『空のない街』/第二話



  

   オーレリー・ローシェルは無性に煙草を吸いたくなった。

   現在の彼女にとって喫煙という習慣は欠かすことの出来ない悪徳の一つであり、紫煙は

  彼女の体から輩出される排泄物の一つといえた。煙草なしでは冷静な思考を維持すること

  も、的確な判断を下すことも、オーレリーには自信がなかった。彼女は愛煙家というより、も

  はや重度の喫煙依存症者だった。

   しかし今彼女はそれが許されない状況にあった。

   現場の保存は何よりも優先される。

   下手に煙草の吸殻を捨てたり、不注意で灰をわずかに落としただけでも初動捜査に混乱

  を来たす恐れがあった。

   オーレリーは苛立っていた。煙草を吸えないことも一因ではあったが、それだけではなか

  った。深く眠れない夜が続いていた。理由はわかっていた。もっともそれは他人に気軽に話

  せることでなく、自分でも容易に認められることではなかったが。他人に必要以上にきつく当

  たってしまい、それを女性特有のヒステリーと揶揄され、そのことでまた腹が立った。悪循環

  だった。

  「複数犯の犯行でしょうか、ローシェル警部」

   そう声を掛けてきたのは新入りのマーク・ハプスコット刑事だった。

   無能というわけではないにしろ、警官という職業を単なる公務員の一つと考えている節があ

  った。そこがオーレリーには気にいらなかった。

  「いや、最初からそうと決め付けるわけにもいかないでしょうね・・・」

   教師が教え子に接する時のような口調で答えると、オーレリーはハプスコットを伴い被害者

  の遺体の傍に屈みこみ、あらためて観察した。

   なるほど、ハプスコットが複数犯犯行説を唱えるのも充分頷けた。あながち的外れというわ

  けではなかった。

   被害者の名前はウォルター・マードックといい、コルシカマフィアのモンツェリーニファミリー

  の幹部の一人だった。死因は多量の出血によるショック死。マードックはからだ中を十三ヶ所

  も刺されていた。凶器はディナーナイフ。どこの雑貨屋でも置いていそうなありふれた品物だ

  ったが、同時に今まで見たこともないような代物だった。というのも凶器に使われたナイフは恐

  ろしいほどに、それこそ外科手術用のメス並に研いであったのだ。

   これほど鋭い刃物で刺されたのであれば、おそらく最初の一刺しは、たぶんマードックの動き

  を封じるための右手の甲への一撃だろうと思われるが、さして痛みも感じなかったのではない

  か、とオーレリーは推測した。

   マードックは合わせて十三ヶ所刺されていたが、それぞれ別々のナイフによるものだった。つ

  まり犯人はマードックのからだからナイフを引き抜こうとしなかったのだ。十三本のナイフをか

  らだのあちこちから生やしたマードックはさしずめ人間ハリネズミといった様相だった。

  「これが単独犯の犯行だとするなら犯人は一人で十三本ものナイフを用意したというのですか」

  「十三本、あるいはそれ以上のナイフを、よ」

   オーレリーはハプスコットの言葉を訂正した。

  「確かに単独犯の犯行だとしても腑に落ちない点はあるわ。でもそれは複数犯だとしても一緒

  よ。例えば、入り口のドア。こじ開けられた形跡はないわ。犯人はマードック自らが部屋の中に

  招き入れたのよ。殺されるとまでは思ってなかったにしろ、ドアの向こうに二人も三人も人間が

  いたら、普通は不審に思って、チェーンを掛けたまま用事を済ませるものよ」

  「しかしマードックのような大男を、しかもマフィアの幹部である男を、本当にナイフだけでたった

  一人の人間が殺せるものでしょうか。相当暴れたでしょう」

  「難しい、でしょうね。でも不可能ではないはずよ」

   オーレリーはハプスコットの問いに一つ一つ丁寧に受け答えしていたが、そうすることによっ

  て自分自身に筋道を立てて説明しているようでもあった。

  「なぜ犯人はこれほど大量の凶器を用意する必要があったのか・・・。それはおそらく・・・」

  「おそらく?」

  「犯人の目的は、マードックを殺すことではなかったのじゃないかしら」

   オーレリーの言葉がよほど意表を突いたのだろう、ハプスコットは、一瞬怪訝な顔をして問い

  返した。

  「これほど残酷な殺し方をして、それでも犯人の目的はマードックの命を奪うことではないと?」

   オーレリーは、たぶんね、と言って小さく頷いた。

  「本当に殺すことが目的であれば、用意するナイフは一本でいいわ。不意を突いて、それを急

  所に突き刺せばいいだけのことよ」

   ハプスコットは納得しかねるというふうに首を傾げた。

  「では犯人の目的とは一体何なんでしょう」

  「はっきりとはわからないけど、例えば見せしめや拷問、あとは・・・」

   その時制服警官が一人の少女を連れてきた。半ば無理やりといった感じで、警官に腕を掴ま

  れ、少女は痛みに顔を歪めていた。

  「ローシェル警部、第一発見者を連れてきました」

   そう報告する警官に、オーレリーはそれまでのハプスコットに対する講義的なものとは打って

  変わって、きわめて攻撃的な口調で言った。

  「この子は容疑者でも何でもないんでしょうが。そんな手荒に扱う人がいますか!」

   面食らう警官を尻目にオーレリーは少女に向き合うと彼女の頭を軽く撫でた。

  「面倒なことに巻き込まれたわね。私はオーレリー・ローシェル警部よ。あなた、名前は?」

   少女はきょとんとした顔をして、逆にオーレリーに問い返した。

  「あたし、ジーナ。ジーナ・ファレウルよ。女の警部さんなの?」

   この子は一体いくつなのだろうかと思わずにはいられなかったが、あえてそれを問うことはせ

  ずに、ただオーレリーはジーナににっこりと笑ってみせた。

  「そうよ。でも時々、自分でもそのことを忘れちゃうこともあるけどね、アハハ。でも、そんなこと

  より偉いね、ジーナ。通報してくれて、逃げなかったんですものね。ところで聞きたいことがある

  んだけど、いいかな?」

  「うん、いいよ、何でも聞いて」

   ジーナは負けずににっこりと笑みを浮かべた。

  「ジーナ、あなたはこの部屋の鍵を持っている?」

  「持ってるよ、ほら」

   ジーナは自慢気に鍵がつけてある胸のペンダントを見せびらかした。

  「他に鍵を持っている人はいなかった?」

  「うーん、わかんない・・・。いないと思うけど」

  「マードックは部屋にいる時ドアにチェーンを掛けてた?」

  「うん、必ず掛けてたよ」

  「じゃあ、鍵はマードックがいない時、部屋に入るために使うってことね?」

  「うん、そうだよ」

  「今日ここに来る時、誰か不審な人間を、いや、そうじゃないわね、普段見かけない人を見なかっ

  た?」

  「別に、いなかったけど・・・」

  「そっか。じゃあ最後に一つ、教えてくれるかな。ジーナはマードックのこと、好きだったかい?」

   オーレリーのその問いに、初めてジーナは考え込む振りをした。妙に大人びた仕草だった。

  「そうねぇ・・・」

  「大丈夫よ。あなたがどう答えたって、あなたのことをマードック殺しの犯人だなんて誰も考えな

  いから。それは私が保証する」

  「うん。嫌いじゃなかったよ。欲しいもの、なんでも買ってくれたし、すごく優しかったし、何よりあ

  たしの話、真剣に聞いてくれたし」

   そしてジーナは年齢不相応な艶然とした表情を浮かべ、こう付け加えた。

  「セックス、ヘタクソだったけどね」

   少女を下がらせたから、オーレリーは彼女に警護の人間を付けるようにハプスコットに指示を

  出した。

   彼は意図がつかめずオーレリーに問い返した。

  「どういう意味です?彼女がまた犯人に狙われると?」

   オーレリーは首を横に振って、しばらく間を置いた。教師が正しい答えを教え子が導き出すの

  を待つように。

  「そうじゃない。今のままじゃ、どうして警察に一番に知らせたのかと彼女がモンツェリーニファミ

  リーの奴らに責められる可能性があるからね。下手すると八つ当たりで殺されかねない」

  「そんな、まさか」

  「そういうものなのよ。マフィアっていうのはね」

   オーレリーは役者が舞台から去るように身を翻した。

  「どこに行かれるんです、ローシェル警部。これから捜査会議が、第一回目の捜査会議が行わ

  れるんですよ!」

  「時間は掛からない、すぐ戻るよ。君はそのまま会議に向かっていい」

  「待ってください、警部、自分も行きます」

   置いてきぼりになるのを恐れる子供のようにハプスコットはオーレリーのあとを慌てて追った。



        *『空のない街』/第三話 に続く



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