『名所』



   彼女が何をしようとしているのか、僕にはすぐにわかった。なぜなら彼女がやろうとして

  いること、それは同時に僕がこれからやろうとしていることでもあったからだ。

  「いい天気だね」

   そう言って僕は彼女の横に立った。

   目の前に広がる空は、キャンパスに灰色の油絵の具をヤケになってぶちまけたような

  感じで、今にも一雨来そうだった。眼下の海もそれに応じて荒れていて、見る者に寒々と

  した思いを抱かさずにはいられなかった。

   すなわち、僕らみたいな人間にとっては、最高の天気だったというわけだ。

   彼女は、怪訝そうに僕の方を見て、一瞬立ち去ろうとしたが、けれどすぐにそれを思い

  とどまり、そうね、とだけ言って、再び視線を前に向けた。

   美しい横顔だと思った。そして今までに会ったことがないほど気が強そうな女だな、とも。

   だが彼女が何を考えているかまでは、さすがにそこまでは僕にもわからなかった。

   沈黙が束の間二人を支配した。彼女は僕の存在などまるで無視していたようだったが、

  沈黙を破ったのは彼女の方だった。

  「貴方、まさか、自殺するつもりじゃないでしょうね?」

  「そ、そんなこと初対面の人間に・・・」

   彼女は僕の答えなど聞いてはいなかった。

  「困るのよ。どこか、よそでやってくれない?」

   何て言いぐさだと思った。僕を自殺願望者だと勝手に決めつけ(まあ、その通りなんだけ

  ど)、その上、どこか他の場所で死ねとは!どこで死のうが僕の勝手だ。思いのままになら

  ない人生だったが、せめてそれくらいのことは自分で決めたい。

   ここはS県のH岬。世間では名の知れた自殺の名所だ。毎年毎年この岬から身を投げる

  者は後を絶たない。『命を大切に!』とか『人生は何度でもやり直すことができる!』といっ

  た立て札がそこかしこに立てられてはいるが、それもあまり効果がないようだ。

  「そんなこと、君に言われる筋合いは・・・」

   やっぱり彼女は聞く耳をもたなかった。

  「ここから飛び降りたら、死体は浮いてこないって聞いているわ。でも万が一どこかの浜辺

  に打ち上げられて、その時男の死体が近くにあったら、心中だと思われるでしょ。そんなの、

  絶対にいや!」

   まったく、何て自分勝手な女だろう。信じられない。思わず、声を荒げた。

  「僕だって!」

   彼女が、僕の方を見た。その時になって初めて僕の存在に気づいたかのように。

  「僕だって・・・、僕だって、前から決めてたんだ。死ぬなら、どうせ自殺するなら、ここで、こ

  こから飛び降りてやるんだって。ずっと前からだ」

   嘘だった。正直、僕は自分がなぜ今この岸壁に立っているのかさえよくわかっていなかっ

  た。自分でも知らぬ間にここにいたのだ。

   そう、それなら、仕方ないわね、と彼女は悲しそうに言った。そしてこう付け加えた。

  「お金をあげるって言っても、駄目でしょうね」

   僕は、愚かにも聞き返した。

  「いくら?」

   彼女は、そばに置いてあったボストンバッグを指さした。

  「三千万、あるわ。正直言うと、あとどれくらい残っているのか、よく数えてはいないんだけど」

   我ながら阿呆だと思ったが、それでも息を飲まずにはいられなかった。三千万円あれば、

  人間が思いつく限りのやりたいことは、たいてい出来るような気がする。それでも彼女は死ぬ

  と言っているのだ。彼女がなぜ死のうとしているのか、僕はどうしても知りたくなった。

  「か、金なんて、問題じゃない」

   自分がいくらかと聞いたことなど、恥ずかしげもなく棚に上げて、僕は言った。

  「大切なのは、思いだ、そうだろ?」

  「思い?」

  「そうさ、どちらの思いが強いのか、どちらの死のうとしている理由が正当なのか、だ」

   言ってから僕は後悔した。はっきり言って僕の死ぬ理由は大したことがないように思えた。

  少なくとも、僕は目の前に、自分の自由になる三千万円という大金があれば、死ぬことなん

  て露ほども考えもしなかったであろうからだ。

  「私の方はありふれた理由よ。愛していた男が、いなくなった。それだけ」

  「ふられたの?」

  「馬鹿ね。死んだのよ。このお金は、その保険金ってわけ。貴方は?」

   僕の方は、愛していた女性に、仮にユキエという名前にしよう、裏切られたのだ。具体的に

  言えば、なけなしの貯金をすべて騙し取られた。病弱な弟の手術代とか何とか言われて。金

  額は約三百万円。目の前の女がくれるという金額よりも、一桁少ない。ユキエが名うての女

  詐欺師だと知ったのは、それから間もなくのことだった。だがそのことを口にすれば、また馬

  鹿にされるに決まっている。だから、こう言った。

  「偶然だね、僕も同じだ。僕も愛する人に、永遠の別れを、告げられたんだ。もう一度会うため

  には、死ぬしかないんだ」

   そう、死んで、幽霊になって、どこにいるともわからない、ユキエの枕元に立って、恨み言の

  一つでも言ってやるつもりだった。他に何か大切なことがあったとしても、今はそのこと以外に

  何も考えられなかった。

   彼女は僕に都合のいいように解釈してくれたようだった。

  「悲しいわよね。昨日まで隣にいるのが当然だと思っていた人が今日はいないのよ。ある日突

  然、水も空気もない世界に放り出されたような感じ。生きていても、意味はないわ」

   そう言って彼女は、三千万円が入っているというバッグを頭の上に高く抱え上げた。

  「何をする!それは!」

   僕にくれるって言ったはずだろ、と言おうとして、その言葉を無理やりぐいっと飲み込みんだ。

  「死んだ彼が望んだことじゃないだろ!」

   バッグを高く揚げたまま、彼女が振り返った。

  「なあ、考えてもみろよ。そんな、海に金をばらまくなんてこと、死んだ彼が本当に望んでいる

  わけないだろう。もっと、何か、役に立つことに使えよ!」

   彼女は、バッグをゆっくりと降ろした。

  「そうよね。貴方のいう通り。そんなことしたって、私のエゴが満たされるだけ。馬鹿みたい。笑

  っていいのよ」

  「笑わないさ」

   笑わないさ、笑ったりはしない。バッグを渡してくれるだけでいい。

   彼女は振り返って、思いがけずニッコリと微笑んだ。

  「聞いてくれる?」

  「何、を?」

  「私、彼のこと、愛していたわ」

  「へー、そう」適当に相槌を打つ。

  「彼も、私のことを、愛してくれていたと思う」

  「へー、そう」それ以外に何て言うんだ?

  「悲しく、なかったの」

  「ヘー、そう・・・。へ?何だって?」

  「愛していた、そして、愛してくれていた彼が死んで、私、生きていけないと思った」

  「それで?」

  「彼が死んだら、私、生きてなんていけないと思ってた。でも、違った。今、こうして平気で生き

  てる。そんな自分が、私、許せそうにない」

   激しい口調だった。その激しさが彼女の悲しみの大きさを示しているように思えた。

  「貴方は?」

  「え?貴方って?」

  「貴方って貴方のことよ。貴方は愛する人が死んでどんな気持ちだった?」

  「ど、どんな気持ちって・・・」

   彼女に騙されていたのを知って、僕は、悲しいというより悔しかった。そして腹が立った。彼女

  に、というより自分自身に。彼女の見え透いた嘘を見抜けなかった自分の間抜けさが腹立たし

  くて仕方がなかった。

  「ごめんなさい」

   彼女がなぜ謝ったのか、僕には分からなかった。

  「愛する人が死んでどんな気持ちだったか聞くなんて、まるで芸能番組のレポーターみたい。

  最低ね」

  「う、うん、そうだね」

   そう頷いてはみたものの、僕の視線は金が入ったバックに釘付けになったままだった。最低

  なのはどっちか分かりゃしない。

  「お金はあげる」

   彼女は突然僕にバッグを差し出した。

  「貴方の考えつく限りでいいわ。このお金を、どうか有効に使って。貴方ならきっと出来る。私

  にはわかる」

   彼女は、ひどく儚げに微笑んだ。

  「それから申し訳ないんだけど、やっぱりここから先に飛び降りる権利を私に譲ってくれない

  かしら。ごめんなさい、一方的に私の都合ばかりを押しつけてしまって。でも、私、これ以上、

  どうしても生きていく気になれないの」

   僕は、震える手でバッグを受け取った。バッグはひどく重かった。僕にはとうてい支え切れな

  い、おそらく三千万円以上の重みが、そのバッグにはあった。

  「ありがとう」

   彼女は小さく頭を下げた。

  「では先に行かせてもらうわ」

   そう言って彼女は一歩踏み出した。僕自身が飛び降りるわけではないのに、まるで地面がぐ

  らぐらと揺れてるみたいで、ひどく気分が悪い。風も急に強くなったような気がする。

   なぜだろう、彼女がここから飛び降りて、金を一人占めすることが出来れば、それは僕にとっ

  てとても都合がよいことのはずなのに。彼女を引き止める理由なんて僕には何一つないはず

  なのに。

   彼女がもう一歩、いや半歩でも進めば、その身は崖下に真っ逆様に落ちて行くだろう。そして

  おそらくは永遠にその死体は浮かび上がってこない。

   彼女はわずかに首を巡らし、そして僕の方を見た。

   サヨナラ・・・。

   その囁きは、風の唸りで消え去りそうだった。だが僕の耳にははっきりと聞こえた。

   彼女が目を閉じた。何のためらいも見せず、最後の一歩、いや半歩を踏み出そうとしている。

  「止めろおおおおおおおおおっ!!!」

   最初その叫びを発したのが誰か、僕にはわからなかった。彼女が僕の方を凝視しているのを

  見て、初めて叫び声の主が僕自身だということを僕は知った。

  「確かに、確かに、君の恋人はもう死んでしまったのかもしれない。そしてその代わりなんて誰

  にもなれないかもしれない。でも、でも!」

   僕は必死だった。

  「君は生きてるじゃないか!!」

   我ながら何て陳腐な台詞なのだろうと思った。だがそれでも今まで生きてきて、こんなに心の

  奥底から振り絞った言葉はなかった。

   僕は彼女に向かって精一杯手を差し出した。

  「どんなにお金があったって、それだけじゃ駄目なんだ。そばに誰かがいてくれなきゃ、お金なん

  ていくらあったって意味がない!一人じゃ、たった一人じゃ、お金の有効な使い道なんて見つけ

  られるわけがないよ!」

   彼女が僕の手を握り返してくれた。僕は彼女をぐいっと僕の方に引き寄せた。

  「引き止めてしまってごめん。でもやっぱり、誰かが僕の目の前で飛び降りようとするのを黙って

  見ているなんて、僕には出来ないよ」

   彼女はうつむいたまま何も言おうとはしなかった。どれくらいの時間が経ったのだろうか、小さな

  声で、ありがとう、と呟いた。

   そして彼女は僕の顔を真正面から見つめた。

  「貴方って本当にいい人ね。出来たら・・・」

   彼女は一度そこで言葉を切った。

  「出来たら、生きてるうちに会いたかったわ」

   そう言って彼女は僕の体をドン!と強く突いた。

   何をするんだ!!

   そう言いかけて、僕は気づいた。

   僕の足もとには地面がなかった。僕はふわふわと海面から数十メートルの高さの空中にただ浮

  かんでいるだけだった。

   ようやく僕はそこですべてを悟った。

   そうか、そうだったのか・・・。僕はもう、すでに死んでしまっていたのか・・・。

   ユキエへ復讐することしか頭になくて、そんなことすら僕にはわからなくなってしまっていたのだ。

  「私、こう見えても除霊士なの。もし貴方が、心の弱い人間を死の世界にいざなうようなタチの悪い

  幽霊だったら、除霊するつもりだった。でも・・・」

   彼女は何とも表現しようのない表情をその美しい顔に浮かべた。

  「でも貴方みたいな幽霊だったら、まぁ、こちらの世界にいても害はないでしょうからね」

   彼女の言葉に僕はため息をつかずにはいられなかった。

   僕は死んでしまっていたことを悲しむべきなのだろうか。それとも除霊されなかったことを喜ぶべ

  きなのだろうか。

   その時の僕は、きっと彼女に負けず劣らず何とも表現のしようのない表情をしていたに違いない。

   いつの間にか空が気持ちよいくらいにどこまでも晴れ渡っていた。まるでキャンバスに空色の油

  絵の具を思い切りぶちまけたようだ、と僕は思った。

                            *

   S県のH岬、そこは自殺を思いとどまらせる幽霊が出没する名所としてごく一部の人たちの間で

  有名である。


                                               了



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