『空のない街』/第一話



  

   ウォルター・マードックはその朝最悪な目覚めを強いられることとなった。

   ドアのチャイムの、ほとんど偏執的とまでいっていいしつこさに、元来気が長い方ではない

  マードックは、半ば激昂しかけていた。インチキ宗教家か、それとも百科事典のセールスマ

  ンか、どちらにしてもただじゃおかない、ぶっ飛ばしてやると怒り心頭に発してはみたものの、

  チェーンを外し、ドアを開けると、彼の怒りは戸惑いへと変わった。

   ドアの向こうに立っている少年が誰なのか、寝起きのマードックはすぐにはわからなかった。

   洗いざらしの古物のジーンズ、上着には地元のフットボールチームの赤いジャンパー、頭

  にはジャンパーとお揃いのキャップ、身につけているものだけならどこにでもいそうな子供だ

  った。

   だが、その顔にはわずかながら見覚えがあった。

   これまで生きてきて、あらゆる悪徳と、そして原罪に関わったことが一切なさげな、その、ま

  るで慈愛に満ちた天使のような顔立ちには、確かにどこかで・・・。

   少年はマードックの顔を見ると、ほっとしたような笑みを浮かべた。

  「お久しぶりです、マードックさん」

   琴線を弾くような耳に心地よいその声に、マードックはようやく少年の名前を思い出した。

  「ジョシュア、ジョシュアか!見違えたな、まったく・・・」

   そう、見違えた。まるで別人だぜ、とマードックは独りごちた。

   あの頃のこいつときたら、泥にまみれ、ゴミにまみれ、糞にまみれ、近寄るのも嫌になるくら

  い臭かった。妹の方は、名前は何だったか、エリー、いや、エミリーだ、商売上着飾らせては

  いたが、兄貴の方は本当にゴミ同然だった。

   それがどうだ、この変わりようときたら!あの頃からは到底想像できない。

  「あの、入っても、いいですか・・・」

   ジョシュアはおずおずと、まるで加虐心を煽るように尋ねた。

  「ああ、もちろんだ、入ってくれ・・・」

   マードックは少年の肩に手を回し、抱き寄せるようにしてジョシュアを部屋の中に招き入れた。

   妹の方はずいぶんと稼いでくれたが、兄貴のほうもなかなかどうして上玉だ。この手の商品

  は決して需要が絶えることはない。俺様の眼も節穴もいいところだ・・・。少年を値踏みつつ、マ

  ードックは自分でも知らぬ間に唇の端がゆがみ、自然とにやけるのを押さえることが出来なか

  った。

  「いい部屋に、住んでらっしゃるんですね・・・」

   ジョシュアが部屋の中を見回しながら、抑揚のない口調で感想を述べた。

  「ん?そうか・・・?」

   マードックは壁に備え付けられたワイン棚から、無造作に一本のワイン瓶とグラスを二つ取り

  出した。

  「飲むだろ?」

   少年の年齢などほとんど考慮する様子もなく、マードックはジョシュアの分までグラスにワイ

  ンを注いだ。

  「本当に、いい部屋ですよね・・・」

   手渡されたグラスに口をつけずに、ジョシュアはゆっくりとマードックのそばに寄り、同じ感想

  を再び繰り返した。

   これは?そう言って、少年はベッドサイドテーブルの上に置いてある写真立てを指差した。

   写真にはマードック本人と、彼の妻と思しき女性、そして二人の子供が写っていた。子供たち

  はさして楽しくもなさそうに笑っていた。

  「うん?ああ、カカァとガキだ」

  「お子さんがいらっしゃるとは思いませんでした」

  「まあ言いふらすことでもないからな・・・」

   まったく近頃生意気な口をきくようになってな・・・、そう言いながら、マードックは写真立てに

  手を伸ばした。写真立てに触れる寸前、ジョシュアがマードックの手を、拳で上から思いっきり

  バンと叩いた。

  「何しやがる・・・」

   そう言いかけて、マードックは目を見開いた。彼の右手の甲がナイフのようなものでテーブル

  に串刺しになっていた。

  「本当にいい部屋です」

   グラスをテーブルに置きながら、ジョシュアは同じ台詞をさらにもう一度口にした。

  「ここなら防音設備も整っているようですし、少しぐらいの騒音が外に漏れることもないでしょ

  う・・・」

   天使のようなおだやかな笑みを浮かべながら、少年はバタンと写真立てを倒した。

   ウォルター・マードックの、人生最悪の目覚めは、同時に彼にとって人生最後の目覚めとな

  った。



     *『空のない街』/第二話 に続く



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