『空のない街』/第十三話






   カーテンの隙間から光が漏れ、今が夜でないことを示していたが、ティルダには自分が

  本当に起きているのか、それとも夢との狭間を漂っているのか、わからなかった。

   彼女にとってもはや世界は閉ざされた環であり、そこには無限の可能性など存在しては

  いなかった。昨日まで信じていたもの、信じようとしていたもの、それらがすべて嘘なのだと

  誰かに耳元で囁かれたような、そんな感覚だった。その囁言の虚実を確かめる気力は、もう

  彼女には残されていなかった。

  「パパ、どうして…」

   ティルダはベッドの中でそう呟いたが、死んでしまったの、と続けることは出来なかった。そう

  呟きさえしなければ、父親の死がただ一晩だけの悪夢で終わると信じているかのように。

   アルバート・マクマーナンは、自身が外科医という人の生命そのものを取り扱う職業であり、

  妻のケルシーを娘のティルダがまだ乳飲み子であったころ失っていたため、ティルダとはごく

  一般の家庭でなされるよりも、死というものに対して話し合う機会を多く持ってきた。純粋に

  生物学的に、また宗教における意味合い、人々の認識の違いなどについて父と娘は会話を

  交わした。

   例えば、アルバートは娘に次のような題目を提示した。

  『死刑囚ばかりを乗せた護送車が事故に遭い、一人の囚人が瀕死の重傷を負った。このとき

  医者は囚人に対して救いの手を差し伸べるべきか、否か?』

   ティルダは考え込んだ。道徳の時間であれば、Yesと即答しなければいけないのだろう。本来

  人は平等に、囚人であっても、聖者であっても、治療を受ける権利があるのだから。

   だが医者もまた人であり、もし自分がその立場に立った時、例えば自分の大切な人を奪った

  相手でも、本当に自分はその患者をただの一人の患者として治療に専念することが出来るの

  だろうか。

   ティルダはしばらく考えて、自分でもズルいな、と思いながらも、その時にならないとわから

  ない答えた。

   娘の答えに満足したようにアルバートはティルダの頭を優しく撫でた。

  「そうだね。このような問いに、簡単に答えが出せるはずもないからね。ただ、大切なことは考え

  ることだよ。どちらの答えを出すにしても、よく考えて出さなければいけないと私は思うよ」

   パパもやっぱり迷うことがあるの、とティルダが尋ねるとアルバートは小さく頷いた。

  「本当は、パパの元に救いを求めてきた人々をみんな助けてあげたい。だけどパパは人間で、

  神様じゃない。だから順番に並んで、待ってもらわないといけないことがある。しかし時々自分は

  特別な人間だと思って、他人を押し退けてやってくる患者さんがいるんだ。パパは、やっぱり

  そんな患者さんは好きになれないんだ」

   アルバートは目を伏せた。

  「その人間の命があとどれくらいの長さなのか、それを決めるのは医者ではなく、神様だ。医者は

  常に治療に全力を尽くすだけだ。そう思いはしても、自分はすべてを神様に任せっぱなしにして

  いいのだろうかと考えることがあるよ」

   それ以上アルバートは話を続けようとはせず、娘におやすみと言うと、その額にキスをした。

   そんなふうにティルダが夜寝る前、仕事から帰ってきたアルバートと話をすることがよくあった。

   学校の勉強や友達のことといった身近な話題から、世界中から貧困や戦争がなぜ無くならない

  のかといった深刻なテーマらついてまで、二人は話をしたものだった。そんな時アルバートは娘の

  ティルダを子供扱いすることもなく、時には自分自身の悩みごとを相談し、彼女に助言を求める

  ことさえあった。

   その父が自殺をするなど、ティルダには信じられなかった。まして理由も明かさずに。

   ティルダは、パパ、どうして…、と涙がこみ上げてくるのを堪えて、もう一度呟いた。

   その時寝室のドアがノックされた。

   彼女がハイと返事をすると、執事のディケンズが、失礼します、お嬢さま、と言って入ってきた。

   執事は畏まった態度で、ティルダに来客を告げた。

   だが、彼女は予め誰にも会いたくない旨を伝えていたので、不思議に思ってそのことを問うと、

  彼は困ったような顔をして、お帰りになられないのです、と言った。

   ティルダにはなぜか客が誰なのかがわかった。会う旨をお客様に知らせるようにと言って執事を

  下がらせた。

   彼女はベッドから出て、少しふらつきながらワードローブまで歩いた。

   着替えの最中、鏡に見知らぬ少女が写り、ティルダは目をそらした。一瞬、会うのをやめようか

  とさえ思ったが、彼女は首を振った。

   一階に下りたティルダは自分の想像通りの人が居間のソファに腰かけているのを見た。

  「ジョシュア」

   ソファから立って、自分の方に振り返った少年の顔を見て、ティルダは思わず息を飲んで口を

  押さえた。先ほど鏡を見た時の自分の顔も相当にやつれてはいたが、彼はそれ以上だった。頬は

  こけ、目は落ち窪み、生気といったものが全く伺えない。

   それでもジョシュアは彼女の顔を見るとほっとしたように微笑みを浮かべた。

  「やあ、ティルダ」

   彼女は自分のことも忘れて彼に駆け寄った。

  「どうしたの、何かあったの?」

   ジョシュアは小さく首を振って、何でもないんだ、と言った。何でもないわけがないでしょう、とティ

  ルダは詰め寄ったが、彼は首を振るばかりだった。

  「それより、聞いてほしいことがあるんだ」

   ジョシュアはそう切り出した。ティルダは何、と言って彼を見つめた。

   少年は少しの間逡巡して、こう言った。

  「君の、パパを、殺したのは、僕だ」

   ジョシュアの言葉は彼女の耳に届きはしたが、けれどその意味はティルダには到底理解出来な

  かった。

  「何を・・・、言っているの?」

   ジョシュアはもう駆け引きをするつもりはなかった。真実だけを告げるつもりだった。

  「君のパパを殺したのは、僕なんだ・・・」

   同じ台詞を少しだけイントネーションを変えてジョシュアは言った。立っているだけで精一杯で、

  彼女の顔をまともに見て話をするのはひどく辛いことだった。それでも彼は真相を最後まで語る

  つもりだった。そうしなければ彼女はこれからの人生を父親の死の真相を知らずに過ごすことに

  なる。それは自分の犯した罪の中でももっとも重いものに思えた。

  「やめて!」

   ティルダが叫んで、耳を両手で塞いでしゃがみ込んだ。

  「警察の人が言ってたわ。パパの死は間違いなく自殺だって。それなのにどうしてあなたが、パパを

  殺せるっていうの?」

   目を強く閉じ、耳を手で塞いだまま、彼女は言った。

   ジョシュアは戸惑った。彼女の手を無理やり引き離して話をすればいいのか、それともこれ以上は

  何も語らず立ち去ればいいのか。結局彼はその状況のまま、彼女の体に触れることもなく、再び話し

  出した。

   妹のエミリーのこと、エミリーの仕事のこと、灰色のオーバーコートの男のこと、自分がその男に

  復讐を誓ったこと、その男とアルバートを間違えてしまったこと…。

   ジョシュアは話しながら、告悔するにしてもこのやり方は最低だと自分自身に毒づいた。けれども

  それ以外のやり方は思い浮かばなかった。すべてを話し終え、ジョシュアは改めてティルダの方を

  見たが、彼女はしゃがみ込んだまま、彼の方を見ようとしなかった。

  「さよなら…」

   最後にそれだけを言ってジョシュアはその部屋を後にした。

   一度だけ振り返ってマクマーナン家の屋敷を眺めながら、自分はもしかしてティルダに止めてもら

  いたかったのかもしれないとジョシュアは思った。だがそれはあまりに虫がよすぎるというものだろう

  と自分に言い聞かせた。

   約束の時間まであまり間がなかった。

   ジョシュアは、引きずるような足取りで男との待ち合わせの場所へと向かった。その姿は、まるで

  両足に重い鉄球がついた鎖を繋がされた罪人のようであった。



    *『空のない街』/第十四話 に続く



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