだが、しかしそれは表面的なことでしかなかった。やはり、お互いがお互いを無視できないのだ。あんな出会いをしてしまっては。だから、練習の合間に彼から声をかけられても、ロザリ−はあまり慌てなかった。「今日は王子様は一緒じゃないのかい?」

カチンとはきた。だが、ロザリ−は、オスカルやアンドレが、例のインサイダ−の件で彼に助けられた事を知ってもいた。今もまだヴァクストゥ−ム社の問題は片付いていないらしい。それでも、経済記者出身のベルナ−ルの存在が、2人を力づけてるのは確かなのである。「あなたには関係ないでしょ?そちらこそ、ご本業がお忙しいでしょうに、毎週毎週ご苦労様。」この程度の嫌味が精一杯だった。結構年上なはずだが、そして自分もどちらかと言えばベビ−フェイスのほうだが、彼は若々しく見える。黒い髪と黒い目だが、アンドレやアランとはまた別の雰囲気を持った男性であった。

「まぁね。さっきアンドレには話したんだが……ヴァクストゥ−ム社の業績がかなり落ち込んでいるんだ。それを伝えたかったんだが……彼女は具合が悪いのかな?」ベルナ−ルの表情が曇る。それで、アンドレもさえない顔をしていたわけか。あぁ、こんな時、なんにもできない自分がはがゆくてならない。オスカルには、身を盾にしてかばってもらったというのに……しかし、今朝の彼女は、まだこの話を聞いてもいなかったんだろうに、とてもしんどそうにしていた。一応起きはしたのだが、あまり寝られなかったらしい。確かに今は昼間の暑さで家の壁に熱気がたまり、それが夜間になっても放出され続け、非常に寝苦しいのだが。

ベッドに座って、放心しているような彼女が心配になり、そっとオスカルの前に立った。すると、彼女はロザリ−の体を抱き寄せて両腕をまわし、顔を押しつけるような体勢をとった。オスカルの思いがけない行動に驚いたロザリ−だったが、そのまま自分も腕をまわしてオスカルの背中を優しくなでる。ここのところ、アンドレともヴィクとも気を張って対応しているところが見てとれ、その緊張感がせつなかった。活動のほうでも、カオラのメンバ−に聞いた話では、診療所に泊り込んで患者についてたりしているらしい。村のほうでも。元々必要な時にはそうしてはいたのだが、ここにきてますます活動にのめりこんでいるとか。

「大丈夫なのか?あんたまで具合が悪そうだぞ。」そう言われてハッと顔を上げるロザリ−。「わ、私は大丈夫よ!見ての通り、丈夫で頑丈なのが取柄だから。」「そうでもないようだが……あんたもオスカルに負けず劣らずだね。」この男は何が言いたいんだろうか?負けず劣らずなんだと?「なによ……わかったようなこと言わないでもらえる?だから嫌いなのよ!なんでもわかってるみたいな事言って、結局最初から決め付けてるだけじゃない!」彼にこんなことを言うのはさすがにお門違いだと、ロザリ−にもわかっていた。でも言わずにいられない。まだ少女だった頃の彼女の体験は、ほとんど未消化なままで彼女の中でくすぶっていた。

すると、「すまない……」とだけ言ってロザリ−を見つめる彼がいた。まさかそんな言葉がベルナ−ルの口から出るとも思ってなかったロザリ−は、一瞬言葉が出なかった。だが、安易な同情は好まない。それゆえ、「謝ってもらわなくても結構よ。」と顔をそらしてしまう。すると、ベルナ−ルが、静かに語り始めた。「ジャ−ナリストとしてのおれは、君には謝らない。おれはこの仕事を誇りに思ってるし、君にひどい事をした奴らと同じになりたくないんだ。謝るって事は、いつかおれも同じような事をするかもなって宣言してるようなもんだろう?」

「だが……おれは隣国の人間として、そして元は同じ国の同胞として、君に謝りたいんだ。君の小さな弟のような存在を犠牲にしてまで行われたテロを止められなかった人間として。」一体なんなのだろう?彼があの事件に関わっていたとでもいうのか?確かに、年齢的には既にジャ−ナリストだったと言ってもおかしくないのかも。でも……ロザリ−のいぶかしげな表情に、ベルナ−ルは答えを出さなくてはならなかった。「おれの父親は、隣国で、テロに反対していたんだ。おれがまだ小さい頃で、もう30年近く昔の話だが。なんだか隣国の人間は、みなテロを支持してたような言われ方をする事もあるけどね、実際は全然そうではなかったんだよ。ただ、あまりに経済状態が悪くなって、それを止めきれなかったんだ。」

そうだったの……そうか、初めて会った時、隣国出身だとか言ってなかったっけ?彼の言葉は続く。「過激派に目をつけられた父は、危険を察してまだ幼かったおれと母親をソランジェに逃がした。彼はそのままヴィエナに残り……死んだ。」ロザリ−の口から、思わず「えっ……!?」という言葉が飛び出した。彼女の顔色が変わる。では、では自分が彼にした事や言った事は……「命からがら逃げてきたおれたちは頼るあてもなくて、苦労した母は早くに亡くなった。でもおれは、ジャ−ナリスト、それも経済専門のジャ−ナリストになりたくて、スカラシップをとってなんとか高校は出たよ。それで、小さな新聞社の使いっぱしりに始まってさ。」

「おれは小さかったから、父の事もあまりきちんと覚えてないんだけどね、母がよく言ってたんだ。」

「あの人は、弱いものばかりが犠牲になるテロを、どうしても許せないって、そして、それをどうしようもできない自分がいたたまれないって。」

ベルナ−ルの表情を、もうロザリ−は確認できなかった。泣いているかもしれない、いや、泣いているのは自分だ。だから顔を上げられないのだ。小さかった弟の手。耳が不自由だった彼は、それでも明るくておしゃべりだった。そう、小さな手で楽しげに手話をし、全身で自身の表現をしていたのだ。ロザリ−もそれに答えて手話で彼と会話していた。弟を誰よりも愛していた。なのに、最近ではその手話の事さえも忘れていた。心の奥にしまいこんで封印し、墓場まで持っていく、あの日にそう決めてから。そうでなければやっていけなかった。特に家族の前では一切、弟の事は口にも出さず、自分が死ぬ瞬間に他の全てを捨てて、弟の事だけ胸に抱えていこうと。それまでは忘れていようと……

「おれは父の遺志を継いで生きていこうと思っている。そして、父ならきっと、君にすまなかったと、そう言うぐらいしかできなくて申し訳ないと、そう……言うと……」ベルナ−ルの声が震えている。ロザリ−は顔を上げた。だが、涙でよく前が見えない。彼に泣いている顔を見せるなんて、先ほどまでなら嫌で仕方ない事だった。だが今は違う。思わず彼女は、胸の奥の封印を解き、両手を使って意思表示した。そう、手話を、小さな弟がたびたび自分に贈ってくれたあの手話を、今度はベルナ−ルに贈ったのだ。そう、「伝えてくれてありがとう」と。そして、「わかってくれてありがとう」と。

ベルナ−ルには、彼女の手話の意味はわからなかった。ただ、泣きながらの彼女が一生懸命になって伝えようとしているのだけはわかった。確かに他に言葉はもう、いらなかった。彼は両手を彼女に差し出し、その手を彼女はとった。2人は長いこと何もしゃべらず、ただお互いの両手を見ていた。

オスカルやカタリ−ナの家の前の道は、そのまま真っ直ぐ北に行くと診療所に着く。結構カオラでは大きな通りだった。そして少し南下した後、西に走るとティナ、ひいては首都への遠い道のりの始まりとなる。夕方、オスカルは自宅に戻ろうとして、その道を歩いていた。すると、突然クラクションが鳴る。後ろから「アイス・ロ−ズ!」と、やや高くて甘い感じの声がかかり、そこには四駆に乗ったヴィクたち風車組の姿があった。助手席の彼は窓際で陽に焼けたか顔は少々赤くて元気そうに見える。この車は事務所のもので、運転手も事務所の職員だった。隊員は車の運転を一切認められてないからだ。イオスは運転してもかまわないわけだが、やはり事務所側としては責任問題もあって、そうそう許可を出さないでいる。

「どうしたんだ?首都に行くのかい?」ちょっとだけまだ気まずい気分のオスカルは、ヴィクを正視できていない。それはヴィクも同様で、それでも勇気を出して、彼女に呼びかける第一声を放ったのだ。「いや、戻ってきたとこだよ!風車の部品を修理に出して、別に航空便で送られてきた追加の部品を引き取ってきたんだ。」後ろの席にいたモ−リッツが少し早口で答える。彼は人が変わったように快活でやる気満々の様子だ。風車にかかわるまでの彼をよく知る者は、彼の変わりように驚かされた。活動の内容は、それほど隊員に影響を与えるものなのだ。いろいろ聞かされなくても、充実した活動をしていれば本人が自然と輝いてくるのでわかるのである。

それで、なんやかやと立ち話になる。あのような事件はあったが、かえって結束が固まったようにも見えた。苦難は人間を強くし、連帯は深まる。結局当事者の気持ち1つ、考えよう1つなのだ。生き生きとした顔色の彼らと話しているうちに、オスカルもすっかり気分がよくなった。アランと飲みに行って以来、どうも体調が上がってこなくてしんどかったのだが、その白い頬に赤みがさしてきている。何よりも、彼らの活動がうまくいってるのがうれしかった。その気持ちはヴィクたちにも伝わるが、誰よりヴィクはそれを敏感に感じ取った。ほめられてうれしい子どものような無邪気さでオスカルを見つめてしまう。すると、彼女のほうも微笑かえしてくれた。もう、先ほどまでのひっかかった気持ちは脇にやってしまおう。

「アイス・ロ−ズ……」そう言って、身を少し乗り出し、頬にくちづけるヴィク。一瞬のことで、他の3人は「?」なくらいだった。すると、声を出して笑ったオスカルが、やはり同じように素早く頬にキスを返す。なんとなく……お互いに、恋愛関係に入れなくても、惹かれあう部分を認めざるをえなかった。アンドレとは兄弟のように育ったはずなのに、むしろヴィクのほうに兄弟のような感覚を覚えてしまう。気弱な弟のようだった彼も、ここんとこたくましくなってきてはいたが。「では戻りますね。明日は朝から診療所に顔を出しますよ。プロジェのリ−ダ−であるあなたと今後の予定について話し合いたいですから。」「ああ、わかったよ。明日は午後も特に予定は入れてないから、いい時に来てくれ。」

そう言ってお互いに手を振って別れる。すっかり気分がいい。そう思って家へ歩き出すオスカル。だが即座にぎょっとさせられる。自分を抜かして先を急ぐ男の後ろ姿が目に入ったから。どこからどう見てもアンドレの後姿なのだが、自分に声もかけず、一体どこに行くつもりなのか……まさか……。しかし、そのまさかは的中して、自分の家の前で立ち止まる彼。それで、やっとこちらを向く。相変わらずの仏頂面といえばそうだが、こちらはもう、どうにも気まずくて仕方がない。かと言って黙ってるわけにもいかなかった。「なんだよ、どうしたんだ?」

「おまえに用はないよ。カタリ−ナに用があって来たんだが。」「カタリ−ナ?あ、そうか、おまえは知らなかったね。ビジュ−のとこに行ってるんだ。」ビジュ−とは、オスカルが帽子をプレゼントし、そのお礼に絵を描いてくれた、あの女の子の名前である。「なんだ。だったら出直すか。」「多分そろそろ帰ってくると思うけど?うちで待ってたらいいよ。」そう言ったものの、彼は黙りこくったまま答えない。だがオスカルは、そんな彼にもひるまなかった。「どんな用だか知らないけど、おまえ、確か明日早くからティナに行くんだったろう?わざわざ行ったり来たりで疲れる事しなくてもいいじゃないか。」「……じゃあそうさせてもらうよ。」その声にも抑揚がない。

「食事は?」アンドレの家と同じように、入り口のドアのすぐ先は屋根がなくオ−プンスペ−スで、そこにはテ−ブルと椅子が置いてあった。やや薄暗くなりかけてはいたが、彼は居間のほうには入らず、そこに腰掛けてカタリ−ナの帰りを待つつもりらしい。「まだだが何もいらんよ。おまえはおれの事なんざ気にしないで食べたらいい。」棘を感じるほどでもないが、それにしてもとりつく島もない。そんな調子を崩さない彼。(さっきの見られたのかなぁ。でも、見られたからって関係ないんだけどね。)だんだん内心で機嫌が悪くなっていくオスカル。それでも、彼と自分にカフェを入れて、自分も席につく。どんな状況であれ、お客をほっぽっておくのは無作法なのだから。

だが、アンドレはこちらを見ようともしない。肘をついて顎に手をやり、たまに通りかかる道ゆく人を眺めている。その横顔のシルエットは憂鬱で寂しげだ。しかし、それをにおわすような事を言うだけでも、そのまま無言で席を蹴って帰ってしまいそうでもある。とてもじゃないが……しかし、オスカルはその横顔に見入ってしまった。もう、この顔を見られなくなる、そんな日が来るんだろうか?本当に?彼はもう、私の顔も見たくないんだろうか。もうすっかり、故郷へと繋がるはずの土地に気を奪われているんだろうか……私を置いて……

オスカルの様子に、さすがに振り返らざるを得なくなったアンドレ。彼女は声もなく、ぽろぽろと涙を流していたから。少しだけうつむいて。その姿に、アンドレも声が出ない。彼女の白い頬が涙でぬれている。その頬に触れたくて、けれど手を差し出すのをためらう彼。おそるおそる彼女に声をかける。「どうしたんだ……ヴィクと何かあったのか?そうとも見えなかったが……」やはり彼は、先ほどの自分とヴィクのやりとりを見ていたんだろう。だがもう……「ヴィクは関係ないよ。大体、おまえはもう、私の事なんかどうでもいいんだろう?」アンドレの表情が憮然としたものに変わる。

だがアンドレはその表情をひっこめ、「ああ。おまえはおまえで、おれはおれだ。お互いの歩むべき方に向かっていく時が来てるんだよ。」と静かに言う。しかし、オスカルはもう、我慢してられなかった。「だったらなんで、グラ−スであんな約束したんだよ!?おまえは医者になれ、おれが看護師になるから、そして戦地でもどこでも一緒に行こうって!」思わず、通行人がびっくりして顔を上げるほどの悲痛な叫び。2人とも息することも忘れてお互いの顔を見つめる。一気にそこに、カオラではなく、なつかしい故郷の風と水と緑に満ちた記憶の映写がかかる。「その通りだな。おれが悪いんだよな。だがおれはもう、あれから10年待ち続けて、それでもおまえの望むようにおまえを愛せない自分に疲れてしまったんだ。」

「はあ?おまえの望むようにってなんだよ!?わかったような口きくなよ!」とうとうオスカルは、片方の手をテ−ブルにたたきつけるようにして席を立った。アンドレを睨みつける。それこそ、今の今まで言いたい事も言わずにきた彼の堪忍袋の尾がきれる時が来た。無言でアンドレも立ち上がり、テ−ブルを挟んで向かい合っているオスカルの片方の手首を掴んで、強引に引っ張り寄せた。彼女の体がテ−ブルにぶつかり、ティ−カップが落ちて大きな音をたててはじけとぶのもかまわずに。「何するんだよ!?」「おれはおまえの何だというんだ?おれはおまえの父親でも兄弟でもないんだ。家族じゃないんだよ!」

「そんなのわかってるよ。」彼の剣幕に押されて、彼女の顔に不安な表情が浮かんでくる。「じゃあ、おれの気持ちに気がついているんだろう?その上で、それは受け入れられない、おまえは恋愛の対象じゃない、心の中にまで踏み込んでくるな、そう思ってるんじゃないのか?」「それは……」今まで、このように2人の関係性についてつきつめられた事がなかったオスカルは、二の句が告げなくなっていた。「おれは家も親もなく、ジャルジェ家の世話になって成人した。だから、跡継ぎのおまえに何も言えなくて当然だよ。おまえを愛してしまう事自体、許されないんだってわかってるんだよ!」

「だけど父は……」アンドレは、掴んでいた手首を離し、彼女の肘のあたりをにぎりしめて揺さぶった。「だんな様が昔ああ言ったから、それでおれと結婚できるのか?状況を考えろよ、ヴァクストゥ−ム社の危機だというのに!おまえだってそれがわかってるからヴィクト−ルとの結婚を考えてるんじゃないのか?」そう言われては彼女も黙ってはいられない。「そんな理由で彼との結婚を考えてるわけじゃないよ!」実際のところ、オスカルはもう、ほとんどヴィクとの結婚を考えてはいなかった。彼に対し、それこそアンドレの言うような、兄弟のような感情しかわいてこないのだから。まして、まるで財産目当てに結婚を承諾したように思われるなど、とても我慢できる事じゃないのだ。自らの誇りにかけて!

彼の両手の力が増す。あたりはすっかり闇につつまれ、いつもなら聞こえてくるような往来の物音もせず、まるで大気そのものが息を殺しているかのようである。「じゃあ、彼を愛しているのか?エレ−ンを愛してるように、おれではだめでも、彼ならいいと……?」彼の苦渋に満ちた顔。「もし、そうだと言ったら……?」彼につかまれた腕がしびれそうだ。するとどうだろう、アンドレは自分の言葉を本気にとったのだろうか?彼の表情が、みるみるうちに驚愕のそれへと変化する。オスカルも、こんな時にこんな口をきくあたりが気が強いというかお嬢さんというか、挑みかけて怒らせたくなる性分で、でも彼もたいがいそれに慣れっこになってるし……と油断してもいたのだ。

「おまえ……全部思い出したのか?」そうだけ言って絶句するアンドレ。「何を?」と聞く暇もなく、オスカルはアンドレに抱きしめられていた。「オスカル……オスカル、思い出して、それでおれではだめだと気づいたんだろう?すまない……そうじゃないかとも思ってて、でもそれを確かめられなかったんだ。もしおまえがまだ思い出していなかったらと思うと……怖くて聞けなかったんだよ。」彼は何を言ってるんだろうか?私が何を思い出したって?「アンドレ……おまえ、私に何か隠し事してるのか?」低い声で問う。電撃でもくらったかのようなアンドレ。真顔のオスカル。見つめあう2人の脳裏に、あの夜の情景が帷を開けてしのびよってくる。

それはとぎれとぎれの記憶の断片。白と紫の薔薇の花。傷だらけの腕。夜の温室に散らした花びら。離れの彼の部屋と、消毒薬のにおい。後から後からあふれ出す涙がとまらなくて、彼の胸にすがりついて泣いていた自分。彼のくちづけと……約束の言葉。

約束してくれ……どうかエレ−ンの後を追わないでくれ……おれが死ぬまでそばにいるから……


オスカルの表情もまた、アンドレに負けないほどのショックを受けたものになっていた。そう、今そう言われたかのように、鮮明にその言葉を思い出したからだ。彼の声音や息遣いまで、17歳の……エレ−ンやキ−スや、他にもたくさんの人が死んだ自爆テロの丁度、1年後の夜に還ってゆく。彼に抱きしめられて、ああ、滅多に泣かない彼の涙が私の頬をもぬらしていた。

「アンドレ……私はエレ−ンの後を追おうとしていたのか……?」呆然としたままの彼女が、それでも口にしなければと問う。「違う!!」アンドレが必死の剣幕でその問いに答える。「だって、おまえがそう言ったんじゃないか!?」それにしても、どうして彼は、こんな悲しい表情をしてるんだろうか。いや、何かをあきらめているような、ひったてられてゆく、無実の罪びとのような……「違うんだ。おれがおまえを追いつめてしまったからだ。おれは……」意外な展開といえばそうで、オスカルの表情がいぶかしいものに変わる。何があったのか、やはり思い出せないからだ。「追いつめるって、一体……」やはり彼女は思い出していないのだ。だとしたら、だとしたらせめて……

「おれはあの晩、おまえを抱こうとしたんだ。おまえがエレ−ンの事でショックを受けていて、おれの胸で泣いていたのをいいことにな。それに耐えられなくて追いつめられたおまえは……」あまりのことに、全くリアリティが感じられない。オスカルはなんて反応すればいいのかさえわからなかった。彼の言うことが真実ならば、自分は彼にレイプされかけて自殺しようとし、それでアンドレが詫びてあの約束を……?ああ、どうしてこんなにまで記憶がないのか!?頭ががんがんしてきて吐きそうだ。思い出そうとするとますますひどくなる……顔を上げているのさえ、つらい。

「わかったか?おれはこんな人間なんだよ。おまえのそばにいる資格などないんだ。なのに、おまえに執着してしまって、どのツラ下げておまえに「死ぬまでそばにいるから」なんてな。おまえの記憶がないのをいいことに……だがもう、はっきりしただろう?おまえはおれにこれ以上、かかわりあっちゃいけないんだ。」確かに……確かにそれはそうなのかもしれない。だけど、だったらなぜ、そんな顔をしているんだ?いつもの仏頂面の仮面の下で、ずっと苦しんできたんだろうに。けれど、確かに私は、彼のことがどこかで怖かった。自分は男嫌いだと言ってもいたけれど、彼のことが怖かったのも原因の1つではあって、理由もわからず自分が悪い、恋愛感情に欠落した欠陥人間なんだ、そう思ってきたのだ。

そんな気持ちが彼に通じてしまったんだろうか。アンドレは、「おれに償えることがあるとしたら、おれ自身のこの執着を断ち切って、おまえの前から姿を消すことぐらいなんだよ。本当に……本当におれには、何もないんだ……」と言って、そのまま踵を返し、走って出て行ってしまった。「アンドレ……!」オスカルはしびれたようにその場から動けず、彼が階段を駆け下りていく足音を遠くに聞いていた。雨季が近づいたからか、月も星も見えない夜に。

「あら!どうしたのよこれ。」ゲルトル−トが感心したように言う。ここは風の谷だ。「どうしたもこうしたも、プロジェ用の資材流用ってやつだよ。本来なら診療所建設の時に建てるはずだったんだけど、どうせあっちはまだ、今使ってる診療所があるからね、当分はそれで間に合うからさ。」と、ピエ−ルがうれしそうに言う。全体的にはなかなか進まないプロジェなのだが、その中にあって風車はいいテンポで前進しており、出番のまわってきた土木組も張り切っているのである。こうやって、やった事が形になっていくのはうれしいことだ。「なるほどねぇ。まあ、あんな事があった後だし、きちんと谷を管理するべきなのかもね。」

急遽建てられた、この国ではほとんど見られない、プレハブの住居兼倉庫である。たいして大きいものではなく、あくまで仮のものだ。いずれアロンガルに見合った工法の、いわゆる「風の谷の風車プロジェ」における詰め所、それを建設する予定だったのがあの事件で、ともかく急ぎでと作られた。風車の機材を守るためにはやむをえない。「それにしても、なんか、暑そうね。」と苦笑する彼女。「それを言われると苦しいとこだけど、時間かけてられないからさぁ。これでも必死だったんだよ。」と、ジャンがやや口をとんがらかす。「わかってるわよ。大体、あんたがたのプロジェでもないのに、よくやってくれるって、風車組がえらく感心してるみたいよ。」

そう、あの事件で相当落ち込んでしまった風車組のために、何かできる事を……と、カオラの隊員は全員一致して協力体制に入ることに決めたのだった。土木組は元々の職能でもって協力しやすいのだが、医療組のほうも彼らの気持ちをひきたたせようと、食事の差し入れや夕食の招待などの機会を増やしている。ゲルトル−トは元からめんどうみがよかったが、ここにきて同期の土木3人組はすっかり、彼女の弟状態になっていた。ふだんはあんな調子のフリデリ−ケでさえ、ゲルトル−トと歩調をあわせている。モ−リッツに対しても、以前のようにわがまま言ったり甘えたりばかりではなくなってきている。それはそれで、彼にとっては少しばかりさびしい事でもあるのだが……

「仮眠もできるように、あっちこっちから家具も集めてきたよ。まあ、隊長さんたちみたいに患者さんみるんで当直になっちゃうってほどでもないけどね。問題は水なんだけど、住むわけでもないから、飲み水のボトルを確保しとけばいいかって。」と、フランソワがプレハブの中を説明する。「そうね、今はまだこんなもんでしょうけど……アランあたりがいつきそうじゃない?」「あ、言えてるかも!」とピエ−ルが笑い出す。「班長って、どこででも気にしないで寝ちゃうし、やっぱり風の谷というだけあって風が吹くから、この暑い時期でも意外といいんだよね。」「確か、村のステイで暑かったからって、上半身裸で外でねちまってたの、班長じゃなかったか?それでなんやら、背中を得体のしれない虫にくわれたとかなんとか……」

「そうだよ!それで、隊長さんたちから、「おまえ、絶対そのうちエイリアンが体を食い破って出てくるぞ。」なんておどされてたじゃん!!」最初はうわぁという顔になっていたゲルトル−トも、それを聞いてげらげら笑い出す。「ほんとに……あの隊次は結束もあって勢いが強いからかしら、到着した当初から妙なエピソ−ドが多くて。どうも研修時代も相当なもんだったみたいだけどさ。」やはり昼間はプレハブだけあって、中はムッとしている。4人は外に出て、ぶらぶらと谷を歩きながら話した。笑いながら……だが、突然聞こえてきた車の排気音のような音に驚かされる。それも、あの男の子が発見された、崖のほうから。

素早く顔を見合わせる4人。しかし、次の瞬間、彼らはそちらに向かって走り出していた。「ゲルトル−トはいいよ!待っててくれよ。」とピエ−ルが言うが、彼女はきかない。彼女は男の子が村で埋葬されるまで、最後まで見届けたのだ。彼の死に顔を誰よりも長く見ていた。それゆえ、この谷の事を、ここで起こる全てを見過ごしにはできなかった。男の子の死からくる嫌な予感。それを誰よりも敏感に意識していた。やや走りにくい谷を横断するように走り、崖のある斜面にたどりつく。回りまわっていけば下のやや広い平坦な地面になんなく着地できるのだが、最も高いところでは10メ−トルほどもある崖なので危険だった。

多分、あの男の子は殺されて、その後この崖から落とされたんだろう……と思われた。彼の発見された草むらは、この崖の真下あたりにある。彼女はこの崖から下をのぞき見るのに躊躇したが、それよりあの排気音のような音が気になってならなかった。彼らの目に、やけにごついジ−プのような車が目に入る。だが、もっと彼らを威嚇してきたのは、そこにいる3人の男達の風貌だった。明らかに一般人では、ない。それどころか……1人はいかにも職業軍人では?という様子で、どうもアロンガル人のような感じだった。だが、あと2人はそうではない。そうではないのにもかかわらず、この2人から受ける威圧感はただ事ではなかった。息を呑む4人。

もし今ここにアイス・ロ−ズがいたら、ピンとくるものがあっただろう。彼女は幼い頃から、父やその同僚といった人種と接触があったから。しかし、首都暮らしでもなかったこの4人にはそんな経験はほとんどなく、せいぜい春の大祭のときに行われる軍事パレ−ドをTV中継で見る、その程度でしかなかった。崖の上から呆然と自分たちを見下ろす彼らに気がついた3人。その1人が、濃い色のサングラスをとって、声をかけてきた。「なんだ?おまえたちは、ここで何をしている?」離れていてもわかる、その男の氷のような目の表情。思わずゲルトル−トをかばうように前に出る3人。

長身でがっしりとしており、黒い髪と目。隙のない身のこなし。低く威圧してくる声音。自分たちよりはずっと年上に見えるがいかがなものなのか。だが、彼らもまた国を代表してきた隊員であり、その母国は大きな動乱と痛手を乗り越えて発展を続けている。「言葉がわからないのか?おまえたちは、どうしてこんなところにいるのか?見たところ、この国の人間にも見えないが。」そう、彼の最初の一声はギリアン語だったのだ。4人は第2外国語がギリアン語なので、むしろ、今彼がしゃべった元宗主国の言葉よりも理解してはいるのである。単に、圧倒されて返事に困っただけだった。「いえ、ギリアン語のほうがわかります。我々は、ソランジェ国から派遣されているFOCVの隊員なんです。」ギリアン語で答えるフランソワ。

すると、その男の表情が変化した。「なんだ。だったらさっさとそう申告すればいいのだ。私は一時期ソランジェ国にも滞在したことがあるのでわかるぞ。」そう、彼らの母国語で話しかけられたので、4人はまたもや驚いてしまった。こんなところで……「FOCVってのはなんだ?」「待ってください。そっちに降りますんで!」そう叫んで斜面の脇を駆け下りる。「待て、慌てると危ないぞ!」やや表情がほころんでいる男たちと、「大丈夫ですよ!滅多なことじゃくたばりませんから、隊員は!」そう言って笑う4人。停車しているジ−プの傍に寄ると、思った以上に大きくてごつく、それにさえ負けていない彼の堂々とした男っぷりに、4人ともが見惚れてしまいそうだった。

「FOCVは、いわゆるヴォロンテ−ルです。一応、技術移転をうたっていますが……それで、この谷で活動してるんですよ。」すると、どうやらアロンガル人らしい軍人が、思い出したように頷いている。それを見て2人の男も納得したようだ。「そうだったのか。だが……」そう言いかけてやや気難しいような、それでいて躊躇するような表情の彼。「まだはっきりしてるわけではないが、そのうちこの谷一帯を立ち入り禁止にするかもしれないのだ。」「ええっ!?」仰天する4人。「どうしてなの!?もしかして、男の子が殺された件とも関係あるんですか??」思わず叫んでしまうゲルトル−ト。すると、男の表情が再び厳しいものに変わる。「なんだ、その子どもが殺された……というのは。」

隊員総会前の、最後の日曜日。今回はやはり医療会と農業会が先に首都に入ることになってる。遅くとも明々後日の水曜にはカオラを出発しなければならない。ティナでの最後の練習と最終の打ち合わせ。「例のホテルでやっていけそうよ!一時は集客の点でどうしようかとも思ったけど、意外と関心を集めているようだから。滞在の2日目の昼食後がいいかなって。食事はバイキング方式だから、そこから入るお客さんも多くなりそうよ。」マリ−のはりきりっぷりは最高潮に達していた。普段の活動の合間をぬって首都に上がり、ありとあらゆる準備に奔走してきた。もちろん、思いっきりハンスやロザリ−も巻き込まれてはいて、それでも彼女のがんばりに、ついつい同調してしまうのである。

「もう、衣装や小道具なんかは宿舎に一足先に運んでしまうけど、何か足りないものとかある?」「いや、大丈夫だと思うけど、舞台がどう設営されるのかいまいちまだピンとこなくて……」「でしょ?だからさぁ、医療会とかの合間をぬって、1度全員でホテルに下見に行きたいのよね。だから悪いけど、サ−ビスの連中も先に上京してくれない?特にアランは絶対に。」「わかってるよ。しかし、そこまでしても何かヘマしそうなんだがねぇ。」すると、マリ−は素早くアランをどついた。「いてぇよ!もう、この王妃様はおっかなくていけねぇな。おいハンス、なんとかしてくれよ。」だが、笑ってるだけで、とりあわないハンスだった。

ヴィクはゲルトル−トたちから話を聞かされ、またもや浮かない気分でいた。どうも、その男たちは詳細を決して明らかにはしてくれないのだが、事と次第によっては谷の閉鎖を実行するという。アロンガル国の軍とも通じてるようだが、どうも外国の諜報機関の人間ではないか、それがアイス・ロ−ズから出た予測で、なんだか当たってる気がする。つまり、彼女の父親と同じような立場なのではないかと。一体彼らが何を目的にして、こんな南大陸のさほど有力でもない国の、それもどんづまった地域にこだわってるのか……もちろん火種に全く心当たりがないわけではないが。だが、あの男の子の件には全く関連してなかったらしく、彼女はややがっかりしていた。

もちろん、閉鎖されるというのに、全く無抵抗でいる気はなかった。それなりの必然性も聞かされずそうされてはたまらない。まして、あの風車は、この国の平和と安定、そして幼子の鎮魂のシンボルなのだから!それでも上流出身の彼にしてみれば、引かなければならないときには引く、それも身にしみてわかっていた。「君子危うきには近寄らず」ではないが、いわば国家権力を身近に感じるほどの上流階級にいる彼の護身なのだ。いい気になってうっかり利用されでもしたら、それこそどれだけの犠牲を払う羽目になるか。母国とは遠い国に派遣され、いち隊員の身分でしかないとわかってはいても、彼のそのような傾向に変わりはなかった。

それにしても……ついアイス・ロ−ズにくちづけしてしまって以来、気まずくて話しかけるのも一苦労だったというのに、ここのところ彼女はしばしば風の谷を訪れるようになっている。自分にも他の隊員と同じように話しかけてはくれる。けれど……どこか、「心ここにあらず」なのだ。確かに彼女もまた、自分の気持ちをディスプレイするのはあまり好まないようで、一見今までと変わらないようにも見える。けれど、なぜかこう、今までと次元が違う、そんな気がしてならなかった。アンドレと何かあったんだろうか。だが、やはり相変わらずお互いがお互いを避けているようで、プロジェの進み具合もあるのだろうが、活動の面でもあまり接触してないようなのだ。

同じ医療プロジェの女性たちも、なんとはなしに2人の関係に不安を感じてるようで、「うまくいかないものは仕方ないわよね、人間だから。」とばかりに2人を見守っている。それに、なんだかんだ言っても、同期同士の問題に口を出せないものなのだ。まして恋愛がらみでもあるし。聞いたところで2人ともから「なんでもないよ」という返事が返ってくるのがオチで、それでも同期のメンバ−のマリ−やロザリ−には、それとなく様子を伝えてはいた。2人もやはり心配しているが、彼女たちは彼女たちで、今までのいろんな経緯や、2人の経歴についてより知ってるだけに、安易に口に出せない部分が大きかった。

特にロザリ−は、アンドレとの件があるので余計に考え込んでしまう。情報伝達の時間差でもって、今ごろになってもまだ、自分とアンドレはつきあっていて、挙句、任期が終わったら帰国して結婚することになっている……なんてことを滔々と話題にする隊員もいるほどである。もちろん、オスカルがそれを気にする事はないわけだが、一方でヴィクと彼女の関係も同じように話題にされてはいて、しかもこちらは実際に立ち消えてはおらず、アンドレがアイス・ロ−ズにふられてロザリ−に走っただの、いや逆でアイス・ロ−ズがふられたんだだのと、言いたい放題になっていた。おかげで、この同期の演ずることになるルナも、いろんな意味で前評判が高いわけである。

教育プロジェの猫屋敷は、その敷地内にささやかな花壇や、蔦をはわせた小さな東屋などがあって、ティナの農業隊員や、そのカウンタ−パ−トの現地人が手入れしている。教育プロジェが求める雰囲気に答えてもいるので、ぜひ建設されるはずの芸能学校でも、このような庭を造ろう、そう考えられていた。ロザリ−は花の世話も好きだったので、花壇のそばにしゃがみこんで、それこそ花に話しかけていた。「暑くってごめんね」とか、「来年はもっとお仲間を増やそうかな」とか……そこに、自分も休憩しようかとオスカルがやってくる。ロザリ−のその姿に釘付けになるアイス・ロ−ズ。

ロザリ−は、アイス・ロ−ズに呼びかけられて振り向く。だがそれはロザリ−の名前ではなかった。「エレ−ン、おまえは花が好きなんだね。」と……思わず顔を上げて彼女に視線をやると、放心しているオスカルがそこには、いた。そして、ハッと気がつく。みるみるうちに、蒼白になるアイス・ロ−ズ。「ご、ごめん!」そう言ってロザリ−の傍に駆け寄る彼女。「私、今なんて言った?すまない、謝ってもどうしようもないけど……どうして私は、こんなに無神経なんだろうかね。」そう言いながら、その青い青い瞳に涙が浮かんでいる。そんな顔をされては、ロザリ−も心を乱されないわけがなかった。

ロザリ−は、そばに来たオスカルに抱きついた。彼女は背が低いので、そうすると頭がやっとアイス・ロ−ズの顎あたりにしかこない。やわらかくて暖かいロザリ−に腕を回されて、アイス・ロ−ズもついそのまま彼女の背中に同じように腕をまわす。「オスカル様、そんなに気にしないで……そんな、無神経だなんて思ったこと、1度もないもの。だけど、私はそんなにエレ−ンに似てるの?」「ホントにごめん。もうこの話はやめようよ。」苦しそうなアイス・ロ−ズの声。だが、ロザリ−はやめなかった。じっとオスカルの顔を見上げて、せつなげな表情になる。それに見とれる彼女。「私は、自爆テロで弟の命を奪った女のことではなく、オスカル様の愛するエレ−ンのことを知りたいの。お願い、聞かせて……」

2人は東屋のベンチに腰掛けた。うまく強い日差しを避けられるような造りになっている。オスカルは、一体何から、どこから話すべきか迷ったが、ロザリ−が先に質問した。「エレ−ンって、どんな容姿の人だったの?おいくつぐらいの方だったのかしら。」「やっぱりおまえのような金髪で、紫色の瞳をしてた。年はね……同い年だったよ。彼女……ものごころついた頃から施設暮らしで、生年月日も、施設に引き取られた日だって聞いてる……」そう語りだしたオスカルの頬が細かく震えているのがわかる。やはり聞くべきではないのだろうか?だが、このままでは、いつまでたっても同じ事の繰り返しだろう。自分も、例えそれがどんなにつらくても、オスカルと共にエレ−ンの記憶を共有したい。私もオスカルを愛しているのだから。

だが、話し始めると、少しオスカルも落ち着いてきたようである。いや、自分の記憶の階段を降りていくのに懸命になりだしている、そんな感じだった。「おまえは、あの当時のエレ−ンについての報道を見ていたか?一体誰のことを声高に叫んでいるんだ、そう感じてしまって、私はまともに聞いていない。元々、私はあのテロの現場で、炎上する車で死んだ女性をエレ−ンだとは思えなかった。どうしても、信じられなかったんだよ。それでも……彼女の遺品に……焼け焦げてはいたけれど、私が買って贈ったばかりの靴が片一方あって。それは後で知ったんだけどね。」そして、オスカルは、エレ−ンとの初めての出会いを語った。靴を履いてなかった彼女との。

どうしてあんなにお互いがお互いを気に入ってしまったのかはわからない。ただもう、出会った瞬間から同じ波長を、似たような孤独を、さみしさを見つめあっていたのだ。「彼女の出自や過去について、私が何も知らずにいたわけじゃないんだ。口さがない連中が掃いて捨てるほどいるわけだから。だけど……あの年のノエルの晩、教会の帰りにエレ−ンに出会った。いる場所も行くあてもない彼女は、見知らぬ他人の……にぎやかなノエルのお祝いでさざめいている窓辺にいたんだ。寒かったのに、「粗末ななりが恥ずかしくて」と、薄着のままで。私は彼女を抱きしめたよ。そう言ってはいても、決して彼女は負けてなかった。安っぽい同情はお断りって顔してたんだ。」

オスカルの瞳から、涙がポロッとこぼれる。それでも泣かないでいようと必死なのだ。「でも……私には聞こえたんだよ、彼女のためいきが。いくらあがいても、いくら祈っても、どうにもならない現実。大きな怪物の前に放り投げられ、声も届かず踏み潰されるしかない状況。私も彼女もまだずっと若かったし、あの当時は若さゆえの感傷も入り混じってるのかとも思ったよ。けれど、現実は、もっと……」そこまで語って、とうとうオスカルは涙をぼろぼろこぼしながら、またロザリ−を抱きしめた。「あのテロの頃には、父はテロ撲滅の最前線からは手をひいていた。実際、国内のテロは下火になってもいたし。けれど、元々その分野で長く活動していたから、あの事件でも事後処理に引っ張られてて、長らく家にも戻らなかった。」

「それで、やっと戻ってきた父に、人払いをして聞いてみたんだ。マスコミだろうが、地下活動をしてる奴らだろうが、結局父に問うて得られる答え以上のものなど持ち合わせてやしないから……エレ−ンについて、私は、あまりにも不当な扱いを、死してなお石礫を投げつけられているような悲惨さを我慢できなかった。もし彼女が本当に今回のテロにかかわっていたとしても、あの彼女が考えもなしにそんな事をするとは絶対に思えなかったんだ。虐げられた被害者の私は、世間に復讐する権利がある……そんな低い次元にいたとは思えなかったんだよ。」「私もそう思うわ。でなければ、オスカル様がエレ−ンを愛したりしてないでしょう?」ロザリ−が真顔でつぶやく。

「それで、お父様はなんて?」「知ってたよ。私も一応テロ対策の連中からは目をつけられていたんだ。ただ、それを父には報告されてなくて。ああなってしまうまでね……別に、彼らには私の身の安全を守る義務があるわけじゃなく、勝手に危険な巣に飛び込んでいこうとしてる愚かな上流の娘だってだけだ。しかも、あの世界にも勢力争いはつきものだから、私の事で父に不利が生じれば、手をたたいて喜ぶ人間も大勢いるってことだよ。」「そ、そんな……」エレ−ンの事もだが、オスカルの生きる世界の残酷な一面を知ることで、ロザリ−は今までのもどかしさが溶けてゆく、そんな気がした。どうして一見なんの共通点もなさそうな2人が、そんなに結びついているのかと。

「父は私に、表に出てエレ−ンの件で向こう見ずな言動をとるなと釘を刺した。私が何か、テロに関わっていると疑われてはかなわないと。テロ対策にかかわってたメンバ−の中に、今では父の腹心のような男がいて、その彼が必死でそうならないように処理したからこそ、そうならないですんでいるんだからと。だが、父はそれ以外に私を責めるでもなく、私も私で、それ以降彼女の事を口に出すことはできなかった。それまでと変わりなく振舞っている、そうする事に必死で、けれど、心の中では後悔で一杯だったんだ。どうして、どうして何も気づかなかったんだろうって……」抱きしめていた腕を放し、オスカルはロザリ−の紫色の瞳を見つめた。

「丁度1年後、春の大祭の終日に、私はあの現場に出向いたんだ。それまでは足を向けることもできない気持ちだったけど。そこは……いつも通りの大祭の風景で……追悼の式典は、そこでは行われてなかったけど、私はそちらには行かなかったよ。おまえは行ったのか?」「……いいえ。私も行ってません。あの子の好きだった近所の公園に行って、そこに花を供えてました。」「私も花を持って……でも、現場について、あまりにも、何もなかったようになっている石畳の道に立って……信じてもらえるだろうか?風がふいて、私の心にエレ−ンの……多分彼女の最後の意識がささやきかけてきたんだ。」ややとまどった表情になるロザリ−。

だがもう、オスカルは話すのをやめなかった。「オスカル、私が絶対にあなたを守ってみせる。あなたを巻き添えになんて、絶対させるもんですか。」一瞬、ロザリ−は、これはオスカルの声なのかどうか迷ってしまった。それほどの臨場感に、背筋が寒くなる彼女。「やっぱりそうだったんだ……!確かに彼女がなんらかの活動に手を染めかけていたのはわかってたよ。あの店に数回一緒に行って、なんとなく気がついていたんだ。だけど、まさかあんな事になるなんて、夢にも思ってなかった。どうしてあんなにうかつだったんだろう。結局、自分の事しか見えてなかったんだね。それで、お互いの事を干渉しないのがいい関係なんだって思い込んでいたのかもしれない。」

「オスカル様、そんなに自分を追いつめないでください!」ロザリ−には、それ以上の事を言えなかった。それほど追いつめられた瞳になっているオスカルを見るのはたまらなかった。オスカルの視線が遠くに投げられ、風の通り道を探しているかのようである。「エレ−ンに会いたい……」そうつぶやく。「え?」ロザリ−が不安そうに問いかける。「エレ−ンのところに行きたいんだ。」「行くって、どこへ……?」だが、オスカルは答えない。彼女はどこも見ておらず、自分の事も目に入ってなく、もう1度だけ「エレ−ンに会いたい」とつぶやいた。

「なるほどな。こっち側からカイラス登場!ってわけだね。」と、アランが得意そうに言う。「そうよ。まぁあんたはライアとディオを追っかけまわすのが本分だからね。ただしあんまりドタバタやって小道具を蹴っ飛ばしたりしたら承知しないわよ!!」そう言いながら、マリ−がアランの髪の毛を引っ張っている。「なんだよ王妃様、おれの髪の毛がどうかしたかぁ?」「ホントはもっと中途半端に伸びた感じがよかったんだけどねぇ。あ、髭はちょっと剃らないでいてくれる?カイラスらしく。」すると、舞台設営に駆り出されていた土木組が笑い出す。「これ以上班長をむさ苦しくしてどうするんですか?」

それを聞いて笑いが伝染する面々。遅れに遅れてやっと開催された隊員総会の2日目。既に医療会は昨日終っていて、やはり風車の事が最も話題だった。夜は夜で恒例の食事会となり、そこでは彼らの劇の話でもちきりである。「大使館の人まで来るんでしょう?「これだから隊員は……」ってあきれちゃう?」と無邪気に口に出すロザリ−だが、かわいい顔して意外とキツイ事を言うと、さすがに同期には浸透してきてたので、アランもやれやれという顔になる。「けっ、隊員だって千差万別でいろいろいるんだよ。なのにあちらさんは頭の固い連中が多いようだから、すぐ十把一絡げで隊員批判を始めやがるわけだ。「あんなの税金の無駄」ってな。」

「まぁ観客は彼らだけってわけじゃないさ。それこそあちらさんだって、隊に好意的な人もいるしね。さてじゃあ、1回通し稽古してみようよ。」まとめ役のハンスの一声で、舞台は幕を上げる。同じこの舞台で、昨年の総会の時、新隊員のために演奏した彼ら。だが同期全員ではなくて、アランは自分が仲間はずれにされた気がして苛立っていた。あんな仏頂面とぺちゃぱいの事なんかどうでもいい……そう思っていたのに、実際は全然そうじゃなくて、子どもじゃあるまいに俺は阿呆みたいだと、それが我慢ならなかったわけだ。だが今回は自分も参加してると思うだけでうれしい。しかし……隊に参加して、自分の何かが変わったんだろうか?建築現場の監督として毎日怒鳴っていた時には、思いもつかなかった毎日で。

いや、違う。疎外感は常にあったのだ。いわれのない差別や無理解。小さな町はアンテナを張ったようで、口さがなくて息が詰まった。父が死んで……殺されたようなものだが……全てを取り上げられ、おれは決まっていた大学進学をとりやめ、故郷を飛び出して首都で働いた。いっそ母と妹も……と考えたが、あんな事になってしまって。この10年ほど、あまりに目まぐるしくて、落ち着いた思考なんてのとは無縁だった気がする。それでも……思い切って隊に参加して以来、妹のほうも落ち着いてるようだし、かえって電話などの回数も増えて、あいつも喜んでるようだ。俺も……あんなに嫌になっていた故郷の事を思い出すようになって。よく考えりゃ、幼い子どもの頃は、何の心配もなく屈託もなく過ごしていたんだよな。

だが、その思い出が俺や妹を苦しめもするわけだ。坂を転げ落ちていくのはつらい。2度と戻れない高みにしか存在しない、幸福の風景……それをあいつらは手にしていて、今までも、これからもずっとそうなんだと、そう思い込んでいたんだ。だから、あんな罵詈雑言を……10年前に都会のクラブで遊んで恋人とよろしくやり、何もなかったかのようにエリ−トコ−スにのって、上流の生まれの名をほしいままにする輝く美貌のアイス・ロ−ズ。その傍に寄り添って、名門の当主からのおぼえもよろしく、望むならば彼女との結婚さえかなえられるくせに、それを否定できるほど余裕のある仏頂面。俺には実際のところ、うまく想像することさえできない世界に生きる彼ら……

だが……今更言うまでもないが、俺だけがアンテナを張られて生きてきたわけじゃないんだ。あいつらもあいつらで、家名の重さに耐えて生きているんだ。ヴィクを見れば余計によくわかる。長男として生まれながら持病のせいで弟に跡取りを譲り、自分は表立たないようにして生きている、だが彼は人一倍誇り高い男なのだ。暢気に「アイス・ロ−ズの追っかけ」などといわれるだけの男じゃない。彼女に対しても、その誇り高さを決して失わないし、がむしゃらになんてとんでもない。アンドレに対しても、恋敵だから目の敵にするなどという真似は到底できないのだろう。まぁ、そんな傾向が、ヴィクを縛って身動きとれなくしてやがるんだろうが。

「ディオが行方不明だって?あのバカ、わかってるくせに、なんだってあんな危険な場所に……」「ライア、見てください。こんな書付が……多分、彼はこれを読んで、あなたからの指令で呼び出されたと思ってるのでは?」「冗談じゃない!!これでは作戦そのものが大失敗じゃないか。ちくしょう、あいつを探しに行ってる暇もないぞ、このままじゃ王国は大変なことに……」ルナでも屈指の盛り上がる場面である。ギルディエン公国の相続争いは過熱し、今にも候補者が挙兵しようというさなか、他国からの刺客も登場していて、リグ−サとエリアドルは窮地におちいっていた。たった1つの情報の取り違えも、致命的な事態を招きかねない。ギリギリの作戦決行のおりに、ディオは反リグ−サの先鋒であるパスル候の伯父方の領地で行方不明になってしまった。彼が盗み返した公国の正統な後継者の証である指輪とともに。

迷いに迷った挙句、敵地に乗り込むライア。だが、元々ルナは、ドタバタしたところがあるというか、シリアスすぎる展開にはならないのが常で、人死にも最低限である。あえて語られていないというのが正解か。夜のロザヴィアの扮装で、パスル候の伯父を誘惑してかかるライア。もし彼が後継者の指輪を手にしていれば、それはディオから奪ったものであり、つまり彼はもはや……なのだが、もしそうであれば、彼女自身がなにがなんでもそれを奪い返さなければならない。まるで戦勝祝いのような浮かれっぷりの城内で、身を切られるような思いをしながらライアが彼に媚薬を……とするまさにその時、吟遊詩人に化けたディオが登場する。

ディオの属する大盗賊団が旅芸人の一座に扮して乗り込み、浮き足立っていた叔父方はひっちゃかめっちゃかに荒らされて、挙兵どころじゃなくなる。その様子がルナらしい騒動に満ち溢れていて、そのさなかにライアとディオは何の痕跡も残さずに消えてしまい、2度とルナには登場しない。実際には無事に指輪はリグ−サの元に届けられているわけだが、ルナの原典はこのように唐突に登場人物が消えてみたり、かと思うと名前こそ違え、「これは以前登場していた彼(彼女)ではないか?」と復活してみたりする。どうも、ある程度の主要キャラは、時代が変わっても登場するようで、それで「輪廻転生」を表しているらしい。

「OKね。みなさんせりふもバッチリよ。まぁ……とにかくにぎやかにやりましょ。」マリ−の締めの言葉で散会する彼ら。ホテルは首都の海岸沿いにあり、めいめいで宿舎に戻るようになる。もう夕刻だった。土木組は揃って「また明日、最終チェックだね。今日はまた特別暑いからな、飲みに繰り出すか!」と元気がいい。今までとは違って今回は、宿舎ではなく首都のホテルで宿泊して総会に出席することになっており、オスカルは同室になったロザリ−と帰ろうとした。だが、彼女は「私、用事があるから先に帰ってて。食事も済ませて帰るから、またホテルで会いましょう。」と言う。

マリ−とハンスも「行くところがあるから」と言うので、結局ヴィクと帰ることにした。もちろんアンドレとは、最初から考えていない。自分でも過剰に反応したくないのではあるが、どうしても言い合いになったことが頭から離れない。自分自身の不安定さは、やはりそこから来てるんだろうか?だとすると、アンドレの危惧は当たっているわけである。それでも……やはり腑に落ちない。思い出せないわけだから……彼も、こうなんだろうか?長い事、子どもの頃を思い出せずにいる自分に苦しんできたんだろうか?実際、彼がつらそうだとわかってはいても、実感などできていなかったとわかる。なんとも言えない、胸がつかえて、呼吸できなくなる、こんな思いは……

「なんだ?話って……」1人ずつバラバラでタクシ−に乗り、アロンガル唯一の大学である国立サンゴ−ル大学の構内にアンドレを呼び出したロザリ−。彼女は活動上でこの大学の講師と親交ができ、首都に上京した時には必ずと言っていいほどその女性のもとを訪れていた。講師はアロンガル人ではなく、元宗主国の人間である。そのため、大学の様子をも知るようになり、大学が休みのときにはほとんど学内に人気もなく、外部からはほとんど目につかないことを知っていた。そう、今日は大学は休みだったのだ。そうしなければならないほど、ロザリ−は人払いをせずにはいられなかった。その緊迫感が伝わってるのか、アンドレもすぐにこの呼び出しを承知したのである。

「ごめんなさい、こんなところにまで呼び出してしまって。でも、どうしても聞きたい、確かめたい事があるのよ。」アンドレの表情は変わらない。だが、拒絶でもない。それで、ロザリ−は思い切って彼に問うてみた。「オスカル様のお父様って、どんな仕事をされてらっしゃるの?」ハッとしたような彼の顔。まさかそんな事を聞かれるとは予想してなかったからだ。「なんでそれを聞きたいんだ?オスカルが何か言ったのか?」もう、何を聞かされても後悔しない、その覚悟でロザリ−は答える。「ええ。エレ−ンの話を。あのテロにお父様もかかわってらっしゃったんでしょう?」「そうだよ。元々だんな様は、テロ撲滅の最前線で働いてらっしゃったかただ。」

オスカルの父、レニエ・ド・ジャルジェはソランジェ国の軍人であり、情報機関に属していた。ギルディエン国が中心となって構成されている、軍事条約機構のソランジェ国支部で、長年諜報活動にも精通してきた。最近では国内だけではなく、ギルディエン国本部での任務にも従事しており、国際的に活躍する人物でもある。非常に有能だが、常に冷静で仕事優先であり、家族一族に対しても一線を引いているような部分があった。しかし、ジャルジェ家の当主として、カリスマ的な尊敬を内外から受けており、それゆえオスカルもアンドレも、彼に対する憧れを抱いていた。とにもかくにも「かっこいい」わけである。そして、素直に手放しで尊敬と愛情を傾けてくれるこの2人を、彼もまた愛していた。

「そうなのね……でも……」そう言ってロザリ−が俯く。「お父様は、オスカル様のこと、わかってらっしゃるのかしら……」「もちろんだよ!だんな様は、世界中で一番オスカルの事を愛してらっしゃるかただ。それゆえに、オスカルが軍人になりたいというのをとめたんだよ。別にオスカルが女性だからというのではなくて、彼女のような人間は……自らの信じる道を選ぶばかりに、破滅に向かってでもひた走ってしまう、それを理解なさってるから……」「でもじゃあなんで、オスカルはあんなに不安定なの!?どうして10年以上も経ってるのに、あんなに追いつめられてるの?今にも壊れてしまいそうに……」とうとう、ロザリ−の大きな瞳から涙が溢れ出した。

アンドレの顔に戦慄が走る。真っ青になる彼。「オスカルが……どうかしたのか?」ロザリ−の瞳もまた、足元から立ち上る不安による恐怖で見開かれていた。狂気は伝染するのだ。「私をエレ−ンと見間違えるなんて、初めはそれほど私はエレ−ンに似てるのかって思いもしたけど、そうじゃないのよ!オスカルは幻を見てるのよ。それで、「エレ−ンのところに行きたい」って……それってどこよ?そんなの怖くて聞けない!!」感極まって、わぁっと泣き出すロザリ−。その狂気にまた、アンドレも伝染したかのように立ちつくしている。「おれの……おれのせいなんだよ……」

顔を上げるロザリ−。だが、アンドレの顔を見て、そのまま全てが止まってしまった。これは一体誰なんだろうか?そう、確かにアンドレだ。隊の研修所で出会って以来、一時はまるで恋人のようにふるまっていてくれた、無口で無愛想だけど、オスカル様にお似合いと思えるほど……と思ってきた彼だ。なのに、どこか違う!そう、未だ見たことのない、多分滅多な事では出現しない彼がそこにいた。なんていう目をしてるんだろう!?その黒い瞳の揺らぎ。だがそれは、どこかで慟哭するオスカルのそれを思い出させた。どこかを見ているその瞳は、記憶の通り道をたどっており、決して私にむけられたものではない。「あなたのせい……って?聞いてもいいの?何があったの?」

「オスカルのいとこで、軍人になった男がいる。おれより5つほど年上だが、かなり優秀なので、どうもそのうちだんな様と同じようなコ−スを辿るとも思われているんだ。」ロザリ−はその男の事は全く知らなかった。オスカルも話題にしたことがなかったから。「その彼とは、もちろんジャルジェ家に来て出会ったわけだが……おれが引き取られたのを聞きつけてきたんだろうか、オスカルに会う前に、もうその男はやってきた。そう、彼はオスカルの事を非常に気に入ってるんだよ。」だが、彼はオスカルとはかなりの近親で、しかも、オスカルの母親がいとこどうしの結婚で生まれた女性であり、それゆえに体質的に弱かったため、一族内では彼とオスカルとの縁組は、アンドレとのそれよりもタブ−視されている。

「どこの馬の骨だが知れないおれが、オスカルの傍にちゃっかり居座ることになる、それは彼にとって腹にすえかねる事態だったんだろうね。今でも覚えてるが、敵意むき出しだったよ。表面上はそうは見せてなかったけどね。」「で、彼はおれを見て……「なんでこんなガキを?こんな、気の狂ってるような目をした得体の知れないクズをオスカルの傍に置くなんて、正気の沙汰じゃない。」って。」びっくり顔になるロザリ−。「そんなひどい……だって、アンドレは、それ以前の記憶を失うほどのショックを受けて引き取られてきてたんでしょう?」「それもよく覚えてないくらいなんだが……気がついたらジャルジェ家に来てて、何がなんだかさっぱり状況を把握できてなかったよ。」

「そして、これは後年耳にした話だが、彼はだんな様にも頑強におれを引き取ったこと、オスカルの傍に置く事をずっと反対してるんだ。今でもおれの存在そのものが許せないらしい。一時、彼が大学に通うというのでジェルジェ家に寄宿したんだが、それこそ針のむしろだったよ。だが、彼はそれこそ、ジャルジェ本家に対抗できるほどの姻戚関係を築いている、父は有力な政治家、母はギルディエン王家の血筋をひく娘という家の嫡男だ。彼の発言力は一族内でも高まってる。それほど優秀な男なんだよ。だがおれに関しては、なんとしても容赦しない。彼はこう言ったんだ。」

「いつかこの男は、オスカルに、ひいてはジャルジェ家に災いをもたらす」

「そんな……どうしてそこまで……」自分に言われたわけでもないのに、そのあまりの言葉に呆然としてしまうロザリ−。なんだか、アンドレの顔を見るのもつらくなってくる。こんな事が重なって、彼は「仏頂面」などと言われるようになっていったんだろうか?すると、突然笑い出すアンドレ。自嘲的な……とはこのことだろうか?「言われるまでもなく、おれはおかしいんだよ。狂ってるんだろう。だがそれは、あくまでおれ自身のことで、おれが背負っていけばすむ、そう考えていたんだ。なのに……なのにオスカルが……」もう、笑っているのか泣いているのかわからない、本当に狂ってしまうのではないかというギリギリの際。

「わかるかロザリ−?彼が言った事は正しかったんだよ。おれはオスカルの災いなんだ。そんなはずはない、そう必死で打ち消してきたけれど、おれの狂気があいつを破滅させてしまう……だからその前に、オスカルの前から消えてしまいたいんだ。何もかも、あぁ、おれの事など、あいつの記憶から全て抹消してしまいたい。オスカルの記憶がないのも、エレ−ンを呼ぶのも、どれだけ認めたくないと思っても、おれが悪いからなんだ。もう、あんな目をしたオスカルを見るくらいなら、自分のこんな目などいらない……!!」「アンドレ……!!」

ロザリ−もまた、彼の狂気にあおられていた。だがそれも、ロザリ−自身に内在する狂気とのシンクロなのである。時代が彼らにつきつけた悲劇。国民の多くが味わった長く険しい苦難。だがとりわけ、彼らはその人間性ゆえにあまりにも痛手を受け、自らの迷宮を彷徨うという悲劇まで背負っているのだ。それに気づきもしないで……「オスカル様の記憶がないっていうのは何?それがエレ−ンと関係してるの?」ロザリ−のこの問いが発せられると、アンドレは静かに答えた。「ああ。逃げ場のないオスカルがとれた唯一の手段だ。どうか……ロザリ−、オスカルを支えてやってくれ。おまえだけには話しておくが、おれは昨日、FICAの事務所に中途帰国を申請したんだよ。」

劇の幕が開かれる。FICA事務所所長夫妻以下の事務所の面々。招待された大使館や企業関係の人々とその家族。ベルナ−ルやロイ、イオスの顔も。もちろん最も人数が多いのは隊員ではあったが。「音楽学校に国旗を」という名目で開催されるルナティック・サ−ガの劇。それがどの程度のものなのか、出演者以外、全く知らないと言ってもよかった。一応マリ−が職業として、劇団に所属している事は知れていたが、それ以外の面々はひたすら素人であり、つまるところ、それほど内容を期待してるわけではなかった。むしろこの隊次のゴタゴタに誘われて観てみるか……何しろ隊員の存在そのものが、お互いの最高の娯楽なわけだし……という空気に満ちていたのである。

しかし、幕が開いたとたん、観衆は驚きの声を上げた。ルナというだけあって、その時代を想像していたのに、どこから見ても舞台は「現代風のオフィス」だったからだ。別に事務所や大使館や企業の人々に配慮したわけでもなかったが、これで隊員以外の人たちも、この劇にグッと関心を寄せられる、そんな状況になっていた。物語は登場人物の独白から始まる。ロザリ−扮するリンディのせりふ。「私たち、とうとうこうやって淘汰されるのかしら……せっかく暢気にやってこられたのに。でもなんで、彼女がこんな部署に?」

「まさか左遷なの?あんなに出自のよい、優秀でエリ−トな彼女が、よりにもよって我社の掃き溜めとも言われてる「第3企画室」に?企画室なんて名目だけで、そもそもなんだってこんな部署を放置してるのか、さすが大企業のわけわからなさだなんて陰口たたかれてんのに。だけど、私たちだって、最低限の事はしてる……はず……なんだけどな。」そう言ってリンディがあたりを見回すと、思わず苦笑が漏れる。特に隊員以外の人たちの間では。アロンガルという国に出向すること自体、いろいろと微妙な内実があるらしい。「まぁでも、憧れの彼女と一緒に仕事できる日が来るなんて!冥土の土産でもかまわないわ!」

すると、舞台左袖から、パンツス−ツにパンプスという出で立ちで、カツカツと床を鳴らすように登場するライア。その凛とした表情に、見慣れたはずの顔ではないオスカルを発見して、隊員の間から拍手が上がる。「部長はさぞかし私が目障りなんだろう。「女は引っ込んでろ!」がありありだからな。だがこっちだって、あいつらにはうんざりだ。部下を抑圧して、手柄を横取りすることばかり画策してるようなヤツらはな。こっちが気づいてないと思ったら大間違いだぞ。いずれ尻尾をつかんでやるからな……だが、あんなヤツらでも、筆頭株主とのかかわりやら縁戚関係やらで大きな顔しやがって。おまけにこの私を懐柔しようと勝手に縁談を押し付けてきおって。」

「それがうまくいかないと見ると、今度は配置換えだ。それで嫌気をさして辞めればいい、そういう魂胆なんだろうが……はっ、アイツらの顔を見なくていいだけせいせいする!で、とってつけたような企画を持ち出して、あの企画室の連中に従わせろだと。つまるところ、お荷物部署とともに一網打尽ってわけだ。」そう独白するオスカルの表情に、つい見惚れてしまいだす観客。とりたてて彼女が演技者としてすぐれているわけではなかった。だが、元々隊に参加した理由もあり、そこに彼女自身の実感がこもっていたのだ。マリ−は漏れ聞いたそれでもって、この現代版TRPGのテキストをアレンジしたわけである。そう、ライアこそが主役だとして。

「まあいい。この私を甘く見た事を絶対後悔させてやるからな!」そう言って不敵な笑みを浮かべるライアが颯爽と舞台上から消えると、音楽は一転して悲しげな響きを奏でる。そう、イザ−クが効果音を担当し、ここでは彼のピアノが出番を得て、短調の調べを演出するのだった。そこには、床に座り込んで俯いているアンドレがいた。胸にノ−トタイプのパソコンを抱いて。「なぜおれが第3企画室に?おれが何かしたのか?確かにおれはたいした能力もなく、目立たないでパソコンに向かってばかりだった。業務には何の役にも立たない、マニアックな興味を満たすのに忙しかったからだが……同期が出世していくのを横目に見てただけで、でも自分に与えられた仕事には何ひとつ文句も言わずやってきたし、上司からその手柄を横取りされても、そんなもんだとあきらめてきた。」

今までは仏頂面で、たいして感情を表にも出さずにいたアンドレが、どこか情けない盗賊のディオを演じている。その抑揚のない声で、ぼそぼそとつぶやく彼は、かわいそうというのを越えて、どこか笑いを誘った。彼の今までのイメ−ジに沿わないように見えて、何かしら繋がっているように思えるその姿。「それがいきなり企画室に……「うだつの上がらないスチャラカ社員」という烙印を押されて、そのくせ直属があのライア……あんな別世界の女性と、おれはどうやって口きけばいいんだ?あぁ胃が痛い……」そう言って、ますますノ−トパソを抱きしめるアンドレ……ならぬ、ディオ。そこにいきなりファンファ−レが鳴って、第3企画室の面々が揃う。言わずと知れた土木組の連中である。

結局、土木組はもちろん、ティナの隊員は何かしらの形でこの劇に関わっていた。例の村落を除いて。アランならぬカイラスがオフィスの椅子にそっくり返ってる姿は、研修時の自己紹介の彼を彷彿とさせたが、アランは開き直って脚を高々と机の上で組んでいた。「なんだぁあのライアとかいう女は!?どこぞのエリ−トだか知らんが、あんな女の命令なんぞ聞けるかよ!?すっこんでろ!!」「なぁカイラス。ところで今週の競馬はどうよ?メインに来そうなの、どっちだと思う?」と、ピエ−ルが競馬新聞を読みながら話しかける。「知るかよ、女馬以外を軸にして男馬に総流しかけてろ。」フランソワはその横で惰眠をむさぼり、ジャンはこっそりビ−ルを飲んでいる。

「とにかくだ。あのライアとかいう女の弱味をつかんで、絶対にここから追い出してやるからな!はっはっは、いい退屈しのぎになるぜ!」コミカルで軽快な音楽にのせて、アラン扮するカイラスが叫ぶと、間髪入れず他の3人は「そうだそうだ」と尻馬に乗るよう唱和する。普段の彼らを知る者はみな大笑いであった。すると、再び音楽は一転し、なんともム−ディなものに変わる。そう、非常に仕立てのいいス−ツに身をつつんだ、ヴィク扮するエンデの独白が始まるからだ。「ああ、私のライアがあのような部署に……」その声音に、隊員一同は仰天した。今もはにかみやで、恥ずかしがりなところが抜けきっていない彼が、いかにも「自分で自分に酔っている」と言わんばかりの表情!!確かにエンデはそのようなキャラなのでそう演ずる事は尤もな事なのだが、それをヴィクがうまくやりおおせるとは!

ヴィクにしてみれば、すでに研修時の語学劇で、エンデの役柄についてどれだけ悩み苦しんだことか!そして、同期全員の目の前で、とんでもなく露出しているロザヴィアに愛の告白をしたのである。それをやりとげられた事もあるが、ましてやリアルにオスカルに愛を告白し、結婚まで申し込んでいるのだ。知らない人間に対して警戒するがゆえに、傍目からはわかりにくい、理解されにくい部分があるのはヴィクもアンドレも同じだったが、隊員として、ひいては人間として日々成長しているその姿が浮き彫りになる、前回も今回も、ルナの劇はそのような役割を果たしていた。「私があなたをつかまえきれなかったばかりに、このような事になってしまって……あなたの輝かしい経歴に傷をつけてしまった。」

このエンデのせりふで、先ほどライアが言っていた「縁談」の相手は彼であろうということがわかる。ルナでは、ロザヴィアに恋してしまうエンデが、その後よく似ている(実は本人なのだから)ライアに結婚を申し込んで彼女に一蹴されるのだ。しかし、「夜のロザヴィア」の彼女への執心は変わらず、彼女のほうでもそれを承知して誘惑したりするので、後継者問題が本格化するまで駆け引きが続くわけである。「ですが、ライア、あなたは、このような権力争いの只中にあっても、凛として咲き誇る白い薔薇の花なのですね。それを散らすことは、神への冒涜というものです。おお、女王と王とルディオンよ、聖なる守護を彼女にお与えください……!!」

翌朝から、ライアVS企画部面々の丁々はっしが始まる。出社してはいるものの、全くやる気のかけらもないカイラスたち。銘々で勝手な事ばかりしている。それでもライアは3日ほどは何も言わず我慢している。ディオは孤立したままだ。リンディは我関せずという顔をしているものの、実際には興味津々だった。このままライアが黙ってるわけがない……と。そして4日目、とうとうライアの充電は完了し、朝からいきなり雷鳴が響き渡った。「このバカものども!クビになりたくなかったら、顔を洗って目を覚ませ!!」「何を!?この都落ちのエリ−ト崩れがぁ、女のくせにえらそうな口きくなってんだ!!」

もちろん本気でやりあうわけでもないが、まさに相手につかみかからんばかりの熱演ぶりで、実際ライアとカイラスがむんずとお互いの胸元をつかみあった時には、観客席から大拍手が起こった。果てなく続きそうな罵倒合戦に、ついにカイラスの腕が振り上げられる。リンディの悲鳴。そして、それまでおとなしくしていたディオがライアをかばってカイラスからふっとばされる羽目になる。それをまた、連中から激しくなじられるディオ。「エリ−トにおもねる腰抜け野郎!!」と。そのまま黙って全員に背中を向け、パソコンに向かう彼。出ていくカイラスとその仲間。立ち尽くすライア……「期限までにこの企画を成功させないと、本当に全員がクビなんだぞ……おまえたち、それでいいのか?」

ここで、やっとエリアドルとリグ−サが登場である。やはり美しくしつらえられたス−ツに身をつつんだ彼と、流れるようなドレスをまとった彼女が見つめあう。ためいきがでそうな観客席。エリアドルは次代の社長候補の筆頭と目されており、またこの企業を牛耳る会長の一人娘、リグ−サと恋仲にある……と語られてゆく。「なにか悪い予感がします、リグ−サ様。私の存在を目の敵にし、社長の椅子争いを前にして、私を抹殺しようとする一派があるのは存じております。しかし、私の存在など、この大企業において、どれほどの価値があるというのでしょうか?」「エリアドル、あなたの価値はそのような次元にとどまりません。あなたはこの一企業だけではなく、この国の将来をさえ担うべきかたなのです。あぁでも、それより何より、あなたは私の希望、私の命……」

「もったいのうございます、リグ−サ様。私も、この身は社長の座争いのような場にはそぐわないと考えております。しかし、あなたさまを想うと、あなたの父上であり、この大企業の父でもある会長の後継者こそが、あなたを娶るにふさわしい存在でありましょう。それゆえに、私の心は乱れるのです。」「エリアドル、私がこのような家に生まれついていなければ……」「そのような悲しいお顔はあなたにふさわしくありません。リグ−サ様、あなただけに、永遠の愛をお誓いいたします。どのような妨害も、この愛の前には力を失いますでしょう……さぁ、お顔を上げてください、私の望みはあなたの笑顔なのですから……」笑顔でお互いに、もう1度見つめあう2人。しかし、音楽は暗示的に、短調で緊迫した、重いム−ドがただよっている。

遅々として進まない企画。カイラスたちはやり方を変え、表面上はライアに従っているふうを装い、実際には足を引っ張るという作戦に宗旨替えしていた。もちろんライアもそれに気づいているのだが、とにかく彼らを引き込まなければと、あえてそれに乗ったふりをする。腹の探り合いが続くわけである。やっとなんとか原案をまとめようかという時になって、今度は例の上司が嫌がらせを始める。この企画が出来上がってしまってはマズイからだ。彼らをクビにするための計略なのだから……小さなカイラスたちのミスを、鬼の首でも取ったかのように責め上げる上司を前にして、とうとうライアが「彼らを処分するのなら、まず私からにしていただきたい」と申し出る。

「おまえは黙ってろ!」と叫んで、その上司に食ってかかろうとするカイラス。「おまえら全員クビだ!!」と激高する上司。そこに現れるエリアドル。上の者に弱く下の者に居丈高な上司は、エリアドルの出現にびびってしまい、処分はうやむやになる。その様子にクスリと笑うリンディ。実は彼女はリグ−サとは幼なじみの間柄で、社内の様子をリグ−サに、ひいてはそれは会長にという流れを形成していたのだった。それゆえ、あまりにもグッドタイミングでエリアドルが顔を出せたわけである。ルナの登場人物にあっては、単なるお人好しや聖人君子は登場しない。リグ−サも、単なるお嬢様、お姫様では決してないのである。

このゴタゴタで、カイラスたちは気持ちを変える。表面的には社内の勢力争いに顔を突っ込んでやる……そんな調子だったが、自分たちをかばったライアに一目置きだしたわけで、ライアはライアで、彼らがどんな形であれ、目標を持つ事に異議を唱えないのだった。むしろディオが1人、イマイチこの流れにのれてなくて、それゆえライアは彼に近づく事になっていく。言われた事はしっかりやりとげるが、決してそれ以上に身を乗り出す事のないディオに、最初はかなりイライラするライア。それでもディオの能力、コンピュ−タ−への造詣の深さを発見して、あえて無理難題をもちかける彼女。泣き言を言いながらも、なんとか実現させていく彼。

その様子がなんとなく面白くないカイラスたち。嫌味を言われたり、時にはデ−タを隠されたり消されたりするうちに、だんだんディオらしくなっていく彼。とうとうブチギレて、彼らと大喧嘩になってしまう。その勢いのままでパソコンに向かった彼は、社内のマザ−コンピュ−タのセキュリティをまんまと突破してしまう。そう、彼はあくまで「盗賊」なのだ!そして、ある画面に、ライアと釘付けになってしまう。「なんだこれは……これはもしかして、会社の乗っ取り計画なのか……?まさか……?」ライアとディオが呆然とした表情で見つめ合ったまま、第1部の幕は閉じた。

幕間の休憩がアナウンスされる。多少はとちりながらも、ほとんど問題なく進んでいる。カイラスがとんでもない方向から出てきたり、小道具を蹴り飛ばしておしゃかにもしていない。観客席はざわざわとにぎやかに、劇の印象を口にしている。「まさか現代劇だと思わなかった!」や「よく練習したんだねぇ、息ピッタリじゃん」等など……もちろんあまり大っぴらには語られないが、この同期同士のいきさつをそこそこに知る者もいて、「どんな気持ちで演じてるんだろうね」という声も……実際、よくわかってるはずのマリ−が監修してるはずなのだから、事は大して深刻でもないんだろう、そう判断されていた。

そう、マリ−はもちろん、他の同期以外よりは状況を把握していた。だが、当人同士の事などは、そこまでわかりようもなかったのである。しかし、彼女はあえて、勝負に打って出ていた。何か計り知れない力が、彼女をバックアップしたのかもしれない。もちろん、マリ−も全部独り決めしたわけじゃなくて、ハンスやロザリ−の意見を聞いた。同期だけでもない、土木組にも何気なくリサ−チした。そして、表面的にやり過ごすのではなく、同期からの非難も覚悟でこのテキストを選択したのである。そして、やはりというか、オスカルもアンドレも、アランもヴィクも何も言わないで、全部を受け入れたのである。演じやすいように、ところどころの修正などは、4人とも真剣に論じてくれたが……

第2幕がスタ−トする。またもや、観客席からの大きなどよめき。そこは、バスル候の時代に遡っていたからだ。どうやら王宮の中らしいしつらえ。リグ−サ付きの侍女にして、姫の幼なじみでもある彼女は、しかしやっぱりどこかメイド風で、特徴のある歩き方をしていた。大体が、ルナの原作で語られるキャラクタ−は、現代の感覚からすると、相当違和感があったりする。リンディも例にもれず、妙に色気過剰に振舞うのだが、かえって周囲に引かれてしまって、常に「こんな世の中間違ってるわ」と言い続けるようなキャラだ。かと言って、その手の事ばかりで頭が一杯かというとそうでもなく、独特のカンのよさで事態を救ってみたり混乱させてみたりするのだ。

つまるところ、ルナの主要なキャラクタ−は、古代からの血筋をひく「どこか人間離れした存在」であり、それゆえ史実オンリ−などではない、ファンタジ−要素の多い「物語」「伝説」なのだ。実際、史実としてはギルディエン公国は存在し、そこから分離独立した国が今の東大陸の主要国に数えられている。ソランジェ国も、隣国のヴィエナ国もそうであった。分裂する前は「ヴィエナソランジェ」という1つの国だったのだが……「あぁ、リグ−サ様は本当に候国を継がれるのかしらね?その日を夢見ていたというのに、こんなにうじゃうじゃ問題が起きるなんて。それよりも、新入りの警備兵をからかってこなきゃだわ。うふふ、結構おいしそうなくちびるしてたわよねぇ。」思わず笑いがもれる観客席。

どうやら、ここからはルナの記述に従って進むようである。もちろん、ルナといえども、以前のアランのように内容をほとんど知らない人間もかなりいた。上流になればなるだけ、レジオン語のテキストとして学ばれる、つまりは上流社会での教養としては必須であり、学校でも必ず内容に触れているのだが、「読んで面白いところ」と「学ぶところ」が必ずしも一致しておらず、それゆえに全編に目を通している人間はあまり多くもなかった。マリ−にしたって、オペラや演劇の題材としてよく用いられている事で触れる機会に恵まれたのだ。ただ、ライアたちの時代のものは、全編を通して最も人気のパ−トなので、「ああ、あそこだあそこだ」と理解する観客が多かった。

候国時代風の衣装に身をまとった出演者が次々登場し、場は華やかに盛り上がる。今回は、リグ−サやエリアドルも現代風ではない。もちろん他のメンバ−もだ。ヴィクは……いやエンデは変わらず乗馬スタイルで、エリアドルもそれにならい、上着に見栄えのする刺繍をほどこしたものを着ている。マリ−は地元ティナで、上手だと評判のクチュリエと懇意にしており、今回の舞台衣装は、そこの縫い手と共同で作成したものだった。もちろん、隊員が持ち合わせているものも最大限利用して……である。ヴィクとオスカルが2人とも乗馬スタイルの衣装を持参していたので、かなり助かっていた。

現状を嘆くリグ−サ、エリアドル、エンデの前に、ライアが伺候する。先ほどのパンツス−ツもよかったが、この乗馬スタイルの衣装がまた似合う事!彼女は元々軍人志望であり、格闘系にも通じていた。フェンシング等は大の得意で、模造の剣を持たせてみたら、そのあまりの身のこなしの見事さに、アンドレ以外の全員が声もなく、見とれてしまったほどだ。誰が相手をしたかといえばやはりアンドレで、その彼も一応の相手ができるほどにはなっていた。「リグ−サ様、指輪の件は、このライアにおまかせください!必ずや、お手元に取り返してみせます。」「おおライア、無理してはなりません。あなたもまた、この候国が失ってはならぬ存在なのですから。」

「ご心配は無用であります。この候国にリグ−サ様が跡継ぎとして立たれないのでしたら、このライアの存在も意味を成しませぬ。エリアドル、あなたは動かないで、リグ−サ様のお傍にいてくれ。そしてエンデ、あなたにはお願い事がある。共に来てくれるだろうか?」「あなたさまからの申し出、命よりも先にかなえられなければなりませぬ。光よここへ集え!そして風よ、月よりの乙女に伝えよ!我に力を与えたまえ!」ここでのエンデのくだりは母国語でもギリアン語でもなく、古代レジオン語である。言葉というより呪文のような響き。それだけで、舞台は時を駆け、いまだ人と人であらぬものとが共存した最後の時代に還ってゆく。彼の美しい発音に、ついもれる観客席からのためいき。いかに彼が上流の出であるかの証でもあった。

だが……一見雅にも、また正義と理想が躍動するかに見えるこのシ−ンでも、ルナはその多面性を露わにする。これらのやりとりは、どこに潜んでいるやもしれぬ刺客、壁に耳するいまだ目に捉えきれぬ「敵」に対するディスプレイなのだ!そもそも、ライアの存在自体が「かく乱」を象徴しており、「夜のロザヴィア」としての活躍を期待されているのである。動乱の時代に生まれた「無垢と魔性」……時代を熱狂させ、奮わせる輝く伝説のエトワ−ル。だが、彼女もまたルナの登場人物として、ヒトの心の深淵を映し出す。その複雑な、カオスな夢にのまれてゆく男達の屍の上を、真っ白な花で埋め尽くして……

2人を追っかけまわしているうちに、すっかり仲間のようになってしまったカイラス。いや、実はちょっとした弱味をにぎられてしまった彼は、「ふん、そのうちほえづらかかせてやる」等とつぶやきつつ、仲間になったふりをしてるらしい。だが、そんな事はライアにもディオにもお見通しで、ここでも「のるかそるか」「やるかやられるか」の緊張と、それゆえに生ずる人間のおかしみや哀しみが語られていく。とにかくこのパ−トは、盗賊ディオの面目躍如であった。見張りとしてつかわれたカイラスが案の定大きい音を立てるなどして場を盛り上げるが、ちゃっかり「月と星の指輪」を取り戻すディオ。しかし、その間にエンデの事で行き違いが起こり、ライアとディオは意地を張りあって、決裂しそうにまでなってしまう。

なぜよりにもよってこのような、候国存亡の危機にある時に、そのような諍いを起こすのか。ルナが単なるヒ−ロ−列伝ではないのも、「自らの弱さに苦闘する人間のありのまま」を描いているからであった。ライアもディオも、古代五部族の血の流れを汲んだ「ヒトならぬもの」ではある。それは他のキャラも同じで、それぞれがその属性のシンボルとして描かれていた。だが、もうすでに、来るべき人間の時代がせまっている。彼らはその過渡期を、その新しい流れをふるえながらのぼる「ヒト」として登場し、古い属性を脱ぎ捨てていくのだ!その後もヒトはそれに倣い、常に輪廻転生を繰り返しては「苦難と苦闘」を、そしてより高い「魂の開放」を目指していく。それゆえに、祖国の動乱と危機の時代に再評価されたのである。

ルナの原典では、ライアとディオの関係性にさえ「かく乱」の要素が入っている。ライアもディオも一応その生い立ちから描かれてはいるが、なぜこの2人が組んで活躍するのかについては、あまり事細かに描写されていない。そして、この2人の間に生じている感情については、さらに肝心な部分がぼかされている。ただ、ライアがロザヴィアとして、ディオにその能力を行使したと言えば、彼に微量の毒を長年に亘り処方して、その身を毒耐性につくり上げたという事だ。彼もまた、そのようにして候国を支えたわけである。

ただ、元々耐性を持っていたライアと違い、ディオはその処方された毒性でもって、かなりその身にストレスを生じさせていたような表現が見られた。それゆえ、ライアとの関係性を論じられる時に、彼女そのものが心的なストレスを生じさせていたのではないか?ひいては、彼の性的な能力へも多大な影響を与えていたのではないか?そう解釈される事が後年の主流だった。そう……「ライアは天使の皮をかぶった悪魔である」という説がかなり根強くあったのである。そして、そこに反旗を翻したのがジェイムズ・バ−トルだった。「ライアやディオを引き摺り下ろすな」と……彼らは我らが憧れ、回帰を願う遥かなる古代の「ヒトであらざるもの」なのだから……と。

この世界も、今突然出来上がったものではない。ヒトならぬ存在が、古代五部族が築き上げたこのテランガという星を、「人間」と呼ばれる我らに譲り渡して、彼らは何処かへ旅立ったのだ。そこから、その五部族とは比べ物にならないほど非力で弱い、牙も毒も棘も持たない「人間」が1人1人積み上げてきた「苦難と苦闘」の上に、無言の屍とそこに咲く花の記憶の上に、今を謳歌する自己が存在するのだという事を忘れてはならないのだ。それを忘れ果てて、単なる自己憐憫に酔い、祖国の動乱を「他国のせい」「先祖のせい」として、「我々は被害者なのだから」と、己と闘わぬ言い訳をする自国民に、JBはその詩で、その政治手腕で、全存在をかけて「NO!」と表現したのである。

ディオはライアから操られた被害者などではなかった。彼はまた、彼女にとって都合のいい存在などではなく、その身を毒に鍛えさせ、「盗賊」としての自分に最大限に活用したのだ。また、毒性……つまりはロザヴィアの属性ゆえに、彼女と行動を共にしようと思えば、どうしたって自己の毒耐性を鍛えなければならないのだ。その毒性はまさに媚薬でもあったが、毒耐性のないものにとっては、彼女と関係するイコ−ル死なのだ。仮に命をとりとめたとしても、性的不能に陥る事は免れず、その多くは脳にまで毒がまわり発狂すると言われている。それゆえに、ロザヴィアは慎重に慎重に相手を見定めて「死のキス」をはなち、ライアとして生きる事でなんとかバランスを保つのだ。

ライアには、ロザヴィアには、誰よりも深く険しい「苦難と苦悩」が与えられているのだ!その存在に、女王と王とルディオンが定めた使命を果たすために、彼女は常にぎりぎりの崖っぷちを駆けていかなければならない。同胞の未来のために、我が身をかえりみる事もせず……それ故に、ディオは彼女と運命を共にするのである。彼女が彼女であるがゆえに、彼もまた彼になってゆく。それはお互いを映し出す鏡となって、水面となって、世界をも映し出してゆく……月も星もそこに輝く。「月よりの乙女」が召喚される道はそこに開かれ、姿を消した2人はその道を通って新世界に旅立った……JBはそう詩っている。

もめるライアとディオ。彼女は「月と星の指輪」を渡せとディオに言う。しかし、譲らない彼。彼女はリグ−サ姫の身代わりになろうとしていた。今この状況で、王位継承の指輪が姫のもとにあれば、彼女の元に送られる刺客は後を絶たない。ライアの一族は候国でも一大勢力を誇る家系であり、候家の血筋をひいてもいる。そして、ライアそのものが、候国でも知られた存在なのだ。彼女は我が身を囮にして、パスル候の真の敵をあぶりだそうとしているのだ!そのために、エンデに協力を仰いで。彼はまだ若いため、それほど高い地位にいるわけではなかったが、彼もまた候国の頂点に近い場所にいる存在だった。

「そんな危険な事をしようって時に、なぜおれがおまえと別行動をしなけりゃならないんだ!?」「仕方ないではないか。おまえにはやってもらわなければならない大事な仕事があるんだから。」「おまえ……おれではおまえを守りきれないからか?おれは身分も地位も何の権力もない、ただの薄汚れた盗賊にすぎないからな……」「訳のわからない事を言うな!いいから指輪を私に渡せ!!」「嫌だ!!」言い合う2人を眺めていたカイラスが、ライアを羽交い絞めにしてディオをその場から逃がしてしまう。「何しやがるんだこの大バカものが!」「ざまあみろ!おれをコケにしやがるからこうなるんだ!!」しかし、カイラスもまた、ディオにシンクロしてしまったのだ。超えられない壁を打ち壊したいのは、カイラスもまた同じであった。

そして、時をほぼ同じくして、パスル候の伯父が挙兵したという情報が入る。この伯父こそが真の敵だったのだ!月と星の指輪が盗まれたのも、この伯父の計略で、しかしこの男は、今の今までパスル候派として彼を擁護し味方となり、その裏で候家の主流を奪おうともくろんでいたのだ。その影には、邪悪なる存在……そう、ギルディエン候国だけでなく、女王と王とルディオンに、ひいてはこの星そのものに災いをなそうとする意識の先鋒が存在している事が明らかになる。このような意識がテランガを満たそうとしており、一国の王位継承争いが、実は次元を超えた戦いをも示唆するのだった。「やはりパスル候の伯父が……」ライアは大して衝撃を受けていなかった。どこかでそれを予感していたのかもしれない。思わぬところに存在する、敵と味方に。

ディオはどこに逃げたのか。だが、彼にはバックに大盗賊団とその情報網がついている。ということは、ライアの行動さえも、彼らには筒抜けなのだ。そして、その情報網によって、ディオはどこにいても、彼女の動向を把握できる。そうなれば、逆にライアが危なっかしい行動をとってディオを挑発すれば、彼は出てこざるをえない。それを百も承知している彼女。そう、舫い舟のように生きる2人だとしても、そこには破滅しかねない駆け引きが、命がけの賭けが存在していた。「指輪なぞなくて構わん!作戦決行だ!!」ライアの高らかな宣言に、観客は声援を送る。

彼女は指輪の在り処を明らかにし(実際には手元にないのだが)、挙兵した伯父に後継者争いの宣戦布告をする。驚く伯父陣営はもちろんの事、他の有力者やその一族は、彼女の行動に憤怒した。伯父のみならず、彼女までも!あまりの事で、国中で冷静な判断が出来なくなってしまっていた。だが彼女は怯まない。それどころか彼らを煽り、ますます収拾がつかなくさせていく。あまつさえ、彼女はエンデとの婚約を発表し、後継者争いにますます有利な態勢を整えようとした。その血筋から言っても、リグ−サとエリアドルに負けるとも劣らない。華やかに婚約披露式をとりおこなうが、それも作戦のうちだった。伯父側の妨害を掴んで足掛りとし、一旦こうと決めたらなかなかひかないディオを呼び寄せるために……

そう、ディオは現れた。だが、なんということか、彼は伯父側の領地に潜入して、そのまま消息を絶ってしまう。伯父側も伯父側で、単に手をこまねいていたわけではない。指輪の在り処をつきとめ、ディオをおびき寄せたのだ。また伯父の陣営では、ライアたちに働きかけ、表面上で同盟を組んで引き込もうとしていた。ディオと指輪はその人質に取られようとしているわけで、下手すればディオは抹殺される。ライアがNOと言えば、彼の存在など意味がないからだ。しかし、それ以前に、あのディオがおとなしく指輪を渡すだろうか?それは有りえなかった。死んでも渡さないだろうし、そうなれば即刻殺される。そしてもし、彼が指輪を隠していたりすれば……どんな拷問を受ける事になるのか。

ロザヴィアの衣装。今回は黒いレオタ−ドを着て、その上に白いドレスを纏う。スリットが大胆に入っていて、長くしなやかな脚が、酔った伯父を誘う。「おお、もしかして、そなたは有名な、それでいて誰もその姿を捉えられぬという伝説の……」「私には名前などありませぬ。これは甘美な夢……月よりの乙女から遣わされた夢なのです。偉大なる、このギルディエン候国を治めるにふさわしい、あなたさまに捧げられた……」オスカルもまた、ここでレジオン語を使う。古代の響き、夢の中の夢。彼女の表情に満ちてゆく官能。観客は息を呑んだ。いや、観客だけでなく、出演者までも。

ディオは……いや、アンドレは、今の今まで迷っていた。この後のシ−ンをどのようにするか、マリ−に一任されていたのだ。ロザヴィアが媚薬を使ってリグ−サの伯父に「死のキス」をはなつ前に、ディオは旅芸人の一座に化けた盗賊団を引き連れて舞台に登場しなければならない。そう、ここで、書きつけに始まった一連の出来事は、実はディオの仕掛けた作戦だと説明される。敵を欺くにはまず味方からなのだが、それにしてもライアとディオの応酬がここに極まれりという場面で、だが、ライアが本気で彼の仕掛けに反応してなければ、やはりこの作戦は失敗なのだ!それほどだったからこそ、この敵を欺く事が出来たのである。

そして、これが可能だったのは、ライアとディオの絆の深さ、お互いの命を預け合うほどの信頼と誠実があったからこそなのである。この後、ディオの想い、ライアにロザヴィアとして、1人で他者に死のキスを放たなくてもいいと、その宿命をも自分とわかちあおうと表現される。原作では、吟遊詩人に化けた盗賊のディオが、やはりレジオン語で、愛するひとに捧げる詩を歌にのせるわけだが、その詩についていろんなヴァリエ−ションがあった。これが劇の雰囲気を決めるといっても過言ではなく、ここでシリアスに表現すればシリアス、ここで笑いをとるようであれば喜劇、そのような大事なシ−ンなのだ。だからアンドレは迷い、どちらかと言えば今回は喜劇的な傾向なのだから、そのタイプのテキストから引用しようか、そう考えていたのである。

だが、ロザヴィアのその官能的な表情を目撃して、彼は瞬時に考えを改めた。そう、迷いに迷っていた自分にけりがついたのである。彼は音楽を担当しているイザ−クに耳打ちをした。「多分ないと思うけど、もしかしたら……」と、打ち合わせだけはしていたのである。イザ−クもそれに同意していた。いやむしろ、そうすべきだと。まだアンドレの決意を、中途で帰国する事を知らされていなかったが、この2人にある緊張感を、イザ−クも彼なりに察知していた。「うん。僕も弾きたかったんだ。このメロディを、今此処で披露したかったんだよ。」そう言って微笑む。だが、アンドレのほうは、かなり緊張の度合いが高まっていた。それで、イザ−クの言葉もとぎれとぎれにしか聞こえなかったほどである。

「我らは南からやってまいりました一座でございます。これ以降もご贔屓を賜りたく存じます。」と、座長の口上が始まる。浮かれきった城内、女たちの嬌声や男たちのおたけびで、騒々しい事この上ない。それとは対照的に、緊迫するロザヴィア。媚薬の効果で、我を忘れて浮かれ事をうわ言のようにつぶやく伯父は、しかし身動きもとれないほどに全身しびれていた。(指輪はどこにあるんだ?ここまで誘導したのに、なぜこの男は在り処を吐かないのだ?ディオは一体どうなってるんだ!?)あせる彼女。しかし、効き目がきれないうちに、なんとかしなければならない。最悪、彼に「死のキス」を与える事は避けたかった。なんといってもパスル候の伯父であり、本来はどちらかといえば気の弱い、リグ−サ姫に甘い男だったのだ。そこを利用されているだけなのは、ライアにもわかっていた。

そして、ディオが前に出る。その手に、いかにもな楽器らしきものを携えて。音楽が変わる。不意をつかれる会場。

ときはめぐりめぐるとも
いのち謳うもの
すべてなつかしきかの人に
おわりなきわが想いをはこべ
わが想いをはこべ

…………時が一瞬、その動きを止める。

その歌声は、真っ直ぐにライアの……いや、オスカルの胸に届き、その心を照らし出した。彼女の動きが止まる。心の動きさえ、その歌は止めた。ややあって、やっとやっと客席のほうに振り返ったライアの表情に、観客は再び息を呑む。そして、その表情を向けられたディオもまた、動けなくなってしまった。色を失って放心したような表情から、一気にその青い瞳に涙をあふれさせていく。荒野を越えて、銀河を越えて、戦を越えて必ず逢おう……その約束がかなえられた瞬間に、彼女はもはや、ここが舞台だという事も気にしないで、そのせつなる願いを、その答えを彼にさしのべた。

オスカルは、少し離れて立っていたアンドレの元にサッと2、3歩歩み寄った。泣きたいのか笑みたいのかわからない表情で、彼女は彼の手をとる。アンドレはまだ動けない。いや、動いてはいけない、そんな気がしたのだ。彼女がうつむくと、彼の手のひらに、涙がふりそそぐように落ちる。暖かな、優しい雫。そして、他の誰にも聞こえないほどのオスカルの小さな声が、アンドレの耳には届いた。「水、水を……」

ほどなくして、観客席から拍手が沸き起こる。ルナの原作では、ここまでライアがディオを心配していたような記述はない。実際、どのように解釈するかは読む人間ひとりひとりの想像にまかせられているのだ。だが、今日の劇の脚本をまとめたのはマリ−が中心で、今回のライアとディオはこのように解釈されているのだろう……と。だとしても!まさかここまで臨場感をともなった場面が実現するとは、誰も、それこそ演じている本人たちさえも、予想だにしなかった事なのだ。アンドレもオスカルも、ここが舞台の上で、決して自分の素に返ってはならない、演じきらなければならない、それは肝に銘じていたはずだった。だのに……これではなんだか、台無しではないのか?

アンドレは、昨年のノエルにイザ−クに頼んでおいたこの歌を、オスカルに贈る機会がないままだった。ジェイムズ・バ−トル……この偉大なる詩人にして政治家が、国家分裂によって引き裂かれた恋人に、夫婦に家族に友人に捧げた、終わりなき想いによせる詩。そしてアンドレはこの詩を、詩としてではなく、どうしても歌にしたかった。何故そう思ったかはわからない。偉大なるJBの詩に対する、これは一種の冒涜かもと考え、結局自分ではそれだけの才もないし……と保留にしてきたのだ。だが、イザ−クと出会って、彼の尋常ならざる、まさに「天才」を感じて、彼はこの詩の事を話題にしていたのだ。

ここに来るまで、アンドレはもう、彼女にこの詩をこの歌を贈る資格は自分にはない、そう思ってきたのだ。劇も練習を始めた頃はまだ迷っていて、それでイザ−クにどうしようか……と話しておいたわけである。だが、自分が中途帰国を申し出、そのまま彼女の前から自分の存在を消し去る……そうしなければならない実感、その永遠の別離を前にして、彼はもはや、自分の事がどうこうではなく、どうしてもオスカルにこの歌を聴かせたい、聴かせなければならない、そんな想いにとらわれたのだ。そう、それは覚醒の種が一粒落ちた、その瞬間だった。

オスカルはオスカルで、なぜこの歌を聴いて自分が泣いているのかわからなかった。この歌がJBの詩だということは以前から知ってはいた。だが、アンドレはこの詩を今まで特に話題にした事もなく、まさかこのように歌にして聴かされるとは思ってもみなかったのだ。確かにこのディオがこのライアに聴かせる歌としては、この場面に非常にふさわしいとも思える。だが、自分はライアでもないのに、どうしてこんなに泣けてくるんだろう?涙がとまらなくて、彼の手をとって何かつぶやいている自分が、なんだか別世界の人間のようで、それでいて「こうするしかできない」自分をとめられなかった。

だが、観客から拍手され、声援さえおくられている。彼女は顔を上げ、アンドレに声をかけた。「おい、探したぞ。このバカ。」ライアの気の強そうな表情と、それを受けるディオのいたずらっぽい目。「ああ、おれもだ。こんな歌まで歌って、おれは盗賊なのに!」元気よく、ハイタッチする2人。しびれでくたばっている伯父をしりめに、指輪をライアに軽く放り投げるディオ。身軽くキャッチする彼女。「よし、こうなったら、いっちょ大暴れしてくるか?」「おう。金目のものがどっさりありそうで、さっきからうずうずしてんだよ。」「ほどほどにしとけよ!」そう言って笑う2人。城内はすでに喧騒につつまれていた。イザ−クの音楽が、一段と高まってゆく。そして、暗転。

場面は現代に戻っている。第3企画室のオフィス。照明の落とされた室内で、ディオのパソコンの画面だけが光っている。なぜか、思い思いに寝込んでしまっていたらしい。ディオやライアだけでなく、企画室の連中が目を覚まして「はあぁ?なんでおれたち、こんなところで寝てたんだ……??」と辺りを見回している。そう、例の企業乗っ取り計画のペ−ジに気がついて、それで全員がパスル候の時代に召喚されたのだ。「なんだか、夢を見ていたような気がするが……よく覚えていないな。」とライア。「そう言われてみれば……」と言う面々。「まぁいい。それよりも……あの計画、本当に実行されると思うか?」

「されんじゃないのかぁ?会長は高齢だし、後継者争いが激化するのは目に見えてるぜ?そこを突こうってわけだろ?」カイラスの顔も、なんだか全員の顔が輝いている。「どうやら全員一致らしいな。で、私たちはそれを手をこまねいて見ているとでも?」と、ライアの表情が挑発的だ。「ふん、おまえも相当悪趣味なのかもな……だが、おれたちは筋金入りさね。こんなおもしれぇ事見逃すバカがいるかよ?」「そうよねぇ。せっかく企画室なんですもの。「会社の明日を考える企画」を出していけば、あまり不自然にもならないでしょ?」「というわけで、じゃあディオ、今からさっそくプレゼンの資料を……」「ええっ?またどこにハックしろっておっしゃるんですか??」「だれもそんな事は言ってないぞ、あくまで企画するんだからな……察しろ。」そう言われてものすごく困った顔のディオだが、「はい、室長……」そう答えてパソコンの前に座りなおす。やっと彼の表情も明るくなり、全員が彼のパソコンの周りに集まって、幕が閉じた。

アロンガルの地平線。見渡す限りの砂の大地。そろそろ雨季のにおいをはらみ始めた風が吹き渡る。大きな赤い夕日は、何ものにも遮られず、真っ直ぐな地平線に沈んでゆく。そんな、いつもの夕暮れ時。その遥かな地平線の向こうから、一台の車がこちらに近づいてくる。砂の道なき道をうねるように。騒音のないこの国では、遠くからの排気音もはっきりと聞こえるのだった。大型のジ−プらしい。こんなところで珍しい……と、オスカルはバイクを止め立ち止まっていた。どうやら、それに向こうも気づいたようである。砂煙をあげてはいたが、助手席の窓から身を乗り出して手を振ってくる男は黒髪だとわかる。彼女の傍に車を止め、運転席の亜麻色の髪の男はこう言った。「すみません、「風の谷」ってご存知ですか?」と、ギリアン語で。

隊員総会も無事に終わり、劇は大成功だった。拍手喝采の中、アンコ−ルまでかかるほどである。もちろん、国旗のための募金も十分すぎるほど集まり、劇を裏で支えたティナの隊員も大喜びだった。マリ−は国旗購入のための資金の残りを、これまた以前から考えていた「子ども達のための奨学金」にあてることにして、そのための口座も開設した。それほど余計に現地での生活費を支給されているわけではなかったが、もともとティナやカオラはアロンガルの中でもかなりの田舎で、あまりお金の使い道もない。それでプロジェのメンバ−もそれに新たに協力して、教育プロジェはにわかに活気づいてきた。そのうれしさからなのか、マリ−は総会の次の土曜の夜、関係者を招いて、自費で自宅で打ち上げのパ−ティを開く。

だが、ここでまた悶着が起こった。カオラ組が到着する前に、すでにちょっとばかり出来上がっていた隊員の1人がうっかり、アンドレの進退の事を口にしたのだ。その彼は、たまたま調整員同士の会話を事務所で耳にしたのだが、まだ申請だけで公にはなっていなかった。だが、カオラのほうではもう承知の上なんだろうと考え、軽い気持ちで口にしただけだったのだが……それこそ、ティナ組はもちろん、カオラ組だとてだれ一人(ロザリ−と本人は別だが)この件は寝耳に水だった。だから、「信じられない」というよりは「全くピンとこない」という顔になってしまう隊員たち。

だが、オスカルは一足先にピンときてしまった。「それは本当なのか?」と、彼女の瞳がアンドレの瞳を射抜く。一瞬にして張り詰める空気に、誰も口を出せない。話題にしてしまった隊員は、酔いが一気に醒めてしまって、おろおろする始末である。「ああ。」彼女の視線に対し、そっけなさすぎる返事。「おまえ、無責任すぎないか?プロジェの事をどう考えてるんだ!?」「別に、申請したからって即帰国できるわけじゃないよ。よほどの緊急時でもない限り3ヶ月くらいはかかるんだ。そうすれば、カタリ−ナの後続には間に合うだろう?どうせ、自分の後続とはすれ違いだったし。」その言葉を聞かされて、ますます怒りに火がつくオスカル。

「だから平気だとでも!?おまえ、だからと言って、後続隊員がおまえに速攻で取って代われるわけないじゃないか?ただでさえプロジェ隊員のほとんどが延長するのに、私たちはそうできないんだぞ……それを……」図らずも医療プロジェの長をまかされ、数々の問題に直面しながらも、なんとかプロジェを立ち上げてきた。風車はもちろん、教育プロジェまで協力して、この国の明日のためにできるだけの尽力をつくそう……そうしてきたこの1年半ほどがちらついてくる気がする。もちろん自分だけではない、プロジェ隊員全員が必死だったのだ!「……すまないとは思うが、こちらも急ぐ理由があるんだ。10月までに申請しなければ、4月の移動に間に合わないんだよ。」

2人のやりとりを聞かされている隊員達は、誰もみな、話についていくだけで精一杯だった。アイス・ロ−ズとアンドレの間に、見えない火花が散っているようで、下手に口を出したりすれば、どうなってしまうのか……しかも、どうやらこの2人にしかわからない事情がアンドレのほうにはある、そんな内容になってきている。だが、アンドレのその最後の言葉を聞かされたオスカルの様子に、さすがに間に割って入ろうかとアランが動きかけた時だった。「この……何も言わないで……」と、オスカルが最後まで言い切らないうちに、彼女の右手が振り上げられ、アンドレの頬を音も高く張り飛ばしていた。フリ−ズする隊員たち。「見損なったぞ!!」そう叫んで、その場から走っていってしまう彼女。それを追いかけもせず、無言で立ち尽くす彼。赤い頬にそっと手をやって。

「すまないな……こんな時に、おれの身勝手のせいで……おれたちにかまわず続けてくれないか?おれも……失礼するよ。」彼女を探しにいくんだろうか?だが、どちらにせよ、2人だけにしておくべきだろう。そう考えて、あえて後を誰も追わない事にする。しかし、気にしないでいられるわけもない。本来の趣旨は忘れられて、会議状態になる隊員たち。大体、あの劇を演じたものも観たものも、彼ら2人の繋がりを信じて疑わなくなってしまっていた。あえて話題にすることもなく、やれやれ……やっぱりな、そんな暗黙の了解が出来ていたのである。それがこんな言い合いを目撃する羽目になるとは、まさに青天の霹靂だった。

「風の谷ですか?知ってはいますけど……すみません、一体あそこにどんな用事が……?」そう、オスカルは、ゲルトル−トたちから聞かされていた「ジ−プの3人組」を思い出したのである。同じメンバ−なんだろうか?確かに1人は黒髪ではある。しかし、話に聞かされた印象とはえらく違う気がするが……「あはは、いやちょっとね、頭の固い上司から呼び出しを……」と黒髪のほうが苦笑しながらそう口にした。すると亜麻色の髪のほうが「このバカ!何言ってやがんだよ!」と黒髪をド突いている。しかし、彼のほうも、さほど真剣にそう考えているわけでもなさそうだった。「ところであなたは……?この国のかたとも思えませんし、そのギリアン語……ギルディア国のかたですか?」

「いいえ、私はソランジェ国からのヴォロンテ−ルです。」「えっ!?そうでしたか、いや、ギリアン語がお上手なんで、思わずそうかと。」彼女の国では、上流のものはおしなべてギリアン語に通じている。国土分割の憂き目にあっても生き残った家系というのは、元々ギルディア国とのコネクションがしっかりしていたところばかりであった。ジャルジェ本家、ヴァクストゥ−ム本社はソランジェ国にあるが、今では一族の半数近くはギルディア国に住まい、ヴァクストゥ−ムギルディア支社は、そのどちらが本社かわからないくらい大きくなっていた。オスカルの父も、1年のほとんどをギルディア国でその任務についている。「じゃあ、私がバイクで誘導しますんで、ついて来てもらえますか?」

元々風の谷には車で乗りつける事はできなかった。いや、道が全くないというわけではなかったが、このあたりの地区の取り決めで封鎖されていたのである。一応、風の谷は民間信仰の対象になっていて、無神経に車を乗り回されるのは谷にやどる神様の怒りをかう事になるだろうと。だが、それにしては風車設置に対して思ったほど反対されはしなかったのだが。そのへんのアバウトさがアロンガルであり、この国に貢献してくれる隊に対する受け入れの気持ちの表れでもあったのだろう。それで普段は隊員たちも、その道を使わず途中から徒歩のル−トをとっていたのだが、さすがにプレハブを建てた時だけは、建材をその車道で運び入れたのである。

「へえ、ここが風の谷なのか。それにしても、別段なんてことなさそうな場所だなぁ。」谷をグルッと見渡して亜麻色の髪の男が言う。オスカルは、別に単なる道案内としてここまで来たわけではなかった。彼らの狙いが何だか知らないが、医療プロジェの長として、谷の封鎖うんぬんは聞き捨てならない事なのだ。実際、風車組は不安を感じており、やる気を削がれてしまうのではないか……と思うと心配だった。「だが、あのプレハブはなんだ?なんやら機材が置いてあるようなんだが……もしやあなたが?」「あ、オスカルでいいです。すみません、名のらなくて。」「オスカル……?って、あなた、女性……ですよね?」亜麻色の髪の男が少々気まずそうに言う。

「そうですよ。まぎらわしい名前ですが、これでもれっきとした女性です。」クスクス笑いながら答えるオスカル。すると、横から黒髪のほうが「ばぁか。おまえのエウリディケも似たようなもんだろ!!」とツッコミを入れている。「うるせぇよ!余計な事言ってんじゃない!!」オスカルに対しては非常に丁寧な言葉遣いの2人だが、彼ら同士は遠慮無しらしい。「おっと、おれはクラウスで、こっちのバカはパ−ヴェルだ。」「クラウスにパ−ヴェルだね、よろしく……で、聞きたい事があるんだが、少し前にここを訪れたらしい男達がいて、彼らはこの谷の封鎖の可能性を示唆していたらしいんだが……もしかして、あなた方も彼らと同じ目的で来たのか?」

「なるほど……ギルディア国からの……ですか。それで、やはり彼らも詳細を語らずなんですね?」ため息をつくヴィク。オスカルは彼らとの出会いを告げに、そのまま彼の家に顔を出した。「そうなんだ。私ももっと深く追求したかったけど、どうも諜報系ではないかという私の予測が当たってる気がして、私ではかえって聞きづらくて……すまない。」「とんでもないですよ!お願いですから、危険な事に近づかないでいてください。ただでさえあなたは……」顔色を変えるヴィクに、思わず笑ってしまう彼女。「ただでさえって……私はそれほど無鉄砲かな?」「自覚のないあなたにこっちが弱ってしまいそうですよ。」そう言い返すヴィクの瞳には、やはりまだ彼女への恋しさが浮かんでいた。

彼ももちろん、マリ−の家での2人のやりとりを目の当たりにしたわけである。ルナの劇で、彼女に歌を贈った彼と、涙を隠しもせず彼の傍に駆け寄るようにして手をとった彼女。それを目撃して、劇中であるにもかかわらず、自分も不覚にも涙が出そうになってしまった。なぜなのか、自分が恋して愛してやまない女性が、他の男性に心を奪われているのを思い知らされたからだろうか?恋敵であるアンドレに対して、くやしい、歯がゆいという気持ちがないわけではない、いや、それどころか最近では大有りな気さえしていた。だのに、あの2人を見てしまって……この想いはかなわない、あきらめるしかない、そうしなければと思った矢先の事で、かと言って、それで「しめた」とは到底思えなかった。

別に、いいヒトぶろうと思ってるわけじゃない。ただ、この隙に彼女にいいとこを見せようとか、あわよくばとか、なんだかそう思う事がバカバカしい。「もっと強引になればいいのに」という声が聞こえないわけではなかったが、彼らを知れば知るだけ、あの2人の絆を、繋がりの深さを思い知らされるばかりで、まだこれ以降、何が飛び出してくるやらわかったもんじゃなかった。アンドレが本気で中途帰国をするつもりなのかどうか、だとしたら、彼が帰るまでヴィクは静観するつもりでいる。どんな理由があるにせよ、彼女を1人残して帰るのなら、それだけの覚悟はできてるのだろう。だとしたら、自分もアイス・ロ−ズを任期終了まで見守ろう……それでどうなるのかは、まさに神のみぞ知るだ。

どこからか現れて、また何処かへ消えて行く。そんな感じでちょろちょろと目にするようになるクラウスとパ−ヴェル。風の谷……ウインドヴァレ−を鋭意捜査中らしいが……実際には谷だけでなく、もっと広範囲で活動中のようだ。アロンガルは、西側のみ海に面し、北・南・東と別々の国に国境を接している。カオラは東の国境の街であり、カオラ州の州都でもある。ウインドヴァレ−は、東の国境線を形作る山脈の一部であり、それらの山脈は、さほど高く険しいというわけでもないが、そうそう簡単に山越えできるというほどでもない。ところどころで山脈は途切れ、その谷をぬうようにして隣国の首都駅まで鉄道が走っていた。

南方の国境沿いには、別の山脈が形成されており、そこから近年、かなり大規模な鉱脈が発見された。そのため、その鉱山をめぐって国家規模の係争が始まっている。国境沿いであり、それ以前にはさほど厳密に国境を設定などしていなかった。しかも、アロンガルと隣国だけでなく、その両国の元宗主国が大きくからんでいる。鉱脈自体を発見し、鉱山を開発したのは我々だと……実態としては、アロンガル側で発見されたもので、それで隣国が「元々は我が国内のものだ」と主張が始まり……そんなたわごとは聞かんとばかりにアロンガル側ががんがん開発をして泥沼……国境では常に小競り合いが起こり、最悪暴動も……

元々、南の部族は向上心もあり(アロンガル国内での比較だが)、その分好戦的でもある。それゆえ、南のショ−ン地方そのものが、アロンガル本国からの独立を目指しており、あれやこれやと複雑な事情がからんで、全体的にはのどかで平和なアロンガルに影を落としている。「……もしかして、芥子の花関係じゃないの?」と、ゲルトル−ト。「そうなのかなぁ……そうかもしれんけど。でも、それにしたって南の話じゃないのか?なんで、よりにもよってウインドヴァレ−なんだろう。」ゲルトル−トもオスカルも、彼らの事が気になる。彼女たちだけではないが、特別に……ゲルトル−トは殺された男の子の事で。オスカルは、その出自ゆえに。「……彼らが諜報系の人間なら、ぶっちゃけ損得なしでは動かない。または、知られてはならない事を抹消するため……かな。国家のためという大義名分こそあるがね。」

「そういうものなの?なんか、勝手に夢を描いてると、幻滅しそうね。」ゲルトル−トが苦笑する。「まあね……国家の……なんて、大きな権力のせいにしがちだが、実際にはわざわざ自分でその仕事を選択して、人間の暗部に手やら顔やらつっこむわけだ。それでも、誰かが成し遂げなければならない事ってのが、確かに存在するんだろう。」同じように苦笑するオスカル。「でも、私たちの仕事もそうなのかも……いろいろ大義名分掲げちゃいるけどさ。」ゲルトル−トのその言葉に、ハッとするオスカル。「……そうだね。医療っていうのも、無数の犠牲の上に成立してるんだって、忘れちゃいけないよな。」

「……よかった、灯りがついてるよ。」彼らと出会って10日ほど経った夜。オスカルは、診療所で1人でレポ−トを書いていた。パ−ヴェルが慌てて駆け込んでくる。「あれ?パ−ヴェルじゃないか。こんな遅くにどうした?酔っ払ってるようにも見えないけど。」そう言って、にこやかに対応する。「夜分にすまないが……お願いがあるんだ。あんた、外科医なんだろう?教えてほしいんだよ。」「なんだって?私は確かに外科医だが……誰か怪我でもしたのか!?」彼の顔の表情に、一抹の不安をかきたてられる彼女。「そういうことなんだが……あんたを見込んで頼みがあるんだよ。」「なんだ?聞ける事と聞けない事があるぞ!」

彼らのジ−プが、診療所の傍に静かにつけられる。「一体どうしたんだよ!?」車の中にクラウスがいる。苦痛を押し隠したような表情がうかがえた。パ−ヴェルと2人でクラウスに肩を貸し、診療所の中に運び込む。「……って、なんだよこれは!何故言わないんだよ!?」とにかく早く建物内に……と、せかされてしまって確認しなかったのだが、着ているものを脱がせると、ざっくりと背中に大きな傷が……まさか、こんなに大きいとは。しかも、ざっと見た感じでも、かなり深くえぐれているような傷である。「こんな夜間じゃなかったら他にも誰かがいるんだが……とにかく洗浄だ!」もちろん、下手にアロンガルの水道水は使えない。それで、生食で洗い始める彼女。「ったく、ここじゃあ生食だってめちゃくちゃ貴重なんだぞ。後できっちり請求してやるからな!」「了解……ドクタ−ジャルジェ。」つぶやくように答えるクラウス。

やっぱりな……という空気が流れる。今まではまだ、お互いに口に出してはいなかったのだが……パ−ヴェルが、彼女の顔色を窺うように話す。「あんた、レニエ・ド・ジャルジェと関係があるんだろう?似てるような気がするし。」そう、彼らは直接レニエと仕事をした事はなかったのだが、その世界では結構有名な彼を知ってはいた。「……そうだが、それがどうした?」「親戚筋かい?」「いや、父だ。」何よりもまずびっくりする2人。「父って……って事は、あんたはジャルジェ家の……すげぇなぁ。」と、パ−ヴェル。「父もジャルジェ家もすごいのかもしれんが、私は単なる一コペロンで、一外科医だが。」どうでもいいよとでも言いたげに答えるオスカル。「そうは言っても……ギルディアでも、名の通った名家じゃないか。その本家筋の娘さんが、こんなアロンガルくんだりで何してんの?」

彼女の表情が厳しくなる。「おまえに説明する義務はないな。少し黙っててくれないか?」冷静にそう言い放つ彼女。さすがに黙ってしまうパ−ヴェル。クラウスは、処置台に腹這いになって、ずっと黙って痛みに耐えている。しかし、彼も彼で、オスカルに対する関心がないわけではない。この、美しくて毅然とした外科医に……この強い太陽光にも負けてはいない、輝く金の髪と青い瞳、白い肌と赤いくちびるの……神と……剣……痛みは続くが、治療されてホッとしたせいか、緊張がとけてくるクラウス。「……ライアみたいだな……」「ライアって?」と尋ねるパ−ヴェル。「ルナティック・サ−ガの登場人物だよ。ロザヴィアほど色香がただよってるかどうかは評価が分かれそうだが。」そう言うクラウスに、思わず笑い出してしまうオスカル。

「分かれないだろうよ。一体、私のどこにロザヴィアほどの色香が……」そう言うオスカルを制するように、パ−ヴェルが笑い出しながら言う。「いや、こいつならわからんぞ!名前からなんから、「ほんとに女かよ?」って相手にご執心だからな。群がるナイスバディを袖にして……」「だからその話をするなって言ってるだろうがこのボケ!!」大きい声を出してしまって、傷に響く彼。顔をゆがめる。クスッと笑う彼女。「さぁて、局麻するかな……」そう言って、棚を開けるオスカル。針と糸をも探す。「いつもは大概2人がかりでやるんで、1人だと時間かかるなぁ。」だが、彼らの言うところでは、「内密に」というのが主眼らしいし、他の隊員を巻き込むのもどうかと思われる。

すると、突然診療所のドアが開く。そして、その場に立ち竦むアンドレ。村周りをしていて、やっと戻ってきたところだった。途中の村で、熱発した親子のめんどうをみてるうちに、夕飯だのなんだのとごちそうになってしまう。彼も、今日は急いで帰る必要もないし……と。いや、本音では、あまりオスカルと顔を合わせたくなくて、活動そのものも外回りにシフトしていた。彼女も隊員がどのような活動スタイルを選ぼうと、ここの場合ではプロジェ活動に則っていさえすれば、いくらリ−ダ−であっても口を出さない。元々、あれこれ口出すのが大嫌いなのだ。もちろん、口出しされるのは同じように好まない。それでも……それでも彼に手を上げてしまった。こんな事は、よほどでなければありえない。

「……これは一体……?」と、アンドレがいぶかしげな顔をする。「見た通りだ。丁度いい。縫合を手伝ってくれないか?」それはまあわかる。だが、彼らは……全く見たこともない顔だ。しかも、2人ともどこか尋常でないにおいを感じる。彼もまた、ジャルジェ家で長く暮らすうちに、この2人のような人物をかぎわけるようなアンテナが立った。オスカルのように積極的に関心を持つ事はあまりなかったのだが……彼が承知するより前に、彼女が2人に向かって説明する。「大丈夫だ。彼もジャルジェ家の人間だから。」そう、他の隊員ではこの場にはちょっと……なのだが、彼なら……とも思って、それでもわざわざ呼びにいくのは……と考えていたのである。もっと大がかりになりそうなら、迷わずそうしたのだが。

「かまわんが……ちょっと待ってくれ。手を洗うから。」低い声で返事をするアンドレ。またもや驚く2人。彼もジャルジェ家の人間なのか……「あなたも外科医ですか?」とアンドレに言うパ−ヴェル。「いいえ、私は看護師ですよ。」さっとマスクをつけ、ディスポの手袋をして、位置につく。無駄のない動きは、彼らの職歴をうかがわせた。2人はほとんど言葉もなく、それでいて、もう何をすべきかほとんど決定しており、あとはそれを実現するばかり……と思えるほどの息の合いようだった。2人の手さばきに見惚れるパ−ヴェル。だが、それでいて、どことなくよそよそしい気がする。先ほどまでの空気とは明らかに違うのだ。この2人は……似てもいないが縁戚関係にあるわけか?それとも……一緒にこんなアロンガルくんだりまで来ているところをみると、もしかして結婚してるのか?FOCVの事は、まだほとんど知らないので、それが「どのような組織か」理解できていない彼だった。

「すみません、紹介が遅れて……私はパ−ヴェルで、こっちはクラウスです。こんな夜分に申し訳ありません。」「いえ、かまいませんが……私は、アンドレ・グランディエです。」え?という顔になるパ−ヴェル。グランディエまで名前なのか?知り合いに姓がグランディエの人間もいて、あまりセカンドでつける名前でもないような気がする。アンドレはすましているが、意図的に言ったであろう事に気がつくオスカル。やや眉をひそめる。だが、彼は何も言わない。相変わらずだ。「よし、終ったぞ。できたら毎日消毒に通ってもらいたいのだが……ここで目に付くなら、何処か別の場所でも……」「そうだな……思ったよりずっとひどいようだし。こいつ、そんな事言いやがらないし見せたがらないしで……このバカ!」そう言って、クラウスの頭をはたくパ−ヴェル。

「おい、破傷風の注射は?」と、アンドレが問う。「あ、まだだよ。ごめん。」それに返事もせず、さっさと注射液を用意する彼。仏頂面で……「いつ怪我を?」「今日の夕方頃だ。」「どうしてこんな怪我を?」この質問は、すでにオスカルがしていた。それに答えてはいたが、もう1度彼にも答えるクラウス。「山の斜面で……あやまって木の枝でざっくりだよ。」「そうか……気をつけろよ。」静かにそう言うアンドレ。「どうする?少し休んでいくかい?泊まっていくならつきあってやるぞ。」彼らだけ残していくわけにはいかない。「悪いな、気をつかわせて……だが帰るよ。また明日頼む。」「そうか……どうする?ここに来てだと、他の隊員の目に入るが……」「そうなんだが……いいよ、構わんから、むしろ適当に、おれたちの事を説明しといてくれないかな?むやみに驚かせたくないんでね。」

「了解だ。もし自分がいなくても、アンドレかカタリ−ナがいるから、いい時間に来てくれ。私は明日は1日ここにいるよ。緊急事態でも発生しない限りね。」「すまないなあ……いろいろありがとう。この恩は忘れないよ!」「ああ、こってりと治療費を請求してやるから、覚悟しておいてくれよ!」そう言って笑うオスカルに、つられて笑う2人。アンドレだけは変わらずの表情である。2人を見送るオスカルとアンドレ。ジ−プで帰っていく彼らを確認し、アンドレに声をかける彼女。「突然巻き込んでしまってすまなかったな。もう帰っていいぞ。」「……まだ診療所が片付いてないだろうが?さっさと片付けて、おまえも帰れよ。のんきなカオラとはいえ、もう遅いぞ。」と言って、診療所に戻る彼。それを追うようにして彼女もそれに続く。

片付けるとは言っても、2人ならそう時間もかからない。ほとんど無言だが、先ほどとは違ってしまう空気。彼らがいるといないとでは大違いだ。なんとも気が重くなるオスカル。きっと、アンドレも同じような気持ちなんだろうな……相変わらずの仏頂面だが。大体片付け終えて、もう1度彼に声をかける彼女。「ありがとう。驚かせてしまって悪かったね。」すると、今までオスカルの目を見ようともしなかった彼が、その態度を翻す。じっと彼女の瞳を見つめる彼。「……あいつら、何者なんだ?」「おまえ、誰からも何も聞いてないか?とは言っても、正体をつかめてるわけじゃないが……」「……大丈夫なのか?それで。」「何か心配事でも?」そうオスカルに言われて黙り込んでしまうアンドレ。「今日はもう遅い……明日話そう。どうせ、他の隊員にも話をしなけりゃならないし。」「そうだな。」

「ありがとうな。昨日はどうなることかと思ったんだが……今日はかなり楽だよ。」「だが、まだ痛むだろう?無理するなよ……そうだ、ちゃんと薬は飲んだか?」「ああ……薬が効いたんだろう。ちょっとばかり熱っぽかったが、今はなんともないぞ。」夕方遅く、ちゃんと消毒にやってきたクラウス。出払っていたパ−ヴェルが戻ってくるのを待っていたらしい。ちょっと遠巻きにしている隊員の面々。とは言ってもアンドレはやはり村周りに出払っており、カタリ−ナとゲルトル−トとフリデリ−ケがいるだけだ。もちろんゲルトル−トは興味深々なわけだが、後の2人も、興味と不安が入り混じって、聞き耳を立てないではいられない。「こいつはやたら丈夫なのが取り柄なんだよな!」そう言って笑うパ−ヴェル。

「どうもそうらしいな……で、どうなんだ?ウインドヴァ−レ−について、何かわかったのか?」含みのある笑みを浮かべながら、ズバッと核心に触れるアイス・ロ−ズ。虚をつかれて、すぐ言葉にならない2人。しかし、そのまま無視できるわけでもない。「……いや、たいしてはかどってないのが実情だよ。第一、レオからの指令そのものがワケわからん。」「レオって?」「一応の上司だ。ただ、配属されたものの、どうもやりにくくて……あんたと同じぐらいには上流の出身らしくて、だが謎の人物だよ。東の出身じゃないから、余計にそう感じるだけかもしれんが。」もしかして、ゲルトル−トたちが出会ったという3人組の1人だろうか?そう思った瞬間に、彼女が口を開いた。「ホントに谷を封鎖するつもりなの?」

カタリ−ナやフリデリ−ケも、心配そうな顔でこちらを見ている。もちろん、アイス・ロ−ズもそれが一番気になるのだ。それほどの事が、あの谷に関係しているのかと。「……それはおれたちにもわからないんだ。だが、レオがそう言ったのか?」と、クラウス。顔付きが厳しくなりつつある。「多分そのレオってヒトだと思うわ。黒髪に黒い目で、大型のジ−プにも負けないって感じだったわよ。連れの人はそこまでじゃなかったけど……」「そうだろうな。だが封鎖とは……あっちはおれたちとは別行動なんだよ。まぁ、なんとはなしに、おれたちは追っ払われてる気がしないでもないがね。」2人して、苦笑いをするのがなんだかおかしい。

「さほどあの2人からは、今のところ切羽詰った感じとか、危険で怪しいという感じはないね。ランク的には危険度Cってぐらいだ。」「そりゃまあ、おまえの言うAだのBだのだと、もはや隊員であるおれたちが顔を突っ込めるような範囲じゃないがね。」村から戻ってきたアンドレに、オスカルが今日の話を説明する。「どうも、彼らの上司でレオという男が谷の封鎖の可能性を示唆したらしいんだが、今のところその兆候はないらしい。ただ……」と、オスカルの表情の変化に、アンドレが呼応する。「……ただ?何か気になるのか?」「考えすぎかもしれないんだが、慎重すぎる気もするんだよ、彼らが。ここはギルディアの首都などではなく、アロンガルのどん詰まり、この国からさえ全く注目などされていない地域だ。レオとかいう男の方針かもしれんが、もっとやりたい放題になっても不思議じゃないぞ。」

「……ということは、やはり何かがある、それもかなり重要な機密の可能性も……ってことか?」「ああ。だがそれは、今アロンガルで既に表面化してる問題とは、違う観点からなのかもしれない。なんともこう、彼らと話していても、どうも雲を掴むような感触しかなくて……考えすぎだろうか?」「いや、あながち間違ってるとは言えないかもな。実は……村周りをしていて気づいたんだが、妙に共通した噂がたってるんだよ。」一瞬、彼女の表情の緊張度が増す。あぁ、こんな表情は旦那様にそっくりだと感心してしまうアンドレ。いわば、ジャルジェ家の「顔」だ。やはり本来ならば、彼女も旦那様と同じく諜報系でも活躍できるのだろうに。

「それは一体どんな……?」「「廃墟から来た」んだと。」そう言われてけげんそうな顔になる彼女。「なんでも、ここらへんじゃ見かけたことのない男の子が、谷の周辺の集落近くで目撃されてるらしい。いつも夜なので、1人でポツンと立っている男の子を心配して、大人が声をかけるらしいんだが……何を聞いても答えず、ただ、「どこから来た?」だけには答えるんだと。」意外な話に驚きを隠せないアイス・ロ−ズ。「で、その答えが……」「そうなんだと。それだけ答えて、かき消すようにいなくなるらしい。ほら、谷で殺されて発見された男の子がいただろう?彼じゃないかって。」「まさか!あの男の子の幽霊だとでも?」なんだそんな話なのかよという顔になる彼女。しかし、アンドレのほうは、頭から笑い飛ばす気にもなれないらしい。

「霊かどうかは別にしても……だ。むしろ、あの殺された男の子の件を利用して、そんな噂になってるのかもと思ったんだが……話を聞くと、ほとんど交流のない村々で、ほぼ同じ内容を聞かされるし、実際に男の子に遭遇したらしい人の話を聞くと、どうも作り話には思えない。ここんとこ急になんだよ……それこそ、クラウスとパ−ヴェルの出現したあたりからだ。」「そうなのか……なんなんだろう?その男の子は何が言いたいんだろうか?廃墟と言われても、このあたりにそんなものがあったか?遺跡……とはまた違うんだろうが、それだって聞いた事がないな。」考え込んでしまうオスカル。「……とにかく、用心しろよ。おまえは、気になるとそのままにしておけなくて、無鉄砲をやりだすからな。」

「あ、なんだよ、ヴィクと同じ事言いやがって!自覚が足りなくて悪かったな!!」思わずポンポンと口にしてしまう彼女。だが、言ってしまってハッとする。それまでその表情をほとんど動かす事のなかった彼なのだが、ヴィクの名前を出された途端、一瞬怯んだような表情になる。そんな顔をさせるつもりで言ったわけじゃないのに……だが、怯んだ事の反動なのかなんなのか、睨むようなきつい視線の彼。「その通りなんじゃないか?さすがにヴィクは、おまえの事をよく理解してるようだが。」皮肉っぽさはどこにもない、ただ自分に向けられるその言葉に、反射的に言葉を返さないではいられない彼女。「ああ、そうだね。おまえたちの洞察力には恐れ入るよ!さぞかし私は、燃え盛る炎の中にさえ飛び込んでいきかねない、考え無しに映ってるんだろうな!」

それから2日後の事である。オスカルは、ここんとこ谷の事が気になっていて、活動の合間にしばしば風車組に合流していた。やっと壊された部品の修理も終って、本格的な設置と稼動を目前に控えている。なんとかそこまでもってこられた3人の努力。イオスはもうすっかり帰国の事など失念してるようだ。風車自体は、現在手に入る中ではかなり小型のものを選んだつもりだけど、それでも相当の重量だった。それゆえに、さほど地盤が強固でもなさそうな谷での設置場所を探すだけでも一苦労である。土木組がいなければ、到底実現できなかったであろう。その土木組は、谷での活動を一旦切り上げ、再び拠点をティナに移している。仮住まいだった猫屋敷の敷地はそのままに、アロンガル国からFICAに供与される事になった。診療所の敷地予定地とは異なり、ティナでも最も便利な場所にあるこの土地に、芸能学校を新設できるわけである。

そして、重機やらその他もろもろと一緒に、本国からイオスと同じように専門家が派遣されてきた。なんでも、こうやって発展途上国でのハコモノ建設をたくさん手がけてきた人物らしい。一体どんな人物なのか、尊大ぶったヤツなら追い返してやる……と鼻息も荒い土木組のメンツだったが、背のあまり高くない、見たところどこにでもいる普通のおっちゃん風だったので拍子抜けしてしまう。しかし、やはりいくつもの国々を渡り歩いているだけはあって、なかなか度胸の座った男だった。かなりの酒豪でもあるので、すっかり連日の酒盛りに励む土木組に、教育プロジェのマリ−がドツキを入れにいったりするほどだ。「ああもう、酒飲みは手に負えないわね!!」「仕方ないよ。きっと、とっかかり始めたら、彼らの事、ばりばり進めてくれるさ。」と、ハンスがなだめている。それをにこにこ笑って見つめるイザ−クとロザリ−。

オスカルが医療プロジェのリ−ダ−なように、マリ−もいつしか音楽プロジェのリ−ダ−になっていた。いや、実際にはハンスがかなりバックアップしたが、大体において教育の連中は、気が長いにもほどがあるというタイプが多く、積極性にも欠けていた。それは医療と比較して……だったが。それゆえ、どうしてもマリ−が前に出ざるを得なくなってしまったのだ。本来なら、彼女も「ガラじゃない」なのだが、それこそ任地マジックというやつかもしれない。なので、プロジェの進み具合が思わしくない事が気になってしまうマリ−。医療はもちろん、かなり後発の風車にも水をあけられてるようで、やっとルナの劇で一矢報いたというところだった。それでも、実際には他のプロジェ、特に同期の多大なる協力あっての事である。オスカルとアンドレの事も気になっていて、彼らの心理的負担を思うと……

オスカルが活動の合間をぬって、谷に様子を見に来た。すると、プレハブのほうで、何か言い争うような声が聞こえる。何事かと、急いでバイクを止め、声のするほうに向かう。「私たちはソランジェから派遣されているFOCVの一員なのです。私たちの活動はアロンガルから認められているのですよ!」「それはわかっている。だが、このウインドヴァレ−に妙なものを建設されては困るのだ。」ぞっとするような低い声。駆けつけたオスカルの目に飛び込んできたのは、数人の言い争う男たち。半数は風車組だった。顔を真っ赤にするモ−リッツ。「オスカル!こいつら、わけのわからん因縁をつけて、おれたちの邪魔しやがろうとするんだ!!」と、興奮して叫ぶ。そう、突然現れた彼女に、その場の視線が一気に集まる。だが、彼女の視界は、威風堂々として、黒い黒い髪に黒サングラスの……これがレオとかいう……に占領されてしまった。

おや?という表情になるその男。しかし、ただそれだけだ。どこにも隙がなく、心の揺れを連想させる要素は見当たらない。この男は……そう、彼女こそ、他の隊員の誰よりも、彼のような男を理解すると言っていいだろう。そのアンテナが、彼女の表情を一転させる。つかつかと、彼らに歩み寄るオスカル。「あなた方はどこからいらっしゃった?我らは許可を得ているのだが、あなた方は?」驚く風車組の面々。彼女は……そう、ウンボロの海岸で、銃を向けられた時のオスカルが出現していた。笑顔さえ浮かべているというのに、他を圧倒する威圧感。ジャルジェ家の真の後継者にしか与えられない、その血統の内包する思想を理想を精神を体現するその姿に、息を呑む男達。

だが、それに負けず劣らずの男の存在……それがレオであった。「君はなんだね?名前と身分を名のりたまえ。」「あなたこそ、そのサングラスをとったらどうだ?人にそのような要求をするわりには、失礼がすぎると思うのだが。」さすがにそう指摘されて、返す言葉につまる彼。それを聞いて、多分に部下であろう男が顔色を変えて彼女に怒りの視線をぶつける。そのようなものにはビクともしないオスカル。そして、部下を制して、彼が言われたとおりにサングラスをはずす。弾丸のような、人の心を射抜くような、黒い黒い瞳。(これは…………!)お互いがお互いの心の中で、同時に同じように驚嘆するオスカルとレオだった。だが、レオのほうが、先に表情を変える。そう、あることに気づいたのだ。

その表情の変化を見逃さず、彼女が不敵な笑いを浮かべながら名のる。「私はオスカルだ……オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ。FOCVのアロンガル国医療プロジェのリ−ダ−だ。」そう言って、片手を差し出す彼女。それを聞いて、思いがけないほど……一瞬ではあるが、衝撃を受けたというような表情を見せたレオ。だが、速攻で建て直し、差し出された手をとって握手する。「私は……レオニ−ドだが、訳あって今のところ身分は明かせない。だが、君はおおよそを掴めてるのではないかな?」「あなたも、私に心当たりがあるのでは?そして、クラウスやパ−ヴェルと名のる男達の上司ではないのかね?」会話は進んでいくが、その流れにレオとオスカル以外、ついていけてない。そして、凝視しあう2人。

「どうやら、お互いの予想通りのようだな。であれば、私たちの使命がいかに重要か、あなたには理解できるであろう?そのような、ヴォロンテ−ルごときのレヴェルではないと。」どこかに嘲笑的な響きさえ含ませて、そう言いきるレオニ−ド。「なんだって!?それは私たち隊員のみにあらず、ソランジェとアロンガル両国に対する侮辱だ!あなた方が国家規模の使命を負っているのなら、それは私たちも同様だ!!」青い瞳に駆け抜ける、一瞬の充電と劇的な放電。金色の雷光と銀色の爆音。思わず身を乗り出すようにして、彼女を止めに入るヴィク。「アイス・ロ−ズ!お願いですから、無茶なさらないでください!」「離せよ!何が無茶だ、だったらおまえは、このまま風車をあきらめられるとでも!?」「場合によっては、それも仕方ない事です!どうか、お気持ちを……」「私は嫌だ!!仕方ないで……仕方ないで、ジジの死をすませられるもんかよ!?」

そう、彼女だとて、何もわからずにそう言いつのっているわけではない。彼らは……彼らのような存在ならば、我々の活動など、なんだかんだと吹き飛ばしてしまうだろう。それを最も理解しているのが彼女だ。国家のためという大義の元に、場合によっては、個人など紙切れのように封殺できる彼ら、そして、そのような存在を多く輩出し、長きに渡って支配階級に君臨する我が一門……だが、彼女はどうしても、その現実に「仕方ない」とは言えなかった。この世を見据えて笑うには、冷たい悟りを持てもせず、この世を望んで走るには、心に荷いすぎる彼女。自分に与えられたものには、決して安住しきれない、それがオスカルなのだ!

「ふっ……聞きしに勝る威勢のよさだな……だが、我らは単にこちらの都合だけを押し付けようというわけではない。我々がそちらの活動を止める権利がないのならば、おまえたちにも、我々の活動を止める権利はなかろう?その上で、おまえたちに危険がふりかかったとして……その責任は誰が負うのだ?君なのか?」「はぁ?責任も負えない事を、おまえたちはしようというのか!?」歯切れの悪い言い方しかできないのは、任務の性質上、仕方ないのかもしれないが、この男は一体何が言いたいのか?イライラしてしまうオスカル。「なぜオスカルが、そんなわけのわからない責任を負わねばならないんだ!?そっちの責任だろうがよ!」頭にきて、モ−リッツが叫ぶ。

「心の問題だ。はっきり言えば、おまえたちがどうなろうと、我々は実際問題として、たいした打撃は受けん。だが、おまえたちはそうはいかないだろう?」ハッとする隊員たち。この男はわかっているのだ。そうなった場合、誰が一番打撃を受ける事になるのか……ヴィクが必死の表情になる。「アイス・ロ−ズ、お願いですから、彼らの任務が終るまで、プロジェを凍結してくださってかまいません!」「だって、ここまで来て……」本来は彼女のプロジェではないこの風車にまで、責任と愛情を感じてくれている彼女。それだけで、自分の今までの全てが報われる、そんな気がする。「その通りだ。別に何十年と続けるわけではない。せいぜい1年未満だろう。それで納得してくれるかね?」しかし、その「せいぜい」が、2年しかない活動期間の彼らにとって、どれだけ重たいものなのか!

すると、それまでずっと黙っていたイオスが、やっと口を開いた。実質上のリ−ダ−は彼なのだから……「谷の封鎖は、速攻で行われなければならないのですか?」「なるべくなら早急に……というところだが。」すると、少し考える間があいて、もう1度彼が口を開く。「でしたら、風車の仮設置と、発電実験をさせてください。ここまで来ていれば、もう何日とかからないはずです。雨季に入ったので、いい風がきていますし。」そこまでできれば、自分が帰国しても、なんとかその後を引き継いでいけるだろう。最初はただ強引で横暴にさえ思えた彼らだが、話を聞いているうちに、全く妥協できないわけでもなさそうだとわかる。レオとかいう男の説得の仕方も、なかなか巧妙だが、悪意は感じられない……何より、必死になっている若いリ−ダ−と、その彼女を護ろうと必死になっている彼らに心が動かされるイオス。

「まぁ、数日ならかまわんだろう。しかし、その期限以降に谷に立ち入って、どのようなリスクを背負う羽目になっても、我々は関知しないからな。」「では……5日待ってもらえないかな?それで一旦我々は引き上げるが……その後もコンタクトをとらせていただきたい。その先が我々にもあるんでね。」「よかろう。5日後にまたこの場所でな。」そう言って、さっさと引き上げるレオニ−ドたち。どうも、部下の2人は言いたいことが山とあるのか、片方など敵意を顔に出してさえいる。腹心のほうは、さすがに何事もなかったような顔をして、彼に付き従っていったが……それを見送る風車組とオスカル。一陣のク−ドヴァンとともに。「よし、ぐずぐずしちゃおれないな。さっそく突貫で立てるぞ、なんなら土木から1人2人さらってきたまえ!」イオスの声は明るい。

「そういう事なら私が連絡してくる!」そう叫んで、オスカルがバイクに飛び乗る。「お気をつけて!ありがとうございます!」風を切って走り出す、その姿を見送るヴィク。いまだかつて、このように心が、いや自分の存在全てが、天にも昇らんほどの高揚を覚えたことがあっただろうか?今までの自分なら、「土木の人たちは、教育プロジェにとりかかってるし、何より元々、彼らの本分は診療所と音楽学校の建設であって、我々の風車とは何の関係もないのに、いいんだろうか……」などと考えてしまって、そのくせはっきりと拒絶さえできない……自分は傍観者でしか、ない……と感じるばかりだった。それが……

それから約3時間ほど後に、「1人2人なんてケチくさい事言ってられっか!雁首揃えてやってきたからな、ガンガン行くぞ!!」と、これもまた、やたらテンションの高くなっているアランが叫ぶ。なんと、土木チ−ムの専門家、ビザ−ルまで。彼はハコモノ専門で、風車は本来範囲外なのだが、長年の途上国における任務が彼を「何でも屋」に変えていた。「隊長から電話があったんだけど、何が起こってるんだ?このウインドヴァレ−で。」「でも、今はとにかく、風車をまわす事だけ考えような!」フランソワにジャンにピエ−ルも、いつもよりずっと早口になっている。それほどに、この事態は衝撃的なことなのだろう。

オスカルは、風車に関しては、直接携われる事がほとんどない。それで、コ−ディネ−タ−のハンスをつかまえて、必要な対策について、今後の風車プロジェの、いや、アロンガルの全プロジェ活動のあらゆる可能性について、とことん協議して話を詰め、暫定的ではあるがレジュメを作成した。FOCVの歴史において、まだプロジェ活動の歴史など、ほとんど無に等しい。彼らが先陣を切るしかない、なんのノウハウの蓄積もないところでのこの異常事態!なんせ、相手はアロンガル本国より桁違いに手強い相手なのだ!下手をすれば、隊員にもどれだけの危険がふりかかるか……そして、そのリスクの存在を、ほとんど知らされないであろう、住民たちは……もはや、腐ったような調整員などに躓いている場合ではない。

そして、一時帰国していたベルナ−ルが戻ってきた。話を聞かされて仰天する彼。しかし、彼の口からも、驚愕の内容の話がもたらされる。「ソランジェが、単独でギルディエンに加盟するかもしれん。事実上はギルディアとの吸収合併だ。属国に成り下がろうとしてるわけだ、我が祖国は!!」その場に居合わせた隊員は、全て頭が真っ白になってしまって、声も出なかった。ギルディエンとは、「ギルディア連邦」とも言われ、ギルディア国と同盟を誓い合う国々との連合体である。だが、実質上は対等な関係ではなく、超大国になりつつあるギルディア国の「穏やかな侵攻」と揶揄されてもいた。

それでも、それらの参加加盟国は、ルナの時代からギルディエン地方とも呼ばれ、一旦は分裂したものの諸処の事情で……である事がほとんどだ。だが我が祖国は違う!もちろんギルディエン地方と言っても差し支えないかもしれないが、起源をたどれば明らかに「ヴィエナソランジェ地方」だったのだ。ギルディエンの起源よりも古いほどに。そして、あろう事か、ヴィエナと合同ではなく、単独で?という事は、ソランジェは、ヴィエナとの再統一という50年来の悲願を捨て、ヴィエナを見限って大国におもねると言うのか??それともギルディアが、不遇な隣国の加盟を拒否しているのか?どちらにしろ、これが裏切りでなくてなんであろうか?

「信じられない……そんな事が現実にありえるのか?この50年以上に渡る苦難と苦闘を、どうしたら……」オスカルも、それ以上の言葉が出ない。他の隊員にいたっては……遠く離れた祖国のリアルはとどかない。「まだ、ほとんどリ−クしていない情報なんだが……発表されれば、国中が大地震に見舞われたほどの事態になるだろう。確かに、西大陸では、多くの国々が1つの連合体として結束を固め、東に対抗する共同体を結成しようとしている。だがそれは西の事情があるからだ!東には東の事情があって、だのに、単なる対抗勢力として数を頼みにするような真似をするのは愚行もいいところだ。西の真似してどうする!?」さすがにジョナリスの彼は、その演説にも迫力があった。「まさか……レオたちの……」と、アンドレが口にしかけてやめる。ぎょっとするオスカル。

「まさか……だが、彼らがこの情報を既に手に入れているなら……むしろ、近年その傾向にある、アロンガルの元宗主国とソランジェの、連帯に対する偵察か何かかもしれん。ギルディアは、元からあまり、元宗主国に好意的ではないからな……」シン……とする室内。そう、50年以上前の国家断裂から後、ヴィエナ、ソランジェ両国から、この元宗主国に亡命、または移住したものは相当数になっていた。東の、特にギルディア国の体質に嫌気がさしているヴィエナソランジェ人は多いのだ。それが彼らの民族としての誇りでもあり、規模としては大きくなくても、独自の文化や経済を発展させてきた。ルナの昔から!そして、そのためにギルディアはヴィエナソランジェを、ここぞとばかりに断裂させたのであり、それに対して西側は強い嫌悪感を示した。

それだけでなく、この元宗主国は、ヴィエナやソランジェからの移民をどこよりも積極的に受け入れ、今や自国の主要なレヴェルにまで、元ヴィエナソランジェ人を受け入れているのである。これもまた、西側の大国として、東のギルディアへの対抗意識の表れであった。パワ−バランスの天秤を大きく傾かせてはならない。それは、このテランガという星そのものの存亡にかかわってくる。とにかく、ギルディアにこれ以上大きな顔をされるなど真っ平ごめんだ!西と東があらゆる面で行き来するこの現代において、その始まりにおいてはむしろ後進であった東側に対し、西側は「ポッと出の田舎モノが」という印象をぬぐえていなかった。「そうなんだ……実は、おれがアロンガルに入国したのも、そもそもは、ソランジェと元宗主国の関係性の動向を追っかけていたからなんだよ。」

今の今まで、ベルナ−ルがなにゆえこのような辺境の国にわざわざ……?という理由を聞かされていなかった隊員たち。だが、先ほどの衝撃を思えば、彼の行動も納得がいった。まだ、ソランジェと元宗主国の繋がりに関して言えば、目に付くほどの事もなく、大きなニュ−スになる事もなかった。それこそ、それを日常的に意識していられる一般人など国内にはほとんどおらず、むしろFOCVのような立場の連中が、アロンガルなど元コロニ−において、少しばかり意識する……いや、アロンガルは、鉱山の利権がらみで、かなり意識せざるをえない状況にはあった。それでも、あくまでも表立っているのは元宗主国であって、まさかこの程度の繋がりでギルディアが動くとも思えないのだが……

だが、とにかく約束の期限はせまっている。グズグズしている暇はないのだ!あれだけビザ−ル就任記念と称し、酒盛りに興じていた土木組なのだが、全員人が代わったかのような働きぶりである。この姿を見れば、マリ−もまず安心するだろうと思われた。ハンスも、一時教育と医療プロジェでの活動を凍結し、風車と、レオたちの活動に対する対策に頭を切り替えた。だが、それこそやっと、彼のコ−ディネ−タ−就任以来の努力の成果を確かめられる機会でもあった。彼の築いていたコネクションにより、レオたちの情報がそこそこ手に入る。だがしかし、ある程度以上になると、どこからか圧力がかかるのか、とりつく島もないという状況に陥る。とにかく、圧倒的な情報不足なのだ。アロンガルでは仕方ないことなのだが……それでもあきらめず、ベルナ−ルとも組んで、ありとあらゆるツテに、情報収集をかけていく。

もちろん、FICAの事務所や大使館にも、それなりの情報を流し、協力を求める。事務所は隊員の安全管理に大きな責任を負ってもいるので、初めはハンスたちの報告を暢気に聞いていた職員も、しぶしぶ対策を協議せざるをえなくなる。それでもまだ、現場になかなか出向こうとしないお役所体質にイライラさせられはするが。商社関係にも、信用できそうな筋にあたっていく。それまではあまり突っ込んだつきあいのなかった彼らとも、劇開催のおかげでか、「ああ君か!」とすんなり迎えられるハンス。とにかく状況がどう転ぶか皆目見当もつかない。レオがブラフをかます、すなわちリスクを大仰に語った可能性もなきにしもあらずだ。だがとにかく、コ−ディネ−タ−としては、全てをプロジェの明日に繋げなければならない。

リスク管理は最重要とも思われる責務だ。このような途上国では、お上の(FICA事務所の)権力などでは間に合わない事があまりにも多すぎる。戦禍に巻き込まれるヴォロンテ−ルなど、珍しくもない話なのだ。それでもFOCVがそれらをなんとか回避しているのは、やはり、現地の言葉を話し、現地の風土を理解して、現地の人間とのコミュニケ−ションをはかってきたからである。例えその文化や宗教や言葉を共有していなくとも、人と人として、心と心で交わってきたからこそ、遠い異国の地でも誰かからの助けがさしのべられるのだ!それは一朝一夕には成し遂げられず、時には対立を、不信感を招く事もあった。むしろその膨大な失敗こそがFOCVの財産ともなって、やがて各国からの評価を得るまで、金銭的な援助だけにとどまらない期待を受けるまでになりつつあるのだ。

仮設置までは、さほど時間はかからなかった。本設置ではないので、設置における風圧の構造上の耐久度なども、さほど心配しなくていい。だが、問題は風だ!ウインドヴァレ−というだけあって、ここらあたりでは最も風の通り道になっている。しかし、のべつまくなし吹いているわけではないし、ましてや発電に足りるほどの「力強い」風は、それこそ雨季の激しい雨の前触れに吹くク−ドヴァン以外には、あてにならないと思われる。実際、立ててみても、普段通りの風ではビクともしないのだ。「予想はしてたけど、やっぱりなぁ……」と、イオスが苦虫をかみつぶしたような顔になる。「ネットで調べてみましたら、もっと小型の風車が、実用化に向けてあと一歩……という記事もありましたが……今それをくやしがっても仕方ないですしねえ。」と、ため息をつくヴィク。

「とにかくあと2日だ!そろそろ雨がきてもおかしくないぞ……前に降ってから結構なるだろう?」と、モ−リッツ。それこそ、睡眠時間を削って突貫工事にいそしんだ土木組も、なんとか義務を果たせたと立ち上がった風車を見上げつつ……ビ−ルを片手に……白く美しい羽根が回転し始めるのを、今か今かと待ち受けていた。そして……その日のお昼過ぎ、雷雲とともに、とうとう銀のドラゴンがウインドヴァレ−を駆け抜けたのだ!銀竜とは、この国では、命の雨をもたらす「雲と風」の神の使いだった。その天からの使者は、それまで沈黙を保っていた白き羽根を……うるわしい天使の羽を口笛で誘って、新しい歌を大気にあふれさせた。ギィ……という振動ともなんともつかない音を合図にして、風車がその翼を広げる。やっと歩く事を覚えかけた幼子のように、おぼつかない両手を精一杯広げて。

その瞬間、竜の咆哮とも聞き違えそうな、隊員たちの叫び声が谷に響き渡る。「やった!!」「回った、回ったぞ!」「それでどうだ?発電機との連動は?」「見てみろ!わずかだが針が踊ってるぞ!計器は間違いなく作動してる!」「ということは、一応成功したとみていいんですね?」「一応じゃなくて、れっきとした成功だよ!もっとも、風がやんでしまえばそれまでだが……」しかし、風はまだやまない。そして、いつも通り、金色の雷光と銀色の爆音に引き続いて、激しい雨が大地をゆらさんばかりにたたきつける。それで残念ながら、風はほとんどやんでしまったが、彼らの喜びはそれさえもお祭りに変える。そう、泣いてもわからないのだ!その場に居合わせた風車と土木の隊員たちは、例外なくうれし泣きしていた。

肩を抱き合って風車の成功を喜ぶ男達の前に、彼女が現れる。そう、空の色と大気のにおいで、雨が近いと予感した彼女。それで、用事をさっと切り上げて、バイクで谷に向かってきたのだ。残念ながら、オスカルが谷に到着した時には、もう既に風車はほとんど動いてはいなかったけれど。「アイス・ロ−ズ!こんな雨の中、谷にバイクなんて大丈夫ですか!?」いち早く彼女の姿を見つけて、駆けつけるヴィク。そう、この場に彼女がいたら……この瞬間を、彼女とわかちあえたらどれだけ幸せな事かと熱望していた彼。しかし、彼女は自分の任務に忠実であり、傍に引き付けてはおけない。それで、そのようなそぶりさえ見せなかった彼だが、駆けつけてきてくれた彼女に感極まってしまう。

それまで、彼もまた、決して泣かなかった。女々しいところを見せたくなかった。それはアンドレへの対抗意識が根底にあったからでもあったが、何にもまして名門の、ジェロ−デル家の嫡子としての気概や誇りこそが、彼を支えていたからだ。だが……天にその両手を広げて歌い始めた我が風車への愛情が、彼をいろんな締め付けから解き放った。彼は生まれて初めて……最愛の人を前にして泣いた。かなり強い雨がまだざんざんと降り続いているというのに、明らかに彼の涙が勝っていた。だがもう、それを隠そうともせず、彼は泣きながら笑ってもいた。「ヴィクト−ル……」とだけ呼びかけたアイス・ロ−ズだったが、彼女もその言葉の後が続かない。「ありがとうございます。あなたがいてくださったから、風車も私も……」銀竜の気配が消え、一条の光が谷に差し込んできた。

「あはは、頭のてっぺんからつま先までびしょぬれだね!」と、オスカルがクスクス笑いながら言う。「アイス・ロ−ズ……あなたの事ですから、「水もしたたるいい女」になってますよ。」ヴィクもヴィクで機嫌がいい。「それを言うならおまえじゃないのか?いや、おまえだけでなくて、みんないい顔してたな……ほんと、よくやったよ。」まだ笑顔だが、微かな揺らめきの見える表情に変わる。みんなして、ヴィクとモ−リッツの家に避難してきた。いや、人数が人数なので、土木組はイオスの家(元々はアランたちの住居なわけだが。)に行って、着替えた後、もう1度合流しよう、そう言って別れていた。「最初にシャワ−を使ってくださいね。でないと、私たちが落ち着かないですから……」

「いいのか?なんだか悪いね。勝手に押しかけてきただけなのに。」その言葉に思わず苦笑するヴィク。そして、口にする。「その……いつでも、押しかけてくださればいいんですよ。私のアイス・ロ−ズ……」ややはにかんだ表情がとれてはいないものの、いつもとは明らかに違う彼。その視線も、その声も、その雰囲気も……それにどう答えればいいのかわからないオスカル。思わず視線をそらしてしまう。その姿にひるみそうになるものの、静かにヴィクは口を開く。「さぁ、シャワ−を浴びてください。その後、前々からお願いしていたように……」「……うん。わかった。どっちにしろ、着替えを持ってきてて正解だったよね。」雨季に入ってから、バイクで移動する彼女は常に着替えを常備していた。

実は、以前風の谷で、ヴィクはあやまってオスカルのブラウスに機械油をベッタリとつけてしまったのだ。そして、ヴィクにはそれが、かなり高価なものであるとわかっていたのである。もちろん彼女のほうは、こんなところに着てきた自分が悪いと言って、逆に彼に謝ったほどだった。しかし、それでは気のすまぬ彼の事、いい機会だからと、クチュリエでアロンガルの民族衣装を注文したのだった。そう、あの、彼女に結婚を申し込んだノエルの後のことである。それを内緒にしてきた彼だった。そう、風車が回った時、その時にこそ彼女に贈ろう、そして、それを着た彼女の姿を見せてもらおうと。

この封鎖騒動のゴタゴタのさなか、ヴィクは「もし風車が回ったら、プレゼントを受け取ってほしい。」そう申し出ていたのである。そう言われては、彼女も無碍には断れない。元々、昨年のノエルと彼女の誕生日ということで、渡すはずだった分の贈り物だった。ましてや、台無しにしてしまったブラウスの代わりということで、彼女にはたいして断る理由などなかった。そう……まだはっきりさせたわけではないのだ。ヴィクと自分の関係を。だが、いつまでもこのままではいられない。お互いに決断しなければならない時にさしかかっている。その気持ちがお互いを緊張させていた。

そのプレゼントの封を開けるまで、オスカルはそれを、よくある、上下お揃いの布地で作ったブラウスとパンツの組み合せのものだと思っていた。実際、彼女はその組み合せで既にオ−ダ−した経験があった。もちろん高級なものではないが、軽くて、しわにもならず、洗濯してもあっという間に乾く。ちょっとした旅行などには最適であった。今彼女が着ているものもそうで、場所もたいしてとらず、重宝していたのだ。だが……「こ、これは……?」声もでないほど驚く彼女。そこには、見事な刺繍に彩られたアロンガルの女性の民族衣装があったからだ。生成りのつやつやした厚手の生地で、それに色とりどりの花模様が散らしてあった。胸元に、袖に、裾に……それは全部現地アロンガル人の手作業なのである。

言ってしまえばそれは……花嫁衣裳と同等のものであった。いや、アロンガル人でも、これだけの美しい花嫁衣裳を纏える女性は限られている。これだけの刺繍をほどこすとなれば、下手すれば数ヶ月の期間を要したはずだ。(アロンガル人のマイペ−スを考慮すればなのだが)もちろん、それだけに高価なものなのだ。いくら自分のブラウスの代わりだとしても、あまりに釣り合っていない……いや、金額の事ではない。気持ちの上でだ!「……どうしてこんな……こんな見事なものを……」手に触れるのさえ、ためらってしまいそうだった。だが、あまりの美しさに、吸い込まれるように見入ってしまう彼女。「……お気に召しませんか?」そう言うヴィクの声が微妙に震えている。「そんな事……!でも、でも……受け取れないよ。」「アイス・ロ−ズ!どうか、そんな事をおっしゃらないでください。」

「ごめん……ごめん。ヴィクト−ル、これは受け取れないよ。私は……私は……」うつむいてしまうオスカル。そう、彼のためにこの衣装を、花嫁衣裳を装えない。私は、誰のためにもドレスを……自分の意思に反するように涙があふれてとまらない。「どうしてですか?何故着ていただけないんでしょうか……?私は、将来に渡ってこのアロンガルを見続けていきたい。それほどにこの地は……つまらない私を変えてくれた、大事な恩ある場所なのです。この愛する国の衣装を愛する人に着ていただけないとは……あなたは、この国を、アロンガルを愛してらっしゃらないのですか?」そう言われて、ハッとして顔を上げるアイス・ロ−ズ。「そんな事……私は、私だってこの国を想ってるよ!」「でしたら……せめて一度でいいですから、袖を通していただけませんか?」

じっとその衣装を見つめていたオスカル。そう、それは確かにこの国の、アロンガルの魂が宿った民族のための衣装だった。「じゃあ、この上から着るよ?」「ええ。この衣装はそうやって着るものだと思います。ゆっくりしてるので、大丈夫だと思いますよ?」そう、わざわざ着替えるために、席をはずす必要はない。だが、ヴィクは「着替えられたら、声をかけてください。」と言って、自室の外に出た。彼が視界から消えても、オスカルはすぐには衣装に袖を通せない。この暖かく輝く白い装いを見つめている。ここに、彼の気持ちがこめられているのだ。その気持ちに……自分はどのように答えるべきなのか。

「いいよ、ヴィク」そう言って、オスカルがヴィクに呼びかける。彼はしかし、その彼女の声さえ自分の鼓動にかき消されそうなほどの高ぶりをおぼえていた。色白の顔が、赤くなるのを通り越して、かえって青ざめてさえ見える。しかし、彼は心を決めると顔をしっかりと上げ、躊躇せず扉を開けた。「どうだい?着てみたら、思ったより長めなんだね。」そう彼に話しかける彼女は……「アイス・ロ−ズ……!」ヴィクはそう言ったきり、もう声が出ない。どうして……どうしてこんなに美しいんだろうか!?それこそ化粧してるわけでもなければ、髪を結い上げているわけでもない。宝石に飾られているわけでもない。それに比べれば、なんとも質素でささやかな花の刺繍があるばかりだ。

だが……彼女そのものが宝石以上なのだ!青い瞳も、金の髪も、白い肌も、赤い唇も……あぁアイス・ロ−ズ、あなたに逢うために、成功と不成功の確率が半々と言われた手術にも耐えられた……もう、死に怯えなくてもよい、その喜びが世界を輝かせていたあの瞬間に、あなたに初めて出会ったんですよ……!あなたは私の憧れ、私の夢そのものなんです。それをあぁ、うまく伝えられない自分がはがゆい。彼なら……アンドレなら、この彼女をどう表現するのでしょうか?それともやはり、言葉もなく立ち尽くすのでしょうか……思わず涙がこみあげてくるヴィクト−ル。その表情に、思わず狼狽してしまうオスカル。

「どうしたんだよ……実は期待はずれだったとか?」彼女の顔がほんのり染まっている。彼の涙についつられるように、彼女の睫にじわっと涙がまとわりつく。「そんな事をおっしゃるなんて、あなたって人は……」そう言いながら笑顔を取り戻すヴィク。「だってさぁ、馬子にも衣装とは言うけど、もっとこうフェミニンな感じの女性のほうが似合うんじゃないか?」「そんな事はありませんよ。ほら、こちらに来てください。」そう言って、部屋に作り付けのワ−ドロ−ブの片一方の扉を開ける。そこには縦長の鏡が備え付けられていた。その鏡の前に立つ2人。「なんてよくお似合いなんでしょうか。あなたはやはり……この国に来るべき人だったんでしょうね。あの風車の白い羽根のように、アロンガルから祝福されているのですよ、きっと。」

「ヴィク……」「残念ながら、明日にもあの風車は撤去しなければなりませんがね。けれど、発電にも成功いたしましたし……」やはり笑顔のヴィクだったが、今度はオスカルのほうが涙してしまっていた。「どうされたんですか!?」仰天する彼。「ごめん……ごめん!私はプロジェのリ−ダ−なのに、結局それを止められなくて……」「どうして謝られるんですか!?あなたがあのレオニ−ドとおっしゃる方と対峙されたことで、なんとかあそこまで……私1人では、何もできなかったでしょうに。」「だって、だってあれは……」口に出さなくてもヴィクには通じていた。あの風車は、ジジを失った彼女への、自分にできる精一杯の応援だったのだ!それをわかってくれている彼女。

「研修所の食当でご一緒させていただいた時、ついアイス・ロ−ズと呼んでしまいましたね。私は……実は防衛医大病院で手術を受けたんです。その時あなたは……もうあなたは、医学生として、あのキャンパスを歩いておられた。」初めて聞かされる事実。それで私を……「手術を無理に受けなくても、一生無理をせず、そこそこの安静を保っていけば、なんとか生きながらえる事はできる、そう言われていました。でも、私にはそれは……ジェロ−デル家の嫡男として、せめて跡を継げないまでも、誰にも迷惑をかけず1人立ちしたい、小さな誇りでも、それを大事にしていきたかった。」彼の口調に熱が帯びてくる。

「それで、成功率は半分だけど、手術を受け、そして運良く成功したのです。なんという幸福!ですが……私は、手術を受ける前に見たあなたの顔を、あなたの姿を、なんとしてでももう1度見たかった。そして、それが叶えられた……あれからずっと、私はあなたを追いかけていたのです。こんな私はおかしいですか?気持ち悪いですか?」熱っぽさを増す彼の視線。そうだったのか……それで私に……「そんな事ないよ!何も知らなかったし、会ってからもそんな事、今まで一言も言わないから、なんでおまえのような誇り高さを備えた人間が、私の「追っかけ」なんて自分から言い出すのか、よくわからなかったよ。」そうかもしれませんね……と、彼は声を出さずに頷いているようだった。

「でも……自分はおまえのような男から追っかけられるほどの人間じゃないよ。私は……」そう言って、俯いてしまうオスカル。自分は、エレ−ンも、ジジも……そして……「そんな事をおっしゃらないでください!忘れてはいませんよね?野外研修の時に私が申し上げた言葉を!あなたほど優しい方はいませんよ。でも……そうやって、他者のためになら全てを投げ出さんばかりのあなたを、どうか私に……お願いです、アイス・ロ−ズ、どうか私のプロポ−ズに答えてください……!」そう叫んで、オスカルを抱きしめるヴィクト−ル。あぁ、ここでウィと言ってしまったら……

「アイス・ロ−ズ、このまま、私の胸に……」その言葉に導かれるように、オスカルが顔を上げる。彼の薄緑の水晶のような瞳が、彼女を捉えて離さない。彼だけではない、彼女もまた、お互い引き寄せあうようにして、そっとくちづけようとする。彼の腕に熱がこもり、かたく抱きしめて、2人はキスした。前回のように、一瞬のふれあいではなく……だが、そのキスが、彼女の記憶の扉をたたいた。彼女の心に、一気に映像が送り込まれる。その臨場感に、その衝撃に吹き飛ばされそうになるオスカル。自分が散らした白と紫の薔薇の花びらが舞い上がっては降りかかり、息が止まりそうだ。そして、その花びらは、赤い炎に一瞬で灰と化した……

「エレ−ン!!」悲痛にそう叫ぶオスカルに、心底驚かされてしまうヴィク。それこそ、病気が再発でもしたかとあせるくらい、文字通り心臓が止まりそうになった。だが、何事かと、一瞬で退いて、彼女を支えようとする彼。そして、その瞳を見て絶句する。自分を見ていないどころではない。そうだ、あの……ジジが息をひきとったときの、あの目だ!なぜ、今どうしてこんな事に……いや、だが彼女はジジの名前ではなく、エレ−ンという女性の名前を??そう、ヴィクはもちろん、エレ−ンの事を何も知らなかった。彼女の事を知っているのは、ロザリ−とアンドレだけなのである。震えている彼女。

「アイス・ロ−ズ!どうなさったんですか??」だが、オスカルは答えない。彼女は次々とよぎる記憶のフィルムに立ちすくんでいた。炎上した旧市街のメインロ−ド。救急車と消防車とパトカ−のサイレンが同時に鳴り響く。爆風に砕け散り、熱さに溶けかけたガラスの破片。それを全身に浴びて倒れている人、人、人……悲鳴と怒鳴り声とうめき声が、砂埃を上げる風に遠くまでもっていかれる。すえた火薬のにおいまでが蘇って、彼女は息をすることさえ、苦しい。そして、いくら探しても、愛するエレ−ンの姿はない。彼女の笑顔がそのままで……オスカルの心を引き裂く。「アンドレ……薔薇の花を……」彼女の口から出たその名前に、衝撃を受けるヴィク。

「アイス・ロ−ズ、やはりあなたは……」ヴィクの顔が苦渋でゆがむ。「アイス・ロ−ズ、どうかおっしゃってください。あなたは……アンドレを愛してらっしゃるんでしょう?」そう問われて、やっと少しだけ自分を取り戻すオスカル。だが、心の震えは止まらない。「アンドレを……?どうして?」呆然とそう答える彼女をゆっくりと誘導して、ベッドに腰掛けさせるヴィク。その隣に自分も腰を下ろし、ゆっくり問いかける。「では他に、どなたかいらっしゃるんですか?あなたのお心をとらえているかたが……」その言葉に、何か考え込む様子の彼女。いや、ヴィクにはそのように見えているが、実際には彼女はまだかなり混乱していた。そして、やっと言葉をふりしぼるようにして答える。「エレ−ン……」と。

「そうなのですか?では、よろしければ、私にその彼女の事をお話していただけませんか?」穏やかなヴィクの声。そう言われて、彼女の顔が少しばかり明るくなる。そう……オスカルは懺悔したかった。彼女にとって、彼はそのような対象だったのだ!聖なる精神的支柱……ヴィクがオスカルを「月よりの乙女」ととらえているように、地上に遣わされた聖なる存在と崇拝するように。確かに恋愛感情は希薄なのだが、彼女にはヴィクの存在もまた必要だった。それゆえに、オスカルはぎりぎりまで迷い続け、そして、とうとう封印していた記憶を解除した。彼に……大きく枝を広げて憩わせてくれる彼に、ただただ胸のうちを打ち明けたくて……

エレ−ンとの出会い。捨てられた靴を探していた、裸足の少女。あまり栄養状態のよくない環境にあった彼女は、金の髪につやもなく、その紫の瞳は落ちそうに大きく見えた。それでも……オスカルには、彼女の強い意志が見えた。決して屈服しない、強烈な生きる意志。そして、それでも聞こえる彼女のためいき。許さないと叫ぶ野良犬の声は、それを踏み砕く車輪の音にかき消される……オスカルは、どうしようもなく彼女にシンクロした。まだ幼さの残る背に、荷い切れないほどの大いなる家名……だが、彼女はジェルジェ家の、思想を精神を理想を見事に具現する存在となるべく生まれてきたような存在でもあった。そこから決して逃げ出す事もなく、前を見据え、心意気に輝く稀有な存在……そこに、エレ−ンも惚れ込んだのだ。何の言葉も説明もいらない、魂のシンクロ……

だが、運命はそれでも彼女たちを引き離す。そして、オスカルは、エレ−ンの死を、自分のいたらなさが招いた悲劇だと、そう断言する。「アイス・ロ−ズ!そんな、どうして……」それまで、彼女の話をだまって思慮深く聞いていたヴィクの顔色が変わる。「結局……私は世間知らずの温室育ちなんだよ……どこかで、彼女に壁を感じていたんだ。それは彼女自身をも含めた、彼女の世界に躊躇してたからだ。好きだの愛してるだの言いながら、荒野を2人で歩む、その覚悟がつかなかった。中途半端に彼女に接触して、その挙句が……」なんとかここまで「懺悔」を続けたオスカル。だが、一気に号泣に変わる彼女に、ヴィクは手も足も出ないという面持ちで、ひたすら彼女のその姿に見入ってしまっていた。

「オスカル、私が絶対にあなたを守ってみせる。あなたを巻き添えになんて、絶対させるもんですか。」

「そうやって……彼女は何も言わず、私をかばって、たった一人で逝ってしまったんだ……!」そのままもう、言葉にならないオスカル。あまりの泣きように、ヴィクは思わず彼女の体を支えずにはいられなくなった。なんと愛しい人。「アイス・ロ−ズ……あなたのせいではありませんよ……エレ−ンという人は、あなたを守りたかった。それがかなったのですから……どうか……」「そうじゃない!!」思いもかけぬ反論に、またもや度肝を抜かれるヴィク。もう、彼女は泣き止み、だが、それは心のあまりの苦痛に、涙さえ止めてしまったからだった。「どうしてそうやって、何も言わないで、私をかばってそして、置いて逝ってしまうんだ?私を愛すれば愛するだけ、みなそうしてしまう……それがどんなにつらいか、いくらそれが本望なんだと言われても、私にはそうじゃないんだ!!……難しい事や有り得ない事を望んでるんじゃないのに……」息もつかぬ彼女の告白。

こんなに……私の……私のアイス・ロ−ズは苦しんできたのか!皆が皆、同じように感じるわけでも、苦しむわけでもないだろうに、どうしてこんなに……彼は圧倒されてしまって、何かに張り付けられているような、そんな気さえしてきた。あぁ、自分は、これほどの苦しみを、自分の人生から学んできただろうか?自分も自分なりに必死だった。だがそれとは、何か次元が違うとしか思えない。彼女の苦しみを、自分は本当に理解しきれるだろうか?そう不安になった彼の心に、ふと、アンドレの顔が、あのあまり感情を表に出さない、黒い瞳の彼が映し出された。彼なら……彼ならば、彼女の苦しみを理解できるのではないか?過去を記憶ごと全て失って、空の手でジャルジェ家に育った彼に、並大抵ではない苦闘の日々があったはずだ。でなければ、今もこうやって彼女のそばにいられるはずもない。そして、このエレ−ンについての彼女の苦しみも、きっと彼なら理解できる、そんな気がしてならなかった。

彼に懺悔しながらも、彼女の記憶の覚醒は進んでいた。春の夜のフィルムは回り続け、今度は消毒薬のにおいが鼻をかすめる。そして……彼の告白。私を愛してると……だが、あまりに不吉な影……!!暗く、重く、冷たい漆黒の闇。神の定めた道に背いた者の辿る最果て。そこにひきずりこまれ、体中を凍りついたまま引き裂かれるヴィジュアルに、気が遠くなりそうになるオスカル。「アイス・ロ−ズ!?大丈夫ですか?どうなさいました??」彼の言葉が遠くに聞こえる。だがそこで、彼女を取り戻したのは、アンドレの声だった。「おれが死ぬまでそばにいるから……」

「いやだ、はなして!!」そう叫んで、ヴィクの腕から逃れるオスカル。だが、それはヴィクへの嫌悪感からでは、なかった。そう、覚醒は進み、彼に……アンドレにボタンをはずされ、そして……だが、ヴィクはもちろんそうだとわかるわけもなく、自分のあつかましい振る舞いを、拒絶されてしまった……そう感じて、ひたすら恐縮してしまうのだった。その様子に、我に返るオスカル。そうだ、彼はヴィクト−ルで、アンドレではない!アンドレから感じさせられた異性への怖さを、ヴィクにまで適用するのは八つ当たり以外の何物でもないのに……どうしてこうなんだろうか……「ごめん、ヴィクト−ル。」

「とんでもありません!私がいたらないばかりに……失礼のほど、どうぞお許し下さい。」と、膝をついて頭を下げるヴィク。このようなポ−ズもきまっていた。彼はやはり、ジェロ−デル家の長男なのだ。「頭を上げてくれよ。私は……私こそ、おまえに謝らなければならないんだ。」それを聞いた彼が驚いて顔を上げた。「アイス・ロ−ズ、何を謝るというのですか?謝らなければならないのは私のほうです。あなたの心は残念ながら私にはない。それをわかっていながら……あなたを求めずにいられなかった。でも……」苦しそうなヴィクの表情。だが、答えを出さなければならない。「あなたを愛しています。けれど、私は、今の私では、あまりに物足りないことでしょう……やはり、あなたは天がけるシルフィ−ドなのですね。」

そうなのだ。少しだけ追いついたかと思えば、もっと空高く、遥かな風にのってさらなる高みを目指している。深い苦しみを抱えていても、決して自己憐憫に陥ったりせず、自らの使命をはたそうとするその姿……あぁ、私ではだめだ!今の私では、彼女から憐れみの感情くらいしか、引き出せない……自分が……自分がアンドレに対しても、ずっと引け目を感じていたのは、彼ならば彼女の感情を、心をもっともっと引き出せるからだ。「アイス・ロ−ズ、このままアンドレを帰してしまわれるのですか?」隙をつかれたとはこのことで、びっくりしてしまうオスカル。ヴィク自身も、なぜ問うてしまったのか、あきれると同時に自分の本音を見たような気がした。「彼の事は彼自身が決めることで、私には関係ないよ。」平気そうに言おうとして、かえってどこかぎこちないのがせつなく聞こえる。

「そうなのですか?」彼が口にしたのはそれだけだ。たったそれだけしか言われてないのに、ヴィクは私の気持ちに気がついている、そう思えてくる。アンドレとの距離感が、どんどんつかめなくなっているのだ。彼を求める気持ちと拒む気持ちとで板挟みになってしまう。ただ……ただ言えることは、こんな気持ちの自分が、ヴィクからのプロポ−ズを受けることは、絶対できないということだろう。全ての愛を裏切ってしまうような真似は、できない。「ヴィク、気遣ってくれて、本当にありがとう……彼の事は……アンドレのことは、愛してるのかどうか、わからないんだ……」「でも、彼を不幸にはできないでしょう?違いますか?」エレ−ンという女性の悲劇に、これだけの長い時を苦しんできたアイス・ロ−ズ。その彼女が、アンドレの不幸と、予想される悲劇−−−それを見過ごせるわけがない。それは必ずや、彼女をも打ち砕くであろう……自分の考えている事が、彼女にわかったのだろうか?オスカルは静かに、「その通りだよ、ヴィクト−ル。」とだけ答えた。

翌日は、朝からまるで、空が雨の事も銀竜の事も忘れたかのような快晴だった。家に帰ってからも、あまりよく眠れなかったアイス・ロ−ズ。雨季直前の頃の熱波のような高い気温ほどではないが、まだまだかなり暑くて寝苦しい。それでも早朝は過ごしやすくて、彼女は自転車にも乗らず、のんびり歩いて診療所にたどりついた。冷たいものも冷蔵庫にあったが、さほど欲しくなくて、お湯をわかしてカフェをいれる。値段がはることははるのだが、首都に行くと挽いてある豆が密封パックで売っていて、とりわけおいしいものがあった。他のみなもそれがイチオシなので、こうやっていつも用意してある。飲みながら、ぼんやりと、窓の外を眺めるオスカル。カオラの暑さは格別で、あまり植物も育たない。それでもこの時期だけは、雨に誘われるように、カラフルな花々が短い命を惜しむように咲き誇る。

パタン……と、診療所の入り口のドアが開く。ハッとする彼女。こんな早くに誰が……?振り返ると、そこにはヴィクト−ルがいた。彼も驚いている。「……おはようございます!すみません、まさかいらっしゃるとは思わなくて……」彼の顔が、少しずつ染まっていく。昨日の今日なのだが、やはり彼女は、彼にとって生きがいなのだ。「おはようヴィクト−ル。今朝は早いんだね。」彼女も彼女で、気まずさと照れくささがごちゃ混ぜで、なんとなく目を合わせては、俯いてしまう。それでも、なんとかお互い笑顔でいられることがわかって、ホッとする2人。「ええ。今日は……風車を撤去しますので……プロジェのリ−ダ−であるあなたにも、今まで風車プロジェを支えてくれた他の隊員にも、敬意と感謝の気持ちを伝えたくて、ここでみなさんを待っていようと思いまして……」

「ヴィクト−ル……!そんな、まだレオたちは何も言ってきてないだろう?そんなに撤去を急がなくても……」「いいえ、いつまでも風の谷にあっては……なんだか未練を引き摺りそうですし、何か迷惑がかかってもいけませんから……風車だって、安心して風に吹かれていたいでしょう?」そう言って笑うヴィクの表情は、しかし寂しさがにじんでいた。「ヴィク……どうして彼らは、この国の平和をさえ、脅かそうとするんだろう……もう、自分たちの大陸で十分だろうに……争いは、新たな争いしかうまないのに……」悲しそうな彼女の顔。今までならば、せいぜい「あなたの理想は素敵だ。素晴らしい。」としか感じなかっただろう。だが、あなたが決して理想だけを唱えているのでなく、その悲劇の本質にかかわる経験をして、その上で……と、今はわかる。そうなれた自分がうれしくもあるが、それだけに、彼女の悲しそうな顔がつらい。

話題を変えたくて、彼は思い切って口にする。「アイス・ロ−ズ、やはり、あの衣装は受け取っていただけませんか?」それこそ、未練がましくはなく、明るい表情になりきれているだろうか?それだけが不安である。しかし、その不安は杞憂のようだった。彼女は、すまなさそうではあっても、なんとか笑顔になってくれたから……「うん。ごめんね……とてもうれしいんだ。うれしいんだけど……やっぱり、受け取れないよ。それより……ヴィクト−ルに持っていてほしいんだ。あの衣装は……本当に、アロンガルの魂がこもったものだよ。」「そうですね……では、あれはあなたから私にお輿入れした……ということにしましょうか。この国は……私をかえてくれましたよ、本当に……」そう言って、彼女を見つめるヴィクト−ル。その瞳を拒まず、お互いに、見つめあう、2人。

その場に、突然現れるアンドレ。彼はいわゆる診療所の表のドアからでなく、裏から入ってきた。そちらは小さな三角のドア止めで開放されており、誰かが入ってきてもあまり音がしない。アロンガルの現地の娘が、診療所の助手として雇われており、彼女が掃除に来ているとばかり思い込んでいたアンドレは、見つめあう2人に遭遇して、息が止まりそうに驚いた。だが、その場から、逃げ出す事はできない。彼の登場に、オスカルの表情が変わる。負けまいとして、毅然としようとして、かえってそれが痛々しくさえ、ある。アンドレもまた、同じようになんでもないという顔をしようとして、かえって事態を悪くしそうな、そんな様子だった。

「邪魔して悪かったな。」と、それだけ言うアンドレ。一瞬、3人のにらみあいとなり、ヴィクが口を開く。「ええ、邪魔です。」なんでもなさそうにそう言い切る彼に、オスカルもアンドレも仰天した。「せっかく、昨晩のことを2人で語っていたのに……まぁ、このような場所でと非難されるかもしれませんが、恋する者は盲目なのですよ。」これは一体……オスカルは呆然としてしまった。だが、それ以上にアンドレは……「それはすまなかったな。邪魔者は去るよ。おれはいつも通りこのまま村廻りに出るから。」口早にそう言うと、サッと振り返って戸口から出て行く。彼のバイクの音が聞こえ、それも遠くなって、消える。そうなっても、声が出ないオスカル。

「……あきれましたか?」と、ヴィクのほうが先に彼女に話しかけた。そして、彼女の答えを待たず、彼は言い放つ。「どうしてあんな事を……とお思いでしょう?けれど、私には我慢できませんでした。どうして、彼は、アンドレはあなたを、そんなに不安そうな顔にさせておいて、「おれは関係ない」って顔をなさるんですか!?」「ヴィクト−ル……」「ヴァクストゥ−ム社の件で電話がかかってきたとき、あなたがどれだけショックを受けていたか、それがわからないのですか、彼は!?今だって……私はあなた方の間に何があるのかわからない。だから、今まで何も言わなかったけれど……どうして私にこんな事を言わせるだけで反論もしないんですかね。」

「彼は……今までもこうだったよ。よっぽどでないと、「おれは関係ない」って顔をするし、そう振舞うんだ。でも……私がそうさせてしまったのかもしれない。」全部ではない。全部ではないのだが、あの夜の事を思い出し始めている自分。私は今さっき、そんなに不安そうに見えたんだろうか?だとしたら、それは……これ以上を思い出す事に躊躇している自分がいるからだ。思い出さなければいけないと思う自分と、そうしたくない自分。またもや、凍りついたままの自分が、バラバラに引きちぎられる映像が頭をかすめる。「……アイス・ロ−ズ。私までがあなたを不安にさせているようですね。ごめんなさい……」彼も顔色が悪くなっているようである。それに気づくオスカル。「違うんだ……そんな事ないんだよ。」

「やっぱり、そうなんですよね。」と、今度は少しばかり寂しそうにするヴィク。「何が?」けげんそうな顔の彼女。「いえ、あなたを不安にさせるほど、感情を揺さぶれるのは彼だけ……でしょう?そう思い知ってるからこそ、あなたをあきらめようと思うんです。けれど、あなたをやたらと不安にさせるのは、いくら彼でも我慢できません。あなたは……輝くアイス・ロ−ズなんですから……」そう言う彼。彼女は感動さえおぼえていた。今まで、正直言って、彼ははにかみやで、思う事も他の者に言わせるようなお坊ちゃん育ちだと感じている部分が消えなかったのだ。「ヴィク、ありがとう。でもそうだね、彼とは……アンドレとの事は、2人の問題なんだ。私たち2人がなんとかしなければならないね。」表情がやっと明るくなる彼女を目にして、ヴィクもまた緊張のとけた、いつもの彼の顔に戻っていた。

ウインドヴァレ−に、再び昨日と同じメンバ−が集結する。やはり、昨日とは打って変わって士気が上がらない……という雰囲気だった。だが、落胆しているわけでもない。撤去はしても、いつの日にかきっと……ま白な天使の羽が歌いだす、その日を信じているから……「ジョゼ号、その日が来たら速攻で立ててやるからな!それまで休んでろ、いいな?」アランが風車に話しかける。いつの間にか、この風車にはジョゼという愛称がついていた。そう、ジョゼは、見た限り聞く限りでは、まさに「天使」のような男の子だったのだ。アロンガル人なので肌は浅黒く、いわゆる「天使画」に描かれるような風貌からは遠い。しかし、なんとも愛嬌のある、それでいてどこか凛々しい顔立ち、その目の表情のなんとも優しかった事!怪我をした弟をおぶって何キロもの砂の道のりを歩ききった彼は、まさに「天使」そのものだった。天上の世界に近かった。

彼がマンゴ−の木から落ちたのも、彼の弟や村の年下の子達にせがまれて登った結果……だったらしい。ある年齢に達するまでは木登りも厳重に禁止されていて、それでも実る黄色い果実に誘惑される子ども達。大きい子ども達が独り占めにしたりするのを、指をくわえて眺めているしかない。優しい彼は、そんな時も頼りにされる事が多かったのだろう。それゆえの事故……「ええ。いつか必ず……ジョゼの魂を、この白い羽根の上で憩わせてあげたいものですよ。」と、ヴィクが目を細めるようにして、風車を見上げる。彼とは自分も何度か話した事があった。その時の顔が目に浮かぶ。「よし!じゃあ、あのうるさいのが文句つけに来る前に、びしっと片付けようぜ。わけのわからんごたくを聞かされるのはごめんだよ。」と、モ−リッツが元気そうに言う。彼はしかし、黒髪の諜報屋たちに、内心では最も腹をたてていた。

女性たちも声をかけてはいてくれたが、今夜だけはと男同士で飲むことにした面々。「飲む」ということだけであれば、こうやって男性だけで……という事のほうが好ましくそんな機会もしょっちゅうあった。だが……今回の場合、カオラ組ではアンドレだけが風車プロジェに不参加だった。もちろん彼も知らん振りしていたわけでなく、あまり目立たない部分でフォロ−していたりする。ウインドヴァレ−に何が?と不安がる村人に説明して回ったり、ベルナ−ルだけにでなく、イオスにも、隊員ではない彼らのためにできる事はなんでもやった。それでも、決して表立った事をしなかったため、なんとなく今回は声を……いや、そうではなかった。やはり、アイス・ロ−ズをめぐっての、ヴィクとアンドレの関係が、このような機会にも影を落としていた。

以前行った、国境の近くのレストランバ−で飲み食いし、その後カオラの街中に戻ってきた面々。既に一軒目でかなり酒量が上がっており、状況に対する反動でだか、みな陽気でにぎやかだった。「さぁて、もう一軒いくかぁ?それともおれんちでやるか?首都からいいのを仕入れてきたぞぅ!」と、アランの気勢が上がる。基本的に禁酒の国でのこと、あまり羽目をはずしては後々に響く。だから、こうやって屋外で大勢でよたっているのはギリギリの線ではあった。ましてや、カオラは州都とはいえ辺鄙な地であり、つまるところ田舎だ。それを避けようとしているのか、ヴィクが唐突にこう言った。「すみません。ちょっと行きたいところがあるのですが……後で戻りますんで、みなさんどうなさるか、聞いていこうと思います。」

彼は元々酒に強くなく、今夜もあまり飲んではいない。ただ、このような場が嫌いというわけでもないので、それなりに楽しんでおり、周囲もそれがわかれば「ノリの悪いやつ」などとも思わない。まぁ、持病の事があるので、彼は決して無理をせず、自重していたのだが、それを周囲には決して知らせなかった。「こんな時間にかぁ!?もしかして、「私のアイス・ロ−ズ」に会いにいくのかよ?」と、相変わらず歯止めのないアラン。しかし、それに反応してしまい、ぶわっと顔を赤らめるヴィク。「違いますよ!どうしてそんな……」「ムキになるところがアヤシイなぁ。大体、おまえさんと隊長はまだつきあってんだろ?」そう言われて、今度は返す言葉につまるヴィク。しかし、彼は真面目な顔になってこう言った。「私はこれからもずっと、彼女を追いかけますよ。それに値する、素晴らしい人ですから。」

彼は……いるだろうか。そう、彼とは、アンドレの事である。遅くまで村で活動している事もあるという。あまり遅くなると道が真っ暗になってしまうので、そのまま村に泊めてもらうことも。いないならいないまでだ!だが、言うなら今晩しか、ない。そんな思いでヴィクはアンドレの家までやってきた。彼の家は2階で、灯りがついている。意を決して、階段を登るヴィク。少量のお酒が、彼に勢いを貸していた。チャイムを鳴らすと、彼の気配と足音。ドアにも触れられず、鼓動が痛く感じられるヴィク。そして、低目のアンドレの声。「誰だい?」返事を待つ彼に、静かに告げる。「私です。」その声に、無言でドアの鍵を開けたアンドレ。「ヴィクト−ル、どうかしたのか……?」やや緊張した面持ちのアンドレ。(緊張してるのは、私だけではない)そう思うと、少しだけ落ち着いたような気がするヴィク。

「ちょっとお話したいことがあるのですが……少しだけお時間をいただけますか?」その申し出に、さすがにギクッとした表情になるアンドレ。だが、断るすべもない。「ああ、構わないが……ここか、それとも居間のほうへ?」「ここでかまいませんよ。」ドアからすぐのテラス席。「じゃあ、何か飲み物でも……?」彼には、自分が酒の席の帰りだと察しはつくだろう。そして、普段なら、のどをうるおす何かをいただいただろう。だが、今はその時では、ない。「いいえ。すぐ終ります、お気になさらないでください。」やや強い調子でそう言う。両者は立ったまま、視線をぶつけあった。そして、とうとうヴィクが口を開く。「アンドレ、あなたは本当に中途帰国なさるおつもりですか?」憮然とした面持ちのアンドレ。「ああ、変わりなしだ。」

どうしてそんな事を……?という顔になっているアンドレ。「私の質問はおかしいですか?けれど、私のアイス・ロ−ズがお気になさるんでね。」ややムッとする彼。「これはおれが決めた事だ。あいつにとやかく言われたくないね。」「何もとやかくなど言っておられませんよ。けれど、ただ単に一足先に……というわけじゃないんでしょう?だからアイス・ロ−ズも心配なさってるんですよ。」少し押し黙るアンドレ。目を伏せて……「おれの事なんかじゃなくて、あいつは自分の事をもっと心配すればいい。オスカルには……おまえのような優しい男のほうがお似合いだ。」その言葉に、ヴィクト−ルは自分でも信じられないほどの反感を覚えた。言葉も出ない怒り……すると、ヴィクの脳裏に、あるシ−ンが蘇ってきた。「あいつさぁ、急に私のことアイス・ロ−ズって呼んだんだよ。」あぁ、なつかしい、隊員宿舎での出来事……!

初めてアイス・ロ−ズと話した晩のこと。楽しげで、アンドレと話すのがうれしい様子の彼女。どうして今、あの時の……そうか!香りだ。アンドレの……外では彼が香水をつけている事はなかったが、今、彼はつけているのだ。アイス・ロ−ズを彼女に贈ったように、彼女も彼に贈ったと……そうだ、確か「2月すみれ」とかいった……春のすみれの香り。その紫色が彼の瞳を連想させる。やさしくて落ち着く香りだと……そう彼女は言っていた。「おれがやさしいかよ?」との彼の問いに「アンドレは自分のことわかってないの?」と……優しいのは、優しいのはあなたですよ!!だのに、あなたは、彼女がそう思っていることをわかってるくせに……「2月すみれ」を身に纏わせるあなたは、彼女の「想い」を纏っているんですよ!?

「そうなのでしょうね。彼女は私との結婚を承諾なさってくださいましたから。」どうしてこんな言葉が、自分からスラスラ出てくるのか。だが、自分でも止められなかった。なんという感情!それを聞いて、目を伏せていたアンドレの、期待にたがわない驚きの表情……「今朝はその事でお話していたところなんですよ。結婚式には……出ていただけますよね?」「は、おれなんぞ呼ばないで、他にもその場にふさわしいゲストがいるだろう?」「そうですか?ぜひ出席していただきたいんですけど……私が贈ったアロンガルの民族衣装姿のアイス・ロ−ズをお見せしたいですし。」「結構だよ……第一、多分その頃には、おれは首都からかなり離れたところにいるよ。もう、オスカルとも、ジャルジェ家とも今後一切かかわりあうつもりはないんだ。」

こんな会話自体、彼にとっては苦痛でしかないだろう。だが、それでもヴィクはやめられなかった。「そうなのですか?それは大変残念ですねえ。いえ、結婚したら、彼女と私のために、病院を建てようと思ってるんですよ。私は歯科医師ですが、いずれはいっそ総合病院クラスにしてね……ぜひ、その病院で、看護師として勤務していただきたかったのですが……あなたは優秀な職能をお持ちでしょう?」

さすがに、アンドレの顔色が変わった。どうして、どうしてそこまで言われなければならないのか……?自分が彼やオスカルのように身分も財産も、何もないから、だから仕方のないことなのか?そして、そんな事を、2人して話しているわけか?それを聞かれたと思ってオスカルがあんな顔を……??ヴィクト−ルにしても、一体全体……こんなことを平気で言える人間だったのか?少なくとも、おれの気持ちはわかってるだろうに……いや、おれの気持ちなんて、そこらの木っ端と同じ程度のものなのか?一気に混乱の渦に巻き込まれるアンドレ。一瞬、手が上がりかける。だが……彼を、アランのように殴る気にはなれなかった。それをしてしまったら、本当の負け犬だろうよ……「そんな事をいちいちおれに言う必要はないよ、ドクタ−・ジェロ−デル。もうそれで終わりなら、帰ってくれないか?」

「そうさせていただきますよ。……ふふっ、あなたがアイス・ロ−ズの幼なじみで、あのジャルジェ家で育てられたという事実は消えませんからね……」言外に、「だから私はあなたを許しませんよ」という含み。たとえ遠くに離れても……冷たいものが腹の底にたまってくる気がするアンドレ。「では、おやすみなさい。」そう言って、開け放たれていたドアから出て行くヴィクト−ル。静かに階段を降りていく。そして、アンドレの家の前で、もう1度見上げる彼。だが、家ではなく、空を見上げた彼はこうつぶやいた。「私は、決して謝りませんからね……」うっすらと、涙をうかべて。

過ぎていく6月。時に強い風や雨がこの地に舞い降りるが、普段の生活にほとんど支障はない。バイクで村々をまわる隊員たちも、雨風に負けずがんばっている。オスカルは、診療所での治療の他に、風車と医療プロジェについて、相当な数のレジュメをきった。そんなデスクワ−クに疲れを感じて、ひさしぶりに外回りに出かける。何はさておきジジの村を訪問したかった。「キキ!」オスカルの顔を見て、ジジの弟のラ−イが駆け寄ってきた。彼はもちろん、ジョゼにおぶわれて診療所で治療された子である。ジョゼを筆頭に、3男2女の兄弟姉妹であった。「ライ、元気だったか?」「うん。キキは?どうして来なかったの?」そう言うラ−イは、段々顔立ちなどジョゼに似てきており、時折ドキっとするほどである。

「ごめんよ、ちょっと忙しかったんだ……でも、レンやエルは来ていただろう?」「今日はレンは?」レンとはアンドレの愛称である。大人はこうやって愛称で呼び合う事は、よほど親密で近い親等の者同士でもなければありえない。だが、子ども達は違う。大体が、ソランジェ人の名前は、一般的に子ども達には発音しがたく、自然と呼びやすい愛称でやりとりすることになるのだ。エルはゲルトル−トのことで、他にもカタリ−ナはメイ、フリデリ−ケはその特徴的な巻き毛から、「巻く」という意味のピンガと名づけられている。しかし、もちろんこの愛称はこの村限定であって、それぞれに、他のなじみの村ではまた別の愛称をちょうだいしており、ただどうしてもジョゼの村は隊員になじみが深いため、隊員同士でもこの村での通り名の印象が強かった。村々で個性も違い、つい訪問したくなる村もあれば、なんとなく足が遠のきがちな村もあるのだ。

ライはレンのお気に入りだ。いや、ラ−イがアンドレを気に入ってると言ってもいい。ライは元々、兄のジジと違って、非常にはにかみやではずかしがりやだった。村に知らない人が来ると、真っ先に隠れるタイプで、口数も少ない。兄に連れられて診療所に来たとき、オスカルとアンドレが治療したのだが、その間も緊張に耐え切れず泣き出してしまった。治療の後でジョゼに聞いてみると、傷が痛かったからではなく、キキやレン、特にレンが怖かったと。子ども相手なので、彼女たちも相当に愛想よくしていたつもりで、特にアンドレはそうだった。しかし、小さな子にそう思われて、内心では落ち込んでしまったアンドレ。それでも、かえってライはその後でレンになつき、彼にレンという愛称をつけたのもライだ。兄のジョゼが、オスカルをキキと呼び、仲良くしているのを真似したかったのかもな……と、アンドレは言っていた。

ライと手を繋いで、村の人々にあいさつして回る。特に著変なしという様子だ。本当に、この村は居心地がよくて気持ちがいい。一族の特徴なのか、勤勉で、頭のいい人間が多い気がする。容姿にもしまりがあって、生き生きしていた。農業隊員が、この村を伝統的にカウンタ−・パ−トに選んでいて、よく手入れされた畑や果樹をいつも見ることができる。ジジの伯父はそのうち村長になるようだったし、彼の弟は、村の中学校の校長だった。診療所に来た頃のライは、まだ本当に小さかったのに、最近背がグングン伸びていて、体つきにも力強さが増していた。どうやら、家族や隊員と一緒に、農事の手伝いを始めた事が幸いしてるらしい。無口ではにかみやの彼には、自然相手の仕事が向いているのだろうか。

オスカルを、自分が世話している畑に連れて行くライ。「これは何?」と聞くと、たどたどしいながらも、いろいろ説明してくれる。「……これは、カルネいもだって。」「そうなのか?これって、隊員のオルギ−ルと育ててるの?」「うん」「だよな。これって、レジオン島あたりまではよく育てられてるけど、この国では見かけないからね。」ソランジェでは、家庭料理に頻繁に登場する芋類で、ジャルジェ家の食卓にも、パイやグラタンになって出されていた。アンドレは、どこで覚えてきたのか、カルネを使ってケ−キというか、スフレのようなお菓子を作ってくれた。それがあまりにおいしかったので、めちゃくちゃ感心したものである。「ねぇ、ライは、レンのこと、好き?」

こう聞くと、ライはそれはそれはもう、抱きしめたいくらいに照れて、困ったようなそぶりをする。それを見たくて、たまにオスカルは聞いてみるのだった。あのスフレ、カルネが上手く収穫されるようだったら、作って食べさせてやれないものかなぁ……どこからかオ−ブンを借りてきて……などと考えながら。どれだけ恥ずかしがってはいても、必ず「うん、好き」と答えるライに微笑むオスカル。だが、今回はいつもとその後の展開が違っていた。「キキは?」「ん?」「キキは、レンのこと、好き?」心の隙をつかれて、思わず顔が赤くなってしまう彼女。こんな顔を隊員に見せてしまったら、なんともセンセ−ショナルな事態になりかねないほどだった。だが、ライはただただ、真面目な顔をして、その答えを待っている。「うん。私も、好きだよ。」

「そうなの?ライとキキ、同じだね!」そう言ってうれしそうに笑う彼。なんと、無邪気で素直なことか!自分は……どうしても、どこか、何か、素直になれなかった。彼からの、あの告白を聞いてからは尚更で、思い出したくないという気持ちと、いや、やはり思い出さなくては……という気持ちの狭間で揺れていた。自分は、どうしてこんなに、何も覚えてなかったのだろう?あの言葉も……あの、約束の言葉も、ただずっと、「おれが死ぬまでそばにいるから」とだけ覚えていたのだ。あんな前置きがあったなんて、思いもしなかった。そして、彼が傍にいるのは今まで当然のことのように考えていて……そうだ、元からそう思い込んでいたから、グラ−スで、あの2人に軍医になると約束したときも、どこまでも、世界の果てまでも一緒に行こうと……あのとき、半ば浮かれていた自分を、彼はどう思ったことだろう。

「キキ、どうしたの?」繊細で、いろんな気配に敏感なライが、心配そうにオスカルの顔を見る。「あ、ごめんね……そうだ、風車のこと、誰からか聞いた?」「風車?ううん。」「そうか……1回だけね、回ったんだよ。でも、事情があって、また戻しちゃったんだ。」「そうなの。見られないんだ。」残念そうな顔になる彼。風車にジョゼ号と名づけた話をしたので、見に行きたがっているのだ。風車というものを、まだ見たことのないライ。そんな彼をなぐさめるように、「でもね、きっとまた風車は回るよ!そうだ、その時は、レンに連れていってもらうといい。」と口にした彼女だが、ハッとしてしまう。ライは……ライは、彼が中途帰国することを知らないのでは……多分。自分も12月には帰らなければならないわけだが、この地を離れがたい気持ちが大きかった。それは彼も同じではないのか?なのに……なんとも割り切りがたい、苦い気持ちを味わう彼女。「あっ、レン!」

アンドレは、朝から村周りに出ており、オスカルがこの村に来ているのを知らなかった。予定では、午後からも診療所にいる、そう思い込んでいたのである。それで、村に着いて、ライの姿が見えない事に気づく。彼の母親に尋ねたところ、多分このへんにいないのなら、畑のほうにいるんだろうと。村の居住区から、ちょっとした小道をたどると畑と果樹があって、アンドレも最近は必ずここまで引っ張られていた。それで、何の気なしにやってきて、オスカルの姿に気づいて驚いてしまう。しかし、向こうは、すぐには自分の存在に気づかないほど、何か話し合っている最中のようだ。それで、自分もあまり目立たない場所に立ち、そっと2人の姿を見つめていた。オスカルも、ジジの弟であるライが好きなんだろう、とびきりの笑顔で接している。ライもライで……彼女に夢中のようだ。

彼らが何を話しているのかはよく聞こえない。ライの話し声は静かで小さく、ついオスカルもアンドレも、同じように話してしまうのだった。大きな声や、騒がしいわめき声は、彼の前ではご法度である。兄の死は……むしろ、時を経て、かえってライに影響を与えていた。今までは弟だったのに、今では母を支える長男役なのだ。それがライを、ぐんと大人にした。しかも、兄の死の原因についても、彼があの時頼んだわけではなかったのだが、やはり過去に頼んだ事があったため、負い目に感じているようなのである。ライの笑顔の底に浮かぶ不安……それを、誰よりも察知するのがアンドレであり、オスカルだった。これも、ライの成長の過程として、絶対に必要なことだとわかっていても、せつないことに間違いなかった。

それにしても……それにしても、オスカルの笑顔のまぶしいこと!この強い南の日差しにも負けぬ、輝ける金の髪……空の青と海の青の瞳。彼女は、飾れば飾るだけ、むしろその美しさが閉じ込められてしまう。きらびやかな社交界のパ−ティ会場よりも、愛馬にまたがって草原を駆けるほうが、アロンガルのようなまさに自然のままの環境でさえも、ずっと彼女に似つかわしい。術衣姿で、患者のために走り回るその姿も、あぁ、何もかもが魅力的だ!自分にとっては……だが、それももう……ヴィクト−ルに言われた言葉が頭の中で反響する。信じたくないのに、彼女の表情の、声音の、全ての1つ1つが、恋する女性のそれに感じられてしまう。だが、彼女の心に自分はいない……そこにいるのは……

あぁ、ヴィクト−ルに言われた時はさすがにショックを感じた。だが、実感などできてなかったのだ!!今こうやって、オスカルの姿を目にして、怖ろしいほどに思い知らされる。とうとうオスカルはおれを見限ったのだ……それも仕方がない……彼のように身分も財産も地位もない、何も、おまえのためにならないこんなおれでは……だけど、愛してる、愛してるんだ!あきらめなければと、もう何度思ったかしれない。なのに、おまえの顔を見るたびに、声を聞くたびに、おれの全てがおまえに向かう。他のなにものも目に入らなくなる。おまえがいるからまだ生きてるんだ……どんなにおかしくなりかけても、おまえがいたからギリギリ踏ん張れた。だのに……もう、おまえを愛することさえ、許されないのか……?

「レン!」突然、ライが駆け出していく。胸を何かで打たれたような衝撃。アンドレでも、他の隊員でも、この村にいれば誰かしらに会う可能性があった。それを承知で来ているというのに、何故こんなに……彼に気づいたライは、夢中でアンドレの元に駆け寄る。手放しで……自分も、子どもの頃にはこうやって、駆けて行ったはずなのに。今では、彼と視線を合わせるのさえ、苦しい気がする。なのに、ライにしがみつかれるように腕をとられ、しゃがんで彼に何かを話しかけているアンドレから、目が離せない。言葉は風に消え、ガラスの城のドアは開かないとしても……「アンドレ、村周りお疲れ様。ライはおまえをずっと待ってたぞ。」いつも通りの言葉が口に出るが、なんだか遠い響きだ。

「おまえこそ……風車のほうに頭をつっこんでばかりでご無沙汰だったから、ライも喜んだだろう?」ほとんど表情も変えずにアンドレがこれだけ言う。別に、だからどうした?と言われそうだが、何故かカチンときてしまうオスカル。(医療のほうをないがしろにしてなんかないのに、風車ばかりってなんだよ!?レオたちが現れなかったら私だって……)だが、ライの前で言い合いを始めるわけにもいかない。もう、彼と私の顔を見比べているではないか……「そう言えば、例の男の子の話のその後はないのか?ほら、「廃墟から来た」っていう。」衝突を避けたくて話題をふってみると、アンドレより先に、ラ−イが反応した。「廃墟……?あの子のこと?」「なんだ?おまえ、知ってるのかい?」

今、オスカルとアンドレは、母国語で話していた。もちろん、ライには通じない。だが、「廃墟から来た」は、いわゆる現地語なのだ。「うん。話したことある。」「ええっ!?話すって、確か……」そう言って、アンドレの顔を見るオスカル。そう、確かその男の子は、話しかけても何も答えず、「廃墟から来た」とだけ……アンドレもびっくりして、「ライ、話したって、「廃墟から来た」じゃないのか?」と問う。「うん。人を待ってるんだって。」「人?誰か来るのを待ってるのか?」「そうみたいだよ。夜にね、犬が騒いだんだ。ぼく、怖かったけど、畑が心配で1人で見に行ったの。そしたら彼がいた。「どうしたの?」って聞いたら「待ってるんだ」って。」「それで……?」

「誰を?って聞いたけど、答えないんだ。」「そうなのか。男の子はどんな様子だった?」「暗くてほとんどわかんなかった。それに、すぐ消えちゃったし。」顔を見合わせる2人。しかし、ラ−イは怖がってもいない。いわゆる超常現象への認識がないのか、いや、内面的な彼の事、むしろ現実よりもシンクロしやすいのかもしれない。そうこうしているうちに、彼の母親と双子の妹たちがやってきた。何かあったのかと思ったが、どうやらそうではなく、校長をやっている伯父の家によばれていて、迎えが来ているらしい。伯父の家はカオラの街中にあるのだ。2人もたまに顔を出している。「ごめんなさい、行かないと……レンもキキも、また来てね!」そう言って、両手で妹と手を繋いで歩いて行く彼の背中はジジにそっくりだった。

残されてしまう2人。だが、重苦しい雰囲気にはならなかった。そう、「廃墟から来た」男の子……「最近はあまりもう、話題にもなってなかったんだが……まさかラ−イが出会っていたとはね。噂にはなってたんで、彼も耳にするくらいはしてたんだろうけど。」「ライが出会ったのが、あの廃墟から来たという男の子だとすると、ああやって誰かを待っているわけか?暗闇の中を……」オスカルのその言葉に、アンドレは目をふせた。「どれだけ待っても……来ないかもしれないのにな。」「アンドレ……」「そうだろう?キ−スも、エレ−ンも……いくら待ってても会えはしない。」顔を上げた彼。その蒼白な表情に、オスカルのそれもシンクロしていく。「アンドレ、やめてくれ」

「キ−スやエレ−ンだけじゃ、ない……おまえさえも……」「それはおまえのほうだろう!?」カッとなるオスカル。「あぁ……やっぱりそうして正解だったんだよな?おれから離れていくと言わなければ、おまえはおれを見捨てられなかったんだろう?だから……」そう言いながら、アンドレの瞳から涙が流れ出した。(そうしたから、ヴィクト−ルとの結婚を承知したんだよな……?)仰天するオスカル。彼が泣くところを人に見せるなんて、滅多になかった。ずっと子どもの頃、たまたま見てしまった後など、何ヶ月もまともに口をきかなくなるほどで……それとわかっていても、先に足は動き、思わず駆け寄ってしまう彼女。「アンドレ、誰がおまえを見捨てるって!?おまえこそ、私を……」そう言いながら、彼の涙に誘われるように青い瞳を潤ませる彼女。

「……おまえ、彼からアロンガルの民族衣装を贈られたのか?」不意をつかれて、頬に赤みがさす彼女。なぜアンドレがそれを?ヴィクに聞いたのか?彼とのやりとりが思い出される……アンドレを……彼を不幸にはできないでしょう?と……それゆえの動揺。心の揺らめき。それが彼女をこのうえなく美しく見せた。だが、それは、アンドレの最後の希望を打ち砕く。「もらったよ。でも……」その声さえ、既に彼の耳には届かない。この髪も瞳も唇も、もはや全てがあの男のものなのか?おまえの心は、もはや彼に捧げられているのか!?違う、おまえはおれのものだ……!!誰かに渡すぐらいならば、いっそ……あっという間もなく、抱きしめられるオスカル。それに立て続けのくちづけ。

アロンガルの夕暮れは長く続く。夕焼けの色は、母国のそれよりも鮮やかで、地平線をすみずみまで照らし出す。だがその彩りとは対照的なほどの心象よ!抱きしめられるのが苦しい。くちづけは、とげとげしいまでに心を刺す。おかしい、なぜこんな……彼に額や頬にキスされて、その手が首に……彼の指が震え、まるで、ナイフでも突き立てられているような寒気をおぼえる。そう……殺気だっているのだ!彼女にはそれがわかった。今にも、両の手で絞め殺されるか、はたまたその手に本物のナイフを隠し持っているのか……私の心臓を狙って……だが、彼の声は優しくて、それがますます恐怖に拍車をかける。「オスカル……怒らないのか?婚約者以外の男にこんな真似をされて……」震えながらも、黙ってはいられない彼女。「婚約者って誰だ?十年以上も前にベッドで私を愛してると言った男とさえ、婚約した覚えもないが。」見せる笑顔も凍りつくような気がする……

そう言われてハッと我に返り、思わずオスカルの顔を見たアンドレの視線は、彼女の両の瞳にすいこまれていった。涙であふれたその美しい青い瞳は水面をつくる。その水鏡に、あの時と同じように自分の顔が……最初の記憶の映像が回りだす。川面を覗き込んでいる幼い自分の、その両の瞳の禍禍しさよ……!そこらの悪魔さえ逃げ出しそうな、闇の中の闇に染まったような黒い瞳、だが、それを見る自分はどこまでも無表情で、例え人を殺しても、なんとも感じないような狂気にだけ満ちている……全ての記憶を失った自分が、おれに無理やり押し倒されて泣いた彼女の瞳の中に見いだしたものが、たった1つの過去の記憶がこの映像だとは……!!今も、おれはおまえを……あの男の言う通り、おれはおまえに災いしかもたらさない!!

「アンドレ!!」叫ぶ声が夕闇に響く。だが、アンドレは、彼女の声を振り切るように駆けだしていた。道があるうちはよかったが、とうとうそれもきれ、砂場になってしまった大地に足をとられる彼。転んだ拍子に、まだ熱をもった砂が目に入って痛い。だが、それ以上に心が痛くてたまらない。砂をにぎってはたたきつける。どうして自分はこうなのか。だが、ぐずぐずしていたら、あの夜のように、自分の狂気に彼女を巻き込んでしまう……そうだ、あの時も、おれは彼女を殺そうとしかけた。だが、おれ自身が手をかける前に、彼女は自ら……エレ−ンが呼んでいると……自殺させるくらいなら、おれが殺したほうがマシだ!!それでおれが地獄に落ちてもかまわない。だが、自殺したら、それがどんな理由であれ、輪廻転生の輪からはずされ、未来永劫に救いはないのだ!!

わかってるのに……なのに、いざとなると、殺してでもおまえが欲しい……殺されてもかまわないという気持ちはその裏返しにすぎない。どうして10年以上経っても、おれはちっとも成長しないんだ?こんなおれでなければ、おまえから離れたりしないよ……まして自分からなんてな。単なる幼なじみ、単なる同僚のままでもいいんだ、おまえと一緒に、地の果てまでも行くよ、約束したように……だのに、おまえを愛してるのに、幼いおれ自身がおれを責める。おまえは何故、いつまでもそこにいるのかと……おまえの居場所はそこにはないと……この闇に染まった目を見よと!

あぁ、運命の河よ、冷たい水よ、どうかおれたち2人を引き裂かないでくれ……


自宅への階段を駆け上るオスカル。呆然となったまま、それでもなんとか村からの道のりをバイクでこなし、カオラの街まで戻ってきた。それこそ、よそめには、何事もなかったような顔をして……だが、鍵を開けて玄関のドアから寝室のドアに突進し、勢いつけてそのドアを閉めたところで、張り詰めていたものがドッと音をたててはじけとんでしまった。ベッドに身を投げてわあっと泣き出す彼女。涙がとめどなくあふれだして、彼女の髪を濡らす。どうして……どうしてこんな事に?見捨てるって……私がおまえを?私を見捨てて去ろうとしてるのはおまえじゃないのか?それも……それも、私のせいなのか?それほど私はおまえを追いつめていたのか?

身を投げ出して泣いていた彼女は、重そうに引き摺るように顔を上げて身を起こし、そのまま膝をつく。涙は止まり、暗闇の中で、彼女は思い出すのだった。そう、先ほどの彼の殺気は本物だと……あの夜も、自分は彼に……だが、全く恐怖感などなかった。エレ−ンを殺した自分を、神が裁こうとしている、そうとしか思えなかった。だが、裁きのいかずちは下されず、私は……だのに、さっきは怖かった。どうして彼は私を……?ヴィクから贈られようとした衣装の事を口にしてはいたけど、それがまさか……まさか?何か彼は誤解しているのか?……わからない、わからないんだ。だけど、これだけは確かだ。おまえが私を殺そうと……殺したいと思うほどの感情を胸にかかえているという事だけは……

それほどに、私の存在が重苦しかったのか?私だけでなく、ジャルジェ家そのものとのかかわりが、おまえを苦しめ続けてきたのか?彼の「愛してる」を、10年も忘れていた自分。彼の想いを、私は無視し続けてきたわけだ。もう……もう彼は、私を愛せなくなってしまったのか?それどころか、憎んでいるのでは……オスカルの表情が、みるみるうちに絶望の色に変わる。だから、彼は私から離れようとしているのでは?彼は優しい。それは私が一番わかっている。だから、私を憎むという感情をさえ、彼自身が自分に許せないのでは……それなのに、私が無神経に彼を追いつめてしまって、彼をキレさせてしまって……挙句の果てには殺意さえ抱かせるほど、私はおまえの為にはならない存在なのか?

体の力が入らなくなって、オスカルはペタンと座り込んでしまった。「……あは……はは……は……」再び涙が彼女の頬をぬらし、口からは笑い声がもれる。かなり混乱したままの頭で、彼女は精一杯言葉を紡ぎ出そうとしていた。(おまえを引き止めるのは罪なんだよな?笑顔で送り出してやらなければならないんだな?よろしい、そうしてみせようではないか!)彼女の背中が震える。そう言い切ったにもかかわらず、彼女は俯いて、涙をこらえようとして、かなわず号泣してしまった。(見えないんだ……!おまえのいない未来に私は何を見出せばいい?明日を指し示す星を見失ってしまうようだよ……それでも……それでも、おまえを不幸にしたくないんだ。もう誰も、私のせいで不幸にならないでくれ……)

「そろそろ抜糸かな?傷がかなり深いし大きいしで、ちょっと心配だけどな。」翌日の夜になって、診療所を訪れたクラウス。怪我をして最初の1週間は、オスカルやパ−ヴェルに相当言い聞かされたせいか、毎日のように消毒に来ていた。だが、それを過ぎたあたりから来たり来なかったりになる。仕方ないなぁと笑う彼女。彼のほうは、ノド元過ぎれば……なのだろう。実際、傷は膿んでもおらず、それでかまわなかった。ただ、彼女のほうでは、彼らとのコンタクトを切りたくなかった。いや、切るわけにはいかなかった。レオたちの所在が明らかではなかったし。「おまえの上司はどうしてるんだ?こっちは敬意を表して、さっさと風車を撤去したというのに。」どう聞いても敬意というより敵意という感じだったが。

「すまんね。おれにもよくわからん。どうも、南のほうにいるんじゃないかとは思うんだが。」「南……?」南のショ−ン地方には、例の鉱山がある。やはり、彼らも気にしているわけか?ベルナ−ルの言葉が甦る。ソランジェとギルディアの合併……それを元宗主国が黙って見ているだろうか?東大陸での偏った勢力分布図が、西大陸の緊張をいや増していく、この現状にあってこの合併話が実現などしたら、下手すれば……世界大戦への導線になりかねない。それを我が祖国が?ギルディアのこと、祖国の分断を見れば明らかだが、決してあの国は自分の手を汚そうとはしない。うまく包囲して、隙を突いて、自滅を誘ってから一気にたたきつける。彼女は父を通じてそのような、「世界のからくり」をひしひしと感じてきた。

「……なぁ、おれがこんな事を言う資格はないかもしれんが、顔色が悪いぞ。」えっと驚いて、顔を上げるオスカル。思わず、手が頬に向かう。「そ、そうか?まぁ確かに、おまえたちの事が気になって、夜も眠れないがね。」ちょっと皮肉をこめて笑いながら言う彼女に、苦笑するクラウス。「やっぱりな……悪い。」「いや、それだけじゃないよ、夏バテ気味なのはいつものことだし。」彼は起き上がってシャツに袖を通す。だが、前のボタンは止めないままで、座っていた治療用のベッドから離れ、傍のソファ−に腰掛けた。片付けにかかっているオスカルをじっと見つめる。「なんだ?見てても何も出ないぞ?あ、でも、カフェでもいれるか。おまえに時間があるなら。」「いいねぇ。おれがいれてやるよ。水はこれか?粉は……」何度か来て、隊員がカフェをいれているのを目撃している彼。さすがに抜け目はないというところか。

「ほら、ちょっと薄いかもな。」クラウスがマグカップを差し出す。「ありがとう。ミルクは?」「いらんよ。」ちょっとぶっきらぼうなしゃべり方だが、なんとなく愛嬌もあって、何よりもいきいきした瞳が印象的な男だ。彼はどうしてこんな仕事を選んだんだろうか……「そういやさぁ、彼、顔見ないね。」「彼って?」「もう1人の……ジャルジェ家のさ。」多分そうなんだろうと思いはしたが、動揺などを顔に出さず答えようとするオスカル。「ああ。彼は村周りがほとんどなんだよ。一応プロジェなんで朝晩顔を出しはしてるけど。」「そうなんだ。協力隊……だっけ?おれは今までほとんど知らなかったんだが、あっちこっちに派遣されてるんだってな。」「そうだよ。南大陸だけでない、東にも西にも、洋上の島々にもね……同期もあちこちに散らばってて、手紙や写真をやりとりするのが楽しいよ。」

なんとなく、アンドレから話題がそれたと思いきや、どうも彼の関心はアンドレにあるらしい。「2人は希望して同じ国にしてもらったのか?」「違うよ。基本的に隊は個人派遣なんだ。FICAがどう選考したのかわからんけど、たまたま同じプロジェに決まったんだ。ただ、プロジェの派遣内容を見て、お互い「これいいね」って話したし、2次試験の面接で希望を聞かれたからアロンガルを希望したよ。アンドレもそうだったんじゃないか?」「そうなのか?おれはまた、彼があんたのお目付け役で、一緒に来たのかと思ってたよ。」そう笑いながら話すクラウス。「冗談じゃないよ。彼と私はそんな間柄じゃない。兄弟みたいなものだが、彼は彼で私は私だよ。」そう言って、しかしそのまま黙ってしまうオスカル。

まるで、自分で言った事に呆然としてしまうような、そんな感じだった。「兄弟みたい……か。それにしても似てないし、パ−ヴェルも言ってたけど、結婚してるのかって思ったよ。」少々からかうような言い方のクラウス。「はあ!?結婚どころか、彼は私と離れたがってるよ!」冗談で言われてるとわかってるのに、思わずムキになって答えてしまう。なぜ彼らは2人して、私と彼を……「そうなのか?そうとも思えんが……まぁ、失ってみて初めて気づくってこともあるから、一概に悪いとも言えないがね。」クラウスの視線が、何か遠くに向かっている。「ふうん。そういえば、きみもパ−ヴェルになんやかや言われていたね。こんな話題が好きなの?」クスっと笑うオスカル。

そう言われただけなのだが、クラウスも顔を赤くして、少々慌てている雰囲気である。「別に好きなもんかよ!ただなぁ……あんたを見てると思い出すんだ。多分奴もそうなんだろうよ。普段は大して言い出しもしないのに、あんたの顔を見るとあいつの事を持ち出すから……」なぜ、彼とこんな話になったのか、なんとなくわかる気がしてきた。自分も……これだけエレ−ンの事を忘れられないのは、アンドレがいるからだといつしか気づいていた。理屈ではない、そうとしか言えない。自分が彼を離したがらないのは、彼を失う事でエレ−ンをも失ってしまいそうな、そんな気がしてならないからかも……だとすれば、完全に自分の都合を押し付けてるだけで、身勝手もはなはだしい。

マグカップを両手で膝にもち、オスカルは俯いてしまう。自分のそんな弱さが情けなかった。アンドレは過去を失っている。けれど、それで誰かをうらやんだり、同情をひこうとなどしない。そんな面がまたエレ−ンと重なるのだ。その彼に私は……クラウスの前で泣き言は言いたくないし、泣き顔も見せたくはない。なのに、意志に反して涙がこぼれる。彼ももちろん彼女の様子に気づき、どうしたものかと黙ってしまった。だが、思い切って口を開く。「人は……失ってみるまで、その大事さに気づかないものなんだな。」それを聞いたオスカルは、少しムッとした顔になっている。涙もふかないままに、クラウスに少々皮肉めいた口調で言った。「おまえはいいよな。おまえを待ってる彼女がいるんだろう?」「いや……今どこにいるのかわからないんだ……」

一瞬ポカン……としてしまって、顔色が変わるオスカル。「ごめん!何も知らないで、勝手な事言ってしまって……」手に持ったカフェがこぼれそうになる。まだ涙にぬれている瞳。金の髪。それを目にしたクラウスは、祖国の風を、彼女と過ごした若き日々を感じて、穏やかな表情になっている。「こっちこそ……おれの言葉が気にさわったらごめん。おれはね……あいつを見失うまで、こんなにあいつのことを好きだったのかって気づかなかったのさ。それどころか、あいつを突き放してしまった。失ってからどれだけ後悔しても遅いのにな。」「そうだったのか……彼女はおまえを待ってるとばかり思ってたよ。」「おれがこんな仕事してるのも、いつかあいつに会えるかも……って気持ちがないわけじゃない。なんだかんだといろんな情報も入ってくるしな。そもそも、彼女を見失う一件があって、それがきっかけでこの仕事につく羽目になったってとこなんだ。もちろんそれだけで、この仕事を続けてるわけじゃないがな。」

「彼女とは……もう何年も会ってないのか?」「そうだな。もう、かなり長いことになる。」「それでも……忘れられないんだな?」「おうよ。なぜあいつがおれの前から姿を消したのか、結局よくわからない。だけど、いつかおれの前に、あいつから姿を現してくれる、そんな気がしてならないんだ。おれはおれで、やらなければならない事がある。それをないがしろにしたら、きっとあいつもおれに魅力を感じない……それこそみじめなことだ。」そう語る彼の全身から、炎が立ち上るようだ。彼は熱く、自信もあるのだろう。なんとなく自信を失いかけていた彼女は、彼のこのような姿に励まされた。「そうだよ……いつか必ず出会えるよ。あきらめたら、そこで全てが終わりだ。」

だが、彼は少しばかり寂しそうな顔になった。「そうなんだよな。でも、やっぱり、もっと早く気づけばよかったよ。おれは……おれの気持ちをあいつに伝えきれてないままなんだ。」「クラウス……」「何があったのか知らないが、あんたは気づいてはいるんだろう?」「えっ?」ドキッとするオスカル。「ケンカでもしたのかどうか……あんたから離れていこうなんて、本当に彼はそう思ってるのか?」また涙がぶりかえしそうだ。「ホントだよ。彼はもう、ジャルジェ家には戻らないって。職場も住むところも変えて、離れていってしまうんだ。」それを聞いて、やや考え込む彼。「まあ、彼の気持ちは彼にしかわからないんだろうが……あんたはもう、そうしようとする彼にどんな感情がわいてるのか、わかってそうだな。だったら、おれなんぞよかずっとマシだと思うぜ。」

「……そうかなぁ。単に自分のわがままさ加減に気づいたってだけだよ。ずっと……どこかで、ジャルジェ家の家名だとか、そんな外的な条件が彼と私の間に壁を作ってる、そう思いたがってたんだと思う。でもそうじゃないんだ。私のわがままさや弱さが彼を追いつめてしまって……それでも彼は、ジャルジェ家に恩義を感じていて、私にも……だから、彼の望む通り、彼のしたいようにしてもらうべきだって、わかってるのに、なかなかわりきれなかったんだ。」じっと、黙って耳を傾けるクラウス。確かにジャルジェ家という高名な一族の、本家筋の娘であれば、ましてやこれだけ美しくて有能であれば、いくら気位が高くても不思議じゃない。少々わがままなところがあったとて、それを誰が責めるというのか。だがむしろ、彼女は気取ってもない、その笑顔を見ればわかる。

今もこうやって、自分のいたらなさを恥じているではないか。それを隠しもせず……ほとんど見知らぬおれにだからそうできるのかもしれないが。だが、こんな彼女を彼が本心からうとましく思うとも思えない。何か行き違ってるだけだろうに……「まぁ、出ていくって言うなら行かせりゃいいんだよ。そのまま行方をくらまそうっていうんでもないんだろ?だったら、それはそれでお互いの気持ちがはっきりするきっかけになるんじゃないか?あんまりそばにいると、いるのがアタリマエになっちまって、お互いの有り難味を実感できなくなるってのはよくある話さ……」なんとなく、彼に言われると、そうかもなぁという気になる。彼の話を聞いてなければ、素直に受け入れ難かったかもしれないが……「そうだね。泣いて帰ってくりゃいいんだ。」笑顔になった彼女に、やっとクラウスも笑顔で、何か共犯者じみた目くばせを交わした。

「隊長さ〜ん、班長見なかった?」と、フランソワ。「アランか?見てないけど……そういえば、上京するって言ってなかったか?」「うん。でももう帰ってくるはずなんだ。ティナのほうで変更が出てるから話をしたいんだけど……」風車の件でどたばたしていたのだが、かえってティナでのプロジェ進行に火がついたというところである。毎日酒盛り……も結局のところ、本国や元宗主国からの資材待ちだったわけだが。そして、カオラでの診療所建設も、資材を待ちながらではあるが、やっとカタチになりはじめていた。基礎の部分、土台の部分が徐々に姿を現していく。もちろん、隊員だけでやっているのではない。現地の、アロンガル人を雇って一緒に造っていた。

今まで土木組も、だらだら過ごしてきたわけではない。プロジェなのでカウンタ−パ−トは存在していないが、建設の際にはぜひとも現地の人間と造り上げたかった。それで、カオラ州の地元はもちろん、首都や他の街にも出向いて、心得のある人たちから経験談を聞かせてもらい、協力を仰いだ。診療所のことなので、もちろん医療隊員の意見は貴重だが、将来的には隊から州へ、州立病院として手渡したいのだ。先進国と言われている国の医療従事者の使い勝手のよさが、アロンガル、ましてやカオラのような辺境の地の従事者のそれと同じになるとは限らない。その点は隊員も心得ていて、あちこちの州立病院や診療所からの情報収集も心がけ、何より地元の意見を取り入れよう……と。

土木組が入れ物だけ、ハコだけ作っていればいいのなら、そもそもプロジェに組み入れる必要もなかった。こうやって、オスカルたちの1つ前の隊次から、お互いの思い込みや誤解を極力減らすべく、土木組と医療組は、分野を超えて互いから学んできた。元々、隊そのものが、「ゆりかごから墓場まで」の職業が雑多に集まった集団なのだ。現地の人間やカウンタ−パ−トだけではない、隊員同士もまた、お互いに学び合い助け合う……これは今の隊の基本律ともいえた。いや、数年前までは、あくまでも「個人派遣」の色が濃く、隊員同士の係わり合いを拒絶する空気もあったのだ。このアロンガルでも。しかし、プロジェが導入された事で、隊のありかたも変わってきていた。

ジジの村からも応援を頼んでいる。診療所はさほど凝った作りにせず、基本的にコンクリの打ちっぱなしだ。気ままなところの多いアロンガル人の作業には、冷や冷やさせられることも多い。ケンカが始まる事もままある。「雇うメンバ−を厳選したつもりでも、相性が悪いのかなんなのか、毎日コケそうになってますよ。」と、泣き笑い顔になる土木組。それでも、なんだかんだと充実してるようで、つられて医療チ−ムも毎日のように現場に顔を出していた。土木組の陽に焼けたその笑顔は、かなりアロンガル人に近づいて見える。「ティナあたりでつかまってるのかもしれんぞ?列車じゃなければディリかティナをパッセしなけりゃ帰ってこられないしね。」「あ、そうかも。まぁさほど焦ってるわけでもないので……うわぁ、今度は何事だよ!?」向こうのほうで作業していたアロンガル人たちが、なんやら騒ぎ出した。彼らは身振り手振り付きで派手に主張する、しかし内容は大した事でもないことの方が多いのだが……

それから3日後の事だった。朝からやや曇がちで、そろそろ雨を思わせる天気である。診療所を開けるか開けないかという時間早々に、揃って土木組が顔を出した。いや班長を……アランを除いて、である。「あら、あんたたち、雁首揃えてどうしたんよ?」と、まだ村周りに出ていないゲルトル−トが声をかける。「アランが……全然顔を見せないんだよ。」と、ピエ−ル。「だって、もう3日前に見ないって言ってなかったか?まだ帰ってこないのか??」と、オスカルはかなり驚いている。診療所に揃っていた他の隊員も、「えっ!?」という顔になった。以前ならそれでもさほど気にしなかったが、ここに来てそれは……彼は活動上では特に無責任な事を嫌うタイプなのに……「なあ、今回はなぜ上京してたんだ?アランは。」「それが……」

「よく事情はわからないんだけど、確か、事務所から電話があったんだ。ティナのハンスのところに。アランにかけなおすように伝言があって、多分そうしたんだと思う。その後すぐ、上京するけど、すぐ戻ってくるからって言って……」いつもはのんびりなジャンも、やや早口になっている。アランのことが心配なんだろう。平和なアロンガルではあったが、事故など、何が起こるかわからない。「それから、アランから全く連絡もないわけか?」「全然。今、風車の件で上京してるモ−リッツに連絡して確かめてもらったけど、事務所には顔を出してないらしい。なんでも、調整員の話だと、彼の親戚?から電話があって、至急伝えたい事が……だったらしいんだ。」「確かに、ティナやカオラからじゃ国際電話はかけられないからな……」オスカルは、自分のあの時の状況を思い出し、冷たい汗が流れてくる気がした。

「なんだろう……その電話の件がからんでいるのか?それとも関係ない、何か不慮の事故に巻き込まれたとかか?」「列車も道路も大きな事故や封鎖は聞いてないけど……小さいものまではわからないわよね。」ゲルトル−トの顔も不安そうになってきている。カタリ−ナやフリデリ−ケは言うまでもない。「今までなら気にしすぎかと思うんだろうけど、もうプロジェは、建設は始まってるんだよ!カオラでもティナでも。今日でアランと連絡つかなくなって1週間の計算になってる。帰れないなら帰れないで、カオラかティナに連絡くれるはずだよ。」「医療チ−ムにまでゴタゴタを持ち込みたくなかったんだけど、心配で仕事も手につかないよ……何やってんだよアラン……」FOCVの隊報でも、たまにではあるが、隊員の訃報が伝えられている。若い彼らの間近に死は存在しているのだ!

もはやただ事ではない。オスカルの顔色も変わる。「よし、まずは国道沿いの任地をしらみつぶしにあたるぞ。隊員は皆それぞれに活動中だが協力を仰ぐしかない。ティナとディリと……電話で連絡が取れるのは、あとバクンダとルンガあたりか?」「ファティやコ−ダは無理だが……とにかく連絡の取れそうなところにはしておいたほうがいいかもな。」と、アンドレ。彼もアランの事は耳にしていて、かなり心配そうな表情になっている。同期の事は、格別気になるものなのだ。「ねえねえ、ハンスが事務所からの電話を受けたんでしょ?彼から直接その時の内容を聞いたの?」とゲルトル−ト。「ううん。アランからちょこっと聞かされただけだよ。」「ではまず、ハンスに連絡して聞いてみよう。」

ティナに電話するも、ハンスは上京の移動中だという。仕方ないので事務所と隊員宿舎に連絡して、風車組をつかまえる。オスカルも、他の隊員も、他に何もできなくてじりじりしてしまうが、これが任地での現実なのだ。この状況など知るわけもない付近の住民や近隣の村人が、いつも通り診療所を訪れてくる。「今日は帰れ」などとは言えない。怪我をした大人が、熱を出した子どもが助けを求めているのだから!「隊長、おれたちは医療チ−ムほどカオラに詳しくない。ここにいても診療所を手伝えるわけじゃないし……バイクで走って、ファティやコ−ダにも情報を流して応援を頼みたいんだ!行ってもいいか?」やはり、最もじりじりしているのはこの3人なのだ。

「わかった。ティナではマリ−やイザ−クたちも国道沿いの街や村を中心にあたってくれるそうだ。バクンダとルンガにも連絡して、やはり同じように動いてくれるらしい。コ−ダは比較的近いがファティにはバクンダが近いからお願いしておくよ。だが……」思いつめたような、真剣な表情のオスカルに、ハッとする3人。「だが、絶対無理するな。アロンガルでも、他の国でも、交通事故ばかり聞こえてきてる。慎重すぎるくらいで丁度いいんだ。わかったな?」「もちろん!」彼らはおっちょこちょいな面もあるけど、基本的には従順で、あまり積極的に事を起こすタイプでもない。その3人がこれだけアランを心配して、止められないほどに自ら動こうとしている。だからこそ、アランのただならない状況が浮き彫りにもなった。

ここまで来た以上、事務所にも報告するのだが、相変わらず調整員はのらりくらりとしていて話にならない。彼らはプロジェの進行状況などあまり把握しておらず、アランの不在の意味を理解していない。そのあたりも、ハンスの到着を待って上申してもらうしかなさそうだ。「なあオスカル。アランは……もしも何か理由があって出てこないとしたら、問題が片付いてなければ首都にまだいるか、それともこちらに……」と言って、アンドレはオスカルを見つめる。(できるだけ、おまえの傍にいようとするんじゃないか……?)アンドレはアランの気持ちに気づいていた。単なる恋愛対象としてではない、反発しながらも、どこかオスカルに畏敬の念を抱いていて、彼は何事かあれば彼女を拠り所にする気がした。「カオラでアランが行きそうな所をあたってみるよ。今日は保健所のサライと約束していたし、気になる患者もいるんで、そっちを見回りながらになるが……」

頷くオスカル。「今日中はとにかく、組んでいた予定を早急に済ませて、明日からのものを組みなおしだな。自分は幸い、今日は1日ここに詰めている予定だったが……先輩方にフリデリ−ケも、すまないが明日からもどうなるかわからないんで、今日はそれを踏まえて活動してもらえないか?」いつもはのんびりやのカタリ−ナも、表情に緊張が走っている。「私とフリデリ−ケでなるべく診療所に来る患者さんの対処をするわ。ゲルトル−トは外回りをフォロ−して。オスカルはどうしてもドクタ−が必要って以外は、プロジェのリ−ダ−として行動してね。」芯の強さでは誰にもひけをとらない彼女の言葉に、勇気づけられる一同。「じゃあ私は国道沿いの村を回るわ。」「その前にガラ−ジュに行かないか?タクシ−やバスの運転手に彼を見かけてないか聞いてみよう。」「OK!」そう言って走り出すアンドレとゲルトル−ト。

ここでじっと待って電話のやりとりをするなど、最も性に合わないオスカル。アランの行き先にわずかでもあたりがつけば、我先に走っていくところだ。(ちっくしょう、なんだってプロジェのリ−ダ−なんかになっちまったんだよ。元々コ−ディネ−タ−はハンスで、いわば彼がリ−ダ−のはずなのに……)などとイライラしつつも、一旦請け負った責任を果たそうとする意思は誰にも負けなかった。それに、なぜだか今日は診療所を訪れる患者の数も多い。雨季が始まって熱帯熱の疑われる患者が日増しに増加しており、その対処に追われながらも電話に出て、情報の取りまとめにも忙しい彼女。だが、時間は過ぎていくものの、たいした手ごたえをつかめないまま午前中が終ってしまう。アンドレとゲルトル−トも一旦診療所に戻り、午後からの行動について昼食を取りながら話し合う面々。みなあまり、食は進まないようだが。

「雨になるかもなぁ……午後から。」と、空を見上げるオスカル。「夕方にロザリ−を迎えに行こうと思ってたんだけど……少し早めのほうがいいかもしれない。」アンドレとは、あれから気まずいというより、ほとんど顔を合わせない状態だったというのに、この件でそんな事はどこかに吹っ飛んでしまっていた。彼のほうもそうなのか、目をそらすこともなく言葉を交し合う2人。「だったらおれが行くよ。さっき、ラ−イの伯父に、彼にって預かり物をしたんでね。」ロザリ−は前々からよく話題になるジョゼやラ−イの村を訪問希望で、やっと実現したのである。前日にオスカルが連れていったのだが、すっかりラ−イや村人とも意気投合し、双子の姉妹はとりわけ彼女にべったりで、帰ろうとすると泣き出す始末。そのため彼女だけで村に1泊させてもらっていたのだ。

「少し先の村にも用があるんで済ませて帰りに拾うよ。おまえは……じっとしてるのが嫌でうろうろしたそうだけど、今日一日は我慢してくれよな?」そう言ってからかいのニュアンスを伝える表情になるアンドレに、一瞬面くらいながらも「何言ってんだよ!ちゃんと私の春風を無事に届けてくれよ?あ、雨にぶつかったら無理に帰ってこなくていいから。」と、少しそっぽを向くようにして答えるオスカル。こんなやりとりはひさしぶりだった。「ダコ−!じゃあ行ってくるよ。おまえも……」「……?なんだ?」だが、アンドレは何か言いかけて、そのまま行ってしまった。

その数時間後、首都から連絡が入る。ヴィクからだった。「ハンスはまだそっちに着かないか?」「まだなようです。この分だと夕方から晩にかけてになりそうですよ。」無理もない、カオラからよりはずっとマシだが、ティナからの上京も非常に時間がかかる。しかしハンスはそんな事も苦にもしないで、コ−ディネ−タ−を務めていた。こんな時、彼と連絡がつかない、話ができないのは、彼女にとっては痛手だった。「で、ですね、こっちのガラ−ジュで、数日前にアランを見かけたという話があるんですよ。」「本当か!?彼はどんな様子だった??誰が目撃したんだ?」

目撃したのはベルナ−ルだという。最近の彼は首都にいることが多く(ロイと共に行動してるようだった)、カオラ方面ではない街に行こうとして、ガラ−ジュで「アランらしき人」を見かけたらしい。ベルナ−ルとアランは結構意気投合する事も多く、一緒に飲んだり話したりの間柄だ。それが、声をかけても全く反応もなく、ガラ−ジュの雑踏に消えてしまったらしい。彼らしくもないし、もしかして別人に間違えて……?かとも思い、ベルナ−ルはその件を口にする事もなかったのだが、今回の件でモ−リッツから連絡がいき、ロイを介してその情報が今入ったというのだ。「それが数日前なのか……では、アランはもう首都にはいない公算が高いな。それで、カオラかティナかに戻るつもりでガラ−ジュに?その途中でどこかにつかまってるんだろうか……」

ヴィクはハンスとベルナ−ルをつかまえる事に専念してくれるという。ベルナ−ルも何かの件を追っかけているのか、アランらしき人物に出会った時以来ロイの家にも戻ってないらしい。電話連絡のつかない場所にいるので、やはりロイにご足労願って彼からの連絡を待つしかないようだ。それにしても心配だ!心ここにあらずのアラン……彼は夢想的なタイプではない。地に足がしっかりついた人間だ。口の悪いところはあるが、実際は常識人でさほど無茶もしない。地味に地道に努力する職人気質な面もあった。その彼が一体……彼の親戚から一体どんな電話が入ったというのか?

電話をきって考え込むオスカル。すると、診療所のドアが思い切り大きな音をたてて開いた。風だ。ク−・ド・ヴァンだ。この風は銀竜の露払いのようなもので、降り出す雨の前触れだった。思わず外に出て、また空を見上げるオスカル。こちらでは、黒い雲が出る事はほとんどない。空は比較的明るいままなのだ。どうも、雨の前に雷がきそうな気配である。(やっぱり雨か……まだ2人は帰ってこないし、どうしたもんだか……雨……風……)オスカルの瞳がかっと開かれる。(風車……!!そうだ、何故誰も思い出さなかったんだ!?風の谷の事を忘れきってたぞ!)彼女は一目散に自分のバイクに駆け寄り、息もつかぬ勢いで風の谷を目指した。

あまり手間取らないつもりでいたのだが、ジジの村に行くまで結構時間がかかってしまったアンドレ。やはり、雨季のせいか熱帯熱がじわじわと流行し始めていた。老人や子どもにとっては致命的になりかねない病である。飲み薬にしろ注射液にしろ数は全く足りていない。それでもプロジェなのでまだマシだった。(雨が近いかもな。降り出す前に帰りつけるといいが……)と、空を気にしながらロザリ−の居場所を尋ねる。しかし、ロザリ−はどうやら村を留守にしているというのだ。なんでも、ラ−イと一緒に、隣の村に行ってると。隣の村には彼ら兄弟姉妹の縁者がいて、ちょこちょこ行き来があるらしい。バイクなどで行けばさほどの距離じゃないが、あの2人が歩いて行くには遠いので、なんだったらまとめて2人を迎えに……と思い立った矢先だった。

「ラ−イ!ラ−イどこ!?戻ってないの??ラ−イ!!」という悲鳴のような叫び。ぎょっとするアンドレ。その声の方向に走る。「ロザリ−、どうしたんだ!?」すると、彼女が今ロバ車から飛び落ちるように降りたところだった。真っ青な顔をしている。「アンドレ!!ラ−イがいないの!こっちに戻ってはいない??」何事かと集まってくる村人たち。だが、誰もラ−イの姿を見た者はいない。この数時間ほど……「だったらどうしよう!……ラ−イ、もしかしたら……風車の谷に……」震えているのか、必死でしゃべろうとして、言葉がよく出てこない彼女。「風車?風車って、風の谷か!?」

「あの子、すごく風車を見たがってて……私も見られなかったから、そうだねって話してたの。そしたら、その話を聞いていたらしいあっちの村の人が、ラ−イに連れていってやろうかって……」「それでまさか行ったのか!?あれ以来、谷は封鎖状態だぞ?あのレオとかいう男達がうろついてて、侵入者には、場合によっては命の保証もしかねるって……」「わかってるわ!だから私もそう言ったんだけど、あんまり実感できてないのよ。アロンガルの人だし……」アンドレの表情からも血の気がひいてきていた。「それでおまえに黙って行ってしまったのか!?その村人と……」「違うの!その村人は連れ出してないのよ。ただ、ちょっと目を離したすきにいつの間にかラ−イがいなくなって、別の村人が言うには、あの村では見かけない男の子と歩いてどこかに行ったって!その人は、その男の子はきっとこっちの村の子だって思ったから、気にもしなかったと言うの。」

アンドレは、なんだかもやもやとした、嫌な予感におそわれた。「見かけない男の子……?まさか……」そう、彼の脳裏には、「廃墟から来た」という少年の事が浮かんでいた。「誰かを待っている」とも……そう、彼だけが、ライだけが、あの少年からその言葉を引き出したのだ!こちらの村からは、ライ以外の男の子を隣村に出していない。大体、ライはジジと違って人見知りの性格であり、仮に同年代といってもよく知らない子には近づきもしない。まして、勝手に2人だけでロザリ−に黙ってどこかへ行ってしまうなど、有りえなかった。だが、あの少年となら……「もし万が一風の谷に……あの子の足じゃたどりつくまでだって十分危ないぞ……おれは行ってくる!」「待って!!私も行く、連れてって!!」一瞬迷ったが、彼女の瞳の色が変わっている。有無を言わせない紫色に……「わかった、行くぞ!」

「アラン……!?」風の谷に建てられていたプレハブ。結局レオたちと話し合って、鍵をかけて閉鎖しておくならば、取りあえずはそのままでもいいという事になったのだ。だが、「その代わり、警告を無視して谷をうろつくような事があれば、場合によっては容赦しない」とも……その場にはアランも同席していたし、かなりの睨みあいにもなったのであるが、そう決めた以上はそれに従うと。だからか、アランは全くあれ以降、ウインドヴァレ−の話をしなかった。彼だけではない、風車組も医療組も、気持ちの上で谷を封鎖してしまったところがあった。レオの言葉や態度にはブラフなど皆無で、確かに国家レヴェルでの任務が彼の肩にかかっているのだろう。同じように国を代表して派遣されてきた隊員だからこそ、状況を真摯に受け止めねば。

そうだったから、オスカルには目の前の光景がにわかには信じ難かった。道中にも「まさか……」という気持ちが大勢を占めていたし。だのに、プレハブの鍵ははずされ、入り口のドアを開けた途端、目に沁みそうなほどのアルコ−ルのにおいに襲われる。元から置いてあったのか、彼自身で持ち込んだのか、かなり度数の強い酒の瓶が無造作に転がっていて、それに躓きそうになる彼女。そして、プレハブの建物の中に置いてあった狭いソファ−ベッドに横たわっているアランの姿に呆然としてしまう。衝撃と言ってもよい。頬はこけ、顔色は土気色といってよく、髭は伸びっぱなしだった。そして……目も濁って見え、視線も定まらず、オスカルの姿に対しても反応が見られない。

その異様な姿に、すぐには声も出ない彼女。仕事柄、尋常ではない患者に接する事も決して珍しくない。だが、それでも直視していられなくなりそうなほどの彼の様子に、彼女自身がぴりぴりとシンクロし始めていた。彼女の中に普段は沈んでいる何かが揺らめき、震えだしている。黒い予感ゆえに、彼女は息をする事も忘れそうになって、ただひたすらにアランの顔を、瞳を見つめていた。いや、魅入られていたのかもしれない。だが、声をかけなければ……と、力をふりしぼるようにして口を開こうとしたオスカルより先に、表情を変えないアランが身を起こした。だが、彼女の姿は彼の瞳にただ「映る」だけで、彼の意識はここにあらずの状況に変化なかった。

「……ア、アラン……?」なんとか名前を呼びかけてみるも、相変わらずの彼。やっと身動きとれるようになったオスカルは、彼に駆け寄ると、両肩を掴むようにして揺さぶる。「アラン!どうしたんだ、一体何があったんだ!?」彼の頭が大きく揺らぐ。「アラン、返事をしてくれ!!しっかりするんだ、何故ここにいるんだ??」彼女の必死の声が、呼びかけが建物中に響いて、彼らを包む大気の色も変わっていく。とうとうアランの口から言葉が……だが、最初は呂律が回らないというか、わけがわからない音だけしか聞こえない。「アラン!!」彼女の叫びが最高潮に達し、とうとう彼から意味のある言葉を呼び出した。「ディアンヌ……」

「ディアンヌ?」そう声に出してみるが、すぐにはその名前にピンとこないオスカル。だが、必死に記憶をたぐりよせ、ひらめく彼女。「ディアンヌって……おまえの妹さんの名前か!?彼女がどうかしたのか??」元々、彼の親戚から緊急に電話という事で、多分彼の家族や近しい親族の「何か」なのではないか……と予想していた。だがしかし、アランの妹であるまだ若い女性に何かが……とは、あまり予想したい事ではなかったのに、それが現実のものになってしまったのか?だからアランは……だとすると合点が行かない事もない。両親を亡くしていて、実質的に家族と呼べるのは妹だけという状況だったはずだ、その妹さんが、一体どうしたというんだ!?何をどう聞かなければならないのか躊躇するオスカルの顔を見ながら、突然高笑いをし始めるアラン。

その様子に硬直してしまう彼女。寒くなどないはずなのに、背中に寒気を覚える。ひとしきり笑ったアランは、突然我に返ったかのようにしゃべりだした。「どうもしないな。単に気のふれた母親の死を目撃しただけだ。」あまりの内容に、ポカン……としてしまうオスカル。母親……って?彼は誰の話をしているんだ?やはり彼はまだ正気には……だが、彼女の思考を見透かして笑うように、言葉を続ける彼。「この俺にも母親がいるのがおかしいか?あんたの母親みたいな選ばれた階級にしか存在しないとでも?」「何わけのわからん事を……おまえ、両親はもうとうに亡くなったって言ってたじゃないか。」「は、そうだよ、実質的には死んでたも同じだったからな。あれじゃあ肉体をかかえた物体だったよ。心はもう、俺らの父親の自殺と共に死んじまったからな!」

アランの父は事業に失敗し、自殺した事になっていた。しかし世間的な認識と言える事実と真実は必ずしも同じではない。むしろ、違っている事が多いくらいだろう。彼の父は裏切られたのだ。それも、かなり身近な親族に。その親族は彼を陥れて、彼が長年に渡って苦心の上に築き上げてきた事業を乗っ取った。それこそ長い時間をかけて、彼の信頼を得て、その裏で周到に計画を進めてきたのだ。その親族とは……父親の弟であり、アランたちにとっては叔父だった。何より父は、信頼し愛してもきた弟に裏切られ、弟のわるだくみに騙された周囲の者に責められ辱められて、責任を取らされるように自殺してしまった。事業の規模は小さくなく、地元の経済活動にも少なからず打撃を与えてしまったため、遺された家族もまたさんざんな扱いを受ける羽目になったのだ。

それが……あの、エレ−ンやキ−スが首謀者だと上げられた最悪のテロが起こった年の話なのだ。現実の悲惨さに心が壊れてしまった母親。そして、遺された兄妹。数少ない身内の理解者に母と妹を頼んで、追われる様に首都に出てきたアラン。ただもう、父親が残した借金の返済のために、脇目も振らずに働き続けた。妹のディアンヌはディアンヌで、身を隠すようにして入院した母親の世話をした。年頃の娘らしい楽しみの全てをあきらめ、世話の傍らで介護の勉強をして資格をとり、兄と心を共にして働き続けてきたのである。いつか、いつの日にか正気を取り戻した母親と、兄の3人で暮らせる日を夢見て……だが、その日はとうとう来なかったのだ。そして、この事実を、まるで他人事のように、きれぎれに吐き出すアラン。

オスカルは、それを黙って聞いていた。今まで、彼と話してきた事や、そもそも彼との出会いとなった、研修所の自己紹介の場面までが心に浮かんでくる。「そうだったのか……」と。だが、先ほどの彼の言葉がまずなにより気になって仕方がない!「気のふれた母親の死を目撃しただけだ」……これは何を意味するのか。きっと問うてはならない。だが、問わずにはいられない……「アラン、それで、妹さんは大丈夫なのか?」「へん、大丈夫だろうよ!あれは電話口でこう言ったんだ。」

「お兄さん、母さんは死んだわよ。もう、あんなやっかいものに悩まされる事もないのね。逝ってくれてせいせいしたわよね!」

「だとよ。」瞬く間に空気が凍りつく。呆然とするオスカル。「そ、そんな……」「なんだってんだ!?おれにはわかるんだよ、妹はなぁ、きっとさんざん周囲からそう言われてるんだよ!!」アランが絶叫する。涙が止まらない。オスカルも、その彼の姿に涙がにじんできた。「アラン……」すると、その声に反応するように俯いていた顔を上げた彼は、そのまま突如、彼女を抱きしめた。驚く彼女、だが彼の慟哭は続く。「今までだって、好意にしろ悪意にしろ、似たような事をさんざん言われ続けてきたんだよ、妹は……それを決して俺にもこぼさなかったけど、ちゃんと耳には入ってくるんだ。あの男、親父を裏切っておきながらしゃあしゃあと……」

そこまで言って、もう耐えられないとばかりに号泣してしまうアラン。まるで、彼女にすがりつくように……今まで必要以上に気負い、彼女を牽制していた彼。その彼の手放しの涙に、彼女も泣かずにいられなかった。「あの会社をあれだけのものにしたのは親父とお袋だ!内戦にもテロにも屈せず、ひたすらに闘ってきた誇り高きヴィエナソランジェ人なんだよ……だのに、あの男、どのツラ下げて母親の葬儀に来やがったんだ!?おまけに「これからは私を父親だと思って……」だと??ふざけんな!!」彼の怒りが彼の体を通して、直に向かってくる。声もなく、ただ彼の心を受け止めようとするオスカル。

すると、アランも少しばかり気持ちが静まったのか、しかし彼女を離そうとはせず、続けた。「妹は……ディアンヌはそう言って、後はもう母親の名を呼んで呼んで……私が悪かったんだ、母さんを死なせたのは私だって詫びるんだ。どうやら、用があって少し外出してる隙に、お袋は……病室の窓から飛び降りたらしい。そして、戻ってきた妹がその現場に遭遇したんだと……落ちてくる母親を……見たんだと。」彼の言葉を、オスカルは最初、信じられなかった。だがそれもつかの間で、彼女は全身から血の気が引くような衝撃を感じていた。「アラン……まさか……そんな……」「なぁ、どうしてディアンヌがこんな目にあわなきゃならないんだ!?あんたがクラブなんぞに出入りしてた頃からずっとあいつは……」

それを聞いた途端、まるで何かのスゥイッチが入ったかのように、エレ−ンとの情景が脳裏に浮かぶ。金の髪。紫色の瞳。震えていた彼女の白い素肌。細い肩。だが、オスカルは何の反論もできない。しない。ただただ、彼の慟哭にシンクロしていた。「だがなぁ、俺が……俺が一番情けなくてだらしがないんだよ。2人を置いて首都どころか、アロンガルくんだりまでやってきて、とうとう妹も母親も護ってやれなかったんだ……!!」彼女のアイス・ロ−ズの香り。優しく背中に回される彼女の両腕。今までの一切を明かさず、最近では彼女への気持ちまでも、決して直接ぶつけたりしなかった。アンドレやヴィクト−ルを前にして、常に屈折していた彼だったが、とうとうその本心の前に彼自身が屈服する事になった。

いつかの帰り道と同じ、吸い寄せられるように彼女にくちづけするアラン。抱きしめる腕に力がこもる。もちろんオスカルはびっくりさせられたが、彼自身がまだ相当に混乱気味なんだという気持ちが前提にあるので、彼を勢いよくつっぱねる事ができない。だが、その一瞬の迷いが彼に火をつけてしまう。彼は彼女をぐっと強く引き寄せたかと思うと、そのままソファ−ベッドに押し倒してしまった。「アラン!」だが、こんな時、ますますアランは口数も少なくなる。一言の「愛してる」さえ、ない。ヴィクは言わずもがな、普段は寡黙でも、こんな時アンドレなら必ず言葉で彼女の心に働きかけてくるだろう。それが一切ないまま、ただひたすら求められる事に、彼女は悲鳴にも似た叫び声を上げた。「アンドレ!!」

その声にびくっとするアラン。そして、思わず彼女の顔を正視して……声にならない声が彼の心の中にこだました。長い輝く金の髪。涙にぬれた青い瞳。蒼白な顔色をした金モ−ルの軍服姿の……これは隊長なのか?そう心中で確認するように言った途端、アランは愕然とする。これは、誰だ……?だが、俺はこの女性を知っている……そして、こんな彼女をどこかで見た事がある!確かに俺はこの女性を隊長と呼んでいた……思わず、後ずさるようにして、彼女から身を離す彼。お、俺は一体、何を……こんな酒臭い、汚いなりで……

がくがくと震えている彼女。大きく目を見開いたまま、言葉にならないつぶやきを続ける。オスカルの目の前には、離れの暗闇が広がっていた。そう、アランの心の疾風怒涛が、彼女の記憶の扉をつきぬけたのだ。思い出さなければ……と、思い出したくない……の狭間で揺れていた彼女はとうとう、あの約束の夜の記憶に自ら飛び込んでいった。「エレ−ン……エレ−ン!……エレ−ン!!」あっという間もなく、ベッドから飛び起きた彼女は、疾風のようにプレハブのドアを抜け、走り出した。あの夜のように、エレ−ンを追いかけて……「隊長、待ってくれ!!」

アンドレはロザリ−を背に、何はさておいてもウインドヴァレ−に……と急いだ。ライの足では、何か乗り物でも使わない限り、今日中に谷に着けるとも思えない。だが……彼があの、「廃墟から来た」という少年と共に出かけたのであれば……何が起こるかわからないのだ。とにかく嫌な予感しかしない。だが、全く逆の思いもあった。その、廃墟から来たという少年は、把握しているだけでは唯一、ライだけに「人を待っている」と答えている。その少年が、ライに何か危害を加えるだろうか?アンドレには、どうしてもそう思えなかった。(だが……あの少年は、一体誰を待っているというんだろう……?ライ……なのか?まさか、ジジだというわけでも……)

そこにまで思いが至り、思わず背中が寒くなる気がするアンドレ。もし少年がジジだとすれば、彼が待ってるのは……もしかして……「アンドレ!危ないから、あまり飛ばさないでよ!!」と、ロザリ−が彼の後ろで叫ぶ。思わずアクセルを踏み込んでしまったらしい。だが、彼女も急ぎたい気持ちは彼以上にあるので、怖くても我慢して彼にかじりついている。彼女は、あの少年については全く知らされておらず、ただ、アンドレには心当たりがあるような雰囲気だったので、聞きたくてたまらない。大体、風の谷の事も、オスカルにざっとあらましを聞かされただけで、実際に何が起こっているのか……(ああお願い!どうか無事に見つかって……)

もはや、オスカルには、風の谷の風景も目に入っていなかった。あの夜と同じ、華やかなパレ−ドの光景が目に映り、あの時の音楽が耳に聴こえる。大変な人込みの中、エレ−ンとはぐれそうになるオスカル。だが、あの時は、まさか本当に自分を置いて、彼女があの……あのテロの現場に向かうなどとは、考えもつかなかった。だから、エレ−ンがふざけて自分を追わせようとしているんだと……「待てよ、エレ−ン!」だが、彼女は最後の笑顔を彼女に向けて、あっけないほどに、消え入るように、オスカルの視界から消えてしまった。そうだ、彼女の最後のメッセ−ジは……あぁ、「愛してる」そう言ってるんだ!ずっと、なんて言ってるんだろう、そう思っていた。いわゆるソランジェの言葉じゃない、それはヴィエナの、きっと彼女の故郷の言葉なのだ!

そしてああ、旧市街の、あの見覚えのある建物……ス−パ−マ−ケットの前に出る。大層なにぎわいだ。そこに、ひっそりと停車しているアッシュグレイの自動車……そこに重なるエレ−ンの後姿……「エレ−ン!行っては駄目だ!!」その時だった。突如、ク−・ド・ヴァンが通り過ぎ、まるでオスカルを、別世界に連れ去るかのように、その目に映るヴィジョンを吹き飛ばした。そして……代わりに彼女の目の前に現れた光景は……旧市街に近いといえば近い建物と、やはり同じような石畳と、そして、馬のいななきと蹄の音。ガチャガチャと鳴る銃と硝煙のにおい……人々の叫ぶような声……血のにおい……アンドレは……アンドレはどこだ?

「隊長!待ってくれ!!」谷は砂地でこそないけれど、でこぼこしていて走りにくい。だのに、まるで彼女は、なにか、ペガサスの羽でも持っているのか、飛ぶように駆けていく。元々運動神経のいいオスカルを追いかけるのは容易くないが、全く彼女との距離の差が縮まらない!だが、彼女はまっしぐらに、あの少年が殺され、つき落とされた断崖に向かって走っているのだ。もし、もし誤ってあの崖から落ちたら……いくらオスカルでもただではすまない!!最悪、即死だろう……そんな事になったら、俺は死んでも詫びる事ができない。(アンドレお願いだ!彼女を止めてくれ!!)

その瞬間だった。アランの目の前の光景もまた、風の谷ではなく、故郷に似た、だが故郷ではない風景にさし代わった。(なんだこれは!?目の錯覚なのか??)だが、そう感じる暇もないほどに、彼もまた、その光景にシンクロしていた。「隊長、走らないでくれ!危ない!!」まただ、軍服の背に長い金の髪が揺れている。おれは彼女を知っている、隊長だ……だがまだアンドレのところに行っては駄目だ!!

「オスカル!!」「オスカル様!!」その叫び声も、アランのシンクロとほぼ同時に上がった。彼らの上がって来た道は、資材搬入用に整えられていたので、ギリギリまでバイクで上がってこられる。カオラの街からは遠回りになるので、普段はバイク組は、プレハブのまだ後方に上がる道を選んでいた。もしアンドレがそちらを選んでいたら間に合わなかったかもしれない。だがそれでも……斜めにつっきっても間に合うかどうか!?の瀬戸際だった。アランの叫び声が聞こえて、何事かと駆けつけてみれば……アンドレは、下手をすれば自分が崖から落ちるのも顧みず、走って横から彼女にタックルするかのように飛び出した。「オスカル、危ない!!」

丁度そこは、地面が傾斜しており、勢い余ったアンドレは、彼女と一緒にいくらか回転した後、彼女を離して1人、もっと下の平坦になった部分に体を打ちつけた。だが、彼は、あの夜と同じように、彼女を離すまいと身を起こした。そして……動けなくなってしまった。なぜなら……彼の目にもまた、他の3人と同じ光景が映ったからである。

7月の空の下 彼女の叫びが大気にこだまする
彼女の慟哭を聞け世界よ その愛と心意気を永遠に刻め

「私を……私を撃ってくれ……!!」


埃と硝煙と血にみちた石畳につっぷして、号泣するオスカル。呆然としたままで、3人とも、彼女の見せる映像にショックを受けている。そう……風の谷は、時空の谷とも呼ばれる特異点で、現在過去未来を呼び出す力を備えていた。それとは知らずここで過ごすようになったオスカルは、この特異点の影響を受け、現世のものではない記憶をも呼び出した。だが、それはあくまで一瞬の事で、通り過ぎるイリュ−ジョンにしかならなかった。記憶に留まらない影のような映像が過ぎ去った後には、しかし、あの夜の全てを思い出したオスカルがいた。

アンドレはどうしていいかわからず、彼女の近くにと、一歩足を前に出しかけたところだった。オスカルが突如として顔を上げた。もちろん、両の青い瞳には涙がにじんでいる。それでも、その強い視線に、圧倒されてしまう彼。ゆっくりと、ややよろけながらも、彼への視線をはずさずに立ち上がる。そして、もっと怒ったような表情になって、あっという間もなく、彼の胸倉をつかむ彼女。「おまえ、なんであんな事言ったんだよ!?」と。だが、彼はオスカルが何を言いたいのかピンと来ない。とまどった表情の彼に更に言い放つ。「おまえは全部覚えていたんだろう!?なのになぜ、自分だけが悪者になるような事を言ったんだよ!!」あまりに怒りが大きいのか、胸倉をつかんだままでがんがん揺さぶりをかけるオスカル。

それでやっと、彼女の言葉の意味を飲み込んだアンドレ。「本当の事だろう?おれがおまえにあんな事をしなければ、おまえだって……」視線を落としてそう言う彼の口元が、やや震えていた。無理に抱こうとしただけではない、殺しかけさえしたのだ!悪いのは全ておれじゃないか……「だったら……あの言葉は嘘だったのか?」「あの言葉……?」「愛してるって、私を愛してるって言ったじゃないか!?」

そう言うと、またもや止まらないというように、涙がぼろぼろと頬を伝わって流れ落ちるオスカル。「一緒に、一緒に薔薇の花を摘んで、一緒に教会に行くって約束してくれたじゃないか……ずっと……ずっと死ぬまで傍にいるって……」そう言いながら、涙で前がよく見えなくなっているオスカル。とうとう、アンドレの瞳からも涙があふれてきた。あの夜からどれだけ苦しかっただろう。罪悪感にさいなまれ、それでも彼女から離れられなくて、彼女の記憶が全部戻る事に怯え、悪夢に責められてきた。「だからって、おれを許してくれるのか?こんなおれを……」「おまえはいつだってそうだ!肝心な事を言わないで、私をかばおうと、自分を犠牲にして……それが私にはどれだけつらいことなのか、まだわからないのか!?」

とうとうオスカルは、そのままアンドレの胸に飛び込むようにして、彼を抱きしめて号泣した。アンドレもまた、彼女を抱きしめて泣いた。

結局ラ−イは隣村のそのまた隣村の住人に見つけられ、ジジの村に戻ってきた。泣くだけ泣いたオスカルは、その反動でか誰よりも先に我を取り戻し、アンドレとロザリ−になぜ2人揃って風の谷に……?と問うた。それで、ラ−イが行方不明で、もしかしたら谷に−「廃墟から来た」男の子と−と慌ただしく説明するアンドレ。驚いた彼女は、ひとまずアランを、谷の様子が窺えるほどには近いがあまり目に付かないところに配置し、アンドレをもう1度ジジの村から隣村に向かわせた。もしかしたらラ−イは戻ってるかもしれない。

そうでなければそれで、このあたりの土地の地理に詳しい者に確認させて、やはり風の谷から隣村方向にバイクを走らすオスカルとはさみうちにする事にした。隣の村からここまでは、幾つかの村々を通り抜けるように道は続く。そこで必ず目撃されるはずなのだ!だが、確かにアンドレの危惧するように、あの男の子と一緒なら……何か考えられないような事が起こっても不思議ではない。だがそれは見当もつかないことで、今は正統的に問題に対処せねばなるまい。これらを瞬時に決定して、先頭に立つ彼女。アランはまだ少しふらついてはいたが、内心では舌を巻いていた。先ほどの余韻もあり、もうすっかり彼女の指示に従う自分がいる。

アンドレを少しでも早く村に帰さなければならないので、今度はオスカルの後ろにしがみつくロザリ−。「おまえ、メットもなしで乗ってきたのか?危ないぞ……まぁ、アンドレは私よりずっと安全運転だとは思うが。」そう言って笑うオスカルも普段よりずっと安全運転である。ひとつにこちらはあまり早く走っては意味がないからだが……「いえそれが……途中からかなりのスピ−ドで、怖くて叫んじゃいました。」と、やや青ざめた顔色のロザ。だがこれは、バイク怖さなどではなく、ラ−イが心配だからに他ならない。それがわかるので、オスカルは表面上はあまり深刻そうに見せないが、彼女もまた心配でならなかった。

だが、心配する彼らの願いが天に届いたのかどうか、ラ−イはあまり間をおかず発見された。アンドレが、隣のそのまた隣村に向かう途中で、ロバ車に乗ったラ−イと村人に出くわしたからである。その時のラ−イはアンドレを見つけた瞬間から泣き出さんばかりで、それでも彼に「ロザは?ロザはどこ?」と泣きながら聞いてきた。「大丈夫だ。おまえはどこに行ってたんだ?」そう言ってライを抱きしめるレン。だが泣きじゃくるばかりで答えられない。それで、彼をロバ車に乗せてきてくれた男に問うてみる。現地語オンリ−のやりとりのため、かなり大雑把ではあるが、大体のところは掴めた。

どうやらラ−イは「1人で」男の村に向かって歩いていたらしい。だが、普段はあまり使わない道だったので、たまたまそこを彼が通りかかったらよかったものの、もしかしたら誰の目にも止まらずそのまままだ……だったかもしれなかった。とにかく、ライのような幼い男の子が、こんなところを1人で歩くなんて明らかにおかしかった。雨季とはいえ日中は暑く、いつもより湿気もあるので体力の消耗が激しいのだ。それだからか、一目見て、男は彼が尋常ならざる様子にあるとわかった。大体、ロバ車で通りかかっているのに、全く反応もなく、顔も上げなかった……と男は語る。

それで、ライに声をかけると有無を言わせず男の村に連れていき、水を飲ませて休ませたと言う。ライはやや熱射病になりかけていたのか、グッタリしていたと。だが、何度か水を飲ませているうちに、まるで人が変わったかのように年相応の男の子に戻った彼が、自分の村に帰りたがるので、それで……だと言う。(やはり、様子がおかしかったんだな……でも、「1人で」だったのか。あの例の男の子と一緒のところを見た村人もいたんだが……)だがそれをライに確認できたのは翌日だった。ライを男から預かりうけたアンドレは、そのまま踵を返して彼をジジの村に戻し、その足で今度はオスカルたちを迎えに行ったのである。

「ぼく、なんだかあんまりよく覚えてないの。」そう言って困った様子のライ。1日たったせいかどうか、ライの記憶は彼自身もあまり自信のないものになっていた。暑さと渇きで熱射病になりかかっていたせいかもしれない。ただやはり、あの例の男の子に会ったらしい……昼間に!では、どんな顔をした子だったのか?と聞いてもうまく答えられないのだ。ただ、声や雰囲気から、同年代ではなく、兄と同じくらいの年で……つまり、ジジと話しているような気がしたと。だが、もし彼がジジ本人だとするなら……ライにわからないはずがないという気もした。オスカルも同意見である。「それで、ライは何か他に彼と会話したのか?」「ああ。どうも、風の谷へではなくて、あの男の子の言う「廃墟」に戻ると言う彼に、ほんの軽い気持ちで自分も行くと言ったらしいんだ。」

ライにはその「廃墟」への恐怖感もなければ距離感もなかった。すぐそばにある……そう思ったらしい。そして、すぐ戻ってこられると。そして、男の子はライに何も答えず、ただひどく急いで駆け出したと言うのだ。それにつられて走り出したライ。彼に辿れる記憶はここまでで、気がついたら隣村のそのまた隣村にいた……らしい。ライは自分のしたことで、一体どれだけ心配をかけたか……特にロザに……を理解しすぎるほどしており、ここまで聞き出すのもかなりの時間をかけたアンドレ。それでもレンでなければ、ライは何も話せないかもしれなかった。レンは少しも怒ってはおらず、むしろライに感謝していた。

もしライが行方不明になっていなかったら、自分は決して風の谷などに行ってない。ということは……アランが顔色を悪くしながら謝った通り、下手すればオスカルは谷の崖から転落したかもしれないのだ!10年前のあの夜の事がひしひしと思い出されて、身震いするアンドレ。アランのせいなどではない。もし彼女に何かあったら、それは自分のせいなのだ!オスカルが記憶を封印しなければならないほど追いつめられたのは、自分が……それなのに、全てを思い出したというのに、あんな目にあったというのに、おれを赦すと言う彼女。もはや、アンドレは、彼女がどうしようと……ヴィクト−ルと結婚するとしても、彼女を命が尽きる日まで護ろう、そう感じていた。

もし彼女が望むなら、ヴィクの言うように、彼の病院で働いてもいい、そう思っても、少しも屈辱感に襲われなかった。アンドレは、ここに至って、やっと心の平安を手にした気がしていた。ところが、それとは反対に、オスカルは落ち着かない気持ちになっている。騒ぎや心配が落ち着いて、改めてアンドレの顔を見ると、なんだか視線をそらさずにいられない。なんでもない彼の所作が気になる。かと思うと、何故かアンドレに、今まで以上に控え目に振舞われている気がして、それが気に食わない彼女。とにかく自分の気持ちに少々イラついてしまって、時にアンドレはそのとばっちりを受けた。

もう、6月も後半に入っていた。相変わらず雨季は続いている。その日も夕方から、突然の銀竜のお出ましだった。ク−ド・ヴァンとともに。アランが無事に発見されたので、隊員は喜びにわきかえった。誰も彼を責めず、土木組はもう、涙涙でアランにとりついた。このアロンガルでも、過去に隊員が複数亡くなっている。最悪の事態を、皆覚悟したのだ。多分、アランを最も責めたのは、他ならぬ彼自身だっただろう。そして、彼に、彼の妹に、そして何より彼の母親に何が起こったのかを、アランはオスカル以外の誰にもほとんど話さなかった。あまりに苦渋に満ちたアランの表情に、カオラの隊員の誰もが、彼の前で言葉を失ってしまったのだ。

それでも、日々は少しずつ、その癒しの効果を発揮していく。その日、アランはティナからカオラに戻ってきた。自分のせいで、プロジェの進行がにぶってしまったのを、彼は必死で挽回しようとしている。「なんだよ、戻ってきたのか?あんまり無理するんじゃないぞ。」と、アランに呼びかけるアンドレ。彼も村周りを終えてバイクで戻ってくる最中、雨にふられたのだ。「おまえに心配されるなんて、おれもよくよくヤキがまわったよな。」やはり、アランはアランである。大体もう、こんな憎まれ口をたたいていないと、もっと心配させてしまう……それが嫌なわけだが。「ちょっと待てよ……鍵開けるからな。」

診療所の中は、珍しく誰もいない。だからアンドレが鍵を開けたわけだが。「なんだぁ?今日は病院は店じまいなのか?」「まあね。午後からあいつら全員、活動後に直帰で、ゲルトル−トの家に集まるらしい。」それを聞いて、合点したという顔になるアラン。「そういえば、マリ−がカオラに来てるって聞いたぞ。」「そうだよ。それで、注文していて届いた国旗を、もっとゴ−ジャスにするとかなんとかで、みんなしてお針子部隊だとさ。」そう言いながら、アランにタオルを渡すアンドレ。「……って、お針子って、隊長もかよ?」ニヤっとするアラン。

自分の分のタオルを持ってきたアンドレは、「おまえまた余計な事言ったら病院送りだからな……って、ここが病院なわけだが。」と言って笑っている。なつかしい、研修の日々がチラッと頭をよぎった。「おい、なんでバスタオルを持ってきたと思ってるんだ?そんなにぬれてんだから、そのままふいたりしないで、さっさとシャワ−浴びろよ。」確かに、ガラ−ジュから雨に降られて濡れ鼠になっているアラン。髪からも、ぽたぽたと雫が落ちている。「いいよシャワ−なんざ。おまえが入れよ。」「バカ、おまえ、油断してると、結構後で風邪引いたりするんだぞ?いいから入れよ!」「うっせ−な!おまえが先に行けよ!!」

言い合ってるうちに、今度は手が出始める2人。「さっさと脱げよ!」「おまえこそ脱いでシャワ−浴びろって!!」とうとうアランがアンドレのTシャツをはぎとってしまう。負けじとアランのシャツに手をかけるアンドレ。「いいから下も脱げよこら!!」すかさずアンドレのGパンのファスナ−を……すると、診療所のドアが突然開いた。「え……?」瞬時に固まる2人の目の前に、同じように固まった金の髪の……同じように雨にぬれている……「ば、ばかやろう!!!」思いっきり叫ぶオスカルの声とともに、大きな音をたてて閉められたドア。ガラス越しに、彼女が一目散に走っていくのが見える。

オスカルも、村周り後は直帰でゲルトル−トの家に行くつもりだった。だが、途中で、マリ−に渡したいものがあることを思い出したのである。それは診療所のロッカ−に入っていた。どうしても急ぐというわけではなかったが、せっかくだしと思い診療所に向かっていて、この雨に出くわしたのだ。早めに診療所を出ていた彼女は、カタリ−ナが用心して鍵をかけていった事を知らず、何も考えずに慌てて診療所に飛び込もうとしていたのだ。「……なんだ?ばかやろうって。」びっくりしているアンドレ。だが、アランはあることに気づいていた。

(はぁ!?おまえ、隊長の顔色、気づかなかったのかよ??)アランも、もちろん突然現れたオスカルに仰天した。だが、彼女の姿が目に入った瞬間、彼は悟ったのだ。彼女の目にはアンドレの姿しか見えておらず、彼を見た瞬間に真っ赤になったことを。この時診療所は電気をつけておらず(電気代がばかにならない)、もう部屋の中は薄暗くなりかけてはいた。でも、それでも、隊長の顔のバラ色に気づかずにはいられない!「……ったく、あの感じじゃ戻ってきそうにないな。じゃあおれから浴びてくるぞ。もしオスカルが戻ってきたら、すぐ代わるからって言ってくれ。」と、仕方なさそうに話すアンドレ。(うわ!素で気づいてやがらないのかよ!?)

雨は一段落ついたようだが、オスカルの動悸はそう簡単にはおさまらなかった。(なんなんだよ、あいつ、なんだってあんなとこで裸になってんだよ!?)昔、男性隊員ばかりだった頃は、アロンガルでも、宿舎などでもパンツ一丁でぶらぶらする隊員が多かった。しかし、今や女性隊員が年々増加し、ましてや医療プロジェの診療所では、男性などアンドレだけだ。元々彼はナ−ヴァスな面があるし、今まで不用意に上半身でさえ脱いだままということはなかった。だが……もう一度バイクにまたがった彼女は怒りながらも、まだ顔の赤みを消せない自分にとまどっていた。(今までだって、彼の上半身の裸ぐらい、見てきたじゃないかよ。っていうか、私は医者だろう?なんでこんな……)

7月に入った。今年のアロンガルは例年より雨が多いらしい。だが、それを単純に喜ぶわけには、いかない。世界的に、気候が不順、悪化の道をたどっているのだ。人間の引き起こした自然破壊、環境破壊が、このテランガを蝕みつつあるから。便利さ、手軽さを追い求めた結果、それはヒトの心さえ侵食し、本能をさえ弱らせている。だのに、これに気づかず、気づいていても、「自分の生きてるうちはなんとかなるさ。死んだあとのことなんぞ関係ない。今が面白おかしければいい。」と、目をつぶってしまう。ツケをこの星の未来に払わそうとしている。だが……

アンドレは首都に上がった。FICAの事務所から、呼び出しを受けていたのだ。別に何か不始末をしでかしたわけでは、ない。任期短縮の理由を、事務所の所長や、調整員の前で説明するよう、申し渡されていたのだ。だが、彼はそれを撤回した。謝罪の意味をこめて、アンドレは遠い任地のカオラから首都に赴き、彼らに頭を下げて撤回の説明をした。例の調整員からは、予期するように、相当な嫌味を言われたが、彼は何の反論もしなかった。今となってみれば、自分の申し出は、早まったものだったかもしれない……と思われるからだ。

任期短縮の撤回をした以上、プロジェのリーダーであるオスカルに、この事を報告しなければならない。だが、オスカルは、アンドレと入れ替わるように首都に上がってしまっていた。支援経費や任国外旅行の手続きなど、細々した用事がたまっているので、少し宿舎に逗留するという。アンドレは少し気が抜けたような気がした。なぜ彼女は、自分の帰りを待たなかったのだろう?別に待っててくれと言ったわけではないが、どうも最近また、ちぐはぐになっている感じがする。「バカヤロー!!」叫ばれてから、オスカルは自分の顔を見ようとしない。

オスカルはなかなか首都から戻ってこない。


7月も12日となった。



「炎と水・二隻の船」・任地編



「炎と水・二隻の舟」第1部・任地編

やっとたどり着けました!怒涛の任地編です。約1年半の物語となります。基本は私の経験がベ−スですが、研修時代よりはフィクションが多いです。オル窓のキャラも登場いたしますのであしからず。もし登場させたいキャラの心当たりがございましたら、ぜひリクエストなさってください♪








「隊長さんよぉ、そんなところでくたばらないでくれよ。」
「アラン、もういいんだ。このまま私を殺しておいてくれ。」
「そんな事言わないでください、オスカル様。ロザリ−泣きますよ。」

暑い。熱いというのが正解か?だが隊長さんよぉ、おれもそのパソコン使わにゃならんのだ。さっさと報告書を作成してくれよ。そんな、パソの前につっぷしてないでよぉ。
「くっそぉ……、あのくそったれ、3ヶ月くらいで一体どんな成果を上げろっていうんだ!?」
俺たちが任地にたどりついて約3ヶ月が過ぎた。もう4月だ。国を出発した時には12月だったんだが。到着して、またまたいろんなガイダンスや簡単な語学学習や近郊の村へのホ−ムステイやらであっという間に1ヶ月が過ぎていった。俺たちはずっと首都の隊員宿舎に寝泊りした。

それが終わってやっと俺たちはそれぞれの任地に赴任した。しかし、他の隊員とは違って俺たちは全員がプロジェ組だ。普通FOCV隊員はプロジェなどに入っていない。あくまで個人派遣なのだ。個々の隊員にそれぞれ1人の現地カウンタ−パ−トがつく。その現地人のカウンタ−パ−トに技術移転をする事が目的なのだ。
しかし近年では、プロジェが組まれる事も増えてきた。プロジェを組むとプロジェ全体の予算を組める。隊員には活動内容によって、予算を多く必要とする者とそうでない者との差が案外大きい。しかし、あくまで個人派遣では1人1人に同じだけの予算が下りる仕組みになっている。余ったからといって、他の隊員に回す事はできないのだ。

今このアロンガル国ではFOCVのプロジェが2つ発足している。実際は農業も半プロジェ化しつつあるので、近いうちにこの国は3つのプロジェが成立して、それぞれが影響しあいながら発展していく事になってるんだろう。
俺たちは医療プロジェに属してはいる。だがしかし……最初から予想されちゃいたんだが、国で提示されていた要請の内容とやらが、いざ来てみれば全然違ってやがるんだ。もう、ごく当たり前に。
俺は医療プロジェに属してて、医療関係の土木建築を行う事になっていた。具体的にはカオラ州カオラの町に新しい診療所を建設するって事だった。
だが来てみれば、俺たちは教育のプロジェのためにも活動せにゃならなくなっていた。音楽学校を作りたいんだと。いや、あまり堅苦しいんじゃなくて、どっちかというと芸能学校だな。楽器演奏だけでなく、演劇やら歌やらに力を入れて、この国の未来のスタ−候補生を育てあげる……とかなんとかだ。まぁ、とりあえず広げる風呂敷はデカくだ。そんな夢、何年先にかなうやら。

しかし、一番驚かされたのはヴィクト−ルだろう。赴任すべきはずの首都の病院のゴタゴタで、こっちに飛ばされた。名目上はもともとプロジェに組み込まれていた(予算の都合とかで数合わせ的に)のだが、カオラのド田舎で歯科医のヴィクト−ルは途方にくれた。そりゃそうだ!何もねえ。診療所自体あやしかったが、歯科のための設備は皆無。
憧れのアイス・ロ−ズの傍にいられるっていう事で呑気にうらやむ先輩隊員もいたが、それどころじゃねえって!する事なくてこんなとこにいられるかよ?ヴィクト−ルは将来に渡ってキャリアを積んでかにゃならん立場の者だ。多分に隊長が参加するってかぎつけての参加だろうが、それだってかなり勇気いったんじゃないか?

大体、やる事もなくうだうだするしかないとしたら、どうしてヴィクト−ルは隊長の気持ちを自分に向けられるってんだよなあ?みっともない事この上ないぜ。
しかし、ヴィクト−ルは現状を受け入れた。カオラの田舎で自分の進むべき道を探り出した。自分の2年をかけて、これ以降の隊員とこの国のためになんとか足がかりを作るんだと。とは言っても、かなりの茨の道だろう。とにかく何ひとつないのだからな。カウンタ−パ−トになりそうな人物もいないし。
この国は平均寿命が短い。歯がなくなっちまう前に死んでいく連中がほとんどだ。金銭的に余裕のないこの国では、歯科にかかれる人間などほとんどいない。だからヴィクト−ルは首都の一番大きな病院に配属される予定だったのだ。

本来はあのフェルゼン先生もこっちに住むはずだったが、その家に急遽ジェロ−デル先生が入る事になったんで、野次馬ハンスはティナの町に住んでいる。教育プロジェの本拠地だ。
隊員には1人ずつに結構な大きさの家が与えられる。これはアロンガル国からの提供だ。本来なら俺にも1つ家があったはずなんだが、ティナとの掛け持ち生活でそうもいかなくなった。土木組は今4人いる。俺以外の3人は1つ前の隊次なので、俺からしたら先輩隊員……のはずなんだがなあ。

4人に1つずつこのカオラに与えられるはずだった住居は、ティナと2分された。カオラに2つ。ティナに2つ。だから今は俺とフランソア、ジャンとピエ−ルで1つの家をシェアしている。
こいつら(先輩に対する言葉じゃねぇが)、俺と大して年も変わらんのに、まして先輩のくせに、妙に俺になつきやがって。こんなだから隊長から「おまえ、班長みたいだな」なんて言われちまうんだよ。俺はプロジェ土木班班長なんだと。で、隊長はプロジェ隊員の隊長だから隊長なんだ。文句あるか?

実際のとこ、隊長をどうやって呼べばいいのか結構悩んだんだぜ。しかし、みんな取り取り勝手に呼んでやがるよなぁ。俺だけじゃなく。
ハンスはオスカルって呼ぶかジャルジェ先生だな。まあ、一番まともっちゃまともだ。アンドレもそうだしな。たま〜にアイス・ロ−ズって呼ぶ事もあるみたいだが。
ヴィクト−ルは徹底してアイス・ロ−ズだ。どうしても公的な場所じゃジャルジェ先生だがな。つまるところ仕事上ではみなジャルジェ先生なんだ。ヴィクト−ルやハンスも。マリ−やロザリ−も。先生のインフレだ。
マリ−はオスカルだが、たまにケンカになると必ず「夜のロザヴィア」って言いやがる。で、隊長も負けずに「おしとやかな王妃さま」だと。ルナではリグ−サ姫が王妃になるらしいからな。新しい国の。
ロザリ−はなぜか「オスカル様」だ。一旦呼んでしまったらもう変えられなくなったと。で、隊長のほうはからかう時に「私の春風」なんて言ってやがる。だがあれは、ロザリ−のメイド姿を思い出させようとしてるんだよな。絶対。

俺は心の中ではバカタレとかペチャ...おっと、もしつい口がすべったらアンドレから病院送りだ。あのヤロ−、全く迷いもなく俺をぶっとばしやがるからな。
だが仕事を一緒にやってく以上、名を呼ばにゃならんわな。しかし...ジャルジェ先生ってのはカンにさわる。いかにも俺とは生まれも育ちも違うって気になるんでな。といってアイス・ロ−ズってのもなあ。なんでも仏頂面が選んだ香水からだって?これもまた「ふざけんな!」って奴だぁな。ハイソな奴らめ。
かと言ってもなあ....男女とか言っちまった以上、男の名前のオスカルで呼ぶのもなんだかって気がすんだよ。しかし隊長の父親ってのも何考えてんだか。いくら隊長が兄にそっくりで生まれたからってなあ、つけねえぞ普通。

結局、この医療プロジェのリ−ダ−になったあの女を隊長と呼ぶことで落ち着いた。意外に隊長は面白がっちゃくれたが。それで俺には「班長」とか言い出して、それをあの先輩3人組がそのまま取り入れやがった。4人であの女を隊長と呼んで、俺は3人から班長と呼ばれてる。
だからなあ、あんたらが先輩じゃねえのかよ!?っとに。
とは言ってもなあ、男所帯も悪くないぜ。これで。なんと言っても医療プロジェだからな、女が多いんだよ。たまたまヴィクト−ルが飛ばされてきたが、でなけりゃあの仏頂面しかいなかったわけだ。次の隊次で来ることになっている検査技師も女だっていうからな。

そういやそろそろ赴任してくるはずだ。年3回、4月と7月と12月に新隊員が送られてきて、その入れ替わりに任期を終えて帰国する隊員がいる。まあ、任期延長する隊員も結構いるからな。必ずしも全員が2年できっちり帰るわけじゃない。かと思うと任期途中で帰国するやつもいる。
やっと隊長が起き上がった。ぶつくさこぼしながらも報告書にむかっている。
ヴィクト−ルほどでもないが、俺たちは多かれ少なかれとまどっている。隊長だって例外じゃないんだ。こっちに来てみなけりゃわからない事だらけだったんだ。先輩隊員の報告書は研修所にもあって一応目は通したものの、実際の現実を必ずしもあらわしちゃない。
活動がうまくいってなくても、それを正直に申告するかどうかはあくまで隊員の意思にかかっている。うまくいかないイコ−ル負け犬的な雰囲気がないわけじゃないんだ。いや、かなりあると言っていい。だから実態が上がってこない可能性もかなりあるんだ。もう後輩隊員を要請しないほうがいいと思われるようなケ−スでさえ、実態が隠され要請継続してしまう事も多分にあるようなんだ。

その点はまだ俺たちはマシだ。初めての要請。俺たちはこのプロジェの初代隊員なんだよ。応募の都合とかで、1つ前の隊次に看護婦と保健婦と土木が赴任してきてるが実際に正式発足したのは俺たちの2次隊からだ。先輩たちだってまだ何の形にもなっていないプロジェってやつに振り回されてきてんだよな。
州都の名を冠したカオラの街だが、実際はティナの方がよほど開けてる。だからこそあっちが教育プロジェの本拠地になったんだ。カオラはなんにもねえ。一応国道と鉄道はとおっちゃいるがな。カオラ州は広いんで、ティナに出るんだって結構時間がかかる。ティナはカオラよりは首都に近い。それに、ティナとカオラ間の国道とやらがまたハンパじゃあねえ。でこぼこだ。気ぃぬいてっと、車に乗ってて舌かみそうだ。FICA事務所の4WDでさえそうなんだからな。こっちのいわゆるタクシ−じゃ、一瞬も気が抜けん。命がいくつあっても足りん。

もし診療所と音楽学校の建設に間が空いたり、予算がうまく回ってこないようならあのひでぇ道路をなんとかしたいもんだぜ。大した事はできんだろうが、見過ごせねぇよ。ただ、道路がしっかり舗装されてりゃ安泰かっていうとまたこれが...なんだぜ。首都に近くなればやっぱり道路がきれいなんだ。そして路肩にばかみたいに荷物を積んだバケモンみたいなトラックが腹出して横倒しになっている。荷を積みすぎてちょっとした衝撃にも耐えられずにこけてんだ。あんなのに巻き込まれたら一巻の終わりだ。

少し前までは、隊員の死亡理由は病気だった。暑い国の熱病。対抗薬に鍛えられてしゃれにならなくなってやがる。熱の出方が急激になって予測がつかなくなって、治療が遅れるとあっけなく死ぬ。このアロンガルでもこれで死ぬ人間が多い。幼い子供や弱った老人はイチコロだ。
しかしそうは言っても、隊員たちは出来うる限りの自衛策をとっている。薬だって効き目がなくなったわけじゃない。だから以前より病死する奴は減ってんだ。

病死に変わっていま隊員の主な死亡原因になってるのは交通事故だ。この国でもたまにある。FICAの専門家(元隊員が多い)でさえ死ぬ。4WDの自動車が与えられるのにな。俺たちはバイクか自転車が貸与されていて、圧倒的にバイク事故が多いんだ。大体隊員のだれかがどっか骨折してて、本国に送還されて手術を受けたりしてやがる。ここじゃピエ−ルがそうで、帰国こそしなかったが長い間ギブスをしていたそうだ。最近はすっかりいいようだがな。

パッと電気が落ちた。隊長が悲鳴をあげた。あ〜あ、やっちまったな?停電である。これもしょっちゅうだった。なれっこになってしまって、特別な事がない限り「またか」と心の中でつぶやくようになってしまっている。こんな時じゃなきゃな。
「オスカル様?もしかして、セ−ブしてなかったですか??」
隊長は声もなく、今度こそ倒れそうだった。ロザリ−の言う通り、うっかりセ−ブするのを忘れていたのだろう。デ−タはパ−になった。数時間の時間とともに。
「もう知らん!」とだけ叫んで、隊長はパソコン机の隣りにあるソファ−にごろりと横になった。もう夕方になっていて、電気の消えた部屋はかなり暗かった。

そこへ外回りにでかけていたアンドレとカタリ−ナが戻ってきた。
「は?もしかして停電か?」
部屋に入ってすぐアンドレが言った。そしてきびすを返してまた外に出た。
隣の部屋でやはり書き物をしていたはずの保健婦、ゲルトル−トがあっ!!と声を上げた。
「お水!お水とまっちゃう!!」と叫んで慌てて外に飛び出していく。

アロンガルでは水を地下からポンプで吸い上げて供給している。ポンプを動かしているのは電気なので、停電になると水も止まるのだ。すぐにとまるわけではなかったが、くみ上げていた分がなくなればそれまでだ。
今のところ停電自体が何日も続く事はなかった。せいぜい数時間の停電ならそう心配はいらない。ただし、念のためという事で大体隊員は自宅にある程度の水を常に確保していた。飲み物ぐらいなら店でも手に入った。ミネラルウォ−タ−やジュ−スやビ−ルは簡単に手に入る。もう少しアルコ−ル度の高いものはそう簡単には入らなかったが、それでも種類を選ばずであればOKだ。
ただし、この国は宗教上禁酒をうたっている。敬虔な信者も多いこの国では、アルコ−ルは外国人のものであった。外国人専用の店も多い。

多分ゲルトル−トは水を確保しに走ったのだ。ここは外に蛇口があった。診療所(といえるのかどうだか)の中に蛇口がないので、予算を使って水道を部屋の中までひくかどうか検討されてはいた。しかし、新しい診療所のためにあまり他で予算を使いたくはない。今まで我慢してきたんだし、なんとかしていこうかという方向に話は傾いていた。大体、天気がよければ青空診療だったからである。雨季以外雨はめったにふらない国なのだ。
しかし、意に反してゲルトル−トはすぐに戻ってきた。
「大丈夫だった。アンドレがお水確保してくれてたわ。」
なるほどな。
「そうだわ、オスカル様。お水止まってるって事は、そのうちシャワ−も使えなくなるでしょう?今のうちにちょっと気分転換にシャワ−浴びてらっしゃったら?」

「ただいま。あら?オスカルどうしたの?」
優しい黒目がちの瞳をしたカタリ−ナが荷物を降ろしながら隊長に声をかける。カタリ−ナは1つ前の隊次で来た看護婦だ。彼女と隊長は同じ屋根の下で暮らしている。ただし、俺たちとは違って、同じ建物の2階部分に隊長が、1階部分にカタリ−ナが住んでいる。やはり女性はなんとなくかたまって住む事が多いようだ。俺たちは事情が違うが、俺たちとジャンたちの家は離れている。アンドレやヴィクト−ルの家もてんでバラバラだ。
「いや、なんでもないよ。そうだな、シャワ−浴びるか。」

カタリ−ナは隊長よか1つ年下だが結構落ち着いてる。それで、隊長は自分が子供扱いされてる気がするようで、あまり彼女に弱音を吐かないようだ。だがほんとに隊長は子供みたいなとこがあるんだよな。
赴任した頃のアロンガルは、まぁ脅かされていたほどには暑くもなかった。この国は年明けあたりから3月までが最も過ごしやすい季節だ。しかし、3月の中旬あたりからガンガン気温が上がっていくようになった。4〜5月が最も暑く、6月の終わりあたりから8月までは雨季だ。
部屋の中でさえ40度超えやがる。初めての高温に、おれたちはすっかりまいってるわけだ。隊長は最もやられてるみたいで、とうとう肩より長かった金髪をばっさり切った。しかも、ヴィクト−ルより短いんじゃないかってぐらい。それで、どっかのガキからカツア...じゃなくて、もらったようなCAPをかぶって診療所に来る。チャリンコでな。その姿は確かに27歳の外科医にゃ見えん!

診療所にはシャワ−室がある。簡単なものだが。水道の蛇口とシャワ−は同じ水道管から水をひっぱっている。診療所の中からは直接行けない造りになってて、外に一旦出てからだ。オスカルはロザリ−に付き添われるようにしてシャワ−室に向かった。そのすぐそばで、アンドレが水を容器にためていた。赤や黄や青のポリでできた桶状の容器があるだけ出されていた。もしなにかあれば、医療を行う場所柄、水は大切だったのだ。
アンドレはこの国に来て日に焼けた。それに少しやせたようである。大体協力隊では、男性はやせて女性はふくよかになるという傾向があった。このアロンガルという国は比較的食事がおいしい。現地食を食べられなくて悩む隊員は皆無だった。

オスカルはこの暑さで夏バテ気味だった。それに比べるとロザリ−は暑さにもメゲず、体重を減らしてる様子もなさそうだった。
「アンドレ、シャワ−使うぞ。」
「ああ。」
そろそろ用意した桶に水がたまりきったようである。シャワ−が出なくなればこの水を使う。自宅にシャワ−がない隊員も多い。水道も通ってなくて水汲みを現地の人に頼む隊員もある。オスカルとカタリ−ナの家は2階建てだけあって、水道はもちろん、お手洗いも水洗だった。診療所内に戻るアンドレの後姿にロザリ−が「相変わらず寡黙ですねぇ、アンドレは。」と、あきれてるんだか感心してるんだかといった調子で言った。

ロザリ−はコンジェ(休暇)をとってカオラに来ていた。とは言っても丸々休暇ではない。彼女は教育プロジェだったが、そちらはどちらかと言えば音楽関係に力が入れられる事になりそうだった。次に来る隊員も音楽だった。それで、医療プロジェの保健婦や看護婦との連携でこの国のママや子供たちと接する道も視野に入れていた。それで1ヶ月に1度くらいはこうやってカオラの街を訪れていたのである。
カオラの街はアロンガルの各任地のなかではかなり最果ての地で、あまりお客さんは来ない。この先(国境に向かって)にはもう任地がないので、パッセ(通過)の隊員もない。だから、ロザリ−が来るといつも夜は宴会だった。

ゲルトル−トがシャワ−を浴びて一息ついたオスカルとのんびり景色を眺めていたロザリ−のところに来た。
「どうやら停電は終わったみたいよ。今日の準備もあるし、お先させていただくわね。」
「あ、私たちも行くよ。カタリ−ナとアンドレはさっき帰ってきたばかりで何かやる事あるかもしれないからね。アンドレと代われるような事なら代わるけど、まあなんとかなるだろう?」
「私もお手伝いさせてくださいね。」
「ロザリ−はいいわよ。お客さんなんだから。」
「そんなぁ。よくお世話になってるのに。」
「私たちがティナに行ったらお世話になるんだからおあいこよ。でもまあ今日は楽しみましょ?バ−ベキュ−やるつもりだから。」

ゲルトル−トの家はカオラでは最も大きい家だった。立派な一軒やで、設備も上等だった。お金持ちの外国人相手に建てられたものだった。そこに1人で住んでいて、あまりの広さにかえってとまどうといった感じだった。しかし、今回の赴任になる検査技師がいっしょに住む事になっていて、彼女はそれをとても楽しみにしていた。
「どんなコが来るのかしら?って、もう隊員宿舎には到着してるのかしらね。」と、ゲルトル−トが野菜を切りながら話している。彼女はこのプロジェの中では最も年長でお姉さん的な存在だった。茶の髪と目をしていて、時々気の強いところを見せたりもしたが面倒見のいい女性だった。
オスカルは野菜サラダとドレッシングを作る準備をしており、ロザリ−はデザ−トのゼリ−をまかされていた。
「ほら、今日予定では首都から土木組が3人戻ってくるだろう?ヴィクト−ルもだけど。多分会ってるんじゃないか?宿舎で。」
「そうですよね。うちのティナに来るはずの音楽隊員の事も聞けるかな?」

残務を終えたアンドレとカタリ−ナとアランが到着した。アランはビ−ルケ−スをかかえてきた。
「このクソ暑さじゃあ、これだけでは足らねぇな。また買い足してくるぜ。」
「ああ。おれは火の用意するからな。」
そう言ってアランはまた出かけていった。アンドレはバ−ベキュ−用の火をおこすために、レンガやブロックを積んでかまどを作成し始めた。それ様の焼き網や鉄板もあったし、墨も意外と簡単に手に入れる事ができた。ここらへんはアンドレの家事オタクの面目躍如というところである。彼は黙々と作業していた。

それに引き換え、カタリ−ナが加わった女性組はますます華やかさを増していた。にぎやかな話し声や笑い声で、本当に花が咲いたようであった。
「なあロザリ−。そういえば、王妃さま元気か?」「ええ。元気でいるわよ。小さいけどクラスももって、歌とか教えてるわ。まだなんとなく、子守?って感じもあるけどね。」「じゃあ、おまえも駆り出されてんじゃないのか?」
「まあね。嫌じゃないけど。」と、ロザリ−が笑いながら答える。

ゲルトル−トがその会話に何かを思いついたように加わってきた。
「その王妃さまって、誰のこと?」「ああ、ティナの同期の1人でさ、音楽のマリ−の事だよ。」「王妃って、もしかしてルナサガの?」「え?なんでわかった?誰かから語学劇の事聞いたのか?」「聞いたっていうか、自分の同期からの手紙でね。その同期のコがあんたたちの同期と任地がいっしょで聞かされたんだって。」「その手紙がもう届いてるんですかぁ?」 「そうなのよ。だからよっぽど早いうちに聞かされたんじゃない?うちもその同期んとこの任国も、比較的郵便事情はいいんだけどね。」

それを聞いて、カタリ−ナも話に加わった。
「そんなに話題になってるんだったら、さぞかしいい劇だったんでしょうね?」
オスカルもロザリ−も思わず答えにつまってしまった。するとゲルトル−トが「なんか、ヘソ出し...」と言いかけて、思わず顔色が変わるオスカル。それに気付いたカタリ−ナがくすっと笑った。
「衣装に凝ったものだったの?ルナサガって、ルナティック・サ−ガでしょ?多分リグ−サ姫やライアの時代のじゃないの?」
「うん。私がロザヴィアでさ、ロザリ−が春風の精とメイドのリンディやったんだよ。」
「そうだったの。私たちはそんなに凝ったことはやらなかったのよね。やっぱり音楽の隊員がいるからかしら。」
「そういえばそうよねぇ。私たちもたいした事やってないわよ。言葉そのものになじみがなかったし。今でも大変よね。」

かなり日が落ちてきた。家の前の庭ではかまどに火が準備されようとしていた。アランがごっそりビ−ルをかかえて戻ってきている。
「おい、誰がそんなに飲むんだよ?」とオスカルがアランに言うものの、アランは聞いちゃいない。「上京組がまだだけど、そろそろ始める?」とゲルトル−トが言いながら、かまどの火を確認した。「そうだな。もう始められるぜ。」
すると、庭の入り口から上京組4人がドヤドヤ入ってきた。「おかえり!結構早かったな。」「そりゃあもう、ロザリン来るってわかってたんでね〜」とジャンがのんびりした口調で言う。「どうだった?新隊員に会ったんでしょ?」「そりゃもう!その話はたっぷりするから、まずは腹ごしらえだよ!お腹すいちゃって。」とフランソワが鼻をクンクンさせている。

「かんぱ〜〜い!」やっと10人が揃った。次々肉や野菜を焼いていく。この国ではほとんど豚肉は食べられていない。羊が主だったが、鶏肉や牛肉も手に入る。鶏肉が最も高く、羊、牛と続いた。隊員である彼らは主に牛肉を食べたが、母国でもそうであったため、かえって安く手に入れられて好都合だった。カオラの街は内陸に位置していたので魚はほとんど手に入らなかったが、首都は海に接しており、いろんな海産物が手に入った。漁業隊員も存在していた。
この国の代表料理といえば、それはお米料理だった。一番ポピュラ−なものは、魚とお米と野菜で作るピラフであった。隊員の母国ではお米は主食ではなく、野菜のように扱われていた。しかし、この国に来て、すっかりこのお米料理にハマる隊員も多かった。

そのピラフ以外となると、カレ−のように白米にいろんなル−状のものをかけるのが一般的だった。なんにしろ、トマトとニンニクとピーナッツ油とマジ−(ブイヨン)は欠かせないという感じだった。油はなんでも揚げるというより煮るという感じだったが、この気候のせいか意外と気にならなかった。もちろん体調が悪い時にはボディ−ブロ−のようにきいてくるが。
この国でカフェというと、それはもう、練乳と角砂糖地獄のものだ。耐熱性のガラスのコップの約1/4から1/3に練乳がどんどこ入れられる。そこにインスタントコ−ヒ−が加えられ、仕上げに角砂糖が3〜4個放り込まれるというもの。いくらお湯を足したところで焼け石に水という感じだった。

しかし、母国でならヒステリ−を起こしそうなカフェでも、任国では任国のやり方を大事にしたくてあまり不服も唱えない。ただし、ほとんどの隊員は角砂糖だけはパスさせていただいていた。大体、あまり水の状態がよくないので、それくらいパンチのきいたものでないとまずいのだ。紅茶などは全然おいしくない。それでも慣れてしまえば平気になってしまうが。どうしてもという時はミネラルウォ−タ−を買って紅茶やカフェを入れた。
この国はとにかく暑い。そのためか、少々甘い飲み物でもOKになる隊員が多かった。ジュ−スやコ−ラなど、母国では口にしなかった隊員も口にするようになる。お酒もそうで、自然と酒量が上がる。しかし、暑いのでビ−ルの消費量がダントツだった。この国のビ−ルはアルコ−ル度数も高くなく、水代わりにさえなっていた。ただし、現地の人間の前では決して飲まなかったし、醜態も見せないようにしていた。信用にかかわるからだ。

「で、新隊員はどんな奴らだ?」と、焼けた肉をほおばりながらアランが言う。「そうそう!うちのプロジェに来るコ、若くてかわいかったぞ!」「そりゃ若くなくて悪かったわねぇ!」とゲルトル−トがポンポン言い返す。そう言ったのがまだ25になる前のピエ−ルだったので、バツの悪そうな顔になった。しかし彼はこの、きっぷのいいお姉さんであるゲルトル−トが大好きだった。「まあまあ、ここのお嬢さんがたに負けないっていう女性だってんですよ。でないと新隊員がいじけちゃいますからね。」とフォロ−するフランソワ。
「検査技師さんでしょ?お名前はなんて?」
「えっと...確か、フリデリ−ケですよ。フリデリ−ケ・ヴァイスハイト。」すると、その名を聞いたロザリ−があれ?という顔をした。

「ヴァイスハイト?確かうちに来るはずの音楽隊員もそんな名じゃなかったかしら...?」ハンスが結構上京して情報をティナまで持ち帰るので、彼女は新隊員の名前を事前に聞いていたのである。「そうなんだよ。珍しい事にさあ、兄妹での同時参加なんだってよ。」上京組以外は全員がどよめいた。確かに珍しかったのだ。しかも同じ任国に。任地こそ違えプロジェ組でもある。同じ系統の職種でもなくてこのようなケ−スは今まで聞いた事もなかった。
「でで、どんな様子の2人なの?」とロザリ−が好奇心一杯で聞いた。それまでだまっていたヴィクト−ルが口を開く。「あまり似ておられませんでしたよ。でも、髪と目はお揃いでしたね。栗色の髪とはしばみ色の目をされてました。」「いくつなんだ?2人は。」「えっと、彼女の方が24で、彼が確か...28だったかな?」

活発で健康な隊員の食欲は、あっという間にバ−ベキュ−をたいらげてしまった。それ以外のものも。仕上げにロザリ−が作ったゼリ−と、予めカタリ−ナが作ってもってきたクリ−ムパイに果物などが振舞われた。「ほんと、用意するのは時間がかかるけど、食べるのはあっという間だよな。」とオスカルがややあきれたように言う。「そうよねぇ。隊員宿舎でもそうだもん。きりがないわよ。」そう言いながら皿やコップを片付けにかかる。もちろんアンドレは率先してやる。なんといっても家事オタクだから。そのせいもあってか、他の男性はあまり手を貸さない。かと言って、だれもそれに目くじらを立てもしなかった。男性でもやりたい人間はやるもので、そうでなければ他の場面で活躍すればいいのだ。

ざっと片付いたところで、恒例の「壁登り」になった。壁に柵がうまい具合に取り付けてあって、それを上って屋上に行くのだ。この家は平屋建てで、この国は基本的に予算がたまれば上階に建物を増築する。そのため屋上は平たく、周囲には低いが壁も作ってあって、なかなか快適なのだ。男性はもとより、女性も平気で上がる。例えスカ−トでも!別にその後を男性が上がるわけではない。みなほろ酔い加減で、ただでさえ元気ものの多い隊の女性はますます活気に満ち溢れていた。オスカルも、先にロザリ−を上げて自分も上った。楽勝である。

空は満天の星空だ。信じられないくらいの数の星々が存在を歌う。都会育ちの隊員は、最初にこの夜空を見て「ああ、ここに来てよかった。隊に参加してよかった。」と思うのである。オスカルもそうであった。今の自分の家からでも星はよく見えた。ちょっと周囲に街灯がありはしたが、自分が育った地区はやはり都会であって、星がそう見えなかった。人生で初めての大自然の饗宴に、彼女も心から魅せられていた。それで、屋根の上に寝転がって星を見るのである。そうしていると、流れ星も見えた。1時間も寝ていると、流星がいくつも見えて、いつまでも飽きなかった。
ロザリ−とカタリ−ナとオスカルは並んで星を見ながらたわいのないおしゃべりをした。星が流れるたび歓声をあげて。

屋根の上は、昼間の余熱でほどよく暖かかった。3人も、3人の対角線で飲んでいた土木組も、いつしか睡魔に襲われていた。壁伝いに上りかけたアンドレが、その様子を見てもう一度降りた。家の中に戻って、ゲルトル−トに声をかける。「上の連中寝込んでしまいそうだから、なにかかけるものないか?」
アンドレとゲルトル−トはあるだけのタオルケットや大きめのバスタオルを用意して、ふたりしてそれを屋根の上に上げた。バ−ベキュ−の後、すぐ酔いがまわってそのままその場で寝いってしまったヴィクト−ルにも忘れずに。

アンドレは土木組に、ゲルトル−トは女の子たちに。「アンドレ、シャワ−浴びた?」「ああ。来る前にざっとね。停電で溜め込んだ水でさ。」「じゃあ、私、浴びるわね。あんたも好きなとこで寝なさいよ。」
アンドレは3人の女性の寝顔を見られる程度のところで座って酔い覚ましの水を飲んだ。そうしていると、ふっとカタリ−ナが目を覚ました。「あら、アンドレがかけてくれたの?このタオルケット。」「いいや。ゲルトル−トだ。」カタリ−ナは体を起こした。少し水が欲しかった。それでアンドレが飲んでいるミネラルウォ−タ−をもらった。「ありがとう。みんな上でねちゃったのね。あ、でも、ヴィクト−ルがいないし、ゲルトル−トもね。」「ああ。ヴィクト−ルは下でまだくたばってるし、ゲルトル−トはシャワ−だ。」

同じように黒髪と黒い目をした控えめな2人は、小さな声で話をした。同じようによく寝入っている2人の女性をいとおしそうに見つめながら。
「ふふ。よく寝てるわね。2人とも無邪気な顔して。」「そうだな。起きてる間はやたら元気だったりするけどね。」「2人は仲良しなのね。ロザリ−なんて、「オスカル様」だもの。最初、びっくりしちゃったわ。」「ああ、こいつがな、野外のオリで急流にのまれそうになったのをオスカルが助けたんだよ。それ以来だ。」「まあ、そうだったの...それなら納得だわ。オスカルのことだから、必死だったんでしょう?」「ああ。こいつはいつも必死だよ。」

オスカルは少し背中が寒くなって目が覚めた。ほんのり空が白みかけている。昼間はあんなに暑いのに、さすがに明け方になると寒い。少しだけ体を起こすと、少し離れたところでアンドレが寝ているのがわかった。隣りで寝ているロザリ−を起こさないように注意して、もう少し体を起こす。彼の寝顔が目に入った。
日に焼けた顔は精悍さが増していた。少し伸びかけた髭とややとがったあご。やせたのでよけいそう見える。ややナ−バスな表情のある頬のライン。長年見慣れた顔ではない、隊員の顔をした男がそこにいた。(そういえば...彼の寝顔を見るのはすごくひさしぶりな気がする...そうだ、あれ以来なんだ)そう思うオスカルの顔が少し赤くなった。そして、すぐに複雑な表情に変わる。オスカルは膝をかかえるようにして、いつまでもアンドレの寝顔に見入っていた。

5月になった。隊員総会が首都で開かれる。こればかりは全員出席が大原則である。よほどの事態が起こらない限りは許されない。カオラのプロジェ組はみな列車で上京した。あのでこぼこ道の苦難を耐えるよりは、いつ到着するかはっきりしなくても、列車を選んだほうがマシだった。
今アロンガルには、総勢で90人ほどの隊員がいた。昔と違い、女性隊員が占める割合がグンと増えている。隊全体をみても、かなり女性の進出が増えてきていた。職種にしても「自動車整備」などというような職種にまで女性が進出している。昔はもっと軍隊的な要素さえ見られていたのが、すっかりなごやかなム−ドになってきていた。

隊員総会は年に2度あった。次は11月である。任地はカラになり、首都の隊員宿舎だけではとても宿泊施設が足りない。ただし、5月は全員がホテル宿泊だったが、11月は先輩隊員が優先でホテル宿泊となり、後輩隊員は宿舎でずっと狭苦しい思いをするハメになった。実際、こんな機会でもなければ、全員が顔を揃える事など有り得なかった。アロンガルはそれでも、国の広さの規模からすればそう大きいとは言えないのだが。広い国になると、任地が首都から1000Km以上離れる事もザラだ。そうなるとどうしても隊員総会さえパスする隊員もでた。

大体、毎回宿泊するホテルは決まっていた。一応、アロンガルではリゾ−トとも言える海辺のホテルだ。人数も人数だったから、ほぼ貸切状態で2泊3日を過ごす。隊員総会は1週間程度の余裕を持って行われた。実際はこのホテル宿泊を中間地点とし、職種によって集合の日程がずらされていた。アロンガルでは「医療会」「教育会」「サ−ビス会」「農業会」の4つの会合が行われる。任地には関係なく、同じ職種に属する隊員がそれぞれの活動を報告・紹介していく。普段はなかなかできない、情報交換の場でもあった。

男女の比率のこともあって、今はたいがい「医療と農業」「教育とサ−ビス」で日程は組まれている。ちなみに「サ−ビス」とは、医療にも教育にも農業にも入らないカテゴリの隊員がごった煮状態で属していた。アランたちのような土木隊員はこのサ−ビス会に属した。例え医療プロジェに参加してるとはいえ。今回は医療・農業が先だったので、医療チ−ムは一足先に首都入りした。駅からタクシ−でまずは宿舎に向かう。 首都でいうタクシ−は、彼らの母国のタクシ−と変わりなかった。メ−タ−があって、距離と時間で料金が変わる。

しかし、一般的な任地でいうところのタクシ−はそうではなかった。行く先によって料金が最初から決まっている。1台のタクシ−を借り切ってしまってもかまわない。行く先が決まっていれば、どうせ同じ料金だった。値切ることは認められていない。何人が乗ろうが1台ごとの料金。タクシ−は7SEATSが普通なので、6〜7人集まれば借り切って上京したりした。ちなみにタクシ−は満席にならなければいつまでも出発しない。その点、乗り合いバスの方はたいがいのところで出発するので便はよかった。料金もタクシ−より割安。ただし、まずとんでもなく混んでいた。乗り心地もかなりおよろしくなく、短い距離の移動ならともかく、長距離、例えば上京などではほぼ無理だった。

彼らは荷物を置いてからFICAの事務所にぞろぞろと歩いていく事にした。タクシ−を使うほどの距離ではなかったので、彼らは途中でヤシの実のジュ−スなどをすすりながらまだ慣れていない首都の風景に見入っていた。しかし、オスカルは1人浮かない顔をしていた。かといって、落ち込んでいるわけではない。決してない。じわじわと戦闘モ−ドに移行していたのだ。敵はFICAの事務所にいるのだから。

そうこうしてるうちにランディパンダンス広場に着く。ここがこの国の首都のメインストリ−トであった。長方形の広場の周囲を道路が通り、この国では最も交通量が多かった。この道路に面したビルの1つの最上階にFICAの事務所兼事務所所長の自宅があった。もちろん、最上階全てがFICAの施設で占められている。エレベ−タ−で上がる(最上階は、10階以上ではあった。)と、すぐ事務所の入り口で、事務所の中からしか所長の自宅には入れないようになっていた。(別に専用の入り口があるのだが隊員には知らされていない)

アンドレとヴィクト−ル、オスカルとカタリ−ナ、そしてゲルトル−トは、首都に到着したあいさつに来たのである。いわゆる「顔出し」だった。もちろん細かな用事もありはしたが。事務所で働く現地スタッフから現地語で、笑顔であいさつされる。そう多くはいない。4〜5人というところである。それ以外に、ここには「現地調整員」という任務についている人間がいた。一般的にはもと隊員である事が多く、語学が堪能なものが多い傾向にあった。大体、アロンガル程度の規模の国だと調整員は常時2人である。もっと医療事情が悪い国だったりすると、「医療調整員」という役職につく人間が派遣される事もあった。もちろん、もと(看護師などの)医療隊員がほとんどだ。

今はアロンガルも2つのプロジェをかかえている。それで、2人いる調整員は1つずつプロジェをも受け持っていた。調整員とは、まあつまり、隊員の世話役、補佐役である。隊員に関する事務処理がメインの仕事で、たまには悩み相談などにものるわけである。その人間のキャラにもよるが。
しかし、現在医療プロジェを担当する調整員は、全く畑違いの元隊員だった。視聴覚や電気系統なら得意だが...という男で、そしてやたらと融通がきかなかったり、意地悪な事を平気でしたり言ったりするタイプだった。ぶっちゃけた話、語学が堪能という以外に、調整員としての資質は有していない、そういうタイプだったのである。

「おや、みなさんお揃いで。ですが、きちんと提出物の期限くらい守っていただけませんかね?」
その提出物を持っていたオスカルは、明らかにカチンと来た表情になった。そう、3ヶ月目の活動報告書の提出の期限はとっくに過ぎていた。しかし、オスカルはとうに一度提出していたのである。それを適当にながめられ、すぐ突っ返されてしまったのだ、この男に。
隊員の3ヶ月報告は義務だった。これが研修所に送られていく。3ヶ月・半年・1年・1年半・総括という具合で閉じられて保存される。それを候補生は見るわけである。オスカルもこれを書いた。書きはしたが、まだなんともすべりだしていない活動状況。診療所にやってくる現地の人間に簡単な治療は行っていた。いや、それにかなりの時間と手間をとらされていたのである。しかし、それはプロジェの本質ではなかった。だから、彼女はそれを大部分カットした。当然書けるものは少なく、「あなた、今まで何やってきたんですか?プロジェのリ−ダ−をきどって。」と言われて突っ返されてしまうほどに。

しかし、この調整員が彼女の置かれておる状況を知らないわけではなかった。わかって言ってるのだ。医療隊員が、どこでもマンパワ−的な扱いをされている事を。この国では医療関係者はみな「エリ−ト」だったから。おしなべて、医療隊員の母国での地位より高い位置にいるのだ。言葉もままならない、どこから来たかもわからない外国人などに大きな顔をされる筋合いは、彼らには全くなかった。ただ、マンパワ−になること、資金や物資援助などの恩恵が与えられるということで、医療隊員の要請はとても多いという現実。どの職種にも同じような事は言えた。

オスカルたちはプロジェ組ではあった。しかし、隊自体のプロジェ活動の歴史は浅く、ノウハウの蓄積もない。ましてアロンガルでは初めてのプロジェ、その初代隊員であるオスカルはいつの間にかリ−ダ−役にされていた。しかも、その調整員は彼女を常に目の敵にしているのに、あえてそう仕向けたところがあった。調整員にはそれなりの権利(権力)が与えられている。それを行使するにあたって、最もそれをふりかざしたい相手がオスカルだったのだろう。この、金の髪の若き外科医に。名門の出で輝く美貌のアイス・ロ−ズに。

オスカルは確かに戦闘モ−ドに入っていた。しかし、ここで派手な大立ちまわりをするためではない。むしろ逆だった。冷静さと大胆さが同時に求められる外科医である彼女にふさわしい戦闘モ−ド。なにもわかっちゃいないこの男に何か言ったところで、マトモに取り合う気もないあしらいを受けるだけなのだ。だから、オスカルはそう言われても全く反撃しなかった。もちろん内心はかなりキテいたのだが。しかし敵はそれを望んでいる。無様な姿をさらせと挑発している。「しょせん世間知らずのエリ−トなんてそんなもんでしょ」と言いたいばかりに。

こんな男なので、もちろんヴィクト−ルに対しても結構風当たりが強い態度に出る。内心では、「何しにきたんだ、恵まれた世間知らずの嬢ちゃん坊ちゃんが。うざったいからとっとと尻尾巻いて帰れ。」とでも考えているのであろう。こんな態度をとられては、他のプロジェのメンバ−だって黙っていられない。しかし、それでは泥沼化するだけなのだ。ますます嵩にきてプロジェに非協力的な態度を示してくるだけだ。調整員である彼は、別にプロジェだけ背負ってるわけでもなんでもない。はっきり言ってプロジェがこけたところで腹は痛まない。このまま永遠にこの国で調整員をやるわけでもない。せいぜい数年だ。

だからオスカルもヴィクト−ルも、プロジェの成功を最優先させて、この男を何とかやり過ごそうとしているのだった。
「遅れて申し訳ありません。しかし、1度は提出したのですから、全くやる気がなかったわけではありませんけどね。」と、冷静さを保ちながら書類を渡す。彼はちらっと報告書を見やり、気のなさそうにペ−ジをパラパラめくって「はあ。そうですね、これくらいは水増ししていただかないと、あなたも私も格好がつきませんよね。」とだけ言って、ポンと机の上に無造作に投げやる。
さすがにオスカルの顔色が変わった。しかし、オスカルは何も言わず、そのままさっときびすを返して事務所を後にした。残された隊員は目配せしあい、カタリ−ナがオスカルの後を追いかけていった。

翌日は朝から医療会と農業会が行われた。とは言っても一時には始められない。会は隊員宿舎で行われるのだが、そこに2つの会に属する人間を押し込んで、別の会を同時に開催できるほどのスペ−スはなかった。それで、午前は医療、午後は農業ということになった。大体、このような会のあった日は晩御飯をみなで作って食べるようになっている。今回は先に会を終えた医療界のメンバ−で買出しなど行って、農業会を横目に見ながら晩御飯の準備にとりかかる事になっていた。

医療会は圧倒的に女性が多く、農業会はその逆であった。プロジェの2人(アンドレとヴィクト−ル)は稀少な存在だった。しかし、ここに教育組の一足先に上京してきたハンスが加わった。昨夜宿舎に到着したのである。もちろん医療会はプロジェ組だけで構成されているわけではない。個人派遣の隊員が結構いるのである。アロンガルはいくつもの州で構成されており、州ごとを代表する病院がある。その州の名を冠した病院が。しかし、カオラにはまだそれらしい病院がなかった。プロジェの進み方いかんによっては、彼らの診療所が未来の州病院になるかもしれないのだ!そう、「カオラ州立病院」に。

大体それらの州立病院には隊員が派遣されていた。プロジェとはいえなくても、5〜6人の隊員が常時いるところもあった。しかし、どこも医者は派遣されていない。大体は看護師か検査技師だ。ただ1人、放射線技師もいる。州立としてはかなり大きい病院で、彼らの母国がかなり援助して建物を建てていた。病院に属さないで活動するのはほとんどが保健婦か助産婦で、街ではなく、村に入る。診療所などよりもっと簡単な詰め所程度の施設を拠点にしていた。今現在では、病院所属の隊員は軒並み自分の活動に不満を抱いていた。先ほど述べたような原因が、彼らを常に圧迫していた。ひどい場合、マンパワ−としてがんばってもたいして認めてもらえない。口を開けば金銭的な援助の事ばかりの現地スタッフに取り囲まれていたりする。

そこまでではなくても、村に入って活動するメンバ−の方が明らかにいい活動をしていた。みな生き生きしており、連日の村周りで日に焼けた顔をして、誇らしげだった。プロジェはその中間地点にいるような感じだ。一応診療所所属ではあったが、村に入っての活動も視野に入れてある。大体、現地人のカウンタ−パ−トもいないし、同僚というのも隊員だけだった。これからの流れいかんではどうなるかわからなかったが。一応、カオラの現地人で構成されている、まあいわゆる「保健所」とは連絡を取り合っていた。というか、そこに所属という事になっていた。しかし、そこから何か特別な義務等を設定されているわけでもない。今のところは休暇(コンジェ)願いだとかの書類を届けるのに通う事が多かった。

「そう言えば、新隊員はどうしてるんだ?顔見ないけど。」とオスカルはハンスに話しかけた。ハンスはオスカルたちよりよっぽど首都や宿舎や隊員の動向を把握していた。ハンスはその活動柄、首都に滞在する事も多かったから。オスカルたちのように、首都から何百キロと離れた任地に閉じこもってるわけではない。というか、新隊員には「最低3ヶ月は特別な用事がない限り任地を離れないように」とのお達しが下っていた。それはまあ、その通りではある。国中にバラバラに散って活動している隊員を監視する等というのは絶対無理で、隊員の活動には一応努力目標は存在しても、それが義務だというわけでもない。

隊員がお互いの任地を訪問する事は決して悪い事ではなかった。いろんな意味で利点が多かった。しかし、それもきちんと、自分の任地での活動の基盤が築かれた上で、という話である。意味もなく遊び気分でうろうろするなという事だ。大体隊員は客が来れば喜ぶ。他に娯楽や気晴らしがあれこれ存在するわけでもない。任地においては、隊員の人間関係そのものが「娯楽」であり「気晴らし」にもなった。母国ではたいして他人の噂話などに関心を示さない人間でも、任地ではかなり様相が異なってくる。オスカルやアンドレもそうだった。

「そう言われたらそうだな。かわいこちゃんらしい検査技師はどこにいるんだ?」と、アンドレが笑いながら言う。そう、これくらい変わるものだった。しかし、彼が常にこうだと言うわけではない。ハンスがいると、なぜかアンドレは俄然調子がよくなるのであった。
朝食のパンや果物を頬張りながら、同期のオスカルとアンドレとハンスとヴィクト−ルが話している朝の風景である。「確かね、村にステイに行ってるよ。ホテルで合流する事になるんじゃないかな?それで、医療隊員と農業隊員は先輩に拾われて、いっしょに任地に向かうはずだよ。」と、カフェをすすりながらハンスが答える。「今回は技師と音楽だけだよな、プロジェ組は。」とアンドレ。「この次の隊次で教育の方に村落開発が来るって聞いたぞ。うちも村落、要請した方がいいかな?」とオスカル。そのやりとりを、相変わらずおっとりした様子でヴィクト−ルは眺めている...ようには見えていた。

しかし、彼は内心、とても気が重かった。医療会での自分の立場について、考えれば考えるほど落ち込んでしまう。だが、彼はそれを決して周囲に悟らせなかった。彼にも彼なりのプライドがあるのだ。高慢などとは決していえなかったが、やはり名門の出の彼には生まれながらの矜持というものがあった。彼は本来の活動から全く切り離されてしまっていた。今の彼の状況といえば、中途半端にハンスの真似をしているというものだった。ハンスはコ−ディネ−タ−である。で、具体的に何をしているかというと、「情報収集」と「関係官庁への顔つなぎ」だった。

それは首都での活動で、もちろん任地ではまた違う。カオラ州のプロジェ全体の進行状況を把握してうまく導いていく役だ。進捗表などを更新していく立場。教育と医療のリンクをさせて、効率的なカオラでの活動の発展をうながす。もちろん、任地での交渉事にもあたる。よって言葉の問題が大きく、ハンスもまだそれで四苦八苦する場面が多かった。しかし、なんというのか、彼は明るかった。あっけらかんとするぐらいの明るさで、やはり四苦八苦する隊員を照らす存在。だが無神経というほどでもない。大人の配慮もできる存在で、あの調整員も彼には一目置いているようだった。つまるところ、プロジェは彼にまかせてりゃ安泰とでも考えているのだろう。実際、彼は畑違いのプロジェ等に関心を払うタイプではないのだ。

ハンスはこうして任地と首都を行き来して活動している。情報は圧倒的に首都でなければ得られなかった。アロンガルではまだ情報の面では不備ばかりが目立った。まあ、電気でさえ安定して供給しきれないのだからそれも当然であろう。それに、基本的に隊員は個人的は情報ツ−ルを持たされてもいない。まだ携帯電話は一般化する前のことだった。研修中ハンスが持たされていた携帯はアロンガルの「班長」扱いされていた彼に唯一持たされていたもので、他の隊員は携帯などもってはいなかった。インタ−ネットにしてもまだそれほど普及しているわけでもない。各任地には(特に複数の隊員が入ってる場所では)パソコンが置かれてはいた。ただし、ネットには繋げていない。ネットは首都の事務所のパソにしか繋げられていないのだ。

理由がないわけではない。携帯も、インタ−ネットも有用なツ−ルではある。しかし、活動の阻害になる危険性も大きいのだ。簡単に想像がつくだろう?携帯やネットといったものの中毒性に。大体、隊員というのは、わざわざ不便な世界でなんとかやりくりして活動していくのが醍醐味なのではないか?この任国にまで母国の利便性を持ち込んでも、それは毒にしかならない。大体、都会に入った隊員のほうが不満度が高いのだ。人付き合いの点でも都会の人間とは難しい面が多い。圧倒的に言葉で不利だからだ。

その点は村社会のほうがマシだった。生活の面では不便さをかこつ事にはなる。しかし、同じ人間である現地の人間が生活しているのだ。その不便さも、いつしか楽しめるようになるものだ。だが言葉の問題を克服するには2年の活動期間では足りない事がほとんどだった。しかし、言葉をある程度操れるようになれば、活動そのものクオリティは比べ物にならないくらい上がるのである。もちろん研修生活において、アロンガル組の候補生たちもおおよその日常会話程度なら使えるようにはなった。個人差こそあれ。それでも村社会に入りたければ、いわゆる共通語ではない、部族語を覚えなければならなかったが。

こうして、言葉の問題は次から次へと隊員の肩にのしかかる。結局、どこまで追求するかは個人の判断だ。「のるかそるか」これを決めるのが隊員で、こればかりは調整員だろうが所長だろうが手を出せない領域。最も重要な隊員のアイデンティティだ。アランなどは、あまり言葉にこだわっていない。もともとあまり得意でないこともあったが、活動内容からしても、それほど言葉が障害になるわけではない。いや、ならないわけではないのだが、比較的マシではあった。どだい、ハンスなどとは根本的に立場が違うのだ。もし技術移転としてカウンタ−パ−トを持つとしても、言葉だけに頼らずそうできるのだ。「親方と弟子」のような関係になるはずだから。

ハンスは首都で、関係省庁の顔つなぎさえする。エリートもエリ−トだろう、彼らは。だから、顔つなぎというよりまだ「顔見せ」でしかなかった。ハンスはエリ−トの彼らにある程度合わせられる語学力ができるまで、黙殺される運命に近い。この国にはオフィッシャルランゲ−ジが2つある。元宗主国の言葉と、この国に最も多く存在する部族の言葉と。まずこの最大部族の中から大統領が選出される。よってエリ−トクラスもこの部族出身の者でほとんど占められていた。彼らはあまり好戦的ではなく、おしゃべりが好きな民だった。だから、今まではあまり陰惨な事件も起こらない傾向があった。

しかし、不安がないわけでもない。南部地帯に住む民族はみな大体向上心に満ちた人間で、この国の権力の偏りに不満を持ってもいる。しかも、南部山岳地帯でけっこうな規模の鉱山が発見されて以来、その利権をめぐって元宗主国などの外国を交えた問題もかかえつつあった。しかし、全体的には穏やかな国で、治安もよかった。夜遅く歩いていても、ほとんど危険はなかった。ズボンのポケットに無造作につっこまれた財布あたりはあやしかったが。唯一4年に1度の大統領選挙の期間あたりには、首都で発砲騒ぎがあったりする程度だ。隊員の母国は10年ほど前までだが一時テロが社会問題化した歴史もあって、この国は平和だという感覚しかなかった。

ヴィクト−ルは、まだ自分がどうすればいいかつかみきれてなかった。歯科医師としての活動はほぼ絶望的である。自分も休職組であって、残された任期を考えると、そうそうぼんやりともしていられない。ハンスの活動が予想されていたのより大変なもので、2つのプロジェを兼任するのはキツイ状況なのはもう明らかだった。それで、まずはその手助けをという気持ちになったヴィクト−ルは、ハンスの手が廻らない部分のフォロ−にまわることにした。やはり、任地が異なるので、どうしてもハンスは医療プロジェより教育プロジェにかかわる場面が多くなる。その分を補う形でヴィクト−ルはこの2ヶ月ほどを過ごしてきた。

彼は頭の働きは悪くない。歯科医師としてやってきた男ではあるし、出自にふさわしい教育を受けてもきた。語学に関してもなかなか覚えがいい。しかし、問題もないわけではない。彼のおっとりとして、はにかみやな部分が彼を困らせていた。言葉ができても、あまりうまく話せない。交渉事なんてできたもんじゃない。これではハンスにさえうまくいかない事がヴィクト−ルでいくわけがない。第一、このような事をしたくて来たわけじゃないんだし。しかし、そうは言ってもいられないと、彼なりにかなりがんばってはいるのだった。それはもちろん、任地の人間には伝わっている。

しかし、例の調整員や1部の隊員からは、あまりいい目で見られないところもあった。アイス・ロ−ズへの傾倒ぶりは変わっておらず、彼の任地変更に関して誤解が混じった噂まで流れたのだ。曰く、彼が望んでの任地変更だと。そのような事が現実であるわけないのだが、あまりにうまく任地変更がなされたように見えたための適当な憶測だった。彼は何も弁解じみたこともせず、現状に耐えてはいた。しかし、プロジェのために一体何ができるのかがわからず、彼は途方にくれていた。それゆえに、活動報告がメインの医療会での自分を思うだけで気が重かったのだ。

彼の悩みをよそに、医療会はスタ−トした。まずは全員が自己紹介から始める。お互い初めて見る顔である事も多い。もちろん先に入っている先輩格の隊員はそれだけ他の隊員の顔を知ってはいたが、オスカルたちのように来て間もない隊員(しかも任地がどんづまり)にはほとんど知らない顔ばかりとも言えた。まずは名前と隊次と職種と任地は必須だが、それ以外にも言いたい事があれば言うという感じであった。その場には例の調整員もいたが、あまり関心なさそうに持ってきた雑誌などをパラパラと見ている。その後は分科会だった。職種ごとに集まって活動について討論する。

医療隊員は今かなり増えており(プロジェ等で)、約30人いた。その主な職種は看護師と保健婦と検査技師だった。それでその3つの職種がそれぞれ固まってわいわいとお互いの不満やストレスを吐き出す...というノリだった。しかしさすが医療隊員の女子は「最強の乙女軍団」といわれるだけあって、ジメジメしたところは皆無と言えた。まずはお互いのかかえる問題を明らかにして、それから少しでも建設的な意見を忌憚なく話し合う。やはり同じ職種でなければ分かり合えない部分も多かった。こうして集まれるのは年2回しかなかったので、彼らはもじもじしている暇などなかったのだ。

しかし、その3つの職種以外の隊員はバラバラな職種で寄り集まるしかない。オスカルとヴィクト−ルとハンスはもちろんはみ出していた。その3人以外は放射線技師と助産婦が1人ずついるだけだった。「さて、他のチ−ムはにぎやかにやっている事だし、私たちも負けずに話をするかな。」とハンスが笑いながら言う。彼がいると、なんとなく場がなごんだ。それで5人もお互いの事を話し出した。「ぼくは放射線技師なんだけど、機械が1つ壊れちまってるんだよね。なんか、ディリ州立病院が移動した時にかなり乱暴に扱われたっぽいんだよ。だけど、誰がメンテしてくれるんだよなぁ。それに電気もたまにあやしくなるからね。フィルムを流してる時に現像機が止まるともうお手上げなんだよ。」

「私は外科医だが、それは自国でもたまにあるよな。停電じゃないが自現機がいかれちまって。大体 これはいるんだ!って奴に限ってなぜか機械が止まってダメになるんだよね。やっぱりプロジェに放射線の機器を入れるのは無理があるかなぁ。」「そうですねぇ。ぼくの病院でもかなり手こずってますからね。とにかくメンテができないってのが痛いですよ。検査系の機器と違って修理に出すってできないから、技術者を派遣してもらわなきゃ無理ですし。電気も水も不安は不安だし。」「私は助産婦なんだけどね、村から町の病院に運ぶ手立てがなかったりするのよね。そっちもカオラなら厳しいんじゃなくて?」「そうなんだよ。村に活動範囲を広げたいんだけどね、なかなか簡単にはいかないかな。カオラ州って広いんだけど、カオラの街自体はどんづまってるからさ、他の州の村のほうが近かったりするんだよ。」「でもあれでしょ?州が違うと活動できないでしょ?」「そうなんだよ。なんか納得できないんだけどね。まあ、来てくれる分には構わないんだろうけどさ。いちいちどこから来たかなんてあまり気にしてないし。でも、これが州病院だったらそうもいかないのかな?」「そうねぇ、ディリの州病院はどうなの?」「う〜ん。よくわからんけど多分州内の病院にかかるのが基本だろうな。たまに紹介状?らしきものもって、隣の州病院からまわされてきたりしてる。」

やはりヴィクト−ルは会話にもロクに加わらず、他の3人が話しているのを聞いているばかりだった。ハンスはもともと、今回は医療会への参加より教育会での参加に重きを置いていた。それであまり話に加わる気はないらしい。しかしなぜかテ−プをまわしていた。「なあハンス。そのテ−プ録音はなんだ?」とオスカルが聞くと「ああ、録音しといて後で起こしてみようかと思ってさ。結構こんな時になにげなく言ったことがね、後で何かのヒントになったりするもんだよ。」だと言う。なるほどコ−ディネ−タ−らしい考えかもしれないと思わせた。

休憩をはさんでひとしきり分科会が行われ、最後に全員が活動報告とこれからの抱負を述べた。やはりヴィクト−ルの発言には精彩が欠けている。こんな意見も飛び出した。「いっそ歯科医の職種の事はきっぱり忘れてコ−ディネ−タ−に徹したほうがよくない?なんかそうでないと気持ち的にも実際の活動にも中途半端さばかりになる気がするんだけど。」そう言う先輩隊員の意見はしごくまっとうである。多分他の隊員もそう感じているようだった。彼らはみな、このはにかみやでおっとりした彼の事が内心心配だった。こうなったのは彼のせいではない。だがそれに拘泥していては先に進めない。先輩たちもそれぞれに問題をかかえていた。だからこそ、彼を心配しながらも甘やかしてはいけないとわかっていた。

翌日はそれぞれの会ごとに行事が行われた。職種に関連する施設の見学などだ。慌ただしくすぎゆく日々。3日目にはホテルに固まって移動した。まだ上京してなかった隊員も全員がそろった。ただ、まだ新隊員は村からのステイから戻ってきていなかった。夕食には全員戻ってくるだろうとの事だった。ホテルは独立したコテ−ジタイプの施設で、いかにもな雰囲気の外観や内装で楽しめた。1つのコテ−ジに大体4人で宿泊する。しかし、オスカルたちはロザリ−とマリ−の3人で1つのコテ−ジが与えられた。

「うへー、なんかこの3人ってのもひさしぶりだな。しかも同じ部屋で泊まるって初めてじゃないか?マリ−とは研修所の居室が違ってたしね。」「あんた寝相悪そうよねぇ。夜中にベッドから転げ落ちたりしないでよ!こっちが驚いちゃうわ。」「そういえばオスカル様、たまに研修所の2段ベッドの柵を蹴ってませんでしたか?」「あ、ひどいなあ、そんな事バラさなくったっていいじゃないか。」「やっぱりね!あんたうるさそうだもん。まさかイビキとか歯軋りはないでしょうね!?」「それはないよ。おまえこそ大丈夫か?おしとやかな王妃様は。」「まあ!あんたこそ、夜のロザヴィアのくせに色気ない事ばっかりしないでよね!」

夕食は晩餐会というものでもないが、それなりに正装する。なぜなら公式行事だからだ。本来なら制服で出席するような会なのである。普段はめったに顔をあわせない事務所の所長さんやその奥様なども出席する。ヒトのよさそうな感じのいいご夫婦だ。オスカルたちもそれぞれにおしゃれをして会場に現れた。もちろん、現地の民族衣装でという隊員も結構いる。最も正装には近いかもしれない。こちらではクチュリエでオ−ダ−メイドが基本だ。本当にお金をかけるなら、いい布地というだけでなく、金糸銀糸の素晴らしい刺繍がほどこされる。それで1ヶ月ほど時間をかけてもらうのだ。

オスカルたちは赴任して間もないので、まだオ−ダ−経験はない。たまに首都でTシャツだの現地の布だのを買ったりする。こちらで使ってもいいし、おみやげにしてもいいからだ。今は暑い時期なので、正装とは言ってもみな軽い夏衣装ではある。今回の食事会では、先輩隊員に頼まれて新隊員のためにある事をする予定になっていたため、オスカルだけでなく、アンドレもヴィクト−ルもマリ−もそれを意識した格好だった。食事は着席制で、適当に割り振られた席につく。このホテル滞在は、やっと全隊員が集合する貴重な機会だった。それで、あえてあまり同期同士で固まらないようにとの配慮もされてはいた。寝室はどうしても同期で固められるのだが。(当然男組は4人が同じベッドル−ム)

食事開始直前になって新隊員が集合した。やっとステイから戻ってバタバタと着替えてきたところだった。まだアロンガルに来たばかりで、母国のにおいがしそうな雰囲気である。まだ4ヶ月目のオスカルたちも、なんだかんだと隊員らしくはなってきているのだ。今回の新隊員は5人である。プロジェ組の検査技師と音楽、あとは個人派遣で農業が2人と漁業が1人だった。農業は2人ともとても若いようだ。1人は女性で、少数だが最近は農業の女性隊員も増えてきている。たいがいは大学で農学部を専攻していて、それを休学して参加したりしていた。

食事前に壇上に並べられて紹介される5人。本来ならオスカルの隊次も紹介されてしかるべきだったが、慣例として行われない(前回の総会は11月)ので、それで紹介も兼ねてある事をしようというのである。他の隊員にも関心がないわけではないが、どうしてもプロジェの兄妹に目がいってしまうオスカルであった。確かに聞いていた通り、お揃いの栗色の髪の毛、はしばみ色の目をしている。なかなか美しい兄妹であった。妹のフリデリ−ケはやや年より若いというか、多分兄からかわいがられて少々やんちゃな感じに育ったのではないかという風情だった。それにひきかえ兄のイザ−クのほうは、いかにも妹が心配でかわいくて仕方ないという感じか。やや年齢より老成した様子にもとれるが、もしかして妹のことでいらん取り越し苦労をしてるのかもしれない。

ひさしぶりのホテルでの西欧風の食事だった。それでもこちら風にアレンジしてはあったし、中華なども取り入れてあって、バラエティ−に富んだ内容だった。普段はあまり知らない顔同士が談笑しながら会はなごやかに進む。食事がすむと、中庭に面したオ−プンな雰囲気のラウンジに会場が移動した。ピアノがおいてあって、弾いてもかまわないということだった。コロニアル風とでもいうのか、いかにも元宗主国がヨ−ロッパだと思わせる。南国風のカクテルや冷たいデザ−トを注文するよう所長からお許しがでる。大体落ち着いたところで、ある事を始めるために4人が動き出した。オスカルとヴィクト−ルが各々の楽器の準備をしだした。

アンドレはピアノにすわって手慣らしに軽く弾いている。マリ−はスタンドマイクの準備をしている。少し声を出して音響チェックなども。何が始まるのかと、バラバラに散っておしゃべりしていた隊員が集まってきた。準備が完了したところで、現在の隊員代表である農業隊員の先輩が彼らを紹介する。新隊員赴任を祝って、1隊次先輩の彼らに簡単な音楽会を開催してもらおうと。特に今回はプロジェで音楽隊員の、それもピアノが専門だというほどの弾き手がやってくるというので、それのお披露目も御願いするという。新隊員のイザ−クにはそれを全く知らせてなかったので、彼はかなり驚いた顔をしたが、アンドレが「専門の弾き手と比べられるのはツライけど、承知したんだからな。おまえもまあ、できたら少し手加減して弾いてくれよ。」と笑いながら訴えたのですぐ承知した。

「専門とは言っても、ピアノだけじゃ食っていけませんからねえ、作曲とかが多いんです。最近は。で、キ−ボ−ド扱うことが増えちゃって。」と、少しはにかみながら言うイザ−ク。「おれもなあ、最近はずっとキ−ボ−ドばかりだったんだ。実はこっちに来てティナプロジェのピアノをさわる機会ができてね。」と言って、アンドレが席を少し空けてイザ−クを隣にすわらせる。オスカルはヴァイオリン、ヴィクト−ルはフル−トをスタンバイさせた。「まず一曲目はみなさんよくご存知の曲です。一緒に歌ってください。」という先輩の紹介が入って、ワンツ−スリ−の合図とともに演奏が開始された。

そう、研修所でよく歌った隊の歌だった。朝会で毎日のように歌っていたあの曲のメロディ−が流れる。この曲は新隊員へのプレゼントなので、イザ−クは手を出さない。主旋律をピアノとヴァイオリンで担当し、そこにフル−トが副旋律であわせる。3人はこちらに来る前に何度かティナまで出向き、練習したのであった。はりのある美しいマリ−の歌声があたりを満たす。

若い力がここにある 未来の扉開くもの
祖国の明日を築くもの 誇りを胸にいざ行かん
若い力に栄えあれ
若い理想がここにある 今こそ望む新天地
我らが流す汗と血は 世界を結ぶ虹の橋
若い理想に栄えあれ

マリ−の歌声につられるように、ほぼ全員が歌いだした。こちらに来てからはさっぱり歌わなくなってしまっていた。だが、歌うことで、隊員たちは研修所の思い出や熱気を思い出した。理想に燃えていた初心を思い出した。今や任地に赴任して、思うとおりにいかない現実と戦っていたが、それでもやはり隊に参加してよかったと全員が感じているのである。新隊員は新隊員で、先輩隊員の思いやりに触れられ感激していた。彼らは来たばかりで、周囲の物慣れた様子の先輩隊員たちに圧倒されてしまっていたのである。しかも、初めて見る先輩たちの数に改めて驚かされていた。それぞれに個性的な先輩ばかりに見える。

特にまた、楽器を演奏している3人は目だっていた。やはり、隊では見かけない類の人間だったのである。オスカルやアンドレは、勤務先でのゴタゴタがなければ参加していないだろう。そしてヴィクト−ルも。どこか、なにか違っている。それが育ちというもので、わざわざ自分の楽器を音楽隊員でもなんでもないのに持ち込んできていたりするわけである。身につけているものも何か違って見えた。だんだん隊員らしくはなっていってたが、まだまだ4ヶ月目だったのだ。3人とも専門でもないのに上手だった。イザ−クも感心しているようだった。

その後は、母国でよく知られている曲がいくつか演奏された。はやり歌を歌うマリ−の生き生きしてること!クラシックともモダンともいえない、なんともなつかしい調べ。イザ−クも加わって、見事に調和する楽器の魂が感じられた。隊員たちはその世界に酔いしれ聴き惚れた。そして最後にイザ−クのみの演奏が行われた。さすがに彼の奏でる紡ぎ出す音楽は素晴らしい。これは彼だけの音楽だった。決して他者には踏み込めない領域の。技術的なものはどうなのかわからない。隊員たちはそこまで専門的に聴きこんではいない。しかし、イザ−クの個性をこの個性的な集団は瞬時に感じ取ることはできた。
拍手喝采のうちに音楽界は終了した。

翌日は朝からフリ−タイムだった。天気はいい。まあ、雨季でもない限り天気はいいのだが。朝から結構な気温上昇が始まっていた。隊員たちはみな、ホテルのプライベ−トビ−チで海水浴を楽しむのが恒例だ。相変わらずマリ−とオスカルは、お互いの水着についてあ−だこ−だと言い合っていた。
「ひえ〜〜なんだよそれ!背中丸見えじゃないか?」「あんたのそれは何よ!ほんとあんたってお子様よね。まあ扁平胸だから仕方ないか。」「だからそれを言うなってゆってるだろ!」「おふたりともお似合いですよ。」「ロザリ−のもね。ただやっぱりマニアが喜びそうな気がするのは気のせいか?」「ロリ顔だからねぇ、大人っぽいのは似合わないし、かと言ってあんたみたいなお子様のもこのバストじゃダメだしね。どうしてもこういう路線よね。」「いいんです。ロザリ−負けませんから!」

ビ−チパラソルの下でわいわい騒ぐ同期を眺めながら、アンドレとアランが木陰でのんびりしていた。「あいつら、いつ見ても意味なく元気だな。」アランはすでに片手にビ−ルだった。しかし、そうでもしていないとやってられなかった。見慣れたはずの顔の女性が水着姿になっているのが照れくさかったのである。別にグラビアやTVなどで見かける水着の女性はどうってことないのだが。実際、自分の妹のさえ照れくさかった。「おまえこそ元気だな。朝まで飲んでただろうが。つきあわされたハンスとヴィクト−ルはまだダウンしてて出てこないじゃないかよ。」と言うアンドレも眠そうな顔だった。

「情けない奴らだぜ。おまえは俺をシカトして途中で寝やがったし。お育ちが違うってわけか?」昨日の音楽会を見て、アランは改めて感じ入ってしまったわけである。オスカルとヴィクト−ルはともかく、アンドレの育ちまで。(けっ、こいつ、自分の事を捨て子だのどこの馬の骨かだのと言いやがるけど、隊長やヴィクト−ルとたいして変わりないじゃないかよ。)昨晩は飲みながらずっとこの話だった。アランは音楽会の事は全く知らなかった。それで、なんだか仲間はずれにされたみたいでくやしかったのだ。それをアラン自身もわかっていて、なおさらくやしいわけである。

アンドレはオスカルとほぼ同じ教育を受けていた。学校も一緒だった。(大学は異なっていたが。)跡取り娘だからといって、オスカルだけが特別にというものはほとんどなかった。趣味的なものは2人の好みが異なっていたのでバラバラだったが、名門にふさわしい教養は一通りやらされていて、それでアンドレはピアノが弾けるわけである。つまり、ヴィクト−ルができる事はアンドレにも大体できるのだ。そういう意味ではこの2人には共通な部分があって、話題にもできた。ハンスはそこそこいい家の出らしかったが、首都出身ではない。

アランも別にそこまでコンプレックスを感じなくてもよかったのだが、彼の家の事情が彼をどことなく屈折させてはいた。「おまえなあ、おれはもらわれっこだって言ってるだろうが。おまえは両親がいるんだろう?」「もう2人ともいねえよ。」「だけど顔ぐらいわかるだろう?おれなんか顔も名前もわからん。それにおまえには妹がいるんだろう?おれは天涯孤独なんだぜ。」「いいじゃないかよ。おまえにはガキの頃から隊長がいて、尊敬するだんな様もいるんだろ?ものは考えようだぜ。」

それには答えず、アンドレは脇に置いていたミネラルウォ−タ−を口に含んだ。「朝から暑いな。」と言って、少し体を起こす。先輩隊員たちが彼女たち3人に声をかけている。なんとなくこちらをうかがいながら。彼らは暗黙の了解を守っているのである。たった3ヶ月とはいえ、同じ研修を受けてきた同期の結束は固い。例え任地、いや任国が異なっていたとしても、同期隊員同士の影響力は強かった。研修所でもそう職員から指摘されていた。特に活動に悩んだりした時に、心の支えになるのは結局同期隊員であると。

任地での数ヶ月は非常に大きい。特に最初のうちは。であるから例え自分のほうが年齢的には上でも、先輩隊員に対しては一目置き、ある程度の礼節を保つのが当たり前とされていた。しかしその一方で、同期の繋がりは最も大事なものでもあったのだ。特に男女関係において。いくら先輩隊員だからといって、同期の男性隊員をないがしろにはできなかった。既につきあっているという事実ができていれば、絶対手を出さない。それは無用の争いを生むだけだから。彼らはこの任国に、別に恋愛をするため、結婚相手を探すために来ているわけではない。ただ隊員同士での結婚はかなり多かった。特にこのアロンガルでは、女子隊員の増加でその傾向がますます高まっていた。

まだオスカルの同期ははっきりした交際を始めている者はいなかった。しかし、オスカルを巡る同期における争奪戦の存在はすでに有名にさえなっていた。「ロザリ−も参加してる」とまで言われている。どっちにしろみなプロジェ組で任地としては僻地にあるカオラに赴任している。通過などができない任地なので、しっかりとした理由もなくちょこちょこ訪れられるところでもない。そのためますますプロジェだけ、同期だけで結束しがちだった。オスカルだけでない、マリ−やロザリ−も大層魅力的な女性だった。当然先輩隊員たちは彼女たちと仲良くなりたいわけである。こちらに向けられてくる先輩隊員たちの視線がそう語っている。

しかし、基本的にこの同期組はなんでも彼女たちの自由にさせていた。というか、「尻に敷かれている」というのが正解かもしれなかった。あまり認めたがらない(特にアランは)だろうが。とにかく3人ともが個性的で気が強い。ロザリ−だって少しも弱くはない。相手に涙目で訴えながら、自分の意思を貫いてくるわけだから。泣きが入ってるだけに強いのだ。多分たいした時間もかからずに、この隊次の女性に手を出そうなどというチャレンジャ−は、命がいくつあっても足りないのだと思い知らされるだろう。すでに同期の男性隊員は、十分研修中に思い知らされていた。

先輩たちは、特に彼女たちを海に連れ出すでもなく、パラソルの下で談笑している。すると、その向こうからハンスとヴィクト−ルが歩いてくるのが見えた。やっと目が覚めたらしい。同じように水着の上にTシャツを着ている。日差しがかなり強いので、日焼け止めをぬったとしても、みな用心してシャツを着ているのである。女性たちも海に入る以外は必ず何かを上に羽織っていた。ヴィクは特に色白だったため、念入りに帽子もかぶっている。(胸に傷があるからな。最後まで脱がないかもしれん。)アンドレはふっとそう思った。彼らが横を通る時、彼女たちが2人に声をかける。「遅かったのね。昨日遅くまで飲んでたんでしょ?ほんと酒飲みは始末におえないわよね!」と、マリ−が2人を軽くにらみつけながら言う。

「いやあ、アランがね、昨日の音楽会の事でやけにからんできてさ。別におれだって参加してないのに、やけにひがんだような口調でね。そう言ったら今度は怒り出してしまうし。アンドレは途中で寝ちまったけど、結局おれとヴィクは明け方まであいつのからみ酒につきあったんだ。」「そうだったのか?あいつ別に音楽に関心あるとも思えんけど。何が気に障ったっていうんだろ?」と不思議そうな顔をするオスカル。「私についてもいろいろおっしゃってましたが、アンドレにはもっと...どうも、彼がピアノを弾いたりするとは思われてなかったようですね。」と、穏やかな口調で言うヴィク。

「だってアンドレはオスカル様とジャルジェ家で育ったんでしょ?オスカル様があれだけヴァイオリンされるんだから、アンドレだって、ねぇ?」「ああ。あいつ結構才能あるよ、音楽の。だからダンスとかも上手だしね。」「へぇ、じゃあ、ヴィクみたいにワルツとかも上手いの?」「うん。ただあの手の社交界系のものは好まないんだよな。」「それで野外の夜はあんなダンス踊ってたの?」とロザリ−がなにげに聞く。思わずその光景を思い出す同期と、何事かと耳をそばだてる先輩たち。そう、聞くだけだったが、彼らも話に加わってはいたのである。

「あはは、あれはねちょっと特別なんだよ。忘れられない...思い出のね。」と言うオスカルの顔が少し曇る。いや、かなりつらそうな感じの目をしていた。それでロザリ−は驚いてしまってオスカルの両手をにぎった。「ご、ごめんなさい!私ったら考えなしで。もうこの話は絶対出さないから。他の人も御願いね!」と周りを見回して宣言する彼女に、思わず同意してしまう隊員たち。もちろん何も知らない先輩たちは内心好奇心で一杯ではあったが、先輩としての尊敬や愛情を受けたい気持ちが勝っていて、確かにその後もこの件が大っぴらに語られる事はなかった。

「せっかくだから少し泳がない?」と、マリ−が提案する。一気に盛り上がる隊員たち。そう、気分転換や気持ちの切り替えができないと、任地でやっていくのは大変だ。ロザリ−が走ってアンドレとアランを迎えにきた。「泳ぎましょう!」と言って、アンドレの腕を引っ張る。横を見るとアランはビ−ルで酔ってしまったのか眠っていた。「やっぱりな。寝てないくせにビ−ルなんか飲むから...」とアンドレがつぶやく。「なんか昨晩は大変だったみたいね。これでアランを置いておくとまたひがんじゃう?」「ふん、かまわんさ。」そう言って、アンドレも立ち上がって海に向かって歩き出した。シャツを脱ぎ捨てて。

ロザリ−は、ややダ−クな色合いのブロンドを、水着とお揃いの白い髪留めでひとつにしている。白のビキニ姿にロリ顔とピンクの肌で、オスカルがつい心配するほどの「マニア系」である。背が低い、いわゆるトランジスタグラマ−だった。マリ−はやや赤毛が混じった長いブロンドをラフにたらし、黒のワンピ−スではあったが、背中にはV字の深い切れ込みが入っている。脇にもスリットがあって、ややピンクがかった肌がちらちら見えている。オスカルほどではないが上背もまあまああり、メリハリのきいたボディラインは圧巻だった。

それにひきかえ、オスカルはかなりスレンダ−である。3人のうちで最も背が高い。ヴィクとそうたいして違わないくらいか。濃いブル−のワンピ−スに、白のパレオ。手足が長いタイプのため、よけいほっそりした感じもあるが、かぼそくはない。外科医も体力勝負だ。大層色白なのは語学劇のへそ出しで同期の知るところではあったが、男性隊員がみな陽に焼けている傾向があったためますます目立っていた。アロンガルに到着したばかりのオスカルを見たものは、任地で髪をバッサリ切っていたので相当驚いていた。しかしもともと清楚でさっぱりした雰囲気だったため、この姿もまあ悪くないかと評されてはいた。

「おまえ、出てるとこは焼けてるけど、そうじゃないとこはあまり焼けてなくてなんか面白いぞ。」とオスカルがアンドレに話しかける。「そうだろ?ちょっと今日は焼こうと思ってさ。」彼も人種的には白いわけだが、例えばハンスやヴィクほどは元から白くない。そのため焼けても似合いはしていた。ロザリ−がオスカルの後からバシャッと水をかけた。「うわ!あ、ロザリ−だな、こういう事するのは!」と言って彼女のほうに振り返り追いかけていく。その後姿を見つめるアンドレ。ふっと横を見るとヴィクも同じように見つめている。やはりシャツは脱いでいない。

先輩たちもかなり打ち解けて、後輩隊員である彼らに話しかけてくる。「いろいろ聞いてるぜ。どうやら研修中から「アイス・ロ−ズ争奪戦」だったって。」「別に争奪戦というわけでもなかったような気がするけどな。」「アンドレはアイス・ロ−ズの幼馴染なんだって?すごいよな、かなり名門なんだろ?ジャルジェ家って。」「それはそうですけど、おれはもらわれっこですから。オスカルや、このヴィクなんかは本当に名門の出身ですけどね。」すると、ヴィクはややはにかみながらも強さを混ぜた口調で答える。「氏より育ちというでしょう?アイス・ロ−ズや私がそうなら、あなただってそうですよ。だからといって、昔とは違いますからね。気取りかえってるわけにはいかないし、仕事柄もあるけど営業スマイルだって。」「確かにな。医療はサ−ビスだ。」と言って笑い出す2人。

(いや〜やっぱりなんか違うな。嫌な感じは不思議とないけど。やっぱりアイス・ロ−ズはこの2人のどちらかがよさそうだな。)などと、思わず納得してしまう先輩だった。カタリ−ナやゲルトル−ト、土木3人組もやってきた。また別の先輩が「プロジェはどうだい?なんか大変そうだけど。なんせまだ始まったばかりだしね。」と声をかける。どうしてもヴィクの顔が曇ってしまう。医療会の総括でも、例の調整員がチクリと嫌味を言ったのである。隊員はみな、調整員の気性をわかっていたので「気にしなさんな」という態度だったが。「やっと支援経費が下りたんで、どうしようかなってとこです。」支援経費とは、隊員個人の活動のために支払われるもので、隊員の裁量に任されている。そう高額ではない。

「プロジェだからなあ、俺たちみたいな個人派遣とは違うんだろうね。よくわかってないけど。」「そうですね。支援経費とは別にプロジェ経費はあるんですが、どうしても支援経費にまでプロジェを意識した使い方をしなくてはって気になります。」普段あまり口数の多くないアンドレではあったが、ヴィクの分もしゃべっている。それにヴィクも気がついており、内心ますます哀しいものがあった。アンドレの思いやりに感謝はしていたが。多分先輩もヴィクの状況を知ってはいるんだろう。だが自分がどうとする事もできないわけで、それで遠慮しすぎるのもいけないとわかっている。

少し沖にまで泳いで出ていたハンスが戻ってきた。「ひさしぶりに泳いだ気がするなぁ。昔は海辺に住んでたんでよく泳いだものだけど。」と言いながらこちらに近づいてくる。すると、おっかけっこの2人の勢いがあまって、たまたまそこにいたマリ−に衝突してしまい、その余波を受けてハンスが倒されて尻餅をついた。マリ−は跳ね返され、ぶつかってきたロザリ−に抱きつく格好になった。「もう、あんたたちは一体幾つになったのよ!」と叫ぶマリ−。あわてふためいているロザリ−を尻目に、オスカルはハンスに手を差し出した。それとほぼ同時にアンドレも。

左右から手を差し出され、ハンスはとてもうれしそうな顔になった。「なんて光栄なんだろうね。名門のお2人から同時に手を差し伸べられるなんて。」少しも嫌味のない話し方と笑顔。思わず見つめ合うオスカルとアンドレ。目があった2人は、多分2人にしかわからない微妙なニュアンスの目くばせを送りあった。そして2人してハンスが立つのを助けた。
先ほどからやっと目を覚ましたアランがすぐそばまで来ていて、この光景を目撃していた。2人の様子に最も敏感に反応したのはアランだろう。口に出すなど表に出すことはなかったが。(なんだ?あいつらなんか変だぞ。もしかしてハンスが原因か?)

総会は後半戦に突入した。隊員はみな1週間のコンジェをとってはいたが、宿舎があまり広くないため、前半の農業や医療の隊員は任地に戻ってゆく。カオラ組は滅多に首都に上がれないこともあって、他の任地の隊員からステイするよう勧められた。それでもう一泊だけしてまた列車で帰ることにした。そう、新隊員のフリデリ−ケを連れて。実際のところ、兄のイザ−クが妹と離れがたそうだったため、ギリギリまでステイするかどうか検討したのだが、妹のほうが「兄につきあってたらキリがないです!カオラに行きましょう!」と宣言した。

こうして新隊員を迎えてのプロジェ活動が再開された。フリデリ−ケはゲルトル−トの家に入り、数日もせずすっかり仲良くなっていた。丁度姉型と妹型の性格だったため、いいコンビになりそうである。しかしフリデリ−ケの活動も、かなり歯応えのありそうなものになりそうだった。彼女の要請は、元々他国からの機材提供がきっかけだった。彼女が赴任する少し前にその機材が送られてきていた。それは梱包されたままで、彼女の到着を待ちわびていたのである。しかし、機材さえあれば活動できるわけではない。

なんせ、第3国からの機材のみの援助である。彼女が本国で扱っていた機種のものは1つもない。おまけに取説もその第3国の言葉と、アロンガルの元宗主国の言葉のみである。わかるとすれば元宗主国の言葉だが、研修所で学習したのはいわゆる「口語」だった。しかし、取説は「文語」である。元宗主国の言葉は話し言葉と書き言葉が異なる言語体系だったのだ。そのため、フリデリ−ケもまた、かなり重症の言語問題をかかえる事になったのである。取説の解読からしなければ一歩も先に進めなかった。で、提供された機材もどこかチグハグだった。まず、顕微鏡がなかったのである。

「なんでこんな基本中の基本がはずされてるの!?かと思うと、妙に精密機器っぽいのもあるし。」と、しょてから音を上げ気味のフリデリ−ケであった。「仕方ないわよね。とにかく重要なものから取説の解読を始めなさいよ。これだけの機材が来た以上、FICAは絶対これらを活用するよう期待してくるわよ。顕微鏡だけは請求すればいいからね。プロジェ経費からって言ってくるかもしれないけど、それならそれでなんとかしましょうよ。」と熱心に言うお姉さん。「そうだよ。顕微鏡無しなんてなあ。やっぱり援助ってどこかとんちんかんだよな。」とオスカル。「でも、あまり根詰めちゃわないでね。ずっと辞書に首っ引きじゃまいっちゃうわよ。」と、優しげな目で言うカタリ−ナ。

「そう言ってくださるだけでホッとします。私だけじゃないですもんね、言葉に関しては。」全くその通りだった。フリデリ−ケだけではなく、このプロジェにはいろんなところから機材や資材の調達が入っていた。資金的には本国のFICAからが主だった。しかし機材や資材は第3国、特に元宗主国からの製品が多かったのだ。確かに輸送費を考えると、本国経由では時間も手間も金額も嵩んでしまうケ−スが多かった。それでアロンガルの首都から元宗主国へ注文するラインが確立しており、医薬品などの細かいものまでほとんどそうだったのだ。妙な援助もあり、なぜか放射線機器が皆無だというのに高価な造影剤などが送られてきてたりした。

正直、この国では、そのような高価な造影剤を使う検査を実施している病院は皆無に近かった。それを使えるだけの財力を持つ者は、大概元宗主国に出向いて検査から治療からしてしまうのである。本国からの援助なら一言も二言も言ってやるところだが、第3国からの物資のみ援助では、どこに話をもっていけばいいのかさえあやしい。例の調整員はそんな事には一切手を貸そうとはしないだろうし。おかげで、医師も看護師も保健婦も全員でそれらの解読を行っていた。もともと薬などは新製品への切り替えも早く、かと言って使いどころを間違えばヒトの命を左右しかねない。まさかプロジェだからといって薬剤師まで要請するわけにもいかず、四苦八苦しながらの解読作業は続いてるのである。

「とにかくカタリ−ナから研修に出てもらおう。ゲルトル−トは村での活動がうまく廻り出してるからいいとしても、アンドレや私もできたら早く出たほうがいい。もう3ヶ月は経過したことだし、あいつも文句は言えまい。」そう、他の隊員が活動している病院に研修に出ようと皆で決めたのだった。「この国の現実の医療」に接していない彼らは、圧倒的に不利だった。薬ひとつとっても、この国ではどのように使われているのかわからない。そのため処方量も本国に準じてはいたのだが、どうも抗生物質などをこの国の人間は投与されてきていないため、やたら効いてしまうらしかった。

これでプロジェの面子は大体揃った。当分はこの構成で、後続を要請して活動を継続する予定である。しかし、後続が必ず繋がるわけではない。特に医師は難しいと思われていた。そのため、あまり医師にシフトした活動は行えない。村落開発を要請するかどうかを検討してるのも、プロジェのまとめ役、いわばコ−ディネ−タ−役を務めてもらおうという意図からであった。もともと「村落開発」という職種は、特別な職能を有してなくても応募できる、数少ない職種だった。そのため応募数はかなり多い。その中でできるだけ語学能力に優れた人材を選んでもらえれば、まとめ役の後続が途絶える懸念は減少する。人材確保も、どこか運の部分があった。そして成功失敗を左右する。たった1人の不協和音がすべてをおじゃんにしてしまう可能性だってあるのだ。

「ディリ州立病院がやっぱり一番よさそうね。ここからも一番近いといえば近いし、結構大きな病院だし。同期も1人いるのよ。ただ、この後が継続するかは微妙みたいね。あまりいい活動ができてないみたいだから。」と言って小さなため息をつくカタリ−ナ。彼女は少しばかり人見知りする傾向があったため、知らない病院での研修はやはり気が重い。なんとか同期の看護師がいるのでやっていこうと思えてはいるが。だが確かにこのままカオラにいても限界が見えてくる。彼らはこの国の実情にまだ疎い。病気の内容そのものが異なっていることも大きかった。暑い国の疾病について、彼らはほとんど知りえてなかったのだ。簡単な講習などは受けたのだが、実際には自分たちで学び得ていかねばならない。

6月になり、カタリ−ナはディリに研修に出た。一応1ヶ月半を予定してはいたが、延長も有り得た。そうなると、やはりさみしいオスカルである。普段それほどベッタリなわけでもなかったが、すっかり扉が閉ざされた階下の彼女の家を必ず朝に夕に見なければならないから。一応鍵は1つ預かっており、たまに空気の入れ替えをする事にしていた。「もしかして、カタリ−ナがいなくてさみしいのか?」と、幾日かしてアンドレに指摘されてしまう。そのときは「そんなことない」と突っぱねてはみるけれど、なんとなく彼には通じてしまったようで、時々食事に誘われたりするようになった。

オスカルとしては、ここ何年かは同じ家に住んではいなかったものの、アンドレに対して親愛の情が消えたわけではない。彼ももちろんそうなのだろうが、なんとなく誤解を受けるような真似を避けて除けているふしがあった。それが研修から任地での活動を通じてだんだんと「まあいいか」的な雰囲気がでてきたのである。もちろん、隊員同士で食事をとるのは別にお客が来た時に限るわけではない。家事オタクのアンドレならともかく、土木の男所帯やヴィクは比較的外食も多かった。それで、その男たちの集まりにオスカルを呼んだわけである。酒量などは決して男達にひけをとらぬ彼女は飲み友達としても面白かった。しかし、酒量の上がりそうな集まりでは、大概アンドレが同席した。

「お目付け役がいないと隊長に飲ませちゃダメらしい」と土木組は笑って茶化すのだが、同期のアランは(当たり前だ。妙な真似してみろ、こいつから病院送りだぞ。しかもそこでこいつから治療されるわけだからな。命は大事にせにゃ。)と内心でつぶやきつつ飲んでいた。どうもアンドレは基本的に隊長がお酒を飲む事にいい顔をしない。そういや前にも野外の夜そんな会話があったような気がする。ちらっとだったが。で、アイス・ロ−ズがどうとか言ってなかったっけか?最初その名詞が出てきた時にはわけがわかってなかったが。今はそれが香水の名だと知っている。しかし、あの会話じゃ違ってたぞ。飲むとかなんとか言ってなかったか?

やっぱりよくわからん。この2人、どんな関係なんだ?ほんとのとこ。なんか、奇妙にすれ違ってるような気がするぜ。お互い思いあってるようで、それがかみ合っていないというか。男嫌いとか女嫌いとか胸がどうしたとか第1候補がどうしたとか...これがハイソな世界ってやつなのか??まあ今時でも、このクラスのお嬢にお遊び感覚で手をつけるわけにはいかんのだろうが。気合入れて、いきなり「結婚を前提として」とかなんとか申し込まなけりゃならんのだろう。それでも相手になれる男は限られるか。だがこいつは隊長の父親からは気にいられてんだよな?そらまあヴィクだって大丈夫なんだろうが。

「隊長、いつもいいにおいっすね!それがアイス・ロ−ズなんでしょ?隊長の愛称のもとの。」すっかり酔って気分がよくなったジャンが言い出す。「そうだよ。つけ始めて何年かは名前を指摘されなかったんだけど、医大生だった時大学で当時インタ−ンやってた医師がアイス・ロ−ズだって気がついて、それ以来なんだ。」と、オスカルも機嫌よく答える。「へえ、珍しいんですか?その香水は。」とフランソワ。「そうかもな。これってグラ−スの香水工房のオリジナルでさ。だから取り寄せなんだよ、アンドレのと一緒に。」

「ええ?アンドレもアイス・ロ−ズつけてるのかぁ??」土木組は、アランでさえ驚きを隠せない。「違うよ。アイス・ロ−ズはアンドレの見立てなんだ。で、私も同じ工房でアンドレに見立てた香水があって、それを送ってもらってんだよ。どうもいまいち彼には受けがよくないんだがね。」「使ってないわけじゃないぜ。ちゃんとこっちにも持ってきてるし。」と、今までだまっていたアンドレが口を開いた。「うひゃあ。なんかやっぱり世界が違うよ。大体そのグラ−スってどこにあるんすか?」「南の方だよ。太陽海岸沿いのね。」とオスカル。「首都からかなり遠いじゃないっすか。そこへ2人で行ったんすか?」どうも酔った勢いでお国言葉が出るフランソワであった。

「共通の友人を誘って6人で行ったんだよ。夏休暇でさ。」「はぁ、そうだったんすか。いやあ、やっぱり違いますねぇお2人は。」「...あまり特別視しないでくれよ。今じゃ安月給でこきつかわれる外科医なんだからな。ム−ンライト(夜勤当直)やってなんとか食いつないできたんだから。そりゃまあ自宅住まいだけど。」「そうだよ。それにおれなんか全然ジャルジェ家とは関係ない生まれなんだからな。知らぬが仏って奴だよ。とんでもない親から生まれたのかもしれんからな。」アンドレがここまで自分の事を言い出すのはほとんど初めてだった。大体話をふられても、ロクに返事もしない事がほとんどだったから。

「おまえ、ほんとに両親の事全く知らないのか?あれ?でもおまえ幾つで引き取られたんだっけか?」そう言えば話題になってなかったような気もする。アランは思わず考え込んでしまった。「...8つの時だよ。」「はあ??8つ??8つで何で覚えてないんだよ??2〜3歳で引き取られたとばかり思ってたぞ!」確かにそう思うのは無理ないことであろう。土木組はみな驚いている。「...記憶がないんだよ。それ以前の。」ボソッと言うアンドレ。またまた絶叫が上がる。「お、おまえって記憶喪失ってやつなのか??ホントにいるんだな、初めて会ったぞ!」仰天するアランたち。

「うるせ−よ。珍しいものを見るような目をするなよな。」かなり怒っているようだが、どこかあきらめの表情も含んでいた。さすがに土木組もすまなそうな顔になる。「あ、ごめんごめん。そんなつもりじゃなかったんだよ。ただほんとに驚いただけなんだ。」「って事はあれなんすか?隊長と最初に出会った時からは覚えてるんすか?」「ああ。よく覚えてるよ。突然現れやがったから。」ちょっと表情がなごむアンドレ。「それはこっちだってそうだよ!まさか離れにおまえがいるなんてさあ。誰からも聞かされてなかったんだよ。」そう、まだ何も聞かされてなかった彼女は、庭で当時飼っていたレトリバ−に誘われるようにして離れに入り込み、彼を見つけたのであった。

「へ?アンドレ来てるの知らなかったんすか?」「うん...まあその、今思えばいろいろあってさ、私もあの頃風邪こじらせて入院してたんだ。」「言ってかまわんぜ。おれがなんやら精神的ショック受けて記憶を失ってたんだ。そんな状態のおれに、大事な跡取り娘を引き合わせたくなかったんだろ。」次々と明かされる事実に、土木組はあっけにとられた感があった。しかし彼らの好奇心が止まる事もない。「でで、初顔合わせはどんな感じだったんすか?」「感動〜〜の出会いだったりとか?」なんかいやに舞い上がる彼ら。「どこがだよ。アンドレから怒鳴られたんだからな。「おまえ誰だ!?」ってね。こっちがそう言いたいよ。」「だからおまえも「おまえこそ誰なんだよ!?」って叫んでたじゃないか。」

いきなりの邂逅。心の準備もへったくれもあったものではない。それまでのアンドレは他人にほとんど反応を示さないほどショックを受けていた。しかし、オスカルを間近に見たことがきっかけで、彼は顔の表情や言葉をだんだんと取り戻すようになっていったのである。「うわっはっは!!なんかいかにもって気がするぜ。仲がいいんだか悪いんだかよ!」とアランが笑い出す。「確かにね。2人してにらみあってたら、メイドのミリ−が慌ててとんできてさ。ミリ−は私をずっと世話してくれてた1人なのに、すっかりアンドレにとられちゃって、くやしかった。あの当時。」「おれはそんな事は知らなかったよ。まあどっちにしても、おれもおれでおまえに反発してはいたからな。」「なぜだい?」「だってどこから見ても別世界の人間にしか見えなかったんだって。記憶なくしててもさ、こいつがどれだけ綺麗でおまけに傍若無人になるくらい大事にされてるかわかったよ。」

「隊長の子どもの頃かぁ。すっげぇかわいかったんだろうなぁ。」ついにやけるピエ−ル。「それで私を無視してたのか?こっちが和解しようとしても、なっかなかうまくいかなかったんだよ。私も意地っ張りだから、同じ家に住んでてもさっぱり打ち解けられなかったよね。」「おまえ、小憎らしいガキだったんだな。あ、今もか。」とあてつけるアラン。「今思うと...」とアンドレが言いよどんだ。「今思うとって?」と受けるジャン。「今思うとさ、多分最初に会った時、「お迎えが来た」って思ったんだよ。」
「お迎え?お迎えって、もしかしてあの世からか?」と驚くアラン。「なんかそれに近いインパクトがあったんだよ。この世のものならぬ雰囲気というか...そうだな、あえて言うなら「天使が迎えにきた」って感じなのかな。まあ、口の悪い強気の天使だったけど。」と言って思い出し笑いをするアンドレ。

「じゃあ、おまえは何だったんだ?この黒髪と黒い目は、悪魔とかの魔性のものだったっていうわけか?」とからかうように言うアラン。「そうかもな。失われた記憶の闇に何かかえてるかわからんのだから。」その表情にオスカルが反応した。「それは絶対違うよ。私が天使ならおまえもそうだよ。って、別に私も、そんないいものでもないと思うけどな。」勢い込んで言ったので軽くむせるオスカル。すると、ピエ−ルがこんな事を言い出した。彼はオスカルたちの語学劇のことを聞き、隊員宿舎の地下にある図書室(隊員が持ち込んでは置いて帰るので結構な量である)から持ち出したルナシリ−ズを読んでいる最中だったのである。

「アンドレはルディオンなんだよ。今ルナを読んでるんだけどさ。」「ルディオンって、「女王と王を守護する者」だろう?全部で10人いる。」「いや、もともとはね、ルディオンって「天使を守護する者」だったらしいよ。上代には。で、天使を愛してしまったルディオンはそれがもとで天使から遠ざけられて天界を追われたんだと。ルディオンの起源ってのはそれらしい。」「なるほどな。で、天使の隊長をこうやって酒飲みすぎないよう見張ってるのがルディオンのアンドレだってわけか。なんか、いまいちロマンティックじゃないな。」すっかり4人で話に興じてしまっている土木組だった。

すると、テ−ブルからコップが落ちてガチャン!と音立てて割れた。オスカルがテ−ブルに突っ伏してしまったため、グラスが彼女の体にあたってしまったのだ。「は?おい、大丈夫か?」とアンドレがオスカルを軽く揺すぶるが反応がない。席を立って彼女の顔を横に向けるようにする仕草は看護師のものではあった。「珍しいな。寝ちゃってるみたいだ。」そう言ってアンドレは4人を見た。「おれがこいつの家まで連れて帰るよ。おまえたちはまだ楽しんでてくれよな。」現地の店員が割れたコップをかたしに来る。「すみません。」と現地語で謝るアンドレに、「気にするな」と現地語で返して笑う店員。

「おまえ1人で大丈夫かぁ?」とアラン。「ここからならこいつの家まで大して距離ないからね。おぶってってやるよ。なんかガキんとき以来だが...」そう言いながら彼女を引っ張り上げるアンドレ。完全に寝込んではいないが朦朧としているという状態のようである。なにか口元はたまにブツブツつぶやいてるようだが聞き取れない。「おい、おまえ送り狼に変身するんじゃないぞ!」とはやしたてるアランに、アンドレは「ば−か。そんなもんになれるなら、もう10年ぐらい前にやってるよ!」と威勢良く答えていた。

オスカルはスレンダ−なタイプなのでたいして体重があるわけでもない。しかし、酔って意識が半分以上とんでるのでその分はこたえた。道路も砂地の部分があって歩きづらいし。(ほんとに珍しいな。酒は底無しに強いから、あれくらいなら全然酔った様子さえしてなくても不思議じゃないんだが。こいつ、思った以上に疲れてんのかもしれん。妙に意地っ張りで弱音を見せないところがあるし....)そんな事を考えながら歩いた。たまに立ち止まって彼女の様子を確認しながらだったが、そう時間もかからず2人の家に到着した。(そうか、1階じゃなく2階だよな。カタリ−ナがいればひとまず彼女の部屋でもいいんだけど。)

少々暗くて狭い階段を用心しながら登る。自分も全く酔っていないわけではなかった。とはいえ、かなり冷めてきてはいたが。なんとか2階のオスカルの家のドアの前にたどり着く。注意しながらオスカルを降ろして、すっかり寝込んでいる彼女に話しかけた。「おい。おまえ、家の鍵は?」しかし、なかなか反応がない。(こいつ....このまま置いて帰るぞ!とは言ってもそうはいかないが。夜は冷えるしいくらなんでも家の外じゃな。)今度は彼女を強くゆすぶって尋ねる。「鍵はどこだ?言わないとこのままほって帰るぞ!」すると、やっとオスカルは薄目を開けて反応した。「鍵.....あ、診療所に忘れた。」それだけ言ってまた寝込んでしまうオスカル。

「はああ!?じゃあどうするんだよ!家に入れないじゃないか....もっと早くわかってたらここまで連れてこなかったのに...」そう、さっきの店からのほうがずっと病院に近かった。全く逆方向だったのである。「いいよ...ここで寝てるから....」と、うわ言のように言うオスカルだが、そうもいかない。鍵を診療所に取りにいくか。だが嫌な予感がする。診療所のロッカ−はロッカ−のみの部屋にあって、そこはしっかり施錠されているのだ。その鍵はゲルトル−トが管理していて、彼女の家はここから相当離れている。歩いてではかなりの時間がかかるだろう。その上診療所に戻る間、こいつを1人でほっぽらかすのはちょっと...だった。

彼は心を決めた。カオラでさえ、盗難事件は皆無でもなかった。隊員の家を狙ってくる者もいるのである。どうしてもこのまま彼女を置いてはいけない。頼みのカタリ−ナもいない。アンドレは彼女を自分の家に連れていく事にした。ここから病院に行く程度の距離に自分の家はあるし、もう、ここまで来たらかまわないという気がしていた。元々同じ家に住んでいたわけだし、隊員が隊員同士泊めあう事は少しも珍しくない。人にも依るが比較的に異性間でもこだわりなく行われた。同期ならなおさら1対1でも平気なところがある。アンドレはもう一度彼女をおぶって、自分の家を目指して歩いた。

オスカルは目を開けた瞬間に悲鳴を上げた。目の前に幼馴染の顔があったからだが。彼は立って、上から彼女の顔を覗き込んでいた。何度もオスカルを起こそうと声をかけ、体を揺すぶったりしていたわけである。「なんだよ、お化けでも見たみたいな声出しやがって。もう朝だぞ。診療所に行く準備しろ。」そうは言われても、彼女はまだこの現状を把握しきれてない。(なんでなんで?ここってアンドレの家なんだよな?ってこのベッドはアンドレので、なんで私はここに寝てるんだ?昨日って、確かアンドレと土木チ−ムで飲んでた....はず。うわあ、途中から記憶がない!!) これは赤くなるべきか青くなるべきか。どっちもだった。

しかし、アンドレはそれだけ彼女に言うと、さっさと行ってしまって自分の準備に取り掛かっている。いや、もう準備は終えてるのかもしれなかった。着てるものは昨日のままで、別段変わったところもない。いや、変わってたらちょっと....だが。しかし見事に何も覚えていないのである。彼女はベッドを出てアンドレを探そうとした。そこで、彼女は香りに気がついた。ベッドル−ム全体に、オスカルが彼に贈った「2月すみれ」の香りがたちこめていた。それで改めて顔を赤らめるオスカルである。なんとなく自分にもその香りが移ってるような気がしたから。

彼の家も、構造上はオスカルの家と似ていた。玄関のドアを開けるとそこは一種「屋根のない踊り場」になっていた。ちょっとしたオ−プンスペ−スがあって、そこに木製のテ−ブルセットが置いてある。(隊員に貸与される家は最初から家具は用意されているのだ)アンドレの家も2階建ての2階だったが、今1階には誰も住んでいない。基本的にそのオ−プンスペ−スから全ての部屋に行ける作りである。あまり大きくないキッチンが最も奥にあり、リビング、ゲストル−ム、寝室という順で玄関に近くなる。ゲストル−ムの隣りにシャワ−室があるが、そのオ−プンスペ−スに向かって出入り口がある。オ−プンスペ−スの反対側にはまっすぐな結構広い廊下があって、台所から逆の突き当たりのお手洗いまでを繋ぐ。もちろんどの部屋にも廊下側にドアがあって通じている。

オスカルは寝室から廊下に出た。なんだかいいにおいがしてくる。多分アンドレが朝食を作っているんだろう。そういえばお腹がすいた。昨夜はあまり食べなかったから。そのまま歩いて台所に行く。彼は目玉焼きを作っていた。「おはよう。あの....」とオスカルが言いよどんでいると、アンドレが「朝飯ができるから先に食べるぞ。」と言う。お盆にパンやバタ−やジャムや果物がのせられてオスカルに手渡される。雨季に近くなってはいたが今朝はいいお天気だった。「テラスのテ−ブルに運んでくれ。で、そのまますわってな。」

暑い国ではあったが、さすがに朝は気持ちがいい。空は広く、どこまでも青い。母国の首都育ちのオスカルはこんな広い空を見ることは滅多になかった。星を見るのも好きだが、空を見上げるのも好きになっていた。そんな彼女を見て(羽がなくてよかった。飛んでいっちまいそうだ。)と思いながらアンドレは目玉焼きとカフェを運んできた。「できたぞ。」と言ってアンドレが席につく。オスカルも座った。パンにバタ−とジャムをぬってオスカルに渡すアンドレ。その様は自然だった。そう、こうやって生活してきた過去が存在するわけだから。

もちろんジャルジェ家では、世話係の役についている男性や女性から食事のめんどうをみてはもらっていた。しかし、いつの間にか家事オタクになってたアンドレから味見役にされていた事もあって、アンドレから世話される事にも抵抗はなくなっていた。その気分がお互い舞い戻ってきてしまって、ぎくしゃくしたム−ドは消えていた。しかし、そうは言っても昨夜の顛末が気になるオスカルである。「なあ、昨日は何があったんだ?」と切り出すオスカルにアンドレが答える。「昨日?何もしてないぞ。」と笑いながら。思わず顔が赤らむオスカル。「それを聞いてるんじゃないって!昨日って、記憶がなくなるほど飲んだ覚えがないんだよ。なのに...」

「そうだよな。おれも不思議だったんだが。まあ土木組に聞いてもらえりゃわかるが、おまえ途中で寝ちまったんだよ。」「ほんとか?うわ〜失態だったな。あいつらなんか言ってたか?」「別に...あいつらも結構飲んでていい気分になってたし。」「そうか...で、それでおまえがここに連れてきてくれたのか?」「違う。おまえの家までおぶっていったんだよ。だのにおまえ、鍵は診療所に忘れたって。」思わずポケットをさぐるオスカル。「ほんとだ...忘れてきてるみたいだ。自分でも酔っててよくわかったよな。」「ほんとノンキな奴だよ。ロッカ−の鍵はゲルトル−トの家だし、おまえを置いても行けないから、結局またおまえを....ベッドもおまえに占領されるからおれはソファ−で寝たし。絶対明日あたり筋肉痛だぞ。」

「あはは。翌日には出ないのかよ。」と笑うオスカル。アンドレの顔が少し不機嫌さを増す。「おまえなあ....誰のせいでそうなってると思ってるんだ?ああそうだよ、おれもそう若くないよ。こっちで30になるからな。」そう言ってじっと自分の顔を見つめるアンドレの表情にハッとさせられる。「なんかもう、約束を守ってるだけじゃなあ。」とつぶやくアンドレの言葉に心拍数を上げるオスカルだった。「約束って....」「なんだ、忘れたのかよ。」「....ううん。」「そうか。だったらいいよ。」

「おまえ、シャワ−浴びてな。着替えはまあ、おれのTシャツ着ていけよ。診療所の様子次第で家に戻ればいいからな。」「ありがとう。いろいろすまないな。」「気にするな。おまえの世話なら慣れてるよ。」そう言って朝食の後片付けをしにいくアンドレだった。朝なのでシャワ−の水も少し冷たい。昼間だと「沸かしてもないのにお湯?」と言えるほどになるのだが。彼女は先ほどのアンドレの言葉を思い出していた。普段はその約束の事は意識していない。というか、夢の出来事のような気がしていて、こうやって改めてアンドレから示されないとなんだか確信が持てなかったのだ。それにアンドレの行動そのものも、わかっているようでわかりきれない部分があった。しかし本当は、オスカルのほうが相反する気持ちに揺れていたのである。その不安定さがこのような状況を招いていたのだが、どうもしっかり自覚を持てないでいた。

シャワ−室に香水が置いてあった。彼女は何の気なしにそれを耳の後ろと胸元と足元につけた。後で使ったバスタオルを渡された時に、それに気がついたアンドレは顔が赤くなったが彼女には気付かれないようにした。

実は最近、オスカルは楽しみができていた。友達が出来たのである。比較的近くの村に住む10歳の男の子だった。ジョゼという名の彼に会ったのはもう少し前の事だった。ジョゼは足に怪我をした弟を背負って診療所まで連れてきたのだ。比較的近いとは言っても何キロかはある。しかも道なき砂の道を8歳になっている弟をおぶってだ。年の割には小さい8歳ではあったが、泣き言1つ言わず懸命に弟を助けようとした彼に、オスカルは感じ入るところがあった。それで、彼のかぶっていたCAPと自分が首都のバザ−ルで買ったCAPを交換したのである。それをかぶって毎朝チャリ通勤をするオスカルだった。

今日はちょっと勝手が違っててCAP無しチャリ無しだったが。アンドレも大体チャリ通勤だったが、今朝は2人で歩いて出勤した。これで村廻りの活動が本格化すれば、2人ともバイク貸与を申請する予定だった。診療所の前にはすでに数人の現地の人間がすわっていた。しかし、彼らは別に病人というわけではない。お茶のセットをかかえて、彼ら隊員ともおしゃべりして過ごそうとしている連中である。そう、簡単な手当てや治療の他にも、隊員たちはこのようなおつきあいをする羽目になっていた。それは別に重荷というほどでもなかったが、時々しんどくなる事もある。やはりそれがカルチャ−ショックというものだろう。それに、彼らと話す時はここらへんの現地語だ。ゲルトル−トがかなりその現地語に達者になってきてるので、彼女がいればまず話し相手になったが、彼女は村廻りが基本だったため、ずっと診療所にいるわけではない。

しかし、現地語を覚えるのにこれ以上の機会もなかった。そのためなんだかんだと話すようにしてもいた。もちろん手当て等の診療中はそれを決して邪魔される事もなかったし。大体こうして集まるのは比較的高年齢の男性である。女性はいない。この国の女性は働き者だ。途上国には多い現象でもあった。それで、家族の女性がたまにお昼ご飯を届けに来る事もあって、それをご相伴にあずかる事もあった。この国では昼食がメインであり、お米の現地食を食べる。夜はパンか、別の穀物類をとっていた。どこの現地食レストランに行ってもそうである。

彼らに現地語であいさつする。お茶を勧められるが、今はちょっとと言って辞退する。毎朝の儀式みたいなものである。もう隊員のほとんどが来ていた。一応朝はみな集合して、1日の予定をお互い確認しあう事にしていた。ダイレクトに外回りに出る事はない。土木組も眠たそうだがアラン以外揃っている。彼だけは朝早くから上京してるはずだった。建築の材料の発注確認のために。それで、今首都にいるヴィクと数日後に戻ってくる予定になっていた。そう、やっとプロジェ経費がおりて、土木組は具体的な工事スタ−トをきろうとしているのだった。しかし、そろそろ雨季に入りかけており、本格的には雨季が終わるのを待ってからではあった。

とは言っても、どうせ材料が揃うのだけも時間はかかる。ここは母国のような先進国ではない。アロンガルの時間に合わせた活動が求められてもいた。基本的には土木の3人組はみなのんびりやばかりだった。というか、この隊次の5人全体がそうであった。カタリ−ナやゲルトル−トもせかせかしたところは全くない。オスカルの隊次は結構みなしゃきしゃきしているのと対照的である。しかし、これでよかったのだろう。逆でなくて幸いである。後輩は先輩に合わせて活動を開始し、不安や心配を乗り越えてゆく。先輩たちが鷹揚でのんびりしていたため、後輩は気楽だった。もし逆だったら、のんびりやのカタリ−ナたちは相当プレッシャ−を感じさせられたであろう。なんせ、彼女たち以前に先輩は存在していない新興の任地なのだから。

それでもこのプロジェ組はかなり活動してると言えた。他の組織(所属する病院など)に全くわずらわされず行動できるからだ。その分、自主的に研修に出るなどしなければならなかったが。最後にフリデリ−ケが慌ててやってきて全員揃い、朝会が行われた。今のところ、大体午前中はゲルトル−トと土木組以外、診療にあたれるよう待機する。ゲルトル−トも必ず毎日村に出るわけでもない。土木組はあまり暑くならないうちに用事を済ませる。暑い時間は昼寝タイムだ。そして夕方にまた再開する。午後からは昼寝の土木組を置いて外回りに出る事も多い。アンドレとカタリ−ナはカオラの街の戸別訪問を行っていた。たまにオスカルもそれに同行した。

しかし、どちらかといえばオスカルはデスクワ−クになりがちだった。リ−ダ−にされていたので。彼女はあまりそれを好まなかったが、強い太陽に負けがちなところもあってあきらめてもいた。医師なので病気や薬などについても勉強しなければならない。もともと外科なので内科的なものにうとかったが、ここではそうも言ってられない部分があった。とにかくこの暑さでは無理がきかない。それをわかっててダウンしても、「自己管理ができない未熟者」とされるだけだった。しかし、今日は午後からゲルトル−トと村廻りに出る事にしている。そう、ジョゼの村に顔を出そうというわけである。彼の村に行くのはこれで3度目だった。

いつもの1日が始まった。しかし、昼前にゲルトル−トの同期である土木3人組が彼女をそっと呼び出した。「なあに?3人揃って。」「いやあの...隊長の事なんだけど。」それでゲルトル−トにもピンときた。今日のアイス・ロ−ズはアイス・ロ−ズをつけていない。今日のその香りに覚えがある気もするのだが。しかし、女性は気分次第で香りを変えたりもする。ただ、今まではずっとアイス・ロ−ズばかりだったので、珍しいなとは思ったのだ。「もしかして、香水の事かしら?オスカルが香水をかえるのは珍しいけど、女性は気分次第でかえたりするものよ。」「だからさあ、その気分の変化ってのがさ、隊長のルディオンのせいかなって思って。」とピエ−ルが言う。「ルディオン?」それで3人は昨晩の顛末を彼女に打ち明けた。

「そうだったんだ。アンドレが彼女を送っていったってわけね。で、何かあったんじゃないかって事よね?」ゲルトル−トも隊員である。そう、「隊員の人間関係」が最も娯楽であるという。「うん。今朝も2人で来てたじゃないですか。たまたまかもしれないけどさ。」「隊長みたいな高嶺の花の事をさ、おれたちが気にしたってしょうがないんだけど、やっぱり気になるんだよ。」「あんたたちも、そこまで自分たちを卑下しなさんな。ま、お昼から彼女と外回りだからね、それとなく聞いてみるわ。楽しみに待っててよ。」

昼食の後、アンドレはカタリ−ナのいない分を補うように戸別訪問に出かけていった。フリデリ−ケも一緒に出かけたそうではあったが、今日は事情もあるし、診療所で留守番させる事にしてしまった。ずっと取説と戦わせていては気がめいってしまうだろうからと、たまに外回りにも連れ出しているのである。しかし、基本的には3ヶ月経つまでは我慢してもらわなくてはならない。彼女は診療所での活動が本筋なのだから。他の隊員もみなそうしてきた。彼女だけ特例にするわけにはいかなかったのである。それでゲルトル−トとオスカルだけが村廻りに出かける事にした。彼の村へは道がほとんどなく、砂地を行く事になる。このような場合はこの国ではロバに車を引かせるのである。

プロジェのためにロバと二輪車のようなひらぺったい台車を近所の農家に確保してもらっていた。そこに寄って2人は村に向かって走り出した。のんびりしたものだったが。「ゲルトル−ト、なんだか上手だね、ロバ車の扱いがさ。」「あはは。どんどんサバイバルが上手になっているのかもね。よほど性にあってるのかしら?」ほとんど引っ付いた状態の2人。まだ香りは残っている。「ねぇ、あんた今日は、アイス・ロ−ズじゃないのね。」「そうだよ。おかしいかな?」「そうじゃないわよ。単刀直入に聞いて悪いんだけど、アンドレと何かあったの?昨日。」

思わず顔が赤くなるオスカルに、たたみかけるゲルトル−ト。「寝たの?彼と。」絶句するオスカル。しかし、その反動で叫ぶように反論し始めた。「どうしてそうなるんだよ!?確かにこの香りはアンドレのだけど、もう昔から知ってて別に抵抗ないんだよ。特に意味があるわけじゃないってば。」「何言ってんだか。知ってるのよ、昨晩あんたがアンドレに送ってもらったって。」「なんだよ、知ってて言ってるのか?おまえもヒトが悪いなぁ。」とうとう先輩で年上の彼女をおまえ呼ばわりしてしまったが、それにも気がつかない。「ふふん。同期の繋がりを甘くみるんじゃないわよ。あんたのとこもそうでしょうけど。かわいそうに、土木の3人組が気にしてたのよ。あんたからすればどうってことない存在かもしれないけど、彼らは彼らなりにあんたに憧れてんの。」

「でも、ホントになんでもないんだ。確かに昨晩はアンドレのとこに泊めてはもらったんだけど...」「はぁ!?それは聞いてないわよ!あんたんちに送っていったんじゃないわけ?あいつもやるわねぇ。」「最後まで話を聞いてくれよぉ。私が悪いんだ。鍵をロッカ−に忘れてしまってたんだよ。彼が私を家まで連れてきてくれた時点でそれが判明したんだ。それで仕方なくアンドレが私をわざわざ彼のうちまで...ほら、カタリ−ナもいないしさ。」「そういうわけ。そうか、鍵は私が管理してるもんね。じゃあ、昨夜は家に戻ってないんだ。」「うん。それでね、朝彼の家でシャワ−を使わせてもらったの。その時香水が置いてあったんで、ついいつものクセでつけちゃったんだよ。」「あら、でも今着てるシャツって昨日のとは違うんじゃない?」「うん。これアンドレのだよ。大きいけど、私ももともと男物のTシャツ着るし。」

わ−わ−言い合ってるうちに、彼の村に着いた。もう何度か隊員が訪問しているので、落ち着いた出迎えを受ける。呼ばれてすぐジョゼがやってきた。しかし、なんだかあまり元気がない。「ジジどうした?なんかあまり元気ないけど。」「そう?なんでもないよ。それよりキキ、こないだもらった本、すごく面白かったよ!」ジョゼはオスカルにキキというあだ名を付けた。どうも部族風の愛称をつけるのは親愛の情の表れらしいので、彼女もそれにならってジョゼにつけた。そのため2人は「キキ」「ジジ」と呼び合っているのである。「そうか。今日は別の本も持ってきたんだ。おまえ、まだあまり大きくもないのによく言葉がわかるんだね。」彼女はこの利発な男の子のために、元宗主国の言葉で書かれた本を差し入れしているのである。

彼はかなり元宗主国の言葉を解する事ができるので、なんとかこの程度の会話は成立した。オスカルも彼の存在を知ってから、言語に対して熱心になったのである。教育プロジェで扱っているルナのジュブナイル版を彼は喜んでいるようだった。しかし、やっぱりどこか元気がない。熱などはなさそうだったが。周囲は特に彼の事を心配してる様子もない。「今日はこれから母さんを手伝って届け物をするんだ。ごめんね。」「そうか。まあいいよ、顔を見られたし、本も渡せたしね。それに私もおまえの伯父さんにお話があるんだ。」そう、今日はそれがメインの用事だった。利発だが費用の点に不安があって、教育を受けられるかどうかの瀬戸際にある彼に、個人的に援助できないか、その申し出にやってきたのだ。

「伯父さん?多分あっちにいるよ。」と指差すジジ。「じゃあね、キキ。また来てよ!」「うん!おまえも元気でいてくれよ!」そう言ってジョゼは母親の元に戻っていった。実際のところ、このような援助の申し出について、彼女自身抵抗がないわけではなかった。アロンガルの彼らもまたプライドを持って生きる現代人である。隊員というものも自ら援助を申し出てこの国に赴任してるわけだが、それはどこか、なにか先進国と呼ばれている国のおごりではないか?そう感じる部分もかなりあったのである。援助がこの国の人間からやる気を奪ったりする事になりかねないし、実際その傾向はあった。南部山岳地帯では外国からの利権問題などまで発生しており、隊員の母国も一枚かんでいるらしい。あまりおおっぴらには語られていないが。

まあ、今日全てをはっきりさせる事はなかった。本国に帰ってからも援助を続けて成人するまで見守りたい。オスカルはそうしたくなる魅力を彼から感じ取っていた。他の隊員も、彼がたまに診療所にやってきて、一緒にお菓子やご飯を食べたりおしゃべりしたりするうちに、なぜオスカルが彼を好きかがわかってきた。一生懸命で一途なところなど、彼とオスカルは似通ったところがあったのだ。利発で思いやりもあり、母と弟を愛していて彼らの心の支えともなっていた。彼の父は元宗主国に出稼ぎに出たまま帰らぬ人になってしまったらしい。それで、彼の伯父で彼の母の兄にあたる家族の元に身を寄せていた。伯父の家もそう余裕があるわけではなかったが、一族の結束が固い部族なのでそれほど肩身の狭い思いをさせられているわけではない。彼が利発なことを伯父も理解していて、できるなら高等学校にまで進学させてやりたいとも考えている。

しかしそうは言っても、よく知らない外国人から情けをかけられてすんなり受けられるほどプライドがないわけではないのである。オスカルもそれを感じ取ってはいて、帰国するまでかかっていいから申し出をしていこうと考えていた。それで、とりあえず彼の伯父と話して少しずつでいいから自分を知ってもらおうと思っているのである。実際、ちょっと話をしてみたところ、ジョゼと共通点のありそうな人で、オスカルはこの伯父さんも好きになれそうな気がした。(まだ私の言葉がおぼつかないからなぁ。現地語をもっとマスタ−しなけりゃ、腹を割った話はできないな。)そう思いつつ、彼女はゲルトル−トについて、もう1つ別の村に向かった。

それから数日してアランとヴィクが戻ってきた。もう雨季に入ったと言ってよかった。大体この国の気候はメリハリ効いてはいる。暑いとなれば部屋の中でさえ40度を越えたりするし。しかし、雨季のメリハリは特別だった。ほぼ何の前置きもなく、突然空が曇る。(だから気が付かない)そして一陣の風が吹く...というよりは一陣の突風であろう。家の中のドアが全てバン!!と開くような。最初にその突風を自分の家の狭い通路で受けたオスカルは仰天したものだ。少しだけは聞いていたが、実際その突風に見舞われてまさしくあおられてしまった。それでも雲が黒くなったりはしない。

そして広い空に雷鳴と稲光が招来される。隊員たちはこのような広い空を駆け抜ける天からの閃光に慣れていない。しかし、ここまで来るともはや美しいのである。金色の閃光と銀色の爆音。オスカルも思わず見とれてしまった。彼女の家にも玄関ドアの前にオ−プンスペ−スがあるのだ。そして間を置かず一気に地を撃つ雨粒の激しさ。こんな雨は母国にはない。もうあっけにとられるばかりだった。子供達はこの雨に大喜びで家から飛び出してくる。はしゃぐ子どもたちを下に見ながらオスカルもまた雨に濡れていた。

降り出すのも瞬間なら止むのも瞬間だった。そして、雲の切れ間から光が射してくる。先程の激しさは全く影を潜め、雲は流れ陽がすきまからいくつもこぼれ落ちては地上を照らす。風にもうるおいが感じられた。いつもの乾燥したきつい風ではない。ここは天上の世界に近いのだ。母国の都会暮らししか知らなかったオスカルは圧倒されるなにかを感じた。激しすぎる気候は確かにこの国の発展を阻害しているかもしれない。彼女も以前は母国のような先進国を肯定していたのだが、やはりこちらに来て考えが変わってきている。それと気付かない程度にアロンガル寄りの心象に傾く彼女だった。

そして事件も突発的に起こった。丁度アランとヴィクが首都から戻る途中の間の出来事だった。村廻りに出ていたゲルトル−トが顔を青くして診療所に戻ってきたのだ。「オスカル!なんかジョゼの様子がおかしいのよ!」診療所で語学の勉強をしていたオスカルも真っ青になった。「なんだって?確かに数日前気になってはいたけど、どうなってるんだ??」「よくわからないけど、なんか意識が少し朦朧としてるみたい。でも熱があるとかじゃないのよ!彼のママがね、頭だ頭だって言うの、もう私じゃ手に負えないわ!」「そうか。ジョゼは今どうしてる?」「なんか下手に動かすのも怖くて村で休ませてる。もし頭の異常だったら...」「ちくしょう、私も頭はピンとこないよ。だけどどうして何もしなかったんだ!?私は。」

「オスカル、とにかく様子を見に行こう。何が出来るかわからんが、連れてくるなりなんなりして処置してやらないと大変な事になるかもしれんぞ。」アンドレも緊急事態を予測して緊迫した表情になっている。だがこうなった時こそ医療従事者の本領発揮なのだ!「そうだな。熱はないとは言ってもこれからわからないしな。時期的には考えにくいけど脱水症状とかかもしれんし。子どもはそれでも危険だから、とにかく連れて来られそうなら連れてこよう!」「じゃあ、アンドレとあんたで行ってあげて!私はこっちでできる事から準備しとくから!」

先日の平和でノンキな光景とはうってかわっていた。オスカルは非常に悪い予感がしていたのだ。あの時から悪かったのだとしたら、なにかしらの病状がかなり進んでしまっていても不思議じゃない。ジョゼは子どもでもあるし、もう取り返しのつかない状態にまで進んでしまってたら?ここではできる事はごくごく限られている。とにかく少しでも何か手をつくしてやらねば!だがなぜ私は、数日前に気になったのに何も手をうってやらなかったのか?!自分は医者のくせに、何故もっと深く観察してやらなかったんだ?外科医だからって、切った貼っただけやってりゃいいってもんじゃないぞ!!

ロバ車に揺られてオスカルとアンドレは延々と続くかのように見える砂の道を往った。いくら雨季とはいえこの時間でもまだ暑い。しかし、彼女は顔を青くして冷や汗をかいていた。医者として、アイス・ロ−ズモ−ドには入っていたが相当動揺してるのがわかる。アンドレは彼女の手をにぎった。そう、あの語学劇の出番前のように。あの時の彼女の姿が脳裏に浮かんできた。なんとまあ、清楚で美しかったことか!彼女の素肌に触れたことが皆無だというわけではない。それはあくまで恋人未満のものでしかなかったけど。だがますます美しさをはなっているように見えた彼女の姿に息をのんでしまったのだ。

なんとか2人は村までたどり着いた。村人がびっくりして駆け寄ってくる。こっちに来いと引っ張られてしまう。この村では珍しい事だった。それほど事態は悪化してるのか!「ジョゼ!!」と叫んでオスカルはジョゼの家族の住まう小さな家に飛び込んだ。彼の小さな弟の姿は見えなかったが、彼のママや彼の伯父の妻にあたる女性などが粗末なベッドに横たわる彼を取り囲んでいた。皆どうしたらいいのかわからず動揺している様子だった。「ジョゼどうしたんだ?すみません、診せてください。」と言ってオスカルはベッドの彼の傍によっていった。

ジョゼはまだかろうじて意識があった。しかし、明らかに様子がおかしい。なんだか顔のあたりから血液の匂いがする。口を軽く開けさせると確かに出血してるようだ。だが鮮血でもない感じだ。思わず顔や頭をさぐる。後頭部から側頭部にかけて小さくたんこぶになっている気がした。大きいものではないが...「おいジジ、おまえ、これはなんだ?どこかから落ちたとかいうんじゃないだろうな?」言葉が思わず自国の言葉に戻ってしまっている。しかし、その部分を触られた事でジョゼはオスカルが何を言いたいのかわかったようだ。

すると、彼の伯父が2人の来訪を聞きつけたらしくやってきた。伯父の顔も不安そうだ。彼も元宗主国の言葉をかなり理解する人物ではあった。「ジョゼはマンゴ−の木から落ちたんです。」そう、その事故はアロンガルでは非常に多かった。特に子どもに。彼らはマンゴ−をとるのに木に登る。小さい頃からそうなので、この木に登って遊ぶのは当たり前の光景なのだ。そして伯父は、かなり高い位置から落ちたと身振り手振りで伝えた。細かい事はわからない。ただいえる事はジョゼが多分数日前にマンゴ−の木から落ちたということだ。このこぶはそれが原因なのだ。だとしたらこの口の中の出血が意味するものは?

「おまえ、おまえ何であの時言わなかったんだよ!?」ジジはオスカルがにぎっている右手を軽くにぎりかえした。多分ジジは心配させたくなかったんだろう。常に周囲を気遣いながら生きていた彼だから。彼は少しだけオスカルに微笑んだ。しかし、次の瞬間かなりの血液を口から吐き戻した。かなりの勢いで、彼に顔を近づけていたオスカルの顔や胸にまで血液が飛ぶ。しかも、今度は鮮血も混じったような内容だった。多分脳内で少しずつ少しずつ出血は進んでいたんだろう。そして今また再出血したのだ!もうどうしようもなかった。彼は完全に意識を失い、あっという間に息をひきとった。オスカルとアンドレの目の前で。

いつまで経っても2人が戻らない。何事もなかったのか?いやそうとも思えない。多分動かせない状況なんだ。ゲルトル−トが嫌な予感にさいなまれていると、首都からアランとヴィクが戻ってきた。アランはジョゼの村を知っているので、2人に簡単に事情を話して様子を見に行ってくれるよう頼んだ。2人も慌ててロバ車に乗り込んだ。今までプロジェで診療をしてはきたが、こんなにせっぱつまった状況はなかったのだ。なんといってもアイス・ロ−ズの秘蔵っ子の事なのだから!2人も転げ落ちるようにロバ車から飛び降りてジョゼの村に駆け込んだ。もう、陽も落ちていた。

2人がそこで見たものは、小さなジョゼのなきがらにとりついて泣き崩れているオスカルの姿だった。傍らでアンドレも苦しそうに状況に耐えていた。もちろん家族の人たちも同様だったが、オスカルの悲しみは他のものを圧倒するかのようだった。アランもヴィクも、オスカルがこんなに嘆いている現場に立ち会うのは初めてだった。彼女の普段の威勢のよさからは想像もつかなかった。泣くといっても大声で号泣とかいうのではない。泣き声のひとつひとつが小さな悲鳴のようだった。体を、心を切り裂かれるかのような悲鳴。しかしなんともかぼそい悲鳴ではあった。

「オスカル...ジジに死後処置をしてやらなきゃ...おれがやるからおまえはちょっと席をはずせよ。」そう言われてオスカルは顔を上げた。「嫌だ!」とだけ言って絶句するオスカルに、アンドレが「ジジはもう神様のもとにいくんだ。処置をしてやって、彼の神様のもとにたどりつけるようにしてやるんだよ。」と言う。だがオスカルはショックが大きいのか納得できていない。「なぜ私は何もしてやれなかったんだ?気がついていたくせに!ジジの様子がおかしいって!これじゃあ私が殺したのと同じじゃないか!!」「オスカル!!」

「気がつかなかったのは仕方ないんだよ!おまえは脳外の医者じゃないし、確認しようにも写真一枚撮れるわけじゃない。木から落ちたってわかってれば違ってたかもしれんが、それだって限界はあるだろうが?下手に動かせば出血が進むだけで、もし助かっても後遺症が残ったら?ここはおれたちの母国じゃないんだよ!」体を起こしたオスカルの肩をアンドレが両手で支える。普段は口数が少ないアンドレも、人が変わったようにオスカルを説得しようとしている。そう言われて彼女は無言で涙を流し続けている。その瞳を見続ける事に耐えられなくなったアンドレは、先ほどから凍りついたように立ち尽くす2人の男に目をやった。

「すまない。2人でオスカルを見ていてやってくれないか?おれはやる事があるんだ。そう時間はかからんよ。」そう言ってアンドレは2人を呼びいれ、彼らはオスカルを外に出した。彼女は放心してしまっていて反応がない。ただその青い目から涙を流し続けている。確かに正面から見据えるには耐えられないほどの痛ましさだった。アランもヴィクもショックを受けているのは同じだった。オスカルの打撃の大きさに。しかし、医者というものはこれほど人の死に衝撃を受ける人種なのか?いや、彼らの理解ではそうではなかった。むしろ鈍感になっている傾向さえあったはず。しかし、それが仕事ではないか?人の死に立ち会えない人間の代わりに冷静さと慈愛を保ってそれらに対処するものだと。

普段は無口であまり感情を露にしないはずのアンドレでさえオスカルにつられたかのように打撃を受けている。そう、今までそこまで感じた事のなかった2人の繋がりを、アランもヴィクもまざまざと見せ付けられている、そんな気もしていた。アンドレの言った通り、それほど長い時間もかからずに処置は終わった。小さな子どもの事である。これ以降はこの一族のやり方にのっとって、小さなジョゼは彼の神様の元へ向かうべく宗教的儀式を経て埋葬されるのだろう。「帰ろう...もう家族だけにしてやろう。おれたちの出番は終わったよ。」疲労の色を濃くただよわせたアンドレがボソッとつぶやいた。

オスカルはそのまま寝付いてしまった。急遽カタリ−ナが呼び戻された。いや、この件を隊員用の電話で知らされ、彼女がふせっているのを聞いて、カタリ−ナ自身がやもたてもならず飛んで帰ってきたのだ。しかし、結果的にこれは大正解だった。ジジの死のショックで弱ったオスカルは熱帯熱にかかってしまったのだ。雨季になるとこの病気の発現率がハネ上がる。今までは全くその兆候もなかったのだが、オスカル以外にもジャンがかかってしまった。さすが弱っていただけあって、オスカルはなかなか回復傾向を見せない。この病気では飲み薬がよく効いているので滅多に注射での薬物投与を行わないのだが、とうとうそうしなければならなくなった。しかも、オスカルは注射が死ぬほど嫌いなのである。

研修時にも有名になるくらい彼女は注射嫌いだった。「自分は医者なのに」と周囲からは笑われていたが、「人にするばかりで、自分にはされないように逃げるために医者になったんだ!」等と反論していたが。それで、いくらカタリ−ナが申し出ても承諾しないので、とうとうアンドレが出番となった。彼からずっと睨まれる羽目になってやっと承知はしたが、それでもぶつぶつ不平不満を言っていた。「なんだかオスカルったら、子ども返りしていない?グズグズ言っちゃって。」とカタリ−ナが笑う。「それはカタリ−ナにも一因あると思うが。甘やかしすぎだよ。」と言ってアンドレも笑う。

確かにカタリ−ナはオスカルを甘やかした。彼女の献身ぶりは見事なものだったのだ。夜中傍について熱を出しているオスカルの口に氷を運んでやる。少しでも食べられるようにと果物なども口に運ぶ。お手洗いにまでついて行きそうな勢いだった。寝汗をかくたびに着替えさせ体をふいてやる。階下の自分の家にはほとんど戻らずずっとオスカルのそばにいた。元々名門のお嬢で人から世話されるのは慣れていたせいもあって、すっかりカタリ−ナに甘えてしまっていた。しかし、病気が治った後では相当自分の行動が恥ずかしかったようだが。多分カタリ−ナは以前からオスカルにそうしたかったのだろう。だがオスカルのほうが照れてしまってなかなかそうはいかなかったのである。

しかし、病気であるほうがオスカルは気が楽だった。病気が治ってしまうと、ジジの事や、自分のいたらなさを思い出してしまう。表には出さないように振舞ってはいたが、明らかに彼女は気落ちしていた。なによりジジは大事な友達だったのだ。その心の張りを失ってしまって、どうしても浮上する事ができないでいた。周囲のものもなんとなくそれに気がついてはいた。ジジの死の直後は、オスカルだけでなくアンドレも相当参った表情をしていた。彼も必死で表に出さないようにしてはいたが、どうしても表れてしまう。アランもヴィクもあの場面に立会いはした。2人の目には見えない慟哭を感じた。

アンドレもジジを好いていた。あまり愛想のいいタイプでもないアンドレにもジジはなついていたからだ。たまに3人でおしゃべりしていたり、歌を歌っていたりする姿を見て、「やっぱり仲いいよね。」なんて周囲は仲間内でささやいたりしていたのである。それをも知っているだけに、アランもヴィクも内心複雑だった。それでもやはり、オスカルに対しての気持ちが消えるわけでもないからだ。もっと完全に2人がつきあっているという様子でも見せればあきらめがついたかもしれないが...(はあぁ。あいつらどうしてひっつかないんだ?不思議で仕方ないぜ。かと言って、あの2人に割って入れるような気もしないしな。一番始末が悪いぜ!)

ヴィクはもっと悩んでいた。何もできない自分がはがゆくて仕方なかった。彼はただアイス・ロ−ズを恋愛の対象としてみていたわけではない。研修中に彼女に告白した通り、彼女に憧れ、尊敬していたのである。アイス・ロ−ズを追っかける事は、生まれつき体が弱く、自信を持てないで生きてきた彼の初めての生きがいであると言えた。もちろん、彼女にふさわしい男になって彼女と人生をわかちあえたら...というのは彼の最大の望みであった。だがあくまでも「彼女にふさわしい」自分でなければいけなかったのだ。そして自分はこの隊で、最もふさわしくない存在になってしまっている気がしてつらいのである。

彼は大学時代からアイス・ロ−ズを追っかけている。当然アンドレの存在にも気がついていた。だから、最初からアイス・ロ−ズとアンドレを切り離して考える事をしなかった。いや、いずれ2人は結婚するのかもと考えた時期もあったのである。そのせいか、ヴィクはアンドレに対して強烈な嫉妬心を感じてはいなかった。彼は彼で病気と闘ううちに自己抑制が効いたタイプの人間になってもいたし。だがここに来て、自分のふがいなさからアンドレに対しても嫉妬めいた感情を抱いてしまうようで、それがまた輪をかけて情けなかった。(私の問題を彼にすりかえるなんて心底情けない男だな、私は...)

(結局私は、アイス・ロ−ズの前でいいところが見せられないからくやしいだけではないのか?そんなレベルにいるからいつまでたっても何の打開策も見えないのではないか?彼女の嘆きを見ただろう?一途に生きているアイス・ロ−ズだからこその嘆きではないのか?彼女のように生きたい...そう願ってきたはずなのに、私は相変わらずのレベルでしかない。だったらそれで、できる事を探すべきではないか。気落ちしているアイス・ロ−ズに何かできる事があるのではないか?このような私にでも。)

ままならない状況。ジジはロクになんの治療も受けられなかった。第一、治療以前の診断でさえまともにできないのだ。検査部門もまだ立ち上がっていない。放射線機器に関しては夢のまた夢のような話。だが、現代の外科医であるアイス・ロ−ズが、どれだけ検査部門を必要としているか!専門性はどんどん高まり、医療は高度化している。日進月歩で。だからアイス・ロ−ズが外科以外の、ジジのようなケ−スに当たってしまってもホントにどうしようもないのだ。せめて写真の一枚でも撮れたら...とはアンドレも言っていた。医療会でも放射線技師に機械導入について話題にしていたではないか。

しかし、この国には電気が安定して供給されていない。それに電気代が高いのだ!他の物価に比べても段違いに高い。放射線機器なんて入れたら電気代だけでえらい事になりそうだ。ましてCTスキャン等の高度医療系は。だがアイス・ロ−ズはそれさえも望んでいるのだ。ジジには必要だったから...なのにどうする術もなく、毎日の業務をこなしている。だが...またジジの悲劇が繰り返されないとは限らないのだ。その恐れがある限り、私のアイス・ロ−ズは不安におびえ続けるのだろうか。そう、私はそれがたまらなく嫌なのだ!私のアイス・ロ−ズは颯爽として、未来に向かって翔けていくはずだから。どうすればいい?何か、何か....

このような苦悩を重ねたある日、彼はある事を思い立つに至った。かなり無理がありそうな思い付きではあったが、他に何も思いつかないのだから仕方がない。そこで彼はある人物の存在を思い出し、首都に上京する事にした。

「はあ?君、突然何を言い出すんだ?」とだけ言って、モ−リッツは絶句した。彼は首都に赴任している視聴覚隊員だったが、本職は電気技師らしい。原子力畑にもかかわっていた。「大体もう私は任期も残り少ないのに、これから一体何をやれというんだね?」そう、彼はヴィクたちより2つ前の隊次だった。今年の4月で最初の1年が終わっている。今は7月だ。「はい。全て承知の上で先輩に御願いしています。」ヴィクは、彼が所属する事務所の片隅で小さくなっていた。モ−リッツは明らかに機嫌を悪くしているようである。

しかし、負けて帰るわけにはいかない。ヴィクも必死だった。「御願いします。私がその分野の専門ならよかったのですが、私には何の知識も技術もありません。どうかお力をお貸しください。」「私だってそれそのものをやってきた人間じゃないんでね。悪いけど、今からちょっと用事があるんだよ。君もなぁ、悪い事は言わないから本職に専念したらどうだ?医療プロジェなんだろう?」口早にそう言い置くと、モ−リッツは席を立ってしまった。そして書類を持って、外に出かけた。ヴィクの表情のやるせなさに気がつきはしたのだが。

(あいつはあれだろう?首都の病院に赴任するはずだったんだよな?)そう、首都に赴任する隊員はとても少数だったので、ヴィクの隊次が赴任する前はお仲間が来ると思っていたのである。しかし、結局彼はカオラに行ってしまったので、今まで全く没交渉だったのだ。(確か歯科医だったはずなのに、なんで急に風車の事なんか言い出したんだ?いわゆる風力発電の話なんかふられても、おれだってわからんのに!)そう、ヴィクが思いついた事とは、風力で自家発電を行うという案だったのである。

(そういやあの男、首都の病院じゃないから本業が行えないとかなんとかいう話だったな。コロッと忘れてたよ。だがそうかと言ってあの話はなんなんだ?)歩きながらいろんな事を思い出すモ−リッツだった。(だけど、あいつが夢中になっているとかいう同期の医者だったか?短い金髪になってたよな、こないだは。あの彼女と同じ任地になれたんで喜んでんじゃないかって言われもしてたのに。で、あれか?やっぱり好きな女にいいカッコしたいってわけか?その気持ちが全くわからんわけでもないが、おれはそういうのは嫌いだね!)

(まあなあ。おれも最近はやる事がなくなってきてはいるんだけどね。元々なんで要請されたんだ?ってくらい仕事がなかった。カウンタ−パ−トもいるにはいるが、首都にいない事も多いしあまり仕事熱心でもないタイプだし。かと言ってもなぁ...)途中で書類を関係する現場に渡したモ−リッツは、そのままFICAの事務所に寄ってみた。彼らサ−ビス会には医療隊員とは違うもう1人の調整員がついている。ちょっとカルいところもあったが、とにかく話はわかるというタイプだったので、気楽につきあいやすかった。さっきの件もあるし、モ−リッツは彼と少し話してみる事にした。

「やあ、モ−リッツ。相変わらず仕事がないのかい?」結構長身で甘いマスクの調整員だったが、どうも性格的には変わり者の傾向が強くて、女子隊員にモテるというわけでもないところがおかしかった。「ええ、相変わらずです。まだあと9ヶ月ほど任期はあるのに、この先何をやっていけばいいやらですよ。」このような悩みをかかえている隊員は珍しくない。サ−ビスや教育を担当しているこの調整員も悩みを訴えられるパタ−ンの多くがこれだった。医療や農業はマンパワ−関係の悩みが多いのだが。

「なんだかんだと結構制約が多いからねぇ。もっと流動的な活動ができたらいいのにな。」こう言って、ある程度隊員を牽制してもいるのだが。モ−リッツも隊員が長くなったので、いろんな事情がわかっている。ヴィク等はまだ隊員歴が浅いので、あんな事が言えるんだろうと感じてもいる。しかし、このまま無視してしまうのもどうか。「やはり他の州で活動するわけにはいきませんかね?」「それなんだがね...そういう規約になっているからな。1人特例を認めると多分われもわれもになるだろう?お役所もFICAも現場もひっかきまわされるのがオチだからね。ただ...」「ただ...?」

「それがクリアできればなんとかなるかもな。どこに出してもおかしくない理由付けと、全てを自分で始末つけるって覚悟があれば。絶対FICAは手を貸さないが、それでもやれるっていうならね。関係省庁にも、FICAにも、現場にも混乱を招かずに納得させられるかどうかだよ。かなりツラいだろうね、君にできるかな?」そう言って冷やかすような目をする調整員。確かに、モ−リッツは大して語学が堪能でもない。いや、首都派遣だけあって、そこそこには得意なのだが。

「はぁ、やっぱりそうですよね。」「でも、君がそんな事言うのも珍しいな。何か心当たりでも?」「いえ、そういうわけでは...」(そうだよな。よりにもよって首都とカオラだ。もう少し近ければなんだかんだと暇を見つけて行く事も可能だけど、そうもいくまい。やっぱり無理があるよな。)帰途につきながらまたヴィクの言葉に思いを馳せるモ−リッツ。(風力自体に興味がないわけじゃない。原子力も煮つまり気味で、私もここに来る前には、帰国後にとそっちの分野への可能性も視野には入れていたんだ。こっちに来て忘れてたけど。)

気にはなる。気にはなるが、途方も無いアイデアでしかない気がして、モ−リッツはあえてそれ以上考えまいとした。しかし、ヴィクがそうさせなかった。彼は毎日のようにモ−リッツの事務所に日参し始めた。しつこくモ−リッツに働きかけようとはしない。ただただ毎日顔を出す。あいさつしてそのまま帰ったりするだけだ。そのうちなんとなく、その事務所の連中もヴィクの顔を覚えた。モ−リッツも一週間は我慢したが、さすがにそれ以上は限界だった。多分FICAの事務所のネットで検索でもしたのであろう。ヴィクはその胸に風力発電関連の記事をかかえているようだった。

「わかったよ。話を聞く事にする。で、なんで君はそれをしたいんだ?」ヴィクの表情がパッと明るくなった。そして、プロジェに放射線機器を導入する事を目指しているという説明をした。ジジの事には一切触れなかった。「ああ、そう言われれば確かにそうだよ。一理あるな。だけど、相当大掛かりなことにならないか?本当に隊員レベルでやれるのかね。」「わかりません。でも、まずは小規模の、基礎の基礎みたいなところでいいんです。まだ医療プロジェがそうなんですから。」「それもそうだけど...だが、それ以前にクリアしなければならない問題が山積してるぞ。私は首都派遣なのに、そっちはカオラだ。任地変更はかなり厳しそうだよ。」「そうなんですよね。プロジェから電気技師を募集かけるのが一番なんですが、今からだと秋募集なんです。となると早くても着任が来年の7月なんですよ。私は休職組なので延長できるかどうか...だとすると、どうしてもあなたにお力を貸していただけないと全く成立しないんです。」

「実は、おれも少しばかり調整員と話をしてみたんだ。現実問題として、任地変更はかなり難しいみたいだね。だけど、全くその可能性がないわけじゃないんだと。まずは「どこに出しても通用する理由付け」が必要みたいだな。」ああ、やはり少しは気にしてくれてたんだとわかり、ホッとするヴィク。実はこのモ−リッツという男は、意外と頼られることに弱いタイプではあった。ただ、それを見透かされて足元を見られたりしないために、最初のうちはあえて拒絶したりして様子を見るように振舞うのである。

「そうですね。企画書を出します。あなたもぜひ協力を御願いします!」と、ヴィクが頬を上気させながら懇願するように言う。(まあ、できたらかわゆい女の子から頼まれたらなぁ、二つ返事だけど...って、おまえそれで今までどれだけ痛い目にあってきたんだよ。)等と内心で苦笑しつつ承諾するモ−リッツ。
「で、プロジェの連中はこの件はもう承知してるのか?」「いえ、それがまだ...」「はあ?それはマズイだろ?今までだってプロジェで活動してきてんだろうし、彼らが難色示したらどうしようもないぞ?」そう言われて無言になるヴィク。「いえ、多分...」「多分じゃダメだよ。まずはカオラに帰って打ち明けてきたまえ。話はそれからだ。」

ヴィクが隊員宿舎に戻るとハンスが上京してきていた。「そろそろ新隊員が来るだろう?今回は教育プロジェに2人来るんでね、顔を見にきたんだよ。」そう言って明るく笑うハンス。それでまず、ヴィクは自分の気持ちをこのコ−ディネ−タ−に打ち明ける事にした。彼はかなり驚いたようだったが、ヴィクの決心の強さを感じ取って理解を示した。そう、彼もジジの件を、オスカルの嘆きと気落ちをうかがい聞いていた。ヴィクははっきりそれとは言わなかったが、なぜ彼がそうと決意したかがわかる気がした。「しかしなあ...おれもティナに新隊員が来るし、やっとプロジェが始動しかかってるんでね。今だとどの程度力を貸せるのかはっきりしないんだ。」

「ハンス、これは私の勝手な行動なんですよ。ですから、許可していただけるだけで十分なんです。ましてお力添えを期待なんて、あつかましすぎますよ。」「そうか?だがモ−リッツが言うように、相当厳しそうだぞ。医療プロジェのほうは反対する人間はいないだろうが、君の活動に手を貸せるほど余裕もないだろうしね。全部が君の肩にかかってくる。でも...考えとしてはいいセンいってると思う。おれもできるだけ協力させていただくよ!」「あ、ありがとうございます...」そう言うヴィクの目にうっすら涙がたまっていた。彼は芯の強いタイプなので、滅多なことでは涙を見せたりはしない。だが、この時のハンスの言葉は彼の心の琴線に触れて、彼の涙を思わず誘ったのである。

ヴィクはカオラに戻り、診療所に集まった全員に自分の気持ちを伝えた。これはかなり勇気がいった。全員が、なぜヴィクがこのような決意をするに至ったかについて思い当たれるからである。それをヴィク自身が痛いほど承知していたからだ。「あれって、ほとんど告白したのと一緒よね。」と、ゲルトル−トが端的に語っていたが、まさにそうだとしか言いようがなかった。だがその一方で、今まで所在無げに過ごしてきたヴィクが居場所を見つけられるなら、それもまたよしである。別に反対する理由はなかった。「俺もあいつら2人に完璧に遅れをとらないようにがんばらんとな。」アランもそうつぶやいていた。

再びヴィクは上京した。まずはざっとでいいから企画書を上げなければならない。しかも、これはモ−リッツの協力無しには不可能である。毎日彼のもとに通い、時には彼の家に泊まりこんで話し合ったりした。しかし、これはヴィクにとってとてもいい体験になった。今まで彼は、名門の長男に生まれ、しかも持病持ちだった事もあって、あまりこのような体験をした事がなかった。研修期間でも、どこか1人だけ離れて過ごしていた。休日でも、隊員仲間と外出するでもなく大体実家に戻っていた。夜っぴて活動の事だけでなく、酒など酌み交わしながらよもやま話をする。そんな経験は皆無といってよかったのである。

しかし、ヴィクは上京して数日すると、今度はハンスから相談されることになった。「なんかなあ、今回の隊次って、雰囲気がヘンな気がするんだよね。」ヴィクがカオラに報告のために一時戻っていた間に新隊員は到着していた。だから、新隊員が到着してまだ幾日もたっていないはずだった。「え?具体的に何かあるんですか?」「いや...はっきりしないんだけどね。でも、4月に来た連中とかとはなんか違うんだよ。で、どうもうちに来るプロジェの2人はあまり仲がよくないみたいなんだ。」「そうなんですか?」「うん。まあ、表立ってどうというわけではないみたいなんだけどね。なんかお互い避けてるふしがありそうで。」そう言ってハンスは再びティナに戻っていった。

「何をバカげた事おっしゃってるんですかね?そんな事が認められるわけないじゃないですか?だから嫌なんですよね、いつまでたっても隊の本分を理解されないかたがいらっしゃるんで。」そう、ヴィクたち医療隊員を管轄する調整員のせりふである。モ−リッツに関してはもう1人の調整員の許可を得れば済むことだったが、ヴィクはこの難物の男をまず説得しなければならないのである。だがもう、彼は頭から聞く耳を持たない。というより、彼をいびるのに絶好のネタができたとばかりに内心で喜んでいて、いかに権力をふりかざせるかにかかっているだけなのであるが。

どうも埒が明かないので、ヴィクはひとまずモ−リッツをカオラに招く事にした。勝手な任地変更では、モ−リッツ用の住居は手に入らないだろう。となれば、ヴィクとの共同生活となるだろう。それに、今まで1年以上首都で生活していた彼が、全任地中で最も何も無い場所のひとつであるカオラに赴任となれば、かなりの環境変化を彼に強いなければならなくなる。それを承知して赴任してもらわねばならなかった。(プロジェ隊員が結構な数いるのが救いですけどね...先輩にカオラを気にいってもらえるでしょうか?)

「へぇ、さすが聞きしにまさる僻地だな。カオラってとこは。」と、モ−リッツはうれしいんだかとまどってるのかわからない様子であたりを見回していた。「これでも昔に比べたら発展したそうですよ。最近、隣国との関係が安定してきてるみたいで、商売上の行き来がさかんになってるみたいです。」「ふうん。で、君が言うその「風の谷」ってとこはここから近いのか?」「歩くと1時間くらいかかるそうです。バイクだとずっと短い時間で行けますが、結局途中から歩きになるとか。」そう、ここからもっと国境沿いに、このあたりでは有名な「風の谷」と呼ばれる強風の地帯があるのである。

「ただ、今は雨季なんで、道がぬかるんで危ないそうですよ、バイクは。まあ、長旅でお疲れでしょうから、まずは私の家にいらっしゃってください。今夜はゲルトル−トの家で、ウェルカムの宴会を開いてくださるそうですよ。」と、にっこり笑いながら言うヴィク。つられるように微笑むモ−リッツ。「そりゃうれしいね。君が崇拝するアイス・ロ−ズも同席してくれるのかな?」と、からかうのも楽しそうだった。「え?それはまあ多分...でも、彼女のためだけにやってるわけじゃないですからね、この件は。」「わかってるよ。私だってそれだけの理由じゃ、ちょっと納得しきれないじゃないか?私にも意味があるから頑張ろうという気になってるんだし。」

ヴィクの家は平屋建ての一戸建てだった。「ふうん。やっぱり首都に比べたらゆったりしてるな。部屋の数はそう変わらんけど、1つずつの部屋が大きいよ。」「このゲストル−ムに入っていただく事になると思います。もちろん他の部屋にも荷物を持ち込んでいただいてかまいませんが。」「そうだね。私はそんなに荷物が多いほうじゃないと思うよ。今住んでる家は、また他に首都隊員が入るまでそのままになるだろうしね。適当にほっとくさ。だがとにかくGOサインが出るまでは移ってこられないけどね。」

「これおみやげだから。」そう言って、モ−リッツはフリデリ−ケに袋を手渡した。「あら、何かしら?開けてもいい?」「ああ、どうぞ。」そこには、漁業隊員が製品化している魚介類のム−スのパック詰めが入っていた。「え?見たことないけど、食べるものなの?」「そうそう。そのままお湯で温めたらいいんだよ。」「おいしい?」「食べた事はまだないんだけど、他の隊員は結構イケるって話してた。」「まぁ、じゃあこれも今夜の一品に出さなきゃね!」そう言ってフリデリ−ケはゲルトル−トの元に走っていった。(なんか、おれの事、先輩だとか、年上だとか、考えていないらしいな。ありがとうも言わなかった気がする。あいつ、兄ちゃんと来たんだろ?兄貴は何やってんだよ!)

「王妃さまぁ、またイザ−クがため息ついてらっしゃいますよ?」「あのシスコン、またフリデリ−ケの事考えてんのよ、違いないわね。」教育プロジェの借り住まいのピアノに向かって憂鬱そうな風情のイザ−ク。それを伺うように遠巻きに見ているロザリ−とマリ−。「フリデリ−ケのお子様が、そんなに簡単に誰かとデキるわけないじゃん!あっちにはロザヴィアもカタリ−ナもいるんだし。ゲルトル−トの姉さんだって土木組から好かれてるし、ロザ、あんただってそうじゃない?」「王妃さまもみなさん憧れてらっしゃるけど、なかなかお声をかけにくいみたいですよぉ。」「うるさいわね、それは何?私の性格がキツイからかしら?」「だからそういう言い方が...」「おだまり!私はこれでいいの!」

翌日、ヴィクとモ−リッツは「風の谷」を訪れた。「なるほどね。確かに結構強い風は吹いてるな。年中こうなのかな?」「みたいですよ。季節によって違いはあるらしいんですが。」谷とはいっても、緑豊かとも言い切れない。ここらへんでは豊かか。この風は、隣国からの風である。「で、ここに風車を建設するわけか。」「そうですね。どこが最もふさわしいかはもっと細かく調査しなければいけませんが。ただ、この地が最もふさわしいと思います。」「ちょっと遠いけど、仕方ないかな。コンデンサ−式にして充電させていくタイプでいいか。」

一旦モ−リッツは首都に戻った。今やっている事をうまく片付けて、カオラに移動する手はずを整えなければならない。(もうこうなったら任期延長だな。少なくともプロジェで電気技師がとれるまでは。)ヴィクも自分の事にだけかまけているわけにはいかない。プロジェの一員として、今までの業務をこなしながら、なおかつ新しいアイデアに挑戦していくのである。教育プロジェに人数が増えるので、ますますハンスは忙しくなるだろう。医療プロジェのコ−ディネ−タ−としてのヴィクも大層必要とされていたのである。もちろん、他の隊員もヴィクには協力体制をとっていた。特に土木組は、風車建設に協力を惜しまないと約束したのである。

8月になった。雨季も後半戦に入った。しかし、プロジェにとって、非常に有難くない問題が浮上してきていた。そう、ティナに配属された新隊員2人の事だ。いや、正確には1人の村落開発隊員の件だったのだが。とにかく協調性が欠落してるらしい。これが個人派遣ならまだしも、あくまでプロジェ隊員である。周囲と歩調を合わせられない人間では困るのだ。だが、本人にはその自覚も全くなく、「自分は音楽のことなんかわかりませんし、興味もないですから。」と言い放ってはばからない。一体この男は隊からどんな説明を受けてきたのか?要請書のどこを見て応募したのか?

「プロジェのことなんか知らないですよ。勝手にやっててください。自分は村落開発ですから、その役目を果たせばいいんでしょ?大体隊員同士でなぜ他の隊員に口出しするんです?なんか幻滅ですよ。」口を開いたかと思うとそんな話ばかりである。当然マリ−は烈火のごとく怒った。「あのオタク馬鹿、さっさと国に返しなさいよ!!」「そんな、返すって、品物じゃないんだし...」「あんなのと誰が金輪際口きくもんですか!顔も見たくないわよ、いかにも「オタクです」って顔付きでさ!!うえ〜〜〜っ!!」「アンドレも家事オタクですよぉ。」「それは有用だからいいの!あの男は趣味的にマニアなのよ。あんた狙われるかもよ?」「それだけは勘弁してくださいよぉ〜。」

活動の合間合間に、モ−リッツはカオラを訪れるようになっていた。風車のこともあったが、何よりプロジェに関心がわいてきたのだ。今まで個人派遣としてやってきたので、彼らの活動が珍しくて仕方なかったのである。
「いや〜〜ん!これどうやったら動くの??いくら取説解読したってわからない!!」朝から部屋のすみで叫ぶフリデリ−ケだった。彼女はどうやら、コメディカルではあるけどメカ音痴らしい。今時のコメディカルはそれも無理ないのだが。「あの嬢チャンは、何をうなってるんですか?朝から。」と、モ−リッツが笑いながらオスカルに聞く。「それがね、機材供与されたのはいいが取説が母国語じゃなくて、この国のオフィッシャルですよ。」「なるほどね。そのパタ−ン結構多いよな。口語と文章語が違うってのがイカン。」「ちょっと回路図とか見てやってくれませんか?その手のは彼女、からっきしダメなんですよ。」

「どれどれ。ちょっと見せてもらってもいいかな?」しかし、フリデリ−ケは体を伏せ胸の中に取説や回路図をしまい込んでしまっている。「いやよ。どうせ私のへたっぴな訳や機械オンチなのを笑うつもりなんでしょ!?」とにらみつけながら言う。(なんなんだよ、この嬢ちゃんは...人がせっかく親切に...)すると、彼女はますます表情を硬化させた。「なにさ、親切ですって?そういうのをおせっかいって言うのよ!」そう言って、アカンベ−をしている。

(なんだ?おれの考えてる事がわかるのか?)見透かされた気がして、モ−リッツは思わず身を引いた。「悪かったね、おせっかいはやめるよ。」そう言ってくるりと体の向きを変え、きびすを返そうとする。すると今度は彼女のほうが彼のシャツの背中をつかんだ。「おせっかいはいらないから親切にしてちょうだい。」と、命令口調で。「はあ?」そう言って彼はもう1度彼女のほうに振り返った。そこには彼女の満面の笑みがあって、彼は承知するしかなかった。「じゃあ、親切にするにはどうすればいいのかな?」

オスカルの看病等で中断していたカタリ−ナの研修もやっと終わった。それと入れ替わるようにアンドレがディリ病院に研修に出る。唯一の放射線技師の家に世話になることになった。「なんかちらっと聞いたんだけど、カオラに風車建てるんだって?」「そうですね、ヴィクの発案なんですよ。出来れば発電までやりたいなって。」「そうだったんだ。ほら、前の医療会でさ、アイス・ロ−ズだったっけ、プロジェのお医者さんがさ、放射線機器について話してたんだよ。導入難しいかなって。その時の事、ヴィクト−ルは覚えていたのかな?」「ええ、多分。」

「ヴィクは上京してるし、土木組はティナだし、アンドレは研修中だし、すっかりプロジェも女の園と化したわね!」とゲルトル−トが笑いながら言う。「あら、モ−リッツが来るかもしれないわよ。」とカタリ−ナ。「彼も熱心だよな。遠いとこからさ、しかも来たってフリデリ−ケにつきあわされてばかりだし。」オスカルもクスクス笑っている。そう、あの日以来すっかりフリデリ−ケの手助けをする羽目になってしまったモ−リッツだった。「お兄ちゃんっこだから、年上の男性に甘えるのは得意みたいね。」今フリデリ−ケはティナに行っていた。とうとう3ヶ月が経過して、他の任地を訪問してもいいという許可が出たのである。

「それにしても、なんかティナ、ヤバイんだって?」とゲルトル−トが眉をしかめる。「なんかさぁ、新隊員の村落が全然ダメらしいぞ。うちも要請出してるから心配だな。」「でも、あっちは強く言えるのってマリ−ぐらいじゃない?こっちはあんたも私もいるし、あれでアンドレもにらみがきくからね。アランもなかなかだし。」そう、やはり医療隊員は強いのだ。「もう1人の隊員はいいのかしらね?」とカタリ−ナ。「理数科教師はまあまあみたいだな。ただ、あの村落も元教師なんだってよ。それで余計にあの2人は仲が悪いってさ。同期なのに一切口もきかないんだと。」

数日して戻ってきたフリデリ−ケにティナの様子を聞く3人。「なんか全然意思の疎通がないみたいですよ。完全に村落は1人だけ浮いてるみたい。でも、ほらあの根性ワルの調整員に言っても無駄じゃないですか。」「言うだけ状況が悪化しそうよね。かえって喜びそうだもん。ただでさえ、ヴィクの風車の件でえらそぶってるみたいだから。」心配そうに顔を見合わせる3人。しかしフリデリ−ケはあまりこだわっていないのか、「モ−リッツ来るって言ってきませんか?呼び出そうかしら。」等とケロケロしている。(ほんと、イザ−ク兄ちゃん、甘やかしすぎだよね。)と苦笑するオスカルだった。

やはりヴィクの懸案は難航していた。とにかく調整員がさっぱりなのだ。しかし、もちろんそれだけではなかった。モ−リッツを移すのだってどれだけ手間と時間がかかるのか。第一認めてもらえるのか?だが、ヴィクはじょじょに落ち着いてきていた。ここはアロンガルなのだ。母国じゃないのだ。この国の時間と都合を優先させるべきなのだ。それがわかってきてかなり気が楽になってきていた。(まだ時間はある。たった一歩でも踏み出せれば、きっと受け継いでくれる存在が現れる、それを信じよう。)

さすがに研修に出ただけあって、カタリ−ナはいろんな事を学んできてくれた。いずれアンドレと入れ違いに研修に出る予定ではあったが、その以前にいろいろ予備知識があるのは歓迎すべき事であろう。「どっちにしろ、患者さんは患者さんですわ。愛情と奉仕の気持ちさえ忘れなければなんとかなるって思うのよ。」オスカルも全くそう思っている。この国の医療従事者がエリ−トだという事もわかっている。しかしオスカルは母国でも名門の出だった。だが、そんな事情を彼らはだれも知らないし、明らかにする気もさらさらない。いや、かえって気楽な気持ちさえしていた。常に名門出身の扱いを受けていることは、他の人間が思うほどいいものではなかったのである。

雨季も終わり、土木組の工事がスタ−トした。まずはカオラなのだが、始めかけて急に場所が変更になる。いや、2つの候補地ができてしまった。「おいおい、聞いてないよ。立地条件が全然違うじゃないかよ。もうすっかり計画してたのに。」「でも、新しい候補地も捨てがたいよな。」そう、新しい候補地は、元の候補地より格段に広かった。ただしその分、便は悪くなってしまうのだが。「ほれ、あれだろ、「風の谷」にも、わずかだけど近くなるんだよな?新しいほうが。」「そうなんだよね。めんどうだけど、計画書やり直すかな?」「しゃあないな。」

それなりに平和と前進を保っているカオラに比べるとティナの旗色は悪かった。たった1人のためにさっぱり士気が上がらない。マリ−は怒ってばかりだし、ロザはそれに巻き込まれてしまう。ハンスは上京活動があって任地を開ける事も多い。イザ−クはもともと孤独なタイプでもあって、あまり他人に積極的にかかわらない。しかしアンドレほどきっぱりもしてはいない。ただ、村落の隊員のほうでも、彼のようなタイプは苦手らしくかかわろうとしない。だんだんこの村落隊員は、口ばかり達者だという事が判明しだした。つまるところ、「教師の悪いとこどり」みたいな男だったのである。妙に説教好きで、自分の頭を抑える存在を受け入れる事ができない。プライドばかり高いが、実行はそれほど伴わない。もう1人の理数科教師が彼を嫌うはずである。

そして、その危ういバランスさえも保てなくなってきた。マリ−が危惧したように、村落の隊員がどうやらロザリ−に目をつけたのである。最初ははっきりしなかったが、日を追うごとに妙なそぶりが目につくようになってきた。ロザリ−は内心で悲鳴を上げていた。はっきり言って「生理的に全く受け入れられない」タイプだったからである。しかし、この男も妙に巧妙なところがあって、ロザリ−もきっぱりとした態度をとりにくかった。もともと気が小さいところがあり、器用なタイプでもなく、適当にあしらうことができない。もちろん、男のほうもそんな彼女につけ込んでいるのである。

アンドレと入れ違いに研修に出ていたオスカルのもとにロザリ−が泣きついてきた。オスカルは怒髪天をついて怒った。その姿に励まされるロザリ−。「なあ、もっと頻繁にカオラに来られないのか?カオラでプロジェと組んで活動したっていいだろう?」「そうしたいんですけど、やっぱりマリ−との活動が軌道にのってきてますし...何より彼女を1人にしちゃうのはちょっと。」「マリ−なら1人でも十分撃退できるよ。でも、確かにね。そんなバカヤロ−に活動邪魔されて逃げ出すのも腹立たしいよな。」そう言いながら、ロザリ−の髪をなでてやるオスカル。凛として颯爽と風をきって歩く風情のオスカルを、ロザリ−は愛していると言ってよかった。(あなたが男性だったらよかったのに...あなたが私の恋人なら、こんな目にはあわなくてもよかったのに。)

本国ならば相当寒くなっている時期だったが、こちらではなんとも過ごしやすいと言える季節だった。ティナの状況の悪さを耳にしたカオラ組は、なるべく暇を見つけてはティナを訪れるようになっていた。それで例の隊員も少しおとなしくなったようである。オスカルはまだ研修中だったが休日には必ず訪問した。実はディリとティナは隣り同士の任地といってもよかった。距離的には結構あったが、道路事情がカオラ−ティナ間よりも段違いによかったのである。同じプロジェとは言っても教育と医療の違いがあって、関心もわくのだった。

音楽というだけでも、もともとかなり音楽教育を受けてきた。アンドレやヴィクもそうである。特にアンドレはピアノ弾きのイザ−クに親近感をおぼえている。それがなぜかについてオスカルは気がついてなかったが、イザ−クとアンドレはお互いに気がついていた。そう、2人には「愛情と心配を捧げても捧げても足りない存在がある」という共通点があったのだ。しかもそれをあまりおおっぴらにできない。イザ−クは「シスコン」扱いにされがちだし、アンドレはアンドレで、いろいろ思うところがあった。彼らは2人ともどちらかと言えば無口だったが、その分を歌や音楽で表現していた。

そういう意味では、カタリ−ナも似たような面があった。全医療隊員のなかでも最もおっとりしており、口数も多くない。しかし情の深いタイプだったのだ。情が深いだけに、それを押し付けたくない。迷惑がられる事になりはしないかと。実際そう思われてしまった経験もあったりして、なかなか自分の気持ちを表せないでいたのだ。カタリ−ナはそんな自分を少しでも変えたくて隊に参加した。研修所では珍しいタイプだとも思われていた。ただ、運がいいことに、同期のプロジェ組がみなきぜわしくないメンバ−だったので、彼女も段々自分らしさを出せるようになってた。オスカルへの献身が彼女に受け入れてもらえた事もあって、ますますカタリ−ナは変わりつつあった。

そうは言ってもこの3人は自分を表現するのに言葉以外の方法を必要としていた。アンドレとカタリ−ナは職種が同じな事もあって、なかなか一緒にティナに行く機会はなかった。ただ、同じようにプロジェの仮住まいのピアノの前で、イザ−クの伴奏に合わせて歌うのが好きだったのである。「妹も、あなたほどでなくても、もう少し落ち着いてくれたらいいんですが...」「あら?私そんなに落ち着いて見えます?」「ええ。穏やかでお優しいですよ。うちのはなんだかいつまでも子どもで。」「うふふ。お兄さんが思うほど彼女も子どもじゃありませんわ。一生懸命活動してますよ?」「でも...首都から隊員が...」「ああ、モ−リッツのことでしょう?彼は電気技師さんなんで、彼女が立ち上げようとしている機械について力になってあげてるんです。」「ほんとに...それだけなんでしょうか...?」

「心配なら直接お聞きになればいいのに。」「妹は、なんでもない、先輩が後輩のめんどう見るのは当たり前だって言うんですけどね……」と言ってためいきをつくイザ−ク。(まあ、ほんとにこの人って、妹さんにぞっこんなのね。でも嫌な感じはしないけど。)カタリ−ナは一人っ子だったので、兄がいるフリデリ−ケがうらやましかった。カオラの女性隊員にはみな兄弟姉妹が存在している。しかし、アンドレの事があるので、決して普段はそのような発言をしなかった。幼い日の記憶さえないという彼の孤独はいかばかりなんだろうか?しかし、彼にも今はオスカルがいる。(あの2人はどうなるのかしら?結婚しても不思議じゃない気もするけど……)

11月に入った。すぐに2回目の隊員総会が催される。今回はサ−ビスと教育が先に会を開く事になった。それで、一足先に土木組が上京する。オスカルも研修を終えてカオラに戻ってきた。「やっと終わったよ。まあ面白かったけどね。久しぶりにエコ−をさせてもらえたし。でもちょっと腕がにぶったみたいでショックだったけど。」「仕方ないんじゃない?でもさぁ、放射線関係もいいけど、値段考えたらまずエコ−導入を目指してもいいんじゃないかしら?」ゲルトル−トは最初の数年を看護婦として働いた経験を持つ。その後保健婦になるため学校に戻った。そのため病院医療の知識もそれなりに持っていた。

「そうだね。でもまあ、それは私たちが帰った後のプロジェの仕事になりそうだけどさ。」「そうそう!私たちは礎を築くのが役目よね。なんたってプロジェ第1期隊員なんだから。」「そう言えば、ディリの技師さんがおまえによろしくって言ってたぞ。」と、傍で話を聞いていたアンドレに話しかけるオスカル。「そうか。こっちもとても世話になったからな。まあ、すぐ総会で会えるけど……結構風車を気にしてないか?」「うん、やっぱり彼って放射線技師だからさ、機器関係は気になるみたいだね。そう言えばほら、JBの技師のマ−スが隊に参加したいとか言ってたんだよ、私たちが研修に入る前。彼の後続にはどうかなぁ?」

すぐ後を追いかけるように上京するカオラ医療チ−ム。今回は先輩方はホテルに中2日ほど宿泊する手はずになっていたが、カタリ−ナたちの隊次から以降はずっと宿舎でステイになった。そうなると、自然とプロジェ組が圧倒的に多い。そして、上京してすぐ、カオラ組はティナと土木組に呼び出されるように一緒にレストランで夕食をとった。「話があるって、何かあったのか?」とオスカルが口火を切った。するとフェルゼンが少し言いにくそうに説明し出した。「ああ。ほら、例の村落なんだけど……」そう言えば彼もプロジェなのにこの場に1人いない。理数科はいるのに。

「またあいつか?今度は何やらかしたんだ?」「いや、相変わらずといえばそうなんだけど...どうもロザリ−やマリ−の話を聞いてみると、彼がロザリ−を今度は目の敵にしだしたみたいなんだよ。」「なんだって!?」と、思わず席を立っていきりたつオスカル。ロザリ−のほうを見やると泣きそうな顔になっている。「なんなんだよそれって。ロザリ−がなびかないとなるとそれなのか?最悪のサイテ−野郎が!!」 「こっちも注意はするけど効き目ないし、あまりそうするとますます陰にこもった真似されかねないからってロザリ−が言うんだ。調整員もさ、プロジェとしてはあのカルいあにぃなんだけど、隊員としてはあのわからずやじゃないか?村落を管轄してんのは。」

「どっちもイマイチだよな。あにぃは責任取りたがらないし、わからずやはすっとこどっこいだし。」とアランが言う。「そうなんだよ。でね、今回の総会ではどうやら事務所長さんが隊員全部をビュ−ロ−の隣りの自宅に招いてくれるらしいんだ。明後日にね。その席でね、ちょっとプロジェ全体である事をやりたいって思ってるんだよ。ティナと土木で話し合ってそう決めたんだ。で、ぜひ医療のほうにも加わってほしくてね。まあ、大体の事は想像つくだろうけど。」「ああ。直訴だろう?」「そういう事。ただうまくやらないとね。ヴィクの活動の事を中心に据えるんだ。それで、プロジェの団結を強める必要性を説いて、村落にも納得していただくつもりだよ。」

「ロザリ−、つらかったんだろう?おまえ、ちっともそんな事言わないから...」とオスカルが宿舎の女性寝室に面したベランダでロザリ−に話す。2人でベランダにすわり、夜空を見上げていた。他の隊員はみな下の階の居間でわいわい話をしていた。「だって...あんまりオスカル様にばかり心配をおかけしたくなくて...」と言いながらうつむくロザリ−。だがしかし、ロザリ−の本音は違っていた。(やっぱり任地が違うから、オスカル様は同じ任地の人たちに関心がいってしまうもの。病気を看病していただいてから、カタリ−ナさんともすごく仲がいいし...ゲルトル−トさんだって...あのフリデリ−ケさんにも。こうやって会えばオスカル様は同期の私を一番大事にしてくださるけど...)

「どうした?ロザリ−...?」そう言って自分の瞳を心配そうにのぞきこむオスカルに感じる想いを、自分の胸ひとつに秘めた感情を、ロザリ−は口に出す事ができなかった。「おまえの瞳ってすみれ色してんだな。なぜ今まで気付かなかったんだろう?」それは多分、ロザリ−の恋心のなせる業だったのだろう。大きなすみれ色の瞳に吸い込まれそうになる気がして、オスカルはロザリ−から目が離せない。そうされるのは、うれしくもあり、それ以上につらいことであった。(なぜあなたは女性なんですか?あなたはご自分では「男嫌い」っておっしゃってるけど、本当はそうではないんじゃないですか?少なくともアンドレに対しては...)せつなくなるばかりのロザリ−だった。

「なぁ、そんなに悲しい顔をしないでくれよ...エレ..じゃなくてロザリ−。私はここにいるよ。おまえを置いてどこかに行ってしまったりしないから...」そう言うとオスカルはロザリ−の頬にKISSした。せつないロザリ−の瞳に、せつないオスカルの瞳が映り込む。(オスカル様...一体なにを、誰を見てらっしゃるの?でもかまわないわ...アンドレにさえむけるのを見た事のない瞳を私に見せてくださって...)そうして2人はそうするのが当たり前というようにお互いの唇を重ねていた。

しかし、天使が出会ったようなキスのあと、オスカルの胸に抱きしめられたロザリ−は、やはりオスカルが女性だという事をひしひしと感じさせられてしまった。(そう...わかってる。なのにやっぱり恋しいの。もっとその青い瞳で見つめられたい。どうしてこんなに苦しい想いを抱いてしまうのかしら。他の誰ともキスしたりしないで。他の誰かを見つめたりしないで。誰にもとられたくない!誰もオスカル様に近づかないで!!)ロザリ−の胸のうちにわきたつ想い。それがますます彼女の瞳をすみれ色に染め上げていた。

「所長さんのご招待は急に決まったからね。なんか普段着しかないんだけど。」「それがいいみたいよ?いつもの総会じゃあ、かしこまった格好ばかりが多いじゃない。たまにはラフな隊員の姿を見たいんですってよ。」招待の当日の朝、居間で話すオスカルとカタリ−ナ。そのオスカルの傍にロザリ−が張り付くように座っている。ロザリ−はオスカルの腕にしがみついていると言ってもよかった。オスカルもそんな彼女を片時も離さない。(レストランの話を聞いてから、ずっとこんな感じみたいだわ。でも、ほんとにロザリ−はつらかったのね。かわいそうに...)

「まあね、今回やんなきゃならない事を考えるとさ、少しかしこまってるぐらいでもよかったんだけどね。仕方ないか。」「そうなのよね。でもまあ、やれるだけやってみましょうよ。」この2人の頭には、例の村落隊員の動向のこともあった。今日の招待は絶対参加というものではなかった。かと言って行かない隊員はまずいないと言えた。所長は気持ちのいい人物で、奥様も優しくおだやかで料理も上手らしい。今晩の招待で振舞われるお料理は奥様と雇われているボンヌさんの手料理だとか。下手なレストランより期待できそうだ、なんと言っても奥様は同国人なのだから。

だがあの村落隊員は来ない公算が大きかった。まあ、来たら来たでなんとかなるだろう。かろうじて夜は宿舎で見る事もあるのだが、昼間はどこにいるのやら。教育会にも参加はしたが、なにしろ横柄な態度を変えなかったらしい。ロザリ−の事は無視しているようで、時々嫌な視線を送ってくるとか。とにかくム−ドが悪く、プロジェ隊員以外の教育隊員がすっかり腹を立て、ハンスは少しばかり抗議を受ける羽目になった。管理不行き届きではないのかと。「そうは言われても職場じゃないしなぁ。」とハンスは苦笑いしていた。

プロジェ組は、他の隊員より少し早く事務所に出かけていった。ハンスが所長の許可をもらって、パ−ティが始まる前に話し合いの席を設けてもらう算段になったのである。確かにアルコ−ルなどが入ってからでは真面目な話として扱ってもらえないかもしれない。プロジェのコ−ディネ−タ−であるハンスと、医療チ−ムのリ−ダ−であるオスカルと、風車のヴィクは念入りに話し合った。この3人で直訴する事になりそうだったから。もちろん、全員が内容を承知してはいたが。そう、村落以外は。

「一応、村落にもこの事は伝えたよ。だがどうでもいいみたいだったね。」と、ハンスがため息まじりに言う。「嫌な役目をさせてすまない、ハンス。とにかく、あいつが妙な行動をとるのをやめてくれりゃいいんだ。」と、オスカルは彼への反感を隠そうとしない。ロザリ−は相変わらずオスカルにべったりである。「所長さんはともかく...あの調整員がどうでるでしょうかねぇ?」と、ヴィクが少し心配そうな顔になる。「かまうもんですか!こっちはこれだけの人数揃えて、しかも「御願い」にあがるのよ?あいつにしてみたら、かなり気持ちがいいんじゃないかしら?」と、ゲルトル−トが言い切る。

緊張の面持ちで事務所を訪れるプロジェ隊員の集団に、現地職員も何事かと注目する。2人の調整員が、「よく来たね。所長もお待ちだよ。」と彼らを迎えた。ハンスは2人にも根回し済みだった。なぜだか、例の医療プロジェ担当のほうもハンスの言葉に反駁しなかったらしい。オスカルやヴィクにとってはかえって不安だったが。「なんかたくらんでんじゃないのか?まあ、だからって、こっちの決心も変わらんが。」とアランが言い捨てる。そう、彼らは決心してこの会合に望もうとしていた。

奥の事務所長宿舎に入る。全員初めてだった。さすがになかなか豪華な雰囲気である。隊員の家は広いがあっさりしているので、よけいそう感じられた。奥の一室が所長の執務室にもなっていて、そこに通される。かなり広かった。人のよさそうな所長は、笑顔で全員を迎えてくれた。それに勇気付けられる隊員たち。「本日は御願いがあって参りました。」と、ハンスが落ち着いた声で宣言する。所長と2人の調整員を前にして、彼らは全員「直訴」のポ−ズをとった。そう、それもまた、ルナのワンシ−ンからであった。

王宮などで、位の高い王族、または王その人に請願する時、その姿勢はとられた。女性はみな両膝をついて少し顔を下げ、両手を胸の前に軽く組む。男性は同じく体をかがめ、片膝を立てた姿勢になる。右手は軽く握って地につけ、左手は曲げて同じく握り右肩に少し触れる。その姿勢をとられたら、それはかなりの決意でもって何かを直訴しようとしているので、位の高いものも、しばし足を止めねばならない。ルナの時代は、決して絶対王政の時代ではなかった。騎士や貴族、その家族なども、王室とは「契約」によって結ばれていた。

今ではもちろん、ルナのやりかたなど無きに等しい。だがあえて彼らがこうしたのは、事務所長が博識で、なおかつ尊敬に値すると思われる人物だったからだ。隊員の決意の固さを感じてもらうには、これぐらいのパフォ−マンスも必要だろうと話し合って出した結論だった。その姿勢をプロジェ全員にすっととられて、所長も調整員もかなり驚いたようである。「あの、立ってくれないかね?みなさんが何か重要な用件でみえているのはわかってるよ。」と言う所長。3人で一歩前に出ていたハンスがまた口を開く。「いえ、このままで聞いていただきたいんです。お願いいたします。」顔をふせたまま、そう申し出る。

「わかりました。ではお話を聞かせてください。」隊員の心意気を感じたのか、所長もその気になってくれたようだ。他の2人と同じポ−ズをとっていたオスカルが顔を上げる。「私は現在、医療プロジェのリ−ダ−役を務めますオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェです。ぜひ御願いがあって参りました。私たちのプロジェにお力添えをいただきたいのです。」それに続けてヴィクが顔を上げる。「ぜひ、私ことヴィクト−ル・クレマン・ド・ジェロ−デルに風車の建設をお許しください。大げさなものは必要ありません、ただ、プロジェのシンボルとしたいのです。」

今度は全員が顔を上げ、またハンスが口を開く。「初めてのプロジェ活動に、我々は難航いたしております。彼の建設する風車は、我々の、いえ、これから先のプロジェ、ひいてはアロンガルの隊の希望になると思うのです。」続けてオスカル。「もしこの願いがかなえられないのであれば、我々全員が納得できる理由をお示し下さい!歯科医として赴任したはずのヴィクト−ルがプロジェのために走り回って準備に明け暮れているのです。今までの業務をこなしながら。それが何の正当な理由もなく却下されるならば、我々も活動を続行する気持ちを失ってしまいます。」

静かに、しかし揺るぎない意志力をこめて言い置くオスカルだけでなく、全員が「かなえられないならば、帰国も辞さない覚悟です」という思いでつながっていた。それを静かに聞き取り、感じ取っていた所長は頷いた。「私の耳にも風車の話は入っていたよ。ただやはり、今までなら思いとどまってもらったと思う。だが、FICAのほうでも、プロジェ活動に注目しだしているようでね。そのうち本国から取材などが訪れるようになるかもしれないそうだ。」「別に見栄えがいいからというのではないよ。だが、「隊のシンボル」としての風車のアイデアはいいと思う。他の隊員との兼ね合いもあるから、あまり特別扱いはできないけど、できるところまでやってみてはくれないか?こちらから御願いするよ。」

全員の顔が明るくなった。特にヴィクは感激して、涙ぐむ寸前だった。全員立ち上がり、わっと所長を取り囲む。「ありがとうございます!」と言って握手を求めるハンス。まさかこんなに話がスム−ズにいくとは思っていなかったのだ。そう、すでに所長は彼らの申し出の内容を予想できていた。しかし、彼らの決意のほどをぜひ聞かせてほしかったのである。それが中途半端なものでしかなければ、かえって隊の面汚しにしかならないのだから。事務所が表立って動かなくても、彼らにならやれる。所長はそう確信したのだ。

それから間もなく、パ−ティ会場(所長自宅の居間)に隊員が集まり始めた。そこにどやどやとなぜか興奮気味のプロジェチ−ムが現れたので、居合わせた隊員はすっかり驚いてしまった。「なんだなんだ?何かあったのか?」とホテル組の先輩たちから話しかけられるプロジェ組。しかし、彼らはだまってにこにこするばかりだった。だがすでに先輩たちも、プロジェ隊員がいくつかの難題をかかえ、特にティナでは沈滞ム−ドに陥っていると噂に聞いてはいた。自分たちの活動状況とも重ね合わせ、彼らもまたプロジェが気になっていた。一様に明るい顔をしているプロジェ組は確かにもう、アロンガル国の隊の希望になりつつあったのだ。

ほどなく隊員のほとんどが集まり、所長の乾杯の音頭でパ−ティ−は始まった。なんとまあ、ちゃっかり村落の隊員もいるではないか。立食形式だったが、内容は多岐にわたり、かなり豪華で手がこんだものも多かった。隊員はみな、所長から「愛されている、大事にされている」と感じる事ができて、それがまたうれしいのである。年配の所長の息子や娘の世代隊員も多かった。それほど普段は接触しているわけではなかったが、なんとなく彼はアロンガル隊員のお父さんになっていたのだ。

「なるほどね〜。プロジェが注目浴びそうになったから、あの調整員も軟化したわけね。」そうオスカルに耳打ちするゲルトル−ト。「みたいだな。いいタイミングだったよ。」そう答えるオスカル。「まあでも、うれしそうじゃない?ヴィクもモ−リッツも。」そう、少し離れたところで2人が談笑している。今まであまり2人のこのようなシ−ンを見たことがなかった隊員たちは、何事かと彼らに注目していた。プロジェの隊員さえ。「あはは。モ−リッツにフリデリ−ケがひっついてるからか、イザ−クの顔がなんだか険しくないか?」

「オスカル、手紙が来てるよ。」そう声をかけられて振り向くと、ハンスがいた。「すまないな。ついいつものクセで、メ−ルボックスをチェックしてしまったんだ。ティナの分だけだと思ったら、君の分までとってたみたいだよ。」そう言って笑うハンスには相変わらず屈託がない。だがしかし、彼にも悩みがないわけでもないだろうに、常に明るく振舞える彼は魅力的だった。そして、なんとなくアンドレも彼のそんなところに惹かれているのではないかと思えた。それだけではないだろうけど...アンドレはあまり自分からいくタイプではない。

愛想は悪いのだけど、彼もまた魅力的だった。今ではプロジェのメンバ−から好かれ、信用されている。自分の尊敬する父親が彼を同じように好きでとても信用している事もあって、オスカルは彼のことが好きだった。だがその一方で、子どもの頃には愛する父親の気持ちをつかんでいるアンドレに嫉妬心を感じてもいた。体が弱かった母親は静養のため、首都のジャルジェ家から遠く離れた南の保養地に暮らし、同じように体が弱かった姉も母親が亡くなるまでずっといっしょだった。オスカルも母親に伴われて行ったのだが、結局父親が大好きだったのでジャルジェ家に戻り、アンドレが引き取られるまで父親の愛情を独り占めにしていたのである。

だが、愛する父親の関心をひきながら、彼はそ知らぬ風さえ装っていて、あまりジェルジェ家に対して深入りしたくなさそうだったのだ。後年、アンドレが「ジャルジェ家の執事になりたい。」と言い出したことで初めてオスカルは彼が、ジャルジェ家を、そして自分をも受け入れてくれたんだなぁとうれしく感じたものである。ただ、あの夜からアンドレは自分に対して一線を引くようになってしまっていた。彼が「約束」と呼ぶ彼の言葉を結局2人とも守ってはいるんだけど、そのくせアンドレが自分を避けているようにも感じられて、オスカルはとまどっていた。彼女としては、アンドレからそのような態度をとられる事が不満で、絶対自分から譲歩したくなかった。

「ありがとう。カオラからだと、郵便物目当てに上京するわけにもいかないからね。」任地では、FICAの事務所気付で郵便物を出してもらうのが最も確実だった。どちらにしろ、任国内の郵便事情は遅れており、家々に郵便物が届けられるわけではない。局留めになるのであれば、事務所に保管しておいてもらうのが安全なのである。だがそうなると、カオラのような遠い任地ではなかなか上京できないので、ハンスやヴィクのように首都に上がる事の多い隊員が、他の隊員の分までまとめて郵便物を持ち帰るのであった。そのため、今は総会で全員が上京しているのにもかかわらずハンスはついオスカルの分まで持ってきてしまったわけだ。

手紙を受け取って、だれからのものか確認して驚いた。いや、差出人の名前に驚いたわけではなく、差出人の住所に驚いたのである。思わずアランたち土木組と飲んでいるアンドレのもとに向かうオスカル。「どうしたのよ?」とゲルトル−トが後を追う。「アンドレ、姉貴から手紙が来たぞ。」なにかいつもと違う様子のオスカルにけげんそうな表情で答えるアンドレ。「は?レオポルディ−ヌ様からか?何かあったのか?」「これ見てくれよ。」そう言って差し出された封筒には、レオポルディ−ヌの署名と、住所が記されていた。「え?ジャルジェ家からなのか?」「そうなんだよ。だけど、家で何か変わった事があるなら、手紙じゃなくて電話してくるだろう?」ロザリ−はもちろんオスカルのそばにいた。例の村落がいることだし。そうは言ってもあまり目立つほどベタベタしていなかったのは、あくまでオスカルを巻き込みたくなかったからである。

「レオポルディ−ヌって、オスカル様のお姉さんでしたよね?旦那様のお仕事の関係で外国暮らしなさってるっていう。」ロザリ−の言葉に周囲のものも成り行きがわかってきた。「そうなんだよ。たまたま帰国して出したのかなぁ?でも、前便の手紙では全然そんなこと言ってなかったんだけど。」だがオスカルには、多分アンドレにも、心当たりがあったのだ。アランがどこからかハサミを探し出してきて、オスカルに渡す。「ぜひご披露していただきたいね。名門の連中のやりとりがどんなものなのか、庶民の俺にも興味があるんでね。」ちょっと酔いがまわって、嫌味交じりに言ってはいたが、手紙に対する好奇心を照れ隠しでそう言っているのがわかった。周囲のプロジェの連中もみな、アランと同じような気持ちになっていた。

さっと手紙を取り出すオスカルの横にアンドレも立って、一緒に手紙に目を通した。「やっぱり...姉貴が戻ってきたんだよ、ジェルジェ家に。」そう言ってお互いに見つめあう2人。「なんだぁ?離婚でもしたのか?」と言うアランに、「違うよ!姉貴の旦那が本社に戻ってきたんだよ。それで家族でジャルジェ家に戻ってきたんだ。」と答えるオスカル。するとヴィクが「あ、もしかして、お姉さんの夫である方が後継者になるんですか?」と問いかける。「そうなると思う。ずっと迷っていたみたいだけど、承諾したんだろうね、兄さんは。」

「なんだよぉ。おまえさんばかり納得しやがってるけど、こっちにはわけがわからんぞ。だからハイソな奴らは...」と、不服そうな顔をするアラン。確かにヴィクは1人だけジャルジェ家についてより把握しているように見える。「姉については研修の時言っただろう?姉夫婦が帰国したのは本社へ兄さんが呼び戻されたんだ。彼は次期社長候補なんだよ。そうなればジャルジェ家の跡継ぎになったも同然だからね。」「あのさぁ、本社って?」とハンスが聞く。「ジャルジェ家が筆頭株主になってる会社だよ。今の社長はジャルジェ家の者じゃないけど長い間貢献してくれた素晴らしい人でね。姉もそこで働いていたんだけど、兄さんと結婚してからはいくつかある海外の支店への転勤についていってたんだ。」

思わず周囲から驚きの声が上がる。オスカルの説明にちょっと歯切れの悪いところがあるのは、特別視されたくない意識が働いているからだった。しかし、隊員同士の交流、特にプロジェでの活動が彼女に事情を明らかにしても大丈夫だろうという安心感をもたらしていた。もともと回りくどい言い方を好まない性格だったが、彼女も彼女なりに神経を使っているのである。「やっぱり世界が違うぜ!おまえらって、ほんとに名門の人間なんだなあ。じゃあヴィクの家も会社経営してるのか?」もはや好奇心を隠さずに突っ込んでくるアランであった。

「ええまぁ...」と、うつむくように答えるヴィク。「あんたもじゃあ、跡継ぎなんじゃないの?その会社の社長にならなくっていいの?」とマリ−がずけずけ言う。「そうですね...私は長男なんですから。でも、この通り体が丈夫じゃなかったんで、会社のほうは弟がかかわっていく事になってるんですよ。ジェロ−デル家の跡継ぎは弟なんです。」周囲のものは、次々明かされていく両家の事情にすっかり聞き入ってしまった。「ふうん...じゃああんたたち2人ともいずれ独立するわけか。で、隊長はあれか?「第一候補」のアンドレと結婚するのかよ。」

ぎょっとする2人...いや3人を尻目に、この話を知らない先輩隊員が歓声を上げる。「おまえ、余計な事ばっかり覚えてやがって...」と顔を赤らめたオスカルがアランを睨みつける。「何よ何よ?あ、同期は知ってるってわけ?第一候補って...」とゲルトル−トが割って入る。「アンドレはオスカル様のお父様のお気に入りで、昔から第一候補だったそうですよ、ご結婚の。」と、ロザリ−が不自然なくらい冷静な口調で答えた。なんだなんだと聞きつけてきたプロジェ以外の隊員まで集まって、てんで勝手にわいわい騒ぎ出している。

「うるっせえなあ。それがどうしたんだよ。おれみたいな孤児でも旦那様がOKだっていうなら、だれだって申し込めばいいじゃないか。」と、ひどく不機嫌なアンドレの一喝が入ると、場は一瞬で静かになった。しかしアランはひるまずに言い募る。「バッカヤロ−、だれだっていいわけないだろうが!?余裕かましやがって。」にらみ合う2人。アランもまたアイス・ロ−ズを好きだとみな薄々わかっていた事だったが、彼は意地を張ってそれを認めようとしてこなかった。「おいヴィク!おまえも黙ってないでなんとか言ったらどうだ?」

それまで黙って成り行きを見守っていたヴィクだったが、アランからご指名がかかってしまい、重い口を開いた。「いえ...アンドレの言う通りですよ。アイス・ロ−ズは地位とか財産とかで結婚相手を選ぶかたではないでしょう?我こそはというかたは立候補なさればいいではありませんか?」「それはおまえらだから言えるんだよ!!」アランの絶叫が広いリビングに響き渡る。そこに居合わせた全員が何事かと息をのんだ。「ちょっと待ってくれよ!」やっとアイス・ロ−ズが当惑顔で前に出た。「なぜ私が独立するからって結婚しなけりゃならんのだ?私は男嫌いだって言っただろう?」

大真面目にそう言ったのはいいが、その件についても知ってるのはほぼ同期のみだったわけで、この爆弾発言に同期以外の全員が面食らった。しかもこの直後、騒ぎの最中にロザリ−が貧血を起こして倒れてしまい、所長宅のゲストル−ムでオスカルから介抱されることになった。プロジェの医療チ−ムもそちらに移ったためアランは質問の集中砲火を浴びそうになり、怒って宿舎に帰ってしまった。結局マリ−とハンスが適当にお茶を濁す羽目になって、後でオスカルはこってりマリ−にしぼられた。「あんたねぇ、自分がどれだけ注目浴びやすいか自覚が足りないのよ!!」

翌日から総会は後半戦である。医療会と農業会が開かれるという恒例の日程だった。しかし今回は前回とは違って、プロジェでの風車建設が認められ、ややお祝いム−ドさえただよっていた。もちろんヴィクの幸せそうな表情は周囲のもの全員に感染した。あんなに肩身の狭い思いをして、身の置き所もないという様子だったのに、努力は認められるものだと証明してみせたわけだから。しかも、彼はそれがプロジェのメンバ−全員の、いや隊員全員の尽力の賜物だと理解しており、それですっかり株を上げていた。

相変わらず先輩たちはホテルだったが、カタリ−ナの隊次以降は宿舎泊まりだった。それでほとんどはプロジェのメンバ−ばかりだったのだが、イザ−クの隊次の農業隊員が2人混ざっていた。そのうちの1人はアロンガル全隊員の中で最年少だった。ルルというその男の子はまだやっと21になったばかりで、クルクルの巻き毛がかわいいベビ−フェイスだった。初めての総会ですっかりみんなのアイドルと化していたが、素朴な彼は、医療隊員のお姉さまがたにもててもてて、疲れて夕ご飯も食べずに寝込んでしまった。

上の寝室で目を覚ました彼が、階段を降りて居間に行こうとしていた。階段からは真っ先に台所の中が目に入ってくる。人数のわりには狭い台所だったが、煮炊き用のボンベはこの国では持ち運びができるタイプでもあったので、台所の外でも調理は行われていた。どうやら夕食も一段落ついて、後片付けまで済んでいるようだ。ルルはお腹はすいていなかったが、ちょっとのどが渇いたなと感じていた。それで台所に目をやると、金髪の女性と黒髪の男性が話しながら何かしている。どうも食後の果物の用意をしているようだった。

その2人が何かと話題になるアイス・ロ−ズとその幼馴染だというのはすぐわかった。ルルも彼らが気になっている。ルルの任地は全く別の場所で、前回の総会で楽器を演奏していた彼らの印象が強かったのだが、今回の騒動ですっかり興味がわいてしまった。彼も若い1人の隊員なわけである。ふと立ち止まって、彼ら2人の話に耳をかたむける。「おまえさぁ、もう少し太ったほうがいいんじゃないか?夏バテしてそのままだろ?」とアンドレが言っている。「それはおまえだろう?なんだかガレちゃって、このままで帰国したら、一体どんな苦労をしょわされてたのかって思われるぞ。」とアイス・ロ−ズ。

「いいんだよ。男は大体ガレるんだからな。女でそうなるのは数えるぐらいしかいないじゃないか。これじゃ旦那様に怒られそうだ。」オレンジの皮をむきながら、アンドレが笑っている。やはりこの2人は幼馴染なんだと感じられた。ややナ−バスなム−ドのある彼が、とても穏やかな表情でいるではないか。横で別の果物の皮をむいているアイス・ロ−ズが「だけど、私をおぶって移動する羽目になったりしたじゃないか。重くなくてラッキ−だっただろう?」と言って笑うと、びっくりするぐらい綺麗だった。さすがに噂になるだけある。「別に。もうちょっと抱き心地がいいほうがいいね。」

思わず階段を踏み外しそうになるルル。2人に気づかれ視線が注がれてしまい、ますます頭がクラクラしてきた。そのまま台所の前を素通りして続きの居間にへたり込む。そこにはハンスとマリ−がいた。ロザリ−がまだ本調子ではなく、マリ−は一緒に居残っていた。「あら?あんたどうしたんよ?」と声をかけられると、思わず「いえ、なんだか聞いてはいけない事を聞いちゃったかなって...」と正直に申告するところがあどけない。「はは、あれか?あの2人は幼馴染なんで、あんな会話も平気でするんだよ。おまえ、気になるならもっと聞かせてもらったらどうだ?」とハンスがからかうように言う。

そう言われて後をつい振り返るルル。その様子の素直さとかわいらしさについつい笑い出してしまうマリ−とハンスだった。ルルはもう1度2人に振り返って、人差し指を立てて「シ−ッ」という合図をする。そろりそろりと台所に向かうルルに、2人とも悶絶せんばかりにウケてしまった。「わ、若いって、ある意味強いよな。」とマリ−にささやくハンス。「なんかでも、話し声がイマイチ聞こえてこないんだけど。青少年の目に毒な事やらかしてないでしょうね?」とクッションにしがみついて笑いをこらえるマリ−。

そ〜っと壁沿いに目をやると、アンドレがスマイルカットにしたオレンジの1つをとって、皮にナイフを入れていた。それを半分だけかじったかと思うと、残りの半分をアイス・ロ−ズにほらと言って彼女の口元に寄せていく。(え?)と思う間もなく、アイス・ロ−ズは口を開けてオレンジを食べさせてもらっていた。こうする事は、この2人の医療隊員にとって、そう珍しい事ではなかった。仕事上でも食事の介助は当たり前だったし、カタリ−ナがオスカルを看病してからというもの、よくこんな風にしていたのである。「甘いだろう?当たりだったな。」そう言って微笑むアンドレだったが、ルルにしてみれば...

クルっと振り返ったルルは、「ぼく子どもなんで、もう寝ます。」と言って、さっき降りてきたばかりの階段を上っていってしまった。ハンスもマリ−ももうこれ以上はこらえきれなかった。居間で大爆笑する2人と、なんだかガックリして階段を上がっていくルルの後姿にけげんそうな顔をする2人。階段は地下の図書室にも通じていて、姿こそ見えなかったが実はヴィクがすわって読書中だったのだが。

「それにしても、今晩は静かね。」と、マリ−がオレンジを頬張りながら言う。「私たちの隊次以外のプロジェ組はみんなモ−リッツの家に行ってんだろ?」とオスカル。居間とはいっても、床に直接通気性のよいシ−トをひいてあるというような簡単さであった。総会時の収容人数などもあって、ロクに家具も入れられない。ただし、とにかく暑いので、ご大層な家具はただ暑苦しいだけだったが。「最初はフリデリ−ケが泊まりたいって言い出したんでしょ?で、シスコン兄貴が心配だとかいって騒いでるうちに、カタリ−ナやゲルトル−トまで巻き込んじゃって。まあでも、宿舎を広く使えるからいいんだけど。」

「え?イザ−クはまだ残ってるのか?」とアンドレが意外そうな顔をした。「知らなかったのか?多分明日戻ってきて、それから帰ると思うよ。ロザリ−の調子もまあまあなら、マリ−と3人でティナに戻ることになってる。」すると、今度はオスカルが驚いた顔になった。「え?コンジェぎりぎりまでこっちにいればいいのに。」そう、村落はもうティナに戻ったらしかったから。「うん。私もそう思ったけど、帰りたいっていうんだ。」「そうか...」なんとなく、パ−ティからこっち、ロザリ−はオスカルを避けていた。

低くて丸いテ−ブルを囲み、4人は「今頃モ−リッツ邸はどんな事になっているか」について談笑した。しかし、実はお互いに聞いてみたい事があったのだが、どうもそれを持ち出すタイミングをつかめないでいた。だが、4人だけでこんな風に話せるというのも、意外と滅多にあることではなかった。「そういえば最初の頃、なんでだかあんたと張り合ってたわよね...」と、マリ−がオスカルを見つめてしみじみと言った。「なんだ?珍しいね、王妃様がそんな事言うなんて。」と見つめられて少し照れた顔のオスカルが返す。

「そう言えばそうだな。いきなり遠慮なしに言い合い始めるから、以前からの知り合いじゃないかって思ってた候補生もいたみたいだぞ。」とアンドレ。「実は私もそう思ってた。」と笑うハンス。「以前からの知り合いはあんたとアンドレでしょ。1度しっかり聞いてみたかったんだけど、ほんとのとこ、お互いをどう思ってるわけ?」「あ、そう言うんならこっちも聞きたい事あるんだけどな。」「何よ?」「同じこと。」そう、オスカルたちはマリ−とハンスのことを聞きたかったのである。

「な、何よ急に!?同じことってどういう意味よ?」「わかってるくせに。なんか仲いいじゃん、2人とも。」「違うわよ!大体ねぇ、ティナみたいにごちゃごちゃ問題が続く任地にいたらさぁ、それどころじゃないわよ!!」「ふ〜ん。」ハンスのほうは、自分の事を言われているくせに、いつものようにオスカルとマリ−のやりとりを面白がって見ている。それはアンドレも同じような感じだった。「じゃあ、私も違うよ。研修の時に言った通りだから。」「あっそう!」ハンスとアンドレは、2人目くばせして笑っている。

翌日、戻ってきたイザ−クをアンドレはつかまえた。「ちょっと……頼みごとがあるんだけど。」「なんだい?ぼくでいいのかな?」「ああ。この詩にね、曲をつけてほしいんだよ。」そう言って、アンドレは詩集をイザ−クに見せる。「これは……ああ、JB、ジェイムズ・バ−トルだね。どうしてまた?」「クリスマスのプレゼントにしたいんだよ。」あまり鋭いとは言えないイザ−クだったが、さすがにピンとくるものがあった。「了解。じゃあ、クリスマスまでに仕上げてみせるよ。」「お礼はどうすればいい?プロに頼むんだから。」「いいよそんなの。いつも妹に優しくしてくれてるだろう?聞いてるよ。」

「あ〜なんかひさしぶりねぇ。全員が揃うのって。」伸びをしながらゲルトル−トが言う。「そうだね。でもまたすぐフリデリ−ケを研修に出すけどさ。」オスカルがフリデリ−ケに目をやりながら言うと、彼女は「きっと研修が終わって戻ってくる頃には顕微鏡来てますよね?」とうれしそうだ。「きっとね。それに、その頃にはもしかしたら、他にも来てほしい存在が来てるかもよ?」とカタリ−ナが珍しくウインクしながら言った。思わず笑ってしまうゲルトル−トとアイス・ロ−ズ。しかしフリデリ−ケは「はぁ?」という顔をしている。

「なあアンドレ。カリンからの手紙をヴィクが持ってきてくれたんだけど、あいつ1月の中旬くらいに任国外でアロンガルに来るみたいだぞ。」「そうか。そう言えばもう任国外の時期か。」任国外とは任国外研修(旅行)の事だった。任期が1年を過ぎると、自分の任国以外の国に旅行に出られるのである。そうは言っても、どこでもいいわけではなく、国によって任国外の行き先も決まってはいた。大体4〜5カ国は認められていて、約3週間ほどの日程である。カリンはこの3週間のうちの2週間をアロンガルで過ごそうかと言ってきていた。

「おう、なつかしいな。て、俺たちも任国外に行っていいのか。」とアラン。「私たちの前に先輩たちに行ってもらわないとね。まだカタリ−ナとゲルトル−トは行ってないだろう?土木はもう終わってるか。」2人は年が明けてから出発する予定だった。「丁度入れ替わりかしら?そのオスカルの同期のカリンさんとは。仲がよかったの?」「うん。アロンガルの同期以外では一番仲良くなったんだ。研修所でアイス・ロ−ズの呼び名を広めたのもカリンでね。最初に言い出したのはヴィクなんだけど。」

「へ?そうだったのかよ??」とアランが驚いている。「そうですよ。食当でご一緒させていただいた時、つい口がすべってしまって。」と、パソコンに向かって静かに書類作成にいそしんでいたヴィクが説明した。「あ〜そうかい。ハイソなおまえらだけの事情が一杯で、俺は蚊帳の外かよ。」と、アランがふてくされている。「いやねぇ。自分から白旗揚げてどうすんのよ!」とゲルトル−トがはっぱをかけるように言う。今ではオスカルたちの研修中にどんな出来事があったのか、自前の好奇心で大よそを把握している彼女だった。だが、決して彼らをむやみにあおったりしないのも、彼女らしい配慮だった。

姉さんはそうは言うがなぁ……あの手紙騒動と総会以降、明らかに隊長とアンドレ、仲がいいじゃないかよ。今だってわざわざカリンの事、アンドレに名指しで話しかけてやがるし。俺もヴィクも関係無しってか?まあ、帰国したら本当に結婚するのかもしれんな。隊長は研修であんな風に言ってはいたけど、実際はもう、跡継ぎ問題が片付けば2人が結婚するって段取りになっていたのかもしれん。名門のお嬢さんが、いつまでも1人でいるわけにはいかんのだろう。隊長のおやじさんにしてみれば、娘を信頼してる男と結婚させるのが一番なんだろうし。

上流の家だからな、当人同士の意思より家の事情が優先したって不思議じゃない……のかね。別にあの2人が嫌がってるとは思えんが、なんとなくまだひっかってやがる。ヴィクはどう考えてやがんのかな?まあ、今は風車に夢中って感じだが、もともと風車を思いついたのは隊長を元気付けたかったからだろうが?隊長とヴィクもなぁ、あの2人はあの2人で悪くはないム−ドでもあるんだが、いかんせん隊長のほうがヴィクに気安すぎる気がする。ヴィクもそれでうれしそうだし。仕方ないか、アイス・ロ−ズの追っかけなんだからな、奴は。

12月に入った。もちろんちっとも寒くはない。「やっぱり寒くもないクリスマス月って不思議よね。で、結局診療所はこっちに建設するわけ?」ゲルトル−トは同期の土木3人組と、本決まりになった建設現場で話をしていた。陽に焼けた顔のジャンとピエ−ルとフランソワは、またまた彼女に質問をぶつけたがっている。「うん。こっちの方が広いし……なんてっても「風の谷」に近いからさ。」「で?またなんか聞きたい事があるの?わざわざ呼び出してくれちゃって。」「バッカだな〜絶対そう思われるってゆったじゃないかよ。」とフランソワがピエ−ルをどつく。「あんたらの事はもう大体お見通しだわよ。」

「で?またアイス・ロ−ズの話?」「いやその……カタリ−ナなんだけど……」ゲルトル−トは驚いた顔をした。今まで同期のこの物静かで控えめな女性のことを、3人は話題にしてこなかった。それが何ゆえ……「カタリ−ナってさ、イザ−クの事、どう思ってんのかな?って。」「う〜ん。私にもよくわからないわよ。なんせシスコンと内気なお嬢の組合せだからねぇ。」2人は物静かに語り合っているようだったが、浮世離れした2人だけに、ある意味誰にも入れない世界を生み出していた。「へ〜で、誰よ?カタリ−ナを好きなのは。」

そう言われて、フランソワとジャンが顔を見合わせる。「あら珍しい。ピエ−ルは違うわけ?いっつも同じ女性に揃って関心持つのにさ。」そう言われても顔を少し赤らめるだけのピエ−ル。「じゃあもう、アイス・ロ−ズはいいのね?」「そういうわけじゃないんだよ。だって、アランが……」ふぅっとため息をつくゲルトル−ト。「あんたたちってさぁ、どうして自分でアイス・ロ−ズにモ−ションかけようとかしないわけぇ?カタリ−ナなんか同期なのに、今頃になってさぁ。」すると、3人は何か恐ろしい事でも言われたかのように首を振る。「隊長に??アランだってためらってるのに、なんでおれたちごときがそんな事……」「あっきれた。そこまであのお嬢を持ち上げてるわけ?そんなんだからオスカルも1人に絞れないのかしらね。アンドレももう少しはっきり態度に出せばいいのに。」

「そうなんだよ。なんでアンドレってああなんだろうなぁ?彼があんなだから、アランもヴィクもあきらめきれないんだと思うんだけど。」「でも最近はちょっと仲いいよな。それで班長はちょっと落ち込んでる。でも……」「でも?」とゲルトル−ト。「なんかさぁ、班長見てると、アンドレの事も気になってるみたいなんだ。」「ええ−−−??アンドレって女嫌いらしいけど、積極的に男好きなの?」この手の話題もそう嫌いではない彼女は喜んでいるらしい。「ち、違うって……でも、そういうゲルトル−トも好きだよ。」と言うピエ−ル。彼女から見えないように、背中をつつきあうジャンとフランソワ。

「なあんだぁ。でも、アイス・ロ−ズとアンドレってそういう事なんでしょ?総会で思いっきり宣言してたし。」「まあねぇ、アンドレは記憶がなかったり、隊長はお嬢育ちだからさ、少々おれたちの理解にあまっても不思議ないんだけど、なんでこんなに気になってしまうのか、おれたち自身がわからないんだ。班長だってきっとそうだよ。あの隊次と最初に出逢ったときからなんか、この妙な感じが続いてて。」「ティナ組もさ……気にはなるんだけど、なんだかおれたちが入り込んではいけない気がするんだ。でも一番それを感じるのはやっぱり隊長とアンドレの事でさ、なんていうんだろ、はっきり態度で示すか口に出すかしてほしいんだよ!」「そうそう!そうしてもらえないと、なんか収まらないっていうか。別に関係なかろうに、そう感じるんだよ。」

ある日の夕方の事だった。オスカルはアンドレと一緒にジョゼの村に行った。「もう……あれから半年経つんだな。」と言うアンドレ。そう、今日はジジの命日だった。お墓といっても個人で建つわけではなく、一族全体で同じ場所に埋葬されるというシステムだった。オスカルはまだジジの死が信じられないところがあった。どうして愛する者が自分を置いて先に逝ってしまうんだろう。彼女はジジを、そして10年ほども前に死んでしまった紫色の瞳の少女の事を思い出していた。しかし、涙は出てこない。

地平線に、大きくて赤い太陽が沈もうとしていた。何もない地平線など、母国では有り得ない光景だった。このように大きく赤い太陽も。その見事さに、思わず息をのむ2人。どこまでも続く砂の大地に、ジョゼの一族が眠る墓地。この世に2人だけになったような気さえした。にわかに不安げな表情になるオスカルに、アンドレが心配して聞く。「おまえ、顔色が悪いぞ……大丈夫か?」「なんでもないよ。」と言って目をそらすが、とてもそうとは思えない。それを見てとったアンドレは、思わずオスカルの腕をとって、彼女の顔を自分に向ける。

「おまえ……もしかして、エレ−ンの事を……?」オスカルの顔が驚愕の表情に一変する。すぐ声にできない。「な、何でその名を……?」「覚えていないのか……?温室で真っ先に口にしてたじゃないか。」寒くもないのに、体の震えを止める事ができない。「オスカル……あの夜の事を覚えてないのか?おれは……」そう言うと、アンドレはオスカルを抱き寄せた。「おれもあの日、愛する人間を失ったんだよ。同じ……あの現場で。」しかし、それが聞こえているのかいないのか、オスカルは抱かれたままで反応がない。

あまりの手ごたえのなさに、アンドレがどうしたものかと思案していると、突然オスカルは泣き出した。ジジを失った時と同じ泣き方で。「オスカル、やめてくれ。その泣き方をしないでくれ。」そう言って、ますますきつくオスカルを抱きしめる。だがそれに反するようにオスカルは激しく泣いていた。あの夜と同じ泣き方で、泣き声で……(おれでは……おれでは駄目なのか?10年経っても……)泣き声を聞きたくない、それで思わず口付けするアンドレも、10年前と同じであったのだが。(キ−ス、おれは間違っているのか……?)

最初は軽い口付けだったが、アンドレは思わずキ−スが教えてくれた通りの、やはり10年前にそうしたような深いキスをしてしまっていた。それまで拒まなかったオスカルが、思わず苦しげに顔を背ける。傍目から見れば、彼女が彼を拒もうとしてるとは見えないだろう。ただ熱烈なキスに息ができなくなったと。実際顔を背けただけで、彼女はまだ彼の腕の中にいたし、彼女の視線は彼に向けられていた。

だが……

アンドレは全てを察してしまった。
その彼女の視線で、全てを。
10年たっても、何も変わっていないという事を。
自分では駄目だという事を……

次の瞬間、オスカルの口からもれた言葉が、それを徹底的にアンドレに思い知らせる。
「エレ−ン……」

「アンドレ、電話が入ってるわよ、イザ−クから。」カタリ−ナがそう伝えにくる。最近になって、診療所にもFICA事務所とのやりとりのために電話が入った。プロジェでもあり、風車の件もあって、やりとりがこれからますます頻繁になるだろう。隊員間では基本的に私用電話は禁止だが、受ける分には認められていた。「ありがとう。」そう言って受話器を受け取るアンドレ。「あ、アンドレかい?例の依頼の件、もう出来上がってるよ?クリスマス前に1度聴いてもらったほうが良くないかな?と思って。」「その必要はないぞ。直接そっちに行くから。」「いつだい?」「イブの夜に。」

なんとなく、2人の様子がおかしい。カタリ−ナはそう感じていた。表面的には何も変わっていないようにも見えていたが、ちょっと前まで仲がよかった2人に接していただけに、彼女は異変を感じ取っていた。しかし、それに気づいているというそぶりは見せなかった。センシティブな面を持つ彼女は、できるだけ2人をそっとしておきたかった。ほんの少しのすれ違いが、思わぬ悲劇を生む事がある。2人の関係にもどこかあやうい要素がただよっていて、できる事ならば何事も起こりませんようにと祈る彼女がいた。

「なぁマリ−。アンドレがイブにこっちに来る事になったんだけど。」「はぁ?それほんと?じゃあオスカルは?」「ううん。1人だけみたいだよ。」「え−−、信じられない!何しにくんのよあの男は!?」「ちょっとね、渡すものはあるんだけど……でも、イブの前にって言ったんだよ。そしたらイブ当日がいいって。」「なんか納得いかないわね……忙しいのかしら?あ、それとも……」「なんだい?」「アイス・ロ−ズの誕生日ってね、クリスマス当日、12月25日なんよ。」「そうなんだ。なるほどね。」

「おかえり〜ゲルトル−ト……って、どうしたんだよそれ?」村廻りから戻ってきた彼女は、生きたままの鶏を持って帰ってきていた。「もらっちゃったのよ、△△村の村長から。いつもお世話になってるからって……」この国では鶏は肉類で最も高価である。どれだけゲルトル−トに感謝してるのか、よくわかる話であった。「もらったのはいいけど、絞め方もわかんないし。私、野外でも鶏にはノ−タッチだったからさぁ。」「アンドレならわかるんじゃないか?あいつ確か鶏の係りだったし。」「そうなの?じゃあ後で頼んでみるわね。」

「というわけで、鶏もらっちゃってさ。あんた絞め方分かってるんだって?アイス・ロ−ズがそう言ってたんだけど。」「ああ、わかってるけど……今日じゃなきゃ駄目か?」「別に今日じゃなくていいけど。あんたなんか用事あんの?」「ああ。今からティナに行ってくるんだ。」「あんた1人で?」「そうだが?」「ふ〜ん。じゃあ、イブはティナで過ごすのね?」「ああ。」「いつ戻ってくるの?」「明日には戻るよ。コンジェは取ってないしな。」この事実をアイス・ロ−ズは知ってるんだろうか?だがアンドレには確かめにくいム−ドがあって、さすがのゲルトル−トも何も言えなかった。

今日はもともと、よく隊員が行くいつもの店……以前オスカルが酔って寝込んだ店だったが、そこでカオラ組はイブをスタ−トさせ、その後は再びゲルトル−ト&フリデリ−ケ邸で過ごす予定になっていた。ヴィクのみが首都から戻るのに少し遅くなりそうだったので、直接ゲルトル−ト邸で落ち合うことになっている。どうやら一緒にモ−リッツも来るようで、わいわいとにぎやかにやるはずだったのだが...もし聞かなかったら、アンドレは何も言わずにティナに行くつもりだったのだろうか?(なんだかやっぱりわからないわね。この男は。)

「やぁ、よく来たね!」ティナではハンスの家が溜まり場になっていた。ゲルトル−ト邸ほど大きくはないのだが、ティナの方が人数も少なかったので丁度よかった。アンドレがハンス邸に着いた時にはもうすっかり宴もたけなわという雰囲気になっている。プロジェのメンバ−だけでなく、個人派遣でティナに赴任している隊員も集まっており、プロジェばかりの集まりとは違う様子も面白かった。しかし、アンドレはいつにも増して無口であり、ハンスやマリ−でもあまり気安く話しかけられないム−ドだった。「やっぱりヘンよ!何があったわけ?宿舎じゃあんなじゃなかったのに。」とハンスに耳打ちするマリ−。

「あれ?アンドレはまだか?」と少し遅れて店にやってきたアランが口に出す。まだヴィクがいないのは仕方ないが、アンドレはとうに診療所から帰っていってたではないか?しかも、なにやら急いでいる様子で。ちらっとオスカルのほうを伺うが、たいして気にしてる感じでもない。(やっぱり誰も知らないわけね。)「多分来ないわよ。あいつ、ティナに行くって言ってたから。」ゲルトル−トの唐突な発言に、店にいた隊員全員がびっくりさせられていた。オスカルも...である。しかし、次の瞬間、眉をひそめるような表情をしただけで、何のコメントもしなかった。

イザ−クはこのイブの夜のために、いくつかの演奏をする予定にしていた。アンドレがイザ−クを探すと彼は別室で、持ち込んできていたキ−ボ−ドをいじっていた。「こんばんは、アンドレ。忙しかったのかい?」と声をかけられる。しかし、アンドレの視線はイザ−クに向かわなかった。彼の傍らにすわっているロザリ−に釘付けになったのである。「ロ、ロザリ−?」アンドレがショックを受けるほど、ロザリ−は憔悴しているように見えた。夏バテもせず、いつもピンク色の頬をしていた彼女だったのに、今や見る影もなく頬が落ちて顔色も悪い。

「どうしたんだ?オスカルが何も言わないんで知らなかったぞ。」とアンドレが声をかけても、あまりはかばかしい反応がないように見える。ただ、オスカルの名前が出たことだけで、彼女の瞳の色が変わったような気がした。イザ−クも彼女を心配してはいるのだが、頑固になんでもないと言い張るロザリ−を見守ることぐらいしかできなかった。カオラの同期、特にアイス・ロ−ズには「心配かけたくないから」と言って口止めさせていたのである。「あの子、ああ見えて誰より頑固で思い込むとこあるからねぇ。気がすむまでやらせとくしかないかも。」と、マリ−さえお手上げ気味だった。

(なんでアンドレはよりにもよってイブの夜なんかにティナに行きやがるんだ?隊長とケンカしてるようにも見えなかったんだが...)アランは妙な事だと思いながらも、まだ2人がそこまで関係を進めているわけではないのかとわかった気もして、少しなぐさめられた気がした。どうせ早晩そうなってしまうんだろうけど、いかにもイブの夜というのはキツイ気がしてしまうのだ。店で一杯やった後、連中はぞろぞろとゲルトル−ト邸に歩いて向かった。昼間から天気はよく、あまり寒くもなかったので、今晩も星が綺麗だろう。

「よし。ちょっと弾いてみるから聴いてくれないか?」と、イザ−クが依頼されていたメロディをキ−ボ−ドにのせる。イザ−クらしい、静かな情熱を秘めた曲に仕上がっていた。「どうだい?本当はピアノで弾くのが一番なんだがね。」「...おまえ、やっぱりプロというか...さすがだな。」そう言うアンドレの顔は感嘆の色に満ちていた。こんな曲になるとは実は想像してなかったのだが、聴かされてみると、これ以外はない、理想通りともいえるものだった。「曲に合わせて歌ってみてくれないか?君の声質とかに合わせて作ってみたつもりなんだけど。」

ゲルトル−ト邸につくと、ほどなくしてヴィクとモ−リッツも顔を見せた。「メリ−クリスマス!」2人とも非常に機嫌がいいではないか。どうやら、ここにたどり着く前にどこかで一杯ひっかけてきてるらしい。あまりお酒に強くもないヴィクが飲んでいるとは、相当楽しいのだろう。総会前までは、こんなに気持ちよさそうに過ごしているヴィクの姿を見ることはなかったので、みんなもうれしい気分になっていく。どことなく頼もしいような風情まで感じさせるヴィクは、確かに成長しているのだ。頬のうっすら赤い、はにかみやなヴィクである部分も残しながら。

キ−ボ−ドの演奏にあわせて歌ってみる。イザ−クの言った通り、アンドレの声にあって非常に歌いやすかった。「君はいい声をしているね。ぼくは歌はあんまり...だからうらやましいよ。」「そりゃプロとして通用するかって自分を判断するからだろう?おまえもいい声だぞ。」その2人のやりとりを、ロザリ−はずっとだまって聞いていた。そして、アンドレが何故この歌に曲をつけてもらっているか、わかるような気がしていた。(やっぱりアンドレは特別だわ...オスカル様を愛してるのね。でも...)

「みなさぁん、ここで大事な発表があります!」と、酔いちくれてご機嫌なモ−リッツが気炎を上げる。ガッツポ−ズを何度も繰り返す姿が微笑ましい。「どうしたんだよ!?」「いいぞいいぞ、早く聞かせろ!」「はいはい、お静かに...」と言いながらヴィクの首根っこを肘でつかまえる。「実は!とうとう任地移動が認められましたっ!!」天を仰ぐように宣言するモ−リッツの言葉に、その場にいた全員が総立ちになる。「ほんとかよ?じゃあ、これからはカオラ組なんだな?」「おめでとう!やっと風車プロジェが発進するのね!」キャ−と言って、フリデリ−ケがモ−リッツに抱きついて喜んでいる。

「ロザリ−?」お手洗いの帰り、1人で庭にいる彼女を見つけるアンドレ。ハンスの家もヴィクと同じようなタイプで、平屋でちょっとした庭があった。家の中からはにぎやかな笑い声が聞こえてくる。本来なら彼女もその一員であっただろうに。アンドレはなぜロザリ−がこのような状況に陥ってるのか聞きたいと思った。彼なりに予想はついていたのだが...それにしても、放心したロザリ−の痛々しさは身につまされる。確かにこの姿をオスカルに見せたらどうなるだろうか。アンドレは、ロザリ−の気持ちを薄々知ってもいた。オスカルがロザリ−に寄せている想いにも。

「イヤッホ−!風車だ風車だ発電だあぁぁ!」と、屋根の上で転げて喜んでいるモ−リッツ。酒が入っている事もあったが、そのはしゃぎように大受けする隊員たち。「すっげぇなぁ。モ−リッツってあんな奴だったのか。」「ぷぷっ。フリデリ−ケとお似合いだわよね。」彼は土木組3人とからんでいるが、ヴィクの顔が見えない。やはりお酒が過ぎてしまったのか、屋根の上には上がらず居間で休んでいた。台所ではカタリ−ナとオスカルが使ったコップなどを洗って片付けているらしい。(そういえば、アンドレがいないんですよね。)

アンドレは、直接エレ−ンを見た事はない。しかし、TVで顔が映されているのは見た。キ−スと並べられて...見たくなかったので一瞬の事だったが、一瞬だったにもかかわらず、エレ−ンの顔はアンドレの脳裏に焼きついていた。紫色の瞳の少女。だがその時には、エレ−ンとオスカルの関係を知らなかった。ただ、キ−スと死んだ女だと。なんともいいようのない感情。疎外感とでもいうしかない。だが1年後、エレ−ンがオスカルと逢っていた少女だとわかる。あの時からキ−スだけでなく、エレ−ンもまた、大事な存在となったのだった。

開いていた扉から、オスカルが居間に入ってきた。少し冷えてきたせいか、彼女は紅茶を入れてきてくれたらしい。「どうだ?酔いは醒めたか?」心配そうな顔の、私のアイス・ロ−ズがそこにいる。ずっとモ−リッツの移動の件の最後の詰めにかかっていたヴィクは、彼女に会うのは久しぶりな気がした。やっとやっと、風車プロジェがスタ−トラインにたったのだ。ジジを失って以来、ずっと完全には立ち直れていないアイス・ロ−ズを思えばこそ、ここまでやってこられたのである。彼女は私に勇気をくれたのだ。

「ロザリ−...もしかして、村落からまだ嫌がらせされてるのか?」どうやらまだ村落はロザリ−を開放してはいないらしかった。そう言われてロザリ−は、痩せてますます大きくなった瞳でアンドレを見つめている。紫色の瞳から大粒の涙がこらえきれなくなって、落ちる。そろそろとアンドレに近づいて見上げる彼女の口からもれた言葉。「アンドレ...私、どうすればいいかわからないの...」夜目にも蒼白になった彼女は、何かに魅入られたかのように懇願する。「守って...どうか御願い...私を守って...」表情を変えないアンドレが答える。「ああ。守ってやるよ。」

アンドレがいないからだろうか、今夜のアイス・ロ−ズはあまり元気がないようにも見える。だが気を取り直すようにヴィクに微笑んで言う。「よかったな...やっと風車が始まるんだね。ずっと楽しみにしてきたよ。」今まで風車の件について、オスカルは気持ちを表明してこなかった。もちろん、なぜヴィクがそれを思い立ったのかは承知していたが、結局のところ、もし軌道に乗れなければ彼はますます傷つくだろう。そう思うとオスカルは何も言えなかった。だが、彼の心意気はうれしかったのだ。

「はい。これも皆さんのおかげですよ。とてもじゃないですけど、私1人では何もできなかったでしょうから...」「そうは言うけど、やっぱりヴィクの熱意があればこそなんじゃないか?今やアロンガル中の隊員が注目しているし、そのうち取材されたりするかもしれないね。」そう言って微笑むオスカルの美しいこと!彼は勇気を出そうと思った。最初から無理だ、駄目だと決め付けるのは逃げに過ぎないのだ。「アイス・ロ−ズ。私は...私はジャルジェ家の令嬢であるあなたに、ジェロ−デル家の長男として申し込みたい事があります。」え...?と、とまどう表情のオスカルに、精一杯の笑顔で申し込むヴィク。「結婚を前提として、私とおつきあい願えませんでしょうか?」

翌朝、ヴィクはゲルトル−ト邸からの帰りに、途中にあるバス・タクシ−乗り場でイザ−クに出会った。タクシ−とは言っても、カオラの街を走るものではなく、別の街に向かう7PLACEのタイプが待機している。「あ、こんにちは。フリデリ−ケが待ってましたよ。」少しだけ立ち話をする2人。「私はまた明日から上京なんで早めに引き上げていますが、他のかたはまだおられますよ。モ−リッツも。」つい彼の名を口にしてしまって、あ、しまったという気になったが、イザ−クは少しだけさみしそうに笑っている。(仕方ないですかね。あのお2人、うまくいきそうですし・・・)

それに引き換え、自分はどうであろうか。昨晩アイス・ロ−ズに告白してしまった。アンドレがいない時に告白したのは、やはり自信がないから...なのだろうか。彼女は最初、とてもとまどった表情になってしまって、よほど前言撤回しようかと思った。だが、明らかな拒絶も見られなくて、「ちょっと考えさせてくれないかな?」と言われたときは、信じられない気分だった。まぁ、アイス・ロ−ズはこちらの申し出を無碍に断るような女性ではない。思いやりのある、優しい人なのだ。だが...

彼女の心がどこにあるか。それが自分にはないことはわかっている。全く関心もないとか、眼中にもないとか、そういうわけではない。だからこそ告白したのだ。だが、アイス・ロ−ズが幼馴染の彼に心を寄せているのは間違いない。自分の知らない2人を、この隊での日々でたくさん知りえたこと、そして告白できたことで、自分は自分の気持ちに決着をつけたい、そう思う。アンドレのアイス・ロ−ズに向ける瞳の複雑な翳り。何ゆえなのかはわからない。だが、その瞳に目を離せないアイス・ロ−ズがいる、それだけで十分ではないか?

オスカルはよく眠れなくて、朝方になってやっとうとうとしたが、深い眠りにはつけなかった。のどが渇いたので、なんとか起き上がり台所のほうに向かう。居間の前にさしかかると、少し開いた扉の向こうからみなの声に混じってイザ−クの声が聞こえる。(ああ、イザ−クが来てるのか。昨晩、アンドレはいつものようにイザ−クの家に泊まったのかな?だとしたら一緒にカオラに戻ってきてるのか。)昨晩のヴィクの告白が思い出される。アンドレに話すのもどうかと思われるが、彼の顔を見たかった。

「そういえば、アンドレと一緒に帰ってきたの?あいつ、なんだってわざわざイブの夜にティナに行ったのか、あんたならわかってるんでしょ?」と、ゲルトル−トの声がする。それで、思わず立ち止まって聞いてしまう。「いや、あの...詩に曲をつけるように頼まれてたんだ。それができたんで取りにきてくれたんだよ。」そういうイザ−クの言い方がどうもぎこちない。言いにくそうにしてるのがわかる。もちろんゲルトル−トたちも気づいている。「あっそう。詩に曲もいいけどさ、肝心なことは他にあるでしょうに。なんだってイブの日になんかに...」「ぼくもそう言ったんだよ。でも、彼がイブの夜にって言ったんだ。でもたいして話もしないうちに、彼の姿が見えなくなってしまって...」

「はぁ?アンドレっていつも大体あんたん家に泊まってんじゃないの?珍しいわねぇ。あんな時間からティナに行ったんなら、もうタクシ−もないだろうし...っていうか、なんかあいつ、ここんとこ何考えてるかさっぱりわかんないわね。」少しの間があいて、イザ−クの声が低く落ちる。「...実はね、アンドレはハンスの家にも泊まってないんだ。今朝、こちらに来る前にハンスの家に寄ったんだけど、彼、いなくて。ハンスはハンスで、ぼくの家に泊まったって思ってたんだよ。」「ええっ!?だって、ティナであのつきあいの悪いアンドレが他に泊まるとこなんてあんの?なによそれ。わけわかんないわねぇ。」それからそう大した時間もかからずに、ティナとカオラは大騒ぎになった。

年が開け、ゲルトル−トとカタリ−ナが一緒に任国外に出発した。その数日後、カリンがアロンガルの地を踏んだ。自分の同期に、特にアイス・ロ−ズの顔見たさに。約1年ぶりの体面で、カリンもすっかり隊員らしくなっていた。陽にも焼け、研修時と変わらず元気一杯の彼女はしかし、驚愕の噂を宿舎で聞く羽目になる。まだオスカルは上京してなかったが、耳の早い隊員たちは、ここのところその噂で持ちきりだったのだ。しかし、カリンはそれをすんなりとは信じられなかった。手紙でも全くそれらしい兆候はなかったし、なにより彼女は、カフェで見たアイス・ロ−ズの表情を忘れてはいなかった。

宿舎に到着して3日目に、同期がティナとカオラから集まってきた。とは言っても、ヴィクはモ−リッツの移動の件でカオラにいた。いずれカリンもカオラとティナを訪問する予定なので、中途半端に上京しない事にしたのだ。彼はそれだけ風車に熱中していた。「カリン!元気だったか?」オスカルは、カリンを見つけて抱きついた。「アイス・ロ−ズ!やっと逢えたのね。この1年、早く任国外に出たくて仕方なかったわよ!」そう言って頬を寄せ合い再会を喜び合う2人。だがカリンはどうしても噂のことが気になってしまっていて、それを出さないように苦心してもいた。

丁度オスカルたちの隊次の1年遅れで来た新隊員が任地に散ったばかりで、宿舎は同期以外、人少なになっていた。「みんななつかしいわね!でも男の人たちはとにかく、アイス・ロ−ズもロザリ−もやせたんじゃない?」男性隊員3人は、宿舎に立ち寄るのもそうそうに、夕食の材料の買出しに出ていた。「まあね。ロザリ−も、最近まではそうでもなかったのよ。そうは言ってもこれでも少し戻してんだけど。」と、マリ−がやや居心地悪そうに言う。しかし、奇妙なことに、オスカルとロザリ−はやはり親密に見えた。あの噂が本当なら、もうすっかりお互いに納得しているという事なのか?

そのわりにはマリ−の様子が気にかかるけど。なんにしろ事情がわからない。かと言って無神経に切り出すわけにもいかなかった。それに、なにがどうであれ、同期に逢えたのはうれしいことである。思わず研修期間の話題が出る。毎日毎日、時間に追われながらも、とても充実した日々だった。朝のロ−ドワ−ク、汗だくの食当、語学の授業、任国事情の講座、夜の外出、自習時間のおしゃべりや秘密会議...研修最終日の夜は、消灯時間も無視して懐中電灯で夜遅くまで話したこと...話はいくらでもつきなかった。

「帰ったぞ〜」と言って3人が戻ってくる。「今日はお嬢さんたちは何もしないでいいからね。あ、でも、餃子の皮作ってくれる?」とハンス。「作る作る!でも、どうすればいいのかしら?」と、カリンが聞く。「アンドレがわかってるからさ。まあ結構簡単らしいよ。」「さすが家事おたくっぷりは変わってないのねぇ。」「ちょっと待ってくれないか?入れる中身ができてからでいいぞ。」アランが台所でなにやら叫んでいる。「おい!このエビってどうするんだ?」「それが中身だよ、餃子の。さっと茹でてくれないか?って、おまえじゃ無理か。」「バカにすんなよ!それぐらいおれだって...」

「やっぱり駄目だな。なんで水からエビを入れてんだよ。沸騰させてからだろうが!?」「同じじゃないのかよ」「あのなぁ、そんな事してたらそんな小さめのエビの味なんか消えうせるぞ!」「わかったって。おまえ本当に家事おたくなんだな。感心するよ。」「えっと、春雨のサラダと、あとなんだったっけ?」「チャ−ハンと、牛肉と野菜で炒め物な。餃子は水餃子にもするか。ハンス、ご飯炊けるか?おれは挽肉でもう1つ別に餃子の中身作るから。」「なんかものすごい量にならないかぁ?」「大丈夫だろう。首都組とか、多分夕飯時になったら現れる奴いるって。」「それもそうか。」

一時ドタバタした後、アンドレがビ−ルの空き瓶を用意する。アロンガル製のビ−ルだ。2種類あるのだが、背が低くてずんぐりしたビンのほうである。もう生地は出来上がっていた。まだ固まりだったが。「適当な大きさに丸めて、こうやってビンを転がすんだ。」ビンを横倒しにして、クルッと廻すようにする。すると確かに生地が丸く広がるのだ。「へえぇ。よくできるものね。でもやったことなくてもすぐ出来るもの?」「ちょっとコツはいるけど、だめならだめでやり直せばいいから。机の上に粉をうって、試しにやってみてくれよ。ただあんまりグズグズすると、ボソボソするからな。」4人は面白がってやり始める。野外の調理実習と変わらぬ光景。

「なぁ、マリ−。もしかして、おまえって、ぶきっちょ?」先ほどから失敗続きのマリ−にオスカルが突っ込む。「うるっさいわね!こうすればいいのよ。」と言って、失敗した餃子の上に、もう一枚別に作った皮をかぶせる。「ちょっとマリ−ったら!そんなお化けみたいな餃子、誰が食べるのよ!?」とカリン。大体が、大きさの感覚がつかめず、通常より大きめの餃子になっているというのに……「これも一興ってもんよ。でもなんとなくさぁ、皮が余りそうじゃない?中身が足りない気がするんだけど。」そう言ってきょろきょろするマリ−。

「って女王様!何入れようとしてるんだよ!?」「ん?春雨のサラダよ。」「ちょっと、なんかの罰ゲ−ムなの?」とクスクス笑い出すカリン。「それいいわね。じゃあ熱帯熱用の飲み薬入れちゃえ!」それは死ぬほど苦い薬で、新隊員はよく「よく噛んで飲むように」とかつがれる傾向にあった。「で、胃薬入りのも作っとけばバッチリでしょ。」「なんか、一気に食欲が減退してくんだけど……」「あんたって、やっぱりお嬢よねぇ。これぐらいで何メゲてんのよ!?」「おまえなぁ、そう言ってなんでもかんでも押し通しやがって!」

2人の様子に大笑いするカリン。台所の男連中も、なんだなんだと顔を出して関心を示す。何も変わっていない、研修時代と同じマリ−とアイス・ロ−ズ。こうしてるのを見ると、あの噂が奇妙に思えて仕方がない。ヴィクとアイス・ロ−ズの組合せもピンとこないが、アンドレとロザリ−はもっとこないのだ。しかも、こっちが先だという。何があったのか知らないが、噂だけでなく、アンドレとロザリ−をじかに見ても疑問は解けない。確かに仲がいいといえばいいのだろうが、研修の頃と何も変わってみえないのだ。ただ、アイス・ロ−ズとアンドレはお互いを避けている、そんな気がした。それゆえ、軽々しく話題にできない。

「出来たぞ!このアラン様が料理なんて、滅多にする事じゃないからな、心して食えよ!」そう言って、アランとハンスが台所から料理を運ぶ。既に餃子はホットプレ−トの上だ。「げげっ!なんだよこのバッカでかい餃子はぁ!?」「マリ−作よ。で、当たりとかもあるから、あんたも心して食べたがいいわね。」「当たりだぁ?」と、ポカンとするアラン。予言どおり、夕食時になるとどこからか隊員が集まってきた。ぐっとにぎやかさを増す居間。アンドレが台所から出てこない。何かまだやってるのだろう。

こういう場合、これまでなら、必ずアイス・ロ−ズが席を立ってアンドレの様子を見にいってるだろう。だがオスカルは立たないで、知らんぷりを決め込んでいる。そして、その代わりにロザリ−が席を立つ。こういう光景を見ると、さすがにあの噂は本当なのかと思わずにはいられない。(アンドレと結婚できないなら、誰とだって結婚できない、アイス・ロ−ズがそう言ったのに……アンドレも女嫌いだって言ってたくせに、どうしてロザリ−と?そりゃあロザリ−もかわいくて魅力的だけど、絶対ヘン!)

「ぶっ!!何だこれ?」と、ハンスがそれこそ苦虫を噛み潰したような顔になる。皆一斉に大爆笑してしまった。「ハンス、大当たりよ!マリ−が熱帯熱の薬をしこんどいたわけ。」「そうだったのかい?教えてもくれなかったなってひどいなぁ。」マリ−の顔が心なしか赤い。「あら、運がいいわねぇ。どうせ飲まなきゃならない薬だもの。」「でもさぁ、これって噛み砕いて飲むもんじゃないよ。いつか仕返ししてやるからね。」珍しくハンスがそんな事を言う。「はぁ!?倍返しにしてあげるから、覚悟してきなさいよ!」笑うハンスはとても楽しそうだ。

「あ〜おいしかった!後片付けは私たちにまかせてね!」「カリンもいいよ。お客さんなんだから。」「何言ってんのよ。2週間もいたらお客じゃないわよ。」「それもそうか。」カリンがいることで、実際とてもいいム−ドになっていた。というか、カリンがいなければ、こんな風に同期で集まるなんてことはできない話になっていた。(カリンが来てくれてよかったぜ。隊長、楽しそうだもんな。やっぱりロザリ−とはやりにくいだろうからね。元々あれだけ仲良かったんだからな。)

クリスマスイブの夜、アンドレがロザリ−の家に泊まった事は、翌日の朝に彼女に用事があって家を訪れた隊員が確認した話で、てっきり2人はつきあってるんだろうと思ったその隊員は、その件をマリ−たちの前で披露してしまった。マリ−にしてみれば、それは青天の霹靂だった。ほとんど逆上してしまったマリ−の様子が噂に拍車をかける事になる。ロザリ−に問いただしてみると、うんと頷いただけで、それ以上を語らない。アンドレはもともと期待できるほど何かを明らかにするタイプでもない。しかし、つきあっているのかという問いには同意した。そうこうしてるうちに、カオラではヴィクがアイス・ロ−ズに接近していると判明する。

当事者の4人があまり内情を示さずにいるので、周囲の隊員も、あまり突っ込んでいく事ができないでいた。マリ−やゲルトル−トさえお手上げ気味だった。第一他人の恋路ではないか?馬に蹴られる真似をしないぐらいの分別は持ち合わせているのである。釣り合いがとれているといえばそうだったし。これがヴィクとロザリ−ではあんまりな組合せだと思われるが、ヴィクとアイス・ロ−ズなら家柄の面でもばっちりだし、アンドレが自分の出自を気にしていた事を同期は承知していたので、彼がロザリ−を選んだとしても不思議はない……百歩譲ったとしてなら。

(はん!こんな事になるんなら、もっと気合入れていけばよかったぜ。アンドレじゃあ勝ち目ないなって思ってたから食い下がらなかったってのによぉ。でもなぁ、こうやってあいつらの顔見ても、なんか信じられん!そりゃあまあ、隊長とアンドレがお互い避けてるみたいなのはわかるけどな、なんだっていきなりこうなってんだ?総会の後、あんなに仲良く見えてたってのに。単にケンカしたってレベルでこうなるわけないし。あ〜〜〜もう、あの仏頂面とぺちゃぱいにかかずりあうと、精神衛生上ロクな事になりやがらねぇ!!)

これが他の隊員であれば、このような成り行きになっていないかもしれない。別に、隊員同士、まして同期同士で泊め合ったところで、イコ−ルつきあっているにはならないのだ。だがアンドレは非常に慎重なタイプで、仮に同期といえども女性の家にサシで泊まったりは絶対しない。ましてロザリ−は村落の一件がある。その件があったため、ロザリ−を気に入っていた隊員も、なかなか彼女につきあおうと言い出せないでいたくらいだ。まぁ、どちらにしろ、ロザリ−がその気にならなかっただろうが...

アンドレが、わざわざトラブルをかかえたロザリ−とその気もないのにかかわるだろうか、そんな風に感じた隊員は、彼ら2人はつきあってるんだろう、そう判断するにいたったわけである。それほどこの隊次の事情に詳しかったわけでもなかったし。そして、この2人はあっさりそれを認めた。つきあっていると。それが広まって、村落もすっかりおとなしくなったように見える。問題は一気に片付いたわけだ!憔悴していたロザリ−が、少しずつ立ち直っていくように見える。その姿を見ては、マリ−だって何も異存をとなえられるわけがなかった。

居間は2階部分にあって、1階は階段を降りていくとずらっと本棚が並んでいる。使っていないガラクタのようなもので一杯になっている部屋もあった。とにかく1階は荷物置き場と化していて、その突き当たりには2つシャワ−ル−ムがあった。そこに至る途中に外に通じるドアもあって、すぐ外側には洗濯機が置いてあり、物干しのコ−ナ−も設けられている。そこは庭になっていて、あまり手入れもされていなかったが、ちょっとした植物が植えられていた。そこでアランは1人、ビ−ル瓶を何本か抱えて飲んでいた。

奥のシャワ−室からアンドレが出てきた。ふっと顔を横に向けると、いくつもの本棚と本棚の隙間の1つにオスカルがいる。何か読む本を物色している様子で、既に手に文庫本を数冊持っていた。彼女もアンドレに気がついたが、そ知らぬふりである。それでもアンドレは視線を投げかけてオスカルを見つめたが、彼女は気がついてついっと目をそらした。「おい...なぜ目をそらすんだ?」そう問いかけてもオスカルは答えようとしない。ますますアンドレに背を向けるばかりである。このような光景は初めてではなかった。十数年前には一時期日常茶飯事と化していたのだ。

まだキ−スに出逢う前、国内がざわついていた頃...オスカルは4年に上がるとき飛び級して6年生になった。アンドレより学年が1つ下だったのが1つ上になったわけである。そのため大学受験もアンドレより1年早く、彼女は将来のヴィジョンを定めなければいけない、そんな時期のことである。どういうわけかオスカルが自分を避けるようになった。もちろんいきなりそうなったわけではなかったが、原因がわからない。2人の間にぎこちない雰囲気がただようになる。気まずさから、くだらない事でケンカになったりする。

あの頃と同じ、自分の視線をそらされ、話しかけても答えないオスカルに、アンドレは神経を逆撫でにされる。なぜそんな態度をとられなければならないのか?やはり「人間が違う」わけか?いくら一緒に育てられたといっても、どだいあっちは名門の跡取りの令嬢なわけで、だから自分ごときの、他人のお情けで生かされているような奴は我慢しなければならないのか?しかも、そうして自分を眼中に入れないそぶりをするくせに、たまに彼女が見せる態度や表情に当惑させられてもいた。子ども同士のキスではない、いわば2人のファ−ストキスはあの当時、彼女のほうからもたらされたものだった。

だがオスカルの不可解な態度は変わらず、世間はテロだなんだと騒がしく、お屋敷に閉じ込められたような閉塞感に耐えられなくなった。そうやって内緒で夜の街を徘徊するうちにキ−スと出逢う。なにがなんだかわからないくらいムカついていて、でもそれを表面に出せないでいた自分を、キ−スは笑い飛ばしてくれた。オスカルのほうはオスカルで、昼間ではあったが誰かステディができたような行動をとるようになる。2人の関係は以前のように戻る事はなかったが、そうやってお互いを直視しなくなってはいた。これでなんとかやっていける、そう思っていたのに...

今また同じ態度をとられると、相変わらずカンにさわる自分がいる。わかっているのに。あの当時、なぜオスカルが自分にあんな態度をとったのか。野外の一言で全てが繋がったではないか?でも、今はまた別なのだ。今度は本当にオスカルは自分を拒絶しているのだ。だがおれはオスカルを...つかつかと彼女に向かっていき、アンドレはオスカルを振り向かせる。その一部始終を醒めた目で見ている彼女。「なんだよ?」その声も、醒めている。アンドレの内心の苛立ちが彼を責め立てる。見つめあうというより、闘っているというほうがふさわしい視線のやりとり。

「用がないなら行くぞ。」そう言ってアンドレの横をすりぬけようとして、突然オスカルはアンドレに抱きとめられた。「なっ、何してんだ、離せよ!」オスカルの手から本がバサバサっと音をたてて落ちる。もがくようにアンドレを押しのけようとする彼女に、ますますきつく抱きしめる事で返答とする彼。「なぜだ...?」絞り出すような声でそう問いかけると、オスカルが反応した。「もう私の事などほっといてくれ!」「ああ...もう、おれの言った事なんか忘れてくれよ。悪かったな、何年もおまえに負担をかけさせただけで。」

そう言われてオスカルの表情が変わった事にアンドレは気づかない。抱きしめたままで、彼女を顔を見ていないのだ。「忘れろって...?随分勝手な言い草だな。おまえなんか...おまえになんか指図されたくないね!」指図...?指図だと?おれがおまえに何を指図してるというんだ?おれは一体おまえのなんなんだ?顔を上げてオスカルを見れば、冷たい視線で迎えられるばかり。凍りつくような怒りが背中から立ち上ってくる。「なぜだ?おれを受け入れられないのに、なぜあれの言葉に頷いたんだ?お情けかよ?愛せないならはっきり拒絶すればいいだろうが!!」

「おまえがおれに関心があるのは、旦那様からそう仕向けられたからだろう?軍人になる事をあきらめなければおれと結婚させるなんて言われたからだよな?だけど、それがおれにはどれだけ屈辱的なことか、おまえにはわからんのか?」「あの夜、おまえはおれを愛せないから拒否したんだろう?今もそうなんだろう?」蒼白になるオスカル。その表情だけでも、自分が愛されない存在だとわかるではないか?オスカルにだけではない、自分は誰からも愛されない存在なのだ。アンドレはその思いにとりつかれているともいえた。

愛されていないといくら思い知らされても、彼女をあきらめきれない。思い切れない。どうしてオスカルを愛さないでいられるだろうか?自分にはオスカルと過ごした時間しかない。自分の記憶は彼女とともに始まったのだから。こんな愛想の悪い打ち解けない自分でも、オスカルはおかまいなしに扱ってくれていた。だがおれときたら、どうしても自分をさらけだせない。おれの中にある、他者を踏み込ませない何かが彼女をも傷つけてしまう。つまりおれは、彼女の望む愛しかた、彼女に必要な愛しかた、それができないのだ。そんなおれが、どうして愛されるだろうか...

「離せよ!」オスカルがそう言ったが早いか、アンドレは彼女に口付けしてしまった。だが、次の瞬間、オスカルは彼の横っ面を張り倒した。「おまえにはロザリ−がいるだろうが!何やってんだよ!!」そう言って涙を浮かべながら叫ぶオスカル。打たれた頬が赤くなっているアンドレ。「ああ、そうだな。おまえにはヴィクがいるし。」滅多に自分の気持ちを出さない彼がキレると、その直後、凍りつくような瞳を見せる事がある。全てを拒絶するような。だけど、いつしかその瞳の奥に、必死で生きようとしている彼の姿に気がついたのはいつだったか?

オスカルは彼を振り払うようにして、階段を駆け上がった。後に残されたアンドレは、彼女が落としてしまった本を拾って本棚に戻す。どうしてこうなってしまうんだろうか。あんな言い方しかできない自分。言わなくてもいいような事を言って、わざわざ彼女の心を遠ざけるような真似をして。そうしてあきらめをつけたいのか?おまえは...おまえは、オスカルを護れる自信がないんだろう?穏やかに愛する自信がないんだろう?おれはオスカルを破滅させてしまう...そしておれ自身をも。それがわかっていて、どうしておまえに...?

3階の寝室まで一気に駆け上がるオスカル。誰もいる気配はなく、そのままオスカルはベランダに出た。彼女は衝撃を受けていた。彼の激しさが怖い。怖いのに、怖いのに、彼の心から目が離せない。だが今は、怖さが先にたってしまってて、どうしようもなく不安だった。「オスカル様...?」突然名前を呼ばれて振り向くと、そこには青ざめたロザリ−がいた。「ロザリ−...」ロザリ−は1人、食事の後、寝室に篭っていたのである。振り向いたオスカルの、なんと不安そうな顔!

思わずオスカルに近づいていくロザリ−。彼女はオスカルを愛していた。なんと説明すればいいかわからない感情と闘ってきた。ロザリ−が憔悴していたのは、もちろん村落の事もあったのだが、実はオスカルの事のほうが断然大きかった。総会の手紙の一件で、彼女は思い知らされたからである。そう、やっぱりアンドレは特別だと。そうと気づかぬ嫉妬の炎がロザリ−をじょじょに焦がしてゆく。オスカルをとられたくないロザリ−は、どうやらオスカルのために詩に曲をと頼んでいるアンドレを見て、心の何かが弾けとんだ。

それでつい、あんな事を彼に言ってしまったのである。だがまさか、彼があんな対応をするとは思っていなかった。村落の事があるからかと、最初は考えた。オスカルにはこの件の内情をアンドレから聞かされるか、下手すればオスカルがそう差し向けてくれたのかも...と。それほどアンドレは特別な存在なのかと。だからロザリ−も、彼の申し出を抵抗なく承知したのだ。どうせ村落の嫌がらせにも我慢ならなくなってきていたし。彼女は自分の想いがむくわれないものだとわかってはいたのである。

ところがどうしたことか、ヴィクがオスカルにどうやら交際を申し込んだらしいと。これでいきなり2組のカップルが誕生してしまう事態になってしまった。なぜアンドレは自分とつきあってると認めるのか?まさかヴィクがオスカルとつきあうからではないだろう?というか、恋するものの直感で、オスカルはヴィクを愛してはいない、愛してるとしたらアンドレだけだと確信していた。だから別に、ヴィクに対しては嫉妬心などわかなかった。アンドレさえ...アンドレさえいなければ、オスカルは誰のものでもないのだ。

(アンドレは何を考えてるのかわからない...オスカル様もそんな風に思ってらっしゃるみたいね。でも何か意味があるんでしょうけど、私は私で、アンドレがこれ以上オスカル様に近づかないでいてくれたらいいの。せめて任期が終わるまでは...だって逃げ場がないわ!帰国すれば目をそらせても、ここではどこにも行きようがないんですもの。それに...アンドレもあれで優しいのね。私を村落から護ってくれているわ。それに絶対、私の気持ちだってわかってる。オスカル様が私を想ってくれるのもね。もしかして、あなたはあなたで、私を牽制しているの?それとも...共犯者なのかしら?あなた、私を利用して、何かたくらんでいるの...?)

少しささくれだってしまったロザリ−の心に、オスカルの不安で一杯になった心がシンクロしてしまう。単なる憧れではない、自分にも、オスカルにも、お互いが必要なのだと!オスカルの目に大粒の涙が浮かぶ。ロザリ−は必死で涙をこらえ、明るく振舞おうとする。オスカルに寄り添い、お互いの暖かさを感じると、とうとうオスカルが泣き出してしまった。ロザリ−を抱きしめて...「エレ...ン」と、聞こえるか聞こえないくらいのつぶやき。「エレ...ン?」とロザリ−が口にすると、オスカルが「ごめん。違うんだよ、ロザリ−。」と言ってロザリ−を見つめた。「かまわないわ...オスカル、私をエレ−ンって呼んで。」

あいつら、ほんとに何やってやがんだ?わけわかんね−!結果的に立ち聞きしたみたいになったけど、俺が悪いわけじゃないからな。あんなの宿舎でやるなよ!でも、なんかあのやり取り、今になってはなんだか信じられん。見事なポ−カ−フェイスだぜ、2人とも。翌日には2人とも、何もなかったって顔になってやがったし。相変わらず隊長はヴィクと、アンドレはロザリ−とつきあって...やがんのかぁ?ロザリ−はティナにいるからよくわからんけど、隊長とヴィクはそこそこ仲良しって感じで、以前とそう変わった気もしない。だがそれって、俺の願望かぁ?

カリンも帰国するまで納得いかないって顔してたな。でも、カリンは基本的にあまり、立ち入ったとこまで追求するタイプじゃない。どっちかっていうと、気まずくなりそうな雰囲気を察知して、それをさりげなく回避することを念頭に置いている、そんなタイプらしい。やはり研修時では気づかなかったことって結構あるんだな。隊の活動が影響して、また新しい面が見えてきたりもするんだろうけど。そうなんだよな、隊長やアンドレだけでない、ヴィクだってロザリ−だってそうなんだろう。その過程でその時誰に惹かれるか、それは誰にもわからん事なんだろうよ。

バイク申請が通り、オスカルとアンドレ、ヴィクが新たにバイクでの活動に入った。モ−リッツはまだ認められていないが、来月には通りそうだ。「早くバイクに乗りたいよ。風の谷にはバイクがないと、まともに通えないからね。」「そうですね。でも多分来月にはOKなんじゃないですか?ここに来てバイク申請がカオラだけでも4件でしたからね、事務所がぶつくさ言ってましたよ。」そう言って笑うヴィクも、さすがにかなり陽に焼けてきたようだ。とは言ってもカオラの男性陣の中ではまだ一番白いのだが。

彼は最近ではあまり医療チ−ムにかかわっていない。大体モ−リッツか土木組と一緒にいる。自分がアイス・ロ−ズに交際を申し込んだ時には、それがかなう事を期待するより、自分の気持ちに決着をつけたいと思っていた。それがアンドレとロザリ−の件で、妙な成り行きになってしまった。おかげでアイス・ロ−ズにはっきりした答えを聞きづらくなってしまった。ただ、なんとなく所在無げにしてる様子のアイス・ロ−ズの傍にいたい、そう思うようになった。彼女も彼女で、それでよければという感じである。ただそれでも、以前とは違う距離にいるアイス・ロ−ズと自分に対しての問いには、「自分が申し込んだ」と答えた。それぐらいははっきりさせてもいいではないか?

ヴィクにしてみれば、アイス・ロ−ズはアイス・ロ−ズだった。そして彼は、彼女にふさわしい男になりたい、それが望みである事も変わっていない。もちろんアンドレの事が気にならないわけではなかった。ヴィクは自分とアンドレのどこが最も違ってるのか、常に気になっていた。アイス・ロ−ズを愛しているのはお互い同じだろう。そして、アイス・ロ−ズはなぜアンドレに惹かれているように思えてしまうのか?自分に魅力がないからか?そうかもしれない。アンドレの、人を寄せ付けない態度、愛想のない、ぶっきらぼうな様子。

それでいて、いつの間にか目が離せなくなる。決して目立とうとしないが、生まれ持った魅力は隠せない。ヴィクは名門の長男に生まれながら、それに対応できない自分にコンプレックスを感じながら大人になった。自信のない自分。そのくせ内に潜む矜持。プライドから、自分を出せないでいる。「自分を出さない」という点では同じなのに、どうしてこうも違うんだろうか?アンドレが特によくできた人間ではないのもわかっている。自分がそうではないのと同じように。結局、自分は自分でしかないのだ。自分なりに精一杯アイス・ロ−ズを護っていこう。

試しにと申請している風車のキットはまだ先にならないと来ないだろう。一般的な電気系統についてはモ−リッツで十分だったが、やはり実際に風力発電に携わっている技師を招聘したかった。どの程度のスケジュ−ルを組めるかがわからないが。それに、自家発電ではあるけれど、勝手にやるわけにはいかない。既に交渉には入ってるけれど、この国の対応なので、こっちもいつ認可が正式に下りる事やら。あれやこれや、やらねばならない事は山のようにあるのだ!だがしかし、これだけやりがいを持って何かをやれるのも初めてのような気がする。

(週末だけど、アンドレのやつ、ロザリ−んとこに行くのかねぇ。)他人の事なのに、なんでこんなに気になるんだろうか?今までも気になってはいたが、今回のあのヤロ−の行動やら態度は本当にわからない。ただ宿舎のやりとりを思うと、あの2人の過去に何か事件があったって事なんだよな?隊長がおやじさんから言われたんでアンドレに関心があるとかなんとか言ってやがった。でもあの夜に愛せないから拒絶したって...おいおい、よく考えると結構きわどい事言ってねぇか?何時頃の話なんだろう...隊長がおやじさんから言われたってのは10代だよな。「18になったら...」ってたし。

つまりでも、やっぱりあの2人って、できてたわけじゃないんだな。ガキん時から一緒にいたんだろうけど、まぁあの仏頂面は素直じゃなさそうだし、好きなくせに表に出してなかったのかも。でもそうなると内にこもりそうだ。精神的には良くなさそうな状況をずっと続けてきて、あげくあれか?一旦それらしい状況にまで進んでおきながら、いいところで断られちゃったとか。その時...何かアンドレの出自とかで気になる発言をされたのかもしれん。あいつ、自分がもらわれっこの孤児だからって気にしてやがるし。

ダメだ。やっぱりわからねぇ!おれの想像力じゃあこの程度が限界だぜ。絶対アンドレは隊長の事を好きなくせに、なんだってロザリ−と?隊長にあてつけか?だがなぜよりにもよってロザリ−なんだ?村落の件があるとはいえ、もともと隊長にべったりで、アンドレはせいぜい兄貴扱いだったじゃないかよ。で、隊長とロザリ−は、カリンが来た時にはお互い避けてなかったんだが...隊長はヴィクから申し込まれたとかでそれなりにやってるみたいだけど、こっちも実感わかねぇ。宿舎の件でますます確信しちまった。っていうか、カオラの女性隊員から護られてんじゃないかって感じだよ、今の隊長さんは。

口には出さないみたいだが、ゲルトル−トもカタリ−ナも、なんやかや隊長を気にかけてると思う。フリデリ−ケはまぁやっと研修から戻ってきててあいつらしくマイペ−スだが、状況を理解していないわけじゃないんだろう。しょっちゅうあの4人で食事したり遊びにいったりしてるらしい。やっと医療チ−ムは活動が軌道にのってきてて、遊びに行くのも気兼ねなしにってとこだな。やっぱり活動がうまくいってないと、どうも「またふらふらして」って思われちまう気がして動けないもんだ。俺たちも...

ってか、事務所もタイガイにしろって。やっと候補地を絞って計画書も仕上げたってのに、予算の規模をいきなり...まぁ削減されたんじゃないからいいが、だからってあの態度はなんだよ。いかにも事務所の力のおかげですよ、みたいな。知るかそんなこたぁ。ほんと、FICAってわけわからんな。って事は国の方針がわけわからんと言ってるのと同じだがね。「他国への援助」なんてのを自国民に宣伝して、選挙にでも利用しようってな。アロンガルもあれだろ?今年は大統領選なんだってな。毎度どうやら治安が悪化するらしい。母国も10年ほど前まではそんな感じだったし、けっ、簡単に退去なんかしねぇからな。

今までの隊の歴史をひも解いても、隊員が任国の内戦やテロに巻き込まれるのはそう珍しい事じゃなかった。途中まで他の任国に赴任していて内戦等で退去させらる羽目になり、このアロンガルに振り替え派遣された隊員もいるのだ。だがこの程度では自国ではニュ−スにもならない。オスカルたちの隊次では、別の大陸で起こったテロで隊員ではないが、FICAの専門家で派遣された人が射殺された事件がさすがにニュ−スになり、それで隊の希望者がかなり減少した時期の募集になったのである。ある意味、その事件にさえひるまない連中の集まりとも言えたが...

「班長、ってことは基礎工事で重機を使えるってのが本決まりなんだよな?」「あったりまえだ!気兼ねなく使ってやるぜ。ただこれがまた、すぐには来やがらないだろうがね。」と、診療所の庭の片隅に建てた倉庫の中の機材やら材料やらを確認している4人。「倉庫もいずれあっちにたてなきゃね。それにしても、段々規模が大きくなってる気がするけど、隊員レベルでやってけるのかな?」「ほんとほんと。ティナだって待ってるのに...すっかりこっちメインになってるね。ティナは幼稚園みたいなの欲しいみたいだから、ぼく造るの楽しみなんだけど。」

庭に目をやると、医療チ−ムが青空診療中である。どう見ても病人じゃないだろうという連中も集まってきているが。だが最近では知名度も上がってきたらしく、結構遠くからも連れてこられる病人がいたりする。カタリ−ナはバイクを運転できないので、主に診療所とカオラの町を担当しているが、他の3人、隊長とアンドレとゲルトル−トはバイクで定期的に村周りを開始した。診療もするが、主に公衆衛生の面を向上させるための啓蒙活動というのが主眼だった。フリデリ−ケもバイクを希望してはいるが、なんとなく彼女の運転技術に疑いを持たれたりしていてどうなるかわからない。

「さて、俺はこれから報告書書くぜ。あんたらは?」「えへへ。自分らはティナに行ってくるよ。あっちの家に風を通してくるからね。」カオラと異なり個人派遣の隊員もいるティナで、それぞれ親しくなった隊員と新しい交友関係ができつつあるらしい。アランもぼちぼちと他の隊次のメンバ−とつきあい始めてはいたが、どうも例の件で自分の隊次への関心が舞い戻ってきてしまってる。とは言っても、アンドレやヴィクと過ごすような事は絶えてなくなってしまっている。3人が3人ともお互いを避けていて、これもこれで微妙だった。活動上ではみなビジネスライクにやってのけてはいたが...

夕方になり、診療もすっかりひけたようである。女性陣のにぎやかな笑い声が聞こえる。隊長の笑い声も聞こえて、それだけ聞いていると何も問題ないようにも思えるのが救いだった。どうやらみなで本日の夕食の話になっている。今週はどこにも出かけないようだが、次の計画とか、来月末に始まるラリ−の話などで盛り上がるらしい。今の時期はアロンガルが最も過ごしやすい時期なので、動くなら今が旬なのである。土木組にとっては雨季になる前のこの時期は活動の重要な期間だったが、医療チ−ムはあまり季節に影響を受けないのだった。

パソコンを占領して報告書を書いているアランをしりめに帰っていく女性陣。一応夕食に誘われたが気持ちだけ受け取ってお断りした。ヴィクとモ−リッツは揃って上京中だし、つまり女性の中に自分だけというのは...(勘弁してくれよ。何食ったかもわからんぞ...多分。)宿舎で料理をして以来、なんとなく自宅で料理にチャレンジする機会が増えてもいた。さすがに隊での生活が続くとそうなっていく男性隊員が多い。任国での手当てはそうたくさんもらえるわけではなかった。しかも、任国外等もあるので、あまりいい気になっても使えない。

ただ救いはカオラが田舎だということだ。これが首都だったりすると、物価が高いうえに、大使館や商社などの隊以外でも誘われたりがあるらしく、なんだかんだで出費が嵩むのである。アランは隊員同士、赴任手当てで賭け事をしたりするので、これで首都暮らしだったりしたら暮らしていけなくなっていたかもしれない。そう、アランは外食ばかりで飲んだくれてもいられなくなっていたのだ。生活費のせいで始めた自炊ではあったが、これがやってみると案外面白かったので、少しだけアンドレの家事オタクの気持ちがわかったような気もしていた。

(あれ?そういやアンドレって帰ったのか?)と思った途端、彼本人がパソコンを置いてある部屋に入ってきた。「なんだ?おまえまだ帰ってなかったのかよ。」と言うアラン。「おまえこそ。珍しいな、報告書か?」と言って少しからかうような目をするアンドレ。そしてロッカ−室に向かう。最近はあまり会話らしい会話もしてなかったが、今日の仏頂面の雰囲気は悪くない。宿舎の件が気にはなるのだが、かと言って立ち聞きしてた事を悟られるのはマズイ。(そうは言ったって、おれが悪いんじゃないってのに。そんなに構えなくてもいいよな。)等と考えているとアンドレが着替えて戻ってきた。

しかも、パソコンの傍にあるソファ−にすわる。手にしているミネラルウォ−タ−を飲みながら。これはいいタイミングだろう。と、アンドレの表情を横目で伺いつつアランが問いかける。「おまえこれからどうするんだ?」「あ?ティナに行くがどうした?」(げっ!いきなりピンポイントじゃねぇか。こいつもなんだか涼しい顔しやがって...)仏頂面とまでは言わないが、うれしそうでもない気がする。つきあってる女に何週間ぶりかに逢いにいくんだろう!?なんだか信じられん。おれが...おれが例えば隊長に逢いに行くとしたら...?想像するだけでも、なんだか顔が赤らんでくる気がする。

だがそれが当たり前なんじゃないのか?つきあい始めて間もないんだし、毎日会えるわけじゃないんだし。どうしてこいつは...ロザリ−はこいつの事をどう思ってるんだ?なんだか納得いかん!何がどうあれ、心に他の女がいるくせに、それ以外の女とつきあうなんてどんな神経なんだぁ?ヴィクも俺も納得できないぜ。「おまえさぁ...もう少しうれしそうな顔したらどうだ?ロザリ−に逢いに行くんだろうが?」思わずそう言わずにはいられなくなる。ゆっくりとアランに顔を向けるアンドレ。その目の表情に少しだけ変化が表れる。

「なんだ、おれはいつだってこんな顔だろうが?急ににやけ面になれとでも?」そう言って笑うのだが...どことなく目が笑っていない気もするのだが。「ああ、いつもの仏頂面だな。俺には幸せそうな顔を見せても仕方ないって事かよ。」アランはパソコンの画面を見つめながら言う。「なんか気にいらないって顔だな。おれが何かしたか?...おまえこそ、もう少し素直になったほうがいいぞ。」「はぁ!?どういう意味だよ。」「...好きなくせに。」と、小さくボソッと言うアンドレ。何をあてつけられているか、さすがのアランにもよくわかる。

「聞こえねぇな。大体二股かけられる奴っていうのは理解できん。」とうとう言ってしまった。どうせ言ってはいけない事を言うのは俺のオハコだからかまわんね!「二股...?そりゃどいつの話だよ。」だがアンドレは腹を立てた風でもない。ますますすっとぼけた表情になっていくようだ。(なんなんだよこいつはぁ!)「おれは知ってんだからな!おまえは隊長の事が好きなくせに、なんだってロザリ−とつきあってんだよ!?おまえがそんなだから、ヴィクに抜け駆けされたじゃないかよ。」「なんだ、それでまたいじけてんのか?おまえも申し込めばいいじゃないか。」

「だからなぁ、そう言い切れるおまえらは、自分たちがどれだけ条件が揃って恵まれてるかわかってねぇんだよ!」思わず声を荒げてしまうアラン。すると、アンドレの顔から表情がスッと消える。「本当にそう思うのか...?」「ああ!」「その条件とやらがいくら揃っていたってなぁ、ダメなものはダメなんだよ。あいつの心には...おれじゃ駄目なんだよ。」「それで?それでロザリ−とつきあってるっていうのか!?じゃあロザリ−の気持ちはどうなるんだよ!?」「ロザリ−は承知してるよ。お互い様なんだ。だからおまえに何か言われる筋合いはないだろうが?」

「もう行くよ。じゃあ、よい週末を!」そう言ってドアから出て行くアンドレ。呆然と見送るアラン。承知してるって一体...お互い様ってなんなんだよ?見せかけでつきあってるのか?そんな必要がどこにあるんだよ。村落の件はおれだって聞いてるさ。だがそれだけじゃないハズだし、隊長だってそうはとってないからこそヴィクの申し出に応じてんだろ?ロザリ−も...一体どうしたんだよ。いろんな思いが頭の中を駆け巡っていく。心に苦い失望感が広がる。あの2人こそが隊長を最も愛してるのではなかったのか?それがなぜこんな事に...

アランは翌日も診療所に1人で、遅々として進まない報告書と闘っていた。書こうにもアンドレやロザリ−の事、そしてもちろん隊長の事が気になって仕方がないからだ。そして夕方にけたたましい電話が入って横っ面を張り飛ばされたような気持ちにさせられた。「マリ−だけど、姉さん呼んで姉さん!」「姉さんってゲルトル−トか?どうしたんだぁ。」「..キレたのよ。仏頂面が。」「はぁ!?アンドレがどうかしたのかよ?」「村落をぶちのめしたわ。あのバカが悪いんだけどさ。」「ロザリ−か?」

どうやらロザリ−がプロジェの借り住まいに1人でいて村落が言い寄ってたかなんからしい。そこに遅れてきたアンドレと鉢合わせ、殴り倒したと。自分もそうさえた過去があるので想像はつく。「で、村落は?」「上京させてる。ハンスとアンドレもね。どうやら前歯が折れてるわよ、あれは。鼻もひんまがってんじゃないかしら?」「本当かよ...」絶句するアラン。「ロザリ−は半狂乱状態だったけど、さっきやっと落ち着いたとこ。それで姉さんに話があるのよ。聞いてる!?」「...ああ、すまん。わかったよ。」

どうやら村落はロザリ−をあきらめたわけではなかったらしい。というより、アンドレとつきあう事で馬鹿にされたように感じていたというのだ。なんとまぁ、村落のヤロ−は「捨て子の分際で金持ちぶりやがって」等と口にしたらしい、開き直って。あいつのどこが...上流階級にもなじめず、かと言って一般市民とも言えないジレンマ。最初は俺も確かにあいつにさえ反感を感じていたさ。だが違うんだ。あいつだけじゃない、隊長だってヴィクだって悩んでないわけじゃないんだ。物事にはなんだって裏表が存在してんだぜ。

案の定というかなんというか、村落が事務所にかみついているらしい。バカかあのヤロ−は。「別に何もしていないのに一方的に殴られた。裁判に訴えてやる」とかなんとか...寝言こいてんじゃないぜ。だがアンドレは全く反論もしなけりゃもちろん謝りもしないそうで、事務所も対応に苦慮してるみたいだ。下手すると強制帰国も有りえるかと。冗談じゃないぜ!返すなら村落だろうが。プロジェのお荷物以外の何者でもないくせによぉ!マジでそんな事になったら俺だって黙ってないからな。なめんじゃないぞ土建屋を。

姉さんがマリ−に呼ばれたのは、ロザリ−の処遇についてだった。なんにしてもティナから避難させようということらしい。「なぁにが裁判よ!あの根性ナシで小心者の村落が大風呂敷広げてるだけじゃない。どうせ両成敗になるに決まってるわ。でも、だとしたらロザリ−をティナにはおいとけないからね。」確かに姉さんの家ならもう1人ぐらい余裕だろう。本来なら...隊長のところでもよかったんだろうが。もちろん隊長はこの件を聞かされて相当驚いてはいたが、すぐにロザリ−とアンドレの事を心配していた。その様子はまさに「隊長」にふさわしくて、じゃああの宿舎の件は一体何だったんだという気にもさせられる。

俺は思う。アンドレだけではない、隊長も心の内を見せないのだ。それはなんだ、やはり上流だからか?そうかもしれん、ヴィクだって実際何を考えているのかはわからない。だが...俺にはわからんが、そうやって生きていくのはしんどくないか?余計なお世話かもしれんが。隊活動もあの2人は熱心だ。多分母国でもそうやって熱心に医療現場で働いてきたんだろう。あまり詳しい事は話さないが、どうやら職場でのトラブルに巻き込まれたせいで参加を決めたところもあるらしい。あの2人のこと、特に隊長はああだから相当やりあったんじゃないか?

だが一旦オンからオフに、ビジネスからプライベ−トになると、どうもわけがわからねぇ。なんだか、こうやって隊で一緒にいる時間が長くなってくると、お互いの事がよくわかるようになった気もしてた。だがそうじゃなかったってわけだ。俺はあいつらの「公的な顔」しか知らないってな。元々アンドレは寄せ付けないところがあるとわかっていたけれど、隊長もそうだったんだ。どうしてあの2人の関係がわかりにくかったのか、やっとわかったような気もするぜ。まぁ...俺ごときが入れる世界じゃないしな。

結局マリ−の言う通りになった。村落の奇行は事務所にも届いており、とにかく話を大きくしたくないわけで、村落もアンドレも1ヶ月ほど任地で謹慎する(任地から出ない)というお達しが下った。その影でハンスが間に立って必死で工作したらしい。アンドレもハンスの言う事はよく聞くので、これはうってつけだった。ロザリ−も一応期間限定という事で、カオラに移された。まあ、これはこれで一件落着...なんだろうか。だがこれで4人が揃ってしまったわけだ。それに、ロザリ−はただこちらに来たわけでもない。もともとはこちらでの活動も視野に入れていたので、この際カオラでの活動に移ってもいいのでは?と思われていた。カオラとティナは州も同じなので移動にもそう困難はないのだし。

しかし、今まではこの4人が顔を合わせる機会も滅多になかったのでよかったのだが...でもまぁ、それほど心配しなくてもいいのかもしれん。少なくとも活動上ではな。そして俺たちの本分は活動なのだ。隊員として国から派遣されているんだから。俺は...俺にできる事をするしかないよな。隊長の事は好きだが、やはり壁を感じてしまう。天使か...そうなのかもしれん。アンドレだってヴィクだって、あの天使の前では手も足も出ないってのが真相なのかもな。そのくせ...思わず抱きしめたくなる時がある。あんまり懸命でけなげで...アランはジジが亡くなった時のことを思い出していた。

まただ...とアンドレは思った。昔からときたま見る夢を見たのだ。うなされていたのか、汗をびっしょりかいている。なんとも気分が悪い。この夢を見るたびにこうなるので、もしかしたら条件反射になってるのかもしれない。最初に見たのはいつだっただろうか?多分あいつと気まずくなって、キ−スに会うか会わないかぐらいだったと思う。おれがジャルジェ家で最初に過ごした離れで...初めて会った時のオスカルがいる。無邪気に笑っている...のだが、なぜかその笑い声がカンにさわる。そして耐えられなくなって言い合いになる。

そこからはもう思い出したくもない。幼いオスカルは15の彼女になって、おれは彼女をベッドに押し倒す。笑うなと言ってもやめないオスカルに口付けして、それでも唇を離すともっと高笑いになる。おれはそのまま彼女を...そこで目が覚めるのだ。最悪な事にあの夜以来、オスカルのあの瞳を必ずまた見てしまう。この夢を見なければ、おれももっと積極的にでられるのかもしれないが、どうしてもそうできない。自分は彼女を愛しているんだろうか?だとしたら、なぜあのような夢を見続けるんだろうか?オスカルの存在はおれの神経にさわる。

なにもかもから逃げ出したくなってしまう。オスカルからも、ジャルジェ家からも...だがどこに行けばいいのだ?なぜおれには記憶がないんだ?一体何があったというんだ?おれは...旦那様が教会の孤児院にいたのを引き取ったという。今はその教会も孤児院もない。なんでもそこが立ち退きを迫られていて、孤児の行く先に苦慮していたのを見かねてそうしたんだと。旦那様も仕事柄かあまり多くを語らない。だがつまり、語らないという事は語りたくないわけだ。疑い出したらキリがない。どうしてこのおれを引き取ろうと思ったんだろうか?

おれのあの頃の状況を考えると、何もよりにもよってという気がするのだ。だが、旦那様らしいといえばそうなのかもしれん。オスカルもそんな傾向がある。昔子猫をもらった時も、一番もらい手がつかない仔を選んでいた。ボルジアを買うときも、脚が内向していて買い手がつかなかったあの馬に真っ先に飛びついてたっけ。多分それと同じ感覚なんだろう。おれの欠落を憐れに思ったってわけだ。だがおれは猫でも馬でもない。は、こんな事はおれのひがみだってわかってるよ。でもどうしようもないんだ...

オスカルはかなりのファザコンだ。無理もない、母親や姉との生活より父親との生活を選んだような娘だ。旦那様の仕事は決して安全なものではない。軍人であるというだけではない、いわば特殊任務につくこともある。今では一応テロも収まって、隣国との関係もかなり改善しているが、あの当時はテロ対策に奔走していたらしい。それゆえに...奥様はただでさえお体が弱かったのに、旦那様の身を案じて精神的にも追い詰められてしまっていた。あの離れは元々奥様のために作られたようなもので、それでも足りなくなって転地されたらしい。

レオポルディ−ヌ様は奥様に、オスカルは旦那様に。2人の姉妹はそうやって両親を支えたのだ。それゆえ奥様が亡くなられた時のレオポルディ−ヌ様の嘆きは強く、立ち直るのに数年かかった。そしてオスカルも...あまり口にも出さずこらえていたけれど、本当は母親とも過ごしたかったんだろう。身近に女性を感じていたい、女性の傍にいたい、そういう傾向があるのは無意識に奥様やレオポルディ−ヌ様を求めているのかもしれないな。だがやはり、彼女の心を占めているのは旦那様で、オスカルはこのおれにもそれを求めているふしがある。

だがおれはオスカルの父親になれるわけがない!どうしてなれるんだ、おれには父親の記憶さえないのに。旦那様はおれの父親代わりであり、お手本ではあるけれど、それを真似るだけじゃどうしようもないんだ。比べないでくれよ!おれは旦那様のようにはおまえを愛せないんだから。なぜおれが第1候補なんだ?そう言われてなかったら、オスカルはおれに大して関心を持たなかっただろう...結局おれがオスカルを追い詰めてしまったのか?エレ−ンがあんな事になってなかったらよかったのかもしれない。そんなifを思っても仕方ないのにな...

「へぇ。今頃は風が強いんだね。」オスカルがそう声をかけると、ヴィクはびっくりした顔で振り返った。確かにこの時期は谷にかなり強い風が吹き付けてきていた。その風でオスカルの髪がなびく。「アイス・ロ−ズ、どうなさいました?」「ん?村回りでね、この近くを通ったんだ。それでちょっと立ち寄ってみたくてね。」「そうでしたか...まだほとんど何もできてないんですよ、残念ながら。」そう言うのも少しくやしそうなヴィクである。本国に注文したキットが届いていないのだ。大体どの位置に設置するかなどの計画だけは上がってきていたが...

「いいじゃないか。ここはアロンガルなんだし、この国のペ−スでやっていかないと、こっちがストレスでまいっちゃうよ。」そう言って自分を元気付けるように微笑むアイス・ロ−ズ。「そ、それはそうですね。」(...でも、やはり少しでも早くなんとかしたいんですよ。この風車が私に勇気をくれるんですから。)オスカルとヴィクは風の谷を散歩でもするように巡った。もう3月。これから4月5月と暑くなっていく。今が最後の過ごしやすさ。またアイス・ロ−ズは髪を短く切ってしまうんだろうか?(私なら切らせませんよ。もったいなくて...でもここは本国じゃないですよね。)

ヴィクは、谷の端であまり目立たず立っている木に目をとめた。なにか動いたような気がしたからだ。その傍にアイス・ロ−ズが立っていたから、余計に気になった。そして、目をこらしてみると、ある動物の存在に気がついた。「アイス・ロ−ズ...ちょっとそこを動かないでいてください。」声を落として大層静かに、ヴィクはオスカルに告げた。けげんそうな顔になる彼女。そっとその木に忍び寄り、「ほら、ご覧になってくださいよ。」と言って、オスカルを招きよせる。「なになに?」

そこにいたのはカメレオンだった。実はヴィクはアロンガルに来てすぐの村ステイで、同じように木の枝にいたカメレオンを見たのだ。その村でお世話になっていた家のお母さんと息子さんが手招きするので行ってみたら、図鑑とかTVでしか見た事のなかった緑色のやつがいて、かなり驚かされてしまった。しかし、なんとも愛嬌ありげな風情で、こちらが驚かさなければおっとりと枝にとまって動かない。このカメレオンもそうであった。オスカルはカメレオンを見るのは初めてだったので、驚きながらもうれしそうに目を輝かせている。

自然と2人の顔が近づく。お互い、もっと近くでこのひょうきんそうな様子のカメレオンを見たかったのだ。ささやくようにかわされる会話。「全然動かないね。こっちの事なんか無視ってとこかな?」「それはまぁ、私たちが虫に見えるとも思えませんしね。」「それもしかしてギャグ?」「はぁ?」」「いや、虫と無視でひっかけたのかなって。」そう言ってクスクス笑うアイス・ロ−ズ。気がつくと、彼女の白い頬がすぐ目の前にあった。思わずキスしてしまう。え?という顔になるアイス・ロ−ズ。

オスカルの顔も赤くなったが、ヴィクはもっと赤くなってしまった。しどろもどろになってしまう。彼は自分の行動に自分で驚いてしまったのだ。だが、この自分がギャグを言えるような人間だと、アイス・ロ−ズが思ってくれたとは!ヴィクは気のきいた事を言ったり、ましてや冗談で人を笑わせたり楽しませたりはできないと引け目に感じていた。今のだって、とても冗談のうちには入ってないだろうに、こんな風に言ってくれたアイス・ロ−ズがたまらなくいとおしくて、それでつい...だがこれは行き過ぎでは?彼女から返事をもらったわけでもないのに...

だがアイス・ロ−ズは顔を赤くしたまま、「どうしたんだよ?なんかこっちが何かしたみたいじゃないか。」と言っておかしそうに笑い出した。「あ、カメレオンが驚くとかわいそうだから、もう行こうよ。」そう言ってヴィクの手をとって歩き出す。(よかった。怒ってないみたいですね。なんだか手まで繋いでもらってますが...)この状況が信じられない心地のヴィク。アイス・ロ−ズの瞳は自分を「恋しい男」としては見ていない。兄弟とか気のおけない友人のように見ているのがわかる。だがそれだってたいした進歩だ!こんな風にしたかったのだから...そう、アンドレがそうであるように。

だが一体、最近のアンドレはどうしたんだろうか?村落の件があるから、最初は「つきあっているふり」なのかと思っていた。だがどうもそうではない。実際ちょこちょことティナのロザリ−のところに行ってもいるようだし。それでもまだ、すっきりとしなかったのだが...だが最近は、本当に2人がお互いを避けているのがわかる。そして...避けていながらかえって意識している、そう感じられて仕方なかった。ロザリ−がこちらに来てからは、たまにロザリ−はアンドレの家にいっているという話だが、近くで接していると、あまり熱心につきあってるようには見えない。それが皆の一致した意見であった。アイス・ロ−ズがどう思っているかはわからなかったが。

3月の終わりから4月にかけて、世界で最も有名なラリ−が開催される。レジオン島のファルという都市をスタ−トして、島の最大都市シオンから船で南大陸に渡りリゾルテ国のルックラを経由して南下する。砂漠を越えてアロンガルに入り、一旦海岸沿いに出た後、「薔薇色の湖」がゴ−ルとなる。元宗主国はもちろん、かなりの国からTV中継のためのクル−がやってくる。もちろん観光客もくるので、この時期首都のホテルはどこも一杯だ。昨年はコ−スを変えて開催という試みがなされたが、結局今年は元に戻された。それで、ほとんどの隊員はラリ−を見るのは初めてだった。

「やっぱりラリ−がなきゃね!これくらいしかアロンガルに来て自慢できる事ってないんだし。」「去年はアロンガルがコ−スから離れたんで、今年もそうかと思っていたわ。」ゲルトル−トとカタリ−ナが脱脂綿をハサミで切っている。消毒用アルコ−ルに浸けて注射の時等に使用する、通称アル綿作りのためだ。「丁度ゴ−ルの日って土曜でしょ?カオラからも金曜から7PLACE借りて行こうね。男連中は彼らで行くってさ。」「そうね...」そう言ってカタリ−ナは隣の部屋で薬品の在庫にチェックを入れているオスカルの事を思った。ロザリ−の事も。

ロザリ−はカオラに来て以来、ゲルトル−トかカタリ−ナと一緒に活動していた。バイクに乗れない彼女は、ゲルトル−トがロバ車で出かける時には彼女と行動を共にし、それ以外はカタリ−ナのカオラの街の訪問看護についていく。いつまでカオラでの活動をするのか未定だったが、とにかく顔を覚えてもらうには現場に足を運ぶしかない。ティナでは試験的に「幼稚園」のようなものを目指して(実際には「託児所」となっていたが)、そこで他のプロジェ隊員と共に活動していた。だがカオラではそうはいかない。実質的には教育から医療へシフトしなければならなかった。

ゲルトル−トも、なんとなくカタリ−ナが何を考えているかわかる気がしていた。アイス・ロ−ズもロザリ−も、思った以上にハイテンションで活動をこなすので、それがかえって不安だった。元からオスカルは熱心だったけど、ロザリ−も負けていない。ティナとカオラでは州は同じでも、接している州が違うし、覚えなければならない部族語も異なる。カオラはかなり国境に近いので、隣国の影響もある。かなり知らなければならない事があって、それについてはロザリ−も遠慮なしにアイス・ロ−ズに質問をぶつけていた。

近く行われるラリ−は、よほどの事情がなければアロンガル中の隊員が見物に集まるのでは?と思われていた。それほどの催しなので、2人を気分転換に誘い出すにはいい口実であろう。隊員の多くはゴ−ル地点の湖で観戦すると思われた。だがあえて、ゲルトル−トたちは最後のスタ−ト地点である海岸の街で観戦しようと計画した。確かにゴ−ルを見られるのはいいのだが、相当の人出が予想されて落ち着かないだろうし。土木組には湖に行ってといいつけてはいるのだが、実際はどうなるかわからなかった。まだ行くというメンバ−が確定していないからである。

土木にしろ風車にしろ、プロジェがやっと現実に動き出していた。両方とも専門家が本国から派遣される事になったのである。土木のほうは、同じような第3国での医療施設の建築に長い事かかわっているらしい。風車のほうはもちろん本国でも風力に携わっている技術者だった。両者ともさほど長く滞在してくれるわけではないので、到着次第缶詰めになるだろう。その日取りいかんによってはラリ−どころではなくなる。土木でも風車でもないアンドレは最初からたいして行く気を見せないし。ただティナのイザ−クやハンスから誘われてもいたので、一応検討していた。

「案の定重なったね。風車はラリ−よりお迎えか。」「かまいませんよ。スケジュ−ルの都合をつけてわざわざ来てくださるんですから。」と言ってヴィクが微笑む。モ−リッツも頷いていた。ただ、フリデリ−ケからは「2人とも行かなくたっていいのに。」とごねられたりはしたが。どうも彼女は風車に夢中になっているモ−リッツにちょこっとだけ不満らしい。(でも、彼女の場合、おれを機械の事でかり出したがるからなぁ。で、それをハイハイ聞いてるおれが一番情けないんだろうけど...進歩ないなおれって。)

ラリ−の前日にはカオラの隊員は全員任地を離れた。ヴィクとモ−リッツは首都に上京し、他のメンバ−はティナに一泊する。「ねぇ、やっぱり湖に行かなきゃならないかな?」とゲルトル−トにピエ−ルが聞く。「できたらなるべくそうしてほしいわね。でないと気分転換になりゃしないから。」「気分転換って...おれたちがいるとうざいの?」と、少し心配そうな顔になるピエ−ル。「はぁ?何言ってんのよ。ヴィクは迎えに行ってくれたけど、あの仏頂面をこっちと一緒にしたくないの。かと言って、あいつが行かないと行かないでしこりそうじゃない?」「そうか...そうだよね。ごめん。でも...」

「なにさ?どうかしたの?」「ううん。たださ、ゲルトル−トって同期より後輩のめんどうばっか見てるよなって思って。」すると、あきれた顔のゲルトル−トが答える。「当たり前じゃないの。後輩だからめんどう見るんじゃない。しかも、医療プロジェの中核でしょ?彼らは。」「そりゃおれ達は所詮土木でさ、プロジェの付け足しっぽいけど。」「あんたさぁ、なんでそうひがむの?カッコ悪くて聞いちゃいられないわね。」するとピエ−ルは、とてもショックを受けたような顔になった。(え?)「ごめん。カッコ悪くて。」そう言って足早にその場を去る彼を見送るゲルトル−ト。(もう、わけわかんない!これが今時のコってやつなのかしら?)

翌日はとてもいい天気になった。あまり風もなく、気温は上がりそうだが、いい見物日和になりそうだ。ティナで7PLACEを貸し切る女性陣。カオラのメンバ−にマリ−が加わる。「そう言えば、奴らは先に出たの?」とマリ−が聞く。「そのはずよ−。湖のゴ−ルのほうが首都に近いから、少しここからだと時間かかるからね。」とゲルトル−ト。一番前のドライバ−の隣の席にゲルトル−ト。2列目にフリデリ−ケとマリ−とロザリ−。3列目にオスカルとカタリ−ナ。やはりロザリ−とオスカルはあまりしゃべらない。カタリ−ナのほうがよほどしゃべっていた。

「結構時間かかるね。そろそろかな?」と、オスカルが口を開く。すると、現地語が得意なゲルトル−トが現地人の運転手に話しかける。「なんか、あとちょっとだって言ってるみたいよ。なんか結構狭いとこに入ってきたわね。」そう言った途端、タクシ−が急に車体を道の端に寄せた。「何よ急に!?」マリ−がびっくりして叫ぶ。「ああっ!ちょっと見て、ほらバイクが通るわ!」「ほんとだ!もしかして、ラリ−に出場してるのか?」「きっとそうよ。だって、ゼッケンみたいなのつけてない?」「つけてるみたい。ほんとにラリ−を見られるのねぇ。」

TVでは毎年やってるけど、実際見た事のある人間が本国にどれだけいるだろうか?しかも、よく放映されるのはいわゆる4輪だ。バイクはあまり見かけない。ただ驚いた事に、もう1つカミヨン部門があるというのだ!カミヨンとはトラックの事で、元宗主国の言葉でもあった。トラックが砂漠を走るとは、なんとも想像がつかない。それに、やはり有名どころのドライバ−は4輪に集まっている。彼らの母国からも有名なドライバ−が毎年エントリ−していた。「クレイマン、今年も出てるのかしらね?」「多分出てるんじゃないか?引退したとは聞いてないし。」

やっと海岸にたどり着く。海は青く凪いでいた。何もないところかと思ったが、意外とそうでもなく、レストランやホテルなどもあった。どうやら観光地ではあるらしい。アロンガルでもマイナ−のようだが。「あら、こっちにも結構来てる隊員いるみたいね。」「なんかさぁ、あの集団って軍服?」「そうだな。あれじゃないか、元宗主国の軍隊が常駐してるって話だから、今日はレクリエ−ションとかじゃないの?」「やっぱり軍隊とかって詳しいのね、あんたって。」「そりゃね。だてに軍人フェチなんて言われてるわけじゃないよ。」

「軍隊でもなんでもOKよ。このラリ−の期間って、やたら治安が悪くなるって話じゃなかった?」とマリ−が難しそうな顔をして言う。「数年前には殺人事件があったって聞いたわ。」とカタリ−ナ。「確かにそう言われてるよな。アロンガルも地域によって殺人事件の発生率がかなり違うらしいけど、この辺りじゃ滅多にないらしいから珍しいんだろうね。」「南部山岳地帯とか、北部丘陵地帯では国境で年中揉めてるみたいね。カオラみたいな国境近くの街のほうが珍しいのかも。」

アロンガルは海に面していたが、それでも4カ国ほどと国境を接している。数年前までは、北部丘陵地帯で断続的に部族間の揉め事が絶えず、一時は国交断絶にまでなった。結局アロンガルの元宗主国が仲介に入って事なきを得たようである。そして今は南部山岳地帯が問題となっていた。この山岳地帯は前々から結構きなくさい部分があったらしい。カルトの一団が集団生活をしているとか、けしの花を栽培しているとか、そういった類の。しかし今は全く別の問題で揺れていた。山岳地帯で見つかった鉱山をめぐる利権争い。

アロンガル政府内はもちろん、元宗主国や彼らの母国といった外国までからんで。どうも母国は利権争いが目的ではなく、この機会に恩を売って南大陸への足がかりにするつもりらしい。隣国との関係が落ち着いた今、南大陸への進出は懸案になっていた。それにアロンガルはリゾルテほどではないけど、レジオン島との関係も深い。ラリ−のスタ−トとゴ−ルなのだから。レジオン島は島とは言え、「テランガのへそ」と言われるように交通の要所にある。ルナサガでも重要なポジションにあるくらいなのだ。だが最近までほとんど国交らしきものはなかった。

「ホントに天気いいわね!でも、思ったより風があるのね。」「海風だろう。気持ちいいな。」オスカルの、まだやっと肩のあたりまで伸びた金髪が風になびいている。なんだかんだ言っても、アイス・ロ−ズは常に毅然としていた。ゲルトル−トは彼女の姿を目で追う。(ほんと、普段は見事に私情を活動やらその他に交えないわね。ただ...誰とも一線引いてる気もするけど。)観客も徐々に増えてきているようだが、海岸地点に集結するバイクや4輪も増えてきて、周囲はどんどんにぎやかになっていく。「あ!あそこにいるの、クレイマンじゃないか?」

クレイマンは国内でも有名なドライバ−で、毎年このラリ−に参加していた。レジオン島のファルに別荘を持っているらしい。ラリ−の中継でTVによく出るため、母国の人間は大体彼の顔を知っている。既に他の隊員たちが彼を取り巻いていた。写真を御願いしている者、「これがラリ−のマシンなんだ!」と感動する者、さまざまである。オスカルたちも、クレイマンと初めて話せる機会に恵まれ、いろんな質問をしたり、写真を撮ったりした。彼はきさくで、隊員の質問にもよく答えてくれる、そんな人物のようである。

「あ、ルルじゃない!元気だった?」と、同期の男の子にかじりつくフリデリ−ケ。相変わらず、彼女のそんな行動にあっけなく顔を赤らめる彼がいた。「ひさしぶり...あ、先輩方も、みなさんラリ−見物ですか?」マリ−は以前、宿舎での彼の様子に大笑いしたのを思い出した。「そうよ、あんたも元気そうね。陽によく焼けちゃって、見た目だけはいっぱしの農業隊員じゃないの。」そう言われても、反論も反感もなく、美貌の先輩に恐縮している様子の彼。お姉さま方に人気なのも無理はない。「あの...男性隊員のみなさんは来てないんですか?」

「ちょっとね、ラックロ−ズの方に追っ払ったのよ。会いたかったらあっちに行きなさいね。」「追っ払ったって...何かあったんですか?」何も聞いてないんだろうか、ルルは素でそう言ってるようだった。思わずオスカルとロザリ−を中心にちょっとした緊張が走る。マリ−はルルの腕をとって、皆から少し離れたところに引っ張っていった。「あんたさぁ、何も聞いてないの?もしかして。」「え?何かって?」「あ、あんたって、任地に1人だもんね、実質的に。それで情報が入ってないんでしょうけど。」「??何があったんですか?」何かまずい事を言ってしまったらしい。それにしても、一体何が...

「話すといろいろ長くなるんだけどね...ロザリ−とアンドレの事は知ってる?」「いいえ、どうかしたんですか?」「うわ、そこから知らないの?あんた、もう少し情報を集めておいたほうがいいわよ。いくら個人派遣だからって、なんかあった時頼りになるのは隊員なんだからさ。」「すみません、丁度農繁期で、任地に閉じこもってたんです。あの2人、どうかしたんですか?」「なんか、一応つきあってるんだけどね、ティナでちょっと揉め事があって、ロザは今カオラにいるのよ。」あっけにとられて声もないルル。

「当然アイス・ロ−ズとヴィクの事も知らないわね?そっちも一応つきあってるんだけど、なんか複雑みたいでさ。それで男どもを追っ払ったの。ヴィクはまぁお客の出迎えで空港に行ってるはずだけど、とにかく問題はアンドレだからさ。」「なんか全然信じられないんですけど...」無理もない。前回の総会の時の印象しかないのだろうから。いや、マリ−本人でさえ、今の状況にはさっぱり納得できていなかった。「それでね、どういうわけか、オスカルとロザリ−の2人だけのほうがマシなわけ。そこにアンドレが下手に加わると、周りの私たちの方が緊張するというかなんというか...なのよ。」

「あれ...?でも、あっちから来るのって、カオラの男性隊員じゃないですか?」と、ルルがマリ−の姿越しに指を指す。「はぁ?」そう言って慌てて振り向くマリ−。確かにそうだった。カオラだけでなく、ティナのハンスやイザ−クもいる。「どういう事よこれは!?あいつらなんでこっちに来るわけ!」ルル−をほっぽらかして走り出すマリ−。それを呆然と見送るルル。今の話が、実感として湧いてこない。ルルは鈍いわけではなかった。むしろその逆だった。宿舎で見たアイス・ロ−ズとアンドレについて、「特別な何か」を瞬時に感じ取っていたのである。だからこそ、あの時あれ以上詮索もしなかったのだ。

女性陣はみな一様に驚かされていた。「なんでこっちにいるわけ?先に出発したんじゃなかったの!?」と、ゲルトル−トもあきれ顔である。するとピエ−ルが申し訳なさそうに言った。「そのつもりだったんだよ。だけど、班長がさぁ...。」「アランがどうかしたのか?」「前の晩飲みすぎてさ、起きられなかったんだよ。置いていくわけにもいかなくて。あ、それでもラックロ−ズに行くつもりだったのに、道が混んでて、何時の間にやら交通規制になってたんだ。7PLACEの運転手が嫌がっちゃって、なんとかなだめて、こっちに来てもらったんだよ。」「はぁ−−、あんたたちらしいわ。仕方ないけどね。」

マリ−が海のほうを見ているオスカルとロザリ−の後姿を横目で確認しながら聞く。「そう言えばアランとアンドレは?」「多分仲良くむっつりとだまりこくって一緒にいると思うよ。」「何よそれ?」思わず笑いがでる。「そのままだよ。自発的に隔離されてるみたいだからさ、気にしないでラリ−観戦、楽しんでてよ。」「それもそうね。」(確かにこれだけ人も一杯いるし、なるようにしかならないわよね。)マリ−はそれほど意識していなかったが、実はオスカルの事が大好きだったし、とても大事な存在になっていた。

それを表にはっきり出せない(態度にも意識にさえも)のは、ロザリ−の存在が最初からあったからだった。研修所で最初に顔を合わせ、お互いを意識した時、オスカルの隣にはロザがいた。マリ−はその美貌と気の強さから、学校でも所属していた劇団でも浮いた存在だった。人はみな彼女を遠巻きに見ている、それは彼女のファンでさえそうであった。対等な立場になれる、そんな女友達ができたためしがない。だが、オスカルは違っていた。彼女はマリ−が初めて安心して張り合える人間だったから。

しかし、ロザリ−がいなければ、そこまで張り合ってきたかどうかはわからなかった。アイス・ロ−ズとロザリ−の仲の良さに嫉妬してるように思われたくない。その気持ちが先にたって、マリ−はなかなか素直になれないでいた。マリ−はマリ−なりにオスカルを愛していて、それ故に彼女とロザの繋がりの深さを感じ取っていた。それはいわゆる恋愛感情ではない。だが同性愛というのではなく、体の関係を伴わない同性同士の友愛の関係は排斥されるものではなかった。母国でも、そのような趣旨に賛同するコミュミティは普通に存在し、共同生活を営んでいる。だがそれは、むしろマリ−とオスカルの関係に当てはまるだろう。

ロザリ−は、横目でオスカルをちらちらと見ていた。水平線を眺めているその横顔の美しいこと。空の青とも海の青とも違う輝きをもった瞳。強い太陽の光が彼女の髪を照らしてまぶしすぎる。それにしても、どうして自分はオスカルをこんなに好きなんだろう?これまで女性をこんなに好きになったことはなかった。いやでも、自分には少しばかり男性恐怖症のところはある。村落のような真似をしかけてくる男は今までにもいたのだ。だが両親に言わせればそれは「自意識過剰」なんだそうである。父親からは「隙を見せるおまえが悪い」と言われた。

隊に参加してからの彼女は今までになく幸せだった。ロザリ−はその性格と容姿から、同性からも反感を買う事が多かった。異性は異性で、バカにしたような、性的なおもちゃみたいな目で見るものがいる。彼女はよく、自分の身の置き所を失っていた。だがオスカルとマリ−は、今まで出会ったことのある人間とは異なっていた。2人ともつきぬけたような存在で、自分にも言いたい事を言ってくる。「マニア受けしすぎ」等と言われても、全く腹が立たなかった。2人とも自分を肯定してくれているのがわかるから。

だが...どうしてこんな事になってしまったんだろう。今の自分は、オスカルを苦しめている気がするばかりだ。それでも彼女が好きで、「エレ−ン」の事が気になってならない。自分はそのエレ−ンとかいう娘の身代わりなんだろうか?だから自分をこれほど好きでいてくれるのだろうか?もし私がエレ−ンに似てなかったら...そう思うとつらかった。アンドレもアンドレで、自分に対して優しすぎる。彼が誰を愛してるかは明白で、まるで同志のような扱いではないか?そして、アンドレもまた、自分を見るようでそうではない何かを見ていると感じられる時がある。

ロザリ−は意を決してその場を離れた。このどこかにアンドレもいるはずである。本当はオスカルに直接聞くべきなのかもしれない。だが、以前総会の海水浴で、うっかり研修のダンスの件を口にしてしまった事が思い出されるのだ。あの時のオスカルの苦しそうな瞳を思い出すと、とても聞きだせそうになかった。(アンドレはきっと...子どもの頃から一緒に暮らしてきたんですもの。エレ−ンの事、何か知ってるに違いないわ。聞いてどうなるわけでもないかもしれない。でも、知りたいの。好きな人の事なんですもの。)

30分ほどうろうろして、やっとアランとアンドレが2人でいるところを発見した。確かに2人とも「何が楽しくて2人でいる?」という風情だった。ロザリ−を先に見つけたのはアランだった。「おい、彼女が迎えに来てるぞ、この色男。」アンドレは無言でアランをこづくと、ロザリ−のそばに行った。「どうした?何か用か?」「ちょっと...聞きたい事があるんだけど...」何かただならぬ雰囲気なのはアンドレにも感じられた。ふり返ってアランに駆け寄り「ちょっと行ってくるけど、おまえどうする?」と告げる。「どうもしないね。大丈夫、いちいちおまえらの事を言いつけたりしないから、どこにでも行ってこい。」

「好きにしなよ。」と笑ってロザリ−と歩いていくアンドレ。ロザリ−は女性の中でも背が低いほうだが、アンドレは結構上背がある。こうしてみると、案外悪くもない組合せなのかもしれない。(でもなぁ、やっぱり隊長がいなけりゃそうかも...って話だよな。今じゃ本当の兄弟みたいに育ったはずの隊長とアンドレが一番兄弟らしく見えないぜ。隊長とヴィク、アンドレとロザリ−、この組合せのほうがよっぽど安心して見てられるもんな。どうにかならんもんかね?って、おれはどうしたいんだ?おれこそどうにかならないかってな。)

海岸沿いに歩いていく2人。ラリ−でたくさんの関係者や観客で溢れていたが、それでも少し足を伸ばせば人少なになる。かなり暑くなってきたが、それでも風があるので過ごしやすかった。「どうした?聞きたい事って...」と、アンドレが口火を切る。立ち止まるロザリ−。少し口ごもっていたが、意を決して問いかける。「エレ−ンって誰?」そう言って顔を上げ、アンドレの顔を見つめるロザリ−。その真剣な眼差しに、アンドレは驚きを隠せない。オスカルはエレ−ンの事をロザリ−に話したのだろうか?一体どこまで?

「オスカルから聞いたのか?」すっと顔を下げるロザリ−。「……名前だけ。アンドレなら何か知ってるかと思って。」沈黙が続く。何をどこまで話せばいいんだろうか?自分も全てを知ってるわけではない。「ロザリ−、聞いてどうするんだ?」「……アンドレ……私、そのエレ−ンっていう人に似てるの?」 そう言って顔を上げた時、ロザリ−はその大きな瞳から涙があふれそうになっていた。紫色の瞳。キ−スの顔写真と並んで画面に映っていた少女の顔。あの自爆テロの首謀者の1人として。隣国との友好条約締結の直前で、あの事件でそれが破棄になりかけるほど死傷者が出た。その多くがたまたま教会のハイキング帰りの小学生だった。

アンドレは何も言わず、ただ俯いた。世論は2人を悪魔扱いだった。自国と隣国は元々1つの国で、主に2つの民族で構成されていた。だが、西大陸で起こった戦争が元で、むりやり分割されてもう50年ほど経過している。しかも、地理的な不公平も手伝って、隣国は一時経済破綻に陥った。経済難民が自国に流入し、自国は隣国に介入するようになる。そのやり方がまずかったため、また隣国からの難民を排斥する勢力が台頭したため、両国内でテロが横行するようになってしまった。その状況に終止符を打つために一生を賭けたのがジェイムズ・バ−トルである。

偉大なる詩人であり政治家でもあったJBが、自身への暗殺テロにも恐れず締結にまで持ち込んだ平和条約。そこに至るまでの苦闘。なかなか経済復興できない隣国に経済支援を行うため、国民から「税金」ではなく「募金」として資金を集めた。初期には相当反発もあったのだが、忍耐強い努力が実り、世論は「テロ撲滅のため隣国とも団結しよう」という意見に傾いた。だが...やっと条約が締結するという段になって、今までにないほどの規模で死傷者が出る自爆テロが起こってしまう。「運が悪かった」と言うほかなかったが...

アンドレは信じられなかった。キ−スがテロを行うなどと。今でも信じていない。だがキ−スは確かに自分の前から姿を消した。それに、キ−スが何かしらの地下組織に属しているらしいのは察していた。大体、国が2つに分割されてから、その手の団体ははやりすたりはあれど、常にいろいろと存在しているのである。自分もあのまま夜間の徘徊を続けていれば、どうなっていたかはわからない。そうなる前にキ−スたちの事件が起こり、アンドレは地下の活動に手を染める事もなく看護師の道を進んだ。キ−スに置いていかれたという疎外感ゆえに。

「どうしてそう思うんだ?オスカルがそう言ったのか?」顔を上げたロザリ−の頬に涙が一滴伝う。「だって...オスカル様は私を見てくれないから。私に似た誰か、多分そのエレ−ンっていう人の面影を私に見てるってわかるから...」それを聞いて、アンドレの胸も痛んだ。今もまだオスカルの心はあの日にとらわれているのだ。自分もそうなっていたかもしれない。だが、オスカルを愛している自分に気がついて、ようやく時計は進み出したのだ。だからこそ、オスカルは自分を愛していないとわかるではないか?そう、自分が愛するようには愛していない。

「ロザリ−、おれにも全てはわからないんだ。聞いても納得できるかどうかはわからんぞ。それでもいいか?」もう一滴の涙が伝わり落ちて、ロザリ−は頷いた。「...エレ−ンはもう、この世にはいない。オスカルが16になるかならずの頃に出会った娘だ。おまえのように、紫色の瞳をしてた。おれは直接会った事はないが、ある事件がきっかけでオスカルとエレ−ンのことを知ったんだ。」「あの当時、おれとオスカルは気まずくなっていて、あまりお互いの事を見ないようにしていた。だがかえって気がついてしまうことってあるだろう?」

「事件...って?」「ああ、その事件が起こる前、オスカルは休みのたびにそのエレ−ンと逢ってたんだと思う。事件当日も...朝早く出かけていってた。おれはあいつに恋人ができたんだろう、そう思っていたんだ。実際、とても幸せそうだったから...だが、事件は起きた。」「実は...おれも当時、好きなやつがいたんだ。だが...そいつは死んだ。エレ−ンも。10年ほど前の話だ、あの頃の社会情勢を覚えているか?」「...まだテロとかがあった頃?」「そう...それで死んだんだ。だが、おれは自分の受けた打撃を隠すのに精一杯で、オスカルにまで気が回ってなかった。あいつも...同じような状況だったんだろう。」

「聞いていい?隠すってなぜ?」ロザリ−の目は真剣だ。嘘をついてもばれてしまうだけだろう。アンドレは事実を告げる事にした。「信じられなかったんだよ。死んだというだけでないんだ...キ−スもエレ−ンも、自爆テロの首謀者と発表されたから。」アンドレは何を言ってるんだろう?そう、すぐに理解できないほどの内容なのだ。自爆テロの首謀者?それがエレ−ンだと?ロザリ−の顔色が青ざめる。アンドレの表情にある絶望と諦観。どこかで同じような表情を見たことがある気がする。

「...じゃあ、オスカル様は、自爆テロを引き起こした娘を今も忘れられないわけ?」ロザリ−の口調に棘が混ざる。「おれも忘れてないよ。キ−スのことは...信じられないんだ。だが、当時は2人とも歴史に残る極悪人扱いにされて、どこに葬られたのかさえはっきりしない。おれはエレ−ンが何故キ−スと一緒に自爆テロの片棒をかついだのかはわからないけど、オスカルも何も知らなかったと思うんだ。」「...この事件について、オスカルは泣くばかりで話せないほどだった。1年経っても。今も聞けないんだ...あいつは今でもエレ−ンを忘れてなくて、おれにはどうしようもないんだ。」

「そうだったの...それで私に...」そう言ってロザリ−は駆け出してしまった。呼び止めようとしたが、声にならない。確かにロザリ−はエレ−ンの身代わりかもしれない。だが、それでもうらやましいぐらいだった。ロザリ−だけでない、ヴィクもそうだ。少なくとも、オスカルは彼らを必要としてるではないか?自分はそうではない。むしろ毒になってないか?おれはエレ−ンを失った悲しみを癒してやれない。だが、ロザリ−かヴィクのどちらか、いや両方とも、あいつの悲しみを癒してやれるんじゃないのか?もしそうだとしたら、どんなにつらくても、おれは...

ぞくぞくと車やバイクが集まってきているようである。だが、最終スタ−トはまだ少し先らしい。中継車のみならず、ヘリコプタ−も到着したようだ。上空からのアングルを撮るのだろうか。暑くなってきたので、オスカルは飲み物を買おうとみなから離れた。とは言っても、店のまわりには隊員らしき人もちらほら見かけられたが。そのまま来た方向ではない、ちょっとした木陰を目指して歩き出す。ジジと交換したキャップをかぶりなおして。(髪が伸びてくると、ちょっとかぶりにくくなるなぁ。暑くなってきたし、もう1度切ろうかな...)

防風林なんだろうか。かなり広い範囲にアロンガルらしい木々が植えられている。ラリ−のスタ−ト地点はぎりぎり海岸沿いなので、木陰にはなっていたが、ほとんど人もいない。だが、今のオスカルの気持ちとしては、少しばかり1人になりたかった。彼女は基本的には社交的だったし、みなの思いやりも十分理解していたが....やはりいろいろと気になることが多かった。ちょっとの間でいいから、自分の顔を取り戻したい気がして、彼女はますます喧騒から逃れるように木陰沿いを歩いていった。

しかし、それほどもなくオスカルは後姿の女性に気がつく。植わっている木はあまり枝があるタイプではないので、結構見通しがきくのである。一瞬でそれがロザリ−の後姿だとわかるほどに。木の1本にもたれかかっている。こちらの足も止まってしまうほど、その姿はさみしそうで、それ故に声をかけづらい、そんな感じだった。だが、どうしたんだろうか?何かあったんだろうか...「ロザリ−?」そう言って、オスカルは彼女に近づいた。だが、ロザリ−はその呼びかけに反応しない。後ろを向いたままだ。

オスカルは反応のないロザリ−の前にまわった。「ロザリ−、どうしたんだ?」ロザリ−は俯いたまま、何も答えようとしない。オスカルは思わず彼女の両肩に手をおいて少しゆすぶった。「ロザ...」と言いかけたところで、ロザリ−がオスカルの両手を振り払うように後ろに下がった。そして、オスカルをじっと見つめる。突き刺さるような視線に圧倒され、息を呑むアイス・ロ−ズ。「私は....私はエレ−ンじゃないわ。」ひんやりした口調。「え?」「あんな人殺しと一緒にしないでよ。」その言葉に、オスカルは目の前が真っ暗になるような気がした。

「エレ−ンなんてよくある名前だから、気にもしてなかったけど...忘れちゃいないわ...あのテロの事は。」「私の弟...巻き込まれて死んだの。生まれつき耳に障害があって、あまりおしゃべりする事もできなかったけど、とても私になついてくれてた。母と父は再婚同士で、お兄さんと妹ができたけど、ずっとバカにされてた。母も私や弟を引け目に感じてばかりで。でもかまわなかった。それなりに幸せだったから...」「でも...弟が死んで、まるでやっかい払いができたっていう態度をとられて。あれ以来、ただただ家を出たかった。それでも足りなくてここまで来たわ。勝手に縁談を決めようとするんですもの。」

ロザリ−の口に出している事は、確かに事実ではあった。だが、オスカルにエレ−ン扱いされた事を一番怒ってるわけではなかった。10年以上もオスカルの心を占めているエレ−ン。愛していた弟を失い、家族から背を向けて生きてきた自分。ロザリ−はロザリ−で、見た目よりずっと芯が強かった。「こんなこと、なんでもない」そう思って生きてきた。屈託のない、明るい自分でいたくて、でもオスカルを好きになって以来、そうできなくなってしまっていた。ここに来て、弟を失ってからの10年がどっとロザリ−の胸を直撃し、「エレ−ンほども愛されてない自分」に打ちのめされてしまったのだ。

蒼白になったオスカルは、じっと俯いてロザリ−の話を聞いていた。だが、なんとか顔を上げ、ロザリ−を見つめる。「ロザリ−、すまなかった...何も知らないで、おまえを傷つけてしまって。」ああ、こんな目をさせたいわけじゃないのに!オスカルだって愛する人を失った、しかも、「裏切られた」のかもしれない。アンドレも、何も知らなかったって言ってたではないか?下手をすればオスカルやアンドレだって巻き込まれていたかもしれない。「でも、私はエレ−ンを、どうしても悪く思えないんだ。彼女が人殺しなら、私も同じだよ...そう思ってしまうんだ。」

オスカルの瞳に浮かぶ意志。本当に、アンドレの言った通りだ!今もエレ−ンは、オスカルの心を....自分ではダメなのだ。せいぜい身代わりにしか、ならない。こんなに好きなのに....もう、これ以上オスカルの顔を見ていられない。ロザリ−は涙を見られたくなくて急いでふり返ると、先ほど来た道を前も見ずに走った。丁度防風林内の道から海岸の砂地に出るというところで、そこにいた3人の男のうちの1人にぶつかってしまう。しまったと思ったとたん、その男がロザリ−を乱暴につかまえた。

観戦客だろうか?アロンガルの人間ではなさそうだ。着ているものからしても、同世代くらいかもしれない。ロザリ−はつい母国語で「ごめんなさい」と言ってしまった。すると、その男はにやっと笑って彼女をじろじろ見る。嫌な感じだが、言葉が通じてないから面白がられているのかも。それで、元宗主国の言葉で同じようにごめんなさいと言ってみた。「何度も同じ事は言わなくてもいいぜ。どうだい、俺たちにつきあってくれないか?」ロザリ−はびっくりしてしまった。母国語で返されるとは思ってもみなかったからだ。隊員でもなさそうだし、大使館や企業関係者にも見えない....

「悪いけど...」「どうせラリ−観戦に来ているんだろう?それより面白い事があるんだよ。」3人の男に取り囲まれているロザリ−。そこに、ロザリ−の後を窺うように追ってきたオスカルが追いついた。何やら母国語でロザリ−にからんでいる男がいる。他の2人も...何か、どこか、変だ。オスカルは身近に父のような存在があり、彼女独特の選別眼が備わっていた。ただかわいい娘にからんでいるゴロツキとかではない気がする。どうとはっきり指摘できないのだが...だが、ラリ−時にはとりわけ得体の知れない外国人の数も増えるというし。

「離せよ!彼女は私の連れだ!!」そう宣言するオスカルに、3人の視線が一気に集中する。「なんだ?今度は威勢のいいのが登場したな。」嫌な視線を向けてくるその男は、ロザリ−を引きずるようにして林の中に連れ込んだ。「何するのよ!?」「離せって言ってるだろう!?いいかげんにしろよ!!」そう言ってロザリ−に近づこうとするオスカルに、2人の男が食らいつこうとする。パッと見た感じではそうとも見えないが、元々彼女は軍人志望ということもあり、そこら辺のヤワな男よりケンカは強かった。

それを知らない2人は彼女を女だとなめてかかっていた。そのため、1人は急所を蹴り上げられ、もう1人は鳩尾に一発決められてしまう。それと同時にロザリ−も、彼女をつかまえていた手に噛み付いてオスカルの傍に駆け寄った。「もう私のことは構わないで!」「ロザリ−...」そう言いながら、オスカルが追って来てくれたこと、自分を助けようとしていることがどれだけうれしかったか!見事な身のこなしにも驚かされた。だが、それ故に、自分のせいで危険に飛び込んでしまうオスカルが心配でならない。

「おまえら...つけあがんじゃねぇよ。」噛み付かれた男はなんと、銃を持ち出した。比較的手に入りやすい小型のものだ。だが、このような局面で出すものだろうか?どう考えても異常だ。やはりこの男どもはおかしい!林と言ったって、ちょっと目をこらせばかなり奥まで見渡せるようなものである。そして、人気がないどころか、ちょっと向こうでラリ−の観戦客がうろうろしている状況なのに。オスカルはゾッとした。だが、次の瞬間、彼女はロザリ−を庇うように前に出た。「オスカル様!」

右手でロザリ−を制し、オスカルは頭を上げて男と銃をにらみつけた。彼女の背中側から見上げると目に入るオスカルの、恐ろしいくらい冷静な表情!!「撃つのか?こんなに人気の多いところでか?」その声にも、少しの震えさえない。どんどん彼女の威圧感が増していってる気がする。ロザリ−は呆然としてオスカルの顔を仰ぎ見ていた。こんなオスカルを見た事はない。自分の目の前で泣いていたこともあるオスカルと、今ここにいるオスカルは同じ人間なんだろうか?だが、その姿はあまりに魅惑的に見え、ロザリ−はこれっぽっちも恐怖感がわかなかった。

「おい、もうそのへんでやめとけよ。」いきなり、全く知らない男の声がした。まるで異次元に飛ばされていたのが、その声で引き戻されたような感じである。その場にいた5人は、その声の主のありかを探した。たいして離れてもいないところに数人の男たちが立っていた。そして、何事かと聞きつけてきたのか、観客らしい人間もちらほらと集まりかけているではないか。「これが見えないか?カメラが回ってるぜ。このままインタ−ネットで全世界に向けて配信してやろうか?」そう言う黒い髪と目の男の手にもカメラらしきものがある。

3人の男たちは顔色を変えると、舌打ちをしながら走り去った。あまりの変わり身に、オスカルやロザリ−だけでなく、そのカメラクル−一行も吹き出さずにはいられないというていたらくである。「は、あんなのが同じ言葉を使ってるかと思うとうんざりだな。」そう言って笑う男もまた、オスカルたちと同じ言葉を使っている。同国人だろうか?「ありがとう。助かったよ。」そう言って手を差し出すオスカルと握手をかわす彼もまた、オスカルたちが気になっている様子である。

「おれはベルナ−ルだ。一応ジャ−ナリストだが、マイナ−なもんでね。あんたたち、もしかしてFOCVの隊員かい?」「そうだよ。私はオスカルだ。こっちはロザリ−。どうやら同国人らしいな。」「いや...おれは隣国出身だよ。まぁ、ガキんとき移住してるから、あんまり覚えてもいないがね。」元々は同じ国だったので、隣国とは使っている言葉も同じである。ただし50年ほどの間に、思想や宗教の傾向が変わりつつあった。経済格差は暮らしだけに力を及ぼすものではない。

「それはそうと、君は女性だろう?ただものじゃなさそうだな。」と、少しからかいのこもった口調でベルナ−ルが言う。だが、オスカルがコメントする前に、ロザリ−がムッとした調子で叫んだ。「あなた、いつから見てたわけ!?あんな状況になってたのに、見物してたの?」「お嬢さんがこのかっこいいお姉さんに見とれてるのは見たよ。」するとどうだろう!ロザリ−はベルナ−ルに近づいたかと思うと、しゃがみこんで砂をつかみ、それを彼の顔面にたたきつけたではないか。

あっけにとられる面々。だがロザリ−の顔は紅潮していて、唇が震えている。「ロザリ−、どうしたんだよ?」オスカルがロザリ−の後ろから、彼女に気づかれないようにベルナ−ルにさっと目配せする。だが、どうやら彼はたいして怒ってもいないらしい。「はは、オスカルだけでなく、あんたも威勢がいいな。おれたちだってあんたと同じ気持ちだった。見とれちまってたんだよ。だから少々声をかけるのが遅れただけさ。悪かったな。」だがロザリ−はムッとした表情のままである。「大嫌い。いい画がほしいからって無神経にカメラ回したり、取材に来たりするあんたたちなんか。」

オスカルはハッとした。先ほどの会話が胸に痛い。思わずロザリ−をつかまえると、彼女はもう1度「だいっきらい!!」と叫んだ。オスカルの腕からのがれようとする彼女を思わず抱きしめてしまう。とうとう派手に泣き出してしまったロザリ−を守るように立つオスカル。するとそこに、隊員たちが駆け寄ってきた。「あんたたち、どこ行ってたのよ!?心配して探しちゃったじゃない!」だがしかし、この状況はなんなんだろう?カメラとか、機材の様子からして、ラリ−の取材なんだろうか?それがなぜこの2人を?しかもロザリ−は号泣してるし...「何かあったんですか?」とアンドレが問う。

2人を探し始めたのはアンドレだった。ロザリ−との会話に、どこか腑に落ちない部分を感じていた。何か嫌な予感がする...そう思った彼が他の隊員たちを探すと、案の定オスカルもロザリ−もいない。それを確認したアンドレのせっぱつまったような表情におされて、他のメンバ−も一斉に2人を探し始めた。だが2人にして見れば、緊張の連続ですごく時間が経っているような、そうでないような状態だったが、実際はまだラリ−のスタ−トにも至っていなかった。「あ、すまなかったよ。後で話すから...ちょっと、アンドレ来てくれないか?」そう言ってオスカルが彼を手招きする。

「ほら、アンドレだよ。せっかく彼が迎えに来てくれたんだから、もう泣き止んでくれないか?笑顔を見せてやれば彼も安心するよ。」そう言って、まだ泣いているロザリ−をアンドレに渡そうとするオスカル。だが、ロザリ−はそう言われると、さっと顔を上げた。そして、オスカルの腕から身をかわすように離れると、今度はオスカルをアンドレに押し付けるように背中を押す。「ちょ、ちょっとロザリ−、一体...?」アンドレもロザリ−の行動に驚いてしまって、思わずオスカルと見つめあってしまった。

確かにロザリ−は笑顔になった。エレ−ンという人を忘れていないのに、アンドレの存在があるというのに、命の危険もかえりみず自分をかばってくれたオスカル。あの瞬間、ロザリ−はここで殺されてしまってもかまわない、いや、オスカルと一緒になら、どこへでも行く、そう思った。自分はエレ−ンの身代わりではない。ここまで愛されているのに、どうしてオスカルを困らせてしまったんだろうか?彼女はやっと迷路から抜け出せたような気がしていた。もう、誰かの手をわずらわせる必要はない。「愛されたい」と駄々をこねていた自分とはさよならだ。

「私が好きなのはオスカル様だから。ごめんね、アンドレは私のライバルなの。」そう言ってアンドレにあかんべ−をして見せるロザリ−。今まで成り行きを見守っていた全員があっけにとられ、そして大爆笑になった。唯一愛を告白されたオスカルは顔を真っ赤にしていて、アンドレに至ってはそのオスカルの様子に大笑いする始末である。「おまえ、何笑ってんだよ?振られたくせに...」あきれたような顔になるオスカルの腕をロザリ−がとる。「オスカル様、一緒にラリ−を観ましょうよ!アンドレなんかほっといて。」とうとうオスカルも笑い出してしまった。