『聖夜の奇跡』(前編)



   その夜世界には二人しかいなかった。

   無論表通りにまで出ていけば、そんな夜だから人通りが絶えるってこともないのだけれど、

  再開発地区のそのアパートでは世界にはもう二人を残して誰もいなくなってしまったんじゃ

  ないかって思えるぐらいに、辺りは耳が痛くなるほど静まり返っていた。

  「…お腹空いた、お兄ちゃん」

   まだ起きてたのかフミコ、そう言おうとして、カズオはゴクリとその言葉を飲み込んだ。こんな

  に腹が減っていて眠れるわけがない。

  「母ちゃんが、フライドチキン買って帰るって約束したろ、それまで我慢しろ」

   カズオの言葉にフミコは布団にくるまったまま素直に小さくウンとうなずいた。母親の口約束

  がどれくらい当てにならないか、カズオはよく知っていたから、妹にそう言い聞かせてからギュッ

  と唇を噛んだ。

   それにしても確かに空きっ腹に寒さがひどく応える。ラーメンはあるけれど電気は止められて

  いる。一応コンロはあるけれど、子供たち二人きりのときは決してマッチを使っちゃいけないと

  カズオは母親に厳しく言い含められていた。

  「サンタさん、来てくれるかなぁ」

   カズオは思わず布団をはねのけ、暗闇の中フミコの顔を覗き込んだ。来るわけないだろ、妹の

  言葉を頭から否定しようとして、結局カズオはボソボソとつぶやくように言った。

  「もしかしたら、サンタさん、来てくれないかもしんねぇぞ」

   カズオの言葉がよっぽど意外だったのだろう、えーっ、どうしてぇとフミコは素頓狂な声を上げ

  た。

  「フミコ、いい子にしてたもん、サンタさん、来てくれるもん」

   馬鹿だな、サンタクロースなんて、いないんだよ、そう言いかけて、やっぱりカズオはその言葉

  を飲み込んだ。父親が死んだことさえ現実として受け入れることが出来ないでいるフミコにこれ

  以上厳しい現実を突きつける必要はない。

  「そう、だな。きっとサンタさん、来てくれるよ」

   朝になったらどう言い訳をしようか、カズオはフミコの耳に届かないようにふうっとため息を漏ら

  し、暗闇の中に手を伸ばして、フミコの頬にそっとふれた。フミコはカズオの手を握り返し、元気

  よくウンとうなづいた。

   その時だった。ドシンともズンとも聞きとれる、地を揺るがすような、天から響いてくるような重

  低音が聞こえてきたのは。

  「お兄ちゃん!」

   フミコが驚いて布団から飛び出しカズオに抱きついてきた。

  「心配すんな、大丈夫だ、大丈夫」

   カズオは妹に、何より自分自身にそう言い聞かせて、枕許に置いてあるろうそくにマッチで火を

  点けた。さすがにこんな非常事態では母親の言いつけを守っているわけにもいかない。ろうそく

  のか細い炎に二人の顔が照らし出され、カズオとフミコは不安気に目を合わせた。どうやら音の

  発生源は庭からのようだった。二人は無意識に呼吸を合わせ、足音を忍ばせ、庭に面した表戸

  の引き手に手を掛けた。カズオは思い切って表戸を開けはなった。

   アッ!二人は同時に叫んだ。

   庭に倒れていたのは誰あろう、サンタクロースだったのだ。

  「わーい、サンタさんだ、サンタさんが来てくれた」

   フミコが無邪気にそのサンタに駆け寄ろうとするのを慌ててカズオは引き止めた。カズオにはそ

  こまでの無邪気さはないし、何より星明かりとろうそくの炎だけでははっきりとはしないが、そのサ

  ンタクロースは、サンタというにはあまりにも若く見えた。そう、サンタクロースというよりはサンタの

  格好をしたサンドイッチマンといった方が相応しかった。

  「いて…いてて」

   サンタの格好をしたその男は腰をさすりながらゆっくりと立ち上がった。

  「誰だっ、お前は!」

   ありったけの勇気を振り絞ってカズオは叫んだ。

  「誰だって?馬鹿なことを聞くな。こんな時期にこんな格好をするのは世の中でたった一人だ」

   男はコートに付いた土を払いながら二人の方を見た。

  「馬鹿にするな。サンタが白い髭のおじいさんだって事ぐらい知ってるぞ」

  「生憎だったな。じいさんは引退したよ。今は俺がサンタだ」

   そう答えながら男はどうして今の騒ぎでこの家の家族は子供の他に誰も出てこないのだろうとい

  ぶかしんだ。それともこの家には子供二人しかいないのか。

  「なぁ、坊や、それにお嬢ちゃん。お父さんはどうした。それにお母さんは」

   サンタの質問に答えたのはフミコだった。

  「お父ちゃんはお仕事で遠くに出かけているの。お母ちゃんもお仕事で今日は遅いの」

  「なぁるほど。なるほどねぇ…」

   サンタはフミコの答えに満足したように大きくうなづきながら、二人にゆっくりと近づいてきた。

   上がりかまちでブーツを脱ぎながら、サンタは夫婦そろってクリスマスイブにお仕事とは大変だ

  ねぇと皮肉めいたことを考えていた。しかも家には幼い子供が二人きり、何かあったらどうするつ

  もりだ。

  「ちょっくら、上がらせてもらうよ」

   サンタは返事も待たずにずかずかと部屋に上がり込んだ。今夜は仕事も上手くいった。慣れな

  いブーツで走り回って疲れてもいる。ここら辺で一休みするのも悪くない。

  「やぁ、寒い寒い。おい、電気はどこだ」

   それに答えたのはカズオの方だった。彼はサンタと目を合わせようともせずにぶっきら棒に言っ

  た。

  「電気は来てないよ。止められてるから」

   サンタは本気で驚いた。今時電気が止められる家があるとは。

  「おいおい、本当かよ。じゃあまさか、食い物も何もねぇっていうんじゃねえだろな」

   カズオは少しの間だけ考えた。食い物ならラーメンがある。だが貴重な食料を見ず知らずのサン

  タクロースに与えていいものかどうか。だがすぐに彼はその考えを頭から追い出した。今このアパー

  トにはサンタの他には自分とフミコの二人しかいない。近所だって似たようなものだ。電話だって当

  然ない。ここでサンタ男を下手に怒らせるより、さっさとラーメンでも何でも食わせて、追っ払った方

  が得策だ。

  「ラーメンならあるよ。コンロで作らなきゃいけないから、時間かかるけど」

   そう言ってカズオは手早く準備に取りかかった。ぼこぼこの鍋に水を入れ、コンロにろうそくで火を

  つけてからその鍋を置いた。

   サンタはラーメンの煮える間、子供のころのことを思い出した。

   コンロで作るラーメンか…。

   サンタクロースの名前は偶然にもサンタといった。この場合のサンタとはサンタクロースの略称で

  はなく、三番目の息子という意味だった。彼の母親は母親としておよそ最低な女性だった。三度の食

  事をすべてコンビニで買ってくるか、もしくは出来合いで済ませた。パチンコに興じて、開店から閉店

  まで一日のほとんどをパチンコ店で過ごした。真夏の暑い車中で母親の帰りを待っているうちに脱水

  症状を起こしたこともしばしばだった。父親もいるにはいたが母親に振り回され、結局子供たちを顧み

  ることはなかった。

   母親が行方知れずな夜はよく一つ上の兄貴がラーメンを作ってくれたものだった。兄貴の作ってくれ

  たラーメンは決まって煮込みすぎていてろくに食えたものじゃなかったが、今思い返してみるとひどく

  懐かしい。

  「なぁ、お前ら、父ちゃんと母ちゃん、好きか」

   出来上がったラーメンをすすりながら、サンタは尋ねた。

  「うん、大好きだよ」

   フミコが一瞬の間さえ置かず、とびきりの笑顔で即答した。

   大好きか…。それは何よりだ。この一家は電気は止められ、貧乏暮しをしているようだが、決して不

  幸だというわけではなさそうだ。その時サンタは男の子の様子がおかしいのに気づいた。まるで母親に

  叱られて泣き出す一歩手前の時のようだ。

  「どうした、坊主、お腹でも痛いのか」

   聞いてからサンタは後悔した。子供が実際にお腹が痛くても自分にはどうしようもないということに気

  づいたからだ。カズオが何でもないよと首を振って、サンタは心底ほっとした。

   鍋の底のスープの最後の一滴を実に旨そうに飲み干したサンタにフミコが顔を近づけた。

  「ねぇサンタさん」

  「うん、何だ」

  「プレゼントなんだけど」

  「ああ、そっか、そっか。何だ、何がいいんだ。ぬいぐるみか、ゲームか」

   無論この時のサンタがぬいぐるみやゲームが入ったプレゼントの袋を持ち合わせているわけではな

  かった。ただ、この時彼の懐はきわめて暖かかったので、女の子の欲しがるプレゼントに見合うお金を

  渡すつもりだった。

  「ううん、ぬいぐるみもゲームも要らない」

   フミコは首を振ってから、サンタの目をまっすぐにのぞきこんだ。

  「あのね、フミコね、お父ちゃんに、会いたいの」

   最初サンタはフミコの言っている意味が分からなかった。

  「どういう意味だよ。お前らの父ちゃん仕事なんだろ」

   サンタはカズオの方に尋ねたが、カズオはうつむいたまま何も答えようとはしなかった。

  「お母ちゃんとお兄ちゃんは、お父ちゃん、仕事で遠くに行ったって言ってるけど…」

   フミコは言葉を詰まらせた。カズオも何か言いかけたが言葉が見つからない。

  「チカコおばちゃんが言ってたもん。お父ちゃんは死んだって。死んだんだからもう会えないって。うそだ

  よね。会えるよね。ねえ、サンタさん」

   今度はサンタが言葉を詰まらせる番だった。フミコとまともに目を会わせることも出来ない。

  「ねぇサンタさん。フミコいい子にしてたから、お父ちゃんに会えるよね、ねぇ、サンタさん」

   フミコは台詞の後半を涙声で訴える。そしてその真摯な願いをサンタは決して叶えることは出来ない。

  「出来ねぇよ…」

   サンタはようやくそれだけの言葉を吐き出した。

  「どうして、どうしてぇ」

   フミコは泣きながらその小さな拳でサンタの胸を叩いた。

  「どうしてって言われたって、出来ねぇものは出来ねぇんだよ」

   フミコに叩かれるに任せながら、サンタは天井を睨んだ。サンタクロースのじいさんよ、あんたならこん

  な場合、どうするんだ…?

  「フミコ、もういいだろ?あんまりサンタさんを困らせちゃだめだ」

   そう言ってカズオがフミコをサンタから引き離そうとした。だがなおもフミコはあらがってサンタを叩こうと

  する。

  「いい加減にしろ、フミコ。お父ちゃんに会いたいのはお前だけじゃないんだ」

   カズオは半ば泣きながらフミコの横頬を張った。フミコの小さな体はよろめいて、手をついた拍子に壁

  際に立ててあったろうそくを倒した。ろうそくの炎がカーテンへと燃え移り、カーテンはあっという間に燃え

  上がった。

   一瞬何が起こったのか、三人には理解出来なかった。だが最初に正気に返ったのはサンタだった。

  「いけねぇ」

   サンタはそう短く叫ぶと、フミコが寝ていた布団を抱えると炎へと立ち向かった。何とかかき消そうと必

  死にサンタは布団で炎を上から叩いた。だが一度燃え上がった炎は所詮サンタ一人の手に負えるもの

  ではなかった。見る見る炎は勢いを増し、まるでサンタをあざ笑うかのように部屋中に燃え広がっていっ

  た。気がつくと火の手は三人の背後でも上がっていた。アパートがきわめて燃えやすい木造だったのも

  災いした。

  「くそっ、本格的にやべぇ」

   サンタは火を消すことをあきらめて、子供たち二人を両脇に抱えた。どうする。表戸をぶち破るか、玄関

  へと回るか。ほんの一瞬迷っている間にも火はいよいよその火勢を強めていく。

   カズオはわあわあと泣き叫び、フミコは目を閉じて声をあらん限りに助けを求めた。

  「お母ちゃん、お父ちゃん、助けてぇ、サンタさん助けてぇえ…」

   そして男は現れた。



S1   まるこ画



      聖夜の奇跡(後)へ続く



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